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2018年7月

第17号 「ビブラート、フレーズと共鳴」

○ビブラートについて

 

歌にならないからと、ビブラートもどきに語尾でゆらしてカバーしたらよいというものではありません。しかし、これを歌の“技術”として使えるトレーナーもいます。

ビブラートには、・深い息をしっかりとコントロールして、声を持続して出すことと、流れをイメージして、なめらかなフレージングにすることが欠かせません。歌に心地よいゆらぎを加えるところまででしょう。

感情を表現したい部分で、意識的にそれを声に拡げて強調することで、聴き手に気持ちが伝わるならよいでしょう。ただし、声のふるえ、自分の意識でコントロールできない声ゆれはよくありません。今はマイクに相当のエコーがかかるので、なおさら余計にかけてはなりません。

ビブラートは、発声の基本を極めていくと、自然に身についてきます。歌うとき、喉仏に指をあてると微妙に動きます。声は共鳴によって出るものだから、メリハリをきかせるためにフレージングに、共鳴の流れが声に表れるものだからです。

 

〇ビブラートの違い

 

トレーナーにも、歌にビブラートをつけた方がよいという人と、ビブラートを意図してかけてはいけないという人がいます。これはビブラートがどういう状態を示すのかが使っている人によって違うので、どちらがよいとも言えないのです。トレーナーの好みも反映されます。自分の好みでみないということは、歌い手にも、トレーナーにも、とても難しいことです。

私は無理な“ビブラートもどき”をかけないように注意します。ビブラートのためのトレーニングというのは行ないません。共鳴として考える方がよいです。

 

○フレーズの入り方(歌での声立て)

 

早めに出るのも、ためがあってからバーンと出る場合も、あらかじめ描かれた円の流れの中でなめらかに合流するような感じにします。決して突発的に声にしないことです。前のフレーズでの声の切り方に対して、もっともよいタイミング、声量、声質で次のフレーズに入るのは、簡単なことではありません。

日本人は、ゆったりと出だすことが多いようです。ずり上がりやずり下げは避けましょう。歌では鋭さが欠かせません。そこに音感、リズム感、声質が瞬時に出るのです。私のイメージでは、ためて息が出て声が導かれる感じで瞬時に入ります。

 

〇フレーズのキープ

 

直線的に、一本の棒のようにひっぱらないように注意します。統一した響きの線でライン(円)を描くようにします。やや強めていってもよいのですが、変に揺らさないことです。力でなく、呼吸でアクセルを緩める感じです。

 

〇フレーズの終止

 

フレーズの終止は、徐々に声を消し込んでいくのが基本です。そこで振るえたり、揺らいだりしてはいけません。息が足らないと、息の支えがなくなって声がふらつきます。中には、急に止める場合もあります。口先でなく、体で切ることです。流れの中で放す感じで、軽く響きも(胸中や鼻の線上に)残ります。

声は消え入っても、動きがバタと止まってはなりません。声の切れるところは、聴く人の耳に残る大切なところです。次のフレーズの入るところを踏まえて放します。

 

〇フレーズの連続性

 

私は、フレージングにタッチ、ニュアンスをおくとか、エッジをきかす、ピークや発色させるなど、独自のイメージで課題を与えています。もっと大切なのは、フレーズの終止から、次のフレーズに入るまでの流れの保ち方です。そこでのブレスによる流れの変え方、リズム・グルーヴ感なしには語れません。

付言するなら、たとえば4つのフレーズを歌うなら、4つの同じ山ではなく、一つの大きな流れで一貫させた上で、4つのフレーズをおかなくてはなりません。常に起承転結を意識してください。歌一曲、最後まで気持ちが切れてはならないのです。

 

○口を大きく開けない

 

口をパクパクと開けすぎるのは、発声の邪魔です。声が、まだ声の出にくい人は、表情でもフォローできるから、表情筋も別に鍛えるとよいでしょう。口の動きは発音に大切です。目的はそれぞれ、ただし、口を開けるのと口の中を開けるのと、喉を開けるのとは違います。

 

第16号 「声のパワー、ヴォリューム感」

○声量と余力

 

声量と歌の伝わり方は別問題です。声量は、人によって違います。歌を展開の中でもっともみせられるように声量は定まるのです。そのため、一定ということはなく、刻々と表現に応じて、音色も響きもトーンも変化します。高い声や声量を使ったところばかりでなく、低い声、声量を使わないところでのプロの表現をよく見習ってください。

声量はあった方がよいことは確かです。声を張りあげたくなければ、大きく使わなければよいのです。何ごともないよりあった方がよいのです。それは、聞く方に、次の表現の可能性への期待をもたせ、さらに  安定感、奥の深さを感じさせ、歌い手の余裕につながるからです。

魅力というのは、その人の力の底が見えてしまっては、もたなくなるのです。声量に余裕があるということは、使わないほど期待感が増し、要所に絞り込んで使われたときには、満足感をもたらします。

 

〇声の芯とイメージ

 

声に芯があり、歌に線があり、線に変化があって、その線の動きの変化を捉えてはじめて、聞く人はヴォリュームを感じます。徐々に大きくなっていくことで、感情が盛り上げられ、高揚します。歌というのは、だいたいそのようにつくられています。

他人の感覚やイマジネーションに働きかけるのは、歌い手の感覚やイメージなのです。声に焦点がなく、浅く広がっていては、歌えても歌を動かせないのです。芯のある声で音楽的なデッサンで歌の形をくっきりと描き出してこそ、演奏になるのです。つまり芯があり、響きの線のみえる声とそれを使って描く力が必要なのです。

 

〇声の大きさのデメリット

 

声の大きさは、自分の歌を相手に伝えるために、表現上で必要とされることの一つにすぎません。自分のメッセージが上手に伝えられるならば、歌はそれで充分です。むしろ、声量をもって、歌の効果を損ねるのはさけるべきです。声のよい人、声量のある人が、あまりよい歌い手にならないことが多いのは、声や声量や共鳴を聞かせたいと思うからです。どんな武器も、繊細に使えなくては、無意味です。

激しい気持ちを表現したいときでも、大きな声を出さずとも表現できるなら、その方がよいでしょう。実はそのほうがずっと難しいからです。つぶやくように小さな声で表現が保てるためには、そこで体を使えなくては通用しません。そういう歌い手は、歌にはさほど使わなくても、大きな声の出せる体と繊細な表現を構築できる神経を持っています。

つまり、器(ここでは、フォームといってもよい)というのは、大きくつくって小さくできますが、その逆はできないのです。自分の感情をよりストレートに伝えたくなってくると、それなりに大きな声も必要となってくるでしょう。ですから、声量の幅をもつことは、より豊かな表現ができる可能性をもつといえます。

 

〇パワーとインパクト

 

多くの人を感動させるのに、パワーはなくてはならないものなのです。ただパワーと感じられるものは、声量だけではないということです。むしろ、インパクトとしての鋭さ、変化、動きの方が問われます。

歌は声の大きさでなく、イメージの大きさで歌うのですが、感覚に体が伴わない、伝わりにくいです。

そこでトレーニングでは、結果として、その人にとって最大の声量の獲得を、そのためでなく、そのプロセスで得られるもののために、セットします。

ミニマムでマックスの効果が出てこそ芸です。トレーニングはマックスでマックスを極めることに挑みます。器を広げるためです。海外のヴォーカリストの響きがうるさくないのは、深い声で柔らかく扱っているからです。

大音量で聞いてもうるさくないヴォーカリストがすぐれているのです。響かせ方でなく、声まとまり、声の焦点をイメージしてください。つまり、どんな声量のある声もそこに一本の線がみえ、その動きがみえ、それが働きかけなければ、歌は伝わらないのです。

 

○歌の発声と歯切れのよさ

 

声を伸ばすことは、その必要性を疑う、考えることからです。歌の中で、声を伸ばす必要があるところを探してみましょう。案外と少ないことに気づくはずです。

私がプロとアマチュアの大きな差と思うことのひとつに、歯切れのよさがあります。プロは歯切れよくことばを切って歌っています。その中で、要所だけ計算して、効果的に声を伸ばしています。アマチュアはどこもかしこも伸ばすために、歌にしまりがないのです。特に日本の歌は、語尾の一音をやたらと伸ばし、“歌らしく”します。惰性になりかねません。

本当はもっとフレーズの前半部で、勝負(追い込み、強調)して解放し、自由度を与えておくことが必要なのです。ですから、最初は、声を伸ばすことよりも、リズミカルに(グルーヴ、のりで)ことばで言い切って歌うことです。その上で歌いあげ、伸ばしたら効果のあがるところを厳選するのです。

プロの歌っている通りには、歌わず、自分が生かせるようにアレンジしてみましょう。声を伸ばすことは最優先課題ではないということを理解したうえでトレーニングしてください。多くの人には、声の状態、声の使い方(発声)、イメージやフレージングが課題です。歌では、それを知った上で悪くなるところまで決してみせないことです。

第15号 「声域と裏声、ミックスヴォイス」

○声域を拡げる

 

声域は、ある程度の範囲内において、生まれつき決まっていますが、トレーニングによって変わることもあります。声域の広さや高音、低音の限界は、持って生まれた声帯を中心に、さまざまな条件で違います。

また、単に声が届けばよいのと使えるのとは違います。どのレベルで使えるのを声域とするかというのでも、大きく判断が違ってくるでしょう。

普通の人の声域は、話し声では、3度から半オクターブ(欧米人は1オクターブほど)歌では1オクターブからあと半オクターブくらいといわれています。これにはかなりの個人差がありますが、歌うのには充分です。それよりも、自分の扱える声域内でどのくらいきめ細やかに歌えるかということが大切です。

声域を伸ばすことばかり考えている人が多いのですが、自分の持っている声域の声を、より豊かに表現に使えるようにすることを優先しましょう。(一般的には、低い方へ広げるのは難しいといわれています。)

変声期を過ぎると、女性は年齢とともに、声質は太く、低くなってくるものです。この微妙な声質の変化は、その人の声の味わいを増すともいえます。

 

〇豊かな表現力を優先する

 

声域を伸ばすことだけを目的としたトレーニングは、歌という最終目的からずれてしまうだけでなく、他のもっと優先すべき課題をなおざりにしたり、喉の状態を悪くしたままにする危険を伴います。本番では出るか出ないかわからない声は使いものにならないのです。

基本的なトレーニングを積み重ねて、声そのものの質、調整能力をつけることです。とはいえ、オペラはもちろん、原調でキーを下げない日本のミュージカル・合唱、ゴスペル、カバーコピーなど、声域を優先されることが多いのが現実です。こういう場合、声楽を一通り(23)学ぶことを勧めています。

 

○声区

 

音声学では、声区という考えがあり、低声区、中声区、高声区などと分けます。低声区を胸声区、高声区を頭声区と二つに分けている場合もあります。さらに、仮声区=ファルセットというつくり声を、その上におきます。ファルセットとは、falsettoで、これはfalse、嘘の、間違った、偽の、といった意味です。ヨーデルとかハワイアンでおなじみの声です。

 

〇地声(modal register)と裏声(falsetto register

 

声帯はその開閉によって振動して、声を生じます。話しているところが、地声です。高くなると、その開閉のスピードが高まります。その限度を超えたとき、完全に閉じずに開くことで、振動を速くするのが裏声です。つまり、ギアの切り替えだと思えばよいでしょう。ここでは裏声に対しての地声(表声)とします。それに対し、頭声は、高音域の正しい発声によってもたらされる声の出し方とその音質のことをいいます。その上にある男性の裏声を、ファルセットといいます。

裏声は、声量がなく、音色も違うので、地声からうつるときに変わり目がはっきりとわかってしまいます。これをなるべく目立たせず、うまく切りかえることが、歌の流れをこわさないために必要です。声量と音色の変化を最小限に抑えて出す声でつなぎます。

 

〇ミックスヴォイス

 

ミックスヴォイスとは、その地声と裏声の切り替えのところの声質の差を、目立たせない声のようにいわれることがあります。これを学びたいという要望が最近は強くなりました。地声も裏声も安定せず、体や呼吸も使えていない状況で、この声域を固めてトレーニングしても、大して完成度として期待できません。(という前に、その声域も定まっているわけではないし、まだまだ有利に変えられるかもしれないのです。)

高音、ハイトーンと同じく、本来の理想とは異なるところで早めに固めて(くせをつけて)その後の可能性を著しく狭めてしまう危険性があります。

ところが、多くの人が急ぐあまり、そういうやり方を教えてくれるトレーナーを好み、程度の低いレベルで仕上げてほうるのです。そのために中低音域の深い声や完全な再現性が犠牲になります。ただ中途半端な分、あまり過度に使わなければ、のどを痛めにくいのがメリットでしょう。高音については、高音で筋肉を鍛えるようなやり方は、かなり恵まれた人しかとれず、大半の人は、声をしっかりと扱うことから始めていくべきなのです。そうしないと、声質と声量が犠牲になります。

 

○声区は、ヴォイスレジスター

 

声区は、響きをあてるところの違いでなく、トーン(声質)でみてください。トレーニングでは、さまざまな方法もあり、言い方があります。

私は、ことばより実際に出た声からの感覚を優先させていますから、「声区」や共鳴腔に「当てる」「響かせる」という使い方は、さけています。出た声がどう音楽を奏でているかでチェックすることと思います。

声帯の使い方などの理論抜きに、声質をキープするため、浅く、広がらず、頭上から胸中のたての線上に声をとらえるようにして、あとは、歌唱時のフレージングで判断すればよいと思うのです。

高音発声も声量もシンプルに考えるようにすると、高いから弱く、細くなるのでなく、高低関わらず、太くしっかりした声の中でとります。同音や半音違いでも、音色を変えられるし、1オクターブ離れても同じ音色で歌えるのが理想です。

 

〇定義と逸脱

 

定義によるというのは、原語の意味と使用している実際の例が違う場合が少なくないからです。声区はヴォイスレジスターの訳語ですが、必ずしもそう使われていません。Keyもキィと調は別ですし、音程もインターバル、つまり、二音の隔たりなのに、音高(ピッチ)として使われていることが多いです。(音程を高くとか、音程が下がるとは、本来はいえない。)

トレーナーがそれを知った上で、違う用途で使うのは、やぶさかではありません。現場、効果が優先されるからです。

 

〇海外のオーディションの番組

 

「○○さんは、アメリカにいったら、どこまでいけますか」とよく聞かれます。「無理でしょう」と。いってもわからないから、向こうのオーディション番組の録画を渡して、「ここの予選で勝てると思いますか」と伝えます。そういうのをみると、案外とすんなり、納得します。

しかし海外である程度、評判を得たりやれている人がもし日本人としていたとして、日本に来たときに成功するかというと、これも違うと思います。

 

〇日本の閉鎖性

 

日本というのは、今や特殊なステージの作り方をしなければもたなくなりました。私がライブハウスやプロデュースに本腰で関わるのを辞めてしまった理由の一つです。

客の立場から見ていかなければいけないのは、やむをえないことですが、そこで本質が失われてしまう。本来はおかしなことです。

ヴォイストレーニングというのに、正解があるという前提で考えるのであれば、徹底して、誰よりもすごい声、誰よりもすごい歌のベースと考えればいいです。それがプロになる必要条件と関連しにくいのが今の日本です。

プロになるということと、ベーシックなことをやるということも、ダブルスタンダードで変えておかなければいけない。世界に通用する歌い手になるために、やるという思いは、よいのですが、そのことと現実的に日本でやっていく活動というのはなかなか一致しません。

 

〇才能とその変質

 

年に300人も入れ替わり立ち代りがあるステージで、年3千~5千曲、全部の歌を、私は15年ほど毎月聞いていました。その中には才能のある人も、向こうでも通じるのに近いという人もいました。

向こうに行けば、基準ははっきりします。日本にいたら、そこをいろいろと複雑に考えていかなくてはいけません。

わかりやすい例でいうと、向こうで歌っていた歌い手が日本に来ます。するとステージが変っていきます。声の力では聞かせなくなってきます。そういうやり方をしないと、日本ではファンがつきにくいからです。

 

〇ステージから動かす

 

本来、歌というのは、それだけで完結された作品です。レベルが高ければ、それに対してお客さんは感動するし、評価します。ショービジネスです。エンターテイナーとしての実力も、音声での表現力を中心とします。音声で完結されたものとして、一方的に発信され価値を生ずるものです。

日本のプロデューサーには、「インターラクティブ、お客さんを盛り上げてこそ、いいステージができる」といいます。しかし、それは結果です。

一体感も共感もステージから動かしていくものです。客によってとなると、そうでないお客にはどうする、ということにもなります。客にあわせたステージを目的にするから、分野別の肩書きのついた歌手になるのでしょう。

 

〇声の衰弱化

 

日本の場合は、共感の方が優先されています。

年齢と共に声を使わなくなってきます。20代くらいでハードに歌ってきた人でも、3040代で声が出ない、いや、ステージの要求としてそうでないもので感動させたり、聞かせるようになってきます。やらないのはよいが、やれなくなるのはよくありません。その辺がヴォイストレーニングをやる立場としてはややこしいところです。

こういう話は一般論ではなく、皆さんがヴォイストレーニングをやるのに、レッスンに来たときに、レッスンの位置付けとして、どう考えるかということです。自分がどう接点をつけるかが一番大切なことです。将来と合わせて考えてみるのです。

第14号「もっともよい声域を知る」

○高い声の発声の問題

 

 

 

原因の多くは、ヴォーカリストが高い音をしっかりと捉えて、歌えていないからです。表現から考えて、もっとも伝わる域で歌うようにキィがよいと思います。声域や声量での問題というのは、体という楽器をしっかりとつくっておくと、なんとかなるものです。そうなると、感情を表現できる声の出し方でことばと響きのバランスをとりつつ、音楽的にも成り立つところは、おのずと限られてくるからです。

 

きちんとやっていない人が、高音を出すと、それまでに片づけなくてはいけなかった問題が同時に複雑に生じます。喉を締め、首を締め、力で無理にあてます。音域が広がっては、また狭くなるという、繰り返し。そこから脱したときには、本人は習得したつもりでも、くせのついた発声になるか、あとに喉を痛めてしまう結果となります。ヴォーカルとして体が充分に使いこなせるだけの楽器になっていないと、どうしようもないのです。

 

 

 

〇低めのフレーズを使う

 

 

 

根本的に解決するには、自分が楽に出せる一番高い音から、二、三音(あるいは半オクターブ)下げたところを何度もトレーニングすることで少しずつ器を広げていきます。できないところをできるようにするには、できないところでなく、できるところでトレーニングすることです。トレーニングは、できないところでは、成立しないのです。

 

たまに、高音からトレーニングした方がよい人もいます。その方が声が丁寧に扱えるタイプもいるのです。高音であごが上がる人が多いのですが、あごをひいて、お腹に意識をおくことです。音が高くなるほど、意識は体の下の方へもっていってください。

 

高音の発声のメカニズムは、「声帯の振動での周波数…」といった解明がなされていますが、知識では、現実には無力です。歌は応用、応用されたものがよくなるように基礎を学ぶことです。

 

少なくとも、私はテノールの発声をまねして、それで歌いなさいとはいえません。テノールにも、発声しか聞こえない人がいます。声を聞かせることを歌と考える人もいます。

 

人が聞きたいのは演奏です。発声を歌に持ち込むのでなく、歌となるように発声を伴わせると考えてみてください。方法をやり方やノウハウとして単独で考えるのでなく、発声がそのまま歌唱・フレーズと思うと、チェックもしやすく、間違いも犯しにくいはずです。

 

 

 

○ハイトーンの声への挑戦

 

 

 

歌の勉強やヴォイストレーニングをしたいという人の大半は、まず、高い声を出すことを目指しているようです。演歌、ニューミュージック、欧米のロックなどの曲のつくりも、相当高い声まで使っているために、高い声が出せることが歌をうまく歌うための絶対条件と考えている人が少なくありません。何よりも届くかどうかは、チェックが簡単だから、挑戦しやすいのでしょう。トレーナーのサービス精神がそれに拍車をかけているように思います。

 

単に高い声を出すだけでしたら、さほど難しいことはありません。高い声で続けて練習していると、出るところまで出ていきます。しかし、それは歌うときに大して使えないことが多いのです。実際は1オクターブも聞くに堪えない声の人ばかりだからです。それどころか、喉を痛める原因をつくってしまいかねません。本当に聞かせたいならば、うまく出せていない高い音にとらわれすぎないことです。

 

 

 

〇自分に合わせる

 

 

 

個性を主張するのには、自分が最も歌いやすい域で歌うことでしょう。歌に自分を合わせるのではなく、自分に歌を合わせるのです。何年、何十年やっても、声の変わらない人には、高音を絶対視している人が少なからずいます。

 

日本人のプロには、中高生あたりのときから、高い声が出た(もって生まれた声が高めであって、こなすのに勘がよかった)いう人が少なくありません。トレーナーにはさらにそのタイプが多いのです。

 

トレーニングせずにできた人を、トレーニングの方法では越えられないし、努力して、いつも苦労して出すというのではかなわないでしょう。日本人は高い声について、歌唱力もなく、高く出るだけでも、認めてしまう傾向があります。

 

海外でもハイトーンヴォーカルは天性の人がメインです。努力で叶うものも叶わないものもあります。日本では、誰でも何オクターブも出せるようになるとか、高い声の出し方を売り物にしている人もいます。さまざまな方法も使われています。相手の資質、キャリアなどのわからない状況に、誤解、誤用になる高音発声法については、リスキーな応用か、あまり使えるようにならない応用になりかねません。

 

 

Vol.64

○声の出ないとき

 

 あなたがスラスラ言えないとき、声の出せないとき、それはあなたの本心と話していることとが遊離しているからです。そこで、声がひきさかれそうになっているのです。

 偉い人が寡黙であるのは、そのせいもあります。

 声と体の専門家の竹内敏晴さんにお会いしたことがあります。声が出なかったのを克服して、この分野の第一人者になった方でした。「声がすんなり出ないから、ためてためて出す吃音の人の声ほど、強く働きかけるものはない」とおっしゃっていました。

 

○本音の声、建前の声

 

 大人になると、本音と建前、TPOや相手に合わせた言い訳と、自分の感情の抑制ができなければ、社会ではやっていけません。本心本音の声だけでは、生きていけないのです。

 それは、あなたのためでもあり、相手のためでもあるのです。

 あなたが思ったままに言い、相手もあなたに思ったまま言ったら、日常生活も、まして相手が身内でないビジネスでは、成り立ちません。

 社会的にやっていくというのは、求められる役割に応じることです。声も例外ではありません。

 あなた自身の声と、社会的に求められる声との差があって当然のことです。そのギャップをどうするのか、その対処が社会生活というものでしょう。

 あなた自身の声といっても、まだ大して磨かれてはいないでしょう。しかし、その方向を変えるくらいでも、充分に社会に通用するレベルになります。

 

○ヴォイストレーニングでできること

 

 トレーニングは、それを述べる立場というのを明示しないと困ることがあると思うので、まとめておきます。

 トレーニングでは、熱心なあまり、内に入ってしまう人も少なくありません。でも、それは、最後には外側に出すために行なうのです。一時、内部でバランスがくずれることもよくあります。内だけでなく外をみること、どう身につけるかとともに、どう使うのかを考えておくとよいでしょう。

 

 「日頃、基礎を固めておいて、使うケースによって何でも対応できるように、適当なものを自動的に選べるようにしなさい」と答えます。

 何でもできるように…といっても、オペラ歌手のような声で話す必要はありません。どう選ぶのか、そして足らないところはどう補うのか、どう演出するのか、それを詰めていく方が現実的でしょう。

 

○同じ声と違う声

 

 「歌のジャンルによって、求められる声は違うのですか」、「自分の声は、どんな仕事に合うのですか」という質問があります。

 2つの声が同じ、違うというのも、どこで線をひくかは、基準によって異なります。

 あなたの声と私の声は違います。しかし、あなたの声のなかでも朝の声と昼の声は違います。さっき出した声と、今出している声も違います。すべて程度、精度の問題なのです。

 

○マニュアル声の功罪

 

 声の第一印象は、とても大切です。私などは、直感的に、その声で、その人を観てしまいます。

 ビジネスとして、相手との壁を取り除く声として、マニュアル声といってもよい丁寧な使い方があります。明るく高めに出す、細く浅い声です。

 といっても、無理に使いすぎると相手を不快にしかねません。それは“よそ行きの声”だからです。面接用に改まった儀式声みたいなものです。

 一歩外に出たら、そんなメッキはすぐボロッとはげるのですが、それでいいのです。24時間、マニュアル声を使っていたら、それではロボットです。そういえば、ソフトバンクのロボット『Pepper』の声はまさにそういう声ですね。

 

○不快な声

 

 ビジネスにおいて、というより、立場によっては、その無難な声も大切です。いきなり「失礼な人」と言いたくなるほど無神経に声を使う人が世の中にはたくさんいます。いつもいばっている人も、声ですぐにわかるのですね。

 でも、それで印象づけた方がよいケースもあります。

 とはいえ、他の人と会うときは、まさに一期一会、一生に一度しか会わないであろう人と思って、相手に心地よく感じてもらえるくらいの笑顔と声を振る舞いましょう。これは、旅してきた人に食事を振る舞うのと同じです。この世で出会えたのですから。

 

 地のまま、飾らないというのは理想ですが、私も月に何回かは、あえて背広を着ています。そうしない方が楽だからという動機はよくないからです。それにスーツも似合わないようになるのも困るのです。スーツは日本人に合わないものですが、同時にその弱点をカバーしてくれています。

 老いを飾るのは文化、たしなみです。声も同じように考えてはいかがでしょう。

 ちなみに、どの世界でも、一流の人は、正装します。相手や場に対しての敬意であり、配慮をしているからですね。

 

○敬語声

 

 私も目上の方には、少し高めに浅い声を使っています。声での上下関係は、格上の方が低く太く強い声です。ときに小さい声、ボソッとした声ということも許されます。高く丁寧に出す方が労力がいるからか、あるいは、女性や子どもの声に近いからでしょうか。強い=大きい=低いというのは、動物界での原則です。人は、大きいほど強いのでも偉いのでもないし、それと関係なく声の高い人も低い人もいますから、そのなかでの加減ですが。

 日本では、敬語という厳格なことば遣いの決まりがあるくらいですから、声の使い方も大切です。

 どこでも偉い人の方がゆっくりと落ち着いて低く話します。

 

〇女性アナウンサーの声

 

 一昔前、日本の女性アナウンサーが、低い声でしゃべっていた、いえ、その人が低い声だったのですが、局に「いばっているようだ」というクレームがきたそうです。まるで共産国家のお手本になりそうな日本です。お上の言うまま、どの局も、同じニュースソースでの同じ報道だけでなく、同じ声、同じ言い方まで求められていきました。そして今や個性的なキャスタ―から降ろされているようです。

 日本では、大学を卒業したての女子アナが高い声でニュースを読むのです。欧米では、ベテランの女性が低い声で伝えます。平和ボケした国では、所詮、そのくらいの重要度なのでしょうか。

 なお、日本のTVのアナウンサー、レポーターの声には、カン高い声でうるさいと言う外国人が少なくありません。これは、私がキャピキャピ声と呼んでいる黄色い声の手前の声のことです。

 

○声の説得力

 

 説得力では、水商売のネエさんやヤクザの交渉力のノウハウが、本屋に並んでいます。ドロ臭いけど、人間、飾りをはぎとるとそんなものだと思われてくるのです。

 やーさんの声は、ドスの効いた声です。脅すのに、下からぐいぐいとつき上げます。

 「テメエ、コノヤロー、何ガンつけてんだ」

 かつて、商工ファンドなど、取り立ての声の実況が生々しく流れました。それに対し、オレオレサギは、スピードと事務的口調を売り物にした身内版説得法です。

 そういえば私のところに、外交官で、外国人との論争で、語学力は負けていないが、長く話すと声が高くなるので悔しいとヴォイストレーニングにいらした方がいました。声の高さが上がると、これは不安、怒りなど、感情的にみえて、論争では不利、負けとみえるからです。

 

○声で友だちも決まる

 

 私は転校が多かったので、ことばにも声にも敏感になったことに、思いあたります。幸い人並みの背丈や顔や体型だったので、見かけ上は、転校初日から溶け込んだわけです。

めちゃめちゃ、なまっている相手に、「おまえのことば、おかしい」と言われるのですから、立場がありません。

 話しかけ、話しかけられる、その最初の一言の影響力の大きさは、無視できません。

 まさに大統領のスピーチみたいなものです。ことばの聞きとれない地方では、その声のトーン、表情で、意図を判断するしかありません。「○○ちゃん、遊びましょう」からつきあいは始まったのです。

 隠れんぼも思い出しました。「もういいかい」「まあだだよ」、「だるまさんがころんだ」「花いちもんめ」と、昔は、声を出す遊びがたくさんありました。

 

○悪声の魅力

 

 最近の若い人の声は、総じて浅く薄っぺらいです。これは楽器ということでいうと、顔、あごの発達などがよくないのですね。大きなもの、固いものを噛まない、大きな声を使ってきていないし、長時間話す経験も足らない。それは日常的訓練の量、歴史ということで根本的な問題です。

 歩ける前からダンスミュージックを聞いて、両親が日常的に踊るなかで育った子に、二十歳からブレークダンスをがんばっても勝てるものではありません。教会のゴスペルで声を出し、毎晩お祈りしてアーメン。これほど立派なヴォイトレはありません。

 ついこの間までは、日本でも、点呼、号令、復唱で、「番号!」なんていうのがありました。校歌や国歌の斉唱に声を出していました。軍隊の風習を通じ、運動部や会社にずっと因習が色濃く残っていたのが、日本の高度成長の秘訣の一つです。

 今、若くて腹から大声が出せる人は、どのくらいいるのでしょうか。歌手や役者でも少ないのではないでしょうか。

 マニュアル声は、当たりはいいのですが、ずっと深まりません。

 私はナレーターや受付、テレフォンアポインターでもめざすのでなければ、あまりにきちんとした発音は必要ないと思っています。よくも悪くも、悪声や変な声の方が、ずっと個性的で覚えられやすいのも現実です。

 

○声の弱体化

 

 日本で声が魅力的に交差するのは、今や歌や舞台でなく、お笑いの世界になってきました。今の俳優や歌い手の声は、昔ほどの個性はありません。タレントや芸人もそうですね。体からの演技をしなくなったこと、時代劇などのニーズもなくなりました。さらに、高度にフォローする音響技術の発達の恩恵があると思います。

 

○声での打たれ強さ

 

 最近の日本では、若い人が大きな声や強い声を好まないどころか、そう言う声に不快を通り越してダメージを負うことです。現にパワハラとなった例もあります。

 昔は親、学校の先生、近所の人にどつかれて育ってきたのです。そういう声は、誰も好きではないでしょう。しかし、それで鍛えられたところもあります。行きすぎるとトラウマになりかねないので、加減が難しいですが。

 怒られるほど、人の感情というものがわかりやすく学べる機会はありません。そのうち、どのくらい本気で怒っているも判断できるようになります。

 悪いのがこちらのときは、うなだれるしかないのですが、そうでないときに理不尽に怒る大人も、けっこういたのですね。そこで、人間の世界の不条理を知りつつ、皆、大人になっていったものです。

 

○声の違和感

 

 新入社員に背広は、ちぐはぐでフィットしていません。ピシッと決まっている人は着慣れた人でしょう。挨拶も、同様にぎこちなく違和感があります。

 講演や研修の担当者にも、不慣れな人がくると、私は、感じやすい方だから、それが移って、妙にドキマギしてしまったことがあります。身振りも声も伝染するのです。

 説得の類いの声も、まともな商売でないと、ベテランになるほど、すっきりとうさんくさくなります。話がうまくなるにつれ、声がその実体と離れて、嘘っぽくなるのです。

 そういうとき、私は思うのです。声は、もしかしたら良心じゃないかと。

「疑い否定し超える努力」 No.323

 

昔からの慣習が改まらない業界は意外と長くどこにでもあるようです。それは、保守的なことにあこがれる人しかいなくなるからでしょうか。

 

「自分の方法が一番すぐれている」と疑わない。

 

「他の人のは、間違っている。」「自分は他の人とは違い、正しい」と思う。だから「他の先生は、わかっていない」となる。

 

「自分が全ての人を育てた」と思っている。「間違っているのを直し、自分が正した」とか、「間違って教わっているのを救った」という。誰にでもそのようにいうのをやめられない。

 

その裏付は、「自分自身できなかったり間違っていたのを、自分の努力、もしくは偶然の出会い(権威筋や外国人)によって、救われた」だから、「その方法が正しい」だから、「あなたにもよい方法だ」そして、「他の方法をやめることだ」というのです。

 

そうした権威づけで洗脳されてしまい、先生を一生越せない弟子になってしまう人は多いものです。それもその人の人生ですが、もったいないことと思います。

 

 

 

最初は、自らを疑い、肯定でなく否定する材料を求め、それを超える努力で、誰でも上達していったはずです。 

 

なのに、いつしかそれを忘れ、自己肯定にまわる、指導する立場になると、さらにそうなりがちです。

 

しかし、そこで生徒がそれをまねていくとどうなるでしょう。つまりは、そうでないことを学べないし、留まってしまうのです。先生も生徒もなく、そのことをいつまで忘れないで、疑い否定し超える努力をどこまで続けられるかです。

 

 

第13号「誤解の生じる理由」

○学び方のレベルでの限界

 

本を読んだ人の多くもミスを犯します。レベルが違うのならまだよいのですが、明らかな方向違いも多いです。つまり、そこで受け手の才能ともいえる学び手におけるレベル(これは、キャリアでなく、才能、勘のようなもの)が問われてしまうのです(独学の限界)。

たとえば、舌の使い方について。舌が長くて柔らかい人と、舌の短くて固い人なら、発声時に比較的のどの奥が自然とあく人と、逆に狭くなる人では、アドバイスもまったく変わってきます。

それを文字からつかむことで間違う、基準において勘違いしてしまうのです。その結果は、何年か後でないと言えないのですが。それでさえ、どこまで効率よく、最短で最高の効果に対し、できたかは比べる術がありません(ヴォイストレーニングの効果測定の限界)。

 

教え方のレベルでの限界

 

トレーナーから言われると、疑いもせず信じ込むのはいかがなことでしょう。この積み重ね、師→弟子→弟子の実体を伴わない、ことばだけの口移しの伝達が、真実の成果を損ねていきます(トレーナーの指導法でのことばの限界)。

右によりすぎたのを左に戻そうと、あるトレーナーが試みているなら、そこを、他のトレーナーがみたら、左にいきすぎているから右へ戻しなさいとなるでしょう(バランス優先か、個別課題優先かという問題)。また、ステージ(歌唱)をいつにセットするかによっても、大きく異なります(一通り仕上げる時期の問題)。

目標とともに完成した声のイメージも、それぞれのトレーナーで違います。さらに同じ完成のイメージの声であってさえも、それに至らせるプロセスや優先順位や方法は、トレーナーによって違います。それゆえ、どのトレーナーも、他のトレーナーの指導を受けた人や、レッスンを併行している人を好みません。

しかし、私などは、この少し考えたらわかりきったことに、トレーナーが甘えていることの自覚がないことの問題の方が大きいと思うのです。トレーナーの好みでヴォーカリストがつくられるのではないということです。

トレーナーは、第一に、最高の耳とともに、声に対して指摘できることばをもった最良の客であるべきだからです。そのトレーナーを離れたら、何一つやれない。認められないのでは、いったい何を得たといえるのでしょうか。 日本では、プロデューサーや演出家の耳の方がまだ表現を知っているだけ、トレーナーとして的確といえるようです。他のところで応用できないなら、基本の力がついたとはいえません。

 

○本当に大切な問題をどのように考えるか

 

ことばと実際にできている状態がどこまで対応しているかということになると、ことばでのやりとりは、およそ無効です。たとえば、この場合、二つの発声をきちんと高度なレベルで区分けして、できているなら、使い分けたらよいだけのことです。どう活かせばよいのかがわからないなら、自分の歌のイメージの不足なのです。

問題にすることが問題とは、こういう意味です。どちらが響いていようと、そんなことは歌という作品には関係ありません。

ほとんどのことは、対処マニュアルやメニュなどで正せばよいのでなく、本質的にはあなたの歌唱のイメージの問題、つまり、ここで述べた最初の段階(第一段階)の問題になるということがおわかりいただけたでしょうか。

「発声や響きから歌うのではない」のです。問われることは、人の心を揺さぶる表現がどう生じているかということです。たぶん、どちらもそうなっていないから、あまり意味がないのです。

 

〇真の声は迷わない

 

私は「迷わない声でも間違っていることが多いのに、本人が迷うくらいなら、すべて違うと思った方がよい」、それは「間違っているのでなく、深められていない」と思えばよいと述べてきました。すぐにできて、そのため深められなくなるのが、間違いであるのに、トレーナーにすぐできること、あたかも声にエコーをかけるようなことを望み、親切なトレーナーは、それに対応しているのです(トレーナーに即効性を求める誤り)。そうしないと、生徒の要求に応じられないから、彼らの立場もわかります。

ここで述べたことは、声楽家やヴォイストレーナーのやり方を否定しているのではありません。レッスンもトレーニングも、必要悪であるという私の観点から、誰にでも通じるように思われるマニュアルやノウハウの限界について述べたものです。発声やヴォイストレーニングは補強にすぎないことを忘れずに、それ自体に正解を求めぬようにと願いたいのです。あなたの夢は、声を共鳴させることではないでしょう。

 

〇トレーニングの目標

 

かつては、ここに演歌の人も多かったのです。当時は、レッスンのトレーナーは作曲家の人か、クラシックの人しかいませんでした。大体、作曲家が教えていました。音楽を分かっている人があまりいないので、作曲家が自分で曲を作って歌い手に教え、デビューさせていました。演歌のほとんどがそうでしたが、その流れはなくなってきました。ジャズがそういう形で生き残っています。

ますます、いったいどこに対して、ヴォイストレーニングをするのかという目標が、取りにくくなってきています。

 

〇教えることは伝承ではない

 

ヴォイストレーナーも多くなり、いろんなトレーナーもきます。

声は、相手にもいろんな問題があって、一人の専門家だけでは対処できないものです。私も医者や声紋分析、語学音声学の学者も含めて、情報交換しています。それでさえ、どうしても分からないことがたくさん出てきます。

およそ多くのトレーナーは、自分がやってきたことをやればいい、自分がやれたから、他の人もできるだろうと考えます。

しかし、十年くらいやっていれば、実際にはそうではないということはわかるでしょう。10年、20年見ていると、結果が出てくるからです。

プロになりたい人にとっては、歌がうまくなるとか、声がよくなることでなく、結果ということであれば、プロになれたかどうかに帰結するのです。

少なくても自分レベルで基本ができている人が、千人くらい出てきたら、1ステップ上にノミネートされるというレベルで私はやっていました。

試行錯誤で体制を改めつつ、いつも変えていきます。

個人レッスンでやっていますが、歌のヴォイストレーニングの割合が半分、役者さんや声優さん、あるいは一般の人のほうが声に関して厳しく求めるようになってきたのを感じます。

 

〇トレーナーとの接点をつける

 

あなたがヴォーカルであるなら、めざすヴォーカルとして必要なものをはっきりさせていかないと、ヴォイストレーニングとの接点がつきにくいです。トレーナーと、接点をどうつけるかです。

どんなトレーナーでも、接点のつけ方を変えていけば、学べることはいろいろとあります。最初は合わないようでも続けていることで、大きな効果を出している人もいます。

相性の問題や好き嫌いの問題が、障害になっていることが少なくありません。ここは10数名のトレーナー体制でやっていますから、よくわかります。トレーナーが合わないことで変えることもあるのですが、合わないといわれてしまうトレーナーの方が、何人も高レベルに育てている場合も多いのです。

結果として、判断していく、それは本人にはわかりにくいことです。

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