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Vol.64

○声の出ないとき

 

 あなたがスラスラ言えないとき、声の出せないとき、それはあなたの本心と話していることとが遊離しているからです。そこで、声がひきさかれそうになっているのです。

 偉い人が寡黙であるのは、そのせいもあります。

 声と体の専門家の竹内敏晴さんにお会いしたことがあります。声が出なかったのを克服して、この分野の第一人者になった方でした。「声がすんなり出ないから、ためてためて出す吃音の人の声ほど、強く働きかけるものはない」とおっしゃっていました。

 

○本音の声、建前の声

 

 大人になると、本音と建前、TPOや相手に合わせた言い訳と、自分の感情の抑制ができなければ、社会ではやっていけません。本心本音の声だけでは、生きていけないのです。

 それは、あなたのためでもあり、相手のためでもあるのです。

 あなたが思ったままに言い、相手もあなたに思ったまま言ったら、日常生活も、まして相手が身内でないビジネスでは、成り立ちません。

 社会的にやっていくというのは、求められる役割に応じることです。声も例外ではありません。

 あなた自身の声と、社会的に求められる声との差があって当然のことです。そのギャップをどうするのか、その対処が社会生活というものでしょう。

 あなた自身の声といっても、まだ大して磨かれてはいないでしょう。しかし、その方向を変えるくらいでも、充分に社会に通用するレベルになります。

 

○ヴォイストレーニングでできること

 

 トレーニングは、それを述べる立場というのを明示しないと困ることがあると思うので、まとめておきます。

 トレーニングでは、熱心なあまり、内に入ってしまう人も少なくありません。でも、それは、最後には外側に出すために行なうのです。一時、内部でバランスがくずれることもよくあります。内だけでなく外をみること、どう身につけるかとともに、どう使うのかを考えておくとよいでしょう。

 

 「日頃、基礎を固めておいて、使うケースによって何でも対応できるように、適当なものを自動的に選べるようにしなさい」と答えます。

 何でもできるように…といっても、オペラ歌手のような声で話す必要はありません。どう選ぶのか、そして足らないところはどう補うのか、どう演出するのか、それを詰めていく方が現実的でしょう。

 

○同じ声と違う声

 

 「歌のジャンルによって、求められる声は違うのですか」、「自分の声は、どんな仕事に合うのですか」という質問があります。

 2つの声が同じ、違うというのも、どこで線をひくかは、基準によって異なります。

 あなたの声と私の声は違います。しかし、あなたの声のなかでも朝の声と昼の声は違います。さっき出した声と、今出している声も違います。すべて程度、精度の問題なのです。

 

○マニュアル声の功罪

 

 声の第一印象は、とても大切です。私などは、直感的に、その声で、その人を観てしまいます。

 ビジネスとして、相手との壁を取り除く声として、マニュアル声といってもよい丁寧な使い方があります。明るく高めに出す、細く浅い声です。

 といっても、無理に使いすぎると相手を不快にしかねません。それは“よそ行きの声”だからです。面接用に改まった儀式声みたいなものです。

 一歩外に出たら、そんなメッキはすぐボロッとはげるのですが、それでいいのです。24時間、マニュアル声を使っていたら、それではロボットです。そういえば、ソフトバンクのロボット『Pepper』の声はまさにそういう声ですね。

 

○不快な声

 

 ビジネスにおいて、というより、立場によっては、その無難な声も大切です。いきなり「失礼な人」と言いたくなるほど無神経に声を使う人が世の中にはたくさんいます。いつもいばっている人も、声ですぐにわかるのですね。

 でも、それで印象づけた方がよいケースもあります。

 とはいえ、他の人と会うときは、まさに一期一会、一生に一度しか会わないであろう人と思って、相手に心地よく感じてもらえるくらいの笑顔と声を振る舞いましょう。これは、旅してきた人に食事を振る舞うのと同じです。この世で出会えたのですから。

 

 地のまま、飾らないというのは理想ですが、私も月に何回かは、あえて背広を着ています。そうしない方が楽だからという動機はよくないからです。それにスーツも似合わないようになるのも困るのです。スーツは日本人に合わないものですが、同時にその弱点をカバーしてくれています。

 老いを飾るのは文化、たしなみです。声も同じように考えてはいかがでしょう。

 ちなみに、どの世界でも、一流の人は、正装します。相手や場に対しての敬意であり、配慮をしているからですね。

 

○敬語声

 

 私も目上の方には、少し高めに浅い声を使っています。声での上下関係は、格上の方が低く太く強い声です。ときに小さい声、ボソッとした声ということも許されます。高く丁寧に出す方が労力がいるからか、あるいは、女性や子どもの声に近いからでしょうか。強い=大きい=低いというのは、動物界での原則です。人は、大きいほど強いのでも偉いのでもないし、それと関係なく声の高い人も低い人もいますから、そのなかでの加減ですが。

 日本では、敬語という厳格なことば遣いの決まりがあるくらいですから、声の使い方も大切です。

 どこでも偉い人の方がゆっくりと落ち着いて低く話します。

 

〇女性アナウンサーの声

 

 一昔前、日本の女性アナウンサーが、低い声でしゃべっていた、いえ、その人が低い声だったのですが、局に「いばっているようだ」というクレームがきたそうです。まるで共産国家のお手本になりそうな日本です。お上の言うまま、どの局も、同じニュースソースでの同じ報道だけでなく、同じ声、同じ言い方まで求められていきました。そして今や個性的なキャスタ―から降ろされているようです。

 日本では、大学を卒業したての女子アナが高い声でニュースを読むのです。欧米では、ベテランの女性が低い声で伝えます。平和ボケした国では、所詮、そのくらいの重要度なのでしょうか。

 なお、日本のTVのアナウンサー、レポーターの声には、カン高い声でうるさいと言う外国人が少なくありません。これは、私がキャピキャピ声と呼んでいる黄色い声の手前の声のことです。

 

○声の説得力

 

 説得力では、水商売のネエさんやヤクザの交渉力のノウハウが、本屋に並んでいます。ドロ臭いけど、人間、飾りをはぎとるとそんなものだと思われてくるのです。

 やーさんの声は、ドスの効いた声です。脅すのに、下からぐいぐいとつき上げます。

 「テメエ、コノヤロー、何ガンつけてんだ」

 かつて、商工ファンドなど、取り立ての声の実況が生々しく流れました。それに対し、オレオレサギは、スピードと事務的口調を売り物にした身内版説得法です。

 そういえば私のところに、外交官で、外国人との論争で、語学力は負けていないが、長く話すと声が高くなるので悔しいとヴォイストレーニングにいらした方がいました。声の高さが上がると、これは不安、怒りなど、感情的にみえて、論争では不利、負けとみえるからです。

 

○声で友だちも決まる

 

 私は転校が多かったので、ことばにも声にも敏感になったことに、思いあたります。幸い人並みの背丈や顔や体型だったので、見かけ上は、転校初日から溶け込んだわけです。

めちゃめちゃ、なまっている相手に、「おまえのことば、おかしい」と言われるのですから、立場がありません。

 話しかけ、話しかけられる、その最初の一言の影響力の大きさは、無視できません。

 まさに大統領のスピーチみたいなものです。ことばの聞きとれない地方では、その声のトーン、表情で、意図を判断するしかありません。「○○ちゃん、遊びましょう」からつきあいは始まったのです。

 隠れんぼも思い出しました。「もういいかい」「まあだだよ」、「だるまさんがころんだ」「花いちもんめ」と、昔は、声を出す遊びがたくさんありました。

 

○悪声の魅力

 

 最近の若い人の声は、総じて浅く薄っぺらいです。これは楽器ということでいうと、顔、あごの発達などがよくないのですね。大きなもの、固いものを噛まない、大きな声を使ってきていないし、長時間話す経験も足らない。それは日常的訓練の量、歴史ということで根本的な問題です。

 歩ける前からダンスミュージックを聞いて、両親が日常的に踊るなかで育った子に、二十歳からブレークダンスをがんばっても勝てるものではありません。教会のゴスペルで声を出し、毎晩お祈りしてアーメン。これほど立派なヴォイトレはありません。

 ついこの間までは、日本でも、点呼、号令、復唱で、「番号!」なんていうのがありました。校歌や国歌の斉唱に声を出していました。軍隊の風習を通じ、運動部や会社にずっと因習が色濃く残っていたのが、日本の高度成長の秘訣の一つです。

 今、若くて腹から大声が出せる人は、どのくらいいるのでしょうか。歌手や役者でも少ないのではないでしょうか。

 マニュアル声は、当たりはいいのですが、ずっと深まりません。

 私はナレーターや受付、テレフォンアポインターでもめざすのでなければ、あまりにきちんとした発音は必要ないと思っています。よくも悪くも、悪声や変な声の方が、ずっと個性的で覚えられやすいのも現実です。

 

○声の弱体化

 

 日本で声が魅力的に交差するのは、今や歌や舞台でなく、お笑いの世界になってきました。今の俳優や歌い手の声は、昔ほどの個性はありません。タレントや芸人もそうですね。体からの演技をしなくなったこと、時代劇などのニーズもなくなりました。さらに、高度にフォローする音響技術の発達の恩恵があると思います。

 

○声での打たれ強さ

 

 最近の日本では、若い人が大きな声や強い声を好まないどころか、そう言う声に不快を通り越してダメージを負うことです。現にパワハラとなった例もあります。

 昔は親、学校の先生、近所の人にどつかれて育ってきたのです。そういう声は、誰も好きではないでしょう。しかし、それで鍛えられたところもあります。行きすぎるとトラウマになりかねないので、加減が難しいですが。

 怒られるほど、人の感情というものがわかりやすく学べる機会はありません。そのうち、どのくらい本気で怒っているも判断できるようになります。

 悪いのがこちらのときは、うなだれるしかないのですが、そうでないときに理不尽に怒る大人も、けっこういたのですね。そこで、人間の世界の不条理を知りつつ、皆、大人になっていったものです。

 

○声の違和感

 

 新入社員に背広は、ちぐはぐでフィットしていません。ピシッと決まっている人は着慣れた人でしょう。挨拶も、同様にぎこちなく違和感があります。

 講演や研修の担当者にも、不慣れな人がくると、私は、感じやすい方だから、それが移って、妙にドキマギしてしまったことがあります。身振りも声も伝染するのです。

 説得の類いの声も、まともな商売でないと、ベテランになるほど、すっきりとうさんくさくなります。話がうまくなるにつれ、声がその実体と離れて、嘘っぽくなるのです。

 そういうとき、私は思うのです。声は、もしかしたら良心じゃないかと。

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