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2016年9月

「レベルを考える」

○レベルの設定☆

 いつも体力や学力で述べていることをくり返しますと、3キロ走れる人に1キロ走るトレーニングとか、中学生に小学生のドリルは必要ないでしょう。100点を目指して、いつも100点とれるドリルをやっているとしたら、レベル設定がおかしいのです。それは、1回確認すれば充分です。チェックで済むのです。ここを体がこってはほぐしにくる整体のように使っているなら、次に体がこらないようになるようにしてください。
 私が「目標を上げること」を言うのは、伸びしろを大きくするためです。まず、自分が90点とれるより、20点くらいしかとれないレベルの課題に挑めということです。
 なぜか、巷でヴォイトレは、小学校の6年生くらいのドリルでしかないように思われています。いえ、そのくらいのレベルのことだということもわからないで、ずっとくり返している人もいます。それは、ハウツーやマニュアルで考えるからです。ヴォイトレと言いつつ、メンタルとフィジカルのリラックスと、共鳴の使い方での調整で終わっていませんか。それでは、芸ごとではない、体からの声へつながらないのです。
 
○ほめるということ

 その人のメンタルに問題がありネガティブなときには、自信をもたせるためにほめます。レベルを落とします。小学生のレベルに設定したら誰でも大褒めです。でも次には、レベルを高くしてほめられない課題設定をしなくてはいけません。
 トレーナーとしてのファンを獲得したいなら、レベルを下げたまま、ずっとほめればよいです。「今のあなたのそのままでよい」と言うのです。誰でもほめられるのが好きなので。そのままなら、ずっとファンでいてくれるからです。
 初回より2日目、2回目より3回目にほめると、上達したと思って人は、喜ぶものです。もちろん、そこら辺りでは、慣れていく分、声はよくなったかのように思います。リラックスした分、よくもなっているでしょう。
 トレーナーは、レベルを同じにして、あるいは、下げてほめているのです。お金を出してほめてもらっているのです。それでよいのならそれでよいのです。まともなトレーナーのなかには、うまく騙してくれる、上達した気にさせて心地よくしてモティベーションを上げてくれる人もいます。しかし、そういう流れのなかで、困ったことに、トレーナー自身も、そこが入り口にすぎないことを知らないことが出てきたのです。モティベートや勇気づけ、続けさせるためにほめているのでなく、心からほめていることもあります。となると、それは本心ですから、それほどよいことはありません。目的をどう考えるかでレベルが問われるのですから。

○バックグランド

 マニュアルは、よし悪しで分けていきます。それを守ろうと一つひとつに、ことばの指示にこだわります。しかし、そこのことばでなく、そのバックにある意図に反応することが大切です。それができないと、器用にこなしたつもりで、実のところ、害にしかならないことも多々、あります。細かにうまく対処することが硬直化をもたらし、却ってうまくいかなくなることもあります。そこで問われるのが、バックグランドなのです。形としていなくとも心にあればよいのです。
 オーラにあふれるひとかどの人物になる、それはそういう人に会って、人に感化されることです。人に会って、体感していくことでマニュアルを超えることです。
 一人の人間の存在感は、くどきと社交術くらいに大きく違うのです。そういうことが、なかなかわからない時代となりつつあります。

○ずっと「今、ここに」☆

 「今ここ」に専念することで「いつかどこか」に行くのです。「今ここ」より、「いつかどこか」がよくなければ不幸ではあります。でも、「いつかどこか」を追いかけるためには「今ここ」に、青い鳥を感じるということなのです。
 非日常に憧れて日常を離れても、自分が変わらないのだから、どこもかも日常になっていくものです。日常のなかで非日常にワープできる人だけが、どこへでも自由に行けるし、いつでも自由になれるのです。女性はそれを男性に、旅人に求め、待ったという時代もありましたが、今は、逆転しつつあるように思います。ワープのために孤独になるわけです。

○出すこと

 「うまくいけばいいのに」でなく「本気で絶対に変えていく」つもりがないと3割もここを使えないでしょう。でも3割、使い切れたら、次があります。まずは、3割バッターを目指してください。
 何事もその人が自ら切り開いていくものです。何ら出さないのを後押しすることはできません。自分のなかで、ああだこうだと空回りしているなら、それはそれで表現してみることです。
 ツイッターのようなレポートも少なくありません。でも、そこからでよいのです。無意味に思えるレポートでも、出していったら変わる。チャンス、きっかけになることもあるのです。変わらないと、ここにいる意味が出てこない。それがよくなる人と悪くなる人もいる。出さなくなる人もいる。すべて誰かがどこかでみているのです。
 レッスンでうまくいかないのは当たり前、本当のところ、うまくいくなら、そのレッスンはいらないのです。すでにできていることの確認にすぎないからです。それなら外で問えばよいのです。
 できるレッスンでなく、できないレッスンをしなくてはいけない。なのに、「先生、できていますか?」というように、不安から自己防衛にまわってしまいがちなのです。自己防衛になると、よけいにうまくいかない、そしてそれは、しばしば言い訳、自分とは合わない、難しい、タイプが違う、となります。そして自分のキャパが小さいということです。なのに、「違う」と言い切れてしまう人は伸びません。トレーナーのレッスンを絶対肯定しているのでありません。合わない、難しい、違うときもあるでしょう。それでこそよいのです。不安を引き受けてください。そこから大いに学べるのです。
 
○応じない

 トレーナーをみていない。ゆえに、自分のこともみていない。まして、自分の新しい面をスルーしている。それではもったいないです。
 何かをしたいために力をつけるのでしたら、何かを明確にすることと、そのためにレッスンを活かすように方向づけることに専念することです。
 レッスンで下手に思われたくない、うまくみせたい、トレーナーの望むようにレッスンでこたえたい、間違いを注意されたくない、よくみられたい―。そんなことで、がんばるならまだしも、悩んだりはしないことです。
 トレーナーはそんなことをすぐに望みません。そんな人と私は仕事をしません。
 私は、優秀な人が努力ゆえにそうなったのを、その努力を抜きにノウハウやハウツーで「簡単にそのようにできる」というような教え方を好みません。できることもないし、もしできても、そのようになれるはずがないからです。いや、なれることはあっても決してためにならないのを知っているからです。トレーナーが認めることでできているかのような錯覚を与えてしまうからです。トレーナーからは努力の必要とそれに耐えられる力をつけることを学んで欲しいと思っています。
 
○自分の可能性

 新しい可能性を開くのに、自分の歴史や内面をみることが必要なこともあります。しかし、それが、レッスンではないのです。その必要性をレッスンで気づいたら、自分で突き詰めましょう。自主トレで乗り越えていくことです。くり返し現れることなのです。
 自分が変わる、壊れるのを恐れることはありません。そういう人ほど少しも壊れないし変わらないのです。自分について語るばかりで自分を守る人もいます。過去から、自分の思う自分から逸れないように頑なになっているのです。
 そういう人は、自信のなかったこと、例えば、他のトレーナーに間違いと言われたことを、「それでよいのです。そのままで正しいのです」とトレーナーに言われると安心してしまうのです。そして、その人のカリスマトレーナーが誕生します。
 「そうでなかったからレッスンに来たのではなかったのですか」と問うのは、私くらいでしょうか。わかるだけわかってから、次に行かずにまた戻ってしまっている場合に、ですが。
 
○スタートライン

 自分のことに言及し、トレーナーにも自分に関心をあてたレッスンを望むのは当然のこと、私たちもあなたのことを知り、それに焦点をあてたレッスンにしたいからです。しかし、それが行き過ぎると、結局は自己確認、自己肯定がレッスンの目的となってしまうのです。コーチングやカウンセリングの手法には、そういうのもみえるわけです。
 自分の考えのまとまらない経営者ならコーチング、自分の言いたいことが出せない弱者、もしくは弱っているときにはカウンセリング、その意義は私も認めています。似たようなことをここでも行い、そういう手段も使っているからです。
 でも、これは治療ともいえません。以前の状態(あるいは調子のよいときの状態)への回復です。そこに戻ることはスタートラインにつくことであり、そのままでは、まだスタートしないのです。多くは、そこから後退してはスタートラインについて、それをくり返すのです。マイナスからゼロでなく、少しでもプラスにすることが、とても大切です。自己反省、自己否定も必要となるゆえんです。
 
○回復へのリピート

 今の状況を救済するのに、今の状態でのバランス調整をして、力を引き出すようにするのです。そこで実力不足に気づかず克服しないと、その先は空回りになるのです。それでうまくいくのは、過去に実力があったのに発揮できなくなった人がスランプのときの回復のケースだけです。
 ビジネスでいうと、あなたはよい顧客です。医者、整体…。本当に実力があれば、一回とは言いませんが、早々に完治させられるものでしょう。
 今の状態に対処した調整では、大半は根治しないのです。表面でよくしただけでは、また少しの無理で悪くなる、それを少しよくしても、また悪くなることのくり返しです。
 医者は、悪くなったのを元の状態に戻すので、仕事としての必要性を充分に果たしています。しかし、何回も同じ症状で治療に行く人をみていると、少しもよくなっているわけではないのです。声はまさにそれがわかりやすい例です。休めている間は、使わないから喉を痛めず回復するだけで、何ら変わっていないのです。
 
○実社会で通じるレベル

 悪くなって治すのでなく悪くならないように変えなくては、そういう力をつけなくては何ともならないのです。それがレッスンの必要性でしょう。でも、レッスンもヴォイトレも調整レベルで行われていることがほとんどです。
 なぜなら、トレーナーも本人も、そこで満足するどころか、今の状態の調整するのをヴォイトレと思っているからです。喉が悪くならないようにするというのを、悪くなるような使い方をしないことと、悪くなるまで使わないという方法と時間(量)で回避させることを教えています。しかし、現実は、悪くなる使い方をしたり、長時間ハードに使っても異常を生じないタフさが求められるのです。それを練習に課さないで、どうして克服できるのでしょうか。
 患者、生徒がお客さん化しているために、そういう傾向がさらに強くなっています。安全第一、安心のケア、そういうことにこだわる人へのサービスがトレーナーの仕事になってきたかのようなのです。トレーナーは、その名に反して、トレーニングでなく、治療、ケア、状態の調整に追われているのです。いや、もうそうも思わずに、それを唯一の正解と思って行うようになっているのです。もちろん、それもレッスンに含まれます。しかし、トレーニングである以上、それだけではないはずです。それだけであってはならないのです。
 自分の理念、ポリシーや考えのない経営者は、いずれ会社を潰します。言いたいことが言えない人が少々言えるようになっても、カウンセラーには話すことができても、実社会では通じません。そこから学んで一歩先にいかなければ社会的にも立ちいかなくなるでしょう。演出家にワークショップで演出されたところで、プロの舞台らしく仕上げてもらっても、個人として実力をつけなければ、プロのどの舞台でも通じません。
 治療して元に戻すのでなく、一歩でも二歩でも元よりよくしなくては、同じことのくり返しとなるのです。

○くり返しと変化

 レッスンは単なるくり返しでありません。そのようにみえても、同じことをくり返しているようでも、いずれ変わっていく機会を得て、変わっていくものです。トレーニングの内容やメニュは、同じことのくり返しが基本と思います。それで下支えをしていき、再現性が確保されるからです。
 自信があったり、もとよりトレーナー不信な人というのは、レッスンに来ません。来るとしたら、それが崩れたときです。その自信を回復して元のレベルに戻るところまでは治療、カウンセリングを求めるのです。それに対して、以前と変え、力をつけるのが、本当のレッスンとトレーニングでしょう。
 とはいえ、前者がレッスンの目的の人もいます。それは、ここまで否定してきたようなことであってもよいわけです。でも、変えるつもりで来て、変えないことに決めてしまい、そのことに本人が気づいていないことも少なくありません。
a.これまでの100パーセントが出ればよいのか
b.潜在的に抑えていたところが出ればよいのか
c.感覚も体も変えて新たな可能性に挑むのか
 次のことも、よく考えることだと思います。
aは医療やリハビリ(ケア)
bは調整のレッスン(修正)
cは強化トレーニング(鍛錬)
あなたは、どれを求めているのでしょうか。

○信頼に依存しない

 他人を通じて、自分をみるのが、レッスンのプロレベルでの利用法です。
 ということでなのか、トレーナ―に関する評判にやたら関心をもつ人もいます。神のようなトレーナーを求める人もいて、これもそういうタイプです。それは、トレーナーに関心をもっているようでいて、自分にしか関心のない人です。それゆえ、トレーナーのよし悪しが気になり、信頼と不信、期待が大きすぎ、いつもトレーナーの選択への迷いやレッスンの内容の評価で揺れてしまうのです。
 このトレーナーは信頼できるのか、このトレーナーを選んでよかったのか、そしてトレーナーのことばや態度、やり方、進め方のよし悪しの印象に振り回されます。それは、うまくいかないとしたら、トレーナーのせいにしたいからです。
 期待だけして、自分で勝手に期待外れにするのは、そのトレーナーでなく、本人の思考回路、ゆえに自己責任です。トータルでみると、そのトレーナーで、とても伸びた人、よくなり続けている人も必ずいるのです。ここのようにトレーナーを本人が選べるところでは、競争原理も働くから、無能なトレーナーでは失業してしまうでしょう。
 でも自分は、そのトレーナーと違う、何がどう違うのか、どう合わないのか。違う、合わないとしたら、その前提としている自分の判断に対して疑問をもたないのは、なぜでしょうか。判断する自分の基準のことを考えるのによい機会でしょう。
 
○うまくいく

 何かが起きたときに、人は本性を表します。人として問われるのは、いざというときです。ですから、そのときを共有したことのない人のことは、共有した人ほどわからないと思っています。いざというときに、がっかりさせられる人もいれば、それまで何も感じなかったり、何となく苦手とか合わないと思っていたのに、素晴らしく、頼もしく感じられたこともあります。自分や相手の危機、あるいは、その間での危機でこそ真価が問われます。そこからみれば、日常でうまくいっているかなどは大したことでないのです。
 それ以外、何もないところで、レッスンでも人間関係でもうまくいくのは、当たり前でしょう。うまくいっているのでなく、何も起きていないのにすぎないのです。仮に、そこでうまくいかなくとも全く大したことではないのです。単なる好き嫌いとか気分とか、せいぜい相性というものです。
 今の日本では、曖昧になあなあにしていたら、ネットだけで顔合わせしない人との間では、大して何も起きないでしょう。
 よくも悪くも、期待外れのことが起きるのは、高みを求められるからです。厳しい状況におかれるからです。それはレッスンだけではないのですが、レッスンでは日常です。そして、そこに左右されることではないと言いたいのです。そんなことより、年に何回か、あるいは何年に一回あるかどうかのレッスンでの一瞬、その非日常の時間でどうあるのか、その方がずっと大切です。
 レッスンの日常を非日常にしてしまえる人、これは日常に対してレッスンが非日常などということでないのです。レッスンが日常化している、つまり、毎日がレッスン状態の意識にあるところでの非日常、365日練習での本番の一瞬みたいなことです。勘違いしないでください。

○認められる力

 ここにも、拙書を読んで感化されてきた、という人はたくさんいます。それが世界や社会へ目を開くのでなく、内側に籠ることになる人もいます。それが一時のことで、レッスンにでも淡々とくるようになるならよいことでしょう。
 私と「同じことを考えていた、よく言ってくれた」という礼状も、それだけなら、そのパターンの一つです。私は、そういう人の側にいるわけでもないのですが、意にそぐわないトレーナーなどがいると、私のことばに乗っかろうとなさるのです。
 本を読んで、そこをやめてここにいらっしゃると、心穏やかでないトレーナーが出るのはわかります。そこのトレーナーから恨まれてしまう。何を言われてもよいのですが、今、ついているトレーナーをやめるようにとか、そのトレーナーの指導は間違っているなど、私が言ったことはないのです。
 選ぶのは自己責任であり、人は出会うべくして出会っています。出会いに間違いはありません。努力して実力が付くと、そこで居場所ができ、また次に必要な人に出会います。何ら努力しないと、そのままか、「トレーナーがだめだ」「ここは効果が出ない」と言ってやめることになります。次に選んだところで、より必要な人に出会うことがあるかもしれません。「しれません」というのは、努力もしない、実力もない人は、よいチャンスに出会う可能性が、どんどん低くなっていくからです。
 この世界で夢を実現するために大切な人と出会っていく、そのためには、どこであれ、認められていく、認めさせてしまう。認めざるをえない力がいるのです。
 よいトレーナーと出会うのでなく、その出会いをよいものにすること、その力が、あなたにあるかなのです。その力がなければ、自らがつけていく、そしてトレーナーを活かせる力をつけるのです。トレーナーがあなたの力を活かしているだけのレッスンにしてしまったなら、それは居場所をつくったのでなく、誰でもいられる場所にいるだけなのです。
 
○実践から

 非常時体験がないと、案外と、人は早めに自己防御に入ってしまうものなのだと思います。お坊ちゃんで育った首相などもそうかもしれません。首相断念という、前回の辞職が非常時体験になったはずですが、動けるように動いているのが、あまりよい方向に出ているとは思えません。
 それはともかく、守るために、より敏感になることで、体調や心を壊してしまうケースは多いです。
 レッスンを始める前に、私は、その人が話したいことをすべて聞いています。すべては声を出したら、こちらにわかることなのですから、声だけで純粋に判断したらよいのですが、その人のその声のバックボーンを聞くのも研究のためです。ずっと聞いているといつまでもレッスンがスタートしないので、ある程度で切り上げます。
 できない理由を本人がわかっていてできないのなら、できないのです。でも、そのように理由をつけているからできないことも多いのです。なかには、できないと思い込み、やろうとしていないだけで、能力と関係ないことも少なくありません。
 水泳を学びに行くのに「息つぎがうまくできない」という理由をいつまでも言うような人はいないですね。すぐに実践に入って、覚えていけばよいのです。身につけるとは、できないことをくり返して、できるようにしていくことなのです。

○タイミング

 「ハイ」と言うけど、きちんと聞いていない、理解して飲み込んでいないなら、そこで留まってみることも大切です。あるいは、さっと先に行って後で考えるのもよいでしょう。その辺りはトレーナーに任せています。いろんなタイプのトレーナーがいる方がよいのも、いろんなタイプの人がくるからで、そういう理由です。
 トレーナーも慣れないうちは、「どんなメニュ、やり方がありますか」に対し、メニュややり方を出しまくる、あるいは、初回で気づいたことを言いまくる。ここでは、生徒さんの聞き手として、私がいるので、その時期は早々に終えますが、トレーナーの発表会のようなレッスンは、あまり感心しません。
 相手の要求に合わせるのは、お店です。ここは、日常品を売買しているのではありません。言われたままに応じていくと、大半は日常レベルのレッスンになります。それは、ないものよりもあった方がよいというものです。
 あれもこれも欲しいから何でもあります、と、品数や量を出してどうなるのでしょう。相手の世界に合わせつつも、一段レベルアップした世界に連れてきてこそ、非日常のレッスンでしょう。それができるトレーナーでないと、そのギャップをトレーナーが把握していないと、本当はレッスンにならないのです。
 
○慣れるな

 トレーナーが、あなたの好きな音楽や歌の話ができなくてもよいでしょう。誰も私にAKB48の専門知識は求めません。そういう話は、仲間とすればよい。仲間とトレーナーを兼任(なかには、飲み仲間にまで)するのはお互いに無駄が多いのでないでしょうか。いや、無駄こそが人生ですが、それではあまりに人間関係が狭すぎます。声のヘルパーには、たわいないおしゃべりしている暇などないのです。というか、使い方としてもったいないですね。
 お金を払っているところで、それを求めるのは最初から違うのです。レッスンで、非日常の世界へのガイダンスをする、別次元へ連れていくのがトレーナーです。スタジオを、いらした人のそのままの声なり表現でそこに満たし、日常化してしまう。それではもったいないです。
 「日常のアナタ、それは違っている」「だから、変えよう」がトレーナーのメッセージです。ですから、「(非日常の)トレーナーさん、これで合っているでしょう」というメッセージは不要です。
 でも、この時代、多くの人は「日常のアナタ、そのままでよい、そのまま続けよう」になっているのです。自分で続けてきたけど、違うから変えようとなるべきレッスンが、まだ続けていないため、やりましょう、続けましょう、になる。スタートラインとしてはよいのですが、スタートしないとそのままなのです。そこはトレーナーの実力の見せ所ですから、何とも言いませんが。

○話の周辺

 内容、方法、メニュよりも、それがどの状況で誰によってどう述べられたか、あるいは、成されたかが大切です。何かよりもどうかなのです。「語るに落ちる」といいますが、それは語った内容でなく語ったことが重要ということです。
 話せばわかる、それは内容でわかるのでなく、話すからわかるのです。
 声のかけ方で関係も変わるのです。ことばだけでなく、声のトーンや、そこに込められた気持でわかってもらえるかどうかが決まることもよくあることです。

○第三者としての客観視

 トレーナーが何らかのコメントを述べるとき、そこでは、生徒しか対象として捉えられていません。当たり前のことですが、マンツーマンのレッスンでは一対だからです。スタジオのなかという状況のなかでは、トレーナーも生徒と同じ劇中の一人、登場人物になってしまいます。
 それを医者の公開オペみたいに、第三者がみて、トレーナーと生徒の間に起きていることとして捉えることで、初めて、本当に客観視できます。
 それをここでは行ってきました。私や他のトレーナー、カウンセラーが、第三者として評価、分析しています。これまでどこにもそういう体制はなかったのです。
 第一に、トレーナーが嫌がります。生徒も好まないかもしれません。すると、授業参観や公開講座のように見栄えのよい形になりがちです。それについては、ワークショップの限界として述べたことがあります。ですから、見学というのは、あまりよい方法でないのです。でもすぐれたトレーナーなら、他のレッスンをみなくても充分に洞察できるのです。
この“みえる化”こそが、データのストック、蓄積として研究所の大きな財産になっています。

○トレーナーと生徒を同時にみる

 スタジオでの同席や見学はTVカメラが入るように介入してしまうことになり、場を変えます。先の言い方では、登場人物が増えるだけです。中に取り込まれてしまうのです。マジックミラーでみるわけにいかないのですが、ビデオの録画でみることで代用できます。ここは初回のレッスンはすべて記録、収録しています。
 どんなに多くの生徒をみてきたトレーナーでも、トレーナー自身への評価については、いつも10人以上のトレーナーのレッスンを見てきた私のような立場の経験はありません。
 メニュや方法は、生徒とともにあるのでなくトレーナーとともにあります。しかし、それはトレーナーと生徒の間にあるのです。トレーナーが生徒だけをみても、正しい判断なかなかはできません。
1.トレーナー自身の経験
2.生徒一人に教えた経験
3.生徒多数に教えた経験
4.他のトレーナーが教えているのを学んだ経験
 ということで、この順に豊かに客観的、多角的になっていくのです。
 そこに同じ生徒を他のトレーナーが2人以上で教えるのを見る経験、それを同時進行、あるいは、順次(引き継ぎなど)で見ることを含めています。どちらもあまり、他所では得られない経験です。
 トレーナー自身が他のトレーナーから引く継ぐケースがあっても、ここのように情報や経緯をカルテとして引き継いではいないでしょう。(スクール内では可能なところもあります)何より、同時期に異なる複数のトレーナーのレッスンのプロセスをみてはいないのです。
 
○「科学的」の限界

 科学的なことを求めるにも、解剖学のような動かない図版や、発声の声帯振動、横隔膜の動きといったメカニズムでの知識は、実践や声の育成には、大して役立ちません。こうしたレッスンでの現実の場のなかで、科学的な態度のとり方を検討すべきです。そして、実行することでしょう。データをとり複数の人で共有し、ケースごとに検討し、調整を残すことです。レッスンでなく、定期的にトレーニングのなかでの変化をみることです。

○ズレ

 知覚する対象は声についてですが、その良否は、先生、師匠、トレーナーとの間に生じます。やっかいなことに、よほどのプロでないと、その日のトレーナーの与える雰囲気一つで、声は変わってしまうものです。
 本人だけでなくトレーナーもまた、何かを知覚した時点で、他の事は無視、見逃し、スルーしてしまうのです。複数回を重ねるうちに、チェックする中心を分けているのです。でも、一人のトレーナーである以上、盲点はできます。そこは、別のトレーナーがそこに盲点のできないようにフォローするしかないのです。
 専門家として判断するということは、教えたことにだけでなく、声を多角的にも高次にもみることです。そこでさえ、必ず固定概念、偏見を伴い、自分やその先生の経験からみていることに気づくことです。
 それがいかに特定に偏りやすい立場なのかは、トレーナーにもよりますが、プロの専門家として教えて実力も認められているのに、全く売れない歌手が多いことでもわかります。そういう歌手の多くは、過去の基準、昔よくいた歌手のタイプに多いので、専門家のめがねにかなう分、大衆受けも、新しい時代受けもしません。それどころか、そこからもっとも遠いところにいるのです。
 普遍的な基準であるかのようなクラシックや邦楽も、それがズレていなければ、もっともてはやされるはずです。普遍的にというなら、普及しヒットし続けるはずです。そうでないことがズレていることを証明しています。業界が特定な分野とされて衰退していくのは、その結果です。
 特定化がピークからズレてきているのだから、そこに基づいたり合わせたりしてはなりません。でも、専門家というのが、そこで長くいたゆえ、学んだゆえに専門だから全くの逆のことをしてしまうのです。

○形と音のイメージ

 ものの形の方が、ものの動きよりわかりやすいのは、視覚で静止したものを捉えるからです。ものの形が動くとしても、音の動きよりは、よほどつかみやすい。音や声は、形に隠れスルーされがちです。現実にあるのに気づかないことも、多々あります。音楽家は、音にこだわりますが、声においてはかなり微妙といわざるをえないです。実体、動きが把握にしにくい、イメージしにくいことが、スポーツやダンスほどに人が育たない要因の一つです。
 音響的なフォロー、マイクや、そのリヴァーブが加わり、さらにヴィジュアル化でのパフォーマンスとしての効果が大きくなってきたこともあります。
 AKB48を、歌い手とかアーティストと言うのでしょうか。私が、紅白歌合戦は、ステージ合戦になったと述べたのは、かなり昔です。お祭りですから派手な衣装や演出があってもよいでしょう。ただ、NHKが声力、歌力で歌手を選ばなくなった、いや、人気に声と歌唱の実力が伴わなくなった、聴衆が観客になったということです。ラジオだけであったら、こうはならなかったでしょう。

○教えること

 今のヴォイトレでは、発声も、運動や姿勢、その周辺での筋肉の形や働きに関心がいくのでしょう。その名称と働きについて知ると声もよくなるというのは、思い込みです。トレーナーが、本来は使うこと、伝えることではないのです。伝えるべきことは、音の世界、音のイメージでの声です。
 ただでさえ、小器用に何でもこなせる人の方が仕事になるので、音が後回しになります。本来は音が先、その動きから形となる、そして視るものへとなるのです。それは歌手や役者のトレーナー化をもたらします。それに気づいたのは、私が大して知識などを教えていないのに、仕組みなどに熱心な人がヴォイストレーナーになっていったからです。まして、知識としてのヴォイトレに関心をもつとそうなるでしょう。ヴォイトレを学んでヴォイストレーナーになるのは、ヴォイトレの目的ではないのですが、知識や原理で学ぶと声を使うのでなく、その使い方を仕事にしてしまうのです。
 役者は、他人に教えるケースも多いのでしょう。少なくとも後輩にアドバイスを求められるので、確実なことを教えたいと勉強し始める。それはよいことですが、発声の知識を教えることは教えやすいだけで違います。悪循環が始まります。他人によかれと思って行い、受け手もありがたく思う善意のスパイラルだけに手におえません。しかも、知識をもって、それに囚われることで、自身の演技や歌が鈍くなることも少なくありません。
 私の本もそれを助長してしまったでしょうか。本を読むのはよいことですが、それをそのまま教えるのは、よいこととは限りません。却って混乱や中途半端な結果をもたらすことが多いはずです。
 基本については、その先まできちんとみえていないと、伝えられないものです。少し悪い方へ出るだけでオタオタしてしまうでしょう。他の人のノウハウなどそんなものです。

○ことばの使い方

 芸事のことばは、ただ伝えるためのものではありません。自ら発見し、創り出してこそ使えるものです。ことばを使わない分野であっても、詩人顔負けの言語想像力、駆使力をもつ人がいるのは、今さら言うまでもありません。スポーツ選手でも常人の限界を超えたところに行った人のことばは違うのです。ですから、逆にその人のことばでそのレベルが量られる、いや、量れないレベルだというのがわかるのです。

○コップ半分の水

 「マニュアルで早く少し上達する」のでなく、「いつか自由に大きく変わる」。それを目的にしましょう。時間や費用などを問うても何ともならないのです。求める人に、根本的に取り組む意志や持続する覚悟があるかということです。それがないのに、人が助けてできることはありません。
 コップ半分の水をどうみるのかという、自己啓発書によく出る例があります。「半分もある」というプラス思考、「半分しかない」というマイナス思考。でも、これは出題する人が、一杯の半分と捉えた時点でマイナス思考だと、どうして誰も指摘しないのでしょうね。水がある、それだけが事実です。なぜ、コップの大きさの割合にこだわるのでしょう。
 でも、こういう例は、生徒をどうみるかにも使えます。あるいは、私をみて半分もあるとみるか、半分しかないとみるか。この社会では、勝手に人をコップ一杯100パーセントのようにみたてて、そこから「半分しかない」などと人を貶めがちです。
 相手を、自分にも他の人にも使えないようにして悦に入る人が多くなりました。私自身は、海とは言いませんが、プール一杯くらいをみて、コップでスタートしようとしています。土台で違うのです。何とか海の実感を得たいとイメージして伝えようとしているのです。
 能力のないのは知っています。でも、私を使って得ていった人と得なかった人の違いこそが、能力、学ぶ力の違いでしょう。それは、そのまま、考え方、物の見方の違いです。どう見るのかは本人が決めているのです。同じく、どれだけ使えるのかということも。
 本人が目一杯使えるようにみればよい、みえなければそうすればよいのです。ただし、本人の力以上のものは使えません。使えるように力をつける、そのために時間がいるのです。

○ON

 DNAのON、OFFというと、人間一人もDNAのように、誰かがON、OFFしていて、人類全体を動かしているのかもしれません。そのシナプスが、人がIT、サイバーネット、webとして創り出している、とも思われます。そこで化学物質という、あたかもテレパシーのようなものとして働いているのです。

「声と教育、歴史、日本語」 No.301

○日本人の声のパワー

 戦いで武勲をあげるには、名を名のらなくてはなりません。昔は、誰が活躍したかは、録画で確かめられませんでした。リーダーは、声が届かなくては、荒々しい集団を統治できなかったはずです。声や太鼓など、音の共鳴力が、武器や人数といった基本の戦力を何倍にも大きくする手段であったのです。
 そうした声の力は、政治やビジネス、一方で武道やスポーツにも受け継がれています。そのパワーは、今の日本よりは、他の国のをみる方が、わかりやすいでしょう。

 応援でもよい、デモでもよい、行き過ぎると暴力をも引き起こすし、そのまま暴力となりかねないのも声の力です。とはいえ、そのパワーのレベルは、はるかに落ちてきています。特に日本では顕著です。50年前なら、会社の上司の半分近くは、今でいうパワハラで訴えられたことでしょう。
 声の能力について、私は、歴史的といっても、ここ50年、国際的といっても中国や韓国との比較だけでも充分なほど、日本の特別な状況を前提にしなくては述べられなくなったのです。
 声の力という、人としての基本的な能力の欠如に気づいていないこと、悩むだ
 けならよいのですが、それが問題にも上がってこないのは、大変な問題です。
 
○声の発生と普及について、☆

 原初的には、声は、「危ない」「逃げろ」など、仲間内で使ってお互いを守ることから、集団でする狩りや戦いの場における重要なコミュニケーションツールでした。
 そのため、そこですぐれた声をもつ人、その民族が、生き残ったともいえます。
 裏を返せば、その生き残りとして私たちは生きているのです。男性の声が1オクターブ低くなったのは、まさにそのことを象徴しています。教師が「危ない!」と大声で叫べないのは危ないことだと何回か述べてきました。コミュニケーションは命を守ることに結びついていたのです。声は、そのためのもっとも有効なツールの一つでした。

○国際比較という視点

 以前は、カラオケで喉を痛めたという人が多かった。それをカラオケポリープと言ったものです。歌手や役者もステージが続くにつれ、そうなった人は多数いました。無知だったのではなく、それだけ全力で、声を使っていたということです。今は、うまくなったり強くなったのではなく、そこまで声を使わなくなった、正直なところ、使えなくなったのです。
 昔は、喉を壊して、休んでは直した。(それで強くなったとか、それがよいとは、私の立場上、言えません)今は、壊さない、壊すところまで声を使わない、いや、使えないのです。
 発声の知識の普及、研究の進展やトレーナーのおかげで、レッスンのレベルが向上したというならよいでしょう。でも、それなら日本の歌手や役者も世界の第一線にいっていなくてはおかしいでしょう。そこを顧みることなく、いくら方法や理論を論じても何ともなりません。
 問われるものが変わったのが、第一ですが、声のパワーそのものは落ちました。地声としての個性も弱くなりました。くせ声や変な声もあまりみられなくなってきたわけです。
 声量を使えない、使わないのは、使う必要がないからです。つまり、相手が求めない、望まない、そこに合わせると、日本人の国民性もあって、発声の能力も閉塞していきます。
 「声を嗄らす準備はいいか」(WカップCM)は、日本人にしか考えつけないコピー、私としては、共鳴できないフレーズと述べました。
 音声において甘いレベルの日本では、国際レベルに出ていくのは、今のところ難しいところです。それでも、かつては、芸や芸術として、他の分野に引けをとらないものがあり、人を集めるのに、客の期待をはるかに超える芸道、求めるレベルの高さの声があったと思います。
 
 声の大きさ強さは、一つの条件にすぎません。しかし、マイクという拡大装置を、個としての身体で成立している芸の拡大に使うのでなく、成立していない未熟さ、欠点のカバー、補強第一として使うようになったことが原因になったともいえます。そのための専門装置カラオケを創り、輸出するに至った日本の特殊性についても触れてきました。そして、それがヴォーカロイドに引き継がれていることも。

○声での支配

 欧米人にとってのスポーツが、その階層社会の最上位であった貴族階級の体づくり(体格、体力、闘志)に基づくものであったことは、よく知られています。弁論をはじめとする声での支配もしかりで、ともにエリート育成の同一線上にあると思います。
 クラシック音楽は、教会音楽として始まり、キリスト教という宗教の普及や浸透と切り離せないものでした。これらは世界戦略のツールともなったのです。
 日本でも、かつて西洋を学んだ政財界人は、その子弟にボートやラグビーをやらせていました。声を通じて一体化していくチームプレーが組織運営の阿吽の呼吸となっていくのです。政治、経営で必要とされるリーダーシップに通じるからです。
 最強のコミュニケーション、それは、人を動かす者たちの共鳴、共振、共同作用です。しかし、そこから発展、普及し一般化していくと、よりプリミティブなレベルで元より人々の間、生命ある者の間にあったものに戻ります。シンクロニシティ、共生、共存としての人間社会、それが再びキィワードとなりつつある現代の世界では、響き合う、触れあう、感度を高めるためのトレーニングとして、ヴォイトレも、また有用なのです。
 欧米でのスポーツも音楽も、個人としての技術の確立が、戦いやゲームを通じて集団としての一人に、つまりOn for All, All for Oneになりました。それもまた、社会のシミュレーションとしてのトレーニングなのです。

○身体能力としての声☆

 声は、身体の能力の一つです。インターネット普及の前に電話網がありましたが、電話は、声を、そこにいない人ともつなげました。声がつながった瞬間、実際の距離は意識からなくなります。バーチャルなお茶の間に相手と二人でいられるようになったのです。世界中、宇宙にいてでさえ交信することができました。電話は、声の強化ツールとして、まことにわかりやすいのです。ネットは、テキスト文字から画像、次に動画をやり取りするツールとして進化してきました。文字を介さずに身体が成すことを伝えられるようになったのです。

○日本の歌は、音楽より詞

 クラシック音楽で確立された楽譜は、音の高さとその経緯(時間)を表しています。リズム(この場合、長さ)とピッチ(音高)は表記できても、音量、さらに音質はわかりにくいのです。神楽、民謡、わらべ歌や邦楽は、後者を優先します。日本の歌はことば、詞中心であったからです。日本ではすべてが混じったため、記譜では、あまりうまく伝えられないのです。
 しかし、欧米化政策により、音大の出身者、欧米を崇拝した歌手やトレーナーは、前者を中心に学びました。向こうでは、前者はすでにできている、身についているから、後者で勝負しているというのに、そこまで追い付けなかったのです。
 劇団四季は、前者に加え、日本語の発音明瞭化というのを第3の要素にしました。後者については、日本の音大生レベルで充分としているようにみえます。しかし、中国や韓国からの人で補っているようです。

○日本人の耳はよいか

 歪みを、あえてよしとするのも日本の特徴でしょう。能管に詰め物をして、それを喉と呼びました。三味線のさわりも同じ効果を狙ったものです。邦楽ではハスキーな喉声に馴染みがあるわけです。
 とはいえ、歌に対しては音色を聞かない。楽器のように聞かない。聞けないのではなく聞かないのですから、耳が悪いのではなく、いい加減なのだと思います。
 トータルとして、同時に、上下主従なく動いていく有機的ホロニックなつながり、思考、文化、そこへ戻ることが、日本人としての姿なのかと思いつつあります。

○ことばの音楽性☆

 日本人の会話は、ときに音楽的と言われます。時に方言はそのように聞こえるようです。日本語は、母音がつくものが多く、濁音や詰まるような音があっても柔らかく聞こえるからでしょう。
 私の海外滞在の経験では、リスボンの街のポルトガル語を、もっとも音楽的に感じました。でも、どの国のことばも音楽的に語れる人がいます。聞く人、話す人によるでしょう。
 戦後の日本人は、英語っぽいDJをかっこよいと聞きました。それは英語そのものでなく、英語の語感、特にリズムと音色ではなかったでしょうか。今もそうでしょう。世界中でもそういう傾向です。それは世界におけるアメリカの強さの象徴だったでしょう。
 一方で、日本古来の音や声の響きを、私たちは快く感じているはずです。ただ、それはTVやDVD、CDなどで聞くのではありません。神社、お寺などの場において、です。あるいは、そういう臨場感をもたらす映画のシーンなどにおいて、でしょう。
 歌のように聞こえる会話は理想です。それは恋愛中のカップル、あるいは、老境の夫婦の会話、楽しい家族の団らん、喃語からことばを覚え始めた頃の幼児たちの会話などでしょう。そこでは、ことばでの意味は不要だからです。意味がないから共鳴しやすいのです。

○基本は声☆

 「人物判断の基本は声、その人の人間的な成熟度がわかる。成熟度が低いと声が平坦、声種が一つ、基本的に子供で歳はとっていても経験の質が豊かでない」内田樹氏のことばです。

Q.本番のないときは、どうすればよいのですか。
A.「平静なときに充分に練っておくこと」時間のあるときに考えておけということです。

Q.ものごとを身体に例えることはありませんか。☆
A.身体の言語をチェックしてみてはどうでしょうか。頭が高い、眉をひそめる、眼から…、鼻もち…、顔向け…、口が重い、歯に衣着せぬ、耳をすます、喉から…、首が回らない、肩をもつ、腕がなる、腹が立つ。曲でも「胸が痛い」(憂歌団)などありますね。

Q.数の言霊とは何ですか。☆
A.言霊に数霊信仰もありました。
 ひふみよ…と(+)、も(もも百)、ち(千)。
 「ひふみ祓詞」 
 ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゑつ わぬそをたはくめかうおゑにさりへて のますあせほれけ
 清音47声で「ん」を入れると四十八(ヨトや)
 ひふみ=火風水、
 天の数歌として一、二、三、四、五、六、七、八、九(ここの)、十(とを)

Q.気が弱ってきました。☆
A.禊、穢れを払うことです。これには、心身の気枯れのことをいいます。禊祓詞(みそぎはらいのことば)や大祓詞もあるので調べてみてください。
 
Q.神事を身近にするには。
A.祭り、行事をしっかりと行いましょう。山や海、スピリチュアルなスポットに行きましょう。花見(梅、桜)、月見、満月新月、花火、神社仏閣、針供養など。
 日神の神言として「アマテラスオホミカミ」神名をくり返します。
 神は、水、太陽(お天道様、御来光)、鏡、ムスビ、ふるさと(ヨミガエリ)です。

Q.なぜ、警蹕では「オー」と言うのですか。
A.「オー」の警蹕、オームから来ています。ナムもアーメンも同じです。

Q.昔の日本人の美徳とは、何なのでしょう。
A.肚に心がある。表よりも裏、よいものをかくす、おかげさまで、草葉の陰、花より実、本音より建前、裏読み、裏切るな、というものでしょう。

Q.芸能の起源は何でしょう。☆
A.ふる、おりてくる、ふるまいとなります。降ってきたものに、もどき、まねて振りをつけて芸能となっていきました。

Q.歌は、芸道として確立していないのですか。☆
A.仏に花を、人に茶を、神と共生するところで謳い舞うこと、そこに、生け花、茶道、謡いの謡が出てきました。しかし、唄、歌は変化するも、衰退の度合いも大きいようです。歌道は、俳句の方へ継承されたということでしょうか。

Q.日本の歌と文化について一言で。☆
A.壊れやすさ、寂しさ、哀しさ、切なさなどがなくなりつつあります。日本の美しさは、悲しい、哀しいものかもしれません。

Q.ことばのトレーニングで、実用的な練習はありますか。☆
A.丸竹夷押小路、姉三六角蛸錦、四綾仏高松万五条(まるたけえびすにおしこうじ、あねさんろっかくたこにしき、しあやぶったかまつまんごじょう)これで、丸太町から五条までの京都の通りの名前です。

Q.なぜ、音楽で気持ちが一つになるのですか。☆(R)
A.同期性(同調性)、共鳴性は、シンクロニシティ、シンクロニズムの訳語(科学、心理学)です。一緒に同時に起こることです。周期としてみると、音高は周波数で、テンポ、リズムは、時間でくり返されます。音楽として、人々を一体化する作用が大きく働くのです。
 音は、耳の基底膜(鼓膜)だけで捉えられるのでなく、体に振動を起こすのです。音楽に同期することで自らの殻を破れるわけです。

Q.日本語のオペラ、ミュージカルなどに違和感を覚えるのは、なぜでしょうか。☆☆
A.笑いながら怒る人と言われるのが、竹中直人さんの芸ですが、笑った顔で怒る人というほうがよいでしょう。そこの矛盾で、みている人は笑うわけです。母親が、顔は怒っているのにやさしい声で話すと、矛盾するので、子どもは混乱します。心理学でいうダブルバインドです。混乱し、笑いたいのに、まじめにやっているのをおかしいと言えない状況が続くとそうなります。日本にもよいものがあるので、そういうものもみてください。

Q.母音を際立たせる発音を、変と思いませんか。☆
A.ベテランの俳優、アナウンサーは口をはっきりと大きくは動かしません。母音は口内でつくられますから、口形でみせるのは、きちんと使い分けられない新人か、ビジュアル面での伝達を意識したTVのアナウンサー、タレントです。ルックス面でのアピールもあると思います。ミュージカルなどでは俳優の発声に負担をかけることが指摘されています。私は、音色と発音で、発音を優先したのだと考えています。

Q.劇団など練習が訓練でパターン化してしまうのは、なぜですか。
A.軍隊的な組織によくみられます。日本人にも、そのメンタリティの好きな人が数多くいます。北朝鮮のマスダンスなどに典型的な例としてみられます。シンクロナイズドスイミングもそうでしょうか。最近、アメリカ、スペイン、メキシコ、中国などが出てきたことをみると、あまり関係なさそうですね。パターン化する方が、反射的に動けるメリットもあるのです。

Q.ミュージカルについて、私はついて行けないのですが、どう思いますか。
A.生真面目に恥ずかしさを感じるのは、極まっていないか、嘘っぽいと思うのです。でも、それを突き抜けてしまうと感動に変わることも、稀にあるのです。映画で海外のものからみてはいかがでしょう。

Q.クラシックは古い音楽ですか。☆☆
A.古いのは古楽です。クラシックといわれる作品は、時代でいうと、18世紀から20世紀の初めに多くが属します。その後は、現代音楽です。こうした歴史という時間軸での区分でなく、規範であり、ピークとしてのクラシック音楽であり、そのビフォーアフターがあると捉えたほうがよいでしょう。多くの天才たちの出現、一流作品と演奏の輩出をもってクラシックのピークとなります。規範というのは、そこに、音楽として世界的な規模で、後世に通じる基礎、音の理論、音符の形式、楽器、楽譜、演奏の形式やステージが整ったことです。
 そこから、今の私たちの生活のなかで、世界中に、しぜんと同じ音楽が息づいていく基盤がつくられました。店に入るとクラシックの曲が流れている、TVのCM、映画のバックに使われています。聞くだけでなく歌う人、演奏する人、教える人も多いのです。
 現代になると、アメリカの台頭をはじめ、先進国の、いわゆる洋楽が世界を席巻しました。少なくとも、20世紀後半はそうでしょう。エレキギター、シンセサイザーなども欧米を中心に普及したといえます。でも、そこでもクラシックの楽器、音階や和音=コードは欠かせません。クラシックは、世界中の音楽、歌と、それにまつわるすべてを変える規範となったのです。

Q.クラシックとロックの違いとは何ですか。☆
A.いろいろとありますが、まず、中心となった地域です。クラシックがイタリア、ドイツ、フランスであったのに対し、ロックはアメリカ、イギリス中心であったといえます。

Q.グレゴリオ聖歌の方が、よりクラシックでないですか。☆
A.今につながる楽譜があることで伝播したのがクラシックです。グレゴリオ聖歌は、単旋律だけで、声部にも組み立てがありません。その伸びる低音、唸るような神々しさでの共鳴は、むしろ、日本の声明のイメージに近いでしょう。

Q.中世の音楽に興味がありますか。
A.はい、中世の音楽は、宇宙の音楽、人間の音楽、楽器の音楽と3つに分けられていました。

Q.バロックと古典派が好きです。☆
A.オルガン、チェロ、チェンバロの通奏低音、バロックの作曲技法は、その協奏曲ということで考えられます。ジャズでいうベース、ピアノの左手の演奏のようなものです。これがドラマとして、まさに劇的な効果をもたらします。ヒーローやヒロインの歌唱を映えさせる仕掛けです。美しさ、調和から人間、個としての表現、効果へ移ったのです。
 古典派となると旋律が中心になり、軽快で口ずさみやすい。つまり、皆が歌いやすいようにしているのです。

Q.50代に近づくにつれ、体にガタを感じます。
A.寿命は、縄文時代から室町時代くらいまで30代、江戸時代で40代、第二次世界大戦後は、まだ50代だったのです。女性の閉経時期をみても、その辺りが妥当とわかります。なので、その後は余命、老後は「おばあちゃんの知恵」とか言われ始めたのです。50歳過ぎてガタがくるのは当然と思って、備えていくことです。

Q.人間は、利己的な遺伝子に支配されているのですか。☆
A.利己子遺伝子の目的が、私たちの人生の目的ではありません。生き残ったという統計結果をあらかじめ決定された運命のようにみてしまうのは、私が、科学(的)で批判してきたことに通じますが、単なる説明です。これをヒットさせた著者は、動物学者でしたから、DNAそのものについては大して語られていないのです。よい仕事、よい子供、よい住まい、よい生活、お金、もの、心は、それぞれ自分で考えましょう。

Q.いつの世も、歌う人と歌わない人がいましたか。☆
A.「やまとうた」に始まる、古今和歌集の紀貫之の仮名序には、「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」とあります。これは、和歌のことで、ことばでの創作表現と思われますが、当時は、声に出して節もついていたと思われるので、歌といってもよいでしょう。そして今も、やはり皆、カラオケなどで歌っているのではないでしょうか。歌はいつの世も「力を入れずして天地を動かす力がある」わけです。

Q.音楽は、物理、地学、数学に似ていませんか。
A.音楽は宇宙的、数学的ですね。ピタゴラスは、「天球の音楽」として、太陽系を音階のようにみています。後は調べてください。

Q.昔は、もっと歌は生活にからんでいませんでしたか。
A.歌、ことばで人と親しくなり、結びつき、子孫を残し、生を歓び、一族仲間を守るために働きました。戦いに出るのに歌い、殺されてたり死んでも、歌で魂を鎮めました。
 遭難者が生き残るのに、皆で歌を歌ったとはよく聞きます。日本でも、被災地では、歌を携えたボランティアが歌ったり朗読をしました。ただ、ヒット曲でもある歌手でもなければ歌は使いにくかったようです。まして、被災者自らが歌ったという話は、私は、あまり聞いていません。歌声喫茶の世代は、遭難では歌いそうです。が、今の若者はどうなのでしょうか、と思います。そこを必要とされるものが、生きる支えとしたら何なのでしょう。電話?ゲーム?ツイッター?

Q.大昔、歌の役割は、何だったでしょうか。
A.日本の神話では、歌が国をつくり、人に生命を与え、秩序を司ったようです。しかし、歌や踊りのない民族はいないはずです。どこでも文字が生まれるまで歌で伝承されていました。

Q.ことばと歌は違うものだったのでしょうか。
A.ことばは詞も含めて言語としてみると、「があ~」などという動物のような生理的な音があって、感嘆詞、さらにオノマトペという形を経て言語化していったのではないでしょうか。

Q.昔の人もヴォイトレしていたのでしょうか。☆
A.ハミング、鼻歌に近いような共鳴練習も、ヴォイトレに入っています。つまりは、人の言語習得や歌を生み出すプロセスを再生するのがヴォイトレ、修正、補強するのがレッスンなのではないでしょうか。

Q.歌とことばは区別できますか。
A.文字と歌は区別できますが、歌とことば(この場合、音声の)の区別は難しいでしょう。文字をもっていない民族はいても、歌やことばのない民族はいません。でも、ことばがなく、歌だけの民族もいるでしょう。類人猿あたりはそうなのでしょうね。

Q.声の生じてきた過程は、どういうものでしょうか。☆
A.口で吸うより鼻で吸うとよりよくわかるのですが、それは頭の上、高音、裏声、頭声のような響きへの希求でしょうか。天へ、天使の歌声です。しかし、一方で、地につけた足へ、下半身、足裏で立つ人間として、女声より男声、美しさよりも強さを求めて体全体に響く声が生じてきたのでしょうか。叫びも怒りも慰めも、感情を豊かに表現していく声の機能を拡大させてきたわけです。

Q.歌やことばや声が使われたのは、なぜでしょう。
A.必要だったからでしょうし、便利だったからです。が、その前に、快感だったからでしょう。ときに武器にもなりました。コミュニケーション、人間関係のコントロール、感情の排出、心身の調和にも使えました。

Q.歌のもたらす効果は何でしょうか。
A.歌を聞いたり歌うと元気が出ます。つまりは、心身で働きかけ、邪気を払い、免疫系を強化する、などです。

Q.挨拶のトレーニングが嫌です。
A.朝礼などで、朝に声を出すこと、挨拶すること、ことばを人に伝えることは、大切な心身のリセットです。そこで日常生活のリズムをつかみ、社会生活に適した気持ちに切り替えられるからです。これを習慣づけられないと社会に落ちこぼれたりします。

Q.日本語で、リズミカルなことばのメニュはありますか。
A.ことばを重ねる複合語があります。「我々」「泣く泣く」「知らず知らず」などです。くり返す、韻を踏む、連呼すること、スローガンでもよい。団塊世代ならシュプレヒコールを思い出すとよいでしょう。「落馬から落ちる」「一番最初」など、重語は間違いです。

Q.日本人の体操や歩き方は、変わったのですか。
A.体操は、富国強兵政策のもと、農民の徴兵化のための手段として導入されたそうです。そこから日本人の身体の使い方は変わらざるをえなかったのです。

Q.音大の声楽家の実力をどうみますか。
A.音大もまた、工業化社会のつぶしの効くサラリーマンのような標準=スタンダートづくり、つまり、世界の平均レベルに引き上げようとして、その底上げまでは成功したと思います。少数でもスターやエリートを出したのは、その初期に、自由に感性に基づいて本場からの継承に長けた人でした。しかし、その後の教育は、そんな型破りのエリートを潰しもし、平均レベルをアップさせたということでしょう。

Q.合唱団からプロが出ないのを、どう思いますか。
A.学校などは期限があり、そこでの効率と画一化を第一に整えるレースでもあるからです。でも、かつてのような大スター(有名グループ)が出ないのは、求められるものも変わったからです。

Q.そうありたいという、座右の銘はありますか。
A.座右の銘はありますが、(「莫妄想」)そうありたいと思うのは、正法眼蔵の次のことばです。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり…」
禅で、「今日今時」、今が大切、その一瞬にある永遠です。

Q.声に能力のなかった人の、苦労を克服したのちの成功談について、どう思いますか。☆
A.そういう人は尊敬に値しますが、そういうサクセスストーリーには少々へきえきしています。「私は自主トレーニングで、あるいは、間違った教え方の先生で間違い、その後、正しい先生で正され(あるいは、自ら正しい方法に開眼し)成功した」その成功ってどのくらい?世界で?日本で?その後の人生は?そこに他人の学べる何があったのか、誰が学んでどうなったのか、というまで私はみるからです。

Q.能力のある人の成功談は手本になりますか。
A.三浦(和)、石川(遼)、錦織、イチロー選手でも、十代の頃の環境が違いすぎると比べようがありません。小学校3年からバッティングセンターで毎日130Kを打っていたらプロになれると私も思えるし…。今では、そういう人はたくさんいるから無理ですが。
 それよりは、ここで、言語聴覚士の扱うレベルの、人並みの声にもならない人が、少しずつ、一般の人のレベルになっていくこと、そして人生が画期的に変わる、その成功の方が大きいと思うのです。

Q.サッカーの試合の後に出た、渋谷スクランブル交差点のDJポリスをどうみますか。
A.機動隊員が交通整理、というと強権的、高圧的というイメージで、決して好感をもたれるものでないのに、このケースでは、そのイメージとのギャップのある口調や声、ことばの穏やかさゆえに好感をもって、あるいは、おもしろおかしく捉えられ、そう名付けられたのでしょう。DJというのは、よいイメージがあるのでしょうね。ポリスDJなどとなると、悪いイメージです。職業によって大きな差があるものだと思いました。まあ、DJポリスのおかげかどうかはともかく、危険もない状況だったのではないかと思います。

Q.声はスピリチュアルなものですか。☆
A.はい、でもあらゆるものがそうだともいえるので、ほどほどに考えて、あまり、そこに没入しないようにした方がよいとも思います。歌も、声も、コンサートも、人を励まし癒してくれます。イベントも、スポーツも、祭りも同じです。その働きは芸術であり、宗教であり、医術でもあるわけです。ただ、あの世よりこの世、他人よりも自分に注意を向けておくことを忘れないでください。

Q.スピリチュアルな教えは、ヴォイトレにプラスになりますか。☆
A.病気では治療が必要なこともありますが、気の病いには、心を強くもたなければ何をしても無理なので、心を強くもつことから始めるとよいでしょう。心身を鍛えることで、多くのケースでは回復するのです。どうせなら、自分のやることに、発声の練習も入れるというのが、ヴォイストレーニングのお勧めです。
 マイナスをゼロと考えるのではなく、今よりプラスにする、その意気込みをもった上で、スピリチュアルな力を得る、使うのはよいと思うのです。でも、自らを他人のそういう力に委ねるのとしたら、それは感心しません。マイナスからゼロ、ゼロからマイナス、その行き来だけになっていませんか。☆

Q.完全を目指したいのですが、可能ですか。
A.目指すことは、何でも可能であり、目標をもつことはとてもよいことです。ただ、完全が可能かというなら、不可能でしょう。完全=神は否定されてきたのです。でも、この先はわかりません。不確実の中で不完全に、でも、いつも、よりよいものを目指し続ければよいのです。

Q.どのように歌えばよいのでしょうか。
A.それは意味のない問いです。声を出したときには歌になっているのです。ただ歌うだけです。それを終えてから反省をし、修正し、吟味し続けていくのです。

Q.日本では、言文一致になったのでしょうか。
A.「生活と思考の言語が異なる」このようなことを口で言うときには、「日頃使うのと、考えるためのことばは違う」となるでしょう。未だに、言文一致となっていないと思うのです。

Q.お笑いで、新たな声の芸は成り立ちますか。
A.私としては、波多陽区、ムーディ勝山、エロ詩吟の天津木村、「整いました」のねずっち、あたりが、TV番組とともに消えてしまう芸に終わったのが惜しまれます。彼らを、でなく、音芸が、です。

Q.なぜ、子供や若い頃は、時間を長く感じるのでしょう。
A.全力でやるとあっという間ですが、総エネルギーを使った分、後で思い出すと長く感じるものらしいです。

Q.時間がどんどんなくなっていく気がします。
A.がんばって時間を使っているのは、時間を増やしているのです。お金の投資のようです。収入を多く生み出すのも長生きできるようにするのも、その努力の結果です。

Q.老害対策は、どう考えますか。
A.若い人のために、次代のために働くのも次代の足をひっぱらないようにすべきでしょう。若い人の助けをする。でも若い人が、そのまた次代の邪魔をしたら、それを変えることも必要だと思うのです。その人の邪魔をするのでなく、その人にアドバイスをするのです。

Q.なぜ、勉強するのですか。
A.学ばないと、周りや社会が迷惑します。迷惑をかけていると生きづらいです。

Q.西洋の教育のすぐれている点は。
A.塾だけでなく、図書館もスポーツクラブも、教会、博物館、美術館、すべて教育の場でしょう。
日本と西洋の違いについて述べます。
日本 世間=状況―時勢に沿って進む。
西洋 理性―法則―状況そのものの作り替えをする。
 生花と同じく、トレーナーが、その個性を消すことで、本人の才能が開花するのが、日本の理想でしょう。

Q.自由な創作の前に学ぶとよいことは、何でしょうか。
A.決まりのある芸事です。習字は身体化します。俳句も型で創作力がつきます。

Q.祝の意味は?
A.虫の知らせ 祝うは、はふりとも読み、葬る意味もあります。
 邪 禍(まが)は、悪でないのです。
 神性の自覚、自己=神 我をとる

Q.このままでは、これからの日本はどうなりますか。
A.少子化、競争なく自立なくとも食べていけると、さらに同質のままになりかねません。内向きは、下向き、そして、後ろ向きになります。

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