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2017年5月

「コンテンツについての考察」「声での構築」

「コンテンツについての考察」

 

○仕組みとプロデュース

 

 ものをつくる、そして売る、そこで時間や資金をストックしたら、少しずつ高価値コンテンツをつくるのです。ある意味で、企業の拡大、再生産に似てくるわけです。その仕組みをつくっていきます。仕組みとは、価値づけ、集客(売り込みと集金)、PRと投資の回収です。これを担うのがプロデュースです。

 

○作品、ソフト、コンテンツ

 

 歌は、音声にのせて伝わるものですから、メディアは、音です。それを運ぶのは空気の振動波です。ラジオとなれば電波です。

 一般的に、容器というならパッケージ、つまり、レコード、CDSDカード、メモリーです。マスメディアというならラジオ、テレビなどとなるわけです。

 昔はハード(もの)に対し、ソフト(ソフトウエア)と言ってきましたが、作品ということでは、コンテンツという言い方も一般化してきたようです。コンテンツとは、中身、内容とでもいえましょう。著者にとっては、目次(Table of Contents)です。

 マルチメディアと言われた時代あたりから、ソフトがコンピュータのプログラムにおいて使われたため、コンテンツ=著作物として区別しようとするニュアンスが強くなりました。となると、コンテンツは、つくった人、オリジナルをもつ人のものとなります。

 

○コンテンツの著作権

 

 歌であれば、著作権は、それをつくった作詞家、作曲家に与えられます。歌唱した人にも若干、印税が入ります。歌手や俳優は、コンテンツ制作という見方はされにくいでしょう。「歌手○○のためにつくられた歌」というようになると、コンテンツ力のある歌手といえなくもありません。創唱という権利を認めるべきという人もいたようですが。(創唱とは、最初に提唱したこと、歌では、最初に歌った人として使われています)

 一方、シンガーソングライターは、作詞作曲の権利も含めてもつ存在となり、1曲でもヒットしたら莫大な収入となりました。

 映画では、俳優とカメラマンと大勢のスタッフがつくっているのに、監督の作品になります。どんなに主役の力で売れても、権利は監督です。そこからみると、音楽は、俳優・声優より恵まれているのでしょう。

 

○歌とコンテンツ

 

 CDに入った曲はコンテンツ、TV番組のなかでの歌のステージもコンテンツ、ライブは、ステージそのものがコンテンツですね。

 コンテンツは、何を、どれで、どのようにして、の3つで区分できます。

 このあたりを、もう少し丁寧にみると、人が作品として受け取るに値するところまでパッケージを完成させてコンテンツとなります。いわゆる、完パケですね。

 ですから、声だけということはありません。

 本であれば、目次、前書き(あとがき)、表紙、ページなども必要です。その構成がみえるのが、目次なのですから、先の例では、構成テーブル、コンテンツは内容構成ともいえるわけです。

 

○コンテンツの量と質

 

 よい歌とは、長い歌でも大きな声で歌われている歌でもありません。歌詞が長いと、小説のようになっていきます。短すぎるとよくわからないでしょう。そこで量が多いから価値があるとか、よいとか、得だ、という人はいないでしょう。

 でも、CD20曲以上入っていたり、アンコールで何曲も追加してくれると、得したと思う人はいるでしょう。

 たくさん詰め込まれた方が得か、すぐに終わる方が望ましいのかは、本来、芸事に関係ありません。どの時間でも、表現が人に伝わり人の心を動かしていなくては先に続かないのです。人の集中力の制限で、何につけても90分くらいの区切りが多いですね。

 情報量については、音では、CDは、デジタル情報量として比べられます。ハイレゾは96~192kHZCDのサンプリング周波数は44.1kHZです。

 

○ドラマと現実の共感

 

 作品は、現実の世界の編集と再現ですから、現実のまね、そのピークのダイジェスト版といえなくもありません。ドラマは、ドラスティック、まさに劇的、人生のそういう場面で盛り上がるようにできていますね。Dramaは劇や戯曲ですが、日本ではソープオペラに使われています。元はギリシア語の行動です。

 いくら現実離れしているようでも、共感できなくては価値は生じません。共感は、つくる人たちにもですが、それ以上に、受ける人が快楽を感じるものがよいとなるわけです。もちろん、学ぶことにより、よりよく対応できるようになっていく効果も生じるわけです。慣らされていくのであり、ハマっていくのです。

 

○模倣とリアリティ

 

 模倣するのは、およそ、現実社会、個人の体験、人類の体験、文化と歴史と風土、多くは過去の作品です。

 リアリティとは、創造によって、これまでの世界を超越するだけの価値をもたらし、現実以上の真実を突きつけることです。

 

○情報の編集と収穫

 

 多くの情報、素材を集めて、分類、編纂、編集して、ダイジェストすることになります。なかでも、自然がもっとも大きな情報量をもちます。

 自然のものや実物を、どんなに正確に絵にしたとしても、色の数、大きさで限定されます。写真や映像も同じですが、もはや目で区別できないほどの精度があります。

 

○ゲームにみる3変化

 

 ゲームは、現実生活のシンプルな模倣がほとんどです。そこから一人歩きして複雑化していきます。ルールも高度になり、マシン化も進みます。すると、マニアしかついていけなくなるので、再びシンプルになります。テクニックでついていけない人は、楽しめないのです。そこで、より情感に訴えるような形になるのです。シミュレーションゲームが難しくなりすぎ、RPGなどが出てきたのも、その流れなのです。

 

○リピートに耐える

 

 途中で飽きないこともよいコンテンツの条件です。そのためには、脳の受け取り方をふまえた快刺激、そして、その連続が求められます。

 緊張と弛緩のメリハリ、人は、そこに何をみて、どう感じるのでしょうか。そのために何をどう入れるのかは、どんな作品にも問われることでしょう。

 何回もみたり聞いたりする名作と、一回きりで味わいつくす名作との違いは、何でしょうか。原作家と脚本家の違いは、何でしょうか。

1. ストーリー、イベント、ライブ

2. CDDVD

 

○専門家と素人の評価

 

 現実よりもよく描くことが、リアルに伝えることになります。その「よく」とは何かということです。答は、現実の側でなく脳の側にあるから、厄介です。

 創始者、アーティストの脳でみるものが、人間の脳の求めるものとなります。それは、ときには未来から引っ張ってきます。かすかに予感している兆しを形にするのです。それが新鮮で心地よいものと思えるのは、人は、未来に生きるからでしょう。それに反発したり嫌悪する人は、未来でなく過去に生きる「昔ながら」を守りたい保守者なのです。音楽は、他のアートよりも新たな予兆を問われます。一方で、古典的なものは安らぎを与えてくれます。

 

○受け止め方

 

 嗜好性のあるものには、教養や時間も必要です。わかる人は直感的にすぐ入れますが、一般の人には、受けとめるには時間がかかるものです。

 人にはどうみえる、聞こえるのか、どう心が動くのか、人が取り込みやすいようにデフォルメすること、ダイジェストすること、編集することです。その結果の快感受容は麻薬と似ているといえましょう。

 

○世界観

 

 写真と絵の違いを考えてみましょう。ピカソに限らず、一流の画家は、一枚の絵にすべてを入れているのです。それが作風=世界観になります。

 現実離れしているのにリアリティがある。それこそが、アート、漫画やアニメも含めて成り立つ理由なのです。

 アーティストが、

1.どういうものを使うのか。

2.いくつのものをもっているのか。

曲の創造や評価もそういうことに関係します。

 

○リアルとリアリティ

 

 現実の世界を切り取り、創造してリアルな世界を組み立てます。リアルとは脳が実感させるもの、時空を超えた本質とか本物、いわば、真実や真理をいうのです。

 うまい似顔絵は、写真よりその人に似ているようにみえる、これもリアリティということです。現実感、即ち、仮想された現実、バーチャルリアリティです。

 映画では、かつて、そのタイトルが日本語の超訳で、大いにヒットしたものがあります。その後は、原語をそのままカタカナにしているのが多くなりました。

 音楽曲となると、ことばがなくストーリーが明らかでないので、タイトルのもつイメージは大きく聞く人に影響します。

 「四季」(ヴィヴァルディ)、「悲愴」(ベートーベン)など、日本語でついたタイトルの是非はともかく、そのタイトルがテーマになって、タイトルの意味でテーマが聞こえてくるものでしょう。

 

○共通のイメージ

 

 現実と異なっているのに、誰がみても似ているとか、現実よりリアルというのなら、一人の脳だけでなく、人間の脳としての共通イメージがあるということです。

 「ア・プリオリ」のようなことになってきましたが、そうなると現実が仮象となるのです。

 五感で捉えたものは、五感の捉えられ方で大きく左右されてしまうのです。錯視も幻聴も感覚の確証を揺らがせてきました。

 芸術に惹かれる人には言わずもがなでしょう。

 

○サムシング・グレート

 

 自然に敵わない風景画、自然に比べ情報量が絶対的に少ないということですが、そういうものを、なぜ私たちはわざわざ見に行くのでしょうか。美しい自然をみて、絵のようだと言う、そのとき、私たちは、心の奥に理想の風景、創造主、サムシンググレートの存在を感じているのです。ペン一つでのデッサンで対象の本質を切り取る、それを感じさせるものを真実、本物とか一流というのでしょう。

 音楽、音の快楽は、もっとも抽象的です。ときに数式などと並べられます。楽器の音色が美しく、そのフレーズの進行、曲の展開が美しい、何でもよいのでなく、心地よいものがよいのです。

 楽器に声を似せた声楽と声に楽器を似せた邦楽との違いも、気になっています。行き着くところ、目指しているのは、同じはずなのですから。

 

○アニメと声

 

 アニメの主人公は、三頭身と目の大きさが特徴的です。愛らしいものは、赤ん坊や動物に近い比率になるのです。そっくりでなく、そっくりよりも、らしいもの、本物でなくそっくりにみえるものです。それをどう抜き出すのか、つくり出すのか、なのです。

 私は、いつもペンフィールドの「ホムンクルスの体性感覚」の図を思い出します。感覚を元にした、手と足のやたらと大きい人の図です。

 アニメの子役は子供でなくベテランの声優です。俳優や映画、芝居では、ベテランが子役など、できません。すべては抽象的、リアルが創造的だからです。

 

○デフォルメすること

 

 ドラマなどは、日常のダイジェストですが、日常のなかにある強烈なインパクトのあるところを抜き出し、そこをつなぎます。私たちが自らの人生を語るとき、ドラマチックな出来事をつないでこそ、インパクトがあるのは、言うまでもありません。

 毎年、何を行っていたかを話しても、当人はともかく、他の人には興味のないことでしょう。話すのは周りの人にない経験の方がよいでしょう。でもそれだけでは共感されません。結局、伝えるのに値することは、出会いに別れ、それをもたらしたエポックメイキング的な出来事になるのです。

 

○エッセンス

 

 この場合のダイジェストとは、エッセンス、本質です。ハプニングや人生の喜怒哀楽の場面を抜き出しつなげることです。それによって一人の人生、一生や国の200年、300年が2時間で描けます。

 人間の感じる5つの味は、味覚のエッセンスです。レシピの元にもなります。料理も日本人は素材をそのまま活かす方ですが、よりうまくするのに味付けするのです。

 

○ドキュメンタリーとフィクション

 

 日常で体験できないほどのストーリーを創造して与える、創造した小説、ミステリー、脚本は、そういうものが大半です。

 伝記がなかなかエンターテインメントになりえないのは、現実に起きたことでつなぐからです。勝手に想像して創造を加え、ドラマチックに変えられないからです。

 伝記になるくらいですから、有名人で、何かを成した人物でしょう。その時代の大事件や有名な出来事のニュースバリューで作品をもたせます。実際のところ、犯罪などでも、かなりの脚色を入れないと作品にならないことが多いのです。「実話そのものです」よりも「実際の事件を元に脚色したものです」というようなものがよい具合に仕上がるのです。脚本では実在しない登場人物が加わるのが、常です。

 一方、ニュース報道やドキュメンタリーは、創造物ではありません。

 映画の間にTVのなかった時代はニュースが入りました。初期の映画は、特等席からみる舞台というものだったようです。

 

○魅力

 

 美女は、多くの人を平均した顔といいます。美声や美音もそうなるのでしょうか。

 アニメの人物の絵は、それなりに似ています。特に主人公は同じ、これは、曲作りに通じます。映画やドラマの役者も決まったメンバーで回すので似てしまうのです。流行で変わっているようですが。ビックデータでは、平均値が出て、それこそが大衆の求めるものとなります。

 

○ディープ・ラーニング

 

 専門家のスキルをプログラム、手順化します。

 内容→板書→ノート→頭でまとめる

授業や教科書からノートをとり、内容を要約します。

そして、小見出しをつけるとします。

次に、反対に要約から内容を推察して、小見出しに合う内容をつくります。

元の授業や教科書と比べます。

 

○平均化する

 

 ビックデータの平均値に近づけることが、大衆化とすることになります。そのあたりは、大体合っていればよいと考えているのです。

 天才や個性的作品は、時系列として先に走っている、よく言われている一歩先、半歩先のものだといえるのではないでしょうか。

 

○シンプルを規範とする

 

 しぜんは、複雑でアナログですが、デッサンはシンプル化したものです。

人がいると、そこに秩序ができるのです。それを模範やルールとして、私たちはつかんでいるのです。人の音剤はそのままデッサンとなります。

 

○本来的なものと経験、永遠

 

理想は、イデアと違う

真実は、ときおり現れる

現実は、いつもここにある

 

○オリジナル

 

 オリジナリティということばを、誰もやっていないことをやったとか、初めてやったということで使うこともあります。その他の人が誰もやらなければ、確かにオリジナルです。誰でもできるけどやらないケースはどうでしょう。くだらな過ぎてやらないようなもの、価値が全くないものなら、あまりオリジナルといっても仕方ないでしょう。

 オリジナルといえども、多くはこれまでのものの組み合わせです。大半は、新しい組み合わせ、そのオリジナルということになります。曲などは、同じ音(スケール)での音の組み合わせです。

 それをパターンにしてみます。そこでありふれたパターン、あまり差異が感じられないというパターンなら単調となります。

 作品、特に音楽などは、メリハリ、流れをつくり、それに沿うのと変えることのタイミングで質が決まります。

 

○わかりやすい

 

 芸を問うとなると、試されるのは、芸人の技量だけでなく、客も大いに関係します。客がわかりやすいものしか認めないとなると、レベルが下がります。よいものと判断する、その基準は何かということになります。

 脳に心地よく入るのは、慣れているものです。だから、ある意味で自分がわかっているもの、それに近いもの、わかりやすいものなのです。

 勉強が嫌なのは、心地よくない、面倒だからです。それは、わからないものをわかろうとするプロセスで努力、忍耐を強いるからです。

 

○スターの存在

 

 芸は、普及して一般化するに従い、全体的に質が落ちます。価値を落としているのに気づかずに、前例に従ってしまうのはよくあることです。

 大衆化もその一つです。大学生がバカになったのではなく、バカまで大学に行くようになったというようなことです。それでも、関わる人が多くなると、層が厚くなります。すると、トップがどんどんハイレベルになることもあります。そういうときが、その芸が伸びるときです。つまり、人数よりもトップのレベルを比べることでわかります。スターが出てきているうちはうまくいっているのです。

 

○わからない

 

 ですから、団塊の世代までは、芸術でも演劇でも、わかるのはしょうもないもの、わからないものがすごい、と思って勉強していたのです。これが教養主義です。

 つまり、自分が将来、もっと頭がよくなるとか、他にもっと頭のよい人がいて、それに追いつこうとすると、今の自分はだめ、自分がわかる程度のものはだめ、少なくとも今の自分には価値がない、その自分のわからないものに価値があるのです。

 自分がわからないから、わかるようにならなくてはいけないというのは、どうでしょうか。

 私たちが小学生の算数のドリルをやりたいと思わないのは、わかるからです。ボケ防止のケースは別ですが。

 

○プロシューマーの登場

 

 プロシューマ―(生産消費者)とUGC(ユーザージェネレイティドコンテンツ)の広まりについて述べます。

 カラオケは、聴衆の主役化を進めました。ピンクレディの○周年コンサートでは、来客側の親子連れの振りがメインステージとなりました。AKB48も、その応援団であるオタクの振り付けが世界進出したのです。これは、日本発、オリジナルなものの世界進出として評価してよいと思います。多くの人は、AKB48 のプロデュースを成功としていますが、独自なのは応援スタイルの方です。私たちは、ずっと欧米のロックの演奏や応援の形のまねから抜けていなかったのですから。

 

○分離

 

 変人でなくとも、別人志向、変身願望は誰にでもあります。究極には、生まれ変わり、転生、輪廻観です。

 役者、芸人は、地のようでありながら別人を演じます。

 同じようなものが売れる、が、同じでは、やがて飽きられていく、つまり、消費されていくのです。そこでパターンを変化させる、応用する必要が出てきます。

 それが、技、技術、流派で、それぞれ次の形に定まると型となり、分離していくのです。

ジブリの声優は素人であるのは、宮崎監督がそれを好むからです。プロの声優のリアリティが勝てないからともいえますが、日本においては複雑な問題です。日常の表現力が作品に耐えられないので、商品化された技術が公のものを支えてきたからです。

 

○古典にかえる

 

 行き詰ったときには、古に還るのが常套手段です。

1.対象をみつけること、選んで対象化する

2.方法を考えること、伝えてみる

 

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「声での構築」

 

○シンプルな定義

 

 ヴォイスアクターは、声というメディアにことばなどをのせ、それを動かして人に伝える力、働きかける力をもちます。声優と訳されます。女性はヴォイスアクトレスです。

 歌、音楽の形をとるものを扱うのが歌手、シンガー、ヴォーカリストです。

 

○構成と展開

 

 同時に生じる音の構成、ハーモニーを聞くこと、一定の時間ごとの展開という時間での流れを全体で捉えること、その2つについては、日本人の苦手なところです。今、ひびく一つの音を、ひびきの揺るぎを聞くことに感じ入るのでしょうか。欧米人と日本人との聴き方は、教会の鐘のキンコンカンと、お寺のゴーンの違いなのです。

 

○省略と象徴のテクニック

 

 表現の効果を目指すためには、必要最小限の材料とシンプルな組み立てにすることです。何でも入れるのでなく、思い切ったカットがあってこそ、表現が強く打ち出せるのです。

 すべてを歌うと一本調子になります。もし、聞けるところ、伝わるところが1か所あれば、その前後を組み立てるだけで充分に一曲として聞けます。それに対抗しうる歌は、さほどありません。

 ディティールは丁寧にする。それは、歌では大切なフレーズの線の扱いのことです。その働きかけを邪魔したり混乱させるところが目立ったらだめです。プロは、幹を活かすために枝葉を思い切りカットします。

 

○音の動き

 

 人の捉える能力にテンポも限定されます。16ビートはよくても、32ビート、まして64ビート以上は、意味を失っていきます。音の高さですら、モスキート音の聞こえない大人には、2HZ近くは無音です。

 聞こえない音も体感できるし、超音波も聞こえないけど伝わるという見解もありますから、理屈通りに否定はできませんが。

 

○補強が主役に

 

 本来、より効果を上げるために使っていたものが、うまくいかないときのフォローに使われるようになり、常態化すると形骸化します。マンネリ化して、芸を滅ぼす。そういう例は数知れずあったのです。でも気づかれないどころか、その渦中にいるからこそ、感覚がマヒしていくことが多いのです。

 技術とかテクニックとして、そこを教えられるというような人が出てきて、そういうことがもてはやされるからです。

 スターが出て、人気が出ると一般の人がまねたくなる、となると手っ取り早くまねたくて、ノウハウが求められるのです。すぐに簡単に便利で、誰でもできる、こういうことに飛びつくのは、元より、芸に逆行することです。

 

○カラオケとヴォーカロイド

 

 うまくなるためのツールというのは、マイクやカラオケのエコーなどが代表例です。実力がつかなくても、同じ歌がうまく聞こえるように音響的に加工されるのです。

 うまく聞こえるのは、下手に聞こえないこと、うまい人に似ていることですから、本当にうまいのと別です。ですから、感動とは無関係です。

 バンドになると、ヴォーカルの実力の補強をアクションやプレーヤーの演奏、リズムや音の厚みで行うのです。

 ヴォーカルは、楽器の1つに成り果てました。日本はいち早くヴォーカロイドの時代となり、ヴォーカリストは、もはや声の素材提供者となりつつあります。

 

○アーティストの代替わり

 

 歌をとりまく主人公は、次のように変わりました。

 バンドマスター→歌い手→作詞作曲歌手(シンガーソングライター)→プロデューサー→アレンジャーSE 

 (例)内山田洋とクールファイブ→歌手、前川清、和田弘とマヒナスターズ→歌手、原信夫とシャープフラッツ→

 当初は、バンドマスターの方が知名度が高く、歌手は楽団の一つのパートに過ぎなかったともいえたのです。

 

○なり切る

 

 オペラ歌手は作品がつくられた、その土地のこと、歴史までを学びます。その気持ちになり切るためです。つまり、イメージを具体的に豊かにしないと、再現を呼び起こす出力はできないのです。

 なり切るというと、イメージトレーニングでは、イチローが有名です。

 

○娯楽と芸術

 

 オペラは芸術、歌謡曲は芸能、歌は演芸、カラオケは娯楽と言われています。邦楽は「けっこうなご趣味」などと曖昧です。

 芸術というのは、能などになるでしょうか。芸術ということばが、日本では、未だにあまり馴染みません。生活のなかに溶け込んでいる感がなく、高尚、教養っぽいのです。

 

○才能と素質

 

 政治家や俳優、タレント二世、三世全盛です。音楽家は三代、と言われているようですが、歌手では、ほんのわずかの例外を除いて、あまり聞きません。(藤圭子―宇多田ヒカル、森山良子―森山直太朗、海外でもナット・キング・コール―ナタリー・コールなど)演歌でさえ、あまりいないのです。

 歌は、個人の実力や資質に負うところが大きく、時代の流れにも大きく影響されるからでしょう。遺伝的要因よりも学習によるところも大、また親の威光が効きにくいものなのでしょう。

 

○イメージ

 

 声もよいものをみつける、なければつくる、で選択から精進していきます。

 元々はすべて根本から取り入れていたはずです。選択がしぜんと、育っていくうちになされていたのです。それは、選択しないものを切り捨てているのです。

 勉強というのは、量を増やすか難しくするようにして一部の能力を伸ばすのです。そのことで質を高めることを同時に行ないます。

 

○即興とリピート

 

 一つの作品、一つの世界を現出させる、その一つが歌です。それを再現するのがステージ、それはライブとしての完成を目指した再現です。

 それに対して、「完全」は、同じもの、コピー、複製としてです。それはCDのようなパッケージに、つまり、音源、コンテンツになります。ライブのDVDCDは完全な作品というよりは、感性を目指したライブのコピー記録です。ときに、完全なライブもあるでしょう。それは完全な作品でしょう。

 

○形にする

 

 イメージを歌にするのに作詞作曲、歌唱が要ります。しかし、昔は、ほぼ同時に行われていたはずです。そこも再現、現実化といえます。つまり、音や絵や文章として形としたのです。

 そこにコンテンツがあり、それが働きかけなくなると形骸化したということになります。その前に形成化があるのです。

 

○パターン破り

 

 映画や落語のストーリーをパターンで捉えて研究している人がいます。

 この場合、多くは筋やストーリーでの分離が元となります。小説、ミステリなども詳しくなると、およその展開パターンがみえてきます。結承転などというのは、その典型です。

 

○ライブ

 

 表現におけるストーリーづくりを、どのようにするのかを考えます。

 物語は、一過性、イベントです。メロディ、ミュージックは、再生でくり返し、リピートで価値を増していきます。ライブは、即興だとしても、その時空限りでの作品の切り取りともいえます。

 

○歌の力か歌手の力か

 

 実力を、作詞作曲、アレンジ、演奏力と、歌い手の歌唱力と分けて考えます。歌い手個人の肉声へアプローチするのが、ヴォイストレーナーです。曲のよさ、さらに歌い手との相性、選曲のよさが問われます。

 

○劇的な歌と日常の歌

 

 劇的な日常とは、場としては、ステージと生活ということになります。

 次に、歌唱力か人間力かを考えてみます。

 ストーリーで紡ぎ出される世界観(音楽性)とキャラクターの生き方との関係となります。

最近は、歌手の歌そのものでなく、MCなどで歌い手の人間性に共感していく傾向が強まりつつあります。

 

○歌詞は詩ではない

 

 詞は、音楽(メロディ、リズム)を伴って完成したものとなります。

 音楽からみると、ことばで具体的にしたことで感情を引き起こすか、喜怒哀楽を感じるかということです。感情移入は、共感です。具体的にするほど、個別化するので、自らの体験と異なります。そこを置き換えられるかということになります。

 

○判断の仕方

 

 まずは、今もっている表現を出してもらいます。

そのなかで自分に働きかけられるところとそうでないところをチェックします。

次に、方向性を確認します。目的とそのギャップを指摘して、変じるように試みます。

気づかせるために、基本メニュとそれを変化させたメニュを与えます。

以前のと比べて判断し、再アドバイスする。

「よし悪しの判断がつかない」とは言えないので、「○○とすると(○○からみると)よい、しかし、○○からみると悪い」と、長所短所の指摘をします。改良の可能性、必要性や、そこでの限界やアプローチのヒントとしてアドバイスをします。

 

○コラージュする★

 

 頭の中でつくってみます。紙に書き出すか、描きだします。それができなくともかまいません。実際につくってみればよいのです。

 たとえば、同曲異唱で一流のアーティスト同士、10人の歌唱を比べます。一曲全体ではイメージになりがちなので短くします。

頭やサビの一フレーズで10人の作品を比較します。

各々の歌い手を比べ、すべてコピーしてみます。さらに自分のを出します。

同曲異唱では、自ずと一流の人が変えたものを聞くことになります。しかも、比較するので、特徴が捉えやすいでしょう。

パターンの組み合わせ、音色の変化を知っていきます。

 

○創作する

 

 

 まずは、自分なりに自由に変えてみます。自分のもつものでは、大体、いくつかのパターンになってしまいます。それも知りましょう。自分のものと思っていたものさえ人まねが大半でしょう。

 そこからは、適当に、これまでやったことのないでたらめを楽しんでみましょう。どこかを強調すること、そこから組み立てが決まってくるのが理想です。テンポや声高、リズム、詞をそれぞれに大きく変えてみます。

 よい声やうまく歌うためだけに、ここを使うのはもったいないです。

 ビックデータの活用で天才に近づけていきます。

 

○フレーズのデッサン☆

 

 私は、曲や歌のなかに線をみています。声も一本みえてくるようにしています。

 そこに共鳴を意識して焦点に絞り込むという発声技術の意味があるのです。

 すべての音が同じくらいに聞こえるのでは、何も聞こえていないか、ただうるさいだけと同じになります。クローズアップとぼかしのようなものでは、心をとらえるフレーズとなりえません。

 

○音色とフレーズ

 

 音が現実のものに近いとするなら、すべての音の録音したら、そっくりそのままということです。しかし、作品は、そのままでなく、編集し、大幅なカットをします。それどころか、現実にないものを使って現実を感じさせることが少なくありません。

 効果音として、雨の音と聞かせたいときは、ときには本当の雨の音でなく、雨に聞こえる音をつくり、使います。これは本物より偽物の方がリアリティをもつ例です。

1.ことばの創作 選択

2.メロディの創作 選択

3.リズムの創作 選択

→音、音色の数、大きさ、高さ、長さ

 

○声が印象に残る★

 

 歌詞が聞き取れる、これらは、発声発音の原理が通っているということです。しかし、ことばで滑舌がよいことは、基礎の条件の一つであり、うまい=プロレベルのことでも、一流やすごいことにはなりません。

 私は、すごい、を期待しています。そうでなければ、おもしろい、であって欲しいのです。うまい、を大した価値とみていません。その辺は、日本の歌のプロデューサーやお客と判断を大きく異にしています。

 ヴォーカルのフレーズの線が出てこなくなって、ミキシングで加工した頃から、ヴォーカルの力も、存在感も落ちていったのです。一方で、日本では、万人が受け入れやすくなり、メジャーに売れたのです。わかりやすさの普及に、カラオケとそれで歌われるような戦略をとったプロデューサーが関わったのです。ポピュリズム=平均化ともいえるのです。

 

○二極化

 

 音大生とヴォーカロイドは、今のところ対極にあります。劇団四季のヴィジュアルや言語重視の裏にある音楽軽視は、そのまま、日本人における視覚と聴覚バランスに合わせているのです。それゆえ、日本での大成功です。

 聞いてもいないところにつくり込むのはムダとする。そのムダを残すのか切り捨てるのかで、文化とビジネスは分けられます。コンテンツを、より反応がとれるように効率よく使うと、ビジネスとしてはよくなるのです。

 効果で考えると、日本人には、声の変化より、フリの変化が効果大、つまり、効率的なのは、歌うより踊る方ですから、そこに力点をおくのがよいのです。

 口パクでもダンスは実際にする、アテレコと同じように音響の技術の発達が、口パク歌手をつくり、エアーバンドをつくりました。音量を上げたり、重ねたりすることで厚みを出しているのです。その下にはプロモーションビデオ、ヴィジュアライズ化の流れがあります。

 

○エッジ

 

 うまいのはワンパターンで、飽きられます。これはアニメなどの絵にも通じます。そこで、わざとフレーズの滑らかさをデットにするのです。

 そのことで、ニュアンスをおく、メロディから離してことばで言う、

エッジヴォイスを使う、シャウト、スキャット、フェイクを使う、

歪ませる、ノイズを出す、これらは日本でのさわりを入れるのと同じです。

 結果として、聞く人の心を引っ掛けるフックになるのです。

 

○即興のイメージ

 

 即興は、予め決めたプログラムなしで、その場で演じることです。とはいえ、ジャズでわかるように、パターンはあり、組み合わせをその場で選ぶのです。緊張感をもつために曲順を決めない、それを伝えないらしい玉置浩二さんのステージみたいなものです。

 歌のデッサンは、書家の一筆に例えられてきました。線のデッサン、動き、濃淡、サイン、すべてが集約されての作品、あるいは習作です。そこで即座に価値が出せるのはコンテンツが身体化している一芸が身についているからです。

 書道も、人の動きは3D、文字ももしかすると今後、3Dになるかもしれません。

 

 以下、自分で考えてみてください。

○奇跡の起きるとき

 以下、自分で考えてみてください。

○感性でつくる

○アイデア、変化、発想

○想像力と創造力

○直観と理論

 「感性研究」を参照

「よいところを学ぶ」 No.309

 「たった一つでも輝く音をみつけて、それをものにする」、それが全て教えです。それまでは、よくないところ、悪いものなどに目をくれる必要もひまもないのです。

 なのに、人というのは、だめなところに目がいきやすいのです。相手のよいところをみて、自分を伸ばすのでなく、相手のよくないところをみて、今の自分でいたいのです。自分と同じとか、自分より下とか、安心したいのです。他人のだめなところを求めていると、自分がだめになります。

 なまじ学んで頭がよくなって、その頭で判断するのでなく、学んで愚直なまま、体で取り入れていく、そのようにあり続けるのは、とても大変なことです。

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