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2019年4月

第56号 「レッスンのレベル」

○レッスンは、とりくみのためでない

 

 それで何に気づくか、どういうイメージが思い浮かぶか、そして、自分が他のいろんなこととどう結びつけられるか、そのきっかけを与えるのが、レッスンです。

 レッスンのレベルは、メニュやノウハウでなく、受け手の能力、感受性によります。トレーナーのことばは、そのためのきっかけですが、正直なところ、必要悪です。

 

 たとえば、今日の課題をみんなで一緒に読んでみるなどというのは、それぞれでやった方がよくできることです。日本人なら合わせることに気をつかい、できない人は慣れるのによいでしょうが、全体の平均レベルにそろえてしまいます。

 私は、研究所ではそこでしかできないことをやるようにしています。自分でできることは自分でやることです。

 自分でやるべきことをこちらがやってあげると、もっと大切なものを学ぶ機会を失うことになります。レッスンのレベルが、とりくんだ上でのレッスンでなく、とりくみのためのレッスンとなります。

 

 それも必要と思ってもいますが、一度そこにレベルを下げると、戻りません。ずっと自主性、主体性、ポジティブに読み込む力を抑えてしまいます。しかも、教えてもらうのがレッスンだと思わせてしまう。これは最大の誤りです。しかし、そういうトレーナーやレッスンが、日本では求められる、そういうメンタリティもわかってきました☆☆☆。

 

○わかりやすく教えるトレーナーではだめな理由

 

 トレーナーは、わからないよりはわかるように教えます。わからなくてやめて来なくなるよりは続けさせるようにします。あたりまえですがやめたら先がないのでそうならざるをえません。つまり、トレーナーの仕事は、私の考える理想よりも現実重視、将来の可能性よりも現在の相手の求めるところに応じなくてはならないから、そうなります。

 それは、本当に伸びるにはよくないのです。そういうトレーナーに限って、相手のことを考え、手とり足とり教えていると思い込んでいくのです。その自己満足で、人は育ちません。無能な子分がたくさんできるのです。日本では量=人数を人望のようにあがめるから、両者とも何も疑問をもたなくなるのです。「何万人、何千人教えた」などを誇る人がどれだけいるのでしょうか。毎年300400人ほどきていた研究所でも私が教えたといえるのは十数名です。

 

 そういう意味で職務に忠実で有能なトレーナーは、お客としてのレッスン受講生に満足してもらうことができます。しかし、だからこそ、実力をつけられない、人を育てられないとなります。

 教え方がていねいで、評判のよい歌い手に習って伸びないのは、そういうことです。

 

○忍耐をショートカットしない

 

 自分は苦労したから楽させたい。だから、やり方、ノウハウやマニュアルを与えて、ショートカットさせようとします。その苦労を醍醐味として伝えません。真剣ゆえに楽しめてくるものを隠します。一人で一途に、自分の声や歌の研究に没頭する、その忍耐、努力こそ、ステージの華やかさの代償です。忍耐そのものに至福を求めるのは、大きな過ちになりかねませんが。ともかく熱意と金銭で、あたかも技術が買えるかのように思わせるのはよくありません。

 

 金も時間も必要条件ではありません。時間は才能の不足を一部補ってくれるし、お金は時間の不足を補う面はありますが、要はやる気です。

 厳しいレベルでのトレーニングは本来、1パーセントの人に10年経て本当の効果をあげる。それを10パーセントの人に5年でもたらせられる、そのためにやるようなものです。そうであったとしたら、本質を誤って、みせることとなります。もちろん大半の人には、平均点より少し上になるという効果をもって、上達といえますがそのような低レベルの成果を問わないとします。

 

○コミュニケーションと才能

 

 ヴォーカルの場合、効果や目標そのものがあいまいなことが多いです。それが迷いのなかで無駄な日々を送ることになりやすい第一の要因です。そこで、本音を言わず、というより、トレーナーと本人が共によい関係を保つために、本質や真実を見失い、現実や事実にも目が曇っていきやすいのです。

 トレーナーとの心地よいコミュニケーションで少しずつ大切な時間が失われます。やがて自分の才能がないという理由を自覚して、誰かの応援団として人生を送るに至ります。つまり、一巡して元に戻っただけです。それは多くのトレーナーのレッスンの小体験をしたということにすぎません。

 

 そうでない人は、現実に立ち還って、活動をするでしょう。その厳しい現実のために日々のトレーニングが欠かせぬはずなのに、おかしなことです。身内のまえで歌っていれば、何か成していける錯覚のなかで、時は流れます。あこがれの人が歌で偉大になったから、自分もその歌を歌っていることでよいとするのなら、成長もそこまでです。

 

○使えないノウハウ

 

 もっとも大きな誤りとなるのは、ある程度、できた人が教えるために他人のノウハウや方法を受け売りする場合です。その人は応用できる力があるからできてしまうのです。でも、それを教えられた方は、ずっと下のレベルですから、さらに未消化で、いつまでも変わらないのです。

 長くやるに従って、ヴォイストレーニング、発声コレクターのようになりかねません☆。基本づくりをせず、応用の応用ばかりやっているから、尚さらそうなります。トレーナー自身、相手が自分の程度に、いや、その半分もできたら上出来という教え方に疑いをもたなくなってしまうのです。

No.332

名人の境

脈々と

諸々と

貪欲に

身を捨て

心掛け

忘我

肩の力を抜く

面目

自得

千変万化

仁をみての法

性格適性

師子相承

「他見不許」

秘伝の声

贔屓する

極致

下地

心をみ澄ます

流動的に

素質、努力、師

分身

恩を返す

自分の声、見解

流儀を超える

出会う

創造

共感

 

第55号 「一般のレベルをあげる」

○悪循環ということ

 

 あなたがもし声や歌がすぐれているなら、すぐれようとしているなら、それこそ、その道でがんばって欲しいと思うのです。

 日本のプロのレベルは、海外に対して充分でないのに、その先に目を開いている人がいないのは残念なことです。

 ヴォイストレーニングなどバカにして、というよりは、単に食わず嫌いなのです。日本はレベルが低いのに、ヴォイストレーニングしなくてもステージで通じてしまうから、さらにレベルがあがらないという、悪循環になっています。

 

○本で伝えることの限界と考え方

 

 拙本を読んだ人に正確な意味が伝わらず、間違って行なわれる場合もあるかとは思います。心配している人もいらっしゃるでしょう。専門家でさえ、今までの説明とは異なると誤解される部分も少なくないのです。そのときは、こう考えてください。

 私の本のヴォイストレーニングは、一般的な部分で述べたものであり、すべてではありません。しかし私は、これだけを使ってトレーニングを行なう人が出ることを前提に、気を使っています。あまり具体的ノウハウを述べず、トレーニングに必要な根本的な考え方やイメージづくりを中心に進めているのも、その方がトレーニング上、有益だと思うからです。

 やっていることよりも、それをどういうつもりで何のためにやるかということが大切だからです。具体的な方法は、それがわかっていれば、どんなことをやろうと効果が出るものです。

 

○一般に通じるということ

 

 会ったことがなく、本だけを頼りに行なう人には、低い声の方から見直していくこと、言葉を中心にフレーズづくり、最後に歌唱の発声へと、順を踏んでいます。

 どんな楽器をもっているかわからない人に対しては、危険なことは避けなくてはいけないからです。ヴォイストレーニングで、のどをこわす危険のあることは、原則として除かなくてはいけません。ある人にはとても有効なトレーニングでも、他の誰かには危険のあるものは、勧めるわけにはいかないのです。

 メールなどの質問に答えられないときは、一般的な答えが、個別に当てはまらないと思われるときです。

 

 私の本は、特に一般向けに安全にトレーニングをやっていくために書かれたということは知っておいてください。トレーニングの方法などを抜きにして、ヴォーカリストがしぜんに歩んだ方法をなぞっていることを忘れて欲しくありません。このヴォイストレーニングが公にでき、誰にでも確実に効果をあげられる理由です。

 

No.332

<レクチャーメモ(ITビジネス)>

 

商品 仕入れ 売り

価値 生産 消費

場所の移動がネット

情報の価値と時間

ユーザー(情報)を集める

多くの人に来てもらうため、マッチングする

フリーミアム(フリー+プレミアム)

交換、収集、育成、対戦(ゲーム)

ゼロ×無限大のクラウドソーシング

最適化センサー(測定)ビックデータ

散在情報を集約する

確率論でのアプローチ、100のうち12当たればよい

ブログとトラックバック(引用)コメント

CGM「食べログ」

SNS My SpaceからFacebook

Twitter RT

キュレーション

 

<レッスンメモ>

 

ひびく声がよい声か

楽で楽しい声がよいのか

いろんな声が出せるほどよいのか

専門家であるとかないとかのことか

 

第54号 「プロセスのとり方」

○トレーニングでのコントロール

 

 長期的にみなくてはいけないものを早くあるレベルにまで高めるということには、無理が伴わない方がおかしいのです。たとえば、トレーニングを行なうと腹筋やブレスは半年でも相当強くなります。そうでなくては、プロの体にはなっていかないから、そうせざるをえないのです。しかし、それをコントロールする技術は、すぐには伴いません。

 そんなときに、高音でトレーニングをしたら、そのへんで自己流のトレーニングをしている人のやり方に輪をかけたくらい、のどをこわすリスクに直面してしまうことにもなりかねません。

強い武器は、それを手に入れることよりも、その使い方の方が難しいのです。ですから、進めるにあたって、安全を確保しつつ、トレーニングの真意がわかるように理論や説明をつけて、いろいろな例を使って述べているのです。

 ヴォイストレーニングでは、最高のコンディションに整えること、そのとき以外はできないことはやらないことです。もっとも適切なメニュをこなして、柔軟に使えるよう方向づけていくことが大切です。

 

○トレーニングとプロへの道

 

 努力をしなくてはいけないのは、一流になろうが三流に終わろうが同じです。まったくトレーニングをしないで人並み以上になろうなどというのは言外です。ところが、「トレーニングをすれば、プロになれますか。」と言って来る人もいます。ヴォイストレーニングをすれば、ヴォーカリストになれると思っている人も少なくないようです。これはトレーナーの決めることではありません。本当に努力した人しか、一つのことをものにすることはできないでしょう。そういう意識をもったときから、どれだけのことをしなくてはいけないのかがわかってくると思います。

 

○努力のプロセスを明らかにすること

 

 ヴォーカリストに関しては、努力をしているのに方向違いであったり、どれだけのことをしなくてはいけないのかがまったくわからないまま、日々不安に過ごしているのが現状のようです。自信と確信のないところでは、上達することは難しいものです。

 信じることを信じられる以上にやって、ものごとははじめて成就するものだからです。そのためには、日々やっているトレーニングを、信じられることを納得するところまでやり続けることが大切でしょう。

 少なくとも、同じ努力をするのでしたら、効果のあるようにセットすることです。同じ練習をするのでしたら、練習をした結果、身になる方がよいに決まっています。その苦労と努力に対し、課題として明確に方向性を与えるのが、レッスンではないでしょうか。

 

○身になるトレーニングをすること

 

 私自身の経験と指導経験でつくりあげてきたのが、ブレスヴォイストレーニングです。教えながらも、日々いろいろと変化して、いつも最新の形にしています。方法だけでは限界があるので、レッスンの体制までつくり、トレーニングで問えるところまで用意しました。いらっしゃる人とその目的とトレーナーによって、ここでは日々、進化しています。これが絶対に正しいとも、こういう方法や体制しかないともいいません。でも力をつけたいのなら、試してみる価値はあると自負しています。

 

〇アーティストのためのヴォイストレーニング

 

 アーティストとは、制作者で、自分にしかない作品をもつ人です。プロとしては、売りものをもつ人、CDでもライブでもよいでしょう。その元となるのが、歌、そして声です。

 ヴォイストレーニングは、アーティストにとって、声を扱う楽器としての基礎勉強であり、演奏活動を支える基礎トレーニングとなるものです。

 

○アマチュアのためのヴォイストレーニング

 

 プロをめざす人は、プロのなかで認められなければプロとしてはやっていけません。アマチュアとして活動するのは好ましいとしても、レベルとしては目的となりません。誰でもすでにアマチュアではあるからです。質よりも長く続けるというのを優先する人がいますが、それこそ質が必要なのです。

 本当によい作品をつくるなら、実力として基礎の力がなくては難しいのです。とはいえ、プロをめざすかどうかは自由でしょう。研究所ではそれを条件として問うていません。プロと並べるくらい、力をつけることが目的です。そこを見ていない人が、少なくありません。

 私は、歌や声に時間をかけお金を払って習うなら、きちんとものにして、元をとって欲しいと思っています。ヴォイストレーニングで成果をあげ、あなたの声で感動させられるようになって欲しいというのが、私の願いです。

第53号 「私的トレーニング論」

 

○声が悪いことの解消策

 

 

 

 一般の人は、「声がよくないので直したい」という理由でよくいらっしゃいます。しかし、あまり心配しないことです。その原因は、

 

1.まわりに声に厳しい人がいる

 

2.コンプレックスが声に向いている

 

3.自意識過剰

 

などが、多いからです。声の心配症、ヴォイトレ依存症にならないようにしましょう。声の悩みは、誰でもあります。それを一つずつ解決していくことで、必ずよくなるものです。

 

 

 

○本当に身につけるということ

 

 

 

 「前のところではまったくうまくいかなかった。ここはわかりやすい。いろんなことが身についた」といってくださる人がいます。その喜びに水をさすつもりはありませんが、「身についたということは、世の中に通用しているということでみないと、自分自身で、誤解してしまいます」と言うことがあります。そして、「前にあなたがいたところでも身についた人もいるし、ここでも身につかなかった人もいます。」と加えます。結果というのは、少なくともまわりの評価が得られていくこと、そして、本当はプロの人の評価なのです。

 

 トレーニングは、相性もタイミングもあれば、その人自身の取り組みや努力にも大きくよるからです。それに「一通り学んだら、『ここでは身につかない』と次のところへ移り、そこでまた同じことを言うかも。」と思うこともあります。

 

 私は、それを悪いこととは思いません。身につかないというのは、本当にだめなときもありますが、あなたのレベルがあがって、高いレベルや、より絞られた目的のレッスンを求めるようになると、必ずそう思うようになるからです。そうしてこそ、また多くを学べるし、その必要に応じて学んでいけばよいからです。

 

 私は、プロの活動を30年以上やってきている人までレッスンしています。彼らは私を使えているから、続けているのでしょう。それだけのことなのです。反対に私と合わないが、ここのトレーナーと合うという人もいて、おかしいことではないのです。

 

 

 

〇プロの考え方

 

 

 

 本当に世の中でやれている人は、身につくとか身につかないなどというようなことでは、語らないのです。つまり、自らやるからやれているのです。

 

 そこに自分が足らないものに気づき、そこを補うために、その才能のある人を使うのです。目的がはっきりしているから、人を選ぶにも間違えません。だからプロになれたし、プロであり続けられるのです。こういう考え方をもつことが、身につけていくのには大切なことなのです。

 

 トレーニングが目的のうちは、身につくとか、つかないとかで、バタバタしてしまうものです。世の中でやっている人は、身についていようが身についていなかろうが、やっています。

 

 充分に身についていないことを知っているから、学び続けています。というよりも、そこでやり続けられている人こそが、身につけていくということなのです。

 

そういう人は、何も言いません。そんなことは問わないです。問うても仕方のないことだからです。やっている、やれている、現実がすべてです。

 

 長くやっていくために、自らトレーニングするのです。ノウハウとかマニュアルをあれこれ言っているのは、人生の浪費です。

 

 

 

○どう才能を見出すか

 

 

 

 どうすれば、ヴォーカリストを教えられるか、という点で、ポピュラーというのは、本当は形がないから、教えることが成り立ちにくいのです。クラシック、ジャズ、ラテン、シャンソンなどなら、表向きは経験を積んだ人が何とかスタンダードを伝える形でのレッスンとすればやりやすいでしょう。

 

 教えるとなれば、ヴォーカリストとしての理想像や上達した姿、目標とする歌というのを共有しなくてはいけません。

 

 トレーニングは、何に対して効果をあげるのかを都度、明確にしなくてはいけません。成果をあげることを目的にするものだからです。そのために分担もし、方法論もとり入れます。そうでないと、相手に応じて具体的に対処しにくく、プロセスもあいまいになりやすいからです。

 

 これには、大変な努力を必要とします。初心者に対し、その人がヴォーカリストとして通用する価値の部分を認めて、育てていくとしたら、教える人に、相当、高度なものが要求されます。

 

 発声と歌(これは歌い方でなく、表現としてのオリジナリティ)と、両方みるのも大変です。発声以外には関わらないというトレーナーもいます。すると、声楽の発声が第一の基準になりかねません。それでは全くもって足りません。大半の人に足りないのは、自立心、自分の音楽、歌の世界観というものです。

 

 

 

○トレーニングの期間について

 

 

 

 私は、一般的レベルで声を使うのに、毎日トレーニングしても最低二年はかかるという立場を明確にしています。これでも早すぎると思っています。三ヵ月や半年でできるヴォイストレーニングは、調整にすぎないと思っています。そのくらいの期間で、何かが身につき、しかも他人に働きかけられるなどということは、考えるだけでもおかしなことでしょう。それなりに確立された他のどんな分野でもありえないことでしょう。

 

 役者さんや学校の先生など声を使う職業に関しても、最近は声をうまく出すことができない人も多くなりました。現場では多くの問題が引き起こされています。プロとして声を使うには、それなりにある期間に鍛錬を継続することが大切です。そこで安定もし、再現もできるようになり、+αに声を応用して活かせる基本ができていくのです。

 

 

Vol.73

○アナウンサーの声が見本なの?

 

 日本のアナウンサーの声は、NHKの放送における統一基準としての価値観の表われであっても、よい声の見本とは思えません。言葉をはっきり正しく伝えることに神経を使っている点で、確かに一つの基準ではあるでしょう。報道という公の場での伝達術として日本語の発音、アクセント、イントネーション、用語における標準といえます。

 しかし、自然な声とは思えないし、まして魅力的な話し声ではないからです。

 私が魅力的というのは、個性、人柄が出ており、自由であることが前提です。そういうことなら、ラジオの深夜放送のパーソナリティの方が、ふさわしいでしょう。でも、そこでは自由すぎて基準がありません。いや、語り口としてのいい加減さがよいのですから、そう考える方が変でしょう。

 

○日本の音声言語の見本

 

 声にうるさいフランスなどでは、国立劇場の役者が、音声言語の見本です。言葉を伝えることをプロとして鍛えられた役者が代表というのは、そう間違っているわけではないでしょう。

 日本では、かつては弁論部などが説得する声としての見本でした。でも、今や時代がかりすぎて、使えません。

 応援団の声は、使いすぎて、つぶれています。他の国では、声やスピーチの模範となる政治家も、日本人で思い浮かべてみると、かなり無理がありますね。つまり、日本では音声言語の模範は確立されてこなかったといえましょう。(特に西欧文化の翻訳輸入のときに漢語での表記にのみこだわり、音に関心を払わなかったため、同音異義語が多くなり、音声で伝える際の混乱の一因となってしまいました。)

 

○日本人の声のなさが役者声、歌声をつくった

 

 私は、普段の声の延長上に役者のせりふも歌手の歌もあると思っていますが、西欧から輸入するときに、日本人は声域、声量とも、全く足りなかったのだと思います。それは、日常レベルでの声の鍛えられ方や耳での聴きとる能力、両面において、大きな差があったからです。その結果、まずそれを形として満たす方法がつくられ、それに合わせた教育がトップダウンなされてきたのが日本ではないでしょうか。私は、特に歌に関しては、声楽の規範で平均律かつ原調で同じように歌うところから入ったことが正しかったとは、思えないのです。

 

○誰の声かで、ものごとは決まる

 

 営業マニュアルには、ドミソの「ソ」の音で話しましょうなどがありました。実際には、かなりテンパった高い音です。暗くこもりがちな日本語としては、高くすることで、わかりやすくインパクトがありました。営業などでは、声が高く明るく大きな人がイメージがよいのは、確かでしょう。

 日本では、高い声の方が好感がもたれていました。また、声の大きな人か英語のうまい人がリーダーになるようなところが、けっこうあります。誰の声かでものごとが決まってきたのです。

 かつて、女性アナウンサーなどの声が低く太かったら、威張っているなどという批判がきたとも聞きます。確かに人間の身分関係として、座する位置の上下、左右などとともに声も低い高いによる序列はあると思います。本来は太く低い声の人が、決定権のある人ともいえるのです。しかし、そういう人が、必ずしも人心を捉えられるとは限らないでしょう。

 

○音声表現力のいらない日本

 

 音声表現力が重視されていない日本では、声を大きく張り上げる人は結局、傍流かあて馬で偉くはなれないというジンクスもあったように思われます。男たるもの、寡黙で腹で人を動かせることが評価されてきました。“男は黙ってサッポロビール”だったのです。

 日本人の声に対する感性は、西欧のように力強さ、表現、議論に耐えるもの(論理的)でなく、やさしさ、丁寧さ、明瞭さにありました。それは強く出るのでなく、一歩も二歩も引くのをよしとする文化だからでしょう。

 

○日本人の“声の敬語”

 

 日本人が高めに声をとるのを好むのを、私は「声の敬語」といっています。つまり、高い声によって謙譲してみせるのです。これは、他国でもみられますが、日本では特に顕著です。日本語は母音中心で、音高によって、言葉が動くからでしょう。それに対し、外国語は子音中心で、強弱リズムで動くため、身分差をつくらなかったというのは、私の仮説です。敬語の存在も大きな要因でしょう。

 

○メンタル力と声

 

 声と能力との関係は定かではありませんが、人前に出る機会の多い人は、おのずと声での表現力を高めていくでしょう。声もまた、人間関係を通じて磨かれていくからです。

 一昔前の日本人は、人前で話すのがとても苦手でした。スピーチをする場でも、必ず原稿を読み上げていました。これは、話に即興や機敏に対応するトレーニングを経てきていないからです。

 今は、カラオケなどで度胸がついてきたせいか、マイクを持ってもあがらずに、それなりにアドリブでうまく話せる人は増えてきたように思います。しかし、話し方の講座なども、相変わらず盛んなようです。

 

○声には知性があらわれる

 

 若い人では、とても流暢に話す人と、まったく話せない人の、両極のようです。心配なのは、個性化が叫ばれている割には、皆、同じようなことをいい加減、適当にしゃべっているような気がすることです。

 日本人の話し方の特長の「とか」、尻上がり調などは、自分の主張として責任とリスクを持とうとしていないことの表われの一つです。さらに、言葉の使い方からしゃべり方まで、幼稚化しているところもあります。精神的な未熟さもありますが、TVの悪い影響のようにも思われます。

 

○欧米との教育と耳の差

 

 日本の国語教育は、文章の解釈や読み書き中心でなされ、音声表現力を疎かにしてきたといえます。確かに日本語は、言葉(口語)で伝えるとあいまいなため、文章にすることが重視されてきました。発音は簡単なので、漢字の書き取りなどに時間をとられました。日本の英語教育も同じで、ヒアリングや会話力よりも翻訳力、単語・熟語の暗記力の方が優先されてきました。日常生活においても、音声で表現する重要性は、さほどなかったのですから、当然のことでしょう。

欧米では、言葉を扱えなければ、子供扱いされます。幼い頃からスピーチ、ディスカッション、ディベートなどを通じ、自己主張の能力を教育で鍛えあげています。それが、結果として、一般の人はもちろん、歌い手や役者の音声力の差にもなっているように思います。

 

○客は声に涙する

 

 ブロードウエイのミュージカルで、私はただ一つの声が聞こえてくるだけで涙したことが何度もあります。それらの声が合わさると、さらに心が高ぶります。オペラなどでも、何度かそういう経験をしました。プラシド・ドミンゴの「トスカ」などは、ビデオでみられます。マドンナ主演の「エビータ」などもよいでしょう。是非、見て、聞いて、味わってください。

 映画や演劇、アニメでも、演じられている場面、ストーリーのなかで、声の表現そのものに心打たれることは少なくありません。確かにドラマの筋やせりふにも泣けるのです。しかし、小説や漫画では、感動はしても、そういうことがあまり起こらないことを考えてみると、やはり声で泣かされていることがわかります。効果をあげる音楽、そこにだめ押しの声という感じがします。

 

○泣きと声

 

 バンドの解散コンサートなども同じです。歌よりも、声が泣かせます。長嶋茂雄さんやアントニオ猪木さんの引退も、そこに彼らのあの声がなければ、あれほど伝わったでしょうか。心に残ったでしょうか。

 美輪明宏のヨイトマケの唄、「母ちゃんのためならエンヤコラ」には、泣きが入ります。藤原寛美の新喜劇、落語の芝浜など、泣かされ笑わされるものに働く声の力、あげていくとキリがありません。

 日常においても、同じでしょう。きっとあなたは、誰かの声に嬉しくて、あるいは悲しくて、泣いてきたはずです。

 

○世界に通じる声

 

 私は、日本では、よく役者と間違えられます。太く柔らかく、体中によくひびく通る声だからでしょう。もともと弱く細い声でしたから、まぎれもなく、これはトレーニングの成果です。

 ただし、残念なことに世界をまわると、欧米に限らず、世界にこういう声はありふれています。ただ日本には、お腹から声の出る人が少ないから、目立つようです。私がみるところ、ますます日本人には、そういう声の人は少なくなっているように思います。

 私のはトレーニングで鍛え上げた声ですが、ときたま、自然とそういう声を使っている人をみます。すると私は、声に惚れ惚れしてしまうのです。たとえば、僧侶、お坊さんです。しかし、少し考えてみてください。これは日本でもっともよい環境下で、理想的なヴォイストレーニングをしたといえるのではないでしょうか。

 

○日本人の好む声

 

 日本の政治家は、かつてはダミ声、塩辛声でした。落語家にも何タイプかありますが、だいたい高い声でなければ、しわがれ声です。それは人の心に働きかけ、人情のきびを伝えるからでしょう。日本人には、浪花節のような、塩辛声が好まれたのでしょう。私も日本で話していると、オペラやミュージカルや宝塚の人の声のようにではなく(それもできますが)、そういう人たちの声に似ていきます。つまり、日本人へ働きかける方向で感性が働くからです。声の良し悪しからいうと、苦しく聞こえる声や、出すのに苦しい声は、決してよいとはいえません。

 

○日本語は声帯を損ねる?

 

 世界のオペラ歌手に著名だった音声医の米山文明先生は、その著書「日本人の声」(主婦と生活社、平凡社文庫)で、日本語は声帯を損ねると言っています。私も、同感です。というのも、私は、それを避けるために日本人の日本語を発するところよりも深いところで発声しているからです。ドイツ人やイタリア人も、同じように深い発声です。

「頭と心と身体」 No.332

今は、メンタルのフィジカルに及ぼす影響で声をコントロールしたり、うまく取り出そうとしているのが多数となりつつあります。しかし、それは処理です。それではカラオケのチャンピオンも超せません。

頭で考え、頭で信じることで動くようになったのを、心と同一視してしまっているようにも思えます。あるいは、心、感情を入れたら全てが通じるという物語で、過剰な演技での表現に慣らされてしまっているのかもしれません。

アスリートのようにフィジカル本位で考えることが大切です。したいこと、好きは、頭で考えるのでしょうが、できることは、体で身につけたことです。そして、できること、身についたことしか本当は通じないし、役に立たないものです。

研究所は、世界への窓ですから、そこにあなたの心の窓を合わせて開けてもらえば、どこへでも行ける―というのが理想です。心の扉ともいえるのですが、メンタルをフィジカルで扱っていくのが、ヴォイトレの正攻法と思っています。

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