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2016年11月

「プロのためのヴォイトレ」(新「研究所案内」) No.303

○バッテリー論☆☆☆

 

 若い頃、100の容量のバッテリーをもっていたとして、それが少しずつ充電(オフタイムと調整)時間が長く必要になり、その蓄えも少なくなると思うとよいのです。10代では何もしなくても100充電できていて100使えていたのに、パワーと持続力が落ちるのは、しぜんの成り行きです。時とともに、そのように劣化するのです。

1.少しずつトータルの充電量が減る。

2.充電に時間がかかるようになる。

3.すぐに低下する。

 なぜ、何もしないで充電できていたかというと、毎日の生活で動いていたからです。日常の活動量がチャージされ、慣れだけでピークに行けた。天然に素質のあるヴォーカリストは、そこが一致していたわけです。

 それが、いろんな要因で崩れてきます。不摂生な生活はもちろんですが、自ずと活動量や心身の力が落ちていくのでズレが生じます。発声、歌唱もそのために無理がかかり、悪循環になるのです。

 それに対して、昔は一人でがむしゃらに練習の量で戻していたものです。そこは、無理、無駄、無用のことも含めて、効率を無視して絶対量で取り戻していたのです。この絶対量に戻せないときに若くとも引退となったわけです。つまり、活動量のキープが、もっとも大きな要因なのです。

 今はいろんなアドバイスが成されています。しかし、多くのケースでは、それこそが、その悪循環を固定することになっているのです。その理由は、少しあとで述べます。

 

○バッテリーについて

 

 バッテリー論を述べたついでに、バッテリーのことを参考までに引いておきます。

1.ニッカド電池:頑丈、500回充放電。安定した放電、連続大電流、自己放電で容量低下しメモリー効果(使わずに充電したら減る)がある。カドミウムが含まれる。

2.ニッケル水素電池:重い大きい、ニッカドの倍以上、充放電できる。(電気自動車、デジカメ、eneloop(パナソニック)などに使う)

3.リチウム(イオン)電池:500回以上充放電、軽い小さい、メモリー効果がない、自己放電少ない、容量大きい、高性能、コスト高い、過充電過放電を防ぐ回路がいる。(スマホなど)

 

○悪循環を断つ★

 

 いろんなところをたらい回しにされて、あるいは、転々と渡り歩いて最後にここにいらっしゃる方は少なくありません。中には、私の本を読んでいたのに、他のところをいろいろと回られて、またここにいらっしゃる人もいます。レッスンも他でいくつも受け、さらに海外に行って、あるいは、著名な人に会って、専門家、医師やプロデューサーにみてもらって…など、多彩な遍歴を経てきた人にもお会いすることが多くなりました。

 トレーナーにもいろんなタイプがいます。でも、一言で言うと、ほとんどが一匹狼、お山の大将です。それに対し、ここは、複数のトレーナー、プラス、外のトレーナーや専門家のなかで体制を組んでいます。

 最初に私が気づいたのは、ポップスのトレーナーの限界、スクールの限界でしたが、さらに医師や専門家の限界と、まさに挫折の連続でした。目標を高くすると、高くした分、大変になるわけです。

 いろいろと回っていろんな経験をすることはよいのですが、それを誰が位置づけるのかがないと、ただの悪循環にしかならないのです。限界は必ずあるのです。それは役割分担すればすむこともあるのです。ここも、声楽家や医師などをうまく活用しています。

 

○声の実力

 

 プロにもいろんな実力というのがありますから、一概に言えませんが、研究所は、声の実力づくりをメインとするところです。歌やせりふは応用として扱います。音声の基本をステージに通じるようにするところです。

 ですから、声の問題の根本的な解決を一言で言うのなら、先に述べた、バッテリーを大きくしていくしかないのです。

 「いろんなところでのアドバイスは活かせなかった」と、ここにいらしたなら、それらは一時、捨ててください。活かせるならそれを徹底して活かしてください。特に理論や分析など、もっともらしいこと、喉やその形状、あるいは、心身に関することで発声に関わる知識は、一度捨てた方がよいことが多いです。そこにこだわっているためによくならないことを、一貫して述べています。「あなたは音感が悪い」と教えられたら音程はよくなりません。医師やトレーナーが研究するのと、声を扱う本人がそれに囚われるのとは違います。何よりも、可能性を追求する前に限界を突きつけられてしまうのは、よくないことです。

 

○器での解決法

 

 ここからはバッテリーを器と言いますが、100の器として、これを回復させるアドバイスは、マイナスを元に戻すだけなので100パーセント成功して元通り、多くのケースは10080、充電して9070、さらに充電して806070506040のようになっていきます。あたかも加齢による体力の低下のような下がり方です。

 ときに、10080100のようになることがあり、問題が解決したように思うのですが、それは下がるのを少し後に遅らせただけです。どちらも現状回復や復帰を目的にしている時点で、成功して元通り、いつもうまくいくわけでないから、いずれ下がるのです。

 そこでテクニックでカバーするか、活動そのものを減らすことを選びます。トレーナーがそれをアドバイスするからなおさらです。

 なぜよくならないのかというと、根本の問題に向きあわず、楽に今しばらくを回避するノウハウだからです。☆それは付け焼刃にしかなりません。これは、衰えるのを遅らせるという方法に過ぎないのです。

 それなら、100100100と保てる方法があるのかというと、一つだけあります。次のように考えるのです。100%80%→50%となるなら、器を100125200とすればよいということです。☆

 この器というのと、小手先のテクニックは全く正反対です。喉の締め方などで高音や声量維持や、さらなるアップを試みるのは、もっとも初期に述べたように器を小さくして早い限界をつくっているのです。もちろん、器を広げるにも限界はあります。しかし、多くの場合、それを大してやらないままにきているのです。つまり、本当の基礎をやってきていないから、大きな可能性があるのです。

 

○回復の限界

 

 医者やトレーナーは失われたところを補充して戻そうとするのですが、それは調整であり、完全な調整ができなければマイナスが生じるのです。プロへのヴォイトレでさえ、この頃は、初心者のカラオケの点数を一日で上げるのと同じようなことしかしていないのです。長期でみるとほとんど効き目がありません。声そのものの問題にはアプローチしていないから当然です。

 理屈で納得してケアされて自信をもち、心身がリラックスした分、回復するという、これは、実のところ、プラシーボ効果です。このあたり、これまでの述べたことと同じです。

 医師としてプラスにすることについては0点、しかし、ヴォーカリストはあまりに基礎を学んでいないから、そのアドバイスが声に活きたら好調のときに近づくのです。それで彼らは治療の目的を遂げます。責任もそこまでです。

 医師の役割はケアであり回復であり、そこに限界があるのです。ですから、それを知る医師のなかには、ここを紹介してくれる方もいます。自分が何でも解決できると思う専門家はしょせん二流なのです。トレーナーは、まだそのレベルにも至っていませんから、彼らについて批判もできません。

 

2つの条件

 

 専門家やトレーナーにアドバイスをもらっても、30点、50点の対策では、何にもなりません。まったくの素人や心身が弱っているプロには、それが効いて解決したかのようにみえるので困るのですが、そこでは、フィジカルトレーナーやメンタルトレーナーにつくのと変わりません。いや、マッサージや整体師の効果のようなものです。

 それでは、声においての100とは何なのかということです。器×効率、これを、私は声の芯×共鳴と置き換えて説明しています。鐘ならきちんと突いて音にして、その響きを邪魔しないということです。本当はその2つが伴ってこそ発声は向上するのです。なのに、相変わらず、日本では共鳴オンリーです。それはどうしてなのかというと、声は変えられないと思っているからです。

 

○声を変える

 

 私は、「ヴォイトレは声を変えること」と考えています。そこは当初から述べています。ただし、声を変える必要を感じない人には不要、いうなれば、ヴォイトレも全ての人に必要とは思っていません。しかし、ヴォイトレするというなら、そこからということです。

 そう絞り込まないと、なぜ一流の歌手や噺家にヴォイトレができているのかわからなくなります。声楽も、そのトータル条件となると目的が異なるので、ここのヴォイトレは、声楽の基礎のところに重なる、ゆえに分担をしています。このあたり、声をどのようにし捉えるかをしっかりと確立させていく必要があります。

 

○芯と共鳴

 

 芯―共鳴とは、基礎―応用ともいえます。私のヴォイトレのメニュでは、「ハイ」―「ラララ」です。「ハイ」といえないところでは歌えない、が判断の一つですが、日本のプロの歌手には必ずしも当てはまりません。声楽家でさえ、分けている人の方が多いでしょう。でも一流なら区別しません。語りのなかで歌い、歌のなかで語ります。

 共鳴は、使い方、技術です。そこでは、弱い声でも響かせ遠くに伝えられます。そこから入って、芯を確実にする、そういう方向が声楽の正道のようです。発声-共鳴の結びつきをつけていくのにわかりやすいのは、確かに声楽のメリットです。まとめておくと、

基本:器 芯 「ハイ」

応用:効率 共鳴 「ラララ」

 この辺りは、私はデビュー本に、100の器で70パーセントで歌うのと、200の器で50パーセントで歌うのとを比較しています。その結果は70100、器づくりが大切、優先というようなことを、この通りではありませんが、声の器の必要性、いや、有利なことを述べています。ずっとそれを通してきましたが、世の中も、ここにいらっしゃる人も、トレーナーも、ヴォイトレも、時代とともに変化していったのです。

 

○変わらないもの

 

 とはいえ、相手に合わせ、現状に合わせ、求められることに合わせて応用していっても、基本は残るのです。なぜなら、私の基本はそこにあり、それは体についた声ですから、離れようも疑いようもない、そして、どの分野でもそこを活かした一流の人がいるからです。

 ただし、歌の声に関しては、日本において劣化が著しく、まさに応用しかなくなりつつあります。研究所にいらっしゃる7割の人には、トレーナーが声楽のベテランで、役者、声優から一般の人の声を熟知している人であれば充分に務まります。つまり、他のスクールでも、すぐれたトレーナーには、そこをもっている人がいないわけではないのです。

 

○担当をする

 

 プロが10人いるとして、その担当は

1人 私だけ

2人 (私と)ここのトレーナー

3人 ここのトレーナー

4人 ここのトレーナーと他のすぐれたトレーナー(医者なども含む)で割り振る

 で、計10名、こんな割合でしょうか。

 ここのトレーナーは、共鳴とともに芯を重視しています。呼吸や発声、共鳴での器づくりをできるのは、マイクのないところで鍛えられた声楽家や邦楽家の強みです。そういう基本は、万人に有効ですが、トレーナーによってかなり違います。また、いらっしゃる人のタイプ、レベル、目的にうまくマッチングさせることが問われます。そこで、私の役割もまた、総合的にみるコーディネーターになりつつあるのです。

 

○本当の問題は、一声

 

 私が「アー」という一言、一声の違いに気づき、海外の人との差から、研究所を創始したことは述べてきました。私の幼さで、最初は、声のパワーの違いしか理解できなかったとはいえ、そこは伝わるということなのですから、必ずしも間違ってはいなかったわけです。声のなかで声量はベースであり、ヴォイトレのコアです。なんといっても、声が聞こえなくては、歌もせりふも伝わらないのです。

 しかし、声量そのものが器ではないし、声の大きさや強さが歌ではありません。特にここが、日本人の歌から、役者や声優、アニメよりも洋画吹き替えに需要が多くなっていったのもわかります。

 

○分野、ジャンルをはずす

 

 いろんな考え方がありますが、本当の基本は、分野やジャンルを超えるのです。それが、この30年くらいの日本における、お笑い芸人の声力の強さとあらゆる分野への進出です。

 歌手や声優でなく、その人一人の人間のレベルで捉えなくては何ともならないのです。なのに、あらゆる動きが現象だけに左右されていっています。それをみている本人やその背後にあるものでなく、森でなく木を、トータルでなく部分を見てしまっているのです。ですから問題の捉え方からレベル、次元を変えなくてはいけないのです。

 つまり、今問題としていることは本当の問題ではないのに、それに囚われているからどうにもならない。仮にどうにかなっても本当には解決しないということです。

 問題の取り上げ方が間違っているとは言いませんが、先に限界を設けて、その中で行ううちに、本来の可能性を狭めているのです。

 目的を、ピークの力に戻してそれでくり返すだけにしている、ということです。次元、レベルを上げていかなくては、必要性、目的を高くとらなくては大きく変わりようもないのにです。

 今そこに限界を続けてどうするのでしょうか。私の、早く限界にする、というのは、もっと先に最高のレベル、心身を使い切ったところでの限界です。そこでの問題を解決して次元をアップするというところなのです。くれぐれも学校のテストと実社会の問題を混同するようなことはしないでほしいのです。

 

○効率と優先度

 

 効率化というのは、日本人の得意とするところです。元より、加工業で発展した国、基礎部分より応用のうまかった民族です。

 声の効率化の一つは共鳴です。私は「共鳴の専門家は声楽家」と言ってきました。が、民謡や声明、詩吟、長唄と、およそ節といわれるものを扱う専門家は、共鳴を第一にしています。

 元より、芯と共鳴も、発声と共鳴もどこで分けるかというとイメージでしかない。ことばのなかで母音は、共鳴の中に含まれるものです。ハミングや一部の子音もそうです。となると、呼吸の吐気と声のところに音が成り立っているかでわかります。ささやき声、ため息、くしゃみ、生理音は分けておきます。

 要は効率なのです。最少で最大の効果を上げるということです。バッテリーなら最小にして、軽いのにすぐ充電できて高出力、長時間もつということでしょう。安く早く大量に生産できるとしたら生産効果率大、簡単に安く長く使えるならコストパフォーマンスがよいのです。期間、楽さ、パワー、持続時間、どれを優先するかでも変わります。

 

○日本のヴォイトレ

 

 日本で最も変わってきたのは、芸とは10年どころか一生かかるものであったのに、それを早く一定の水準までを目標にし出したところです。そこでプロといえるようになったこともあるでしょう。有名大学に入ればOK、有名企業に入ればOK、アナウンサーはTV局に入れば、すぐになれる。年齢優先の日本においては、「早く」が元より大きな価値です。ですから形から入り、そのまま応用で現場に行くのです。

 もう一つは、見えることに囚われることです。すぐに高い声、3オクターブ、カラオケで○○点とれる、など。歌では、声域や高い音に届くという、声楽ならともかくポップスなら無用の価値観がはこびりました。(ポップスはkeyが自由なのですから、自分で移行したり編曲すればよいのです)声域もそれなりにあった方がよいとしても1オクターブそこそこくらいで充分、まるでクラシック(他人の作品を、その時代のものとして、そのまま歌う)です。

 かつて、声の大きい人が歌手や役者、アナウンサーの条件だったのですが、その後は、あまり声量や共鳴に問われず、他の事の方がテクニカルにノウハウが高まったこともあります。☆

 

○声の音色

 

 声の音色は、その人の生まれつきのものとしてタッチしなかったのも大きいと思います。発音(ことばの読み)、音程(音高も)、リズム、この3つが歌の基本要素ですが、昔はプロのなるレベルでは、アイドルを除いては、音色の魅力であったのです。

 一方で、ヴォイトレは、ポップスでは、メロディが覚えられない、楽譜が読めない困った歌手やアイドルの即興にピアノ伴奏のうまい作曲家が教えていたわけです。未だ、ヴォイトレの条件は、そのあたりがわからない人の補助のままにきているのですが…。

 ここまで、声を変えるとか、共鳴と芯のこととかを述べてきました。それは即ち、音色ということになるわけです。ヴォイトレは、音色においてのトレーニングなのです。しかし、音色は、声色、声質など、いろいろと言い替えられますが、実に捉えにくいのです。私は、100以上の音色を声のマップとして発表してきました。参考にしてください。

 

○共鳴の効果

 

ここから、再び、音色の加工法として共鳴に戻して追及していきます。声を×2、×4、×8、×16、別に2乗でなくてもよいのですが、倍々に響かせるには、邪魔しないことです。発声した時点で共鳴は生じていますから、呼吸量=1で1の声と限定します。長く響かせるのには呼気で長くするのですが、そこで関わってくる要素は、声量=声の強さ、声域=声の高さ、発音、長さ=ビブラート、これは歌唱での長く伸ばすときの音の効果的な動きとなります。

 シンギングフォルマントということで、音色から共鳴を調整してオーケストラを抜けていく倍音成分の構成をつくるのは、オペラ歌手の必修です。テクニカルなようにみえて、ビブラートに似て、正しく、あるいは深くできていくと、しぜんとあるところまではよくなっていくのです。その前にもっともよくできる発音で、もっともよく出る音の高さで伸ばしてみることが共鳴の第一歩です。ハミングなどを使います。

 

○待つ

 

 大切なことは、共鳴をさせるのではなく、共鳴しているのを使って発声をしっかりと支える呼吸を育てることです。芯を確保して、体-息―声を一本化させること、そのズレをなくすことです。☆

 共鳴について、あててはいけない、当たるのを待つ、共鳴させるのでなく、共鳴するように、述べてきました。

 結果として、よしとすることを、先に結果をもってきてそのように固めるのは却ってよくなくなります。(ジラーレなど発声の技法などのデメリットについても同じです)☆

 天性のヴォーカリストが歌っているなかで伸ばしてきたのは、効率・効果よりもパワー・器であったはずです。器が小→大へ、元より大きかった人もいますが。それが器の限界によって効率化、つまり技術でカバーしようとしたときに、器が固定され、どちらかというと、そこから小さくなるのです。

 つまり、100パーセントの出力ではうまくいくわけがないから、70パーセントで同じ出力のようにみせる、それが技術でもあるのです。そのうち、歌が声に頼らないでステージパフォーマンス力でみせていく方へ行くのが、多くのパターンです。つまりは、シンガーからエンターテイナーに、です。

 一流の歌とカラオケやディズニーランドの歌との区別のつかない人、アートよりエンターテイナーとして歌を取り入れてきた人、また、そういうのを期待するお客がファン層なら、この移行は早くなります。

 

○音響や技術に頼らない

 

 音響は使いようによっては、歌い手の実力、特にパワーを損ねます。技術任せのところがあります。本来は、さらにパワーアップさせるものなのに、パワーダウンさせてしまうのです。パワーダウンしてももつように、カバーの手法として使われるようになってからは、なおさらです。☆

 マイクのリヴァーブ、アレンジや伴奏、ヴィジュアルなどの演出要素、装置なども補助であったのに、メインになりつつあるのは同じようにみてよいでしょう。

 私は、ヴォイトレでの声はアカペラ、マイクなしで問うことにしています。歌もそこをベースにしています。ヴォイトレですから。エレキの力で身体の延長というならともかく、最初から身体を離れて拡大させたら本人もわからなくなってしまうでしょう。となれば、発声技術も同じリスクをもっているとみるべきなのに、なぜそこに気づかないのでしょう。

 

○つくらない

 

 なぜ、声楽○○年の人の歌がポップスの若い歌手に負けてしまうのでしょうか。これは分野や価値観、好みではありません。多くの場合、声や歌をつくりすぎているからです。その人の声のようでいて、その人のものでないからです。それでよいと思っているからです。本人が歌に負け、歌を超えられないのです。オリジナルの声がメインになれば、歌い手の実力差はなくなっていきます。個体の違いになるからです。

 

○不調時のための技術

 

 結論としては、技術は、不調のときにその場を凌ぐのに使うものと考えるべきです。☆

 その点では、私の述べている調整のヴォイトレにあたります。不調時にプロとしてみせるためには、1.体力、ステージに立てることです。2.声力、器、大きいこと、鍛えて底上げしておくのにヴォイトレがあると述べています。3.技術、と私の手順は、不調時といえどもこの順番です。

 すごく客のレベルの高いところでは1だけでは通じないのです。体力があっても声力、歌力がなければキャンセルです。日本の観客は、聴きに来るよりも会いに来る人が多いので、特別に甘いともいえるのです。

 

○遅く深く

 

 器が大→小、これを効率を高くしてもたせる、これが、技術を学ぶことの意味ですが、私の優先順では最後です。効率化で早くうまくなるというのは、本当の芸が遅く深くあるのと反対だと、何回も論じてきました。

 早くということが、レベルが高く深くなる条件として、早熟であることという例はよくあります。芸能の世界でアーティストは、幼い頃から始めていることが多いのです。そのメリットは、膨大な無駄、無理ができて鍛えられること、多様性がもてることと思います。

 声は時間がかかるものです。歌やせりふは一日で変わっても、声は一日で変わりません。体だからです。しかも、声変わりという難問があります。

 

○早熟の限界

 

 早熟であっても、器は(大)→小→大、としていくことです。これは、大人の体になって、以前の声が合わずに小さくなったというのを元に戻すのでなく、さらに大きくする方向にすることなのですが、多くは忘れられているのです。

 早熟なヴォーカリストの例では、若い時の(大)は、基礎も技術もあったのではなく、感覚で体が一致していた、長いビギナーズラックだと見た方がよいのです。ですから(大)と()に入れ、小になったのでなく、その一致でしか(大)でなかったのが小に戻った、そのために、ほとんどの人は、二十歳過ぎたらただの人状態になるのです。

 変な例えですが、それではオペラやミュージカルの主役級のオーディションを通るのは難しいということです。これも、よい例ではありませんが。

 ともかく、表面的なもの、理論、説明やちょっとした実験、小手先のマジックに気を取られるのでなく、本質がよみとれるのかが、全てなのです。そこを学ぶべきなのに、あたふたバタバタと、声を、そのキャリアを蓄積するのでなく、疲れては休むことだけで、ただ浪費していませんか。

 

○出口からみる

 

 共鳴-発声―声の芯と捉えるのはシンプルでよいと思います。☆

 歌からチェックしてみるのは出口、目的からの見方です。これは今の私には必要です。

 歌からしかみないトレーナーと体からしかみないトレーナーについて、以前に対比しました。そこに到達レベルを合わせるのでなく、そこがらくらくとこなせるところへ、その条件において、必要なものを身につけて基礎とするのです。

 ある音に届かせる目的の人と、その音で表現する人では、伸びしろが違います。あるいは、オーディションにギリギリで通ろうとする人と、そこの主役を目指し生涯トップで活躍しようと思う人では、毎日のトレーニングが違ってくるでしょう。イメージ一つ、考え方が大切という例えです。

 で、歌からチェックすると、歌が雑になるので、完全なロングトーン、完全なレガートを第一の目的の結果とします。もっともよい高さ、大きさ、長さで音色をベストに伸ばすと、呼吸とビブラートの力がみえます。歌でも原曲無視で、テンポとキィはもっともよいところで、できたら低くゆっくり目で、声を養うつもりでくり返すようにしましょう。

 

○基本フレーズでのメニュづくり

 

 歌唱のフレーズでの基礎は、メロディのついたフレーズ(4小節)ですが、発声ならロングトーンでよいと思います。(「メロディ処理」は、拙書参照のこと)これで歌と声の基礎力もわかります。これをパーフェクトにしていくことを目的というよりは、プロセスで踏んで欲しいと思います。すると体―呼吸の大切さも必要なこともトレーニングも、その意味もわかってきます。歌や発声でなく、それで歌や発声のための呼吸、体を身につけるのです。

 具体的にというなら、

A. もっとも出しやすい音高

B. もっとも出しやすい声量

C. もっとも出しやすい母音(子音をつけた方がよいことが多いので、子音+母音でよい)

D.もっとも出しやすい長さ

ロングトーンですから、長さを5秒、10秒、15秒と変えましょう。

 「アー」と多分1音の母音はけっこうやりにくいです。5音くらいをレガートで続ける方が楽です。高いなら「マーマーマーマーマー」低いなら「ガーガーガーガーガー」。各音の結びつきで切れ目が出ないようにしましょう。

 メトロノームに合わせ、各音、2秒(計10秒)、3秒(計15秒)、4秒(計20秒)、としてみます。この辺りは、基本メニュとして他に詳細に説明してあるのを参照してください。

 a高さ、b強さ、c発音、d伸び(長さ)とすると、特にabの掛け合わせで大きく変わります。高くなるとcでも変化は見えやすくなります。長く伸ばすと、もっとわかりやすいでしょう。

 これを徹底していくと10年は課題に悩みません。課題は力をつけるためですから、できなくても悩まなくてよいのです。こなしているうちに、こなせてもこなせなくても力はついていきます。課題をこなすことでなく、力をつけることです。☆

 こんなことさえくり返し述べなくてはいけないほど、指示待ちの人が多いのです。課題からつくらせる、それをつくる力をつけさせるのが、私の方針です。☆

 

○パワーダウンの理由

 

 発声のメニュをこなすのに発声の効率は欠かせません。もっとも、早くできるようにするなら「声を小さく丁寧に」とトレーナーは教えるかもしれません。それでできたとしても、できたのではなく、それは声量のマイナスの上にトータルバランスを変えただけです。

 いちいち一喜一憂して小さいことに囚われず、淡々と、黙々と続けてください。

 ヴォイトレも基礎の力、地力や底力がつけていくのでなく、調整し、テクニカルに解決して行く方向になりました。それが最近はヴォイトレのメインのように思われているように私はみています。そんなヴォイトレばかりだから、パワーダウンして器も小さくなり、声は当然、歌の魅力も失われるのです。

 しかし、日本では、声のないのを固めて、音響の力でプロデュースする人が主流となって、こうした基礎がなおざりにされています。固めてできるなら、それでよいでしょう。くせのついた声は、他の人がまねるとリスクは大きく、得られるものは少なくなるのです。本人はよくとも、その声や歌に憧れる人は少なくなります。日本の今の第一線のプロ歌手が、声としてヴォイトレのよい見本にならないのはもどかしいくらいです。結果として、歌のレベルや歌手の地位を下げていることになるわけです。

 

○ハスキーとシャウト

 

ハスキーな声に憧れて声の状態を悪くしてしまうのはよくある話です。クラシック風を嫌い、ロックに憧れる人なら当然です。特に海外の、です。

 シャウトについての勘違いがそこに拍車をかけます。要は、芯がない、浅い声でのシャウトは、生声ですから、共鳴、効率が悪く喉に負担をかけ、ロスをする。ですから、とても大きな器があるか、そうでなければ、芯のついた声での最小の負担にするコントロールが必要なのです。効率よく声になっていないのを動かすのは、遅かれ早かれ、喉にも声にも限界をつくり、バッテリーを消耗させます。

a.声の芯あり 深い声 シャウト 共鳴あり ハスキーヴォイス リスク小 

b.声の芯なし 浅い声 どなる、がなる 共鳴なし 生声 リスク大

 それゆえ、海外のロックのシャウトは、オペラ歌手との共演も可能とし、オペラの曲さえこなせるのです。(マイクを使ってですが)純粋な共鳴の声量では、オペラ歌手にかないませんが、感情表現や声のコントロール、伝える力では負けていないのです。

 日本語では浅くなりがちですから、声の芯を捉えておく(このケースでは、声のポジションと言う方がわかりやすいでしょう)、そこで深い日本語に深い声でする、芯を得てから動かす点では、これまでの自論で述べた通りです。

 

○一般的な声

 

 日本人に声の芯が全くないのではありません。ただ、幅が狭く、それを応用できないのです。会話では、声を高めに浅く出して、息をあまり使わないからです。

 歌唱で共鳴(頭声)だけにするタイプ(b1)と別に、ハスキーあるいは息の声でつくるタイプ(b2)は、スタイルとしては全く別のようにみえます。しかし、芯がない、胸声や呼吸の支えに欠ける点ではよく似ています。

 女性では裏声だけで歌い、話す人もいますから、前者(b1)は女性ではよくないとはいえません。むしろ、日本では一般的です。女声コーラスなどにもみられます。透明なきれいな声でもあります。個性や感情表現に向いていませんが、ヴォイトレでも、その声で比較的よく行われています。目標とするレベルも、そこへのプロセスもわかりやすいからです。どちらかというと、個性のない声で、ミュージカル俳優の歌声、ハモネプ、合唱団、唱歌の類です。あくまで声だけのことで、皆、似てきます。むしろ、ルックス、表情、演技での個性をファンは評価するのです。日本らしいところです。

 私が初期にアンチテーゼの対象としていた、このあたりの見方については、たくさん述べてきたので、そちらを参照してください。ここでは、b2の息でつくるタイプについて述べます。

 

○鼻息、ハスキー声の問題

 

 ポップスでは、マイクが使えるのでウィスパーヴォイスでも伝わります。しかし、それは応用として考えた方がよいでしょう。息声、ささやき声は、声にしないために声帯は休まりますが、喉は動くので疲れます。声にしない分、共鳴効果はゼロですから、力が入ったり乾燥したりして痛めることもあります。

 メニュとして、息で読むことを勧めているトレーナーと、それに否定的なトレーナーがいるのは、そういう考え方の違いです。目的が違うのです。そこを理解せず正誤を考えても仕方ありません。

 私の基本ルールは、どのトレーニングにもメリット、デメリットがあるということです。メニュでなく使い方によるということです。どのトレーナーにもよいところも悪いところもある、それを知った上でよいところを活かし、悪いところに囚われないことです。(一時、悪くなってもすぐに気にしないこと、ヴォイトレは必要悪と私は述べています)☆

 で、日本人の最近、といっても、ここ30年くらいのハスキーは、つくり声の場合が多く、この息声のような問題をはらんでいると考えるとわかりやすいでしょう。

 「息を声にする」というのを、これまで発声原理の声の“発生”で述べてきました。普通に「息が声になる」のを意図的に考えると不自然、作為的であるのです。

 共鳴する母音に対して、共鳴しない方の子音、無子音、kstなどです。カ、サ、タではありません。「s―」は息のトレーニング、「z―」となると声のトレーニングです。

 つまり、声になる息はよいのですが、声にしない息はリスクをもちます。前者の息は声の基本ですが後者のは声の応用です。

 簡単に言うなら、ハスキーな歌声は、健康的な声帯なら、ワンクッション加工しているということです。フルスイングのフォームで打つところをハーフスイングでボールに当ててしまった。イチローのように、フォームのなかで微妙なコントロールができるレベルならよいのですが、プロのなかにでもそうはいないでしょう。それをまねるとぎこちなく、中途半端になり、そのふしぜんなフォームは、腕とか腰とか、どこかに部分的な負担をかけて痛めたりするリスクを生じるということです。要は、体の原理に合っていないのです。合わせるには、よほどの基礎がいるということです。

 

○振付と声

 

 声を中心に考えると、声が出やすいように体が動くわけです、それを「芯→共鳴の発声の原理」とします。感情を伝えたいときは、そういう声が出やすいように体が動いているわけです。同時に生じることですが、先に表現のイメージがあって、体と声がそれに従うのです。

 たとえば、「誠に申し訳ありません」と言うと、体は申し訳ない動き、声は申し訳ない響きになります。もっとストレートな感情、例えば、ガーンとぶつかり「痛い!」、鉄板に触り「熱い!」と言うときは、イメージもなく条件反射として声が出るわけです。

 このように、動きと声は結びついています。ヴォーカリストのアクションもそういうものであったはずです。声の延長上に動きがついていったとしたらしぜんになります。その動きを止めると声が出にくくなります。つい先日、TVで「五木ひろしの振り付けをつけると、カラオケの点数が上がる」という裏ワザを放映していました。秋吉久美子さんでした。

 

○演歌

 

 歌手の東海林太郎の直立不動は、極端としても、声楽家がポップス歌手になったとき、発声、歌唱を中心とした最低限の振りだったのです。今の秋川雅史氏よりずっと少なかったです。

 それが歌詞の内容をも伝えようと演出が入ってきて、さらに、決めポーズなど見せが出てきます。歌唱に影響のない範囲で許されていたのものが、少しずつ切り離され、振付の専門家がつくようになります。

 例えば、その人がライブで歌うようにしてレコーディングしているかと考えると、声と結びついた動きがどうかはわかります。声優さんが動きながら吹き込みしないのと同じく、美空ひばりさんとても録音の時に振付はしなかったはずです。ですから、そういう振りは見せかけです。もちろん、録音の条件として動くとぶれたり、他の音が入るという制約もあります。

 五木さんはどうなのでしょう。あのポーズでレコーディングはないでしょう。直立不動でもないはずです。

 

○ダンスと声

 

 歌がエンターテインメント化してヴィジュアル化されたというのは、シンプルにはTVですが、PV(プロモーションビデオ)でのマイケル・ジャクソンが徹底させたということでわかると思います。日本でもダンスミュージック、いや、ダンスをしながらの歌のステージが当たり前になってきました。

 振付師はマイクを持つ手のことは考えますが、あとは音楽と体とコラボさせているのでしょう。歌のリズムや一部サビなどの構成とリンクはしますが、発声や共鳴などまでは考慮していないと思われます。ハードな踊りになると、歌は口パクで音源のを流すわけです。ダンスパフォーマンスでみせるステージングは、なおさら、個人としての声の重要性がわかりにくくなります。

 それなら、喉に支障ありませんが、ハードな振付と歌うことは両立はしがたいのです。呼吸が乱れるからです。大体は、どの分野も、声は映像に合わせ後から入れるというのが主流になっています。

 本格的な歌い手ほど、声やことばを重視して最低限の動きでパフォーマンスを押さえることになります。これもバランスをどこに置くか、個性、売りによって違うのです。

 ヴォイトレからは声を中心、共鳴中心、喉の負担最小を基本とします。すると、声量を出さないでリスクを避けるとなり、それをことばでカバーする。となると、ことばも歌えて共鳴できるところ、楽器的な処理ができるレベルならよいのですが、大体は、このプロセス全体がロスになります。

 

○朗読、MCと声

 

 よく、初心者に、「声は出さいとだめだが、話をしすぎてもいけない」「ことばでなくハミングや共鳴の発声練習をしなさい」と言うのも、話が声をロスするからです。

 普通の人が話で声を鍛えること、コントロールすることはかなり難しいのです。しかも、相手がいるとふしぜんになりかねず、心身に余計な妨げが入るのでよくないことが多いのです。

 といっても、全く声を出さない生活をするよりはずっとましです。

 声のためには、例えば、歌ったあとの朗読はよいですが、逆は難しくなります。特にMCでのシャウトなどは、盛り上げるためとはいえ、声にはロスです。コンサートの後の握手会の会話、もっとも声を休ませる必要のあるときに非情です。

 本来なら、昔のようにMC役を専門につけ、歌手は歌に専念したいものです。それがMCでステージが判断されてしまう、しかも、歌の間内容の補充としてのMCでなく、世間話や楽屋話のMC、という日本のステージはかなりおかしいのです。MCの間が歌に入る、さだまさし型ばかりなのです。彼は元より噺家志願のヴァイオリニストでしたから。

 

○よい表情の笑顔で歌うのか

 

 ついでに、表情づくり、これも、声の発声、共鳴とリンクします。感情表現では表情も変わり、それに合った声も出ます。ここは応用です。それと発声、共鳴の基本は違います。

 歌は笑顔で歌うと教えられてきた人は、そのメリット、デメリットを知っておくとよいでしょう。口角が上がり明るく響く声が出る、歌も笑顔もポジティブ、前に人に働きかけるよい印象を与えるレベルでは一致します。

 ですから、表情筋のトレーニングを体の柔軟運動のようにするのはメリットの一つです。必修ではなく、あまり動かない、表情の硬い人のメニュということです。私の本のメニュにも、一般の人用に入れています。アイドルでもなければ、歌手は常に笑顔で歌っているわけではありませんね。つくった表情はあまり発声の理想と結びついていないことも多いのです。

 

○表情の振付

 

 笑顔は、表情の振付ともいえます。メイキャップとも似ています。歌唱力+ダンスでなく、ダンスで歌唱力を補うのと同じく、表情で歌唱力を補うようになってしまっているのです。

 私のヴォイトレは、無表情で行ないます。応用は魅力的な表情ですが、ベースは自由度の高いポーカーフェイスのはずです。

 基本だから表情がおかしくても、声が出やすいことを優先します。人によって、プロセスによって、メニュによってはポカーンと口を開けて言ったり、脱力したアホな顔などの方がよいときもあります。

 こういうベースラインをつくるという考えを母音でも例えてみます。声からみて、応用とは、ア、エ、イ、オ、ウを明瞭に区別する発音とすることですが、基本はもっともよい発声に全ての母音を揃えていくこと、つまり、発音は不明瞭になってもよいとするのです。

 

○遠回りをする

 

 長期的にみて、本当の基本づくりをしているトレーナーを、そうでないトレーナーが否定するのは簡単です。トレーニングをしたら 

1. 発音が悪くなった。

2.高いところが出にくくなった。

 音程、リズムが悪くなった、のりがなくなった、暗くつまらなくなった、カラオケの点数が下がった、裏声ファルセットが…、その切り替えが…、声量が…、何とでも言えます。でも、声そのものをトレーニングしているときに、それ以外のことも同時に必ずしもキープできるとは限りません。むしろ総合的バランスをとろうとする限り、大きく変えようがないのです。

 ですから、多くのトレーナーは、ここでよくなくなったということがないように考えてやらざるをえません。それぞれ少しずつよくする、応用で応用力をつけようとしているのですが、それは、歌を歌うことで直そうとしていることと同じなのです。

 歌っていない人は、歌ったら慣れた分よくなり、慣れた分、限界がきます。そのまま無理したり、そのくせを少しとっても12割よくなって頭うち、早くよくなってそこで伸び悩むと、述べたとおりです。

 

○歌でなく声でみる

 

レッスンにいらっしゃる人には、次のことを尋ねます。

 急ぐのか、時間をかけるのか、元に戻すのか、さらに上に行くのか。その上で、本格的にか、趣味か、など。ミュージカル 声楽(オペラ)との関連もつけます。

 歌い切った人は、その限界からスタートですから、却って開き直してゼロからできます。ですから、あまりやっていない人は早くやって壁にぶつかってから来ていただくか、そういう無駄をせずにここにきて基本から取り組むとよいのです。

 声をよくするのがヴォイトレ、それは歌をよくするのでなく、結果、よくなるのです。それをハイレベルにしたければこそ、トータルの歌って歌をうまくするところから部分に絞り込むのです。

 試合だけでうまくならないから各要素の強化練習があるのです。しかも、その人によって優先すべきことや重点とすることがあるのでしょう。それを声、体―呼吸―共鳴に求めているときに、なぜ、他のことを介入させ、複雑にして、どれも中途半端にするのでしょうか。それは、表面に見えることだけのよし悪しで判断して本質的なことを捉えていないからです。

 わざわざヴォイトレをするなら、歌っていればうまくなるはずの歌でうまくいかないからこそ、ヴォイトレという必要悪に取り組むなら、本当に必要なものを手に入れてから、他の要素を再び整えられたらよいのです。

 声が変われば歌どころか、発音もリズム、音感、メロディのこなし方も感覚が違います。マイクを使うことを、第二の声帯と言う人もいますが、それ以上の変化を第一の声帯に起こすのです。(正しくは、声帯は変わるもので、楽器として身体ということになります)

 

○再現性とタフな声

 

 くり返して同じにできること、私は1日に12時間以上の個人レッスンを教えていて、自分がレッスンに通った時よりも声が鍛えられたと思いました。まさに、日常が声を出す毎日でした。そのときにわかったことがあります。よい声と、強い声、タフな声、ハードに仕事に使える声は違うということです。もしかすると、日本では、よい声が歌声、タフな声が仕事の声という仕分けなのかもしれません。

 そのときから今に至るまで、私が使っているのはタフな声です。ヴォイトレのトレーナーですから、それが声の見本と思われる人もいます。出来上がってしまっているので、私としては、そのなかに働くシステム、つながり、系を感じて欲しい、そこは同じなのですが、出してくる声は応用されてしまっているので、TPOで違ってしまってもいるのです。

 

○オペラの声

 

 オペラ歌手には、それを地で出していて、いつもオペラの姿勢でいる人もいます。発声のトレーナーにもいます。欧米では、その姿勢、発声は、日常ベースですが、日本では日本語の発声ポイントが違うので違和感をもつ人もいます。

 声が立派すぎるのです。つまり、響き、大きく鳴るイメージです。私は、謙虚でシャイな日本人のまま、日本では生活したいので、やや猫背に、普通の人の域に浅くしていますが、それでも人よりは響いてしまいます。いわゆる役者のベース、声がよいといわれる人の要素が入ってしまうのですね。

 アンアンのアンケートでは、今のよい声の代表は木村祐一さん、少し行きすぎると麒麟の川嶋さんの声です。

 オペラ歌手や邦楽の歌のポジションもとれます。深くを浅く、胸声を頭声、ときに鼻に、共鳴のバランスを変化させたらまねられるのです。深いポジションを喉声とか、押しつけたと捉える人が日本には多いのですが、それはイメージでまねてみてできていないものを無理にそういう深さにしようと、自ら押しつけるから、そういう感じになるのです。その人をまねたり感じるのが喉声ですが、私や深い声の役者、オペラ歌手は全く違うのです。ちなみに、基本がなければ、その声を8時間、いや、23時間も使ったら声がおかしくなり喉がもたなくなるでしょう。私たちは、一切変わりません。腹筋などの支えが疲れるのですが、それこそ「喉でつくってない」ということです。

 

○固めるな

 

 再現性の判断で、もっとも間違いやすいのは、深ければ何回も同じようにくり返せるということが、逆に何回もくり返せたら正しいと思われることです。例えば、声量をミニマムにしたら30分、もたない発声でも、何時間ももたせることができます。同じ声でということを意識すること自体、基本に基づいた声となるよりも、固めてつくった声になりやすいのです。わかりやすいのは、声量のある声、通る声で、ずっと何時間も通せるかということでみるとよいでしょう。

 私が歌声ということばを使うときは安定するために固めすぎているという、よくない意味のことが多いのです。先に述べた、クッションを入れて、息声でせりふを読むのに似ています。

 確実性をとると、コントロールもされている出し方ができるのですが、一体ではないのです。体や呼吸とともに育っていく声、可能性のある声でなく、限界を設けてその手前で切り取った声なのです。極端に高い声とかハイトーンで3オクターブ以上の声がすぐ出るなどというヴォイトレは、これを狙ったものです。多くのトレーナーや本人は、そのような声が正しい発声で解放した声だと思っています。もちろん、それまで、もっと喉で固めた生声を出している人は喉を解放し、共鳴に固めたのですから、解放感はあります。共鳴を固めるは、焦点の絞り込みということでは、一時、ヴォイトレの目的になるのでややこしいのです。

 カラオケなどなら明らかに上達したようにみえるからです。そこからのアプローチが有利な人もいるので、さらに応用のようなファルセットや裏声からの入門も私は否定していません。しかし、そこが目的であると、響くだけの声を響きを抑えた声にしただけで、特にことばやリズム、強弱、つまりメリハリの方で限界になるのです。いわば、表現力の支え、本人の個性のよりどころを失っているのです。

 

○くせについて

 

 固める―解放する

 喉―共鳴、頭声

 歌声のくせ声も、話声のくせ声も、どちらもくせというのは、部分的に固めてそこでの処理はできる、しやすくなることもありますが、自由度、応用度を失うということ、つまり、限界がみえる、切り取りなのです。

 歌はそういうものだ、その時点でまとめて作品にするものだ、という考え方もあります。作詞作曲とのコラボですから、別に音色や偏りが個性、魅力となっても売れることもあり、売れるなら人の心を捉えているともいえるのです。

 しかし、本当に再現性のきく発声こそが基礎であるのです。そこで再現しやすい歌声という固め方を学ぶ、その技術がヴォイトレと思われているとしたら残念なことです。日本のプロではそのタイプが大半です。  

 日本は日本語の問題があるので、しぜんな話し言葉と歌がリズムも含めて異なるため、あえて、固めてつくって、その範囲で動かす方が安定し、心地よくもなります。

 そのセンスに秀でていることで、桑田圭祐さんなどは評価されると思うのです。彼の日本語はそういう固めたなかでの音楽的日本語です。(だから見本として、お勧めしてはいません)私の述べてきた、目指すべき音楽的日本語とは異なるのですが、口内での音楽的日本語、音楽的発声です。ここで音楽的というのは、音声としてのことばより音楽を優先させたということです。歌と切り離して声だけでみなくてはわけがわからなくなるので、声、ヴォイトレを区切っているのです。

 

○一体化した声

 

 私は「体が動いたら声になっている」のを理想としてきました。そこには呼吸―発声がありますが、呼吸法、発声法は、身体化されてみえません。器が大きいからミニマムでマックスが出るしコントロールも自在なのです。それが歌までいくと、話して語る、つぶやくように歌える一流歌手になれるでしょう。

 日本で語るように歌う人は、必ずしもこの体―声の上に乗って一体化していません。もしそうなら、叫んでも、誰よりも声を届かせられるでしょう。大体は、声域確保、共鳴(それも頭声だけの)オンリーでこなしているのです。ただ自分の感性とそれに合わせた曲づくりの才能で一流なのです。

 ハスキーヴォイスも、日本のケースでは、一体でないから、お勧めしていないのです。応用でみせるものが基礎のなさで出てしまっている、そういうややこしい判断です。

 そこで、私のいつも述べている、体→表現と表現→体の行ったり来たりの流れを再び確認して欲しいのです。元より、一体のものをトレーニングをするのに区切ったものです。そこでうまくいかないことに頑張って固めて狭くするのでなく、うまくいっていることを最大限に伸ばして解放し、広くする、そういうふうに方向をとって欲しいのです。

「作品と仕組み」 No.303

いかに変人で孤高であっても周りに認められていく天才を除いて、多くの場合、人は、現実に社会的な接点をつけなくてはなりません。まして、自らが何かを創り上げていくというのなら、芸だけでなく、人との関係を創り上げていくわけです。そんな大げさなことでなく、手助けをしてもらうということでも同じです。

 そうしているうちに、人との関係に翻弄され、つてはつくれても作品そのものに時間をとれなくなることもたびたびです。 

芸の中に芸を求めていく、その一方で、そこで作品がつくれる仕組みを整えていくことが必要となります。

仕組みがつくりつつ、それをどう維持するのか、作品づくりにどう専念するのか、人生、迷いは尽きません。

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