第85号「ヴォイストレーニングの”ビフォー&アフター”」
○トレーニングで変わるもの
ヴォイストレーニングを目的と結果、ビフォーアフターでみてみましょう。
「トレーニングをした」ということは、何かが変わるわけです。トレーナーのあげる例をみてみますと、大体、次のようなことです。私もいくつか示してきました。取材などでは、端的に言い切らされてきたので、実情と一致していないところもあります。
ヴォイトレにおいて、結果(終点)は、もちろん、始点(現状)を定めるのさえ容易ではありません。だからこそ、ことばを使ってはっきりさせる必要があるのです。一つの目安としてのことばのイメージが、一人歩きして、トレーニングの進行や効果を妨げている例も多いから注意することです。
Before→After
1.高い声が出ない→高い声が出た
2.大きい声が出ない→大きい声が出た
3.声がかすれる→声がかすれなくなった
4.声が疲れる→声で疲れなくなった
5.声が弱弱しい→声が強くなった
6.声が出しづらい→声が出しやすくなった
7.声が途切れる→声が途切れない(途切れにくくなった)
8.声が悪い→声がよくなった
このうち、1の声域、2の声量は、相対的なものでしょう。「まわりの人に比べて劣っていたのが、人並みになった」のか、「自分の中で出しにくかったのが出しやすくなった」のかでも、どちらもあいまいです。高い声も大きな声も人間としての限度もあるし、その人の限度もあります。無限ではありえないのです。さほど使わないし使えなくとも、深さ、奥行き、余力、余裕としてある程度は必要です。
しかし、ビフォーアフターでみるなら、「前よりよくなった」で充分かとも思います。
その人の中では、トレーニングも、レッスンも、やると、やらなかったよりも大体はよくなります。相当きちんとやってからレッスンにいらっしゃる場合は、伸びしろが、それほどないこともあります。しかし、その基礎ができてから、することは無限に出てくるのです。
○「うまくなる」という目的の程度問題
英語を学ぶのに「先生について勉強したらうまく話せるようになりますか」と聞いたら、「必ずうまく話せるようになる」といわれるでしょう。学んだことのない人は、レッスンするごとに毎回少しずつ話せるようになります。そのことばは間違いではありません。しかし、ニューヨークに行って不自由なく通じるには、1、2年では無理でしょう。高い目的からみたら、全く通じないはずです。スタート時がどのレベルかで大きく違いますが。
声や歌も誰でもそれなりに使ってきて、経験しています。ですから、外国語の語学より複雑です。身近な例として日本語で考えてみましょう。日本語をもっとうまくなりたいと思ったら、あなたはどうしますか。混乱しませんか。話し方教室に行けばよいのでしょうか。日本語教師養成講座でしょうか。そこなら外国人に教えるための知識が学べます。相手の国によって教え方も異なります。一口に日本語といっても、漢字、故事成語、敬語・・・いろんな分野がありますね。
声も歌も同じです。あなたが何を求めるかで、トレーニングも専門も、やるべきことも進め方も異なります。
私は、このヴォイトレのビフォーアフターを、「『ヴォイトレをしていない声』が、『ヴォイトレをした声』になった。」ということで括りたいと思います。その要素のいくつかは、これまで述べた中に含まれます。でも、単に高い声や大きな声が出たから、ヴォイトレの結果が出たとか、ヴォイトレでできたというのは、おかしなことです。
○状態と条件によるレッスンのスタンスの違い
今の状態での調整(バランス)と、今の状態ではできないレベルへの条件の獲得(強化)というのは、全く別です。トレーナーの高声の発声のまねをしたら、すぐに出せるようになったというのは、調整にすぎません。多くは、脱力と共鳴点への集中テクニックです。その先へいくためのスタートというなら、よいでしょう。
そこでコツを得たつもりが、体や感覚の条件が整わなければ、それはクセとして表向きのやり方で、音を届かせるだけの発声をつけたということです。
レッスンとして教わるのですから、すでに教わったやり方でやるということがしぜんなことでないと考えるならば、副作用としてこのクセを許容してスタートしていくのは、悪いことではありません。
ただ、高い声を出すことが目的の人は、このことで目的がかなえられたと思い、このくせをスキルや技術(テクニック)と勘違いするのです。
元々、目的の取り方が「高い声を出す」というのがよくないというか、そんな副次的なものをメインとするところでおかしいのですが。
〇まねてうまくなることを疑う
歌をまねるのも、その人の体や感覚に着いていない形をトレーナーから表向きに移行し、植えつけただけだからです。
これらは皆、同じように上手になろうという学校教育と似た話です。ここで取り上げるまでもないことです。絶対音感に価値があると思って、そのための勉強することと似ています。先生にそっくりをめざす小・中学校の合唱団をみるとよくわかるでしょう。
日本人のそういう確からしいものへの好奇心は強いのです。検定や資格マニアも多いです。何の意味もないが、基準としてわかりやすいもの、その基準だけを単独に取り出せるものを他人と同じようにやりたいということです。ですから、スタンスの問題です。そういうことが、レッスンにおいても、意味を問わずに目標として絶対視されてしまうのです。
私はスタートは何でもよいと思います。そこから自分のものにしていく、身につける努力をすればよいのです。しかし、それがわからないから、こういう人たちは、さらに次の仮目標(この場合なら、もう1、2音高く音を出そう)に興味をもつのです。トレーナーもまわりもそんなことを評価し、ほめてくれるからです。外国語を、覚えた単語数で誇る日本人です。
もっとも大きな問題は、主体的になるレッスンで、そういう目先の効果を基準にすることで、他人(トレーナー)判断=価値観依存になってしまうことです。
○目的と現実問題を捉え直すこと
大切なのは、一音でもトレーニングした結果の声が出てくることです。つまり、トレーニングをして、「トレーニングしていない人には出せない声」にするということです。
高い声を出そうとしたら、簡単に出せる人がたくさんいるのに、できなかった人がそれを無理に出そうとすることに年月をかけていると、早々に限界になるわけです。できて当たり前、だからやらなくてはいけないということではありません。中途半端にできても、強みにならないということです。
カラオケの上達法は、今では、高音やファルセットをそれらしく使えるようにすることに尽きます。そこでもっとも簡単なのは声を弱めてマイクのリヴァーブに頼ることです。
しっかりとした声を身につけたいと思うなら、そういう目的には、あまり関わらないことです。弱めるだけでは結果として、あなた自身で本当の個性(個声)を出せずに終わるのを選んでいることになります。体から表現できるしぜんでパワフルな声の可能性は、眠ったままなのです。
絶対的に自分の声がトレーニングされていくこと、トレーニング以前と一声で、一聴きで違って聞こえるレベルにするということに一時、集中してみてください。それが私の考えるヴォイトレのベースとなります。
〇声の質
声域重視(特に高音)の考えは、向こうのすぐれた歌唱をする人のコピーからきたものにすぎません。現に、オリジナルのアーティストたちは、語りかけるようにもシャウトしても歌えているではありませんか。それなら、そのように歌える声の獲得が先でしょう。まず声の音色、次に声量は、ヴォイトレに入るなり、忘れてしまうのですが、優先することです。
目先の目的に価値をおくと、トレーナー自身も気づかないうちに、いやむしろ、相手のために親切に頑張るほど、トレーニングの大半の本当の問題を刷りかえてしまうことになります。
それがわかっていても、相手が求めるからと、対応しているトレーナーも少しはいます。対応すべきは、現実問題です。
何よりも一声を変える方が、声域声量などよりも大変だし、わかりにくいです。時間もかかります。わかりにくいのは、低レベルでの格闘だからです。
素人にもその違いは一声でわかる、それだけの声でなければ、どうしてトレーニングの成果といえるのでしょう。
鍛えられた声の見本は、CD、DVDにいくらでもあります。私は今、能、狂言、歌舞伎の演者に接しています。そこでの第一人者は声の質だけで第一人者です。
トレーニングされた声を示せるトレーナーが、少ないのが問題です。鍛えられた分、個性的で、アーティスト性を帯びるケースもあるので、そこはメリットとデメリットがありますが。
○体でみせる声の基準
欧米のヴォイストレーナーにも、声のよしあしでは二通りいます。少なくとも私は、声で示せないトレーナーのいうことはあまり信じません。声で伝えているのですから、能書きも理屈もいりません。そのようにして出来上がっている体、感覚はしぜんですから、簡単にまねしようありません。
そこでときおり、トレーニング中の人の声のビフォーアフターを聞かせていました。あなた自身の声(のど)とは違うので、そのままでは参考になりません。しかし、ヴォイトレを本格的に行うと、声自体が変わることは知って欲しいのです。
声の判断にも好き嫌いは入ります。私の声が嫌いという人もいるでしょう。私はいつも歌も声も学びたいなら、好き嫌いでなく、優れているかどうかでみることを勧めています。私は自らの声でそれを示してきました。優れているにもいろいろあります。よい声、心地よい声、タフな声、その他。
残念ながら、声の本質やその形成のプロセスをよく知るトレーナーはあまりいません。(外国人のトレーナーは、日本人については、自分たちがしぜんと獲得してしまった声の形成のプロセスを示せません。)
〇ベターからベストの声へ
声の深さ、息の深さの見本を私は、示しています。すぐにはまねられないから、トレーニングが必要なのです。
そんなことをしなくても素質と育ちに恵まれた声をプロレベルでもつ人もたくさんいます。そのようにできる人はそれを使えばよいのです。海外でも日本でも、ヴォイトレなしに一流ヴォーカルとなった人はたくさんいます。
私のヴォイトレは、一言でまとめると一流の声の持ち主のプロセスを凝縮したものです。そういう人は、私のヴォイトレを自分でしていたことになるのです。
トレーニングというのですから、負荷をかけ、それで器(体、感覚)を大きく、強くします。ヴォイス=声(のど)に負荷をかけるのは誤解です。のどの筋肉、呼吸筋、体の筋肉などを鍛えるのです。
急にハードに行うと壊しますし、副作用も出ます。そこはチェックしなくてはなりません。そこは一人では難しいです。自分で自分の声をみるのは無理です。だから、トレーナーとのレッスンなのです。
私はそれぞれの人に「今、調整して使えるもっとよい声(ベターな声)」と、「今からトレーニングして得られるもっともよい声(ベストの声)」があると分けています。現に、私のところのトレーナーも、俳優、声優の第一人者も、声は声としての完成度をもっているのです。(話し声も応用性に富んでいます)
学校の先生や医者、言語聴覚士、演出者、プロデューサーなどのいう、よい声は、「ベターな声」にすぎません。声自体は、「ベストの声」に値していない、一般の人と同じことも多いです。それはそれでよいのです。なかには、体やのどの弱い人もいます。
○動きの理解とトレーニングの実践は違う
いろんな器具やメニュを使って、発声のシステムをわかりやすく知ることはよいことです。それは一つの気づきのきっかけにすぎません。その後のトレーニングに結びついていないことがよくあります。
私は技法を教えるときと、実践としての実力をつける練習とは、分けています。レッスンとトレーニングの違いについても、きちんと知ることです。
トレーナーさえ、気づきのレッスン=トレーニングと思う人が多くて困ります。たとえば、私が既刊書で述べてきたように、「できる限り長く息を吐く」ようなことは、チェックです。トレーニングではありません。気をつけないと、それを使うと悪いくせがつきかねません。トレーニングでは、短く息をくり返し吐く方が実践的です。こうしたことも目的やその人の状態によります。無理やりにのど仏を下げさせたり、のど仏を押させるようなトレーナーもいますが、一つ間違えると、大変に危険なことです。トレーナーがついているときはトレーナーの意図によりますが。
ストレッチも使い方によっては、効果的ですが、そのあとにすぐに発声するのはよくありません。直後では、リラックスにはならないからです。こういったことは、たくさんあります。
○緊張とメンタルの問題
レッスンで緊張するのは、私はよい実践経験と思っています。ときにリハーサルのつもりで挑んでください。
しかし、これも目的と相手によります。極度に緊張しやすい人は、それにふさわしいトレーナーで始めさせます。そこでリラックスできるからといってうまくいっているのでありません。ケース別の導入(対処的)の一手法にすぎません。次の段階では、改めていくべき課題をそこに内包しているということです。
○トレーニングの完成と歌
完成というのは、どこまでのことを指すのかによって違います。歌がうまくなったのを完成とすると、トレーニングはそこまでのものとなるのでしょうか。歌がうまくなるというのは、どこまでかと考えると、わからなくなりませんか。あえていうのなら、歌もトレーニングも本人が必要とするところまでです。必要があれば限界もあります。
現実的な対処としては、意識的に集中的かつ部分的なトレーニングをするとき以外は、そのときどきの完成を歌に求めてチェックするとよいです。
一人で行うときは、よほどの確信がなければ、トレーニングのために歌がうまくいかないことが生じたとき、やめてしまいます。普通は生じるものですが、多くの人は、そこでうまくなることばかり求めるので、間違ったと思います。そしてバランスだけをとります。トレーニングにならないのです。発声について、初心者はトレーニングのセッティングの位置づけがなかなかとれないものです。
トレーニングはトレーニングとして、基礎条件をアップさせるので、体、呼吸、声を惜しまないこと、それが後で効いていると考えましょう。今の歌の完成度は別に問うてください。
〇基礎と応用
私はトレーニングは基礎、せりふや歌は応用としています。器をつくるのに鍛えて大きくするのと器の中で整えるのは違います。私の考える声の基礎づくりのためのヴォイトレは声そのものやその声の動き(オペラでの勝負どころ)に反映します。
しかし、現実のステージでの音響効果、加えて演出やパフォーマンス効果が大きくなりました。そういうステージ向けの歌を目指すと、声はその初期条件をつける、たとえば体から出る声を呼吸で完全にコントロールすることなどよりも、声の使い方や声に乗っている気持ちや詞の伝え方などが優先されるでしょう。発声もバランスや柔軟性の方が、声の動きもひびきの集約度が問われるでしょう。
ちなみに、カラオケ教室などでは、ヴォイトレといっても高音の共鳴などに一喜一憂しておわっていることが多いようです。それが悪いとか間違っているということではありません。そこから入るのはよいのですが、それを目的としては、そこまでになります。
歌を早く上達したい、上手に歌いたいというなら、そういう制限(限界)を早く作った方がまとめやすいのです。それがよくあるマニュアルですが、それで全てと勘違いしてしまうのです。
○トレーニングの目的
トレーニングはすぐに役立たないことを行うこと、そこで、できるだけ大きな器、つまり余裕をつくることです。形だけで左右されない実をつくる、その懐を深くすることが本来の目的です。
具体的には全力で歌っても、その声(たとえば歌)ですが、その限界を他人に見極められないようにするということです。それがその人の懐、奥行きとなります。さらなる可能性の暗示、ひいては見えない魅力となり、飽きられない表現力になります。不調のときでもカバーできる力(フォロー、余力)となります。
私がプロとのトレーニングで目指してきたのは、今すぐの歌唱力の向上よりは、こういう器づくりです。将来に大きな可能性が開かれてこそ、基礎づくりです。
出ない声を出そうと頑張るのでなく、出る声を完成させて表現しつくすことです。それができる声、呼吸、体づくりを目指すのです。
ですから、歌唱指導者の多くが、歌のために出ない声(特に高音)を届かせることを第一の目的としていたのとは、異なる立場です。
すでに充分に出ているとみえる声さえ、一流の声との差をみつめ、大きなギャップのあることを知ることです。まずは一声を、一音ずつ埋めていくことです。その中で繊細な使い方を知るために、大きく出せるようにしつつ、音楽的感性やフレージングを伴わせていくのです。
○見本をみせることについて
このテーマは意外と、大きな問題です。ケースによって大きく異なります。そのことを前提に述べます。私のやり方についての、背景となる考え方を語れると思うからです。トレーナーを多数抱え、全国のトレーナーの質問も受けている立場として、どこかで詳しく扱う必要を感じてきた問題だからです。
私の研究所では、見本をみせることについて、トレーナーに権限を与えています。どちらでもよいし、相手によって変えてくださいと。少々無理をすれば、レッスンでの見本の実状は、次のようになります。
a.いつも見本をみせる
b.ケースによってみせる(相手、メニュ、年月、分野)
c.特別なケースだけみせる
d.見本をみせない
邦楽やクラシックの人には、見本をみせないトレーナーがいるのは、信じられないかもしれません。ポップスや俳優、声楽家などでも、aのやり方のトレーナーは、dはありえないと思うかもしれません。私自身は、bとcあたりを中心に、グループレッスンなどの形態ではdでした。私の場合、音源もですが、他のトレーナーを使えるからということもあります。
私のレクチャーは話中心で、実習をさせる時間より、キィとなるところをみせていました。今の私はトレーナーをプロデュースする立場になり、実習の機会は少なくなりました。
年齢や声の衰えのせいではありません。多忙で体調が悪くなり、自分の声に不安を覚えてからは、自分のメニュを組み、リハビリをし、調子を取り戻しました。
歌わなくなったために、声が衰えた歌手出身のトレーナーを見てきました。歌に専念していたら、これほどにも声の力は低下しなかったでしょう。加齢のせいにみえるかもしれませんが、天性でうまくいってしまった歌い手ほど、声の管理はうまくできないのです。人前で歌う機会が減り、よくない状態になることが日本では一般的です。日本のお客さんの音声表現に寛容なことが裏目に出ているといえます。
○トレーナーの声の完成度と歌手との違い
私自身はトレーナーが常に完璧で、完全な声の体現をしなくてはいけないとは考えていません。私も常に自分の声を整備し直しています。邦楽の指導の準備もありました。
多くの方は、教えている人は、教えられる人よりもずっとすぐれていると考えています。声についてもそうでしょうか。歌や大声、高声、演出、伴奏などで、あいまいになっていませんか。
邦楽・オペラは、師や先生の元、弟子や生徒という、年齢もキャリアも実力もおよそ教える人の力よりも下の人が学びにきます。
しかし、すべてがそうでしょうか。一流のシンガーをみている欧米のヴォイストレーナーは、少なくとも、歌においては、そのシンガーに劣ります(何を歌というのかによりますが・・・)高齢のオペラ歌手が、全盛期のプリマドンナを教えるときに、声ではかないません。全盛期にも、その弟子以上にできていたとは限らないのです。
歌とヴォイストレーニングは、専門分野として違うのです。レッスンで教える関係、能力を見抜いたり、引きだすという関係は、多くの人が考えるほど、ワンウェイではないのです。
関脇止まりの親方に、横綱や大関の指導ができないわけではありません。比べものにならないほど難易度のあがっていく体操やフィギィアスケートの若い選手を、20年前の選手は、そのプレイができなくても指導できます。試合で活躍したことのない選手に、全日本の監督やコーチはできないということもないのです。
どんな分野でも本人ができることと、教えることは必ずしも一致しません。できなくともできる人よりも教えられる人も、できるのにできない人よりも教えられない人もいるのです。
〇プロヴォーカルとヴォイトレ
私のところに来ている、大ヒット曲をもつプロのヴォーカルは、「とても他の人には教えられない」といいます。私は彼を教えているのに、彼のようには歌えません。でも、彼は私に長くついています。自分は教えられないからと、新しい歌手を紹介してくれます。教える気がないのでしょうが、それも一流の歌手ゆえと思うのです。
私は歌手を目指す人には副業としてのトレーナーを勧めていません。結論からというと、一流となると歌手は、それゆえに教えられないという、相反するのが、ヴォイトレの分野とも思うのです。
ヴォイトレに携わる人の中には、歌手や俳優(もしくは元○○)兼トレーナーの人もいます。実経験は大切で必要なもので否定しているわけではありません。しかし、第一にメンタリティの違いがあると思うのです。
一部にある「トレーナーはプロの歌手、俳優の経験者でなくてはできない」という批判は、本筋を外れています。アスリートと両輪であるパーソナルトレーナーは、一緒にプレイするチームメイトとは違うのです。
私も過去、いくつかの大きなステージの経験があり、その感触が指導に役立ってはいます。プロとしてはもっと場数を踏んでいます。私は自分の歌やせりふでプロ並みの力がついたときに、自分よりもすぐれたプロたちのレッスンを始めたのですから、多くのトレーナーやカラオケの先生と始点が違います。
イマジネーションで理解するのに、プロの100の経験を1の経験でもって凌ぐ、100倍のイマジネーションがなくては、トレーナーは務まりません。
どんな分野にも監督兼プレイヤー(プレイングマネージャー)、演出家兼出演者、という人がいないわけではありません。プレイヤーは、弟子をとる人も多いでしょう。それが声の問題になると、かなり複雑になるのです。
他人の声を扱うと、自分の声にも必要のない負担をかけます。音大ではある程度のキャリアを経て教わると、音大生相手だから、やりやすいと思われます。本人の歩んできた道だからです。
○体から声を出そう
ヴォイストレーニングの中核は、「体からの声を出しましょう」ということです。体から声が出るというのは、その人が何かしゃべっているだけで、お腹から声が出ているのがわかることです。欧米人にはふつうの人でもそういう人はいますが、背中から声が聞こえるということです(背後にまわっても)。英語の発声を、聴覚を鍛えることから入るアレフレッド・トマティスのメソッドでは、その違いを明瞭にしています。
○研究所のジレンマ~理想と現実☆
充分な声が出ても歌やせりふは、一段の応用レベルです。しかし、そのベーシックな声が出ない人が多いのです。日本人にはほとんどいない、そういう声の発見と育成からスタートするのは、基本中の基本です。
バレエでいうと、一本足でまっすぐ立てるとか、片足が頭の上まであがるなどということにあたります。それができたらステージにバレエができるわけではないのですが、そうでないと何もできない、基礎レッスンで実力の差が一目でわかるということです。
次に、音楽的な耳のつけ方です。これは表現のうち、音声を聞き続け判断してきた私が基準とする耳の力をつけることです。一流のフレーズのメニュを聞いてコピーして身につけていくとよいでしょう。遅く始めてプロの耳に追いついた私だからこそ、そのプロセスが伝えられるのです。
考えてみれば、研究所は根本的な発声が、声優、お笑い、俳優、エスニックから邦楽と、しぜんな声(リラックスして響かせるなどというレベルでなく、体から伝わってくるように鍛えられ、吟味されたレベル)を求める人たちに支持されて続いているのです。
私と逆の価値観や立場もありましょう。私はそれにも大きな期待をしていたのです。しかし、どうもそれはかつてのカラオケや歌の先生のようなものとわかってきました。表面を変えるので速効性(楽に、早く、よくなる、すぐうまくなる)はあります。しかし、それゆえあるレベル以上に抜けていかないのです。
他を否定しているわけではありません。それでそのまま、それなりにうまくいく人もいます。多くの場合、気づかないうちにくせをつけてしまい、そこで限界となるのです。これを発声の根本からみるのです。
日本のポップスの多くの歌手は、このくせを個性としています。日本には、声が人と違う(一人ひとりが違うというレベルに過ぎない)ことで、オリジナリティとみられます。ことばやストーリーでもたせるステージがほとんどだったからです。
声そのものの育成、養成は使い方、あて方、抜き方、ひびかせ方などではありません。自分の音として楽器レベルでの音声をもち、演奏として自分の音を奏でるということです。あくまで完全な演奏能力を扱えるレベルでのオリジナリティであるべきというのが、私の考えです。そのメニュは「ハイ」で、半オクターブで、充分といえます。
速効性のある方法を、否定しているのではありません。名ばかりのプロ歌手相手に、現場でそれをもっとも求められたのは私だったからです。それに閉口して、無名の人が、一から学べる研究所をつくったほどです。
しかし、ここでもそういう要望が大半になってきましたし、今はさらにその傾向が強いのです。その結果今のように海外では通じそうもないヴォーカルばかりになったといえます。向こうを追いかけるヴィジュアル系での、日本独自という別のアプローチは音声で問うヴォイトレからスルーしてのことですが。
私は理想は理想として、現実には求められることに対応しています。ここのトレーナーは、もっと、一人ひとりの要望に応じています。
トレーニングはベースの声づくりです。しかし、相手の要望によって、柔軟に対応しているのです。一見、そうなると他のところと同じことのようでも、そういうことを知ってやるのと知らないでやっているのは、天地の違いがあるのです。
こういったことが区別できないレベルで行われてきたのが、ヴォイトレです。状況に合わせ、声の使い方、つまり状態だけを変えるために調整します。つまり基礎条件が身につかないヴォイトレです。
最近のヴォイトレの本をみたら、そのタイトルに驚きます。編集者は一般の読者の代表ニーズにそって、タイトルをつけます。それが本当に表面的なものになってしまっているからです。
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