「声と教育、歴史、日本語」 No.301
○日本人の声のパワー
戦いで武勲をあげるには、名を名のらなくてはなりません。昔は、誰が活躍したかは、録画で確かめられませんでした。リーダーは、声が届かなくては、荒々しい集団を統治できなかったはずです。声や太鼓など、音の共鳴力が、武器や人数といった基本の戦力を何倍にも大きくする手段であったのです。
そうした声の力は、政治やビジネス、一方で武道やスポーツにも受け継がれています。そのパワーは、今の日本よりは、他の国のをみる方が、わかりやすいでしょう。
応援でもよい、デモでもよい、行き過ぎると暴力をも引き起こすし、そのまま暴力となりかねないのも声の力です。とはいえ、そのパワーのレベルは、はるかに落ちてきています。特に日本では顕著です。50年前なら、会社の上司の半分近くは、今でいうパワハラで訴えられたことでしょう。
声の能力について、私は、歴史的といっても、ここ50年、国際的といっても中国や韓国との比較だけでも充分なほど、日本の特別な状況を前提にしなくては述べられなくなったのです。
声の力という、人としての基本的な能力の欠如に気づいていないこと、悩むだ
けならよいのですが、それが問題にも上がってこないのは、大変な問題です。
○声の発生と普及について、☆
原初的には、声は、「危ない」「逃げろ」など、仲間内で使ってお互いを守ることから、集団でする狩りや戦いの場における重要なコミュニケーションツールでした。
そのため、そこですぐれた声をもつ人、その民族が、生き残ったともいえます。
裏を返せば、その生き残りとして私たちは生きているのです。男性の声が1オクターブ低くなったのは、まさにそのことを象徴しています。教師が「危ない!」と大声で叫べないのは危ないことだと何回か述べてきました。コミュニケーションは命を守ることに結びついていたのです。声は、そのためのもっとも有効なツールの一つでした。
○国際比較という視点
以前は、カラオケで喉を痛めたという人が多かった。それをカラオケポリープと言ったものです。歌手や役者もステージが続くにつれ、そうなった人は多数いました。無知だったのではなく、それだけ全力で、声を使っていたということです。今は、うまくなったり強くなったのではなく、そこまで声を使わなくなった、正直なところ、使えなくなったのです。
昔は、喉を壊して、休んでは直した。(それで強くなったとか、それがよいとは、私の立場上、言えません)今は、壊さない、壊すところまで声を使わない、いや、使えないのです。
発声の知識の普及、研究の進展やトレーナーのおかげで、レッスンのレベルが向上したというならよいでしょう。でも、それなら日本の歌手や役者も世界の第一線にいっていなくてはおかしいでしょう。そこを顧みることなく、いくら方法や理論を論じても何ともなりません。
問われるものが変わったのが、第一ですが、声のパワーそのものは落ちました。地声としての個性も弱くなりました。くせ声や変な声もあまりみられなくなってきたわけです。
声量を使えない、使わないのは、使う必要がないからです。つまり、相手が求めない、望まない、そこに合わせると、日本人の国民性もあって、発声の能力も閉塞していきます。
「声を嗄らす準備はいいか」(WカップCM)は、日本人にしか考えつけないコピー、私としては、共鳴できないフレーズと述べました。
音声において甘いレベルの日本では、国際レベルに出ていくのは、今のところ難しいところです。それでも、かつては、芸や芸術として、他の分野に引けをとらないものがあり、人を集めるのに、客の期待をはるかに超える芸道、求めるレベルの高さの声があったと思います。
声の大きさ強さは、一つの条件にすぎません。しかし、マイクという拡大装置を、個としての身体で成立している芸の拡大に使うのでなく、成立していない未熟さ、欠点のカバー、補強第一として使うようになったことが原因になったともいえます。そのための専門装置カラオケを創り、輸出するに至った日本の特殊性についても触れてきました。そして、それがヴォーカロイドに引き継がれていることも。
○声での支配
欧米人にとってのスポーツが、その階層社会の最上位であった貴族階級の体づくり(体格、体力、闘志)に基づくものであったことは、よく知られています。弁論をはじめとする声での支配もしかりで、ともにエリート育成の同一線上にあると思います。
クラシック音楽は、教会音楽として始まり、キリスト教という宗教の普及や浸透と切り離せないものでした。これらは世界戦略のツールともなったのです。
日本でも、かつて西洋を学んだ政財界人は、その子弟にボートやラグビーをやらせていました。声を通じて一体化していくチームプレーが組織運営の阿吽の呼吸となっていくのです。政治、経営で必要とされるリーダーシップに通じるからです。
最強のコミュニケーション、それは、人を動かす者たちの共鳴、共振、共同作用です。しかし、そこから発展、普及し一般化していくと、よりプリミティブなレベルで元より人々の間、生命ある者の間にあったものに戻ります。シンクロニシティ、共生、共存としての人間社会、それが再びキィワードとなりつつある現代の世界では、響き合う、触れあう、感度を高めるためのトレーニングとして、ヴォイトレも、また有用なのです。
欧米でのスポーツも音楽も、個人としての技術の確立が、戦いやゲームを通じて集団としての一人に、つまりOn for All, All for Oneになりました。それもまた、社会のシミュレーションとしてのトレーニングなのです。
○身体能力としての声☆
声は、身体の能力の一つです。インターネット普及の前に電話網がありましたが、電話は、声を、そこにいない人ともつなげました。声がつながった瞬間、実際の距離は意識からなくなります。バーチャルなお茶の間に相手と二人でいられるようになったのです。世界中、宇宙にいてでさえ交信することができました。電話は、声の強化ツールとして、まことにわかりやすいのです。ネットは、テキスト文字から画像、次に動画をやり取りするツールとして進化してきました。文字を介さずに身体が成すことを伝えられるようになったのです。
○日本の歌は、音楽より詞
クラシック音楽で確立された楽譜は、音の高さとその経緯(時間)を表しています。リズム(この場合、長さ)とピッチ(音高)は表記できても、音量、さらに音質はわかりにくいのです。神楽、民謡、わらべ歌や邦楽は、後者を優先します。日本の歌はことば、詞中心であったからです。日本ではすべてが混じったため、記譜では、あまりうまく伝えられないのです。
しかし、欧米化政策により、音大の出身者、欧米を崇拝した歌手やトレーナーは、前者を中心に学びました。向こうでは、前者はすでにできている、身についているから、後者で勝負しているというのに、そこまで追い付けなかったのです。
劇団四季は、前者に加え、日本語の発音明瞭化というのを第3の要素にしました。後者については、日本の音大生レベルで充分としているようにみえます。しかし、中国や韓国からの人で補っているようです。
○日本人の耳はよいか
歪みを、あえてよしとするのも日本の特徴でしょう。能管に詰め物をして、それを喉と呼びました。三味線のさわりも同じ効果を狙ったものです。邦楽ではハスキーな喉声に馴染みがあるわけです。
とはいえ、歌に対しては音色を聞かない。楽器のように聞かない。聞けないのではなく聞かないのですから、耳が悪いのではなく、いい加減なのだと思います。
トータルとして、同時に、上下主従なく動いていく有機的ホロニックなつながり、思考、文化、そこへ戻ることが、日本人としての姿なのかと思いつつあります。
○ことばの音楽性☆
日本人の会話は、ときに音楽的と言われます。時に方言はそのように聞こえるようです。日本語は、母音がつくものが多く、濁音や詰まるような音があっても柔らかく聞こえるからでしょう。
私の海外滞在の経験では、リスボンの街のポルトガル語を、もっとも音楽的に感じました。でも、どの国のことばも音楽的に語れる人がいます。聞く人、話す人によるでしょう。
戦後の日本人は、英語っぽいDJをかっこよいと聞きました。それは英語そのものでなく、英語の語感、特にリズムと音色ではなかったでしょうか。今もそうでしょう。世界中でもそういう傾向です。それは世界におけるアメリカの強さの象徴だったでしょう。
一方で、日本古来の音や声の響きを、私たちは快く感じているはずです。ただ、それはTVやDVD、CDなどで聞くのではありません。神社、お寺などの場において、です。あるいは、そういう臨場感をもたらす映画のシーンなどにおいて、でしょう。
歌のように聞こえる会話は理想です。それは恋愛中のカップル、あるいは、老境の夫婦の会話、楽しい家族の団らん、喃語からことばを覚え始めた頃の幼児たちの会話などでしょう。そこでは、ことばでの意味は不要だからです。意味がないから共鳴しやすいのです。
○基本は声☆
「人物判断の基本は声、その人の人間的な成熟度がわかる。成熟度が低いと声が平坦、声種が一つ、基本的に子供で歳はとっていても経験の質が豊かでない」内田樹氏のことばです。
Q.本番のないときは、どうすればよいのですか。
A.「平静なときに充分に練っておくこと」時間のあるときに考えておけということです。
Q.ものごとを身体に例えることはありませんか。☆
A.身体の言語をチェックしてみてはどうでしょうか。頭が高い、眉をひそめる、眼から…、鼻もち…、顔向け…、口が重い、歯に衣着せぬ、耳をすます、喉から…、首が回らない、肩をもつ、腕がなる、腹が立つ。曲でも「胸が痛い」(憂歌団)などありますね。
Q.数の言霊とは何ですか。☆
A.言霊に数霊信仰もありました。
ひふみよ…と(+)、も(もも百)、ち(千)。
「ひふみ祓詞」
ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゑつ わぬそをたはくめかうおゑにさりへて のますあせほれけ
清音47声で「ん」を入れると四十八(ヨトや)
ひふみ=火風水、
天の数歌として一、二、三、四、五、六、七、八、九(ここの)、十(とを)
Q.気が弱ってきました。☆
A.禊、穢れを払うことです。これには、心身の気枯れのことをいいます。禊祓詞(みそぎはらいのことば)や大祓詞もあるので調べてみてください。
Q.神事を身近にするには。
A.祭り、行事をしっかりと行いましょう。山や海、スピリチュアルなスポットに行きましょう。花見(梅、桜)、月見、満月新月、花火、神社仏閣、針供養など。
日神の神言として「アマテラスオホミカミ」神名をくり返します。
神は、水、太陽(お天道様、御来光)、鏡、ムスビ、ふるさと(ヨミガエリ)です。
Q.なぜ、警蹕では「オー」と言うのですか。
A.「オー」の警蹕、オームから来ています。ナムもアーメンも同じです。
Q.昔の日本人の美徳とは、何なのでしょう。
A.肚に心がある。表よりも裏、よいものをかくす、おかげさまで、草葉の陰、花より実、本音より建前、裏読み、裏切るな、というものでしょう。
Q.芸能の起源は何でしょう。☆
A.ふる、おりてくる、ふるまいとなります。降ってきたものに、もどき、まねて振りをつけて芸能となっていきました。
Q.歌は、芸道として確立していないのですか。☆
A.仏に花を、人に茶を、神と共生するところで謳い舞うこと、そこに、生け花、茶道、謡いの謡が出てきました。しかし、唄、歌は変化するも、衰退の度合いも大きいようです。歌道は、俳句の方へ継承されたということでしょうか。
Q.日本の歌と文化について一言で。☆
A.壊れやすさ、寂しさ、哀しさ、切なさなどがなくなりつつあります。日本の美しさは、悲しい、哀しいものかもしれません。
Q.ことばのトレーニングで、実用的な練習はありますか。☆
A.丸竹夷押小路、姉三六角蛸錦、四綾仏高松万五条(まるたけえびすにおしこうじ、あねさんろっかくたこにしき、しあやぶったかまつまんごじょう)これで、丸太町から五条までの京都の通りの名前です。
Q.なぜ、音楽で気持ちが一つになるのですか。☆(R)
A.同期性(同調性)、共鳴性は、シンクロニシティ、シンクロニズムの訳語(科学、心理学)です。一緒に同時に起こることです。周期としてみると、音高は周波数で、テンポ、リズムは、時間でくり返されます。音楽として、人々を一体化する作用が大きく働くのです。
音は、耳の基底膜(鼓膜)だけで捉えられるのでなく、体に振動を起こすのです。音楽に同期することで自らの殻を破れるわけです。
Q.日本語のオペラ、ミュージカルなどに違和感を覚えるのは、なぜでしょうか。☆☆
A.笑いながら怒る人と言われるのが、竹中直人さんの芸ですが、笑った顔で怒る人というほうがよいでしょう。そこの矛盾で、みている人は笑うわけです。母親が、顔は怒っているのにやさしい声で話すと、矛盾するので、子どもは混乱します。心理学でいうダブルバインドです。混乱し、笑いたいのに、まじめにやっているのをおかしいと言えない状況が続くとそうなります。日本にもよいものがあるので、そういうものもみてください。
Q.母音を際立たせる発音を、変と思いませんか。☆
A.ベテランの俳優、アナウンサーは口をはっきりと大きくは動かしません。母音は口内でつくられますから、口形でみせるのは、きちんと使い分けられない新人か、ビジュアル面での伝達を意識したTVのアナウンサー、タレントです。ルックス面でのアピールもあると思います。ミュージカルなどでは俳優の発声に負担をかけることが指摘されています。私は、音色と発音で、発音を優先したのだと考えています。
Q.劇団など練習が訓練でパターン化してしまうのは、なぜですか。
A.軍隊的な組織によくみられます。日本人にも、そのメンタリティの好きな人が数多くいます。北朝鮮のマスダンスなどに典型的な例としてみられます。シンクロナイズドスイミングもそうでしょうか。最近、アメリカ、スペイン、メキシコ、中国などが出てきたことをみると、あまり関係なさそうですね。パターン化する方が、反射的に動けるメリットもあるのです。
Q.ミュージカルについて、私はついて行けないのですが、どう思いますか。
A.生真面目に恥ずかしさを感じるのは、極まっていないか、嘘っぽいと思うのです。でも、それを突き抜けてしまうと感動に変わることも、稀にあるのです。映画で海外のものからみてはいかがでしょう。
Q.クラシックは古い音楽ですか。☆☆
A.古いのは古楽です。クラシックといわれる作品は、時代でいうと、18世紀から20世紀の初めに多くが属します。その後は、現代音楽です。こうした歴史という時間軸での区分でなく、規範であり、ピークとしてのクラシック音楽であり、そのビフォーアフターがあると捉えたほうがよいでしょう。多くの天才たちの出現、一流作品と演奏の輩出をもってクラシックのピークとなります。規範というのは、そこに、音楽として世界的な規模で、後世に通じる基礎、音の理論、音符の形式、楽器、楽譜、演奏の形式やステージが整ったことです。
そこから、今の私たちの生活のなかで、世界中に、しぜんと同じ音楽が息づいていく基盤がつくられました。店に入るとクラシックの曲が流れている、TVのCM、映画のバックに使われています。聞くだけでなく歌う人、演奏する人、教える人も多いのです。
現代になると、アメリカの台頭をはじめ、先進国の、いわゆる洋楽が世界を席巻しました。少なくとも、20世紀後半はそうでしょう。エレキギター、シンセサイザーなども欧米を中心に普及したといえます。でも、そこでもクラシックの楽器、音階や和音=コードは欠かせません。クラシックは、世界中の音楽、歌と、それにまつわるすべてを変える規範となったのです。
Q.クラシックとロックの違いとは何ですか。☆
A.いろいろとありますが、まず、中心となった地域です。クラシックがイタリア、ドイツ、フランスであったのに対し、ロックはアメリカ、イギリス中心であったといえます。
Q.グレゴリオ聖歌の方が、よりクラシックでないですか。☆
A.今につながる楽譜があることで伝播したのがクラシックです。グレゴリオ聖歌は、単旋律だけで、声部にも組み立てがありません。その伸びる低音、唸るような神々しさでの共鳴は、むしろ、日本の声明のイメージに近いでしょう。
Q.中世の音楽に興味がありますか。
A.はい、中世の音楽は、宇宙の音楽、人間の音楽、楽器の音楽と3つに分けられていました。
Q.バロックと古典派が好きです。☆
A.オルガン、チェロ、チェンバロの通奏低音、バロックの作曲技法は、その協奏曲ということで考えられます。ジャズでいうベース、ピアノの左手の演奏のようなものです。これがドラマとして、まさに劇的な効果をもたらします。ヒーローやヒロインの歌唱を映えさせる仕掛けです。美しさ、調和から人間、個としての表現、効果へ移ったのです。
古典派となると旋律が中心になり、軽快で口ずさみやすい。つまり、皆が歌いやすいようにしているのです。
Q.50代に近づくにつれ、体にガタを感じます。
A.寿命は、縄文時代から室町時代くらいまで30代、江戸時代で40代、第二次世界大戦後は、まだ50代だったのです。女性の閉経時期をみても、その辺りが妥当とわかります。なので、その後は余命、老後は「おばあちゃんの知恵」とか言われ始めたのです。50歳過ぎてガタがくるのは当然と思って、備えていくことです。
Q.人間は、利己的な遺伝子に支配されているのですか。☆
A.利己子遺伝子の目的が、私たちの人生の目的ではありません。生き残ったという統計結果をあらかじめ決定された運命のようにみてしまうのは、私が、科学(的)で批判してきたことに通じますが、単なる説明です。これをヒットさせた著者は、動物学者でしたから、DNAそのものについては大して語られていないのです。よい仕事、よい子供、よい住まい、よい生活、お金、もの、心は、それぞれ自分で考えましょう。
Q.いつの世も、歌う人と歌わない人がいましたか。☆
A.「やまとうた」に始まる、古今和歌集の紀貫之の仮名序には、「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」とあります。これは、和歌のことで、ことばでの創作表現と思われますが、当時は、声に出して節もついていたと思われるので、歌といってもよいでしょう。そして今も、やはり皆、カラオケなどで歌っているのではないでしょうか。歌はいつの世も「力を入れずして天地を動かす力がある」わけです。
Q.音楽は、物理、地学、数学に似ていませんか。
A.音楽は宇宙的、数学的ですね。ピタゴラスは、「天球の音楽」として、太陽系を音階のようにみています。後は調べてください。
Q.昔は、もっと歌は生活にからんでいませんでしたか。
A.歌、ことばで人と親しくなり、結びつき、子孫を残し、生を歓び、一族仲間を守るために働きました。戦いに出るのに歌い、殺されてたり死んでも、歌で魂を鎮めました。
遭難者が生き残るのに、皆で歌を歌ったとはよく聞きます。日本でも、被災地では、歌を携えたボランティアが歌ったり朗読をしました。ただ、ヒット曲でもある歌手でもなければ歌は使いにくかったようです。まして、被災者自らが歌ったという話は、私は、あまり聞いていません。歌声喫茶の世代は、遭難では歌いそうです。が、今の若者はどうなのでしょうか、と思います。そこを必要とされるものが、生きる支えとしたら何なのでしょう。電話?ゲーム?ツイッター?
Q.大昔、歌の役割は、何だったでしょうか。
A.日本の神話では、歌が国をつくり、人に生命を与え、秩序を司ったようです。しかし、歌や踊りのない民族はいないはずです。どこでも文字が生まれるまで歌で伝承されていました。
Q.ことばと歌は違うものだったのでしょうか。
A.ことばは詞も含めて言語としてみると、「があ~」などという動物のような生理的な音があって、感嘆詞、さらにオノマトペという形を経て言語化していったのではないでしょうか。
Q.昔の人もヴォイトレしていたのでしょうか。☆
A.ハミング、鼻歌に近いような共鳴練習も、ヴォイトレに入っています。つまりは、人の言語習得や歌を生み出すプロセスを再生するのがヴォイトレ、修正、補強するのがレッスンなのではないでしょうか。
Q.歌とことばは区別できますか。
A.文字と歌は区別できますが、歌とことば(この場合、音声の)の区別は難しいでしょう。文字をもっていない民族はいても、歌やことばのない民族はいません。でも、ことばがなく、歌だけの民族もいるでしょう。類人猿あたりはそうなのでしょうね。
Q.声の生じてきた過程は、どういうものでしょうか。☆
A.口で吸うより鼻で吸うとよりよくわかるのですが、それは頭の上、高音、裏声、頭声のような響きへの希求でしょうか。天へ、天使の歌声です。しかし、一方で、地につけた足へ、下半身、足裏で立つ人間として、女声より男声、美しさよりも強さを求めて体全体に響く声が生じてきたのでしょうか。叫びも怒りも慰めも、感情を豊かに表現していく声の機能を拡大させてきたわけです。
Q.歌やことばや声が使われたのは、なぜでしょう。
A.必要だったからでしょうし、便利だったからです。が、その前に、快感だったからでしょう。ときに武器にもなりました。コミュニケーション、人間関係のコントロール、感情の排出、心身の調和にも使えました。
Q.歌のもたらす効果は何でしょうか。
A.歌を聞いたり歌うと元気が出ます。つまりは、心身で働きかけ、邪気を払い、免疫系を強化する、などです。
Q.挨拶のトレーニングが嫌です。
A.朝礼などで、朝に声を出すこと、挨拶すること、ことばを人に伝えることは、大切な心身のリセットです。そこで日常生活のリズムをつかみ、社会生活に適した気持ちに切り替えられるからです。これを習慣づけられないと社会に落ちこぼれたりします。
Q.日本語で、リズミカルなことばのメニュはありますか。
A.ことばを重ねる複合語があります。「我々」「泣く泣く」「知らず知らず」などです。くり返す、韻を踏む、連呼すること、スローガンでもよい。団塊世代ならシュプレヒコールを思い出すとよいでしょう。「落馬から落ちる」「一番最初」など、重語は間違いです。
Q.日本人の体操や歩き方は、変わったのですか。
A.体操は、富国強兵政策のもと、農民の徴兵化のための手段として導入されたそうです。そこから日本人の身体の使い方は変わらざるをえなかったのです。
Q.音大の声楽家の実力をどうみますか。
A.音大もまた、工業化社会のつぶしの効くサラリーマンのような標準=スタンダートづくり、つまり、世界の平均レベルに引き上げようとして、その底上げまでは成功したと思います。少数でもスターやエリートを出したのは、その初期に、自由に感性に基づいて本場からの継承に長けた人でした。しかし、その後の教育は、そんな型破りのエリートを潰しもし、平均レベルをアップさせたということでしょう。
Q.合唱団からプロが出ないのを、どう思いますか。
A.学校などは期限があり、そこでの効率と画一化を第一に整えるレースでもあるからです。でも、かつてのような大スター(有名グループ)が出ないのは、求められるものも変わったからです。
Q.そうありたいという、座右の銘はありますか。
A.座右の銘はありますが、(「莫妄想」)そうありたいと思うのは、正法眼蔵の次のことばです。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり…」
禅で、「今日今時」、今が大切、その一瞬にある永遠です。
Q.声に能力のなかった人の、苦労を克服したのちの成功談について、どう思いますか。☆
A.そういう人は尊敬に値しますが、そういうサクセスストーリーには少々へきえきしています。「私は自主トレーニングで、あるいは、間違った教え方の先生で間違い、その後、正しい先生で正され(あるいは、自ら正しい方法に開眼し)成功した」その成功ってどのくらい?世界で?日本で?その後の人生は?そこに他人の学べる何があったのか、誰が学んでどうなったのか、というまで私はみるからです。
Q.能力のある人の成功談は手本になりますか。
A.三浦(和)、石川(遼)、錦織、イチロー選手でも、十代の頃の環境が違いすぎると比べようがありません。小学校3年からバッティングセンターで毎日130Kを打っていたらプロになれると私も思えるし…。今では、そういう人はたくさんいるから無理ですが。
それよりは、ここで、言語聴覚士の扱うレベルの、人並みの声にもならない人が、少しずつ、一般の人のレベルになっていくこと、そして人生が画期的に変わる、その成功の方が大きいと思うのです。
Q.サッカーの試合の後に出た、渋谷スクランブル交差点のDJポリスをどうみますか。
A.機動隊員が交通整理、というと強権的、高圧的というイメージで、決して好感をもたれるものでないのに、このケースでは、そのイメージとのギャップのある口調や声、ことばの穏やかさゆえに好感をもって、あるいは、おもしろおかしく捉えられ、そう名付けられたのでしょう。DJというのは、よいイメージがあるのでしょうね。ポリスDJなどとなると、悪いイメージです。職業によって大きな差があるものだと思いました。まあ、DJポリスのおかげかどうかはともかく、危険もない状況だったのではないかと思います。
Q.声はスピリチュアルなものですか。☆
A.はい、でもあらゆるものがそうだともいえるので、ほどほどに考えて、あまり、そこに没入しないようにした方がよいとも思います。歌も、声も、コンサートも、人を励まし癒してくれます。イベントも、スポーツも、祭りも同じです。その働きは芸術であり、宗教であり、医術でもあるわけです。ただ、あの世よりこの世、他人よりも自分に注意を向けておくことを忘れないでください。
Q.スピリチュアルな教えは、ヴォイトレにプラスになりますか。☆
A.病気では治療が必要なこともありますが、気の病いには、心を強くもたなければ何をしても無理なので、心を強くもつことから始めるとよいでしょう。心身を鍛えることで、多くのケースでは回復するのです。どうせなら、自分のやることに、発声の練習も入れるというのが、ヴォイストレーニングのお勧めです。
マイナスをゼロと考えるのではなく、今よりプラスにする、その意気込みをもった上で、スピリチュアルな力を得る、使うのはよいと思うのです。でも、自らを他人のそういう力に委ねるのとしたら、それは感心しません。マイナスからゼロ、ゼロからマイナス、その行き来だけになっていませんか。☆
Q.完全を目指したいのですが、可能ですか。
A.目指すことは、何でも可能であり、目標をもつことはとてもよいことです。ただ、完全が可能かというなら、不可能でしょう。完全=神は否定されてきたのです。でも、この先はわかりません。不確実の中で不完全に、でも、いつも、よりよいものを目指し続ければよいのです。
Q.どのように歌えばよいのでしょうか。
A.それは意味のない問いです。声を出したときには歌になっているのです。ただ歌うだけです。それを終えてから反省をし、修正し、吟味し続けていくのです。
Q.日本では、言文一致になったのでしょうか。
A.「生活と思考の言語が異なる」このようなことを口で言うときには、「日頃使うのと、考えるためのことばは違う」となるでしょう。未だに、言文一致となっていないと思うのです。
Q.お笑いで、新たな声の芸は成り立ちますか。
A.私としては、波多陽区、ムーディ勝山、エロ詩吟の天津木村、「整いました」のねずっち、あたりが、TV番組とともに消えてしまう芸に終わったのが惜しまれます。彼らを、でなく、音芸が、です。
Q.なぜ、子供や若い頃は、時間を長く感じるのでしょう。
A.全力でやるとあっという間ですが、総エネルギーを使った分、後で思い出すと長く感じるものらしいです。
Q.時間がどんどんなくなっていく気がします。
A.がんばって時間を使っているのは、時間を増やしているのです。お金の投資のようです。収入を多く生み出すのも長生きできるようにするのも、その努力の結果です。
Q.老害対策は、どう考えますか。
A.若い人のために、次代のために働くのも次代の足をひっぱらないようにすべきでしょう。若い人の助けをする。でも若い人が、そのまた次代の邪魔をしたら、それを変えることも必要だと思うのです。その人の邪魔をするのでなく、その人にアドバイスをするのです。
Q.なぜ、勉強するのですか。
A.学ばないと、周りや社会が迷惑します。迷惑をかけていると生きづらいです。
Q.西洋の教育のすぐれている点は。
A.塾だけでなく、図書館もスポーツクラブも、教会、博物館、美術館、すべて教育の場でしょう。
日本と西洋の違いについて述べます。
日本 世間=状況―時勢に沿って進む。
西洋 理性―法則―状況そのものの作り替えをする。
生花と同じく、トレーナーが、その個性を消すことで、本人の才能が開花するのが、日本の理想でしょう。
Q.自由な創作の前に学ぶとよいことは、何でしょうか。
A.決まりのある芸事です。習字は身体化します。俳句も型で創作力がつきます。
Q.祝の意味は?
A.虫の知らせ 祝うは、はふりとも読み、葬る意味もあります。
邪 禍(まが)は、悪でないのです。
神性の自覚、自己=神 我をとる
Q.このままでは、これからの日本はどうなりますか。
A.少子化、競争なく自立なくとも食べていけると、さらに同質のままになりかねません。内向きは、下向き、そして、後ろ向きになります。
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