「自在の心身をつくるには」 No.307
○声の重さと力感
声の重心をイメージして、体をボールのように感じてみましょう。これは身体の重心を感じることが元になっています。声を身体化させるのです。芯、線、中心、でも、一つでないかもしれないし、少なくともその一点は不動ではないと思うのです。
たとえば、剣は、腕だけで打つ手打ちより、体を入れて打ちます。しかも、反らないで打つ、となると、それで3段階のステップアップになるのです。
力感の誤解は、案外と多いものです。中心と部分(周辺、末端)では、中心が動かず、他が働いて小手先で動くようになるのを避けて、中心に操作を移していくのが基礎です。☆
首と腰は動きますが、その間の背は固まっています。
手先より腕、腕より肩を動かす方が楽に大きく動かせます。これも、応用―基礎なのです。手足より胴、そして体幹というのも同じくコアです。
声も、それを支えるものを同じように感じてみてください。声の重さを感じて使うことです。
○3つのステップ
声も、喉で出す→頭内で出す→胸で出す、とみてもよいし、あるいは、喉で出す→全身で支える→しぜんに響きが集まる、という方が深いかもしれません。
これもa応用―b基礎―c応用とします。部分を全体でやるために意図的に全体、まさに体全てを使ってやってみて、身についたら、体はしぜんに使えているので、使っていないようにみえる。でも働いているのです。
こういう3段階をa、b、cとすると、一見、aとcは同じにみえます。そこで、aと同じようにcに調整のメニュを使ってしまうのです。bがついたcと何もないcは、明らかに異なるのに、そこがわからないのです。
なぜなら、声において、a→bは日常の過ごし方のなかで差がついてきたものだからです。ここに大きな差がある、それを意図的にトレーニングしたのが声楽だから、その基礎を中心に使っているのです。
こうして区別して述べることは本意ではありません。a―b―cの関係は、a>bであり、a+b>c、>は含まれるということです。ステップ上で仕方なく、a⇔bのように述べていますが、aとbが分かれているのではなく、説明のために分けているのです。2つでなく1つであるのです。
ですから、簡単にすると、a(+b)=c、このbが、人によって違うし、必要によっても違うのでみえていないのです。特に、私は、二流と一流のところでcとc+αのように区別して使いますが、これは、a+b+αのことです。歌唱ではa+αでプロの人が多いので、わかりにくいのです。(ここはわかりにくいので、先に進んでください)
○調整のヴォイトレ
私は、リハビリとの関連で、調整のトレーニングを研究してきました。それは、声の弱い初心者や声を壊した人と一流に通じるノウハウといえます。一般の人や、プロを目指す人、さらなる実力をつけるという人にはトレーニングが必要なのです。なのに、ヴォイトレとして行われているノウハウのほとんどが、声においての基礎でなく応用となっているのです。むしろ歌や音楽の基本の練習となっています。それは、教えるのが声よりもそちらに詳しく、それらを学び、実践してきた人たちであるからです。声については、元々あった人かあまり強くない、つまり、トレーニング経験が不足しているわけです。
○幅をもつ
理想のイメージは、柔剛兼ね備えていることです。骨は固く筋肉は柔らかく保ちます。そして、筋肉も柔らかいだけでなく、硬―柔に大きな幅があり、瞬時に変化できることが大切なのです。ほぐすだけではだめです。鍛えないと弱ってしまいます。大きな幅をもつこと、それは、普通の人の柔軟さよりずっと柔らかく使えることが理想です。
○解放する
叩いたり触ると、そこが意識されて働きやすくなります。声のポジションを触って確認するとよいでしょう。
赤ん坊や小さな子供のときから心身は固まってくるので、解放していくことです。体が硬くなるのを解放することだけでも、かなり声は自由になります。
なぜ固くなるのかというと、動かさないから、あるいは、動かし過ぎるからです。目を使い過ぎても、手や足を使い過ぎても、筋肉は固まります。
○スマホの害
そこで問題になるのは、スマホ中心の生活です。スマホを正しく打つには、視線を定め、体を固めなくてはなりません。これは、心身に過度の負担を強いています。その時間と作業密度が突出してしまったからです。家に閉じこもってのTVゲームと同じです。
アスリートや農家の人なら、筋肉を使ってもそれほど一方的に疲労が蓄積しません。スキーやスケートでふくらはぎが固まる、私は、慣れぬうちは高速道路の運転でもそういうことがあり、困りました。でも、それを自覚してほぐすわけです。若いうちからスマホ中心になると、このバランス感覚がないままにのめり込み、偏るわけです。
○構造の原理
身体をその構造の原理通りに使うということで能力をアップしていく、でも、どこかに限定があるのです。アスリートは、競技でそこを制限されます。その自由度は、イメージに沿えばよいという、画家、書道家などに比べて低いでしょう。プレイヤーも、肉体と楽器とのつながり、道具の身体化、一体化に尽きるのです。
もとより、一体化しているもの、体を高度に使いこなすとなると、歌手はアスリートに似ています。役者は、声に全てを負いませんし、日常の拡大をして個性をキャラに演技として使えます。歌手は、音楽を扱える声の楽器としての完成度を高めなくてはならないのです。
体の動きには、腹直筋と大腿直筋でなく、その裏の腸腰筋を使うことで、達人になれるといいます。一方で、心の動きは、無我、無私、無心の境地を目指します。身体を感覚して余裕をもつことによって、よりよく対処できるのです。
○感じとる
どんなにできなくとも、感じとれるなら先があります。感じとれなければ、感じとれるように努めましょう。感じなければ感動もしないのです。感じとれるからできるようになるのです。
次に感じたことを自らやろうとしても、うまく一致しなくなるから、基礎条件が必要なのです。その一つが声力なのです。「役者の声」と私が述べてきたものです。その下に呼吸、体があります。支えとも呼ばれます。
感じられる、みえないものに感じていき、みえるようにしていくことが前提です。かつて、私は、レッスンの9割を聴くことに使っていました。それは感じることの絶対量不足からです。音や声から体や支えを感じていくのです。感覚の系の強化が必要なのです。
○呼吸
肺は下の方が大きいのです。肋間筋より横隔膜を使うこと、そのために背中を使うこと、腰椎で横隔膜と大腿筋は重なって連動します。 肋骨は、助間筋で、前後、左右、上下に膨らみます。しかし、横隔膜の働きの方が大きいのです。(rf)
○流れ
流れていて止まらない感覚、たとえば、道路で判断できずに車を止めてしまうのは初心者です。動いているなかにいては動きながら判断しなくては危険です。時速60キロの流れで60キロ出していたらぶつかりません。60キロの車とぶつかっても1キロの衝撃ですが、止まっていたら61キロの衝撃です。止まるときは、終わりなのです。
○観戦する
バスケットでの選手の動きとボールの関係、プロ、一流ほど、一体化しつつ、それぞれがバラバラで動いていても、距離も時間も系としてのまま、瞬時に変化し続けます。
感覚として、ドリブルは、手まりをつくのと、ボールを床に抑えつけるのとでは大きく違ってきます。一流のスポーツ観戦をお勧めする次第です。最大の見せ場で、どう力が最高に発揮されるのかを入れておくことです。
○一万回
基本練習、一万回としたら、それは何をくり返すのでしょうか。一曲の歌か、それともフレーズかということです。いくつもの発声がフレーズで一つに絞られるのは、取捨選択でなく、一つに結びつくのです。ここが大切なポイントなのです。
流れが出てくると力がしぜんと抜けます。うまくいかないときに入るのです。車のハンドルを回しても戻すのは自動的に行われますから、急なとき以外は手を離せば戻るのです。
○軸☆
上に伸びるには、根をはることです。広げるか深くします。右手で投げるのに左手で後ろに反動をつける、前にダッシュするのに後ろに蹴る、右に曲がるのに左側に手を振る。反動を受けとめるので、バランスがいるのです。
軸、後頭部から真っ直ぐ一本の軸を下へ、このとき、股のところでは、肛門でなく、少し前の会陰部になるでしょう。発声のノウハウで、よく「お尻の穴を締める」と述べられています。私は、「締まる」としてきました。実際は、プロセスとして、そのあたりに意識をおくと、うまくいくことや、うまくいった人が多かった、ゆえに、残っているノウハウなのでしょう。ノウハウの効果の個人差と、そのために少し早く少しできても、そのことで先に進めなくなる例として触れてきました。
○ツールに頼らない
自由を妨げるものを使うことで力がつく、これがトレーニングの原則です。ですから、自由を広げる補助ツールを使うと力はつかなくなります。
マイクやカラオケ機器というお助けツールを使うことで、早くうまくなります。それは、そのように見えるだけです。うまく、というのは、うまく欠点を隠したわけです。それでは実力はつかないでしょう。
逆に、アカペラにした方が、下手になって、それゆえ力がつきやすいのです。欠点をあぶり出すのです。レッスンは、欠点を知ることにあります。それをなくすのでなく、それを長所にしたり、長所でスルーできるようにしていくのです。
ギャップが本人にもみえるようにするのです。うまいと思うと、それ以上にうまくならず、下手と思うと、それだけでよくなる方へいくのです。
ピアノの伴奏なども、うますぎると歌手が育ちません。そこで音楽的なセッションができて感覚が磨かれるという見方もありますが、大半は、ピアノの演奏力に歌がのっかっているだけだからです。ピアノの助けで聞かせられているのです。セッションは、ぶつけあうことでの新たな即興作品です。相方によほどの力がないと成り立つものではありません。(rf)
○言うより聞く
言うことでなく観ること、聴くことがトレーナーの仕事です。見極め、聞き極める、聞き分けるといってもよいでしょう。そして、思ったままに、未消化のままでは言わないことです。
瞬時に「だめ」とは言えないことが多いのです。一見間違いでも、それはどうして生じているか、その先に何かプラスはないのかを見ることです。アドバイスにはタイミングが必要です。
聞かれたときに、すべてが答えられる準備は、いつもしておきます。しかし、自分から言うときは、細心の注意を払います。一般論でなく実践は個別なのです。
○プラスにする
マイナス面をなくしたり直すことで、プラスもなくしていることが多いのです。だから個性がなくなります。
教えた相手が自分以上になっているか、とみることです。期間も大切ですが、自分より早く伸びているのはよいのですが、大半は、初めだけ早く伸び、そこで頭打ちでは、何らよくないのです。時間がかかっても、自分の域より上に伸ばすことができるかが、本当は問われているべきなのです。業界や、その分野のレベルが上がっていくのなら当然そうなるものです。
が、トレーナーにつく人が、その人に憧れて、最初からその人を目標にしていると、到底無理、超えられません。そんな人ばかりなのですから、そこから変えることです。
一方で、変えさせるより変えないこと、そこでわからせることも大切です。ベストのフレーズを知っていて、それを出させる材料、フレーズを与えられることです。今あるものにプラスしていくということです。
○彼のものとわかるスタイル
流派は型の継承であり、スタイルといえます。反復していき、習慣=日常化するのです。
憧れ、感動に導かれていくのは、悪いことではありませんが、そのまままねるとくせになるから、その間に型をおくといえます。抵抗であり、整理のためのシンプル化です。
○憧れの先
憧れた人をよいコーチにするのではなく、よいコーチが憧れているところへ目的をもつ方がよいでしょう。憧れた人を目的にするのでなく、憧れた人が憧れたところを目的にするのです。劇団四季のオーディションを目的にするのでなく、そこのトップスターを目的にする。さらにそこのトップの人が目的にしたものを目的にする、そうでなくては、入れたとしてももたないでしょう。
○目的とそれに対するスタンス
基礎でも、部分の基礎と系、つながりの基礎があります。フレーズは、系を含むスタイルです。基礎と応用を経て、出てくるのがオリジナルフレーズであり、そこを求めることです。
基礎のない応用では世界に通じないのです。くせとまねに陥り、事実、くせかまねか、どちらかだけの歌手が多くなったのです。それで一般の人もわかりにくく、わからなくなったのです。
○応用の違い
トレーナーが指摘することから気づいて、取り出す、主観と客観をすり合わせるスキルをもちましょう。イメージと現実の体の動きとの一致を音で判断することです。本人流をみつけるのに、基本の変化の仕方での応用が個性となるのです。基本を踏んでいないのがくせです。すでに応用しているから、本当の応用が効かないのです。☆
○ルール、法則、文法、型
1. 知ってもすぐ役立たないこと。
2. 現実と結びつけていないこと。
これらをトレーニングとするのです。経験だけでなく、その方法や気づき方、イメージを知ることが大切です。
○経験の限界
人は、すべてを経験できません。早熟で世に出る人などは、生きてきた時間もそのことに接した時間も、長くその道にいる人より短いのです。プロに1万時間が必要といっても、2万時間や3万時間を経たからといって、皆がプロになれるわけではありません。
レッスンとは、練習を時間として重ねる場でなく、その方法を知ったりチェックしてワープのきっかけを得るところなのです。時間そのものを変えてしまうのです。
大学は象牙の塔と揶揄されていました。それは現実の世界、ステージでなく、イメージ、あるいは、ことばの世界だからです。そこから実践すると、出てくる矛盾を乗り越えようと磨かれていないからです。
○学び方の違い
実践と練習をどう区切るのかは、それぞれに違いますが、本番、試合、ステージで行うことを一時ストップして、それと別のことを練習として行うのです。実践の経験は大切ですが、それだけでは向上はしません。
誰もが実践的なことを求めますが、実践的なものほど、そのままに通用することを求めます。だから高まり深まることには不向きです。
型について再三、述べてきたのもそのためです。面倒な作法にのっとるのもそのためです。
声や歌を聞く、少数の天才は、そこからすぐれたものを見抜き、自らのすぐれたものを伸ばすのに使います。しかし大半の人は、最初は、すぐれたものをすぐれていると感じられず、その本質が何なのかを見抜けません。そこを、誰かに、あるいは何かに教わります。
一流の作品を買う、すごいと思うのが感性とすると、天才も同じく一人でなしえているのでなく、教えられ学んでいるのです。そこから自らをすぐれたものとして発現させていけるのか、まねして亜流に終わるのか、そこが学び方の違いなのです。
○フィルターを知る
人は、何かを見るときに、すでにフィルターをかけてみています。そのことが数多くの実験で実証されています。このフィルターがどうなのかを知ることです。外したら何も認識できないから、より、たくさんかけているのがプロなのかもしれません。たくさんで偏向して、却ってみえなくなると専門バカと言われます。
知識もフィルター、法則もフィルターです。万有引力の法則で、地上では便利に生きている分、宇宙で通じなくなるというものです。
知ることで観念が生じ、固定観念になります。間違いを犯したり、真実を遠ざけることもあります。しかも、フィルターが厚くなり、そのことに気づかなくなるのです。
真実を直接、教えられないから、自らの誤りを正せる力をつける、気づく力をつけさせるのが教えることです。だから、自分で考えさせなくてはいけない、答えを人が与えて知らしめてはならないのです。
そのシミュレーションは抽象的に普遍的にしていくのです。具体的、実践的でないのです。わかった、でも、そうでないでしょう。わからない、わかった、このくり返しでよいのです。
○観について☆
間違い、誤りに気づいて正すのではありません。浅いことに気づく、このくり返しで何事も深まるのです。
個性、独自性と、普遍性、共通して通じるものとの関係を見極めようとしてきました。本人の作品と他人の評価する作品のギャップと、その見方ということです。
型や流派、分野などという制限は、共通する感覚を深め、チェックし、認識、評価するのにわかりやすいノウハウです。絵のうまい人はデッサンもうまい、すごい人はデッサンも個性的でしょう。
先天的にもつ芸術性は、反応したり感覚できる能力の存在です。「子供は天才」のゆえんです。それを教育で否定してはよくないですが、保留しないと一人よがりになって伸びません。そのまま放っておくことが「二十歳で凡人」になるゆえんです。
生理的に得ている構造、発声は、人類の進化の結果の一つです。でも、使うのに訓練が要ります。歩くのと同じです。
生理的である擬声語や泣き笑いという感情表出さえ、文化文明の影響があります。生活での慣習、教育によるのです。
神話に象徴される世界観も教育です。宗教もまた同じです。民族としての世界観も、それぞれ独自にあります。歌い手もそれが強い人が個性的となるのです。人を演じる役者もそうでしょう。それを独自に提示できるのが、一流なのです。
一流のアーティストは、ことばを使わないで別のもので示します。ことばで示すのは、作家です。教えるのには、ことばは媒介となることが少なくありません。その世界観が相手を支配することもあります。
○文化☆
ある習慣に価値があると認められると文化となります。それは習慣ですから、すでに身についているものです。大半は、意識されません。でも、文化は意識されます。そこで価値判断がなされるということです。
歌が歌える、ピアノが弾ける、そのことと、それが芸や芸術と言われるのとは、明らかに個人の技量差があります。早くハイレベルに身につけるためのやり方があって、それをノウハウというのです。
定式化した作法として身につけ、しぜんな所作で価値を体現したら芸となるのです。日本では、道と呼ぶことがあります。人生も人の道、動物にはありません。
常に初心、世阿弥は、若年の初心、時々の初心、老後の初心と、3つについて述べています。
手に職のついたプロが語り始める、それが書物の時代以降、印刷物で普及されました。
もちろん、本もまた、フィルターに他ならないのです。
○朗誦して学ぶ
思うままに書く、思うままに歌うとか、曲を作る、それよしとする素人の感性を評価する、生涯教育としてはよいことでしょう。そして、それはまた、一流への教養、嗜みでもあったのです。
戯曲、話芸、説教。武士は浪曲、町人は浄瑠璃を嗜みました。
○習うということ☆
学ぼうとしているとき、すでに平常心は失われているのです。禅の数息観で「イーチ」「ニー」と呼吸を数えます。声を出だすと、さらによいでしょう。
最初からうまい人はいないのです。
修行は体験での形から入ります。
問答はすべて自己否定であり、そこで理論理屈の通じないに学ぶのです。
それが潜在的な力となっていくのです。「いざというとき強い選手であれ」(松平康隆)
○修行ということ☆
こちらが苦しいときは、向うにもそれに対応する何かが生じかけている、ダメなようでチャンスです。フォームは学べるが、タイミングはつかむしかないのです。
土台づくり、足腰なら歩くこと、登ること、走ることからやり直す。
山岡鉄舟の五剣、真剣、妙剣、絶妙剣、金翅鳥王剣、無刀の5段階、そのなかの金翅鳥は羽のなかに宇宙を収める、といいます。
覚えたままでなく、忘れては、常に返って事にあたる。
つかんだという確信がないから、また消えるのであり、まだ本物でないのです。
説明のつかない世界に中途半端に頭でわかって直そうとしても、完全に直っていないし壁も破れていない。そこを抜けそうなときに安心するのか、特訓するのかで180度違ってきます。
教わったりまねたりするのでなく、がむしゃらにやっているなかにノウハウを会得していくのです。
自分以外のものに取り込み、自分以外のものが自分となる。自分対自分以外のものでは、ないのです。
「自己を習うとは、自分を忘れること」と「正法眼蔵」にもあります。
○まとめる習慣
やったことをまとめておくのは、とても大切です。それを詳しく思い出し説明するように日頃のトレーニングで行うのです。石川遼さんは、いつも父と、そういう会話をしていたといいます。それは、彼の試合後のインタビューでの驚くべき適切な受け答えに現れています。
○もっともよい方法
a.断定 威圧、限定、合理、統制、防衛、分裂、恐れ
b.共感 許容、無限、直観、自発、解放、連結、愛
これを、要素の分析でなく、それらのつながり、関係のあり方としてみることです。
○○法ということでは、他と区別しているようにみえ、実のところ、つながりを拒み、独善的に偏ってしまうことになりやすいのです。私自身は全てをまとめるつもりも、よし悪しを分類するつもりもありません。それぞれのスタンス、メリット(と、それに必ず伴うデメリット)関係を把握したく思い、実践しているのです。
即効や効果大というのも、大半は、そんなこともないので使えないものです。たまたま、うまくいったときには、同時に毒にもなっているのに気づけるのかということです。洗脳されずに自我の確立などと言っていること、学んでいることが洗脳であったりするのです。
○自立とは何か
自立とは、何でしょう。自立というのは、何かを選ぶ、つまり、何かを捨てること、その勇気をもち一人で生きていく力をつけること、そのために人に助けてもらい人を助ける関係をつくることです。そういう選択は、その人の価値観で行われ、その辺りが性格にもなってみえるわけです。顔も性格も、人生の体験で変わります。感情を顔に出していくと筋肉の動きも変わるものです。変わるほどに歩みましょうね。
« 「芸」 No.307 | トップページ | 「伝えることの複層化★」 No.308 »
「1.ヴォイストレーナーの選び方」カテゴリの記事
- ブログ移動のお知らせ(2023.07.01)
- 「歌の判断について」(2021.10.30)
- 「声道」(2021.10.20)
- 「メニュ」(2021.10.10)
- 「感覚について」(2021.09.30)