第10号「一人よがりにならないために」
○うまいのに伝わらない
私は、うまいのに何となく腑に落ちない、伝わらない歌をたくさん聞いてきました。多くは本人も知らないまま、真似が抜けていないからでした。もちろん、真似ていなくても(CDなど聞いたことがなくても)そっくりになってしまうこともあります。音楽をすぐれたレベルで奏でると、共通するところがあるからです。
しかし、誰にも地に足がついている、まわりがどうであろうと、時代や世の中が何であろうと、それを超えて輝くオリジナリティは潜在的にあるのです。それが、自分(声、体、性格、ルーツ、信条、生き方)を核にした、こだわり、深く練られた作品となっていくようにしているかどうかなのです。もちろん、同時代で誰一人認めないものとなると、絵画などではともかく、歌では成り立たないでしょう。
○感動するための3つの要素
私は、才能とは「入っているもの以上によいものが出てくること」と思っています。よいものとは、「新しいもの」「おもしろいもの」「変なもの」、そして「すごいもの」です。音楽の中でことばが使え、人間の声で表現する歌は、絶対的に強いのです。しかし、ことばと声の二つが、日本の中で「ミュージシャンとしてのヴォーカリストの実力」を曖昧にしてしまった要因のように思います。(そんなことでみる必要は日本ではないゆえ、日本では歌は厳しくない、ということになるのですが。)
○うまいのに感動しない理由から考える
「新鮮で、おもしろく」となるためには、その人個人の魅力や持ち味があること、さらに、「すごいもの」となるには、高い音楽性が必要です。歌い手が伝えるのは、声や歌でなく、それにのっている思いであり、音楽として作品に値するイメージや感覚です。
○自分の歌う声の適性と好きな声が違うとき
ヴォイストレーニングは、自分のベストの声を出すための探究と鍛錬です。嫌な声は発声の理や使い方からそれていたり、磨かれていないことが原因です。それをトレーニングしていく。それでも好みに合わなければ、私はやはり持って生まれたものを最大限生かす、つまり、オリジナリティを選びたいものです。
しかし、日本人はやはり横並び、自分にないもの、あこがれた人のものを求める場合が多いようです。これも最終的には、本人が決めていくことですが、ただ、よい声が出せるというだけの人なら、けっこういるのです。
○間違えないトレーニングをするには
人生、二度と同時期を試せません。よく、「ずっと間違ったトレーニングをしたが、やり方を変えたらうまくいった」という人がいます。私にも、そう感謝してくれる人もいます。しかし私自身、誰よりもいろんなことを試し、続けてきてわかったことは、誰もが同じ条件で、同じ方法をやっているはずがない以上、質のかけあわせと、あとは目的のヴィジョンとイメージ力と意志の強さだと思うにいたりました。
私自身は、よい方法でやったからこうなれたのではない。また、私の発見した方法がよかったから、すべての人がこうなれたるのではない。こうなるのがよいとも限りません。
トレーナーには、自分一人の効果をもって、論じる人が多くて困りますが、いろんなことを声で試し、しかも長く生きてきた心身は、すでに初心者のもつ条件と違うのです。何ごとにも、こうはいえます。私ほどにやったら、どんな方法であれ、私以上にはなれる。そこまでするかの勝負なのです。
自分がやった方法がもっとも効果があったと思い込むから、トレーナーをしたがる人もいるのです。それは、もっともよさそうに思えて、困ったことです。
安易に自分のレベルを目標のようにして、楽に効率より早く間違えないでそこまで効果があがるようにうたうのも、生活のため、背に腹は変えられなくなっていく。でも、「方法を教える」のは、すでに違うのです。
○ギャップを明確にする
私がベテランのヴォーカリストとレッスンするときは、ギャップを明確にするそのために、わざとテンポダウンやフレーズを伸ばしたり、大きくしてもらったりします。すると、本人の限界がみえてくるので、そこを強化し器を大きくします。
たとえば、フレーズ間を0.5秒で歌わなくてはいけないところを、プロなら口先でたやすくカバーしてこなします。私は、その人の呼吸の流れとしてもたせられるまで、2秒かかるなら、ずっとそこでやります。やがて1.5秒、1.0秒と感覚と体が伴ってきて、0.5秒にまでなるのを待ちます。
トレーニングにおいては、何よりもそのプロセスを大切にします。そこで、どれだけ手間をかけ厳しくやるのかが、結果に表れてくるのです。表現として成り立っていることが、曲よりも優先すべきだと思うからです。そこにイメージと体(息)が足りないため、声のコントロールが欠如しているという事実がつきつけていたらよいのです。これこそが、よりすぐれている人との差であり、間違いということではないのです。むしろ、バランスがとれていてうまいと評されるから、分かりにくいのです。
○トレーニングで声は変わる
トレーニングをすれば声も歌もよくなることを私自身、結果として、出してきました。しかし、それを世の中の人が必ずしも求めているのではありません。
あなたの声も歌も身内以外、誰も求めていない。人々は、自分にもっともパワーを与えてくれる人の声を求めています。
声や歌がよくても、何らそれを使えなかった人もいます。才能でしかやれない世界を甘くみて、長くやったことで満足する、まわりにほめられ、すぐに慢心するからです。やったら、やっていない人よりやれるのは当然です。
一方で、声が無く、歌がうまくなくても、多くの場で仕事をもらい活動している人もいます。仕事がきてプロといいます。力がつくとか、やれるとかいっても、誰もが声が出せ、歌も歌える世の中です。現実に客がいるか、ヒット曲があるかで問われます。
トレーナーがやることは、うまくなることでなく(そのくらい自分でやりましょう)、声をプロにすることだと思っています。そうでないと、ますますトレーニングの目的があいまいになります。それが歌や芝居でなくても、もちろんかまいません。
立川談志師匠が「仕事がくるのが偉い」、「CDも何でもあるんだから、師匠は教えることはない」と言っていました。彼の弟子がもっとも多く第一線で活躍しています。
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