第39号 「自主的に学ぶということ」
○スクールと養成所、研究所との違い
私の研究所でのレッスンとトレーニングは、舞台で一流でやるために、声とそれに関わる全てのことを鍛え磨いていくことを目的としています。アーティストとか人として評価されることは、別のことです。
それにはよい作品を残していくことです。そこに永遠の命を持たせます。すごいものが出ていたら、そのことで認めます。そのことを中心に、私はやってきました。
いろんな苦い経験もたくさんありました。勝手に期待して先生を祭りあげて、努力もしない。効果がでなければ、他の先生について、小手先の上達に喜ぶ。次々と他の先生へうつるのでは、実力のキャリアでなく、先生歴しか増えません。そのうち、ほめて認めてくれる先生に落ち着くのでしょうが、世の中でやっていけるための力はつかないのです。
〇期待と自立
人に期待するということは、第一に自分にその見返りが欲しいということです。自分にも同じだけ期待して欲しいということになります。それには自分の力をつけなくてはいけません。そしたらまわりが世に出してくれます。
日本では、力がないままで、媚びてくる人を大事に、親切にする先生が多いようです。先生のいうことをハイハイと聞く人の方が使いやすいから、重用されるのでしょう。
そうなると、人間的には、よい人で、専門職では独り立ちできない人ばかりが、たむろするようになります。そのため、場がダメになってしまうのです。
才能の世界では、常に創造、表現での実力勝負です。そのことを理解していないのです。それには、自立した精神をもつこと、これが芸の技術の前提として大切なことです。
〇批判より実践
誰でも入れるところにいることは、何ら、先を約束しません。しかし、どこかにいるのは、とてもよいことです。あとは、そのことへの自覚の問題です。それがわからなくなる場は、よくありません。ただいるだけで安心するところでは、大して得られません。学ぶべきことは、内容に加え、意欲と自分の売りなのです。
どこでも、友達ができ、先生批判が出てきます。自分が大したことないことを棚にあげ、悪口をいいます。そんなことをやっている暇があれば、一つでも顔を出せるようにすることでしょう。
自分の未知の将来より、先人の実績に頭を下げることです。少なくとも自ら10年やって、実績を残した上で、他人のことは問うことです。そのときにやれている人は、自分を問い、やれていない人は、他人を問うものです。
実際に長くやっていける人は、とても少ないのです。このままでは自分がやれていかないことを知るとともに日々、改善、革新していくことを大切にしてください。
〇群れることで自己肯定しないように
素質ある人でさえ、才能が発揮されぬまま、本人はやれるつもり、やれているつもり、やっているつもりになってしまうのです。本質がみえなくなっていくなら、何のための勉強でしょうか。
これは、逆手にとれば、学校やサークル運営の秘訣なのでしょう。どこでも、来る人たちに任せると自らそうしてしまうものです。ちょっと長くいたら、物知り、うんちく通(いわゆる茶坊主)になります。世に出て行けず、そこで偉ぶるためにいるようになりがちなのです。トレーナーは、それを防ぎ、本人たちの見えぬ先を感じさせて導くべき存在と思います。
〇場づくり
私は、自分の他のあらゆる力を総動員して、得たものもすべて声に(=研究所に)つぎ込んできました。結果、お金に替えられないほど、自分の勉強にも経験にもなりました。会報には、生徒の原稿まで打ち込んで載せて、自分といらしている人の勉強に供してきました。何事であれ、自分にどれだけ投資したかがすべてです。
私がビジネスをやるなら、こんな効率の悪いところに、旗などを立てません。多くの起業家にも私はアドバイスしているので、そのくらいの能力はあるつもりですが、それゆえ、あえてこの場は分けています。ここは私のライフワークの場です。
〇最大に活かす
なぜ多くの人は、自分の器でしかみられないことを知って、視野を拡げようとしないのでしょう。
レッスン代は、消費でありません。投資です。自分への付加価値づけのためです。
レッスンは、トレーナーの時給いくらだからという価値ではないのです。相手の時間価値から算出すべきでしょう。
そこでもっと真剣に作品の価値やイメージや音楽のレベルや方向性をめぐっての創造的なのやりとりをしましょう。誰よりも活かそうと考えないのでしょうか。
声だけに、歌だけに、音楽だけに凝っても、その先に何をなすかがないと、どうしようもないのです。研究所はその試行が許され、チャンスとなる時期、場としてあるので、まず、そこからです。