第82号「まねとほめ」
○声の見本の危険性
よく、トレーナーにつくと間近に見本がみられてよい、という方がいます。距離として間近で、時間のプロセスとしても、ゆっくりと同じ一つのフレーズだけくり返してくれたら、確かにわかりやすいですね。しかし、こうした内容と表現法は、芸、表現、歌としては違います。
今は、師匠につかなくても落語は覚えられます。作品も教材も売られ、学び方の方法まで、ていねいに解説されています。
私も本や教材はつくっていますが、それはレッスンに来られない人のためです。レッスンに代われるものではありません。とはいえ、必ずしもレッスンが必要でないのです。
○師につく目的
師のところにいくのは、いくつかの目的がありました。
1.内容(落語なら噺)を覚える昔は、寄席でしか噺は聞けませんでした。噺を仕込みこむのが、最大の目的でした。歌手なら楽譜を入手する、あるいは歌(詞や曲)をもらうことにあたりました。
いまやCDで音声、DVDで振りまで学べます。客席の正面からしか見られないのを、弟子は横からしか見られない。DVDは、繰り返し多角的見られるので効果的です。
2.自分に対するアドバイスがもらえる。これは、師によります。友人や先輩よりもよいはずですが、芸の名手、必ずしも教える名人ではありません。
3.見本がそばで見られる。これも声は楽器と違い、個人差があるから、まねがくせになりやすいです。つまり、耳でとらえるようにやっても、師と同じフレーズまわしになりません。なったとしても、よくないのです。同じ声を出すには必ず、無理が生じることは覚えておいてください。
師と似た声の人ができることを、違う声の人はずっとできません。
○似ていること
似たらよいのかという問題も大きいです。似ていると思われるのは、表面しかとっていないからです。本質的なものを学べていたらおのずと師と異なる自分の声と呼吸での表現がでてくるからです。
そのプロセスの判断は、声に関しては師といえども容易ではありません。すぐれている師ほど、潜在的に自らのもつ条件を意識していません。自分の体験や練習法を伝えても、それはその上でのことです。
ですから、「俺はそんなところでつまずいていなかった」という人ほど、教えられないのです。小さいころからプロとして歌っている人に、いい年齢で音をはずす人の直し方はわからないでしょう。声にはそこまで生きてきたすべて、体、心、感情を伴って入っているのです。形で入れるくらいなら、苦労はしません。
〇まねること
師のようにやろうとして、すぐにやれるところはどういうことでしょう。条件にめぐまれていてやれたのか、条件がないのに表面だけ合わせられたのかで大きく違います。表現力が伴っていれば師と同じ力があるのに、それがないというなら大きく何かが欠けているのです。まねたつもりで、本質の問題を素通りしてしまった、先にいってしまったのです。つまり、基本がなおざりにされたということです。
それをほめる客はしかたないとして、トレーナーがほめるからやっかいです。早くそれなりにできたということにしてしまうと、レッスンの対価には見合ったと相手も喜んで、生涯、そこの限界から抜けられないようになったということになりかねません。しかしそこに気づかないレベルでレッスンが成り立っているのです。これはトレーナーを変えるか、トレーナーが変わるかしかありません。
○ほめることと評価すること
できないことができたら、それは認めてあげることです。ほめる必要はありません。ほめると自信をもったりやる気をもつ人も多いからほめるのです。逆にいうと、これはほめられないとなると自信もやる気も自分ではもてないから、トレーナーがいつもほめてあげないといけないという関係になりがちです。これでは続くことはないでしょう。
若すぎるためにそうであって、その後、成長するなら別です。それを、だめとはいいません。しかし、逆に若いからこそ、ほめられないことをやってみることでしょう。本当に一所懸命に練習していて成果が出ないとき、トレーナーは励ますのです。励ましたくなれば励ませばよいのです。
○ふさわしいトレーナーを考える
トレーナーですから、レッスンで依存されるのはある程度仕方ありません。しかし、私はいつも次のことを考えて行なっています。
1.自分以上に、この人にふさわしいトレーナーはいる。もっとよい方法も必ずある。
2.自分がこの人が目的を遂げられるまでみられないこともある。お互いの事情や万一のケースを考え、用意しておく。
トレーナーのレッスンは、そのトレーナーがいなくてはできないものです。しかし、その上でそれをなくしていかなくてはいけません。常にほかのトレーナーでも引き継げるようにすることを念頭におきます。それより大切なのは、本人が自分自身でできるようにすること、次に進めるようにすることです。自分でできるようになればなるほど更なる高い課題設定とチェックが必要です。そのためにトレーナーが必要と私は考えているくらいです。
やはり、誰かにつくとよいのです。そのときに前のトレーナーのレッスンを引き継げる人がよいのですが、もっとよいのは、本人が次のトレーナーのレッスンに対応できる力をつけていることです。最終的にトレーナーを選ぶ眼力もついているべきでしょう。よいトレーナーとか、自分に合うトレーナーでなく、自分の力を伸ばすトレーナーをみつけ、選ぶ力です。
〇やり直しのレッスン
現実にトレーナーを変えるときに前のトレーナーから知識やうんちくは教えてもらっていても、深い声が身についている人や呼吸が明らかに素人とは違っている人というのは、ほとんどいません。そういうヴォイトレをやってもらっていないからです。トレーナーについても本を読んだような知識が思い込みをつくるだけにしかなっていないケースが多いのです。
トレーナーの事情でレッスンができなくなって、困ってここにくる人も少なくありません。日本の場合、トレーナーを変えると、最初からやり直すとなる人がとても多いのです。
トレーナーが誰であれ、きちんとトレーニングをしていたら、体や声は変わって、次のレベルにいくはずです。「レッスンのときしか声を出さなかったの」と聞くとそうだと答える人も出てきました、このあたりもどのレベルで述べるのかに悩むのですが、今は一般化して日常化してしまったヴォイトレ、カウンセラー化したトレーナーということを抜きに考えざるをえなくなってきました。
○技術としてのギャップ
声を武器にして人前で表現するとしたら、日常以上の条件や技術が求められます。師というのはかつては高所にいて、弟子ののぼってくるのを見守ればよかったのです。しかしトレーナーは、そこまで求心力がないので、はしごをかけて下まで降りてくるタイプが多くなりました。何とかしてあげようと、親身になって考えてあげるのはよいのですが、成果が上がらなくとも満足します。これだけやってもらってよくならないのは、自分の素質や才能、努力が足らない、と多くの人は、素質のせいにします。
一方で「こうしろ」とか「なぜできないの」とムチをふるうトレーナーは、最近は嫌われますから少なくなりました。顧客満足の時代ですから、コミュニケーションをとり、説明はていねいになりました。医者でさえ、サービスで問われるのですから。
でも本当は技術でしょう。医者は弱った人を社会復帰させるのですから、カウンセラーのような要素も入らざるをえません。まわりのスタッフや看護士が行なえたらよいのですが、医者のことばを信じるのです。トレーナーは、生徒のレベルに降りていったらいけないと思います。技術としてのギャップを示す必要があると思います。
〇声力の補強
声においては相手の発声から、その体に支え(体・呼吸・・・)などの不足を知り、補強するメニュ、トレーニングをします。そのギャップ、補強をトレーニングで待つしかないのですが、レッスンでそのギャップが埋まるのを待たずに先に進めたり、できているようなフリをして認めてはいけないということです。
グループでも体や息の基礎条件が足らないと常に周りが無言で圧力をかけてくれるような環境なら、おのずと力はついてきます。トレーナーの話に和気あいあいとして、時間がたって、楽しくすっきりしたというなら力はつきません。汗をかくアスレチックジムのエクササイズやジャズダンスのほうがましです。
〇DVDで学ぶ
トレーナーの声だけでなく、DVDなどでアーティストの声を再現したものを何百回も見ることです。プロセスはスローや部分再生でみればよいでしょう。
ただの客やファンからすぐれた客になるプロセス、自らも演じるための武器を心身に入れていくプロセスを個人で家で行なえるようになったのです。マイク・タイソンは、13歳から20歳まで世界戦のVTRをみることを欠かす日はなかったといいます。これが相手のすべての動きやクセを自らに叩き込んでいた下積みともいえます。きっと1万時間以上の試合のシミュレーションをしていたでしょう。(ドキュメンタリー映画「タイソン」)
一流は必ず成功するのに共通のことを行なっていて、アマチュアのままの人は、必ず失敗するのに共通のことをやっています。
あなたがアマチュアなら、自分によかれと思ってやっていることや判断は、共通して失敗することであることが多いということです。そのために一流のDVDやCDから正すということです。
〇判断レベルの違い
歌にしろ、せりふにしろ、声に正誤があるわけではありません。顔に正誤がないように声も個性です。しかし、表現として通じる個性、伝わる機能をもつところで違うのです。それを補うのがトレーニングであり、気づかせるのがレッスンです。
声は、正誤ではなく程度問題です。判断もあいまいです。発音・滑舌は、ピッチやテンポと同じく、機能だから判断しやすいのと対照的です。同じ声でもある人はよいといい、別の人はだめということもあります。初心者と上級者に対しては判断が違ってくる。ことばに紛らわされてはいけないのです。誰が何といおうと何を参考にしても自分で判断していく力をつけなくてはならないのです。そのためにトレーナーを使うのです。