「英語の公用語化とヴォイトレ」
○実用と基礎
ヴォイトレの方法として、実践的なことと基礎の関係について、よく聞かれます。これを考えるのに、語学の勉強をみると、わかりやすいと思います。
私のヴォイトレのメニュづくりに、歴史があり人材の優秀かつ広汎で多数の人の関わる語学分野、特に、日本人への英語の教授法とその結果は、いろんな示唆を与えてくれました。明日香出版で出会った西村先生や共著を出した「英語耳」の松澤先生からは、具体的なヒントを得ました。
○受験英語と英会話
私は、大学の受験生としては、たぶん相当の英語力を持っていましたが、字幕なしの映画は、聞いて理解できなかったし、外国のホテルのフロントでのやり取りもほとんどできなかったように思います。外国人に道案内できる人や電話で話せる人をみても、それは別の能力のように思っていました。
リスニングの試験がない時代でした。読解力が英語力であり、実用的な英会話力は身についているはずもなかったのです。学校で学ぶ英語は、文法と単語熟語の暗記が主で、それは、第一に、読解のためでした。文明開化以降の欧米の学問やノウハウの輸入のため、という流れにあったのです。
一方で、英会話を学びたい人には、NHKの英会話や「百万人の英語」など、ラジオがよい教材でした。それは私の教わる英語と大きく違っていたのです。ポピュラーソングは、俗語も含め、英会話の方に近いのです。それは、ラジオの方で取り扱われていたのです。
○基礎としてのコミュニケーション力
海外を50ヶ国くらい回ると、パブリックなところの英会話力の必要性を感じる一方、英語が使われていないところも多いことも身をもって体験しました。まして正しい英語などには、あまり出会わないものです。
とはいえ、英語の基礎力は、英会話になりにくくとも、欧米とその影響力の及ぶところでは、理解の元とはなります。アルファベットを使っている国々ということです。
語源が共通していると、意味の見当がつきます。つまり、聞いて理解できないものも、見たらわかって助けられたということです。耳や口に頼れない分、筆談、さらに絵図談が役立ちました。
そういうなかで、コミュニケーション力というのを、英語力や英会話力といった語学力とは別にあると考えるようになりました。話せるためには、語学以前にコミュニケーション力、さらに、多くの場合、それなりの専門分野の知識がいるのです。
これは、日本語でうまく道案内をできない人が、英語で道案内をできないのは、語学力以前の問題というようなことです。
○実用的とは何か
長年、学んでも口に出して使えなかった日本の英語教育のことについては、よく考えさせられてきました。英語学習にかけた時間ほど実用になっていないというのは、いつも言われていました。でも、勉強というのは、他の教科でも何でもそういったものでしょう。基礎がすぐに役立つわけがありません。
むしろ、英語は実用的、実践的という方向に、日本の教育は、かなり変わったと思います。
しかし、それは本当によくなったのでしょうか、そこを考えずに英語の公用語化や早期教育などを進めてよいのでしょうか、ということです。
というのは、実用的な英会話教育になってさらに悪くなった、かつての英語学習のよさを失ったのではないかということも言われているからです。
○英語学習の今昔とヴォイトレ
昔の英語学習は、発音無視のひどいカタカナ読みでした。その対極に、一時流行した、シャワーのように聞くだけでしゃべれるといった、実践的と評判をとる英会話学習があります。この両極は、多くの時間を必要とする点では似てもいます。
科学的学習法が、文法、読解中心の学習法に対して、新たに出て、もてはやされたのも、最近、そちらへ偏向しつつあるヴォイトレと似ています。早期学習や海外留学対策というのに絞るのは、むしろ特殊なシミュレーションのように思います。
ともかく、日本の英語教育は、大きく変わっていったのです。口語表現、オーラルコミュニケーションということばが、よく使われるようになりました。
しかし、そういう改革によって、明治から昭和の英語教育よりも本当に力がついたのかというと、私は、ゆとり教育の失敗と同じものを感じざるをえません。楽に早く使える、実践的といえば、聞こえがよいのですが。
昔の英語学習挫折者の多くには英単語と英熟語(イディオム)の数しか残らなかったといいます。しかし、シーン別のワンフレーズの今の丸暗記での反復学習をみていると、大して変わらないように思うのです。
それとともに、昔の挫折しなかった人の英語学習者の理解力や論理力などの能力の高さに驚くことがあるのです。それは、日本語で話す内容、論理力とコミュニケーション力があったからだと思います。
もちろん、英語を使うのは昔はエリートであり、今は一般の人レベルですから、そのままの比較は成り立ちようもないのですが。
今、英会話のできる日本人が多いことについては、あまりに国際環境が違うので比べようもありません。私たちの時代、地方では、外国人は外人であり、一般の人は、死ぬまで彼らを近くでみることも、触れ合うこともなかったからです。
○暗誦のよし悪し
かつて、勉強というと、第一に難解な書の多読の強制がありました。「読書百遍義自ら見る(意自ら見る)」
これは、英語だけでなく、一昔前の日本語の教育も同じでした。何でも多読、一部は暗誦だったのです。語学力の基礎は、役者の台本読みのような暗誦で身につける学習法であったのです。単に言語を頭で覚えるのでなく、身体に染み込ませていたのです。
素読朗読は、私たちの頃には、すでに風化しつつありました。上の世代には、神武天皇から125代の天皇名、有名な漢詩、教育勅語や軍人直諭、戦陣訓、百人一首を暗誦できる人は少なくありませんでした。
しかし、私は、読むのと見るのが好きで、特に日本語、昔の日本語字体や音の流れを美しいと感じていました。たぶん、多くの人が、そう感じていたことでしょう。
詩や文学に関わらず、演説や論文の類にも衝撃を受けました。映画やラジオで聞くとかっこよく思えたのですが、それをまねてしゃべるところに至らなかったのです。その美的感覚というのは、何であれ、大事なものと思うのです。
○基礎の強み
実践というのは応用です。たとえば、「チェックインしたいです」は「チェックイン プリーズ」を覚えたら、通じます。すぐ実践、応用できます。お願いするときに、何でも使えるpleaseとして覚えるのです。でも、いつも一言で終わり、それ以上に深い内容には使えません。シーン別の1フレーズとは、そういうことです。
一つの技で、お願いするシーンを全て乗り越えるというノウハウは、せいぜい添乗員付きのツアーに行けるまでの実力です。1ヶ月から1年くらいまでの、すぐに使える旅行用英会話のようなものなのです。その後、発展をしない、そこが問題なのです。
長期的には、たくさんの技があって組み合わせられる力の方が、後で伸びるからです。つまり、本当の応用が効くのです。
単語でも一つの単語でたくさん応用させる、少数の単語を組み合わせたら万能と勧められます。しかし、似たイディオムを区別するより、専門の難しい単語を覚えた方が後々混乱しないともいえます。
○学び方を学ぶ
自ら学べるようになるための基礎を学校教育では、身につけさせます。学ぶことは反復であり、学習習慣といったものです。
自分で試行錯誤すべきことを、他人に任せてよいものではありません。他人の経験も自分の試行錯誤に活かして、その経験をより積むことで意味があるのです。
あまり役に立たなかったと思っていた学校の英語学習も、クラシックバレエのように基礎となったのでしょう。何よりも、学ぶことの手順や方法を知りました。書くことの論理や構成、展開、日本人以外の思想や考え方を学びました。思考力、論理力、説得力を鍛えてくれました。英会話に、すぐに役立たなかったことよりも大きく、いろいろと使えているようです。それは、どうも感性と関わるような気もします。
そういえば、数学も、ほとんど日常では算数レベルで足りていたのですが、今、音や声の理解や説明では、それなりに高度に使っています。波動や微分積分、対数など、数ⅡBあたりが必要だからです。(昔は、数ⅡBに対し、数ⅡAが実用的、実務的でした。)
○プロセスで学ぶこと
ヴォイトレも、世の中で声がよい人が通じているのではありません。ということから、単によい声を目指すのでなく、ヴォイトレのレベルを上げる、その体系をプロセスから明らかにして学んでいくことが重要となります。そのプロセスに、全てに通じる秘訣が眠っているのです。それゆえ、続けてこそ報われるのです。
私からみると、歌唱やせりふも、そこから切り出された判断(としての材料=作品)に過ぎません。声こそが基礎なのです。それをどのような出会いで感じ、入れてきたか、それは、やはり美的感覚ともいうものに基づくと思うのです。
○学び方の変化を
英語をもっと実践的に使えるようにすればよいというなら、英語を学ぶことを重視するのでなく、根本的には日本語の教育をどうするかという問題です。日本語をおろそかにしてよいということでありません。
文系科目より理系科目を重点的にという政府の方針も、これまでの文系科目を薄めずに理系をプラスすることにならないとおかしいのです。それをいうなら、音楽という科目が選択制となり、一方で邦楽(楽器)必修という改革もおかしいのですが。
結局、決められた勉強の合計時間の割り振りになるので、一方を多くすると自動的に他方が少なくなるということから問題となるのでしょう。
では、時間が多いのがよいのかということは、本当は別問題です。でも、確かに多くすることは重点をおくということを示すのです。
与えられる教育と自分での自主勉強と分けて考えてみると、基礎として学び方さえ身につけられたら、応用は今やいくらでも学ぶ環境はあるようになった、そこも違うのです。
今や、学び方さえわかれば一人でどこまでも深めていけるのですから、大切なのは、その必要性とモチベーションを与えることでしょう。そこで「実践に使える」というニンジンをぶら下げるのは悪いことではありません。
○思考とその実践
「本を捨て街に出よう」は、団塊の世代のスター、寺山修二の警句です。そこには「家の中で本ばかり読んでばかりいないで」という前提があります。いつもその当時に、当たり前であったことは表現されないのです。「たくさん買ったり借りたりして読んでいる、貴重な本を」という前提があるから「捨て」が効いてくるのです。
そうしてきた世代が、本などは世の中や仕事に役立たない、と本を読んでもいない世代へ言うのは、どうでしょうか。今や、それさえ言わなくなったのですが、「本を読め」と先達が言わないのは、罪です。
教育というのなら、本だけではないのですが、新しいものに取り替えるのでなく、新しいものも加えるという過度期を経て、両方の良いところを活かす試みを進めることです。本がマンガ、そしてゲームに取り替わってよいのではありません。そして、当たり前であった前提が変わったのなら、そこをことばで示さなくてはならないのです。それが体系的ということです。
○基礎の本
本というなら、何でもよいのですが、強いて言うなら難解なもの、名著とされるものの原文がお勧めです。そこに美しさを感じるまでが基礎、型づくりのモチベーションとなります。最初は感じなくても続けていればわかってくるということでは、多読を勧めたいのです。この場合、文学として文字よりも音の流れといきたいところです。私の立場からということですが。いつの時代も人を動かすのは感動です。
英語でオバマのスピーチ(広島訪問時のもの)で、目が開かれたなどというのもあり、と思います。多くの日本人には好評だったようです。
○グローバル化への対応能力
英語の公用化よりも大切なことを述べます。
1、 ことばをこねくり、その後ろにあるイメージを想起すること
2、 新語をつくる造語能力を鍛えること
3、 発想力、創造力での日本語そのものの優位性、3つの文字と絵文字など
のあること、それを活かすことです。
○オリジナリティ
オリジナリティとはその人の必殺技です。それは、決め技一つでなくとも総合的な組み合わせでもよいのです。その人の世界観ともいえます。
決定的な強みをもつことと、それなりにバランス、弱点補強することは、あらゆる芸事、仕事の基本となるものです。語学は、言語力、会話力をつけるだけでなく、そのバックにある文化力をもつという意味で、有効な武器となります。
Q.英語の垂れ流しで、誰でも話せるようになりますか。
A.耳から入るというのは、ヴォキャブラリーは足らなくとも、すべての音声は聞き取れるようになるということからのアプローチです。外国の曲で、歌詞の意味はわからないけれどメロディは口ずさめるという状態にするわけです。このときは、読み書きの力でなく、聴いて(まねて)声に出すという本来の言語習得の順になります。この方がしぜんです。少なくとも、すべて知っている単語で歌われたり話されて、一語も聞こえないよりはよいことでしょう。リズムやフレーズ感といった力はつきます。しかし、垂れ流しでなく、意識する必要はあります。どうしても聞けないところのチェックも必要です。睡眠学習のようでは、決して身につきません。
Q.なぜ、日本人は英語が苦手なのですか。
A.ラテン系やゲルマン系の言語を使う人、西欧人が英語を話すのに苦労しないのは、言語が似ている、特に音が近いからです。
日本人が苦手なのは、音がかけ離れている上に、日本語では認識する音数が少ないからです。英語の40個以上の音のなかで日本語と同じなのは5,6個ですから、ほとんど聞き取れないのも無理はありません。語句だけでなく、リズム、イントネーション、語順(文法)も違うから、なおさらです。
Q.苦手な発音への対策をどうすればよいですか。
A.英語、外国語を正しく聞こうとしても、私たちの脳回路は、日本語の聞き方に寄せて聞き取ります。Wellというのがウエローとカタカナに聞いてしまう、すると、言うときもそうなって通じないということになります。
大人になるにつれ、日本語の回路、そのショートカットが太くなります。ですから、聞くのに一所懸命になるよりも、知らない音、発したことのない音に気づくこと、その存在を知って自分で発してみることが必要なのです。
聞こえたら発することができる、とも言われるのですが、正しく聞こえないなら、発することを学び、発したら聞こえるようになります。構音の器官の使い方と脳を意図的に結びつけ、体に覚えさせるのです。
Q.発音記号から学ぶとよいですか。
A.音を単音で聞くことと、その音の組み立て、短いものなら単語、長いものなら文章を把握、理解できることとは異なります。必ずしも音→構成の順ではなく、構成から音が明瞭になることもあります。発音記号は、文法と同じく、一つのルールのように勉強に役立ちます。
Q.同じ作品をくり返し学ぶ方がよいのでしょうか。
A.外国語でも日本語でも、最初にテーマや筋がわかっていると、内容を理解するのは理解しやすいものです。全てが初めて見聞きするものでは難しいですね。会話でも同じく、冒頭で共通の話題でアイスブレイクできると、そのあとも楽になります。脈絡をつかむと、わからないところも補えるからです。
知らなかったものを読むのでなく、知っているものを語る。これは、報道ニュースと芸との違いのようなものでしょうか。情報そのものを知らせる価値と、ほぼ知っていることをどう語るか、歌うか、みせるかの価値との違いです。そのため、芸では、繰り返し、同じ課題を練習して、暗記して、暗誦していくプロセスをとるわけです。
Q.慣れたら、すぐれていくのでしょうか。
A.体に身につける、体得とは、一言で言うと、慣れです。以前、非日常であったものを日常にしていくことになります。一体化して馴染んでいくことです。
ステージで年に数回、歌うプロよりも、毎日カラオケで歌う人の方が日常化し馴染んでいるといえるわけです。
でも、馴化してしまうと、そこでそれ以上、そのままうまくならないで落ち着いてしまうのです。その人なりのうまくなったというレベルで留まります。ですから、慣れは両刃の剣なのです。
海外のプロのヴォーカルのように、日常で歌っている、踊っている、そこはベース、当たり前のことです。それが常人を超えたレベルにあってこそ一流と言われるわけです。
日常の日常化は、価値にはならないのです。でも、それが前提、そこを得てからが、勝負です。
Q.身につくプロセスを説明してください。
A.聞く、正しく判断する、正しく発する、最初は、そのために、集中したり注意が必要となります。それが慣れると特別な状態は必要なくなっていくのです。
このときに、以前にマスターしたものがくり返されているだけということもよくあります。
過度な集中や注意はしぜんな状態と違いますから、力が入ることもあります。よく脳波や血流などで数値が上がったからよくなったというような人がいますが、それは慣れないことをしたための状態です。マスターした後は、しぜんになるのが普通です。
マスターとは一回きりでなく、次のレベル、次の次のレベルとなるので、技を覚えていくのと同じく、体得した技はしぜんになり、そうでない技は難しい―ふしぜんであるわけです。
Q.たくさん見聞すれば、身につきますか。
A.自分で実際にやってみて、初めてわかることが多いものです。見ていても見えていないこともあります。実際にやってみて、また後に再び見ると、その難しさや意味を把握しやすくなります。見ていて簡単そうで、やれるつもりでも、実際にやると、できないことに驚くものです。ですから、習い事でも実習体験が中心となります。
Q.型は、実践からいうと遠回りと思うのですが。
A.型とは、実践そのものです。遠回りと思うのは、実践が応用、変型なのに、そこを支える元をみていないからです。私が「わかってもできなくては仕方ない、できればそれでよい」と言ってきたのは、そういうことです。
Q.新しい発音を口の形などで覚える方法がありますか。
A.聞いたときにそういう口の形のイメージ、ひいては、そう動くことによって、音が正しく判断できる、つまり、判別できるから発せられるのでなく、発せられることで判別していくということでは、実践的な学び方になります。
Q.せりふを実践的にトレーニングしたいです。
A.せりふをマスターするとき、最初は、一音ずつ、ゆっくり読みますね。ことばを正確に把握し、発していきます。反復して暗誦したら終わりではありません。それからどう表現するかです。すると、呼吸や発音も問われるレベルが上り、上達していくのです。
Q.発音をよくしたい。
A.外国語学習で文法や単語は自分でチェックできますが、発音は難しいですね。専門家のチェック、ネイティブのチェックが理想です。でも周りの人のチェックでもよいかもしれません。自分でのチェックはヴォイスレコーダーを使うことです。
Q.なぜ、語学で文法、構文、イディオムという分野があるのですか。
A.音の変化は、発声―発音に関わります。これを全パターンで覚えるのと、代表的なもの、よく使われるものに限定して覚えるのと、大別して2つのやり方があります。
リズムや音程も、歌唱での音の変化の一つです。そこでもルール、型から入るのが効率のよい学び方です。
本当は、なぜそういう変化をしたのかを捉えていくと、自ずと正しく変化していくようになるわけです。すべてを覚えるのでなく大まかに代表例で学び、全体や構造をつかむのです。その一つが文法、構文、イディオムなどという分野での学び方です。アクセント、イントネーションもそれに類します。
Q.母語は、なぜ必要なのですか。
A.言葉の定義を求めてくる人たちばかりとなります。さまざまに解釈できるからこそ、論争になるのです。
一義では無理です。「その定義が間違っている」と言いあって終わりです。
母語は定義を変えられるわけです。変えてもお互いに理解できるから、新しいことばが生まれます。外国人には、正誤はネイティブに効くしかないのです。
通じる、受け入れられるのは、流行するのは、一義でないことを共有できるからです。日本語の一つの単語Bonsaiなどが、そのまま英語になるのは他に置き換えられないケースに限られるのです。ガーデニングでは通じませんから。母語をまず徹底して学ぶのは、クリエイティブになる必要条件なのです。