« レクチャー&レッスンメモ No.305 | トップページ | 「学ぶ力」 No.306 »

Ⅰ「感覚とそのズレ」 No.305

Ⅰ「感覚とそのズレ」

 

○コンサルタント

 

 私が、これまでヴォイトレに関して一貫して述べてきたことは、主として表現においてのパワー、インパクトの欠如からです。それを支える声の声質(音色)、声量ということが中心です。日本において、なぜ、それが実現されていないのかを、特にヴォーカリストと歌い方、トレーナーと指導、観客と聴き方の3面から述べてきました。それは、日本のトレーナーや声楽家の盲点であり、一方、海外のヴォイトレについても、日本人に対して対応しきれていない現状を指摘してきました。

私の研究所のなかでも、トレーナーと、いろんなタイプの相手を、どのようにマッチングさせるかは最大の問題です。私は、そこを長くコーディネイト、プロデュース、アレンジメントしてきました。今回は、そのなかでの最大の問題に触れます。

 

○感覚と体のズレ

 

ヴォイトレの最大の問題は、本人の感覚と本人の体とのズレです。自分の好み、イメージと、生まれもって与えられた楽器である体とのズレです。この点は、これまでも触れてきました。

ヴォイトレの基本である発声は、本人のよしとするものと、客観的によいとされるものが一致しにくいのは、よく知られています。自分一人での発声練習は間違えやすいから、トレーナーにつくのは声楽では常識となっています。

でも、ポップスや役者では、今でこそヴォイトレは一般化していますが、そういう意識は希薄でした。発声は、本人のオリジナリティのもと、本人の感覚によって選ばれたものであったからです。

そのイメージや感覚が劣っていては正されない、ゆえに、その生来の自動選択能力という素質こそが天分のようにも思われていたのです。誰にも合わせないで自分のもつものを伸ばす、でも、それは、そこまでにその人に入った声、歌、つまり、聴覚、耳の力や体感が導くわけです。自分の資質を開花させるのに、もっともよい見本が選べていたかということにもなります。

しかし、いつになっても体、喉は変わるし、耳も育ちで変わるのです。よくも悪くもなるのです。

感覚の中でも体、喉そのものでなく、声はその使い方ですから、それを学ばなくてはなりません。しかし、他方で、その人の持つ体、喉は独自のものです。可能性も限界もそこに根ざすものです。

 

○「それ以上」の上達

 

 本人と歌とヴォイトレの関係は、これまで述べてきたので、一言で要約します。

本人がよいと思った声、発声、歌と、本当によい声、発声、歌にはズレがあり、それに気づかないことが、「それ以上」の上達を妨げているということです。

本人の実感、それは、その人の判断を支えていたものです。それが違うからうまくいかないと知った人は、トレーナーにつきます。声や歌に限界を感じたときにアドバイスを欲するわけです。それは、ついたトレーナーに、どのくらい頼れるのか、そのトレーナーをどう選べばよいのか、ということになります。もし、トレーナーを正しく選べているくらいなら、歌や声も正しく選べるのではないかというようにもいえるでしょう。☆☆

ですから、今回述べるのは、本人がよいと思ったトレーナーと本当にその人によいトレーナーとのズレということにもなるわけです。

今の状況で、よいトレーナーと、将来にとってよいトレーナーも違うのですが、ここでは、将来に、としたいものです。

元より、選ぶということ自体に無理があり、それは、正しい、間違いでなく、新たに発見を獲得していくことで、潜在能力を充分活かすようにしていくと考えるべきだと思うのです。

 

○医者の限界

 

喉を潰したら医者に行く、そこでヴォイトレを紹介されたら、それは治療より発声の問題に原因があるわけです。しかし、そう判断できる医者は多くありません。また、紹介できるトレーナーと本人とのマッチングなどの検証も、さほどできていないのが現状でしょう。

となると、ここでの選択も、実績があり安全が第一ということになります。しかし、ここで優先される実績は、上達でなく、安全にかかってくるのです。多くの人にとって安全、つまり、一般的に対応する、偏りのない、リスクのないトレーニングとなるわけです。そこが医者の判断の限界なのです。医者は治療するのが責任です。それでよいのです。問題はトレーナーも同じようになりつつあることです。

「戻す」のでなく、「変える」

声の障害も、若い頃のように声が出なくなったケース、23年前のように声が出ないというケース、1か月前のように声が出ないというケースと、それぞれに違います。

何よりも「それ以上」(前以上の上達)の必要性をどう考えるかです。治すというのは戻すことです。

でも、私は、いつも「それ以上」をみているのです。戻すといっても、戻っただけなら、また過度に使うと悪くなる可能性が大きいからです。事実、一度は悪くなったのですから、すでにズレているのです。戻して、安全にと制限をかけることを教えるゆえに、伸びなくなるのです。☆☆

 

○トレーナー選びのズレ

 

 メニュや方法に、全ての人のどんな状態にもよいものはない、メリットがあればデメリットもあること、大きな効果や早い効果を出すものは、相手や使い方においては、ハイリスクになることなどを、しつこく述べてきました。

安全、確実になら時間がかかるのは当たり前、片や、大きく変わりたいのなら、時間をかける、しかし、ただ、時間をかければよいだけでないことも述べました。

トレーナーについても同じです。万能なトレーナーはいません。でもそのように思わせてくれるトレーナーはいます。それが必ずしもよいとは限りません。むしろ逆のケースも多いのです。オールマイティ、何でも屋とは、結局は、初心者向けなのです。

ここのテーマは「トレーナーの選び方」ですから、これまでもそこを直接的に、あるいは間接的にずっと述べてきました。今回はそこを主に述べます。

私の述べてきた「方法」「メニュ」を、「トレーナー」戸置き換えて読み直していただいたら、この先に述べることの半分は省けると思います。極力、絞り込んでトレーナー特有の事情に関して、述べていきます。特に、教え方のなかでも、まねること、模倣について、限界のあることは、くり返しになるので、最低限の言及に留めます。

 

○専門家のズレ

 

 声のノウハウが研究、蓄積、普及しないのは、あまりに個別だからです。耳鼻咽喉科では、患者のほとんどは声の問題で来るわけでないから当然です。病気では耳や鼻が多く、喉についても、発声ではないし、まして、ヴォイトレではないのです。

また、音声を中心に診ていても、病院ですから、声に何らかの障害を生じてきた人がきます。そこでのデータは、すでに何らかの支障のある人に片寄っているわけです。しかも、ケアや現状復帰が最終目的ですから、トレーナーの扱うレベルとは相容れないことがほとんどです。

ヴォイストレーナーでも歌専門、発声専門といえるかどうか、ここにいらっしゃる人も本当の意味で発声や歌唱を求めていらっしゃるとは限らないことを述べました。 ヴォイトレが声そのもののトレーニングでなく、音楽的基礎のこと、メンタルやモチベーションのこと、パフォーマンスや見せ方などが中心になっていることも少なくありません。それに、トレーナーがどうであれ、求められることが治療、ケアのような調整であれば、ほとんどトレーニングになっていかないのです。

昔の歌の先生は、伴奏して歌わせ、リハーサルやレコーディング対策として、今のカラオケのようにして、曲を正しく覚えることが第一、次に歌心、といったものが、指導の中心でした。ヴォイトレそのものではなかったので、邦楽に似た状態であったのです。しかも、プロデュースの前提として、歌がうまく、声をもっている人がメインでした。

ですから、プロを育てるのに、声そのものを扱ってノウハウを蓄積してきているところなど、ほとんどないのです。自己流か、声楽や他のトレーナーのノウハウの受け売りなどで、自分よりもできない人や初心者を教えているケースがほとんどだったからでしょう。

 

○存在意味

 

 トレーナーの分類もレッスンを受ける人のタイプも、これまで述べてきたのを参照してください。歌い手の、一流、二流などは、歴史が判断することでしょう。黒子のトレーナーは、目の前の人に最善を尽くすだけです。

歌手を歌や声だけで判断しても仕方ありません。ヴォイトレの教え方の効果で問う、というなら、日本では未だどこも成功しているとはいいがたいです。声楽家のように教職を専らとする人もいます。海外では、多くの歌手から称賛されているトレーナーもいます。そこに行く人も増えました。それなのに、世界レベルの歌い手や役者が日本から出ないのは、なぜでしょう。本人かトレーナーか客か、どこに問題があるか、こうした観点で取り上げたり、研究がなされていないという自体、大きな疑問です。どのトレーニング効果をあげている、その効果とは何か、どのレベルかということです。☆☆

声や歌のように本人の資質だけで、トレーニングなしで成り立つことがあるところでは、トレーニングやトレーナーの存在意義から問うべきだと思っています。必要な人がいるから、やればよいということでもないのです。売れればよいのか、評価されればよいのかというのも、勝敗や記録でかなりの部分を客観視できる分野とは異なります。

今やエンターテインメントとなって、声そのものでなく、声を使って総合的にみせていくようになったという違いもあります。声の問題がよりわかりにくくなり、また、素人レベルでのケアの方へ囚われていくのも、この総合化のせいでもありましょう。

 

○相性

 

 早く楽しくうまくなりたい―そのためのヴォイトレとなると、メンタルの弱い人にはヒーラー、メンタルの不安定な人にはモチベーターが適しているようです。事実、そういう人は、そのようなタイプのトレーナーを選びます。

レッスンで、これも一回でわかるものでない点は注意するようにと述べましたが、実感して決めるのは、本人のこれまでのイメージや経験が元です。ですから、本人がよいと思って選ぶところで本当は大きな疑問が出るべきなのです。☆

この辺りの相性の問題について、相性がよいと本人もトレーナーも思って選ぶところでのメリットとデメリット、それで続けているケースでの効果については以前に述べました。(自分とは異なるタイプのトレーナーに学ぶ方が効果が大きいなど)

この辺りになると、本人の人生ですから、本人が最終的に決めるものと私も考えています。しかし、本人の実感という思い込みだけで目的、タイプ、状況とのミスマッチの選択についてアドバイスできる人がいないのは、よくないと思います。

とはいえ、現実には、担当のトレーナーやその方法について、セカンドオピニオンが判断するのは難しいものです。最初の状態レベルとプロセスとしての状況の把握がなかなかできないからです。レッスンの12回の録画などもみてもわかるのは、一部分です。レッスン前や初回のレッスンの記録がとても大切なのです。私のところでは、それを記録しています。

 

○前提を疑う

 

 目指したいイメージでのヴォーカル像、声や歌い方と本人がもつ資質や能力が明らかに異なるときは、慎重に時間をかけることです。合っていないと否定するのは簡単ですが、何事もやってみないとわからないのです。表向きでなく、根本から変わるためにトレーニングがあるのです。

要は、基礎づくりでもよいのですが、それはその基礎の前、前提から変えられるかということになります。ですから、抵抗のある方が、本来の導入の時の実感といえなくもありません。

大きく変わるなら時間もかかりますし、難しいことも出てきます。大きく変わるというよりも、大きく力をつけるというべきですが。

 

○白紙に戻す

 

1.もって生まれた資質、天性。2.幼少期、しぜん、育ち(体、感覚)。この2つの要素での問題も以前に触れました。310代、育ち(耳、ことば、歌)。420代での変化。5.それ以降の変化。大きくは、このあたりのプロセスでの変化でみます。

老いによる衰えは、今回は省きます。私は75才までは、現役を区別しません。40代、50代でいらっしゃる人でも、12の育ちは大きな問題です。

10代での天性のヴォーカリストの20代以降の変化もたくさんみてきました。歌手も役者も、感覚がよくて早くに選ばれて実績をつくってきた人に、トレーナーとしては、そこまでの感覚や判断力を疑えとは言えません。そこが支えでもあり、そこを否定したら素人になりかねない人もいます。

でも、トレーニングに臨んでは、思い切って白紙にしてよいのです。その人であることは違いがないのです。どう新たに入れ込んでも、その人のものが消えることはないのです。特に実績のある人なら、なおさらです。トレーニングは、ステージと判断の基準が違うので分けるようにアドバイスしています。

即効性を求めなければ、いずれ、相乗効果が出るはずです。いえ、即効性を求めてはいけないのです。早くできあがった人ほど、そこに器用に長けていて、また同じようにまとめてしまうからです。

ただ、本人が白紙から学ぶ気になっても周りが許さないケースも多い、そこが業界とファンの問題なのです。

 

○インプットのプランニング

 

 トレーナーとしては、プロの実感に対して医学的、生理的(それを科学的と言う人もいる)にか、論理的にか、どちらかで迫るしかないのです。医学的、生理的というのは、以前の状態に戻せても先に行けません。

自分の感性を押してくる人に、トレーナーの好みで反論や提案しても、それは価値観の相違になりかねませんから無力です。発声も歌も本人サイドに立った上で、本人のやったことでの矛盾や限界、その解決への可能性を論理的に言及しないと納得させられないのです。しかし、音楽は、ありがたいことに、とても論理的なものです。そこの感性が足らないケースでは、そのインプットから必要です。

 感覚が未熟なのでなく早熟であったために、器用で止まっているケースも少なくありません。活動はアウトプットが中心ですから、インプットが不足して疲れてくる、歌唱も表現、演出、パフォーマンスにシフトしていく、など、複雑に絡み合っています。

それに対して、長期的な展望をもったプランニングをしていくのです。トレーニングの意味はそこにあります。どれだけのものを得られるか、それにどのくらい年月がかかるかということになります。

 

○テンション

 

 プロも、不調になれば落ち込んで、それでいらっしゃることが多いので、メンタルの立て直し、体の鍛え直し、モチベーションの向上というのは、もっとも効果的なアプローチです。ですが、それで解決するのは、むしろ初心者、素人の人です。

プロは、本来、テンションはありますから、そこを戻せたら、というなら心理的な解決となります。そこでも、体を動かすのが早道です。そこまででよいのなら、この先のアプローチは不要です。しかし、そのままでは、いずれこのくり返しになるでしょう。

あるいは、勢いで声を出して出たらよし、出ないとテンションが足らないということになりかねません。日本のレベルでは、ここで目的を達したと思う人も少なくないのです。ですから、心身のトレーニングで徹底していく、それもありと思うのですが。

私も、テンション、勢いは前提と思うので、先に述べた2の幼少期、しぜんに大きくたくさんいろんな声を出すというのは、ここで再体験して欲しいと思っています。

 

○喉のズレ

 

ただし、ドクターストップのかかっている人や喉の病気や手術のケースは別です。その直後、リスタート時などではリスクが大きいです。自主トレと称して、大きく強く出そうとすれば声は出ますが、緻密なコントロールができないでしょう。喉にも負担をかけてしまい、早晩、出なくなりかねません。これは、どのトレーナーでも禁じるケースです。

そこで気をつけることもまた感覚のズレです。喉に少し負担をかけた方が感情表現しやすい実感のあるためです。喉の状態を捉えられず、力で動かせるのが好調の感じと誤解してしまう人が少なくないのです。感情を出しやすいときの喉は、すでに疲れているということを、再三述べてきました。

 

○手順

 

 呼吸だけなら、喉に無理がこないから、呼吸で体を変えることを行います。これも喉を絞ったり乾燥させて負担をかけてはよくありません。声を体と結びつけるのです。大体が、この手順を飛ばしてしまいます。ここだけでも23年かかるのです。(私は声で体を鍛えさせます)

大半のヴォイトレは、口内での共鳴調整、発音矯正、声域(特に高音)、スケール練習を主とします。特にドミソミドやドミソドソミドのように、いきなり半オクターブ~1オクターブのスケールで、さらに2オクターブ以上の声域で行っています。

先に全声域のイメージを与えるのは一つの目的ですし、できていなくても、引っ張り上げてできるようにしていくのは一つの手段に思います。

しかし、大体はトレーナー自身の求める手順が甘く、音にヒットしたらOKとしてしまいます。そのときのレベルでOKというのではなく、本当にOKで問題なしにしてしまうのがよくないのです。

これは、海外のトレーナーでも似ています。ただ、元の発声のレベルがかなり違うので、向こうは調整で済んでしまうのです。声量があり芯がある分、そこを待つ手順がいらないのです。おのずとバランスとスムーズさのための脱力が目的の中心となります。

日本人では、その声でとてもOKではないのですが、そこをわからないケースが多いのです。届いたというのと表現できるというのは、地力が違うのです。

さらに、その届き方をくせで固定させ、それ以上の伸びの限界をつくってしまうから、気をつけるように言っているのです。でも、カラオケなどでは充分なので、ここでの表現は声の自在な表現力のレベルのことです。

 

○声がある

 

 一流と二流の差は、イメージ、感覚ともいえるのですから、これはトレーナーの見本でなく、一流のプレーから叩き込むしかありません。視覚以上に聴覚には差があるというか、まさにみえないので難題です。そこは、感じるものなので、量よりも質、気づき、聞き方を一流にしていくことが第一です。

 「息を聞く」から始まる私のヴォイトレは、声を役者、外国人並みにして、あとは一流の作品に触れ、音の動きとして声を捉える、この2つでしかありませんでした。

声で弱者の日本人が、ベテランの役者レベルに声を扱えるようになれたら、声がないままに歌に入るよりずっと有利でしょう。そこは間違いありません。そこまでになされることが、まさに声のトレーニング、ヴォイトレです。

リズムも音程も、歌そのもので学ぶところはストレートに入れていけばよいのです。トレーナーが下手に鈍い歌や発声のメニュで邪魔しないことです。

自ずとオリジナリティこそがメイン、音色も最終的に本人が選ぶ、いや、ベストが選ばれるように、声とその動きに一流の感覚を入れて、取り出していくのです。

 ちなみに、その取り出し方の練習が、私の述べてきた、複数の一流の歌手の同曲異唱からフレーズを学び、つくり出すオリジナルフレーズのメニュです。

 

○声づくり

 

 海外、といっても、ポップスのヴォーカルトレーニングでは、アメリカとなりますが、歌のみせ方の技術に直結した発声練習が多くあります。英語と密接に結びついているので日本人には高度、というより発音に気をとられ、口先となりがちです。あるいは、結果として、声と結びつかない、体、呼吸だけの鍛錬や柔軟、声を捉えていないままの脱力に終わることも多いです。☆

そういうトレーナーのトレーニングでヴォリュームやパワーが増した人はいません。まして、その教えてくれた人に学んだ人は、さらに表面的なノウハウ、メニュの形を受けて口先の声になります。そこは、先述したように基礎の声、体の声の不足ですから、そのままではいつまでも解消しません。

体からの声づくりは時間もかかります。何よりも、そのプロセスでバランスが意図的に失われるため、バランスを絶対として脱力のヴォイトレを信じる人の気に入らないことになるのです。海外でトレーナーについても、多くの人は、数回か、12か月くらい受ける人が大半ですから、やむをえない事情でもあります。

清く、正しく、美しく、の歌唱を好むのは、日本人らしくてよいのですが、表現としてパワー、インパクトはいるのです。しかし、これは、何であれ、声を大きく強く太く出せたらよいと力づくでやって、実感するのは違います。力が働くのを、プロセスと結果で混同してはなりません。力を働かせるために力を抜くのです。

 

○大きな声

 

 モチベーションを高めるには、大きな声を出せばよい、すると皆、それにつられるからです。つられて声も出ます。代表は応援団の発声です。子どもやメンタルで縮こまっている人には効果大です。

とはいえ、一部の人を除き、そこに基礎とのつながりや、その先に発展はありません。なかには痛めてしまう人もいます。特に声をあまり出さずに育った最近の若い日本人には通じにくいでしょう。

ワークショップのような体験実習には感情と体の強制的解放は、よいときもあるのですが、私自身は好きではありません。品がなく、丁寧でない、でも雑に荒っぽく、で自分の限界を知るアプローチを必要な人も多いように思います。(芸術性というと、クラシックのようですが、ここでは芸能と同じようなことで、私は使っています)

パワー、インパクトは人を惹きつけ心地よくさせます。ですが、それだけでは飽きられます。驚かせて振り向かせ、立ち止まらせるだけでは、芸ではありません。

ヴォイトレも、そこでは、感性、芸術性、知識でない教養(人類が共通にもつ判断の基準をクリアするようなもの)が必要です。しかし、プリミティブなパワーとしての声量は、大きな魅力になることもあるので、シンプルに追及するのもよいと思います。

 

○基礎

 

もっとも、歌もイベント化、パフォーマンス化してしまい、変わってしまいました。それについて、ヴォイトレも雑に荒っぽくと、小さく弱く(高い)という方向に両極端化してしまいました。ただ出していたら出る、というのと、とにかく丁寧に繊細に、というのが多くなりました。

この両極端の問題は、考えようによっては、日本のヴォイトレの当然の帰結ともいえるわけです。スポーツでいうと、小中学生の体では無理せず脱力フォームだけで仕上げるというのと、高校、大学生で、体だけハードに鍛えてから応用するのということにあたるかもしれません。

力が入りすぎているケースでは、ヴォイトレの必要性は、発声と共鳴の効率化を求められます。求められなくてもそこがポイントです。調整とバランスとは、あらゆるケースで欠かせません。しかし、その支えとしての体づくり、呼吸づくりもまた欠かせないのです。それを呼吸法や発声法という形だけにとられ、実質をおいていってしまうので、大して身につかなくなるのです。

基礎ができている上で、力が入ってきたりバランスがズレてきても、それは調整ですむのですが、そこまでしっかりとした基礎ができている人はあまりいません。

 

10代からの成長

 

 10代でバランスがうまくとれて、とてもうまく歌える人が100人に1人くらいでいます。スポーツなら3年後を考え、基礎をみっちりとやるのですが、歌の声はそのまま、それゆえ、体と合わなくなります。体が変わり、元の感覚でついていけなくなる。なのに、自覚がないのです。

一方でステージは、MCやパフォーマンス、声にも感情表現力が問われ、長時間たくさんの声を求められます。 それで、しぜんと体も感覚も理想的に変わるケースは、さらに100人に1人くらいでしょう。生まれつきと育ちの両方が高度に伴うとなると、1万人に1人くらいでしょうか。

歌唱の基礎の発声が定まらないうちにステージングに移ってしまい、声の使い方に無理がくるのです。こうなると、ほとんどはマイク、音響の効果に頼るようになります。一部の人は、いつか病院行きです。

今の人がそうならないのは、そこでの活動が昔ほど過酷にならないからです。昔からみると、考えられないほど甘いのです。クリーンで室内外の環境もよくなりました。喉のケアを考えたり、表現にも安全な歌唱法を選び、感情表現に走らずに無理をしなくなったからです。皮肉なことですが、それが歌手自身の表現力やインパクト、パワーを弱めていることになっているのです。さらに声を扱う能力も、です。

 

○タイプA

 

 ここでタイプAとは、共鳴、調整をメインに、タイプBとは、呼吸、体の鍛錬、もしくはリラックスをメインにします。ヴォイトレでいうと、タイプA、タイプBのプロセスを経た人が、それぞれに調整型と鍛錬型として教えていることでの問題が多いといえます。共に逆タイプのことをあまり知らず、自分と異なる教え方として否定しているわけです。

そして、レッスンを受ける本人も、自分の実感で判断するので、自分と同じタイプのトレーナーを選びがちです。

もちろん、必ずしも逆のタイプを選んだらよいということではありません。このタイプA、タイプBは、それぞれにおいて未完成であり、教える時点で自分自身の未解決の問題をも放り出しているといえなくもありません。いや、その自覚があればよいのですが、大半は、それに気づいていません。

私は、よく自問します。なぜ教えるのか、それは教えられたい人がいるからです。確かに最初は、教えることを頼まれました。教えられたいという本人からでなく、プロダクションからだったので、ヴォイトレといえどもタイプAに近い形で求められました。すぐに12割うまくなったかのように伸びて、あとは、そこで止まる、それは目前のステージのための対策だったからです。だから、こうなるのは、とてもよくわかるのです。

 

○タイプB

 

 次に、タイプBに関してです。私は、一般の人と行うに際して最初に体、次に心の問題にあたりました。そして、感覚、実は、これこそが、伸びるための全てといえるのですが、その捉え方を伝えることに苦心しました。体、心、感覚の3つの関連は前に述べたので省きます。

スポーツの例えばかりで申し訳ないのですが、マッサージや整体によって充分な力が出てOKとなるのは、元より実力のある人です。多くの人は、普通の人以上のことを人前でしようとしたら、今よりも鍛えて、それをキープした上で、調整しなくてはなりません。私自身は、20代までの10年で鍛え、40代までは日常の仕事が相当ハードに鍛えることになっていました。今は、意図的にペースを上げて保っています。

養成所としての研究所では、声をつくるための体づくり、呼吸づくりと、声づくり、そして、それら3つの関連づけがメインです。それは毎日の自主トレーニングによるのです。そうであれば、レッスンでは、技術や応用を伝えているのかもしれません。そこでレッスンが、タイプAになるのは、ごくしぜんなことで理想的ともいえるのです。

 

○天性

 

子供を合唱団に入れるか、演劇部にいれるか、相談を受けたことがあります。どちらでもかまわないと思います。子供に選ばせるのがよいかとなると、本当は問題です。でも親が責任をとれないのですから、本人のやりたい方に、となります。好きな方、興味がもてる方がよいからとなるわけです。こういうときも第三者に相談する方がよい結果が得られると思います。

ヴォイトレも最終的には、本人次第です。しかし、トレーナーとしては、本人の好き嫌いや感覚での選択にだけ任せているのは、怠慢のようにも思うのです。天性の素質と本人の好みをどう捉えるのかは、とても難しい問題だからです。

マイケル・ジャクソンのような天性の素質のある人の幼年期は、タイプAの典型です。彼の30代以降の声の変化は、歌手からパフォーマー、アーティストへの転換ですから、少し異なりますが。ヴォイトレとして、一般的に共通の見本としては、ジャクソン5時代のマイケルの声と歌唱の感覚の方がよいのです。すぐれているだけでなく、他の兄弟、同じ環境に関わらず、兄たちに勝る分で、天分、天性プラスαが窺がえます。そこで、兄弟でさえ100パーセントまねできなかったものについては、コピーするよりも参考に留めることにして、何か気づいて何かしら学べたら充分です。(ちなみに、同じ環境下での兄弟では、末っ子ほど有利なのは言うまでもありません)

 

○実感の間違い

 

 有名であったり活躍していたら、本人も自らの実績に基づいた自信があるので、時に困ります。感覚も体も、よくも悪くも年々変わるのです。過去のことは過去のものです。

専門が声ではないケース、他の分野の活躍の実績上の歌なら、声についてはまだ謙虚になれるのでしょうが、歌い手のケースは、複雑です。今の日本で本当の意味で、声の力で支えられた歌手が少ないからです。過去にうまくいっても、今がそうでなければズレているとか基礎の不足に気づくべきです。

喉の病気で医者に行くようにトレーナーを声の専門家としてみるのはよいのですが、何回も述べているように、何をもって専門なのかが曖昧です。そこでこれを連載しているのです。

声が出にくくなったり、出なくなると言って、ここにいらっしゃいます。それは、高い声が出にくくなったり、かすれてきたことで気づくのです。本人だけでなく周りにもわかるからです。そこだけは気にして歌ってきたからです。

しかし、それは根本の問題ではないのです。そこで、ヴォイトレが必要と気づいてくるところから、問題をズラしてしまうのです。本人の実感で間違いが生じるのです。

 

○タイプAのトレーナー

 

 ヴォイトレでも高い声の出し方などは、それを望む人とそれが出にくくなった人にわかりやすいから、ニーズが大きいです。その結果、日本では、ほぼタイプAのトレーナーばかりになりました。ヴォイトレというと、高音を楽に出すため、となったのは、この安易な判断によってといえます。そして、その傾向はますます強くなりました。

くり返してきたように、カラオケなど素人判断でわかりやすい順は、第一に高い声が出るか、高い音に届くかどうか、あこがれるプロと同じ調で歌えることを目指す人がとても多いです。第二に、早口、早いテンポに挑むとか、ピッチ、音の高さがあっているかどうか、音の幅、音程(2音のインターバル)がよいかどうか、のような順です。

カラオケ採点システムの普及、利用も、これを助長しました。特に、高得点を競い合うことです。TV番組での影響も大きく、歌唱のゲーム化を進めました。

こういう要素はヴォーカロイドに有利なものですから、いずれ、そういうものに替わられます。もう日本では、人間の方がそのまねをし始めているわけです。いずれ、歌手、声優、ナレーター、アナウンサーからミュージカル俳優まで、その他大勢のところは、CGAI、ロボットに置き換えられていくでしょう。

そこに人間味のある音色や声量は残るのでしょうか。

私は、ヴォイトレは、最終的に声の音色、プロセスとして声量と思っています。歌手では声域は優先せざるをえないことの一つですが、自分でキィを変えることができるのですから、それほど大きなことではないのです。もし歌が表現であるとするならです。

 

○目的とする声

 

 実感のズレについては、イメージからみる必要があります。いつも私は、出口、つまり、ステージで使う声を出口として、そのイメージの入力を正すことを述べてきました。私の「読むだけ…」(音楽之友社刊)に、ヴォイトレのときの声について8つの分類をあげました。(「読むだけ…」下記<参考>に引用)復習してみましょう。ここでは、さらに細かくみます。

a.憧れの人の声、多くの人はここから入ります。このとき声量、声質、ハスキーなどに憧れるとイメージがそうなります。

a´:憧れの人の声のイメージ、そこに自らの使う声bを似させてしまうのです。カラオケでのものまねならaa´=bの人が有利です。ですから、bに似たa´を選ぶのが早いわけです。しかし、ヴォイトレは、自分のから考えます。今の自分の体、喉に合った声のc、トレーニングして自分の理想としての声のc´、cc´をメインにします。

 

<参考> 

G.トレーナーの声

F.自分のあこがれの俳優、ヴォーカリストの声

E.プロとして共通のベースとなる声(俳優、ヴォーカリストなどの鍛えられた声)

D.くせ声

C.今の自分の声(よくない状態のときの声)

B.今の自分の声(よい状態のときの声)

A.今の自分の中で最も使いやすい声(主観的判断でのよい声)

AA.今の自分の中の、最もよい声(「ベターな声」)=将来性のある声(客観的判断)

AAA.将来の「ベストな声」(トレーナーが本人とイメージを共有していくべき理想の声)

 

○優先すること

 

 声、共鳴、音色が変わることがcc´なのですが、その前に使い方で+α調整ができます。声域より声量を優先すると、cdと変わってしまうこともあります。生声、大声、叫び声、シャウトは、私の中では、応用の部類です。基礎として学ぶものには入れていません。

できたら共鳴でプラスαの理想的発声原理でのベースづくりに留めたいのですが、ここで正しくフォームをつくることと、筋トレの必要性の有無の問題が出てきます。バランスと強化の融合のことです。

大きく口を開けたり、強く出していれば、鍛えられるというストレートな練習法もあります。ただし、リスクを伴うので、声の弱い人はともかく、一度でも壊したことのある人は要注意です。発声を知らずに体や息が整っていないレベルで踏み込まないことです。

 

○感じとる

 

 aa´=bのケースでも、aa´が本人のもつ声、喉とズレているので一致することはありえません。多かれ少なかれ、必ずズレるのですが、それがヴォイトレ、発声、共鳴にマイナスの場合は、異なる見本としてのaa´を使う方がよいでしょう。

aよりもa´においてステージングなどで、そのときどきの歌の声、声の勢いなど、表面的イメージをとって合わせようとするからです。

本当は、憧れの人の声でなく、それを支える呼吸や感覚をとるのがよいのですが、そう簡単にとれないからです。ここでもイメージがカギです。みるのでなく、聞くだけでなく感じることが必要となります。

一流の人ほど、そうした支えをみせずに、感じさせずに、さらりとこなしていますから捉えにくいのです。一流でも一般の人が学びやすい人もいます。学びやすい作品もあります。 

第一に、他の人はなるだけ加工されていない声で聞きたいものです。また、不調のときや失敗したときなどの方がわかりやすく、勉強に使いやすいものです。となると、一流より二流に学べる、ともなるのです。

邦楽の人が来たら、師匠と先輩、師匠の師匠、その流派の名人、他流派の名人を聞かせてもらいます。同じ演目があれば、とてもありがたいです。その感覚とイメージこそが大切だからです。

 

○歌唱の教材

 

 声や息、その動きがわかりやすいものとして、アカペラ、マイクなし、伴奏なしのもので聞くことをお勧めしています。知っている曲、歌ってきた曲でもよいのですが、なかでも、複数のアーティストの歌っているもの、そのなかでも、簡単、シンプル、音域の狭くゆっくりした曲などをお勧めしています。そして、聞くだけでなく、見よう見まね、いや、聞きよう聞きまねでも、必ずコピーして歌ってみることです。

 歌の練習とヴォイトレの勉強は、異なるのです。難しいのは、ヴォイトレに歌の判断、つまり、自分の今、歌っている声での歌い方、技術的な改良を即効的に学ぶべきものと思っているケースです。高く出せればとか、大きく出せればよいと思うと、早いやり方やストレートな方法もあるのですが、そこに気をつけましょう。

それを聞いてまねできない、基礎が足らなかったのに、形だけ変えて同じようなことをするようになって、できたつもりになってしまうことです。メロディがコピーできた、少し高くとか、少し大きく出せたら、それでよくなった、直った、できた、と本人が思うことが多いのです。それがヴォイトレのおかげと言われるのは、嬉し悲しというか、痛し痒しです。一時的なバランスの移行で補ったにすぎないことが多いからです。

 

○応用の応用

 

 それは、応用の応用なのです。下手をするとくせのくせです。ですから、喉によくないし、本当に確実な再現力になりません。フォームなしに力で振り回すようなものです。数打てば当たる式で、喉が疲れるのに関わらず、高く出せば高く届くし、大きく出せば大きく出る、それだけなのです。つまり、初心者の自主トレで起こることを、トレーナーを使い、メニュで行っているのにすぎないのです。

喉が早く疲れるから固めたのですが、それで動かしやすく、高くも大きくも、感情表現もしやすくなるように感じるのです。疲れた状態で歌わなくてはいけないケースもあるから、全てを否定するわけではありませんが、再現もくせで固めたものでは、固さが目立ちます。しなやかさや柔軟さがないというのは、丁寧、繊細でない、つまり、次の可能性がないのです。

 

○差と変化

 

 だからこそ、応用の応用と基本の基本は、真逆であると言っているのです。

共鳴、発声、体については、調子がよいとき以外は、伸びや響きが不安定なのです。発声の安定については、常にいくらでも使えるのかでみるとよいのです。休みを入れないと回復しないとか、声量を抑えているというのでは、やはり耐久性に問題があります。基礎が足らないのです。それぞれ新しい感覚、イメージでの声の使い方を身につけていくべきです。

共鳴というと、声楽家の頭部共鳴が代表ですが、人によっては、とても作為的(自然でない)で弱々しくなって、そこで留まっています。ハイレベルを目指すなら、胸声、もしくは、芯が必要ということです。

日常レベルでの声の力のアップは、低音(話声域)共鳴です。そこで、ハミングやせりふの練習をして、これまでの声の出方やイメージ、支えの感覚との差を知り、そこを変えていきます。その上で、声が使えると実感していくことがあってこその成果とつながります。

本人が選ぶことが、長期的にみて、本人のためになっていないケースは少なくないのです。そのときに、誰がどんなメニュを処方するのかは、大きな課題です。誰に聞かせるのかにもよるのですが。

 

○発声の教材

 

 発声、共鳴、その調整には、発声の教本を使う方が、シンプルで自由度がききます。その一つとして「コンコーネ50」を使っています。50曲すべては不要です。でも、毎日25曲を1時間ほど聞いて1年、それで2年あれば、ほぼ感覚には入ります。

人によってはNO.11曲だけでもよいくらいです。これで1オクターブと3度のドード―ミまでです。女性なら、ラあたりで裏にチェンジしてもよいでしょう。高いド、レ、ミまでもっていくなら、やや無理のかかる発声となりますが、人によります。ハミングや母音唱法(ヴォーカリーズ)ほか好きな子音+母音や、スキャットでもよいでしょう。

歌唱のスタイル、歌唱時の声は、考えないことです。

本当は、自分の体から自由に動かせるところまで、取り出される声がベースです。となると、23音から半オクターブで充分です。すぐに1オクターブ以上の域を統一、コントロールするのは、日本人には難しいでしょう。それもまた、実際の歌や歌の声とその優先順を参考にするとよいでしょう。

 

--------------------------------------------------

 

Ⅱ「声の表現論」

 

○声の芯と歌唱

 

 私の強みは、声の芯づくりでしかなかったのですが、歌い手のサイドに立って10年、さらに歌手を10年みているうちに、音楽の演奏というのが入ってきて、いつしれず、耳が売り物になっていたように思います。

 声づくりでも、芯が共鳴を伴ったままに上げていくと、ベルティングという唱法になります。これも強い地声ということで、頭から否定する先生もいます。とはいえ、地声で歌ってはダメと言う先生は、さすがに減ってきました。

地声が何を指すのかの定義なくして論じても意味がないのです。誰も原点である定義をせずに自分の使いたいように使ってきた下りは、これまでも述べてきました。

ですから、研究所では、次のような用語は、定義するのでなく、いろんな使い方で使われているということで、あまり狭く意味を決めつけて使わないようにしています。多様な使用法を認めざるをえない、といったところです。ベルティング、ミックスヴォイス、ビブラート、地声、腹式呼吸など。

 

○本番との違い

 

 ここでは、新たに、なぜヴォイトレが声を育てられないのかをまとめていきます。ちなみに唱法というのは、私としては、どれも否定、必要悪として容認してきました。発声法、呼吸法、声区融合などと同じく、トレーニングのプロセス、部分として区分けする分には使えるし、仕方ないと思っています。しかし、技術、方法として歌唱や演技のなかで目立ってはよくないと思っています。

本番は練習ではなく、まして、トレーニングではなく、表現する場です。ステージではにこやかで華やかなパフォーマーであってもよいでしょう。しかし、練習では、そこは基本とするところではありません。

 反対に、トレーニングや練習と同じように本番をするといっても、まじめに真剣にコツコツという練習の様子をステージで出してよいのではありません。それはトレーニング、プロセスとして許容していることなのです。そこははっきりと区別することです。

 

○全力の声

 

 ステージで思いっきり声を出す、といっても、コントロールできるのは70パーセント、マックスで80パーセントでしょう。100パーセントのときは、もしありえたとしたら、多分、全能感しかないはずです。

日本のクラシックならもっと制限するというのが真っ当かもしれません。50パーセントくらいにも思えます。楽器の演奏も100パーセントの力を使うことはありません。しかし、だからこそ100パーセントの音や声が出せるだけのことを、トレーニングで行っておくということです。

もちろん、トレーニングは今の100パーセント以上を目指すためです。そこは無理とか無茶でなく、基本を踏まえて原理に基づいて、です。練習では、本番で使うのに必要なこと以上の器をつくっておくのが理想です。☆

ステージが爆発型ならトレーニングで静かに丁寧に、ステージが落ち着いた丁寧なものならトレーニングで思いっきり枠を外して、というのがよいと思います。もちろん双方伴えばよいのですが。時期によって分けるのもよいでしょう。私は、時にトレーナーによって分けるというすご技を処方しています。

日本人の場合、どちらもおとなしく、結果、声についてはパワー不足です。それは日本人の好みということも関係しているので、やっかいです。声を使う方も聞く方も、そして声を使う場が、内輪、仲間内というケースが多いからです。その辺りはくり返し、述べてきたとおりです。

 

○ピークの声と過剰

 

トレーニングで出せる声以上のものは、ステージで出ません。しかし、スポーツなどと同様、観客のパワーやTPOでの集中力、テンションにおいて、ステージで大きく化けることがあります。練習では全力で、ステージでは人に伝わるように、よい意味で抑制がかかる方がしぜんのように思います。

人前で化けられる能力がないと出てもいけないし、続けられません。そこは、心身の強さになります。プロはそこをもっています。

ですから、プロになろうとする人がもっとも力を入れなくてはいけないのは、瞬発力のための心身の鍛錬です。 一言で言うとピークパフォーマンス、本番での強さです。そのためにトレーニングもまた過剰でなくてはならないのですが。

 声も力と同様に、ピークパフォーマンスで大きく働きます。テンションを上げて全力を振り絞ると、誰もが惹きつけられます。ここは人類のDNAに入った生命の力に近いところです。そして、人知を超えた力の働くところといえます。

一大事のときに素人のあげた声が、プロの演じる声を超えることは稀なことではありません。赤ちゃんの一泣きで、役者の舞台は飛んでしまうこともあります。そのときは、早く通り過ぎることを祈るしかありません。

私が述べたいのは、テンション頼みの声、ことば、歌、そういう非常時のような強制的な惹きつける力と、声、歌、演ずる力とを混同してはいけないということです。

 

○役者的な歌

 

A.応用 ステージング 表現 ことば パフォーマンス

B.基礎 クラシック 音楽 基礎 (共鳴 頭声)(胸声 芯)

C.しぜん 遊び 心身 リズム感 音感

 

 ことばで感情表現していくと、歌の表現力は上がります。強い声を出していくことは、ある人にはハイリスクハイリターン、一部の人にはハイリスクローリターンとなります。

Bの基礎の充分でない人のAの応用は、自らの喉に負担を強います。その負担が鍛えられていくプロセスか、消耗して疲労の重なるプロセスかは、けっこう本人には、難しい判断です。短期であれば、わからないこともあります。トレーナーの役割は、そこにあります。

無理強いした力でやって、すごく伝わることもあります。ステージでは成功、声は、緊張状態でのギリギリなわけです。先に、疲れてきた喉の方が表現力が増す、と述べましたが、その例です。

C→Aは、恵まれていたタフである心身が表現にストレートに結びつくので、もっともシンプルなプロ歌手や役者の成り立ちです。テンションに体がついてきたら声も出て、せりふも歌も伝わるものになったというのです。 しかし、そこでは呼吸―発声―共鳴の結びつきでの音楽的構築とでもいうべき基礎が充分ではありません。私は、よくも悪くも、役者的な歌と呼んでいます。個性とステージでの雰囲気、舞台慣れしたパフォーマンス、客あしらいといった、プロの技術で成り立たせているのです。その人の世界観で成立してしまうのですが、音楽観が軽視されているのです。

 

○音楽の声

 

ここでBの基礎というのは、歌唱力や音楽力、ミュージシャンとしての楽器の音の出し方とその動かし方、オリジナルフレーズでの表現力ということです。わかりにくいので眼をつぶった世界での成り立ち、かつ、音の流れでの音楽としての歌唱の完成度といえばよいでしょうか。せりふのそのときの説得力、一過性というのに対し、リピートとしての効果で心地よさを担保していくというものです。

アカペラの世界、オペラや邦楽での声なら音響技術で加工していないのでわかりやすいです。詩吟、民謡などでもよいでしょう。つまり、歌と声をそのまま、高いテンションと体でコピーすればできたところだけで限界となるのでは、ほとんどはまねごとで終わりかねません。

Cは、無理に言い換えると、本人、自分の世界ですが、Bは、かなりの時間をかけて創造していかないと、自分とは別にある音楽(性)になります。「自分が出れば音楽にならず、音楽が出れば自分が出てこない」というジレンマに陥ります。でも、そこに陥ることで、初めてスタートが切れます。多くの人は、そこに陥らないから、自分も音楽も出てこないのです。他人の発声、他人の歌唱へ近づくことが上達という方向違いをしたままの人が多いのです。

 

○基礎と自主トレーニング

 

 Cのしぜん=遊びの時期に入ったものは、その人の素質、素養になります。小学生で100メートルでいつも一番の子は、多分、特別な努力やトレーニングをしたわけでないし、気づいたら他の人よりも足が早かったわけでしょう。50人いたら、1人は1番です。それだけのことなのですが、中高校生での100メートルレースは、それだけでは、1番になれなくなります。毎日走ってトレーニングをする人や陸上部のようなところで鍛えている人がいるからです。

そこでB.基礎がいることになるわけです。心身、体、感覚も鍛えて変えていきます。その応用として大会や記録会、試合が目標、基準としてあるわけです。

充分なトレーニングをしていないと、トレーニングをしてきた人たちに勝てないのが普通です。生まれつき速かった足も、トレーニングしないと人並みになってしまうのです。だから毎日走る、それが自主トレです。回数、時間といった量と質で上達を狙います。それは、遊びが高い目的と必要性を得て、習得プロセスへ移行したわけです。

話を歌に戻して、C→A、心身と音感、リズム感、発音があれば、歌はメロディ、詞、リズムの3つなので、充分に形になります。C→Aは、即効的、早く効率がよいのです。Bが無視されるのは面倒で時間がかかるし、長期のための基礎だからです。だからこそ、そこが決め手となるのです。

 

○期間と量

 

より長い期間で有利にしていくという方向もありますが、本当に問われるのは質です。より高くより深くです。期間や時間という量は、才能を努力で補う手段の一つにすぎません。ただ、大体は、最低限の量というのを必要とするものです。

歌は他の分野から入ってくる人も多く、兼任の容易なジャンルですが、そこがあまり理解されていません。歌唱は、音楽の演奏なのです。でもそうでなくとも成り立たせられるから、わかりにくいのです。

そこでトレーニングの方法やメニュ、トレーナーを選ぶ人もまた、C→Aで選んでしまうものです。

 上達に長期で遅効なのは、誰も望みません。でも、時間よりも質です。声であれば、それは音色となります。それについて専念するなら、周りに迎合し、一喜一憂しなくてもよい分、楽でしょう。

本当は長期であってこそ、トレーニングの成果をプラスとして使えるのです。短期では中途半端になるため、成果も部分的なものになるのです。

今、行っているトレーニングがどのくらいのものか、完成まで必要なものが何なのか。わからなければ、いつまでと、一時的に決めてしまえばよいでしょう。

すぐに役立つことは、すぐに使えなくなるものです。身につくのに時間のかかるものほど時間を超えていく可能性があるのです。何よりもそれは、他人と比べるのでなく過去の自分の力への反省あってのことでしょう。

 

--------------------------------------------------

 

Ⅲ「実感のまやかし」

 

○実感は正しいのか

 

 人は自らの感覚によって判断し行動します。自分にわかりやすく納得できるとか、しっくりくる、合うということで選びます。そこに価値を見い出します。

頭で決めつけるなということで、理論や方法論には用心していても、実際に心身を使ってこれまでと異なる発見ができたとき、相手の言ったことが実際に起こったとき、人は信じてしまうものです。しかも、その後のことまで丸々、信じてしまいがちなのです。☆

この点については、これまでの応用と基礎の違いや、カラオケ教室やワークショップの効果と限界など、一貫して注意を促してきました。プロの人の教えるヴォイトレも、全てが自分によいものであることはないなどということです。

 現場では、どの方法、トレーニングメニュを選ぶのか、どのトレーナー、先生を選ぶのかという問題と密接につながります。メニュ、方法やトレーニング、さらにトレーナーのタイプなども分類して述べてきました。可能性、限界や一流の条件でも触れました。

なぜ、重要な問題なのかというと、トレーナーが相手にどのように対するかという現実の問題、そしてトレーニングの成果、その結果がそこに左右されるからです。

 

○実践的なトレーニング

 

 歌手や役者にとって実践的なのがよいのは、当然のことです。ですから、ここも今、ステージや行っている曲やせりふをそのまま使うことはよくあります。あるいは、その録音で評価したり、直すところを指導することもあります。トレーナーが手本を見せ、それをまねさせる、こういうのも行っています。

しかし、実践と基礎の結びつきから、その基礎を学び、身につけることの必要性を必ず伝えています。そのために実践から入っているということです。

つまり、なぜ、実践できていないのか、あるいは、そこで指導しても直せる要素があったのに、なぜ直らなかったのか、直しても直らなかったのか、ということです。 それは結論からいうと、基礎の力がないからです。基礎をつける必要があるのです。

もちろん、短期で実践だけでよいとか、ステージ対応だけでよいと言う人には、それでよいと思っています。 その人の求めるところに対応するのが、トレーナーの仕事でもあるからです。しかし、ここは研究所であり、アーティストのいる場ですから、それ以上のものをバックボーンとして用意しています。求めるものを与えるだけなら、こんな説明はいりません。

 基礎がないというよりも、基礎が足らない、足りないというと3年、5年、10年と足らないのですから、その人の求められる表現、つまり、応用に対して最低限、そこに足りないところまで力を付けるのが、私のいう実践的ということです。本当は余るほどの力をつけないと表現は自由になりません。一生、トレーニングもまた変化し続けるというのが、本来のあり様なのです。

 

○基礎トレーニング

 

 基礎をつけたい、基本をやりたいと言って、ここにいらっしゃる人はたくさんいます。ほとんどの人がそうでしょう。しかし、そこを伝えても、それでその人がきちんと基礎、基本の意味、必要性を理解し、しかも、くり返さなくては、身につきません。頭で気づく力があっても、体を使って体を変えなくてはいけません。

頭でわかった、できたと思って終わってしまう例をくり返し述べてきました。頭で気づくより、気づかなくともよいから体で何千回も続けることが大切です。反復して身体化するのに、時間というよりもある期間が絶対に必要なのです。これまでにない新たなイメージ、それも潜在的なイメージに入ってこそ、心身が伴ってくるのです。

 基礎2年などと述べてきました。半年でも一年でも、その人なりに得られることがあります。でも、体が動くのに、どの世界でも一流の基礎は23年を徹底した後の10年だと感じます。

声と表現に、必要な年月を断じるのは、あまりに乱暴なので、気にしないでください。生涯、基礎を続ける、と思い込んでおけば間違いありません。それをトレーナーと行うか、一人で行うかでしょう。頭でわかったつもりで一人で行って身につく例は、この分野に関しては、とても稀なのです。しかし、その必要性がどこまであるのか、も問題です。必ずしもトレーナーが必要でないこともあるからです。

 

○実践的な指導の限界

 

1.応用  実感

2.基礎  応用できるようにする基礎

3.応用  基礎のある応用

 1の応用は、1日とか1回で、本人に実践的な練習であると思わせられたなら、それはトレーナーの演出です。その人の能力を妨げているものを気づかせ、取り除く、そうして意識化することで一時的に補い、効果を実感させるわけです。出た火をこうして消化する、でも、そこで火元や原因の特定やその根本的な対処はなされたわけではありません。

 この関連付けをきちんと行うことで、23か月でも、意識づけと使い方を知り、支えを強化すると、かなりよくなることもあります。

不調になっていたなら、体ならワンポイントのアドバイス、頭ならことばかけ、心ならテンションを上げさせるだけで解決することもあります。

基礎から入っても多くの人は基礎で実感できないから、応用から入るのです。でも応用でできた、という気になる人がとても多いのです。その場合、1で留まります。いろんなトレーナーのノウハウのつまみ食いをしても、限度があるのは、そういうことです。体からとなると早くて半年、大体は2年くらいは、かかるものです。

 

○実践のショー

 

 今までの体のままでも、よいところ、悪いところの応用はできます。よいところを褒めてテンションを上げ、自信をつけさせ、悪いところを指摘して直させて、効果をみせて自信を与える。

 ヴォイストレーナーは、その教え方や、メニュの信用を得るために即効的なことをみせなくてはならないことが多いものです。

体験レッスンも、こういうこともやるという一例にしかすぎないのに、今や、1回でこんなに変わる、と実感をもたせ、実践的なトレーニングだと思わせなくては、次のレッスンにはいらっしゃらないかもしれません。まして、他のトレーナーと比べられることも多くなったトレーナーは、差別化して演出力を上げなくては、人がつかなくなるから、どうしても、そちらの方向へ走り出します。

 私は、最初はプロと、次に、主に私の本を読んだ一般の人とやってきました。あまり実感の演出に頼らずとも、信用してくれたことろから始められたので、基礎づくりからの10年以上をやることができました。ここでは、そのような流れは大切にして、実践的な時間のためのショー、演出はできるだけ避けていきたいと思っています。

 

○基礎を抜かす

 

 研究所でも、トレーナーと分担するようになると、トレーナーは、1の応用をして、私をフォローしてくれています。トレーナーにも、ポップス、役者、外国人は、1を望みます。実践的であることがすべてのノウハウのように考える人が多くなりました。というのも、本人が、それである程度できてきたし、多くの人は、トレーナーにそれを求めてくるからです。

 研究所では、声楽家が中心で、それは、23のためですが、今では、1も必要となりました。声楽以外のトレーナーには、2の必要性を学ばせますが、かなり難しいときもあります。なぜなら、いらっしゃる人が、123での1を、欲しているからです。つまり、23のための1と言っても、1=3としか捉えられないことが多いからです。

このように表面的に、今日できることで、すぐ直せることもありますが、これをきちんとするには、本当は基礎が必要なのです。そう述べても、簡単には身につくわけではありません。そこを聞いてわかったつもりで、そこをやらずに1ばかりやる人が多いのです。すると、早く少しよくなっても、後は伸びないのです。

私は、基礎にその必要性がわかるのに3年、基礎が身につくのにさらに3年かかってもよいと思っています。

 

○専門性

 

 科学的な本についての批判、少なくともヴォイトレにおいて、発声の原理や共鳴の分析などが、何らトレーニングとは関係ないことは、これまで述べてきたので省きます。生理学、音声学での科学の統計、法則、理論は、歌唱やせりふの練習での本人の変容と関連づけがされていないことでほぼ無効といえます。☆

一個人のトレーニング前後の変化が何によるのかが捉えられていないし、そこが客観性を帯びていないからです。何らかの処方で現状回復は示せても、能力の向上、獲得には因果関係がないこと、個体差が大きく、比較や実証のしにくいこと、などを挙げてきました。

それにも関わらず、人というのは、相手に何らかの専門的な知識がある、その一つが当たっている、信じられるとなると、その人のどの方法も判断も正しい、自分に当てはまる、と思ってしまうものです。一つが正しければ、そのことをもって、その人の言うことは正しい、残りの全ても正しいと信じてしまうわけです。

それなら、本やネットで一日勉強すればトレーナーになれます。実際に、資格はないので、その日に、そうなろうと思いついたらなれるのです。

トレーナーの体験や経験がどのくらい指導に活かせるのかは、別に述べました。どのトレーナーも自分の得意なところ、専門のところに土俵をもっていて、そこでの信用をもって教えます。それでよいのですが、その前に、本当は誰か第三者がマッチングをすることが望まれます。

そのトレーナーの立ち位置、価値観を知ることです。方法、メニュのことなどよりも、あなただけにとって、もっともよいスタンスのアドバイス、具体的には、そのトレーナーを選ぶ意味を知るということがいずれは、大切なこととなるのです。一方で、そんなことがわかってしまうくらいのトレーナーなら大して役立たないようにも、思うのでもありますが。

 

○一流のコーチ☆☆☆

 

 正月に、NHKで水泳日本の復活を特集したTV番組がありました。そこで競泳日本代表の平井伯昌ヘッドコーチが、「(コーチとの)二人三脚は危ない、メダルを獲るのに選手もコーチも一緒になって力んでいる。傍から見ると、なぜ気づかないのかと思う」と述べていました。番組の主旨は、従来の専属コーチ制から組織として全員一団となったことが、日本の勝利につながったというものでした。いわゆる、日本人の好きな「絆での勝利」というまとめ方でした。

 それはともかく、オリンピックで、世界でメダルを獲る一流の選手とそのコーチでさえ、コーチとのマンツーマンのクローズされた指導では、狭く近視的になると言うのです。しかも、スポーツであり、その中でも最も結果がクリアな種目の水泳でさえ、そうなのです。このことを、トレーナーは肝に銘じておくことだと思うのです。

 彼のことばでは、「優秀なコーチゆえに、見過ぎているために、ちょっとした変化を見落とすのは、よくある」ということです。

余談ですが、水泳では、経験のためにと、人数枠いっぱいの選手を連れていかずに、世界で戦える選手だけをタイムで選考して連れていくようにした、という厳しさ(30名枠で21人だけ連れていく)に、私は感じ入りました。 

また、この番組で、故古橋廣之進氏の「『魚になれ』と言っていたが、速く泳ぐだけでは(人は)魚には敵わない」ということばも印象的でした。最も厳しく多くの練習をして世界記録を塗り替えて、会長として君臨した氏が、高校教師に改革を託し、支えたというのも意外でした。

 

○基準

 

芸術において、基準とは、難しいものです。多様性に支えられ独自の個性こそが問われるからです。とはいえ、ピアノ、バイオリン、ほか、楽器には個性はあっても、聴くことだけで決まるので、基準はかなり明確です。コンクールの採点のフェアさ、一流プレイヤー同士の共演などで、すぐれているものには、確かな基準がとれます。

師について何年、仮につかなくても、1万時間の練習もなく、一流の演奏をとことん聞き込むことなく、プロのプレイヤーは生まれません。

声は音と同じ、歌もラジオ、レコードの時代はそうだったのです。それが、今や、音声としての基準は、特に日本では、甘かったのですが、もはや、なくなりつつあります。☆

今回は、基準でなく実感の不確かさがテーマですから、ここで切ります。まぁ、どの業界も、基準についての論議はつきないようですが。

 

○ヴォイトレの反表現性

 

 一流は、「誰にも似ていない」「個性的」である、というのを、ヴォイトレであっても、どこかに掲げておくとよいでしょう。

ヴォイトレをしていない人は、あまり個性的にと考えてしまうと、ただの一人よがりになります。しかし、ヴォイトレでは、「正しく」とか「まねる」が、一方的に目的になりやすいものです。仮にヴォイトレが正すものとすると、それを正しているトレーナーに習う人が似てくるのは仕方ないのでしょう。

人間としてのベースの基本は、同じもの、共通性に基礎をとるのですから、肺が2つとか、呼気で歌うとか、そこは発声もそのように共通なものがあるのです。

 でも、一流となると、体、顔の形や性格のように、誰一人、同じ人はいない、いや、アーティストなら、同じような人は要らないのですから、そこを忘れてはなりません。

型は自由を得るためであるとくり返してきました。一流は、人と競うのでなく、人に合わせるのではなく、自分を出すのです。

 

○実感を保留する☆

 

 練習やトレーニングでは共通の基準で行うわけです。そのプロセスでは、誰かをまねて一人でやっているとそっくりになってくるのと同じことになりがちです。やり方を教えるという指導が主だからです。まねを止めるべきトレーナーが自分に似させてどうするのか、ということです。

 でも、現実は、誰かに似ている方が早くうまいと思われ、自分でも聞きやすくなり、憧れのアーティストに近づく実感があるから、なおさらそうなりやすいのです。本人の歌や声もプロの誰かに似ると実感を得られるのです。まわりもそれを評価します。だから、実感は、間違ってしまうのです。

大半の人が、本人自身の本来の可能性の大きさ、個性の追求へ向かわず、似せることに甘んじるのです。

アーティストをまねて近づく、トレーナーをまねて近づく、そこで、もっとも効果的に思われるのは、トレーナーが自分の憧れのアーティストのまねをしてくれて、「アーティストをまねる」が「トレーナーをまねる」に変わっただけ、ということになっているケースです。これは相当に実践的なトレーニングであると、誰もが実感してしまいます。すると、その何割かの到達度くらいでその人の人生が終わるのです。

可能性は、やりたいことでなく、やれることです。限界は、やりたいことでやれないことです。そこから見えてくる、その点で、習うことです。

あちこちトレーナーを回るのは一つのプロセスです。でも、そこで自分の実感を狭く固めていってしまうのです。実践的応用練習のワナがそこにあります。

基礎を続けていれば、基礎とは今、やれるようにすぐ変えるのでなく、今、やれないことがいつかやれるように変えないようにすることとわかるはずなのです。シンプルな基礎にこそ実感をもつことができるか、そこが問われているのです。

 

○原点と応用

 

 ですから、表現→声でなく、声→表現に、ヴォイトレは、基礎→応用とすべきなのです。

a.体、呼吸→声→共鳴→フレーズ

b.発音→ことば→歌詞

c.リズム→メロディ→フレーズ

 これでは左側が原点、右が応用です。体と声を一体化させていく、せりふ、歌にする。

そのための声は「アー」のロングトーン一つでもよいのです。くり返し、呼吸、共鳴のコントロールをしつつ、足らないところの強化トレーニングと脱力をして感覚、体を変えていくのです。

意識づけのためのアプローチとして、ときに右から左に行ってもよいでしょう。それは、異なる方向から気づくためです。それで、身につけるためではないのです。それで、仮にすぐに何ができたとしても、何かがマイナスになっているということです。

身につけるのは基礎のところで得ないとなりません。応用で得ても、それらは、大体はくせや独りよがりになることを覚えておいてください。基礎と応用との距離をとり、近づけず、一体化できる大きな器になるのを待つのです。

 

rf.参考として、これまで私の述べたもので

・「バッテリー論」

・習字()3次元

など、関連する論はたくさんありますので、読み返してみてください。

 

○まとめ

 

 ここまでで、ただもし巷のヴォイトレやヴォイストレーナーの批判のようになってしまったとしたら、私の筆力不足です。本意は、どんな方法もどんなプロセスもどんなトレーナーも、多様にあってよいし、それぞれにメリット、デメリットがある、だからこそ、本人がその位置づけ、スタンスをきちんとつかむことが大切ということです。そこでトレーナーが必要だということ、それを満たすようなトレーナーが、それほどいない、存在しにくい理由を述べました。そこが、トレーナーとしての弁解になっていなければよいのですが。大きな問題提起をしたつもりです。

それとともに、本人が考えたり感じたりしていることや、その方法、実感に対し、今はまだ考えられない、感じられない真実もある、そこの予感が、実感以上に大切ということを述べたつもりです。

 

« レクチャー&レッスンメモ No.305 | トップページ | 「学ぶ力」 No.306 »

1.ヴォイストレーナーの選び方」カテゴリの記事

ブレスヴォイストレーニング研究所ホームページ

ブレスヴォイストレーニング研究所 レッスン受講資料請求

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

発声と音声表現のQ&A

ヴォイトレレッスンの日々

2.ヴォイトレの論点