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第40号 「トレーナーの使い方について」

 

○日本のトレーナーの限界

 

 

 

レクチャーでは多くのプロ志願者と接してきました。すると、あたかもどこかで親切なトレーナーをみつけて、ゆっくりと自分の才能のなさに気づかぬように夢をあきらめさせてもらうプロセスをとっていくかのように思わざるをないことが少なくありません。

 

大切なことに気づきたくないから、皆、気づかないふりをして、そのうち考えなくなるのでしょうか。トレーナーも、その人のために一所懸命教えているつもりで、それゆえ、結果として引導を渡すことになっていることが少なくないようです。

 

 

 

〇現実を知る

 

 

 

根本的なものが何も変わらず、今の自分の線上でやっていけば、将来がオンしていくと思うことの甘さが、まったくわからなくなりつつあるようです。それがわかる才能があれば、20歳までに日本でなら、プロとなっているでしょう。昔なら、先生といわれる人は、そういう人には、この道はあきらめなさいと言ってあげました。

 

そうならないのは、表現はとにかく素晴らしいものということ。(だからといって、それをプロとして選ぶことは違うし、そんなわかりきったことをいっているのは、おせっかいなことですが。)

 

トレーナーの生活や、アーティスト活動が、生徒という名の客に依存している現実もあります。ポップスでも音大でも、悪しき依存構造をとっているのです。これが先生が先生としての地位を守るために家元制のようになると、形骸化します。

 

他のアートと違い、人が集まれば、成り立ったかのような印象をぬぐうには、よほど厳しい姿勢で望まないとなりません。メロディに歌詞をつけてトータルサウンドでパッケージしただけの、インスタント商品がいかに多いのでしょうか。

 

 

 

〇才能の発掘

 

 

 

私は、常にその人の才能として見出せるものを求めてきました。自分の力をつけるために、来ているのですから、他人に頼らず、自分の力を出し切って、まわりに認めさせていくことを覚えなくてはいけません。

 

お金を払って、お客さんとして対してもらえるスクールでは、なかなか両立しないものです。日本の場合は、先生にも、才能よりもコミュニケーション力、スクールも、内容よりサービスの方を期待されるからです。

 

強くなればマナーが身につき、マナーが身につかなければ強くなれないということがわかれば、誰よりもしぜんにマナーが身につくはずなのですが、マナーをよくすることが目的になってしまう。これでは、アーティックなことはできません。

 

トレーナーは、その人のサポーターであっても、生活上のカウンセラーやヘルパーではありません。ところが、日本では、メンタルトレーナー以上の役割を期待されるのです。

 

人に依存してしまう人ばかり受け入れてしまうと、能力のある人材は去ってしまいます。そこで日本の組織はどこでもダメになってしまうのを、私は見てきました。

 

自分自身を、トレーナーを使って生かし切ることができるようにアップしていくことです。学校のように、誰もを12割能力アップさせ、平均点にするのではありません。23倍の能力アップを目指すことが、トレーニングの必要性を増し、それゆえ効果をもたらします。

 

レッスンには、自覚を持たせ、人前で一人でやるときに充分に余裕がもてるほどの厳しい基準を与えることです。本番よりも厳しい場としてレッスンを置くこと、一人ひとりが他人と違う、自分のための試みや利用をできるように柔軟性を持ちつつ、必要なこと以外に無駄な時間をとらないように専念することが望まれます。

 

 

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