「レベルを考える」
○レベルの設定☆
いつも体力や学力で述べていることをくり返しますと、3キロ走れる人に1キロ走るトレーニングとか、中学生に小学生のドリルは必要ないでしょう。100点を目指して、いつも100点とれるドリルをやっているとしたら、レベル設定がおかしいのです。それは、1回確認すれば充分です。チェックで済むのです。ここを体がこってはほぐしにくる整体のように使っているなら、次に体がこらないようになるようにしてください。
私が「目標を上げること」を言うのは、伸びしろを大きくするためです。まず、自分が90点とれるより、20点くらいしかとれないレベルの課題に挑めということです。
なぜか、巷でヴォイトレは、小学校の6年生くらいのドリルでしかないように思われています。いえ、そのくらいのレベルのことだということもわからないで、ずっとくり返している人もいます。それは、ハウツーやマニュアルで考えるからです。ヴォイトレと言いつつ、メンタルとフィジカルのリラックスと、共鳴の使い方での調整で終わっていませんか。それでは、芸ごとではない、体からの声へつながらないのです。
○ほめるということ
その人のメンタルに問題がありネガティブなときには、自信をもたせるためにほめます。レベルを落とします。小学生のレベルに設定したら誰でも大褒めです。でも次には、レベルを高くしてほめられない課題設定をしなくてはいけません。
トレーナーとしてのファンを獲得したいなら、レベルを下げたまま、ずっとほめればよいです。「今のあなたのそのままでよい」と言うのです。誰でもほめられるのが好きなので。そのままなら、ずっとファンでいてくれるからです。
初回より2日目、2回目より3回目にほめると、上達したと思って人は、喜ぶものです。もちろん、そこら辺りでは、慣れていく分、声はよくなったかのように思います。リラックスした分、よくもなっているでしょう。
トレーナーは、レベルを同じにして、あるいは、下げてほめているのです。お金を出してほめてもらっているのです。それでよいのならそれでよいのです。まともなトレーナーのなかには、うまく騙してくれる、上達した気にさせて心地よくしてモティベーションを上げてくれる人もいます。しかし、そういう流れのなかで、困ったことに、トレーナー自身も、そこが入り口にすぎないことを知らないことが出てきたのです。モティベートや勇気づけ、続けさせるためにほめているのでなく、心からほめていることもあります。となると、それは本心ですから、それほどよいことはありません。目的をどう考えるかでレベルが問われるのですから。
○バックグランド
マニュアルは、よし悪しで分けていきます。それを守ろうと一つひとつに、ことばの指示にこだわります。しかし、そこのことばでなく、そのバックにある意図に反応することが大切です。それができないと、器用にこなしたつもりで、実のところ、害にしかならないことも多々、あります。細かにうまく対処することが硬直化をもたらし、却ってうまくいかなくなることもあります。そこで問われるのが、バックグランドなのです。形としていなくとも心にあればよいのです。
オーラにあふれるひとかどの人物になる、それはそういう人に会って、人に感化されることです。人に会って、体感していくことでマニュアルを超えることです。
一人の人間の存在感は、くどきと社交術くらいに大きく違うのです。そういうことが、なかなかわからない時代となりつつあります。
○ずっと「今、ここに」☆
「今ここ」に専念することで「いつかどこか」に行くのです。「今ここ」より、「いつかどこか」がよくなければ不幸ではあります。でも、「いつかどこか」を追いかけるためには「今ここ」に、青い鳥を感じるということなのです。
非日常に憧れて日常を離れても、自分が変わらないのだから、どこもかも日常になっていくものです。日常のなかで非日常にワープできる人だけが、どこへでも自由に行けるし、いつでも自由になれるのです。女性はそれを男性に、旅人に求め、待ったという時代もありましたが、今は、逆転しつつあるように思います。ワープのために孤独になるわけです。
○出すこと
「うまくいけばいいのに」でなく「本気で絶対に変えていく」つもりがないと3割もここを使えないでしょう。でも3割、使い切れたら、次があります。まずは、3割バッターを目指してください。
何事もその人が自ら切り開いていくものです。何ら出さないのを後押しすることはできません。自分のなかで、ああだこうだと空回りしているなら、それはそれで表現してみることです。
ツイッターのようなレポートも少なくありません。でも、そこからでよいのです。無意味に思えるレポートでも、出していったら変わる。チャンス、きっかけになることもあるのです。変わらないと、ここにいる意味が出てこない。それがよくなる人と悪くなる人もいる。出さなくなる人もいる。すべて誰かがどこかでみているのです。
レッスンでうまくいかないのは当たり前、本当のところ、うまくいくなら、そのレッスンはいらないのです。すでにできていることの確認にすぎないからです。それなら外で問えばよいのです。
できるレッスンでなく、できないレッスンをしなくてはいけない。なのに、「先生、できていますか?」というように、不安から自己防衛にまわってしまいがちなのです。自己防衛になると、よけいにうまくいかない、そしてそれは、しばしば言い訳、自分とは合わない、難しい、タイプが違う、となります。そして自分のキャパが小さいということです。なのに、「違う」と言い切れてしまう人は伸びません。トレーナーのレッスンを絶対肯定しているのでありません。合わない、難しい、違うときもあるでしょう。それでこそよいのです。不安を引き受けてください。そこから大いに学べるのです。
○応じない
トレーナーをみていない。ゆえに、自分のこともみていない。まして、自分の新しい面をスルーしている。それではもったいないです。
何かをしたいために力をつけるのでしたら、何かを明確にすることと、そのためにレッスンを活かすように方向づけることに専念することです。
レッスンで下手に思われたくない、うまくみせたい、トレーナーの望むようにレッスンでこたえたい、間違いを注意されたくない、よくみられたい―。そんなことで、がんばるならまだしも、悩んだりはしないことです。
トレーナーはそんなことをすぐに望みません。そんな人と私は仕事をしません。
私は、優秀な人が努力ゆえにそうなったのを、その努力を抜きにノウハウやハウツーで「簡単にそのようにできる」というような教え方を好みません。できることもないし、もしできても、そのようになれるはずがないからです。いや、なれることはあっても決してためにならないのを知っているからです。トレーナーが認めることでできているかのような錯覚を与えてしまうからです。トレーナーからは努力の必要とそれに耐えられる力をつけることを学んで欲しいと思っています。
○自分の可能性
新しい可能性を開くのに、自分の歴史や内面をみることが必要なこともあります。しかし、それが、レッスンではないのです。その必要性をレッスンで気づいたら、自分で突き詰めましょう。自主トレで乗り越えていくことです。くり返し現れることなのです。
自分が変わる、壊れるのを恐れることはありません。そういう人ほど少しも壊れないし変わらないのです。自分について語るばかりで自分を守る人もいます。過去から、自分の思う自分から逸れないように頑なになっているのです。
そういう人は、自信のなかったこと、例えば、他のトレーナーに間違いと言われたことを、「それでよいのです。そのままで正しいのです」とトレーナーに言われると安心してしまうのです。そして、その人のカリスマトレーナーが誕生します。
「そうでなかったからレッスンに来たのではなかったのですか」と問うのは、私くらいでしょうか。わかるだけわかってから、次に行かずにまた戻ってしまっている場合に、ですが。
○スタートライン
自分のことに言及し、トレーナーにも自分に関心をあてたレッスンを望むのは当然のこと、私たちもあなたのことを知り、それに焦点をあてたレッスンにしたいからです。しかし、それが行き過ぎると、結局は自己確認、自己肯定がレッスンの目的となってしまうのです。コーチングやカウンセリングの手法には、そういうのもみえるわけです。
自分の考えのまとまらない経営者ならコーチング、自分の言いたいことが出せない弱者、もしくは弱っているときにはカウンセリング、その意義は私も認めています。似たようなことをここでも行い、そういう手段も使っているからです。
でも、これは治療ともいえません。以前の状態(あるいは調子のよいときの状態)への回復です。そこに戻ることはスタートラインにつくことであり、そのままでは、まだスタートしないのです。多くは、そこから後退してはスタートラインについて、それをくり返すのです。マイナスからゼロでなく、少しでもプラスにすることが、とても大切です。自己反省、自己否定も必要となるゆえんです。
○回復へのリピート
今の状況を救済するのに、今の状態でのバランス調整をして、力を引き出すようにするのです。そこで実力不足に気づかず克服しないと、その先は空回りになるのです。それでうまくいくのは、過去に実力があったのに発揮できなくなった人がスランプのときの回復のケースだけです。
ビジネスでいうと、あなたはよい顧客です。医者、整体…。本当に実力があれば、一回とは言いませんが、早々に完治させられるものでしょう。
今の状態に対処した調整では、大半は根治しないのです。表面でよくしただけでは、また少しの無理で悪くなる、それを少しよくしても、また悪くなることのくり返しです。
医者は、悪くなったのを元の状態に戻すので、仕事としての必要性を充分に果たしています。しかし、何回も同じ症状で治療に行く人をみていると、少しもよくなっているわけではないのです。声はまさにそれがわかりやすい例です。休めている間は、使わないから喉を痛めず回復するだけで、何ら変わっていないのです。
○実社会で通じるレベル
悪くなって治すのでなく悪くならないように変えなくては、そういう力をつけなくては何ともならないのです。それがレッスンの必要性でしょう。でも、レッスンもヴォイトレも調整レベルで行われていることがほとんどです。
なぜなら、トレーナーも本人も、そこで満足するどころか、今の状態の調整するのをヴォイトレと思っているからです。喉が悪くならないようにするというのを、悪くなるような使い方をしないことと、悪くなるまで使わないという方法と時間(量)で回避させることを教えています。しかし、現実は、悪くなる使い方をしたり、長時間ハードに使っても異常を生じないタフさが求められるのです。それを練習に課さないで、どうして克服できるのでしょうか。
患者、生徒がお客さん化しているために、そういう傾向がさらに強くなっています。安全第一、安心のケア、そういうことにこだわる人へのサービスがトレーナーの仕事になってきたかのようなのです。トレーナーは、その名に反して、トレーニングでなく、治療、ケア、状態の調整に追われているのです。いや、もうそうも思わずに、それを唯一の正解と思って行うようになっているのです。もちろん、それもレッスンに含まれます。しかし、トレーニングである以上、それだけではないはずです。それだけであってはならないのです。
自分の理念、ポリシーや考えのない経営者は、いずれ会社を潰します。言いたいことが言えない人が少々言えるようになっても、カウンセラーには話すことができても、実社会では通じません。そこから学んで一歩先にいかなければ社会的にも立ちいかなくなるでしょう。演出家にワークショップで演出されたところで、プロの舞台らしく仕上げてもらっても、個人として実力をつけなければ、プロのどの舞台でも通じません。
治療して元に戻すのでなく、一歩でも二歩でも元よりよくしなくては、同じことのくり返しとなるのです。
○くり返しと変化
レッスンは単なるくり返しでありません。そのようにみえても、同じことをくり返しているようでも、いずれ変わっていく機会を得て、変わっていくものです。トレーニングの内容やメニュは、同じことのくり返しが基本と思います。それで下支えをしていき、再現性が確保されるからです。
自信があったり、もとよりトレーナー不信な人というのは、レッスンに来ません。来るとしたら、それが崩れたときです。その自信を回復して元のレベルに戻るところまでは治療、カウンセリングを求めるのです。それに対して、以前と変え、力をつけるのが、本当のレッスンとトレーニングでしょう。
とはいえ、前者がレッスンの目的の人もいます。それは、ここまで否定してきたようなことであってもよいわけです。でも、変えるつもりで来て、変えないことに決めてしまい、そのことに本人が気づいていないことも少なくありません。
a.これまでの100パーセントが出ればよいのか
b.潜在的に抑えていたところが出ればよいのか
c.感覚も体も変えて新たな可能性に挑むのか
次のことも、よく考えることだと思います。
aは医療やリハビリ(ケア)
bは調整のレッスン(修正)
cは強化トレーニング(鍛錬)
あなたは、どれを求めているのでしょうか。
○信頼に依存しない
他人を通じて、自分をみるのが、レッスンのプロレベルでの利用法です。
ということでなのか、トレーナ―に関する評判にやたら関心をもつ人もいます。神のようなトレーナーを求める人もいて、これもそういうタイプです。それは、トレーナーに関心をもっているようでいて、自分にしか関心のない人です。それゆえ、トレーナーのよし悪しが気になり、信頼と不信、期待が大きすぎ、いつもトレーナーの選択への迷いやレッスンの内容の評価で揺れてしまうのです。
このトレーナーは信頼できるのか、このトレーナーを選んでよかったのか、そしてトレーナーのことばや態度、やり方、進め方のよし悪しの印象に振り回されます。それは、うまくいかないとしたら、トレーナーのせいにしたいからです。
期待だけして、自分で勝手に期待外れにするのは、そのトレーナーでなく、本人の思考回路、ゆえに自己責任です。トータルでみると、そのトレーナーで、とても伸びた人、よくなり続けている人も必ずいるのです。ここのようにトレーナーを本人が選べるところでは、競争原理も働くから、無能なトレーナーでは失業してしまうでしょう。
でも自分は、そのトレーナーと違う、何がどう違うのか、どう合わないのか。違う、合わないとしたら、その前提としている自分の判断に対して疑問をもたないのは、なぜでしょうか。判断する自分の基準のことを考えるのによい機会でしょう。
○うまくいく
何かが起きたときに、人は本性を表します。人として問われるのは、いざというときです。ですから、そのときを共有したことのない人のことは、共有した人ほどわからないと思っています。いざというときに、がっかりさせられる人もいれば、それまで何も感じなかったり、何となく苦手とか合わないと思っていたのに、素晴らしく、頼もしく感じられたこともあります。自分や相手の危機、あるいは、その間での危機でこそ真価が問われます。そこからみれば、日常でうまくいっているかなどは大したことでないのです。
それ以外、何もないところで、レッスンでも人間関係でもうまくいくのは、当たり前でしょう。うまくいっているのでなく、何も起きていないのにすぎないのです。仮に、そこでうまくいかなくとも全く大したことではないのです。単なる好き嫌いとか気分とか、せいぜい相性というものです。
今の日本では、曖昧になあなあにしていたら、ネットだけで顔合わせしない人との間では、大して何も起きないでしょう。
よくも悪くも、期待外れのことが起きるのは、高みを求められるからです。厳しい状況におかれるからです。それはレッスンだけではないのですが、レッスンでは日常です。そして、そこに左右されることではないと言いたいのです。そんなことより、年に何回か、あるいは何年に一回あるかどうかのレッスンでの一瞬、その非日常の時間でどうあるのか、その方がずっと大切です。
レッスンの日常を非日常にしてしまえる人、これは日常に対してレッスンが非日常などということでないのです。レッスンが日常化している、つまり、毎日がレッスン状態の意識にあるところでの非日常、365日練習での本番の一瞬みたいなことです。勘違いしないでください。
○認められる力
ここにも、拙書を読んで感化されてきた、という人はたくさんいます。それが世界や社会へ目を開くのでなく、内側に籠ることになる人もいます。それが一時のことで、レッスンにでも淡々とくるようになるならよいことでしょう。
私と「同じことを考えていた、よく言ってくれた」という礼状も、それだけなら、そのパターンの一つです。私は、そういう人の側にいるわけでもないのですが、意にそぐわないトレーナーなどがいると、私のことばに乗っかろうとなさるのです。
本を読んで、そこをやめてここにいらっしゃると、心穏やかでないトレーナーが出るのはわかります。そこのトレーナーから恨まれてしまう。何を言われてもよいのですが、今、ついているトレーナーをやめるようにとか、そのトレーナーの指導は間違っているなど、私が言ったことはないのです。
選ぶのは自己責任であり、人は出会うべくして出会っています。出会いに間違いはありません。努力して実力が付くと、そこで居場所ができ、また次に必要な人に出会います。何ら努力しないと、そのままか、「トレーナーがだめだ」「ここは効果が出ない」と言ってやめることになります。次に選んだところで、より必要な人に出会うことがあるかもしれません。「しれません」というのは、努力もしない、実力もない人は、よいチャンスに出会う可能性が、どんどん低くなっていくからです。
この世界で夢を実現するために大切な人と出会っていく、そのためには、どこであれ、認められていく、認めさせてしまう。認めざるをえない力がいるのです。
よいトレーナーと出会うのでなく、その出会いをよいものにすること、その力が、あなたにあるかなのです。その力がなければ、自らがつけていく、そしてトレーナーを活かせる力をつけるのです。トレーナーがあなたの力を活かしているだけのレッスンにしてしまったなら、それは居場所をつくったのでなく、誰でもいられる場所にいるだけなのです。
○実践から
非常時体験がないと、案外と、人は早めに自己防御に入ってしまうものなのだと思います。お坊ちゃんで育った首相などもそうかもしれません。首相断念という、前回の辞職が非常時体験になったはずですが、動けるように動いているのが、あまりよい方向に出ているとは思えません。
それはともかく、守るために、より敏感になることで、体調や心を壊してしまうケースは多いです。
レッスンを始める前に、私は、その人が話したいことをすべて聞いています。すべては声を出したら、こちらにわかることなのですから、声だけで純粋に判断したらよいのですが、その人のその声のバックボーンを聞くのも研究のためです。ずっと聞いているといつまでもレッスンがスタートしないので、ある程度で切り上げます。
できない理由を本人がわかっていてできないのなら、できないのです。でも、そのように理由をつけているからできないことも多いのです。なかには、できないと思い込み、やろうとしていないだけで、能力と関係ないことも少なくありません。
水泳を学びに行くのに「息つぎがうまくできない」という理由をいつまでも言うような人はいないですね。すぐに実践に入って、覚えていけばよいのです。身につけるとは、できないことをくり返して、できるようにしていくことなのです。
○タイミング
「ハイ」と言うけど、きちんと聞いていない、理解して飲み込んでいないなら、そこで留まってみることも大切です。あるいは、さっと先に行って後で考えるのもよいでしょう。その辺りはトレーナーに任せています。いろんなタイプのトレーナーがいる方がよいのも、いろんなタイプの人がくるからで、そういう理由です。
トレーナーも慣れないうちは、「どんなメニュ、やり方がありますか」に対し、メニュややり方を出しまくる、あるいは、初回で気づいたことを言いまくる。ここでは、生徒さんの聞き手として、私がいるので、その時期は早々に終えますが、トレーナーの発表会のようなレッスンは、あまり感心しません。
相手の要求に合わせるのは、お店です。ここは、日常品を売買しているのではありません。言われたままに応じていくと、大半は日常レベルのレッスンになります。それは、ないものよりもあった方がよいというものです。
あれもこれも欲しいから何でもあります、と、品数や量を出してどうなるのでしょう。相手の世界に合わせつつも、一段レベルアップした世界に連れてきてこそ、非日常のレッスンでしょう。それができるトレーナーでないと、そのギャップをトレーナーが把握していないと、本当はレッスンにならないのです。
○慣れるな
トレーナーが、あなたの好きな音楽や歌の話ができなくてもよいでしょう。誰も私にAKB48の専門知識は求めません。そういう話は、仲間とすればよい。仲間とトレーナーを兼任(なかには、飲み仲間にまで)するのはお互いに無駄が多いのでないでしょうか。いや、無駄こそが人生ですが、それではあまりに人間関係が狭すぎます。声のヘルパーには、たわいないおしゃべりしている暇などないのです。というか、使い方としてもったいないですね。
お金を払っているところで、それを求めるのは最初から違うのです。レッスンで、非日常の世界へのガイダンスをする、別次元へ連れていくのがトレーナーです。スタジオを、いらした人のそのままの声なり表現でそこに満たし、日常化してしまう。それではもったいないです。
「日常のアナタ、それは違っている」「だから、変えよう」がトレーナーのメッセージです。ですから、「(非日常の)トレーナーさん、これで合っているでしょう」というメッセージは不要です。
でも、この時代、多くの人は「日常のアナタ、そのままでよい、そのまま続けよう」になっているのです。自分で続けてきたけど、違うから変えようとなるべきレッスンが、まだ続けていないため、やりましょう、続けましょう、になる。スタートラインとしてはよいのですが、スタートしないとそのままなのです。そこはトレーナーの実力の見せ所ですから、何とも言いませんが。
○話の周辺
内容、方法、メニュよりも、それがどの状況で誰によってどう述べられたか、あるいは、成されたかが大切です。何かよりもどうかなのです。「語るに落ちる」といいますが、それは語った内容でなく語ったことが重要ということです。
話せばわかる、それは内容でわかるのでなく、話すからわかるのです。
声のかけ方で関係も変わるのです。ことばだけでなく、声のトーンや、そこに込められた気持でわかってもらえるかどうかが決まることもよくあることです。
○第三者としての客観視
トレーナーが何らかのコメントを述べるとき、そこでは、生徒しか対象として捉えられていません。当たり前のことですが、マンツーマンのレッスンでは一対だからです。スタジオのなかという状況のなかでは、トレーナーも生徒と同じ劇中の一人、登場人物になってしまいます。
それを医者の公開オペみたいに、第三者がみて、トレーナーと生徒の間に起きていることとして捉えることで、初めて、本当に客観視できます。
それをここでは行ってきました。私や他のトレーナー、カウンセラーが、第三者として評価、分析しています。これまでどこにもそういう体制はなかったのです。
第一に、トレーナーが嫌がります。生徒も好まないかもしれません。すると、授業参観や公開講座のように見栄えのよい形になりがちです。それについては、ワークショップの限界として述べたことがあります。ですから、見学というのは、あまりよい方法でないのです。でもすぐれたトレーナーなら、他のレッスンをみなくても充分に洞察できるのです。
この“みえる化”こそが、データのストック、蓄積として研究所の大きな財産になっています。
○トレーナーと生徒を同時にみる
スタジオでの同席や見学はTVカメラが入るように介入してしまうことになり、場を変えます。先の言い方では、登場人物が増えるだけです。中に取り込まれてしまうのです。マジックミラーでみるわけにいかないのですが、ビデオの録画でみることで代用できます。ここは初回のレッスンはすべて記録、収録しています。
どんなに多くの生徒をみてきたトレーナーでも、トレーナー自身への評価については、いつも10人以上のトレーナーのレッスンを見てきた私のような立場の経験はありません。
メニュや方法は、生徒とともにあるのでなくトレーナーとともにあります。しかし、それはトレーナーと生徒の間にあるのです。トレーナーが生徒だけをみても、正しい判断なかなかはできません。
1.トレーナー自身の経験
2.生徒一人に教えた経験
3.生徒多数に教えた経験
4.他のトレーナーが教えているのを学んだ経験
ということで、この順に豊かに客観的、多角的になっていくのです。
そこに同じ生徒を他のトレーナーが2人以上で教えるのを見る経験、それを同時進行、あるいは、順次(引き継ぎなど)で見ることを含めています。どちらもあまり、他所では得られない経験です。
トレーナー自身が他のトレーナーから引く継ぐケースがあっても、ここのように情報や経緯をカルテとして引き継いではいないでしょう。(スクール内では可能なところもあります)何より、同時期に異なる複数のトレーナーのレッスンのプロセスをみてはいないのです。
○「科学的」の限界
科学的なことを求めるにも、解剖学のような動かない図版や、発声の声帯振動、横隔膜の動きといったメカニズムでの知識は、実践や声の育成には、大して役立ちません。こうしたレッスンでの現実の場のなかで、科学的な態度のとり方を検討すべきです。そして、実行することでしょう。データをとり複数の人で共有し、ケースごとに検討し、調整を残すことです。レッスンでなく、定期的にトレーニングのなかでの変化をみることです。
○ズレ
知覚する対象は声についてですが、その良否は、先生、師匠、トレーナーとの間に生じます。やっかいなことに、よほどのプロでないと、その日のトレーナーの与える雰囲気一つで、声は変わってしまうものです。
本人だけでなくトレーナーもまた、何かを知覚した時点で、他の事は無視、見逃し、スルーしてしまうのです。複数回を重ねるうちに、チェックする中心を分けているのです。でも、一人のトレーナーである以上、盲点はできます。そこは、別のトレーナーがそこに盲点のできないようにフォローするしかないのです。
専門家として判断するということは、教えたことにだけでなく、声を多角的にも高次にもみることです。そこでさえ、必ず固定概念、偏見を伴い、自分やその先生の経験からみていることに気づくことです。
それがいかに特定に偏りやすい立場なのかは、トレーナーにもよりますが、プロの専門家として教えて実力も認められているのに、全く売れない歌手が多いことでもわかります。そういう歌手の多くは、過去の基準、昔よくいた歌手のタイプに多いので、専門家のめがねにかなう分、大衆受けも、新しい時代受けもしません。それどころか、そこからもっとも遠いところにいるのです。
普遍的な基準であるかのようなクラシックや邦楽も、それがズレていなければ、もっともてはやされるはずです。普遍的にというなら、普及しヒットし続けるはずです。そうでないことがズレていることを証明しています。業界が特定な分野とされて衰退していくのは、その結果です。
特定化がピークからズレてきているのだから、そこに基づいたり合わせたりしてはなりません。でも、専門家というのが、そこで長くいたゆえ、学んだゆえに専門だから全くの逆のことをしてしまうのです。
○形と音のイメージ
ものの形の方が、ものの動きよりわかりやすいのは、視覚で静止したものを捉えるからです。ものの形が動くとしても、音の動きよりは、よほどつかみやすい。音や声は、形に隠れスルーされがちです。現実にあるのに気づかないことも、多々あります。音楽家は、音にこだわりますが、声においてはかなり微妙といわざるをえないです。実体、動きが把握にしにくい、イメージしにくいことが、スポーツやダンスほどに人が育たない要因の一つです。
音響的なフォロー、マイクや、そのリヴァーブが加わり、さらにヴィジュアル化でのパフォーマンスとしての効果が大きくなってきたこともあります。
AKB48を、歌い手とかアーティストと言うのでしょうか。私が、紅白歌合戦は、ステージ合戦になったと述べたのは、かなり昔です。お祭りですから派手な衣装や演出があってもよいでしょう。ただ、NHKが声力、歌力で歌手を選ばなくなった、いや、人気に声と歌唱の実力が伴わなくなった、聴衆が観客になったということです。ラジオだけであったら、こうはならなかったでしょう。
○教えること
今のヴォイトレでは、発声も、運動や姿勢、その周辺での筋肉の形や働きに関心がいくのでしょう。その名称と働きについて知ると声もよくなるというのは、思い込みです。トレーナーが、本来は使うこと、伝えることではないのです。伝えるべきことは、音の世界、音のイメージでの声です。
ただでさえ、小器用に何でもこなせる人の方が仕事になるので、音が後回しになります。本来は音が先、その動きから形となる、そして視るものへとなるのです。それは歌手や役者のトレーナー化をもたらします。それに気づいたのは、私が大して知識などを教えていないのに、仕組みなどに熱心な人がヴォイストレーナーになっていったからです。まして、知識としてのヴォイトレに関心をもつとそうなるでしょう。ヴォイトレを学んでヴォイストレーナーになるのは、ヴォイトレの目的ではないのですが、知識や原理で学ぶと声を使うのでなく、その使い方を仕事にしてしまうのです。
役者は、他人に教えるケースも多いのでしょう。少なくとも後輩にアドバイスを求められるので、確実なことを教えたいと勉強し始める。それはよいことですが、発声の知識を教えることは教えやすいだけで違います。悪循環が始まります。他人によかれと思って行い、受け手もありがたく思う善意のスパイラルだけに手におえません。しかも、知識をもって、それに囚われることで、自身の演技や歌が鈍くなることも少なくありません。
私の本もそれを助長してしまったでしょうか。本を読むのはよいことですが、それをそのまま教えるのは、よいこととは限りません。却って混乱や中途半端な結果をもたらすことが多いはずです。
基本については、その先まできちんとみえていないと、伝えられないものです。少し悪い方へ出るだけでオタオタしてしまうでしょう。他の人のノウハウなどそんなものです。
○ことばの使い方
芸事のことばは、ただ伝えるためのものではありません。自ら発見し、創り出してこそ使えるものです。ことばを使わない分野であっても、詩人顔負けの言語想像力、駆使力をもつ人がいるのは、今さら言うまでもありません。スポーツ選手でも常人の限界を超えたところに行った人のことばは違うのです。ですから、逆にその人のことばでそのレベルが量られる、いや、量れないレベルだというのがわかるのです。
○コップ半分の水
「マニュアルで早く少し上達する」のでなく、「いつか自由に大きく変わる」。それを目的にしましょう。時間や費用などを問うても何ともならないのです。求める人に、根本的に取り組む意志や持続する覚悟があるかということです。それがないのに、人が助けてできることはありません。
コップ半分の水をどうみるのかという、自己啓発書によく出る例があります。「半分もある」というプラス思考、「半分しかない」というマイナス思考。でも、これは出題する人が、一杯の半分と捉えた時点でマイナス思考だと、どうして誰も指摘しないのでしょうね。水がある、それだけが事実です。なぜ、コップの大きさの割合にこだわるのでしょう。
でも、こういう例は、生徒をどうみるかにも使えます。あるいは、私をみて半分もあるとみるか、半分しかないとみるか。この社会では、勝手に人をコップ一杯100パーセントのようにみたてて、そこから「半分しかない」などと人を貶めがちです。
相手を、自分にも他の人にも使えないようにして悦に入る人が多くなりました。私自身は、海とは言いませんが、プール一杯くらいをみて、コップでスタートしようとしています。土台で違うのです。何とか海の実感を得たいとイメージして伝えようとしているのです。
能力のないのは知っています。でも、私を使って得ていった人と得なかった人の違いこそが、能力、学ぶ力の違いでしょう。それは、そのまま、考え方、物の見方の違いです。どう見るのかは本人が決めているのです。同じく、どれだけ使えるのかということも。
本人が目一杯使えるようにみればよい、みえなければそうすればよいのです。ただし、本人の力以上のものは使えません。使えるように力をつける、そのために時間がいるのです。
○ON
DNAのON、OFFというと、人間一人もDNAのように、誰かがON、OFFしていて、人類全体を動かしているのかもしれません。そのシナプスが、人がIT、サイバーネット、webとして創り出している、とも思われます。そこで化学物質という、あたかもテレパシーのようなものとして働いているのです。