「実感と判断」 No.306
○メリットを求めないこと
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効率よくメリットが得られるものを求めても、それでは本当にはやれない、続かないのです。それは、小賢しくもそのままであることを欲するからです。大きく変わることがないからです。それゆえ、そういうことを勧める本は売れるし、TVの番組もそういうことをくり返します。
むしろ、本当はそうでないものが大切です。効果もメリットも示されずに行うことを必要とするのです。行動が変わるからです。
人は、他人に言われても、言われたようにはしないものです。現状のキープ、あるいは、元に戻ろうとします。
マイナスからゼロでなくプラスにする強い思いが生じても、変化するということは、その前にわからないことです。
ですから、トレーナーも、本当はこうなる、こういうメリット、効果があるなど、先に知らせない方がよいのです。一人ひとりが自分の答を得るのに、ヴォイトレを使うのであり、説明できるものではないのです。本人もなまじ知らない方がよいのです。
唯一、ルーティン化が必要です。同じことをくり返すことです。わかったと思って、本当の問題や現実から目を背けることがほとんどですから、それを求めずに続けるのです。
トレーナーが専ら説明して納得させることをすると、その人は満足して、トレーナーを尊敬するようになるでしょう。しかし、本人が自分の問題へ取り組むことを逃してしまいかねないからです。
現実は、実践でしか対することができないのです。続けるには、今ここを優先させること、手元に一点に集中する。一体化する、同調することです。全身を声にすること、有機的である体を充分に使えるようになることです。
○心
心とは、自分にはない、自由なもの、未来へのみえない不安によって乱れます。恐れることでのダメージは大きいのです。感情の乱れは深呼吸で鎮めます。
一日わずかでも、気持ちだけでも、明るいという時間をとりましょう。
心を落ち着かせること、瞬時に変わり、動き続ける心身、感情も体も突き放してコントロールすることです。感情に甘えず、切り離すことです。
○楽器としての声の成立
声は楽器が体内にあるので、楽器や道具との一体感など以前に、すでにシンクロしています。すでにそうなっているために、うまくいっていないだけに厄介なのです。
1.距離がとれない。2.心身の影響をそのまま受けてしまう。3.取り替えられない
楽器が本人であるために、オリジナリティ一つとっても、ややこしくなるのです。
個性がオーラっぽいもので通じて、音楽的な力、歌唱力と全く別に、ステージが成立してしまうときもよくあるのです。
○体操のように
ビギナーズラックが最も起こりやすいもの、話やスピーチなどと似ていて、歌は全くのど素人が、なりふりかまわずやって、プロより受けることもあるのです。
歌唱や発声は、体を動かすこと、体操のように考えてみるのもよいと思います。声を動かすと言っていますが、それは、声が自ら動く、勝手に動いてくるためのトレーニングです。
声に意識を本当に集中すると、自らの意識は消えていきます。自分と声の間のボーダーがなくなってこそ、他人にもしぜんに働きかけてくるものなのです。ヴォイトレとは、それに備えて声をきちんと手入れすることなのです。
○声へのアプローチ
声に集中して、声そのものと一体化するのは難しいので、ヴォイトレは要素別に分けてアプローチすることになります。高さ、大きさ、長さ、勢い、音色、響きなどを、それぞれで感じてみる。わかりにくければ、高さ―音色(この場合、共鳴の感じでよいです)大きさ―音色を中心に、音色で捉えてみましょう。
○機能を求めない
私が思うに、ヴォイトレをしている人でさえ、ほとんど声の音色に関心がいっていないようです。日常に使っている声といっても、多くは、発音や滑舌、喉の調子などを気にかけるくらいで、正しさ、明瞭さ、勢いなどの機能と印象で聞いているにすぎません。声よりもことばの発音や音程、リズムといったメロディで判断していませんか。
声を出すこと、出した声が伝わること、伝わった相手が反応すること、これらを分けて捉えてみるとよいでしょう。
○マナーと声
気を遣うことば、失礼のないことばを選んで正しく言うことで終わっていませんか。
気遣うのはよいことであり、マナーですが、ただ気遣っていると、きちんと正しく聞こえやすく、機能面ではよくなっても、声は固まってきます。
私たちは、アナウンサーのようには日常、親しい人と話しません。報道は感情を抑えて伝えます。会話は気持ちを伝えようとします。全く逆の方向ともいえます。
ビジネスでは、ビジネスライクに行われることを期待されるゆえに、ファストフードやファミレスのようなマニュアル対応も必要です。しかし、固まると、本当の事、本音は伝わらないのです。本音を伝えないためにマニュアルはあるのです。それは、本当は機能であり、声の応用なのです。
○固まらない
固まること、固定することからの解放は、声のためにとっても大切なことです。感情豊かに表現する、これも、ことばや声で本音をストレートに出してしまうと、ビジネスマンとしても社会人としては失格です。しかし、アーティストとして、それがないと一流になれません。日常生活で、それがないと親しくなれません。
固まることを、くせ、習慣、固定、偏りなどと述べてきました。それを変えるかは別として、捉えておくことは大切です。
○他人に学ぶ
自らの思うところが、どこかまでは捉えてみましょう。それでできたことが、その次のレベルに行くための障害になっている例は実に多いのです。だからこそ、解放とかリセットなどと言われるのです。成功体験に囚われて失敗する、伸びなくなるのは、どこも同じです。そういうことを自意識か自らをみて捉えるのは難しいのです。
そこで、他人をみて学ぶのです。
1.すぐれた人をみて、そうでない人をみると、その差がわかります。
2.すぐれた人を何人もみると、その共通点がみえます。相違点もみえます。
3.すぐれた人たちの共通点、相違点もみえます。そこで、自分をみるのを客観視するのです。
○学び方を学ぶ
すぐれた人や周りの人と自分を比べても、大して何もわからないこともあります。そういうときは、共通点やルールらしきものをみつけて、それに照らして自分をみるのです。それが基準、先に述べたのが材料です。そこで自らが囚われているもの、固められているもの、成長、上達の邪魔をしているものを学ぶのです。否定せずに捉えることです。
頭でわからなくても、歌やせりふなら、そういうものを排除するのに、できるだけ一流のものを聞き続け、くり返していくことです。その見本に何を選ぶのかという感性によって、半分は決まってしまうかもしれません。しかし、あとの半分は変わっていく、学んでいくことができるのです。
一流からの学び方を誰かに教えられることもあるのです。誰かに教わるよりも学び方を学ぶ方が大切なのは、何回も述べてきたことです。
○無知の知
たくさんの曲を知っている人もいれば、いろんな発声法や声の出し方、ヴォイトレの技術、メニュを知っている人もいます。これまで本や論文でしかみなかったのが、ネット社会になって、マニアのいろんな説を目にすることができるようになりました。
私は、マニアではないので、ネットで全てを集めるほど興味や関心はありません。数や量は、質を求めて行き詰ったときの一つの方便にすぎません。アーティストの名や曲、歌をマニアの人より知らないし、日本の歌手でさえ、もっとも忙しかった1990年代は、一般の人よりも聞いていませんでした。
私が求めるものは、どんな声でも出せるようになったり、声の分類をして組み合わせて新しい声をつくるようなことではないからです。自らの生命力になる表現の媒体としての声です。なので、質の悪いのがいくつあっても不要、最高の一つがあればよいと思うのです。
○改め続ける
本は書き続けていますが、多分、マニアよりも他の人の本を読んではいないでしょう。知らないこと、わからないことだらけのなかで、まとめられるのは、その理を捉えているからと思います。これを法とか本質と言う人もいます。原理の理、法則の法です。
ですから、私の本はどれも一つのことしか伝えていません。そういう本と、何でもかんでもいろいろと集めた本、試したものすべて載せている本では、目的が違うと思うのです。
しかも、私は、一度書いたものを常に改めて続けているのです。毎年学ぶと毎年変わる、それはレッスンを受ける人だけでなくトレーナーもそういうものなはずです。同じことをくり返しているようでも、日々、新たに新しいものと出会え、同じ人とも新たなことに気づき、全てはWhat’s newなのです。
自分の心身さえ、毎年どころか毎日、毎秒ごとに変わっているものでしょう。こうして述べていても、やめようとか続けようとか、いろいろと頭をよぎるときもたまにあります。
何事も一瞬たりとも元の姿を留めていないのです。人の定め、運命のようなものかもしれません。そこで声を扱うのですから、いかに大変なのか自覚ももちましょう、ということです。
○傲慢と卑屈
自信をもちすぎで傲慢なのもよくありません。もうわかっていると言う人ほど始末におえないものはありません。わかったつもりになっていたり、自分のわかっているところに一方的にもってきて、相手のことをしっかりと捉えていないからです。
しかし、自己を卑下したり、卑屈になるのもまた、よくないことです。
「私は声がよくないので…」「長続きしないので…」など、誰も聞いていないし、知りたくもないことを語らなくてもよいのです。それは、あなたでなく、あなたが自分をそう決めつけているだけのことです。レッスンやトレーニングに、マイナスになる考えはいりません。
自分を卑下しても、他人を見下しても、自分の力は今以上に伸びなくなります。先入観、偏見、固定概念で色がついていくからです。
同じ曲でさえ、気分で受け方が違ってくるものです。絶対基準をもちつつ、それを何でもかんでも当てはめようとしないことです。相対的に比べるとわかることもたくさんあります。自分のちっぽけな固定観念を捨てるためにどうするか、です。現実より現象の方が大切なのです。
○無常
無常とは、いつも時が流れ、変わっていくこと、同じことは2度とないことですから、過去に囚われないことです。囚われていると未来を悲観し、絶望しがちになるものです。日々、新たに生きることです。
客観視するのと、冷めた眼でみるのは違います。現実を直視するのは大切ですが、すでに答を用意して、そこからみるのは、固定観念そのものです。狭く狭くみて決めつけるのと、広くみた上で絞り込むのは、真逆です。
○絶対評価
聞き手は、そのときの気分で評価なども変わるものです。なので、周りのことは気にしないことです。よく、他の作品と比べて相対的に評価する人がいますが、それは、説明のための説明です。
私は絶対評価を第一にしています。比べられるところで、すでに何ら価値はないのです。でも、ビジネスレベルで成り立つくらいで、求められているものについては、誰よりも語れます。
基本は1秒でも絶対にのめり込むところがあるかだけなので、明快です。
業界というのも、歌も演奏もなくともよいと思っています。存在を認めさせないと評価にならないし、認めさせたら評価など不要です。シンプルなものです。
まあ、仕事だから毎週、同じ字数を書かないといけない人の文章と、本当に伝えたいときだけ書くこととの違いでしょうか。
○判断と評価
自分の判断や評価が適切でないことはよくあります。誰が何をもって、どう考えるのかは難しい問題です。自分以外の立場や価値観を知るのには、相当の経験とフィードバックが必要です。
欠点を全く指導されず、周りがカバーして、あるところまでやっていけてしまった人ほど、一度うまくいかなくなったときに、手の施しようがないわけです。
レッスンやトレーニングを自らの実感で判断するのは仕方ありません。しかし、それが曇っていたり、どこかがいくらすぐれていたとしても全てで万能ではない、そういう多角的な見方で気づくことです。そういう考えを伝えることがもっと大切だと思うのです。
○自由になるための学び
何かを行い、続ける以上、それは何かの考えに基づいて行っています。そこでは、すでに、固定観念の塊なのです。「自由に」といって、「自由にできない」ことは述べてきました、それでは、もっとも自由になれないのです。
ですから、私は、アドバイスもコメントも、それだけでなく、どの立場でどう判断したかの根拠を、できるだけことばにして示します。ただの感想や感情、好き嫌いでないところでみているので、言ったあとにフィードバックして、スタンスを付け加えます。
○本当の上達とは★
ありがたいことに、ここには、すぐれたトレーナーがたくさんいるので、いろんな見方や考え方、方法やメニュ、プロセスを教えてくれます。
自分だけが教えていると、生徒は、優秀なほど、自分が言う通りになっていくので、気づくことがなくなりかねません。生徒と共に創造しているつもりが、偏り、歪め、固めていってしまうことを恐れることです。☆
他のトレーナーが教えている生徒に学ぶこと、気づかされることはとても多いです。自分以外のトレーナーが教えている分、複雑で面倒で厄介になる分、いろいろと学べるのです。
上達した、伸びたなど、育つというのは、一人のトレーナーに認められるように、でなく、どのトレーナーにも認めるようにとならなくてはおかしいのです。それには、最初から多くのトレーナーにあたり、固定観念を崩してもらう方が有効なのではないかと思います。でも、多くのスクールやトレーナーの元では、そうなっていないのです。根本の価値観が違うと混乱をもたらすだけに終わりかねないからです。
Q.客観的な判断は、できるものなのでしょうか。★
A.他人の判断をたくさん聞く立場にある私は、いつも誰のどの判断がどこまで的確なのかを学んできました。なぜかというと、ずっと生徒のオーディションを10人ほどのトレーナーと共に審査してきたのです。今もここで、一人の生徒で4人トレーナーがついているケースは珍しいことでないからです。その上で、自分もトレーナーとして、その中の一人として自分なりの判断もするのです。
例えば、比較的明らかに思える声域についても、4人のトレーナーのチェックを見比べて、判定が完全に一致することはほとんどありません。そういう判断や評価の多用なあり方も認めた上で、どれもがよいのでなく、どれもよくないと認めます。絶対よいものを求め、必要があれば絶対評価と別に相対評価するのです。
まして、将来への予測は不可能のように思えます。でも、積み重ねることで正されてきます。同じ現実でも起きていることの見方、捉え方が一致しない、これが現象学というものです。判断をしなくてはいけない立場の人が、判断ということで何ら学んでいないのは、いや判断って人がするものだし…くらいなのは、恐ろしいことです。
Q.本物とは、嘘や偽りのないものですか。
A.アートがややこしいのは、芸のリアリティは、現実のリアルではないということです。現実でなく現象をみせていくものだからです。極端にいうと、増位山関など、相撲の関取が女心を歌って人を酔わせ泣かせるのが演歌でもあったわけです。心のあり様において、化かしあい、それをどう認識するのかは、どうとでも変えられるのです。
親が死んだ日でも、笑顔で人を楽しませるように歌うのが歌手、楽しげに演じるのが芝居の世界です。
○場の力と機会★
研究所では、楽器の他に音の鳴るものがたくさん置いてあります。結果として、宗教的な道具が多くなったのです。私も大してよい信者でないのに、月に1、2回はどこかの神社か寺を訪れています。何となく、そういうものと通じたものがないと、他人の出してくるものの判断をしにくいと思っているのかもしれません。
スタジオは、私がつくり、管理しているので、場の力があります。これが無機質なオフィスの会議室や学校の教室などでは、声も歌もしぜんのパワーに欠けるのです。他の大きな力の助けなく、私や参加者のテンションだけで行うのは、大変に思うわけです。
ヴォイトレは、一つのチャンス、機会に過ぎません。それで気づいたり目覚める人もいれば、変わらない人や、狭く固まっていく人もいます。続けていくと、ますます有効に思う人もいれば、そこそこの効果でやめる人もいます。
ヴォイトレにもよりますが、全てをよく変えるきっかけとして利用できる人は本当に少ないものです。その条件は、悩み、迷い、苦しみ、どうしようもなく行き詰ってしまうこと、壁に直面すること、挫折をくり返せることかもしれません。
○声魂
声魂、声に魂を入れること、声も歌の心のように考えてみるとよいと思います。ヴォイトレも、お寺で「般若心経」を唱えるようなものになればよいし、ヴォイトレが毎日の読経なら理想的です。
○異変
場が異質であるのは、非日常の時空を共有するためです。そこにいて呼吸をするだけで感覚は違ってくるものなのです。
異質なものに触れることに人は億劫です。しかし、そうして異変を生じなくては大して変わりません。迷い悩み、こだわりを切る、クリーンにすることでしか、声はステップアップしません。
でもヴォイトレでも、その逆のことをしている人がとても多いのです。鋭くでなく鈍くなるということです。
トレーナーも大半がそうなります。カウンセラーが心に病を抱えていて、他人の事よりも自らを治す方が先決というのと似ています。でも、自らを治せないので封印して、多くの他人に対することで社会性を保っている、そのレベルでの活動が多いのと同じようなものです。
他人を客観視するというのは、人としてみないことでもあり、そこで、そのレベルの人の多くのは、人でなく、ものと接する世界へ入ってしまうのです。でも、どこの世界にも、ほんの一部に、人もものも関係なく、真理を見抜き、引きだせる人がいます。
○デトックス
生きていたら汚れるのはやむを得ません。多くの人に対していたら、それは何倍にもなります。しかし、掃除をすればよいのです。
汚れないようにしようというなら、人と交わらないようにするしかありません。毒のないものだけを食べようとするようなものです。それは、社会では不可能です。考え方を逆転させましょう。
よくないものを入れても、排出、デトックスすればよいのです。息を吸ったら出せばよいのです。吸わない方法を考えても仕方ないでしょう。どんどん取り入れて、どんどん捨てていくことです。
○ただ行う
目的をもって正しく学ぶ、のですが、そのために、何のためにということも、正しいということもあまり考えずに、ただ行うことからでよいのではないでしょうか。
目的にそぐわないものはやらないとか、正しいことだけやると思っても、その判断をあなた自身でしている限り、目的に沿ったことはできず、違うことをやることになります。すべきことをよけて、そうでないことをやってしまい、それに気づかないことの方が多いからです。まず、何でも取り込んでいく、全てを体内に取り入れてから出してみるとよいのです。
○力を抜く
力を抜くのは、脱力だからといってダラダラするのでなく、リラックスなどと緩むのでなく、目一杯集中してスタートすることが大切です。短くとも濃い時間を積んでいく。濃さが、いつか深さになると思ってください。
結果として、落ちついて少し高まっていれば、まあ、リラックスできたのです。熱心に、闇雲にがなってハイテンションになるのとは違います。
○ヴォイトレ全能
私は、整体、マッサージ、ジムなど、あらゆる心身の解放や整えることを、ヴォイトレでできるだけ代替して行うことを提唱しています。治療というのが疲れからの回復、ゼロに戻すことに留まるのに対し、ヴォイトレは声を出すことで、常に、一歩その先に進めるからです。
音楽を聞いて、リラックスしても心はゼロに戻る、でもピアノを弾いたら、声を出したら、少しずつうまくプラスになる。その差は後になるほど違ってきます。その分、面倒で手間がいるのです。
掃除をするのでなく、少し飾り付けをするのに、掃除をしてしまっている、服を着たり脱いだりするのでなく、少しおしゃれをする、そんな違いでしょうか。
○発散と我慢
暇になると人は悪いことを考える。これは、ネットをみれば一目瞭然です。そこにずっと匿名で悪口を書ける人は、暇な人です。エネルギーを他に発散できないから、そこに執着して表現の場を求めるのでしょう。
他に発散できないときこそため込むべきです。我慢する力こそが、次に何かをなす大きなエネルギーになるのです。それを中途半端に発散してしまうとパワーを失ってしまいます。負のエネルギーこそ、ためてためて正に転じる、つまり昇華することです。
大きなマイナスを小さなマイナスにしていたところでプラスにはなりません。そこへの反応に囚われ、さらに人生の時間と活力を無駄にしてしまいます。暗く自ら囚われていくのです。悪口などは、発したとたん、自らを痛めつけているわけですから。
でも、それがストレス解放になっているよどんだ場では、反対の面、穏やかでやさしい人を演じられるということで、はきだめという効果で、ギャンブルのような必要悪として消えることはないのかもしれません。で、いつも問いかけてください。それで心が高まりますか、と。
○退屈と退化
刺激がなく、反応がなければ退化します。ボケてしまうし死んでしまいます。ですから、人は、刺激を求めます。何もしない、何も考えないのは、まともに生きている人には、難しいことです。
退屈が嫌だから芸事も発達してきたのです。なので、退屈な芸事やその練習をやることを私は好みません。歌や歌の世界が退屈になってしまったから、私はそうでないところにいることが多くなったのでしょうか。
○休む
体を動かさず、何も考えない瞑想より、声を出したり歩く方がよい状態に入りやすいものです。人は、考えすぎたり動きすぎたら、それを抑えて休みたくなります。ですから、瞑想したければ一日目一杯、心身を使っていれば、わざわざ行わなくともやれているのです。疲れたら眠ればよいのです。眠れるまで目をつぶっていればよいのです。ジョン・ケージの「4分33秒」などは、まさに瞑想のことでしょう。
○観察する★
自分を客観視するのに、他に考えてしまうことが邪魔するのです。邪心が自分を正しく、そのまま、ありのまま現実として捉えられなくするのです。
踊り手やモデルなら、他人の眼にどう映るのかを、鏡をみて徹底して客観視するトレーニングをします。ヴォイトレも観察の一つですが、目でみることができないので難しいのです。
でも、観て察するところは同じです。現実に対して虚構がある、自分の声と自分の思った声とにギャップがあるのです。
これは、耳から聞こえる声と録音再生の声の違いということではありません。あなたがよいと思ったり求めている声と、本当にあなたのよい声、価値のある声とが違うということです。
声が捉えにくいのは、絵のように視覚でないため現実の声とその働きかけということに距離がとれないことです。習字なら生徒の書いた字に先生が赤を入れたら、違いが距離として明示されます。
声は音波振動で聴覚ですから、そうはできないのです。研究所では、声紋分析で声のヴィジュアル化して提示はできます。でも、そこに他人の声での修正を加えてみせることはできません。本人の修正は、本人の声でしかできないのです。
○伸ばす
背筋を伸ばす。背骨(頸椎、胸椎、腰椎)とインナーマッスル(脊柱起立筋、腸腰筋)の働きをよくすること。
○月輪観
研究所に、冥王星のポスターが貼ってあります。丸いのをイメージします。そして「あー」と声を出します。(阿字観)
よくお寺に唱える真言が、ひらがなで書いてあります。せっかくですから唱えましょう。
不動明王の「のうまく さまんだ ばざら だん せんだ まかろしゃだ それたや うんたろた かんまん」は、よくみかけますね。
他に「おん あぼき べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」(光明真言)
「おん あびらうんけん ばさら だとばん」(大日如来)
「南無大師(なむたいし) 遍照金剛(へんじょうこんごう)」(弘法大師)
○囚われ
声から自由になる、のは、声をもたないということでは、ありません。声に囚われないで声で表現できることです。もっていてはよくないのではなく、もっていることに縛られないことが大切です。ということは、もっていないことにも縛られないこと、囚われないことです。となると、もってしまって囚われない方が、もっていないで囚われないよりもよいのでないでしょうか。
Q.直感こそがすべてではないでしょうか。
A.ダニエル・カーネマンは「ファスト&スロー」の思考について、それぞれ快と不快で分けつつ、これからは遅い思考が大切になると述べています。
直感的に得だと思うことは何にもならず、ゆっくりと考えられる人が長い人生では成功するということです。
Q.日本人の民族性が出ているものには、何かありますか。
A.お笑い芸人のロッジに巨乳ネタというのがあります。日本人のように、二の腕、うなじ、盆のくぼ、襟足などにエロスを感じる民族は、他にどのくらいいるのでしょうか。
「詩よりもすばらしい腰つき」(「イパネマの娘」)では、ブラジル女性の魅力は臀部、尻なのです。バストなどの魅力はハリウッドのもたらしたものです。日本人も西洋化されるまで、いや私の幼少期くらいまでも、胸などにさして性的なアピールなどなかったのです。日本人の体つきということもあるのでしょうけど。
すぐに触って確かめ合う文化の国では当たり前のことでも、触れることが日常にないところではタブーになります。日本中に貼られている痴漢注意、秋葉原駅には盗撮への警告。こういう文化もまた、日本にしかないように思います。「フランダースの犬」「マッチ売りの少女」などのストーリーは、他国では日本人ほど受けないようです。
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