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2019年5月

第60号 「信心」

○本音で信じられるか☆

 

 トレーナーを信じられるかというのは、自分に信じる心があるかを試すということです。それは同時に、今、ここにあることを素直にとり入れようとする心があるかどうかということです。

 本心では最初は信じられていない人もいます。レッスンに信じる何かがあるのでなく、心の中に、信じられる音楽(音声)があるか、出てくるかということです。

 本を読んでも、述べてあることを信じなくては無意味とは思いませんが、それを信じる人、その上で確かめていく人より役立たないでしょう。

 真の師匠は自分自身なのです。

 言われたとおりに信じないのもよし、信じるのもよし。どちらにしても、無の境地でやってみることです。

 シンプルに、トレーナーから学ぶことです。そのなかで、いいことをつかんでいけばよいのです。

 出会い、縁を、大切にし、どれだけ活かせるかが問われます。

 

〇一つ上で信じる☆

 

 「問題は、それを生み出した意識と同じ意識では、決して解決できない」(アインシュタイン)

 一時も自分を捨てる勇気がない人に、何が得られるのでしょうか。自己投資には、そのくらいの緊張感がないと、感覚は研ぎ澄まされません。

No.333

師の灯

未来永劫

エキス、吸収

温もり

睦まじい

整合性

師匠芸と名人芸

油断

全身動員

天衣無縫

演ずると教える

実演と演技

堪能、味付け

円熟

無心、集中、化す

器量

手釣の重み

仁、もちまえ

役柄

肚芸

思い入れ

人を学ぶ

体系

芸風

ファンタジー

とりこ

内幕

型なきもの

分を守る

けじめ

第59号 「研究所という場と使用シート」

○ヴォイス塾の指導体験

 

 私は、二十代で聴く力と音声として使える声を、三十代で話す力と書く力を学びました。声や歌は、わからないです。わからないことが多くなってきます。そのことが、学ぶということと思います。

 声を出すということは、リスクを考えず行動することだと思っています。

 

○研究所のシート

 

 理想を掲げ、いらっしゃる人への感謝で続けている研究所です。そこでのレッスンの取り組み方とカリキュラムを、使用しているシートでご紹介します。

1.レッスンをきちんと復習し、トレーニングすること「レッスン前シート」

2.1ヵ月の学習を復習し、翌月の指針を決める「月末報告レポート」

3.世の中での接点や時代、市場をつかむ。発表の経験を積む「レッスンレポート」

4.個別の問題、弱点補強、技術、基礎を高める「カウンセリングシート」

5.先達、一流、プロ、アーティストに学ぶ「鑑賞レポート」

 

○環境と才能

 

 環境が人を育てます。理想の地に環境を変えること、たとえ同じ環境でも自分の姿勢しだいで大きく変わります。あなたの捉え方によって、場は不毛の地にもなります。志と気持ちを、どれだけ維持できるか、その覚悟です。

 一度しかない人生で、常に何を優先するか、毎日の一つひとつの行動が岐路なのです。それが時とともに褪せ、他の人と同じになっていくとしたら、それがその人の才能の限りだったということです。

 人の世で努力しても報いられぬものは、いくらでもあります。しかし、そのことで人生の価値が変わるわけではありません。自分の才能を育てるのは、大変ですが、大切なことです。

 

○トレーニングを前提とした立場での記述

 

 質問には、簡単に正誤を言い表せないものが多いので、踏み込んで、持論を持ち出すこともあります。すべては、一般的な見解ではなく、トレーニングを行なうという前提でなら、そう考える方がよいという条件付での回答です。

 どんなアドバイスも、あなた自身が学んでいくためのきっかけにすると活かせます。しかしそれで全てよしとはなりえません。

 内容に疑問や質問のある方は、研究所のホームページをご覧いただくか、連絡の上、いらしてください。研究者やトレーナーの皆さんとは、発声の解明やトレーニング方法の研究のできることを期待しています。

No.333

<レッスンメモ>

 

咳払いでのリセット

声づくりと体づくりの共有

話すこと、笑うこと

祈りとは、自分とまわりのことを、あきらめるとは、明らかに究めることともいわれます。

ヨーガ 1.ゆっくりと、2.呼吸あわせ、3.痛みに意識集中、4.変化を味わう

しなう、なえる 

右の鼻でプラスの気を吸う ピンガラ(太陽の気)

左の鼻でマイナスの気を吸う イダー(月の気)

恨、ハンはトスカ(露)でサウダーデ(ポルトガル)

橋本敬三の操体法では、たべる、呼吸する、動く、思い巡らすを

漢方の問診では34時間かかる

「幸は偶然で原因はない」(安岡正篤)

「福は自分の苦心、努力で」(植島啓史)

No.333

<レクチャーメモ「政治と歌」「演歌と邦楽」>

 

労働歌、ロシア民謡の時代、安保闘争

1969年2月新宿西口、フォークソングのフォークゲリラ、ベ平連

We shall overcome(ジョーンズ・バエズ)

 

桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)の浪花節

川上音三郎、オッペケペー節、壮士芝居

自由民権運動として演説、浪曲、新講談、壮士芝居、自由演歌が現れたのです。

社会主義伝道の添田唖蝉坊(あぜんぼう)「社会党ラッパ節」

江戸の三味線音楽が、清元、常磐津、義太夫に、名人が出て流派となっていきます。

江戸末期には清元から小唄、端唄が出てきます。

日本の唄は、腹で歌うのです。

今は、デモパレードで歌う歌の不在

第58号 「プロフェッショナルについて」

○踏み出る

 

 誰でも、まわりとうまくやっていきたい、悪くいわれたくないと思うのは、あたりまえでしょう。しかし、人に寄っていく人は、そうしている限り、自分の力では何もできません。これは、どこでも人が集まるところに、必ずある光景です。

 そのため、もう一歩踏み出せないその人のよさが、その人がそれまでやれなかった要因です。自分の力を自分で抑えているのです。もとより、それを打ち破ってまで、人を説き伏せたいものがないともいえます。

 場のなかでの歌は、場を破れません。ですから、場を超えて、第三者である他人が集まってくることはありません。この身内の場を突き放し、第三者の客を得る力こそが、プロのプロたるゆえんなのです。

 そこを乗り越えるためには、プロということについて、自らいろいろと学ぶことです。どこでも、そこにいることが目的になってしまってはいけないと思います。自分がいるところが、ライブとなるようにしましょう。

 

○プロと才能

 

 プロとは、自分の才能の発揮するために、自分にない才能のある人と場を得られる人です。人間、一人では何事も大したことはできません。本当に好きなことを好きなようにやるために、プロになる。そのためには仕事として、こなしているプロのレベルを超えなくてはいけません。

 プロをやり続けるには、実績を残していくことが必要です。人に対して働きかけることの対価が、仕事としての収入となります。しかし、実績と対価は必ずしも比例しません。

 サラリーマンでも10年続けたら、ギターも歌もうまくなります。アマチュアゆえにお金に縛られないでしょう。でも、自分の才能をより高いステージで発揮するには、才能のある人との出会いと、本当の意味で才能を育む場が不可欠なのです。

 世の中、お金があっても実力があっても何もできない人もいます。場を得てはじめて、才能は磨かれる。そこで逃げ場がないプロは、有利ともいえるのです。集まった人の数、人の思い以上に、作品をもって返さなければ成り立たないからです。

 

○アマチュアとプロ

 

 アマチュアだからこそ純粋に音楽を愛せるという人も多くなりました。それは、当たってもいるのですが、本気のつもりでも、カラオケを一人で歌っているのにすぎない人もいます。低いレベルのプロをプロといって、さげすさんでいるのにすぎないことが多いように思います。まわりからうまいと言われても、他人を感動させられているのではないでしょう。本当に感動させたら、人は集まってきます。集められます。

 プロの価値は、創造活動にあります。その過酷な自らとの戦いを避け、対価以上の仕事をしないと成立していかないプロという世界を垣間見ているだけでは、つまらないでしょう。

 生活のなかに本当に音楽を取り入れ、音楽とともに暮して、音楽でお金をとっていない“アマチュア”の人々もたくさんいます。生活のなかに取り入れているのがアマチュア、生活をかけているのがプロかもしれません。プロといっても必ずしも生活がかかっているというのではありません。

 

○トレーニングで本当にやるべきこと

 

 研究所のトレーナーのことばです。

1.とことん地味なことをやること。

2.今すぐ必要なことと正反対のことをやること。

3.すぐに効果の現れないことをやること。

 本当にやるべきことは、付け焼き刃でできないこと、時間がたっぷりかかることをやるのです。

たとえばダンサーなら、クラシックバレエや日本舞踊をやることです。タップをやるときにタップの練習をするのはあたりまえのことです。そして、すべて現場のことは現場でやれるようにするのです。それだけでは続けられないので、トレーニングするのです。

第 57号 「創造のためのレッスン」

○習得することと創ること

 

 世の中、いろんなレッスンがあっても、習得するのに楽なところを選びがちです。

 先生が手とり足とり教えてくれる。誰もが誰もと同じところまで一緒に確実にいく。それが教わることだと、日本人は思っています。

 私は「レッスンで習得して、自分で創る」というので満足しないで欲しいと思います。習得の教材は、本もCDもあふれんばかりにあるのですから。

 「レッスンで創る、自分で習得する」、それがレッスンとトレーニングとの関係でありたいと思っています。

 

 習得には目的が必要です。それは高い方がよいでしょう。そのために気づきを与えているのが、レッスンです。習得は、1ヵ月に何回かのレッスンできるものではありません。欠かさず、トレーニングする。自分の時間を使い、芸を血肉にして身につけていくのです。

 

○世に問う

 

音楽や歌は、実力のないタレントでも、人を集めたり稼いだりするツールとして、安易に使われてきました。健康のためや友だちづくりのため、コミュニケーションの媒体として、使うのが楽、加工しやすくごまかしやすいからです。音楽に親しむ人がこうした効用を求めるのはよいことです。しかし、創るのと使うのは、売るのと買うのほど違うのです。

 

 創ろうとすると、何が足らないのか、何がそのために必要なのかがわかってきます。それによって、習得できるのです。創造という出口のないところでの習得は、自己満足、自己本位、自己陶酔になりかねません。世に出るかどうかは、結果でも、目的は先に外、後に内にもつ方がよいと思います。

 自分のレベルを聞く人も増えました。簡単です。他の人に受け入れられないのは、まだそのレベルなのです。

 そういうと、人に受け入れられようと、逆の努力をする人もふえました。しかし、客が受け入れられるだけのものを示すことが、先です。

 

○表現の創造

 

 表現の創造の厳しさを知ってか知らずか、多くの日本人は目をそらし、習得に満足する方向にいきます。

 音楽は楽しいもの、楽しむもの、確かにそうです。それゆえ、私も関わり続けています。

 しかし、同時に厳しいものです。表現が、その名に足るとしたら、我が身を粉にして練り上げるからです。創造とは、渾身の力を振り絞ってやるから、人の心を打つのです。習得したら創れるのではなく、創るのに習得が必要となるのです。

 

○創造のためのレッスンのためのことば

 

「あなたはどうして、そう弾きたいの ことばで語ってごらん」

(アイザック・スターリンのレッスンより 諏訪内晶子さん)

「日本の音楽家は、『先生の言われた通り』としか答えない。

「なぜそう弾くか、ことばで説明できる人は少ない。聴衆も情緒的で語ることができない」(三枝成彰さん)

「一流であるには、強者に対して、妬みでなく尊敬で接することが大切だ」(野村克也監督)

 

 

Vol.74

○声は語学力を補う

 

 ここでは、学んでも話せない、なかなか通じないといわれる日本人の英語の発音と発声の関係について述べます。

 私が思うに、日本人の英語が現地で通じにくいのは、発声にいくつかの大きな欠点があるからです。

 第一に、強弱の踏み込みをしないことです。それは、息を吐けないからです。つまり、日本人の英語は、

1.息を吐けない。息を聞けない。

2.子音一音を認識して、発せられない。(母音がつき、カタカナ英語となる)

3.強アクセントをつけられない。

4.強拍に弱拍部の音が巻き込まれない。

5.発声が浅い。

 息と声が深く強弱リズムがついていると、大して英語の発音がうまくない人でも、結構、通じるものなのです。 深い声を発することは、欧米の言語の理にかなっているといえるわけです。

 

○なぜ、声がよくないといけないのか

 

 何でも、よい方がよい、声もよい方がよい。これは、言うまでもありません。

人間は、感情の動物です。その人への好感度によって、いろんなことが左右されます。あなたがどう考えようと、現実には、その表情や声一つで好意をもたれたり嫌われたりします。容姿、性格などと並んで、声も重要な要素の一つであることを、忘れてはいけません。声が嫌いというので、信用されないばかりか、いじめられることもあります。

 声がよくないといけないというのではありませんが、うまく生きていくために、つまり仕事や生活をうまく進めていくために、声の力は欠くべからざる基本能力の一つです。

 

○声と好き嫌い

 

何となくその人の態度や感じを好きになれない原因のなかで、案外と声のことは大きいのです。その人が嫌なら、その声も嫌になりますが、その声が嫌でその人が嫌になることも、少なくないのです。

 このように、声は、信用に関わってきます。もし、あなたが、取り引きしようという相手が早口で何を言っているのかわからなかったり、ぼそぼそと自信のない声でつぶやくような人なら、どうでしょう。心配から不安になり、キャンセルしたくなるでしょう。

 いつも、はっきりと自信をもった声で話されたら、よい気分で進められるでしょう。もう一声、それで取引が決まることがよくあるのです。声には、思った以上に、影響力、だめ押しの効果があるのです。

 

○声がよいって、どういうこと?

 

 それでは声がよいとは、どういうことでしょう。

 一概に声がよいといっても、声にはさまざまな要素があります。たとえば生まれついての声、これは、行われるつまり体という楽器によって決まる声質を意味します。人が美しい、きれい、よいと感じる声を生まれながらに持つ人もいます。歌手や声楽家などにはこうした天性の素質も大きく左右するでしょう。

 次に、後天的に得られた声、たとえば役者などは、練られた声、鍛えられた声というイメージがあります。それは、トレーニングの賜物です。

 さらに、楽器としての性能とは別に、声の使い方というものにも、良し悪しはあります。あなたが風邪をひいたときと、健康なとき、疲れているときと元気なときでも、声は違います。

 つまり、声そのものがよいということよりも、その使い方、結果として働きかけがよいことが重要なことです。

 

○声の使い方

 

声の使い方なら、簡単に変えることができます。相手が聞いて、「なんとなくよいな」と思う声、それは声そのもののよさよりも、その声を通じて信頼感やあたたかさ、やさしさが伝わるということでしょう。つまり、それは話しかける相手に神経の届いている声といえます。

 こうなると状況や相手が求めるものによっても、違ってきます。同じ声や同じ声の使い方でも、相手によっては、感じ方が違ってくるからです。となると、そういうことに対する感性と声の演出力が問われるのです。

 

○声そのもののよさ

 

 原点に戻って声そのもののよさについて考えてみましょう。

 声そのもののよさとは、よく聞こえる、よく通るということ、聞き心地がよい、聞きやすいということでしょう。音声である以上、そこには機能的であること、それは音響としての物理的な特性が含まれます。つまり、音としての性質からみて、うまくひびいていることです。

 

○通る声の秘密

 

 私の声は、どんなに小さくしても、遠くまで聞こえます。それは、共鳴がよいからです。よく通る声ですから、かなり広いところでも、マイクはいりません。

 口内や口先でクセをつけたり不自然にしていない声、邪魔をしていない声、深い息でコントロールしている深い声なのです。そこで、一声でプロの声とわかってもらえます。こういう声は、鍛えることで手に入れられます。

能舞台などでは演者の声は3千人くらいの客にはっきりと伝わります。

しかし、どんな声も、かなり心地よく聞こえるようになるのです。まずは、そこからチャレンジです。

 

〇自分の声と使い方を知る

 

 「己を知らば、百戦戦うとも危うからず」、声は、口から出て言葉とともに一瞬で消えてしまいます。いつも、私たちが話すときは、人前での生ライブのようなものです。一度、言葉にしてしまった声は取り返せません。やり直しができません。

 それだけではありません。そこであなたが意識しようとしまいと、あなたの声から、かもし出された雰囲気や感覚は、話の内容以上に、その話の印象や価値を左右してしまいます。

 どんなに内容やその作文力にすぐれていても、それが声でどう伝わるかということによって、効果が全く違ってくるのです。

そこで最初に、自分自身の声とその使い方について、見直してみましょう。

「しぜんと宇宙」 No.333

自然は、じねん、大自然ということです。しぜんとは、やさしい環境とは真逆のものです。天変地異の異常事態の常なることを指していました。それを知っていたからこそ、自ずからとして、習俗は生まれ、慣行として継承されてきました。人の心に「天」があったのです。

私たちもまた、たまたま生まれ、たまたま生き残っているにすぎません。それは、そうでなかった死んだ人の思いを引き継いでもいるのです。

他力本願で私欲を捨て、阿弥陀仏への絶対的帰依と回心で、無限の命、宇宙的な生命を得ることを説いたのは法然、私の父方の宗派です。

私には、そこまでのことはわかりません。ときに、祈りを捧げます。私が消えて、念仏の声と音だけがひびくときに、生死が一体化しているように思います。無我無心となり、自他共にしぜんに溶解するのです。

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