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第70号 「日本人は音色を聞かず、世界に通じず」

○ストーリーをはずして聞く

 

 海外の歌のように歌詞やストーリーの意味がわからないからよいというのは、音色やフレーズ(節回し、メロディ、リズム)から感じていくものだからです。それが演奏、音楽の世界です。

 一見、逆のようで、同じこととしては、歌詞がすでにわかりすぎているというのもあります。落語の定番の噺のようにストーリーがわかっていれば、どう演ずるかに、客の関心がいきます。そこで声や表現といったものの技量、オリジナリティが出ます。同じことをやることで、感覚も判断力も深まるのです。それは、トレーニングの根本的な考え方でもあります。

 

○スタンダード曲のよさ

 

 日本にはあまりなくて、世界にたくさんあるのは、スタンダード曲です。スタンダード曲とは、歌詞やストーリーを皆、知っているのです。その上で歌われるから、歌い手は、楽器としての演奏力と表現力が問われるのです。

 つまり、初物、誰もやっていないからオリジナリティなどという安易な海千山千の世界から、早く質の世界に入ることができるのです。大切なのは、自分の音と使い方(音色とフレーズ)を発見することです。日本では、そのこともアレンジでのオリジナリティで問うてしまうようになったのですが。

 

○定番曲をまねない

 

 日本でも、邦楽や演歌には、定番曲があります。ミュージカルも同じ曲を違う人が歌っています。それは勉強するにはレベルがアップしやすい状況です。ところが残念ながら、安易に真似てしまうことでプラスにはならないのです。特殊な分野である声だから、大して人材は育ちませんでした。

 日本の客は、ビジュアルやストーリーでみてしまうから、尚更です。表面上の形に影響されて、歌手も曲や詞が新しければ、初めて歌うなら何でもよいとなりがちなのです。

 

○日本にもスタンダードがあった

 

 昭和の半ば頃までは、著作権が整備されていなかったのです。また、同じ曲を違うレコード会社専属の歌手同士、同じ時期に競作してヒットを競うこともありました。それとはすでに異なる状況でしたが、私が覚えている最後の競作曲は「氷雨」での日野美歌、佳山明生さんの歌唱です。

 フォークなどの台頭期では、かぐや姫など、ほぼ一曲の繰り返しだけのステージをやっていたグループもありました。「好きだった人」などがその代表曲でした。フォークのヒットは、歌詞の力が大きく、即興の詞づけにも長けていて、必ずしも曲の力とは言い難いです。そういえば、昔は、歌手も1ステージのなかで1曲のヒット曲を何回も歌ったりしていたものでした。

 

○日本語の訳詞

 

 日本はロカビリー、ロック、ポップス、ジャズ、カンツォーネ、シャンソン、ラテン、ボサノヴァ、ファドまで、向こうのものに訳詞をつけて歌う時代となり、同じ曲での比較が容易になったのです。

 当初は英詞の訳もよいのがあったのですが。(この一連のヒットで、出版社をつくったのがシンコーミュージック創設者漣健児氏です。「悲しき・・・」で始まる一連のシリーズが有名です。多くの歌い手が同じ曲を歌ったために比較でき、秀劣や個性がとてもわかりやすかったのです。違う歌詞がいくつか付くこともありました。

 日本人の英語熱もあって、ジャズやポップ、ロックなど英語曲は英語のまま歌う人が多くなりました。その日本訳の詞は、陳腐なものが多かったのです。それに対し、カンツォーネやシャンソンは、日本人にはフランス語、イタリア語がわかる人が少ないせいもあってか、よい詞がつき、日本語で歌われました。宝塚時代、越路吹雪さんの歌を訳詞した岩谷時子さんや、作詞家のなかにし礼さんなどは、シャンソン畑出身です。

 

○訳詞のよいこと

 

 歌詞がよいことは、原語と日本語との両方で学ぶためには、一つの大きな条件です。特に、カンツォーネは、日本詞がうまく付けられているのが多いです。しかし、この頃の詞は、一音節(モーラ)に一音の日本語をあてていたため、原詞の内容の半分から三分の一しか伝えられていません。そのためまったく違う意味に変えられたものが少なくありません。下品な原詞がオシャレな日本語の歌詞になりました。

 なぜ、原語のままの曲で※らせるのでなく、日本語にして歌ってみることが大切かというと、歌はお客さんの生活しているところのことばで支えられているからです。

 

○歌が楽器に勝るところ

 

 楽器に対して、決定的に歌が有利なところは、次の二点です。

1.人間の声である

2.ことばで意味を具体化できる

 日本人で英語でジャズを歌っている人は、英語圏で生活しているのでもなければネイティブのセンスにはかないません。日本語で育ってきた日本人が、セリフや表現を英語で話しても、それを聞いて伝わる程度をネイティブでなければ判断できません。判断の基準は、母語に対してしか通じないのです。

 

○歌唱レベルでの低さ

 

 日本では英語で歌えれば、英語の発音が正しければOKという形での評価が、幅を効かし、表現が忘れられてしまうのです。

 日本の歌でも似ています。合唱、ニューミュージック、J-POPS、演歌、邦楽はなぜ、時代を超え、日本を超え、世界のスタンダードにならなかったのでしょうか。エスニックだからではありません。エスニックでも世界に出ているのは、たくさんあります。声としての表現力としての歌、つまり歌唱力でかなわなかったからです。これは、分野としてではありません。演じる人、歌う人、その個人の音声での表現力においてです。

 どこでも、一人の天才とそれに続くハイレベルな集団が出て、そのジャンルをつくり、ジャンルを超え、スタンダードに芸を成立させていくのです。歌謡曲や演歌のすぐれていたことは認めますが、デビューのあとによくならないのが、日本の特徴です。聴衆が声の世界に寛容すぎるのです。

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