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2018年5月

第8号「トレーニングのつくり方」

○万能なトレーニングを考える

 

 疑問に対応する基本的な考え方を示しておきます。

 

1.トレーニングは、器を大きくし、可能性(限界)を広げていく。

  歌は伝えるための器のなかで切りとり、作品として最高のものに編集していく。

  花壇づくりと活け花のような関係。

2.どんなメニューがよいかは、目的にどう結びつけるかで決まる。目的に結びつかないと本当には使えない。それ

ぞれの必要性に対して位置づけがある。

3.問題を発見するためにメニューをセットして、発見したらそれに対応をとる。その場での処置法と根本的な対応

とは、異なるので、二段構えにする。

4.体に教え込み、意識せずともやれるようにしておかないと、何事にも対応できない。

  正確さが欠けたり、遅れる。

5.自分で必要と感じて初めて意味がある。全身と全精神で捉えようとしたときに、どんなに必要か、どんなに欠け

ているのかを実感することから、心身と結びついてくる。

6.目的と優先順位をはっきりさせる。トレーニングは部分的な目的達成のための必要悪である。早く効果を期待す

れば、無理がくる。

 

〇論理的につめてメニュをつくる

 

二つ以上の問題が矛盾していることをつかめば、そこにチェックのためのメニュー(認識)と解決のためのメニュー(トレーニング)ができます。

 

7.対立させられる二軸に対しては、論理的にその間にメニューを詰めていくと解決に近づく。少なくとも、問題がより明らかになり、より細かなメニュー設定ができる。矛盾を詰め、その間にメニューをおく。

 

たとえば、

1)息を強く吐くと、リラックスできない。それは、強い息をリラックスして吐く必要があるとしたからです。

その必要性の是非は、もう一つまえの問題です。

2)高い声を強く出したい

  「高い声=○、強い声=×」と、「高い声=×、強い声=○」の間に、いくつかのトレーニングをおく。そのまえに「高い声を弱く出す」「低い声を強く出す」という別の必要性や目的がある。

3)響かせると発音がはっきりしない

  「響く=○、発音=×」「響く=×、発音=○」、

  それを両端におき、そのなかにメニュをつくります。

  その真ん中に「半分よく響く=△、半分よく発音できる=△」がくる。

4)アエイオウで「イ」がいえない

  aeiouで、aeouがよいなら、aiaaiaeiaieなどで詰めていくのです。

私は音声学などを利用して、より早く適切なメニュをつくっています。

ただ、現実の発声、発音から聞いて、メニュを設定する方が効果的です。

すぐれた医者の診断は、マニュアルにまさるのです。

 

〇トレーニングの考え方

 

8.正誤ではなく、できたら、あなたが惚れ込むだけのものにする。

  それで終わるのではなく、すべてはそこからである。

9.トレーナーにつくのは、問題をはっきりとさせ、解決の糸口をつけるためである。

自分自身で問題を自覚できるようになることと修正できるようになるためである。

10.結果として声に表われ働きかけるものを、マニュアルや方法論として勉強すると、本やトレーナーに一方的に与えられるほど、積み重ならず力にならない。

11.トレーニングできるところでなければ、トレーニングはできない。トレーニングできないところはできない。

できると思っているところがきちんとできていないから、できないところが生じる。そうでないところは、それ以上のところは不要のことが多い。

12.メニュは、どういうことのためにやっているのかをわかっておくこと。

それぞれの問題は、全体の一つの要素にしかすぎず、多くはそれを解決せずとも他で代用できる。

解決にこだわることが、常に全体のより大きな問題を見失ってしまう。

13.表現力は、日常のものをパワーアップした上に成り立つ。声は歌、歌はステージで応用して正される。出口という目的に対して、セットすることであるが、本当の出口を考えつづけることが大切である。

14.多くの問題は、何事もできないよりはできた方がよいというくらいのもので、本人が思っているほど大したことではないことが多い。むしろ、小さいと思う問題の方が重要なことが多い。

15.「より高く」「より大きく」「より深く」などの「より」というのは、「今より」ということで、今できないことである。そうでなくては、問題にならない。

  だから、今、問題としても、すぐ解決すべきことではない。

16.形をとり、実を入れないより、実から形をとること。

17.問題として、すぐに解けたとしたら、それはごまかしやクセがついたということである。

18.人間には、限界がある。それゆえ、作品にできる。

19.作品には限界がある(時間、予算、設備、スタッフ、才能)。

  それゆえ、作品にできる。

20.あなたが売れるものをもっていたら(つまり買い手が欲するもの)、プロになれる。プロとは、制作者であり、制作能力が問われる。

21.あなたのもっているものが一つでもあれば、まわりの才能、技術を駆使することで、補えることは多い。

22.すでにあなたは充分にもっている。ただ、使えていない。

23.わかりやすいものなど、所詮、わかってしまえばつまらないものにすぎない。

24.わからないうちは、わからなくてよい。すべてわかることはありえない。

25.決して、声や歌のせいにするな。

26.決して、他人のせいにするな。

27.すべては、あなた自身のイメージとテンションからなのだ。

 

○好きの限界

 

「自分の好きにやればよい」という人には、それでよいでしょう。ただ、私に接する人は、好き嫌いを超えて、最高のもの、自分で気づいていない本当の才能を引き出すことを求めてきます。

私も長時間、年月をかけたら、誰でもできることよりも、その人しかできないことを求めていきます。 

あなたが好き嫌いで勝手にやるようなものは、必ずしもオリジナリティや個性として力をもつほど深められていないからです。

 

「世界のことを知るよりも、自分自身を知ることの方がはるかに難しい」(ゲーテ)

「汝自身を知れ、汝自身を知れば、今までの汝をのりこえられる」(ソクラテス)

第7号「知識や理論に振り回されないこと」

○中途半端な知識、理論が邪魔する

 

 昔、私の講演にきた、ある専門家が、「ピアノの真ん中の音は、なぜ人間の話す声の高さと同じなのですか。」と聞くので、「私は人間がつくったから」と、答えました。

なぜピアノが両手で届く幅しかなく、20オクターブものピアノを作られないのかは、わかりますよね。勉強熱心な人は、このように、ものごとの正誤だけを求めて、本質を見失いがちです。これについては、「バカの壁」(養老孟司著)でも読んでください。そこには、個性は、頭でなく、イチローや松井秀喜、中田英寿選手のように、体に宿ることを説いています。

 

 なまじ知識や理論は、実践という見えないものをみる力、聞こえないものを聞く力が問われる現場では、邪魔にさえなります。人間が人間に伝えるために、長い人間の歴史の中ですぐれた表現者は、常に科学で捉えられぬことをやってきたのです。

どうして、頭で一秒に何千回も開閉、振動する声帯をコントロールできますか。

理屈でなく現実の人間の声で、世界中ですばらしい作品を生み続けてきたのです。

 本気で相手に伝えようとしたとき、人間の心から体、息、声、ことば、音色は、もっとも効果的に働きます。つまり、人間が本当に伝えたいときに伝えてきたものを、大切に受け止めてきたDNAに反応したもの、それが結果として目指すべき表現なのです。

 

〇分析は何も生み出さない

 

 よいものの要素分析はできますが、分析からよいものは生まれません。

この例は、正しい発声法をいくらそのしくみから解明しても、万人に効果のあるトレーニングにならないことに、顕著に現われています。間違いを防ぐために使われる科学的な理論などは、正しさを求めるところですでに土俵を間違えています。時代とともにある声は、未来の先取りしたアートと現実の社会の聴衆とともにあるからです。

 

 私はレクチャーで時に実例を見せます。こういう発声、ひびき、歌は、一見もっともらしいけど、嘘っぱちですと。なぜなら、私が伝えたい思いを持たずにやったからです。その結果、テンションは落ち、部分的にしか体が働かず、心が死んでいるからです。この声をとてもよいと思われる人がいるかもしれません。とても大きいかもしれません。でも、大きさとか声質しか伝わらないでしょう。皆さんは、これを技術とかキャリアと思ったかもしれません。しかし、伝わりましたか、感動しましたかと。

 

 ヴォイストレーニングを長くやれば、このくらいは数年で何割程度の人はできるようになります。だからって、これだけでは何にもなりません。

目的や方向を今一度、考えてもらうためです。声楽に学ぶのは有意義ですが、声楽家もどき声を目的にしないことです。イメージすべきことは、一流のプロの演奏レベルの声と歌唱力をもったとき、あなたはどういう世界を作るのか、ということです。

 

 お金があっても、使えない人にはお金は無価値で、お金を得ることを考えるのも、意味がありません。行動したら、お金は動きます。今のお金を最大限に使える人は、また大きく使えるだけのお金も得られるのです。この、お金のところを声に置き換えて考えてみてください。

 ただし、その上で何もわからない場合、数年かけて、声量や声質だけでも他の人に認められるキャリア、技術を先に得るのはムダなことではありません。それこそ、ヴォイトレの基礎なのですから。

 

〇すぐれたアートとハードトレーニング

 

 本当に人の心に働く声は、あなたの内面からしか変わりません。外面から変えるマニュアルや方法は、ただのきっかけか、一時しのぎにすぎません。もちろん、それも使いようによっては有効です。技術やスキルともなります。

 すぐれたアートが出てくるには、あなたの中にすぐれたアートが宿ること、あなたにアーティストがくれたものが、あなた自身とのコラボレーションによって、次代のアートがあなたに引き出されてくる、そこにしか真の可能性はないのです。

 

 昔から、私が述べてきたことがあります。「ヴォイストレーニングだけを考えると、おかしくなる。ハードにやるとのどを壊す。しかし、ハードにやらなくては身につかない。壊れないためには、音楽を入れておき、ギリギリでリスクを回避できるようにしておくこと。」

 これはトレーニングだからです。できたら、10年以上時間をかけて、ハードにやらずに身につけば、もっとよいのです。

声はやるべきことの10分の1に過ぎない。しかし、確かな10分の1は大きい力となる。ということで、

今も同じことを伝えているつもりです。

 

 科学(音響学)、医学(生理学)的な分析や客観的事実の限界は、そのことが真理であっても、人間が感じられたり、心を動かすものにならないということです。たとえば、声の強さは、声量(と人が感じるもの)と違います。

ピアノのダイナミックな表現も、腕力の強さや音の大きさでなく、タッチのメリハリ、速さ、鋭さ、ドライブ感から人の心に訴えかけるのです。

 

 案外と、声のヒントは、現実社会の人間の間に落ちているのです。

正しい発声法で歌えば、人に伝わるのではありません。テノール、ソプラノ、あるいはアナウンサーの発声が正しい発声の見本でしょうか。

 発声は、きっかけに過ぎないのです。心の表現が、発声を高度なところまで、そして完成を求めるのです。そこにヴォイストレーニングが必要なのです。そして、この入り口には、出口が必要なのです。

 

第6号「理論と実際の現場での違い」

○価値あることの演出と鏡のトレーナー

 

 トレーニングの考え方や方法に対し、科学や医学、身体学などの進歩は、マニュアルの誤りや誤解、誤用を解くヒントを与えてくれます。

私は、当初からプロとやってきましたから、自分のできることが必ずしも相手ができるわけではない、相手のできることが、必ずしも自分ができることではないということを痛感してきました。そのために、相手が価値あることができることが、最重要であるということを基本の考えとしてきました。自分と違う相手、違う目的の相手にどう対するかということです。自分と異なる時代や場に出ていく相手に対して、どう把握するのかを考えるわけです。

 

 多くのトレーナーの、自分にできたことを相手に、いかに早く簡単にできるように伝えるかでは、本人の本当の力を引き出すことはできません。少々うまいといわれるところまでもっていけても、そこまでです。第一線の現場に通用しないし、そういうプロを支えることはできません。

 

私自身はもっとも厳しく声で伝わるものを聞く“鏡としての役割”に徹してきました。自らも客観性を求めるため、専門家と声の分析も行なっています。

 とはいえ、いつになっても、私はデータ(仮に真理だとしても)を、自分の感覚よりも信じることはないでしょう。専門家と共同研究を続けながら、私は自分の耳を、これからも世界中をまわり、音や声でもっともっと鍛え続けていくつもりです。

 なぜなら、現場で私に問われることの目的は、声を正しく出すことでなく、結果的に、声で人々に感動を与えることだからです。それを自分の耳で聞き分け、誰よりも厳密に判断し、アドバイスすることだからです。

 

〇指導者の生む誤り

 

 私は単に呼吸法や発声法でなく、音楽や表現として、どう声を捉え、導くかを主にやっています。この分野は、まだまだ未開で人材も乏しいと思います。

 これまでの科学的な説(仮説を含む)や声楽家やトレーナーの指導書、方法論こそが、多くの誤りを生む原因にもなってきました。これもイメージを介しての指導であれば、端から記述されたことで正誤を判断すればよいというものではありません。

 

 声や歌は個人差(民族、言語や文化の違いも含めた上に)体や声帯の差、日常の言語や歌唱で得たものでの差、目的の違いが大きいからです。

さらに、声の発信体としての研究だけでなく、声の受信体(客の反応)としての研究も必要です。(音楽心理学や大脳生理学、音声知覚など)とはいえ、次のようなことが前提として、あるといえます。

 

1.スポーツのように、目的が一定でなく、個別の設定によるため、真似から正しく入りにくいこと。

2.目に見えない音であるため、耳にすぐれた人でないと、難しいこと。

3.指導上の感覚・イメージ言語の誤解、継承、解釈、使用の誤りが必ず起きること。

4.現場と研究との乖離、日常と芸術、舞台との距離があること。

5.音響や舞台装置など応用技術効果の導入で、表現の到達レベル、基準があいまいになったこと。

6.舞台、ショースタイル、客の趣向で大きく左右されること。

7.本人の生き方・考え方・パーソナリティが優先されること。

8. 才能より好みが優先してしまうこと)が優先されがちである。

 

〇常に表現、ことば遣いの修正の必要性

 

 私は、引用していた図表や理論、他書や他の方に教わった方法・用語を新しいものへと、差し替えてきました。私自身が直感的に述べてきたところは、今のところ、大きく変更する必要にせまられていません。それでも、思いがけなく、誤解を与えかねないところをみつけては、表現上の修正を常に重ねています。

 

 私の根本での考えは、同じですが、伝え方は日々変じています。相手により、時代により、違ってくるのです。

 現場と理論では、現場での効果が優先です。アーティスト相手の仕事である以上そうなります。トレーニングにどう対するかは、ケースによってまったく異なります。同じケースで全く逆の対応をすることもふつうにあります。

 

〇早くうまくなることのリスク

 

 たとえば、一時悪くなるけど、あとで効いてくるものと、一時、効果は出るが、大してあとも変わっていかないものがあります。これに関しては、トレーニングとして、前者をとるべきですが、なかにはそれを一時でみて、間違ったとか、下手になったと見切ってしまう人もいます。また、現場では後者をとらざるをえないことがほとんどです。そのため、いつも二段構えで臨みます。トレーナーが、この区別ができているのかがもっとも重要な点となります。

 

 スポーツのように、コーチに言われたようにやったら新記録とか勝ったというように、結果にすぐには還元されないし、試合もないから明らかな結果というのも難しいのです。結果がよければすべてよしという結果が公の場でなく、個人の感覚や好みで判断されるからです。レベルの低い日本では、長期的な成果は、促成栽培的な効果のまえに否定されがちです。結局、声も歌も、所詮、本人が選び、本人が決めるのです。

しかし、アートですから、教えるのでなく、刺激すること、気づかせること、自分の声の可能性を認識させることが、トレーナー本来の仕事だと思うのです。

 

 本人の要望に答えることと、それ以上の深い真理へいざなうことを、矛盾させないためには、神(この場合、一流のアーティスト)の手を借りるしかありません。

そのことのわかるアーティストとのトレーニングを行なってきた実績をもって、私は確信をもって述べているのです。プロは、投資分を必ず回収する力を持つ人です。力のある人はいわずともわかるのですが、それを一般の人にどう持っていくかは、難問です。本当に効果的な方法は、単独にあるのでなく、トレーナーと一体なのです。

 

〇科学的説明の限界

 

 たとえば、いかに高音が周波数で決まるから、そのように声帯の振動をどうこうでしょうといっても、人間が反応する高音は、音響技術のようにはいきません。

私たちは、現実には次のように声を使っています。表現として強めたいとき、息は強く吐かれ、声も強くなり、高くなり、それが強く伝わる、何よりも受け手は、それに反応してきた現実の生活と歴史、つまりDNAがあるのです。

 

 声の高さは、まだ比較的確かなものですが、そこでさえ、声帯の周波数ほか、いろんな要素で決まり、そのしくみも厳密には解明されているわけではありません。

周波数(音高)とピッチ(これは受け手の感覚値)も違うわけです。

倍音や音色などの要素が入ってくるので、複雑です。

 

 しかし、現実に、聴衆は声の高さや大きさ、長さを聞きたいわけでも、それに感動するわけでもないのです。現実の声の効果を聞きたいのです。

それゆえ、声の問題は、総合的に捉えざるを得ません。これをいくら基本的な理論や知識で理解しても仕方がないのです。つまり、声を高く出すため、などという問いは、歌を形(1オクターブ近く、高く出し、メロディと歌詞で歌うもの)と決めたところからきているのです。「高音コンクール」などがあるなら別ですが、それを目的にすることで、すでに本当の目的を飛ばしているのです。

第5号「力をつけるための基礎の徹底」

○効果を出し、力をつけるトレーニング

 

 養成所が与えられるものというのは、本番以上に厳しい場とそこで耐えうる習慣だと思います。伝わる、伝わっていないというのは、否応無しにわかってくるところでなくてはなりません。とことん音声に敏感になれたら、ということです。そうやって、ようやく自分の基準ができていきます。

 

 私のいいたいことは、読むことと実行できることは違います。そのことばの意味することがどういうことなのかということを、レッスンの場から気づいてこそ、効果につながるのです。

 トレーニングをやって何の意味があるのかと考えるような人もいますが、力をつけることで意味が見出せてくるのです。

習いに行かなくとも、それ以上のことをやっていて、それなりのものを作っている人はいくらでもいます。それを前提に考えなくてはいけません。今うまくできないとか、まだやれていないということは、気にすることはありません。

 

○あなた自身の声、そして歌に気づくこと

 

 自分のものがいつ出てくるかというのは、誰にもわからないのです。

続けていくには、手間ひまをじっくりとかけることです。そのことを最優先して生きることです。作品そのものからインスピレーションを得て、トレーニングの方法を自分で発見し、それを実践して、常にレッスンの中で問うていくことです。

 

 レッスンであっても、「その歌」を歌うのではありません。もし「その歌」から学べるものを全て学んだら、「その歌」にはなりません。「あなたの歌」になり、「あなたの声」に「あなた」が現れて、はじめて伝わります。

 

○徹底した基本のマスターを

 

 発声なども、1曲を繰り返し徹底してマスターすれば、ほとんどの問題は解決するはずです。もちろん、何事も発声法だけで解決するものではありません。

複合的なものを入れては出して、繰り返すのです。いつかそれを忘れたときに歌が出てくるのです。だから、発声と音楽たるものの基礎を徹底して、自分に入れておくことです。

 

 曲を本当に聞くことができているなら、一曲の中でリズムトレーニングも、音感トレーニングもできるのです。それが聞けない時期は、トレーナーについて、別の方法で音感、リズム感などを磨いていくこともあってもよいでしょう。そうして自分なりに、自分の方法論をつくってください。

 

○トレーニングで本当にやることとは

 

 トレーニングでやることは

1.長期的に身になること、今すぐ役立つものではないこと

2.やがて過酷な状況でも、のどが耐えられるようにしていく(鍛えてタフに、使い方を知ること)

 そのために、レッスンでは一人では、できないことを気づき、自ら、やりにいくのです。

 

 このように、あとで効いてくることをやることがトレーニングなのです。

 参考までに、中川牧三氏の言葉を引用させていただきます。

聞き手は心理学のオーソリティ、河合隼雄氏です。(「101歳の人生をきく」中川牧三・河合隼雄著 より)

 

河合:合唱団なんかも、ちょっと特別なものと違いますか。一糸乱れぬようにパーッとやって喜んだり、むずかしい曲を必死に練習したりして。

だけど、自分の身体からほんとうに声が出てきて楽しいという感じじゃなくなっているのが多いみたいに思うんですけどね。

 

中川:悪口のようになるから言うのはいやなんですけど、いまのみなさんの勉強のしかたには多くの問題があるように思います。世に蔓延する偽者(技法)に騙されてはいけません。それに近道を望んでもいけません。

レコードを、エンリコ・カルーソーのにしても、レナータ・テバルディのにしても、ほんとうに偉い人の歌をよく聴いてみてください。けっしてみなさんがやっているような声で歌っているわけではない。それがすぐわかるんです。

 

この歌をカルーソーはどう歌うのか。ここまでポジションをもちあげて、その次にここをゆるめて、この場所に入れる。それから曲芸を見せて、ウーッと・・・。真の芸当ができるのは真の力のある人だけです。

それに、この正当なベルカントの発声法は、ただ練習を熱心にしたからというだけでできるわけではないんです。

 

河合:それはしかし、音楽だけじゃなくてすべてに通じることですね。

いまはやっぱりみんな慌てるから。本当の先生は時間がかかるんですね。

 

中川:時間はかかります。

 

河合:パッパーッと真似して、「ここまで」とか「これで」と言うんやったら、これは方法があるんです。そこまで到達するなら、わりと簡単な方法があるんですよ。

それにいまの人たちは、歌だけじゃないですよ。あらゆる世界で、みんなマニュアル方式で「ここまで行きましょう」と。

それでちょっと才能のある人は、それにプラスして勝手にミックスしてやっている。

そういうふうな格好がものすごい多いかもしれませんね。

 

中川:そのとおりです。

 

河合:それをもういっぺん、ほんとうの先生から、人間から人間に、と。これは歌の世界で言っておられるけど、あらゆるところに通じることじゃないですかね。

現代の大問題。それは機械でパッとわかるということと同じで、要するに、要領のよい方法であれば、ここまで行きましょうというのは、ものすごく発達してきているわけです。

 

中川:あらゆる分野で。

 

河合:また、若い人はすぐ、「先生、どうしたらそうなりますか」と訊くんです。

 

中川:よく訊かれますねえ。

 

河合:その問題がすごく大きいことかもしれませんね。で、生の、生きている人と生きている人の関係というのが少なくなってきて・・・。

 

中川:イタリアでも発声レッスンの場合、習うほうにしてみればもの足りないんです。

それらを積み重ねて紙一重の違いを見極めていく忍耐がいるんですが、でもいまの人は、じれったいんでしょう。それから、曲をちっともやらしてくれないから、おもしろくない。それより、一つの曲を二回歌って、克明に直してもらう「曲づくり」のほうを喜ぶ。それでは何にもならないんだけど。

Vol.62

○声の4つの要素

 

それでは、声そのものは、何による違いがあるのでしょうか。声には、物理的にみて次の4つの要素があります。

1.高低(周波数)

2.強弱(振幅)

3.長短(呼気や共鳴の持続、変化)

4.音色(フォルマント、倍音構成)

 特に問題となるのは、トーンです。トーンとは音色、声の音色ですから、声色ともいいます。トーンといっても音の高さのことではありません。音の高さはピッチです。

 

〇声帯模写と声マップ

 

かつて、落語家や漫才で、声色を売りとする人がいました。それを声帯模写といいました。

 江戸家猫八さんは、ホトトギスの音色を得意芸としました。政治家、財界人の声色をやる人がいなくなったのは、さみしいことです。それだけ、まねをされる個性的な大物がいなくなったということなのでしょう。

 私は、芸能人の声マップをつくっています。しかし、個性的な声の人は、昔の方が多かったように思います。なかなか最近の人の特徴の声がとれないのは残念なことです。

 

○声の組み合わせ

 

 声の4つの要素を組み合わせると、いろんな声になります。イメージしてみましょう。

A. 高―低 ピッチ、声高

B. 強―弱 ヴォリューム、声量

C. 長―短と変化 減衰(長さ、スピード、音圧)

D. 音色(音のトーン、声色、声質)

 これらの要素を組み合わせると、いろんな声になります。

E. 声のイメージ あたたかい―冷たい、柔らかい―固いなど。

 

○楽器としての声

 

 ここでは、発声の仕組みを楽器のように考えていきます。

[声の4つのメカニズム] 

 まずは楽器の構造として、私たちの体の発声に関する器官を4つに分けて捉えてみましょう。

 

1.呼吸(呼気)がエネルギー源(「息化」)(肺―気道)

 人の体を楽器として、オーボエに見立ててみると、声帯は、そのリードにあたり、声の元を生じさせています。肺から出る息(呼気)がリードをふるわせて音を生じさせます。

 声帯は筋肉ですが、直接、意識的に動かせません。呼気をコントロールすることによって、周辺の筋肉も含めた声のコントロールをしていくわけです。呼吸は肺を取り囲む筋肉の働きによって横隔膜を経てコントロールされています。そこで、声を高度にコントロールするのに、腹式呼吸のトレーニングが必要となります。

 

2.声帯で息を声にする(「音化」)

 肺から吐き出された空気は、直径2cmぐらいの気管を通って上がってきます。咽頭は、食道、気道を分けるところにあります。唾を飲むと上下に動くのが、喉頭です。この喉頭のなかに、V字の尖った方を前方とする象牙色の唇のようなものがあります。これが声帯です。

 声帯は、気管の中央まで張り出し、そこで左右のビラビラがくっつくと、呼気が瞬間せき止められます。次に呼気が通ると開くのです。これが一秒に何百回~何千回もの開閉が行われ、声の元の音を生じます。それは響きのない鈍い音で、喉頭原音といいます。

 

3.声の元の音を響かせる(「声化」)

 声は、声帯の開閉の動きから空気がうねって生じます。これはドアの隙間のように、空気音なのです。いわば声帯という、二枚の扉の狭い隙間で生じた音のことです。

 声を大きくしたり、音色をつくりだすのは、楽器では管(空洞)にあたる声道です。声は喉頭から口や鼻までの声道で、共鳴します。その共鳴腔は、口腔、咽頭、鼻腔などです。口内の響きを舌の位置で変えて、母音をつくります。

 

4.唇・舌・歯などで、声を言葉にする(「音声化」)

 響いている声を、舌、歯、唇、歯茎などで妨げると音となります。それが子音です。(これを構音・調音ともいいます)

妨げるところを調音点、妨げ方を調音法といいます。

 

○声の自己判断

 

 それでは自分の声を自己診断してみましょう。

A. 高さ   高い ――――――低い

B. 強さ   強い ――――――弱い

C. スピード 速い ――――――遅い

D. 音色   ひびく――――――かすれる

 

 声の個性は、発声器官(楽器)とその使い方(発声方法)との両方からきています。ですから、声のトレーニングとは、両方に対して行なうとよいのです。

 

○声のよしあし

 

声のよしあしについては、さまざまな条件があり、しかもTPO(状況)に応じて、違います。ここでは一般的によい声というものを想定します。本来は、よい声音とは、音色が決め手ですが、仕事などでは発音、声量などの機能面が優先されることが普通です。

 

○相手の好みによって違う声

 

 一人ひとりの声は違います。さらに、TPOで求められる声も違ってくるので、それに合わせて、私たちは声を変えて使っています。

 その人がもって生まれた声を、もっとも使いやすくするのがヴォイトレの基本方針ですが、TPOや相手によって、求められるものが違ってくることも少なくないだけに、感覚やイマジネーションが大きく影響するのです。

 何よりも、人によっても声に対する関心の大きさ、好みもずいぶんと違うものです。

 声を、人を判断するときの大きな要素にする人と、そうではない人がいます。日本人は、声に関しては不得手であり、それゆえ、寛容であり、鈍いのです。男性より女性の方が、ずっと鋭いようです。

 

○けっこう根深い声の好き嫌い

 

 ある人を判断するときに、そのなかで声をどのくらいの割合で捉えるかも、人によって、かなり違います。

 声でその人を好きになるとはいかないまでも、声でその人が嫌いなのが助長されることは多いようです。

 特に女性や子どもは、声での好き嫌いが顕著にみられます。声やことばの違いは、いじめや仲間はずれの誘因にもなります。

 声やことばが変っている…そのために周囲からいじめられ、自殺や殺人に至った例もあります。

 自分の声が変だから……と思うのは、大体は被害妄想です。声は気にするとキリのない面もあるのです。

 ことばが通じないことでの仲間はずれは、日本に限ったことではありません。人間の歴史のほとんどがそうでした。「バベルの塔」以来のことです。

 ことばが通じることで人は共感できるのです。だからこそ声は、その補助をできるものと、私は大きな可能性を見いだしています。

 

〇五感と声と聴覚

 

 人間にとって、五感のなかでは視覚が優位なのは言うまでもありません。「人は見た目が9割」ということです。臭覚の匂い、聴覚への音というのは、原始の脳、つまり深い記憶に入っています。それだけに気づきにくいのですが、消えることもないのです。

 黒板に「キーッ」と爪を立てた音は、誰でも嫌いですね。それは、人間の天敵の鳥の鳴き声だったという説もあります。

 怪獣の声にも脅威、そういう怪獣の名が、ガ行が多い。この説の裏づけも、人間の心に音が与える語感からきているようです。

 

○相性が合わない人には、声を変える

 

 どんなによいと思う声でも、ある人にとっては、小さい頃にいじめられたり怒られたりした相手の声に似ている声は、好きにならないものでしょう。

 相手のなかにあなたの声に似た、いけすかない奴のイメージが強く残っていると、あなたは、なかなか好印象になりません。

 たとえば、会いたくない相手に、ウリ二つの人がきたら、どうしても前のことを思い出してしまいますね。まして、声も似ていたら、尚さらでしょう。だいたい顔や背丈格好が似ていたら、声も似るのですから。

 相性のよくないときは、逆に思い切って、その人に対して声の使い方を変えた方がよいかもしれません。

 

 ここでもう一度、声の好き嫌いを確認しておきましょう。

1.好きな声は、~のような声……

2.嫌いな声は、~のような声……

 

 自分の身のまわりの人の声をチェックしましょう。

 あなたと関わった人の声を年表式に整理しましょう。

 また、家族の声もリストアップしましょう。そこに好感度も加えてみましょう。

  父………

  母………

  兄弟………

  特徴のある人の声………

 

 一枚の図に、20名くらい入れてみると、声の分類マップとして使えます。あなたの声の捉え方やあなた自身の声の位置もはっきりしてくるでしょう。

 縦に高低のピッチ(音の高さ)、横にのど声-鼻声、の軸をとってみましょう。

 

○声による中性化

 

 嫌いな人の声+好きな人の声=普通の人の声 と、このようにはいきませんが、嫌いな人に嫌いな声を対させると、うまくいきません。

 誰でも自分に敵意をもっている人に好感をもつことはありません。好きなのは自分に好意をもっている人です。

 ビジネスでは必要以上に好きになったり好かれる必要はありませんが、あえて嫌われることもよくないです。ですから、嫌いな人に対しても、好かれる声を、あなたの魅力的な声を使ってください。

 嫌いな人の前に出るときは、好きな人を思い浮かべ、声もその人に対するのに切り替えます。すると、感じのよい声が出ます。それを続けていると、だいたい相手の対応も変わってきます。

 ドラマでも、憎しみ合う二人が、親しくなるきっかけは、どちらかがこれまでと違う声でことばをかけたときです。そのときの声のトーンの感じが決め手です。つまり声が友好的であると、関係が変わるのです。

 

 一方、喧嘩は、どちらかが啖呵を切る、つまり強く言い、親しさを切ったときに生じます。席を立ったり、机をバンとはたいたりしたら、唾を吐いたのと同じです。行為と表情から、次に出てくる声も、およそ見当がつきますね。

 そのような声を使わないのが、友好的かつ平和に生きるすべなのです。

 でも、どうも声が自由に使える人は少なくなったようです。日本が安心できる国になってきたからならよいのですが。

 

○真剣に扱われない声の問題

 

 声は年配の人、偉い人、エリートの人でも必ずしもうまく使えていません。昔は、お役人的、事務的な声でもよかったところもありますが、今や心をつかむ声でなくては、人はついてきません。そこでは信頼のある声の出番が求められています。

 話のスキルアップには慣れていきますが、声は急に使えるようにはなりません。何よりも、その効果を意識している人が少ないからです。

 

 声は誰でも使ってきています。だからこそ、直しにくいものです。声を変えたからと急に何かがよくなるとは限りません。その前に、いったいどこが悪いのか、どう直すのか、直したらどうよくなるのかが、なかなかわかりません。

 こんなことで迷っているうちに、多くの人は一時の気の迷いのように忘れてしまいます。残念なことです。声の試験があるのでも、よい声の資格が与えられるのではないからです。声は貴重なのです。

 

 声を学ぶことで、多くのことは解消されます。私たちの悩みの大半は、他人とのコミュニケーション、人間関係に委ねられているからです。声によってよくなるものが、思いのほか大きいのではないでしょうか。

 

○ネガティブな声も使える

 

 皮肉ったり、罵倒したり、捨てせりふは、相手にネガティブメッセージを伝えることになります。嫌な顔をして、いじわるな気持ちになれば、嫌な感じが声に出てきます。

 そのときの、のどから顔の表情を状態として覚えておいてください。

 いつもそういう声を出して生きていたら、顔もだいたい、そうなっていくので、そういう練習はしなくてよいです。

 

 トレーニングは、こういうことを一つひとつ習得するためにするのではありません。ただ、心や顔を大げさに使ったときの動きを経験しておいてください。現実に使わなくて済めば幸いですが、人生、胆力を使わなくてはいけないときもあるかもしれません。そのときに、明るいだけの声では困ります。

 ときに悪役なのに声がきれいで悩んでいるという人が来ます。しかし、声をつぶすことは、いろいろな意味でお勧めできません。そのときの役に専念して、出番のあとは、よい意味で力を抜くようにと言っています。

 

○余計な一言

 

 余計な一言で、生涯嫌われることがあります。声も同じです。だらしない声、気力のない声は、使ったら反省してください。嫌な声を薄める。それも、ビジネスでここ一番のときは、大切なことですね。

 もっとも繁雑に使われているのに、あまり直らないのが、会社の出社時の声です。冴えがなく、テンションもないのではないでしょうか。出社して、昼休み、夕方と、しだいに声が出るようになってくるものですね。でも朝一番から元気な声を出すと、もっと早く職場が活気づくものです。朝礼などは、その切り替えのためにあるといってもよいくらいです。

私は朝晩、坊さんのように経を読むとよいと思っています。信心深いと声に力が宿ります。眠るときも唱えるとよいでしょう。寝覚めは元気よくありたいですが、寝起きの大声は発声にはよくないので、静かに起きましょう。

「人生の意味」 No.321

質問で、結局のところ、人生の意味とやらいうようなことに関わることを聞かれると、いろいろに答えてきました。わかっているようなつもりで、あまり自分のことでは考えてこなかったように思うのです。

 

仕事も人の出会いもそれなりに、創ってきたつもりですが、それも与えられたのかと思います。仕事も感情も自分以外の相手に向けられているものであり、自ら、意味を問うまえに、そういうものから問われてきたように思えるのです。

 

年齢を重ねると、知人の死に出くわすことが多くなります。仕事や親しい人をなくした人にも会うようになります。ときに仕事も関わる人もないところでは、何が自分に問いかけてくるのかと、考えるようになってきました。

 

これからくる未来へイマジネーションを働かせ、そこに使命や責任を感じ、モティベートの力にすること、そこで、人生の意味が生じてくるのかなと感じています。

 

 

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