« 第85号「ヴォイストレーニングの”ビフォー&アフター”」 | トップページ | No.339 »

86号 「トレーニングとしてトレーナーを使うことについて」

○守・破・離

 

 邦楽は一流の見本がある程度定まっており、そこへ到達するべき分野ゆえに、口伝、師の見本を有無もいわずに弟子がまねぶ、まねすることが勉強です。オペラはそうではないと思うのですが、日本では向こうから入った分、まねていく傾向が強いです。それはポップスにも通じます。未だ舶来主義が幅をきかせています。それでも守・破・離は一流への道です。しかし、できるだけまねして終わる=守を終えていく必要があります。

 

〇身につける

 

 ヴォイストレーナーが教えるものはそれぞれに定まっているわけではありませんから、少々強引に述べます。

 たとえば、呼吸法でトレーナーは自分の体を触らせ、同じようなことをやらせます。全く同じことはできませんが、胴まわりが大きくふくらむという事実を見て触っていると、イメージとして強く入ります。そこからそのイメージと現実のギャップを埋めていくために行なうのがトレーニングです。

結論として、トレーナーは、そういう体を相手に求めて、何年後かにそうなっていれば、トレーニングはうまくいったということになります。しかし、多くは、一時の体験で終わってしまい、身につきません。毎日、くり返して変えていく努力が伴わないからです。

 

〇体づくりの方向

 

 お腹をさわってまねるというケースだけでも、いろんな観点と問題があります。この例はまだ視覚と触覚で把握できるので、わかりやすいのです。それが「共鳴させてごらん」というようになると、個人差、体格や目的によってどこまで合っているのかは、客観的とはいえなくなります。もちろん、それはやむをえないことでしょう。

 少なくとも、体づくりのレベルでは、声に有利になるように器を大きくして、いろんなケースに対応できるように、できている人も、もっと余裕をもってできるようにしておこう、という方向で進めていくのです。こういう大きな目的が是非とも必要なのです。

 

○再現のための器づくり

 

 基本とは再現性です。同じことを何回行なっても、厳密に寸分の狂いがないということです。心身のもつ力を高めることと、感覚でよりよく取り込めることになります。そこで毎日のレッスンの質が高まり、安定してきます。

 強化というと、声量や声域のことばかりに思われますが、現場では耐久力が必要です。長時間保てる、体調の悪い時でもそれを影響させない、大きく狂いを修正できるという力です。

 今すぐにはできようのない体の支えを、レッスンや実践のなかで使おうとすると、歌唱、せりふ、表現どころか、発声のバランスさえも崩れてしまいます。使えないものは使えないのです。それを使おうとするから不自然になります。ですから基礎のトレーニングと応用を切り離すことです。

 

〇レッスンとレーニング

 

 レッスンは基礎にも応用にも、どちら側にも寄せられます。私はレッスンは、トレーニングのやり方やそのチェックを気づきにくるところで、トレーニングを行なうところではないと考えています。トレーニングは一人静かに黙々、コツコツ、繰り返すことです。

 呼吸法のマスターに5年、10年かかっても、そこばかりみていては、何もできないまま、すぐに年月がたってしまいます。やるべきことをやっても、あとはいつ知れず自分のステージ、つまり応用に対してしぜんに反映していくつもりでよいのです。トレーニングと実践(本番)は、スタンスも目的も異なるのです。

 

〇ヴォーカルアドバイザーとヴォイストレーナー

 

ベテラン歌手は、新人歌手にとって、トレーナーでなく、ステージ、実施、応用におけるよきヴォーカルアドバイザーなのです。同じ力をよりよくみせるのが、ヴォーカルアドバイザーです。

 私の考えるヴォイストレーナーは、トレーニングで力をつけさせます。その人の実力のうち、強いもの弱いものをみて将来の理想図をつくり、それに欠けている条件を補っていくのです。しかし、その理想図一つをとっても、本人もトレーナーによっても全く異なるのが、声という分野の最大の難関です。

 

○ものまねは即成法

 

 ヴォイストレーナーが何らトレーニングたるトレーニングを与えていないことが多いのが現状です。ヴォイトレといわれながら、ヴォイトレの定義もバラバラです。多くの目的は、「早く」「楽に」「うまく難なく」という、カラオケ上達法になっているのです。その代表が、先生が歌の見本をみせて、それをまねして近づけていくというレッスンです。

 これは、

  1. 早く上達する
  2. 早く上達するようにみえて、少し伸びて留まる。あるいは、限界を設ける
  3. 大して変わらない
  4. 悪くなる

 大体は、こういう方向のどれかになります。

 

〇即成法のデメリット

 

まねて似たら上達とする判断というのは、ある時期を限ってみると正しくとも、長期的には、正しくないケースが多々あります。

私自身ON BOOKS(音楽之友社)で出した「カラオケ上達法」は、演出面から入り、最後に基本について学ぶという構成にしています。

 表現やステージには形がありますから、収まるところに収まらないと、人はうまいとみません。そこにいろんな工夫がなされています。まねもその一つです。ステージや作品を持たせるための工夫や装飾が、トレーニングの本質を見誤る最大の原因となっているのは皮肉なものです。

 

〇まねられるのとうまいのと

 

 プロの世界をみて一般の人は、似たことができるとうまいと思います。ですから、形を覚えるのは、てっとり早い上達法です。振りや表情、音色やフレージングまでまねます。

 すぐに形でとれる人は器用な人で、そのまま楽に歌えます。

カラオケ教室に行って苦労するのは、うまくまねられない人です。それはコピーする器用さであって、漫画家でいうと、手先の器用さで本質的な才能とあまり関係ないのです。

すると、カラオケの先生はフレーズを短くしたり、もっと簡単なところから始めるようなアプローチ手法が考えられます。こういうケースでも、歌がもともとうまかった先生より、そうでなく努力して克服した先生の方が、いろんな手だてや経験を持って、細かくアドバイスしているので、教えるのがうまいものです。ただそれが、相手にとって本当によいか悪いかは別です。

 

〇メリットとデメリット

 

 何事も、メリットがあればデメリットもあります。大きいメリット=大きいデメリットと考えるとよいと思います。即効果大ほど副作用大、可能性を大きくとるほど、その振れ幅も大きくマイナスになることも多くなるのです。表現の大きさと同じで、発想と創造と納め方の三点がセットならないとより悪くなりかねないのです☆。

 ハイリスクの中でそれをローリスクにしていく学び方が求められるということです。

 大きなメリットをとれる自分にしていくとことです。余計に揺らし、自己解体へ自己崩壊のリスクをとりつつ、自らの本当を、芯をつかみ、あるいは植えつけていく必要があります。

それには、メリットやデメリットのワクを超える人や作品との出会いが必要です。デメリットをなくそうと努力するタイプのトレーナーでは、そこが見えなくなります。 

 

〇認めない人

 

少し上達して頭打ちになる人が多いのです。形がとれたところまでのうまさを例えると、音大の演歌やジャズみたいなものでしょう。ですから、叩きあげて創ってきた人、特にポップスを歌う人には、そういう基礎たるものの存在を認めない人もいます。

感性やフィーリングを重視する人などに多いようです。「どんなトレーナーも、自分が認めるレベル、欧米のアーティストあたり・・・とは限りませんが、には歌えないではないか」と心底、思っている人もいます。こういう正直な思い込みから考えてみるのも大切なポイントです。メニュや教える技術で判断してしまえるなら、トレーナーなどは、お絵描き教室の先生にすぎないのです。

 

○お腹から声がでる

 

 当初の私の立場に戻ると、体からしっかりと声を出すのと、マイケル・ジャクソンのように歌えるのは、レベルでなく目的が違います。(マイケルは、お腹からのシャウトもできる上で加工しています。)

 ヴォイトレなら、まず「お腹から声が出る」ように、会話レベルでもそういうことを一声でわからせる人かどうかを問うてみるとよいでしょう。レッスンしたという人もトレーナーにも、その条件を満たす人は、とても少ないのではないでしょうか。そんなことを条件にする必要はないという考え方がある上で、私は客観的にわかるストレートな基準として提示しています。

 

○ステージと環境 

 

 本人のトレーニングのために、より深く気づくための考え方やポイント、イメージを与えるのがレッスンだと私は思っています。少なくとも、ことばで伝えるのはそれが目的と思っています。

 私はCDもいくつか監修してきました。一つには、耳で捉えることを充分に学んで欲しいからです。

 目でみるとわかりやすい。しかし、早くわかる分、わかった気になる分、形をとってくせをつけやすくなるリスクがあるのです。

 ステージは、必要に応じて変わるものです。そのステージから直接、形でなく実となるトレーニングを学べる人は、特別な才能のある人といえます。そうでない多くの人に、私はレッスンやトレーニングの環境を整えたいと思っています。私自身も環境でありたいのです。必要以上にでしゃばりたくないと考えてきました。

 

○主役 

 

レッスンの場はトレーナーでなくアーティスト(となるレッスン受講生)が主役です。(私が実演より、監修、編集に重きをおくのは、トレーナーと受講生の関係をみるスタンスだからです。歌うなら歌手、演ずるなら役者、彼らの力を引き出すトレーナー、私は、そこでの関係をみる黒子です。)

 レッスンでも、トレーナー主体のレッスンよりは、受講生主体のレッスンであることです(本もCDも同じです)。

 もちろん、トレーナーが受講生を何とかしないと何にもならないという現場の状況もあります。

 しかし、何とかしようとすることは、あまりよいことではありません。何とかされたいレッスン受講生が多い現状では、本人が主体的になるのを待つ必要があります。そのために、その必要を知ってもらうことです。

 

○満足するということ 

 

 私は急がないこと、押し付けないことをトレーナーに求めています。

 トレーナーに受講生と考えるか、アーティストと考えるかによって大きく違ってきます。歌手の満足度は客の声、トレーナーの満足度は受講生の声によるのでしょう。でもただ満足でよいのでしょうか。その問題はとても大きいはずです。

 

  1. 受講生が自分の声に自分なりに満足する
  2. トレーナーが生徒の声に満足する
  3. 客が生徒の声に満足する

それぞれにどうよいのかということでしょう。

 

 aは、ビジネスとしてはよいでしょう。お客のニーズにトレーナーが合わせサービスする、CS(顧客満足)です。

 cは、ステージ、作品から考えるので、よほどの人でないと、弱点を隠し、今風に合わせてまねする形になりやすいです。プロデュース 演出家型といえます。

 b は、トレーナーによって、acになるスタンスもあります。あるいは、受講生によって、acになるケースもあります。私はbですが、acに、トレーナーに対話させることもあります。

 

○トレーナーの満足する声

 

 目的別なら、マイナスをゼロにする人には、a

 カラオケやオーディションなら、c

 それでは b のスタンスはどうなのかというと、

  1. 目的
  2. レベル(現状)

3.期間

4.回数

5.自主トレ

など兼ね合いで異なります。

 

少なくとも、 a b c が一致することは、かなり浅いレベルでしかありません。

a = c b のときは、トレーナー、不審になりやすいです。

a = b c は、メンタル的に弱い受講生と、やさしく丁寧なトレーナーが陥りやすいです。

b = c a は、旧式に多いパターンです。初心者や判断力のない、あるいは偏った受講生のときは、理想的です。今は受講生がすぐやめるので、あまり見られません。

 

○理想とする体制

 

 私は誰よりも多くのトレーナーと仕事を行なってきたと思います。そこで教育における伝承と創造について述べてみます。現在の研究所は、私の代替や補助としてでなく、私にできないことのできる能力のある声楽家を集めて、多くの要望に対応しています。チームとして対応できるように、二重、三重の構造にしています。

 これは、受講生にまねることのよいところと悪いところを区分けできる力をつけるためにとてもよい結果をもたらしています。できるだけよい影響を与えられるようにするのに、私が最終的にたどり着いた体制です。

 

○万能対応

 

 いかに天才的なトレーナーが一人いたとしても、その才能の恩恵が受けられるのは、1万人に一人か二人でしょう。残りのほとんどの人には却ってよくないでしょう。100人がそのトレーナーを求めるとしたら、オーディションで10人に絞って、自分の教えに合う人を10分の1くらいで選んで、受け入れるとよいと私はアドバイスしています。そんなに恵まれた人選ができるようなトレーナーは日本にはいません。しかし、私は、ようやく10人以上のタイプの違うトレーナーをそろえました。つまり、計算上は万能対応です。

 

○グループレッスンの経験

 

 私のところでは、以前は養成所としてのクラス制だったので、上達するとしぜんと上へ残っていけるような形になっていました。それがレベルや実力と比例しなくなってきました。そこで生え抜きのトレーナー、育成していたトレーナーに加え、何人かは外のトレーナーをお願いして客観性をもつようにしていたのです。

 グループレッスンが中心でしたから、トレーナーの個人的な影響はそれなりにとどまっていました。それでも、その影響下に入ってしまう人も少なくありません。本人は伸びているように思っても、そのトレーナーの半分にも満たない力もつかないのです。

 これは、一人で教えているトレーナーのところで常に起こっていることです。私のところは複数のトレーナーから、選べたので、大分、害は防げたのですが。

 そこをなぜ問題視しないのでしょうか。本当にすぐれた一流のトレーナーがいるとしたら、自分のかけた年月で、少なくとも自分より上のレベルに育てられることが証明でしょう。かける年月(時間)が半分、要する努力が半分で、そのトレーナー並みの力にできるなら、まあまあのトレーナーです。多くのトレーナーはそれ以下の実績となるわけです。

 

○自分のようにしない

 

 なぜ、多くのトレーナーは、「トレーナーである自分のように相手をする」という目的には疑問を抱かないのでしょうか。教えるというスタンスになって、弊害が出てくるのです。先輩(小坊主)の教える害というものです。身近な人が教えるのも、こういう点で考えると、メリット以上にデメリットがあります。

 私はトレーナーをミニ福島のようにさせたくないので、具体的なメニュや方法は、各トレーナーに任せています。ここにいると私の影響をうけざるをえないので、意図的に切り離すようにしているのです。

 一般的には、カリスマ的なトレーナー、第一人者は、トレーナーにも自分と同じようにすることを求めます。組織的には、同じプログラムで同じ効果を保証しようとして、当然、そうなることかもしれません。しかし、そうして日本では声において効果があがってこなかったのは、事実なのです。トレーナーがそこのトップアーティストをコピーさせるところでも同じです。

 私は、声の育成に関しては、トレーナーだけでなく、宝塚歌劇を含め、音大や合唱団、劇団、プロダクションなど多くの機関とそのカリキュラム、成果をみてきました。そこでとてもよくわかりました。

 当初、私は声楽には否定的で、役者の養成所を立脚点にしていました。その代表のトレーナーでさえ、育てられていないのをミニトレーナーに分担させるのでは、結果がよくないのは明らかです。

 

○組織づくり

 

 私の組織づくりは、これまでの日本では特別だったのでしょう。おわかりでしょうか。いらっしゃる人をメインに、それぞれが何らかのスペシャリストとしてのトレーナーを必要なだけつけます。目的や時間、費用の制限内で思うようにいかないことも多いのですが、月に48コマでも、複数のトレーナーにスタッフと、ときには私も合わせて4名以上が入ります。多面的にみるためです。

 

 このあたりはグループレッスンで、利用しまくると10名ほどのトレーナーすべてに教わることができた頃と変わっていません。グループでは個人差に対応できないこともあります。かなりの主体性が参加者に求められました。

 今はそれぞれのトレーナーが生徒別に考えてレッスンをまとめ、プロセスや結果を共有しています。それできめ細やかに対応できます。こういう力は400名近くをグループレッスンという同じカリキュラムで10年以上もみてきたからこそ、できるようになったのです。

 

○引き受けない、わからない

 

 トレーナー一人で行なう場合や、すぐれたトレーナーの元に同じ教え方で統一して教える場合、リスクを避けるため、合わない生徒は引き受けないという判断基準をもつことです。私はそうしているトレーナーを少数ですが知っていて、敬意を払っています。

 私自身も当初はそういうことが、わからなかったのです。経験を積み、失敗をフィードバックし、それを防ぐように考え、改良するのです。この繰り返しによって、ようやくわかってくるのです。

 多くのトレーナーにはそういった基準がありません。実績がない人ほど、誰でもよく伸ばせると、確信しているように思えてなりません。

 人の実力を伸ばすというのに、声については、どの程度かも、トレーナーのみぞ知る、いや、知らないというようなあいまいなものが大半です。誰かに言われないと気づくこともないのかもしれません。

 

○本質把握

 

 知識や肩書、あるいは人間的なコミュニケーションでカバーしようとするトレーナーは、気づくことがありません。本質を観ていないからです。

 本質を観ていたらメニュも方法も、毎回、相手別にも変わり、進化するものです。体制も組織も次代に対応して常に変革せざるをえないものでしょう。

 その上で変わらないものがあるのです。それを私は基準といっています。これは、一番ベースのものが不変で、レッスンの中では毎度変わる、つまり応用されていくのです。

 自らの声を変えることを他人の声を変える前に徹底して行い、声ということをとことん知ることです。自分の限界がみえて初めて、他人を使うことも、他人に対して、どのくらいのことができるのかもわかってきます。声の力を伸ばすというのに、声自体の目標の程度が低いというより、曖昧なのは、ずっと気になっています。

 

○演出家とヴォイストレーナー

 

 演出家やプロデューサーでヴォイストレーナーをやる人は、よい素材(人材)を選ぶ立場にいます。私がトレーナーをやり始めた頃もそうでした。今もプロの人がいらっしゃることがそうなのですが、反面のどに恵まれない人、障害をもつ人も増えてきています。こちらの条件を了承していただいた上で、一緒に取り組みます。常に研究、実験ということでは、どんな人にも共通するのです。こういう人は本当の基礎のさらにもう一つ下の根本を変える必要がある場合が多いのです。メンタルやフィジカル、自信、姿勢、生活習慣など。しかし、ヴォイトレにはもっとも大きく早く変わる可能性があります。

 プロとのトレーニングでは、元々自分とは、異なる歌やせりふの才能をどう使うかの立場で入ることになります。オーディションなどでよい声、うまく歌える人をとるところからスタートできます。トータルとして仕上げるというケースなら、声に頼らずということも考えます。他の才能で補ったり、声の見せ場を限ることで早く舞台で通じるようにできます。

 歌手であれば、自らが身につける基準については、作品ごとにおいて行えばよいのです。日本ではもっと基本を身につけて欲しいと思います。その人の声の可能性より限界を示した方が早く役立つのは確かです。

 

○バランス本位の日本

 

 演出家やプロデューサーは、声、歌においてというよりは、表現として客に働きかける力を見抜いたり、引きだすプロです。ただし、歌や声としては専門外ともいえます。私たちのような音声の関係者をおくことがあります。演出家やプロデューサーとしての力量と経験が相当にあることが、人を見抜いたり育てたりする前提です。それもできていないようでは問題外です。

 世の中に出て、世の中で勝負し、通用しているなら、それなりに鋭い感覚があります。それを声や歌をみるときに応用しているというところと、これまで優れた人と活動してきたという経験において、私はアマチュアのヴォイストレーナーよりは彼らを高く評価しています。しかし、その自信が、声に限っては裏目に出ていることも少なくないのです。

 日本の場合、声には個性よりもバランスがみられがちです。

 彼らは、自分を手本にまねをさせません。そこに価値のないことを知っているのはよいことです。学ばせるのは、一流の作品で一流のプロを紹介していることが多く、これは評価できます。

 声については、自分でやってみせて、まねをさせて学ばせることは、なかなかできないからです。ときにそういう人もいますが、大体は、持って生まれて恵まれていた分だけは自分の声を鍛えましょうというレベルで行っています。イメージで伝えるための伝えることばももっています。応用が効くし、実践的です。

 デメリットについては、彼らの求める舞台の世界観や価値観が優先するということと、声に対しての基本の浅さです。相手の潜在的な能力を認めて伸ばせるほどは広くないということです。この点では、歌手出身のトレーナーと重なるところがあります。選別眼の方が働くので、プロ志向でかなりの素養のある人でないとなかなか難しいです。あるいは全くの素人や初心者向けです。

 

○教わるだけでない

 

 何十人くらいしか、しかも短期に接したことのない若いトレーナーが、どこかで学んだだけのやり方をずっと変えずに行っているようなことを見るにつけ、本人がもっと学ぶべき必要を感じるのです。ここにもトレーナーが学びにいらしています。大切なのは、教わることでなく、イマジネーションと創る力をつけることです。

 劇団のワークショップのようにアマチュア向けのものでも、体験してみるのはよいことです。楽しいメニュのオンパレードと表面的なチェックでも、心身の解放の体験ができたら第一歩です。問題はその先の方法のないこと、そして見通しのみえにくいことです。

それでも声について、いろいろと感じるには有効だと思います。トレーナーに教わる前に、自分の体・心・声を見直したり、気づく視点を得られることもあります。理論より実践型が多いので、うまく巻き込まれると、思わずハイレベルな声を実感できることもあります。

 

○声の鍛錬のプロセスについて

 

 声優や役者の養成所から、ここにいらしている人の多くは、同じような体験をくり返しています。声についての課題だけをいわれ、具体的な処方箋を渡されないのです。

 「声を大きくしなさい」で「どう大きくしていくのか」を知らないし、トレーニングを行なわないのだから、変わらないのです。

 「もっと練習しなさい」では、何をどのくらい、どのようにしていくのかわかりません。そういうことに大雑把な、一般的なメニュはありますが、今のあなたの問題への具体的な解決策が必要です。その見通しを得るのが、私の考えるヴォイトレのレッスンです。

 

 それを解決するのが、ここのヴォイトレというと、どんなこともすぐに誰でもできてしまうように思われてしまいますが、できることもできないこともあります。時間のかかることや、やってみないとわからないことも多いのです。

 しかし、可能性を広げていき、限界までやって限界をみて、その克服法も研究し得ていくのです。その力をつけていくために必要なのが、私の考えるヴォイトレのトレーニングです。

 

○似ていると学びやすいが・・・

 

 現実的な問題として、性差やパートの違い(テノール、ソプラノなど)をどう考えるのかです。学ぶのに先生の得意なものを選ぼうとするのは、当たり前です。しかし、そうでないものやそうでないときは学べないのかということはありません。

 人情噺は得意でない師匠なら、それが得意な師匠から学ぶ。ピッチャーならキャッチャーである監督でなく、ピッチングコーチから学ぶ。というのは、もっともわかりやすい例えです。しかし、声については何とも答えにくいです。

 似ているほど早くまねしやすいが、大体は、くせやまねるとまずいところからうつるもので、学んだあとにそれを取らなくてはいけないことが多いのです。そこに気づける人はほとんどいないのです。その師匠がもっとも教えられないことだからです。

 似ていないと、まねもしにくいし、学びにくいかもしれないが、もし学べたら表面的なまねでなく、本質的な基礎が入りやすいということです。

 

○まねるリスクを減らす

 

 ソプラノでしたら、ソプラノの先生なら、そのまま丸写しのようにまねしやすいでしょう。ところがバスの先生では、出てくる声は全く違います。だからこそ、呼吸法や体の支えなど共通しているところに、発声の基本的な原理まで踏み込んで学べるとしたら、得られたときの完成度は高いということかもしれません。

 私のところでは、トレーナー二人以上につきなさいと勧めています。極端にいうと、二人の見解の分かれるところをどうするかが肝です。まねて生じるクセを許容しつつ、いずれはとらなくてはいけないと知って学ぶのと、区分けできずに学ぶのは違います。

 歌でも一人のアーティストだけを見本にとるのは、二人以上のアーティストを見本にとるのに比べ、圧倒的にものまねになるリスクが高いでしょう。それと同じです。

 

○効果と副作用

 

 私は、トレーニングは効果的なところほど、たとえば早くとか大きく変わるところほど、副作用も大きいので、気をつけるようにと、言っています。これはトレーニングでミスを恐れ、大きく変えるな、ということでなく、ミスを恐れず大きく変えてよいが、そのあとにきちんと整理してミスを最小に抑えるようにということです。表現として何かをやるのはよいし、やるべきですが、いずれそれなりの形で納めなくてはいけないのです。

 逆にいうと、あらゆるミスはトレーニングで行ない、心身で知っておくことです。そのためにレッスンがあります。

 

○ミスを出しつくす

 

レッスンを上手にこなそうと思ってはなりません。そこで大切なことは、あらゆるパターンのミスを出し尽くしていくことです。そうしたレッスンこそが大きく気づき、本質的な判断力を磨いていく最大の機会だからです。

 独りでのトレーニングは、ミスを恐れないとなりませんが、トレーナーがついているレッスンは、ミスへチャレンジするつもりでよいのです。

 調子が悪くてもひどい状態でも、レッスンでその処方を学べばよいのです。いくらミスをしてもよい、大きなミスをしましょう。そこからミスを知り、本番で対処できるようにしていけばよいのです。同じミスをしてもかまいません。同じレベルでしないようになっていけばよいのです。本番でミスしないためです。

 

○気にせず、記録する

 

 「ヴォイトレに効果があった」とか、「あまり変わらない」というようなことも、その時々だけで判断すべきでないこと、よくわからなくてもよいということがわかります。

 自己評価や自己満足、充実感も不安やスランプも、気にすることもないのです。ただ、いつも自分なりにきちんと記録しておくことです。より高い水準で自己反省、省察できるようにしていくプロセスの大切さをわかってください。

 トレーナーに教わるのではありません。トレーナーはあなたが実力をつけるために使えるヘルパーです。ですから、何人かのタイプの違うヘルパーがいる方がよいと思います。

 

○トレーナーもサンプルの一つ

 

 私は見本については、

1.一流のものをたくさん見聞きすること

2.できるだけ複数のアーティスト作品を入れ、その共通点を知り、体得していくこと

3.その相違点から自らのものを創造すること

その継続をお勧めしています。

 

 トレーナーについては、すべてといいませんが、どこかが一流(一流と共通)と思えば、そこを盗めばよいのです。思わなければ、まねなくてもよいと思います。最初は、トータルとして優れている人より、一つだけはずば抜けている人に複数つく方がずっとわかりやすいです。

 とはいえ、こういうことにはすぐに判断しがたいことがたくさんあるのです。学べるようになってください。

 

○判断力をつける

 

 自分の声を変えたいのなら、自分の耳や、判断力が変わらなくてはなりません。ただ、変わるのでなく、すぐれるように変わらなくてはなりません。

 日本ではやり始めてから判断力が劣っていく人が後を絶ちません。トレーナーに頼り、ものまねで、表面的に伸ばそうとしていくからです。それでプロのように扱われてしまうこともあります。そういう判断をする力のある人がいない、そういう人材層の薄さが問題です。プレイヤー、トレーナー、プロデューサー(演出家)に接していても悪循環から、抜け出せないどころか、音響やステージでの補助技術の強化で、劣化していきます。

 一流は何かということを一流のものから学ぶのが不可欠なのです。一流をめざしても、なかなか二流にさえなれないのに、なぜ皆、安易に手近なものをそっくりまねしようとしてしまうのでしょう。

 まねをするなら、呼吸や発声など一流の要件を満たしているものに限定します。それを部分的に集中して強化する目的でやることでしょう。この点では、ヴォイストレーナーの発声に限らず、歌のコピーでも、注意する必要があります。

 

○鑑賞とコピーについて

 

 鑑賞については、自分の外にあるものを取り入れるということです。それは、ステージやYouTube(ネット動画)、教材などについても、共通することです。

 大きくリソースを、a)アーティストもの、b)レッスン、トレーニングものと、分けてみます。

 レッスンやトレーニングについては、いろんなものがあるので、その位置づけをはっきりさせます。1.本、2.通信教育、3CD教材、4DVD教材、5.レッスンでのトレーナーの見本などがあります。それぞれの目的や内容によっても、大きく違います。

 

○部分的に集中する

 

 レッスンには、

  1. トレーナーや歌手が全て(一曲フル)を歌う
  2. トレーナーや歌手が一部を歌う
  3. 生徒が全てを歌う
  4. 生徒が一部を歌う

などがあります。

 

 全コーラスを歌ってこそ歌というものですが、レッスンというのは、部分的に切り取り、集中してそこで直します。だからこそ、わかりやすくステップを踏んで直せるし、効果もあるわけです。

 これは、違いに気づかせやすく、近づきやすくするのです。そこからみると、トレーナーが(あるいは歌手が)、生徒が歌いにくいところを歌ってみせて、まねさせているというレッスンは、そのよしあしは別として、レッスンらしいレッスンといえます。

 

○ヴォイストレーナーの不在

 

 昔は、芸事の伝承は口伝(もしくは一子口伝)でした。作品が記録できなかったから、その形全体を知るためにも、題材の知識を得るにも、弟子入りが必要でした。それが、出番やデビューまで(家元制やプロダクションの問題にも関わる)の下積みにもなりました。ところが今や、種本どころか師匠や先生の名人芸まで動画で、見られるようになり、大きく変わったのはいうまでもありません。

 歌をプロデュースした人から、その楽譜や歌う権利を必要としたときは、レッスンを作曲家が行なっていたのです。

 私のところでも、以前は、歌は作曲家に教わり、声は声楽科にヴォイトレにいくというパターンもありました。今はプロデューサーやアレンジャーが歌担当になりますか。それはトレーナーというよりは、伴奏者やサウンドづくりとしての役割が大きいと思います。

 

○天性の才能とヴォイトレ

 

 歌や芝居には、その人の半生が入っています。声も経験してイメージしたものが出てくるのですから、誰も歌や声に関して、本当は初心者ではありません。それゆえ、逆に難しいのです。

 誰でもできるものだからこそ、選ばれるには難しいのです。ならば、創ればいいというのが私の「アーティスト論」です。

 「十代で何のトレーニングにも通わず、プロになれる人がいるのは、歌手と役者」と、私はいつも言っています。そういう人のヴォイトレと、そうでなかった人のヴォイトレは、違います。前者は、少し修正すること(応用)でスタート(プロ活動)すべきです。根本的な基礎の多くは現場での経験で入れていきます。ヴォイトレは、そこで行きづまってからスタートです。

 アーティストや作品から気づく力にすぐれていることが肝要です。ちなみに、声そのものよりも、声の持つ力を発揮する力の方が問われます。

 プロでも一部の人は本当の基礎力をつけたいと言っていらっしゃいます。より早く(といっても、24年以上)トレーニングして、声を強化していくのです。

 

○条件を変えたいなら

 

 早熟デビューでなかったタイプにも、器用ですぐ歌えるタイプと、不器用なタイプがいます。

 私のヴォイストレーニングに限っていうと、すぐれた人がよりすぐれようとする場合と、人並みの力がない人が人並み以上になろうとする場合が多いです。

 たとえば、劇団四季の主役級の人がブロードウェイに挑戦するときは前者、のどの弱くて人並みに声が出ない人が声をよく使う職を目指すようなときは、後者です。

 私のところでは、舞台で生で通用する音声の基礎力をつけさせることを第一のモットーとしています。

 声は日頃使ってきたものだけに、本当に変えるのなら、大変革を起こさなくてはなりません。根本的に変えようとしないと、条件から変えないと通用するに至らないということです。生きてきた年月がキャリアですから。

 通用させるにも、通用しやすい調整を主として入るのと、根本的な条件から変えるのは、一見、方法が逆です。これこそが、私のヴォイトレのレッスンでもっとも誤解されやすく、混乱しやすいところです。

 

○調整と条件の分かちがたい関係とトレーナーの問題

 

 極端にいうと、状態の調整は高い声で「ミャー」といいなさいとか、鼻に響かせなさいと、その場で初回から気づかせる方法をとります。条件は、走って体力をつけなさいというようなものです。どう声に関連するのか、本人はすぐにわかりません。しかし、これもアプローチの違いです(私たちは、どちらも併行しています)。

 前者はのどを開く、後者はのどを鍛えていくみたいなことになります。調整と強化トレーニングの違いです。とはいえ、どんなレッスンにもその両方が入っているので、混乱しやすいのです。

 トレーナーや生徒によっても、その配分は違います。目的や方法やレベル、もっている条件によっても違います。捉え方や言い方で違うこともあります。生徒の受け止め方でも違います。同じレッスンでも、二人のトレーナーが同じことをすることはありません。私のところのトレーナーは、自分の実感に基づき、アレンジします。それはセンスというような問題です。

 

○前提を整える

 

 「走れば声が出る」というのがトレーニングというのは極端ですが、そういうことが、発声をよくすることはよくあります。寝ていない人なら、充分な睡眠、病気なら、それを直すのが、トレーニングの前提となります。声は、のどや肺や呼吸筋など、体に支えられているのですから当然です。ですから、徹底した体の管理が前提です。どんな方法であれ、調整しつつ、鍛えてはいるのです。

 たとえば、頭部の共鳴から入りつつ、それが胸にまでつながり、呼吸も深くしていくというのも、呼吸を深めて胸から頭へ共鳴しやすくしていくのも、逆のアプローチのようで、同じ目的です。

 

○同じにしたいトレーナー

 

 日本人の気質としては、学校のように誰もが同じようなプロセスで、同じように習得でき、同じ程度にこなせるようになるという思い、確実に人と同じになりたいという思いが強いようです。

アーティストは誰でも同じようになり、同じにようにこなせるとはなりません。表現でなく、学習をしたいのです。これらは協調性の強い合唱団などに顕著にみられる傾向です。

 トレーナーという職を選ぶ人には、こういう学校の先生タイプが多いのです。ほとんどのトレーナーは、平均以上ののどを持ち、うまく歌えた人が中心です。だからといって、それ以上の個性も表現できなかったともいえます。

 一方で、弱点から克服してきたトレーナーもいます。個性豊かで幅も広く深く、人を長期的に育てられる力のある人もいます。竹内敏晴氏などがそういうタイプでした。

 

○トレーナーを目標としない

 

 一言でいうと、一流のアーティストから気づき、声を鍛え、自ずと上方へ修正がかかっていくのが一番です。トレーナーはその人自身がこのようなことを気付く可能性を信じて、安易にやり方で教えてしまうことで邪魔すべきではありません。これが私の理想とするレッスンです。

 私のようなトレーナーは踏み台であり、目標とすべき点ではない、と思っています。それゆえ、私の凡たる力の中に、相手をとどめてはいけないというスタンスの取り方です。

 そこで、私は私以上のレベルの人を引き受けられるのです。こういうことはできない人や、できる人にはわかりやすいのですが、器用にできる人には通じにくいようです。誰かのようにうまくなりたい人、誰かのような声を誰かのように出したい人には、理解しにくいのです。その先鋒が案外とトレーナーであるのは、困ったことです。

 

○トレーナーの個性のよしあし

 

 レッスンの場を、学校のような教育と考えるか、アーティスト養成と考えるかでいろんなことが違ってきます。私はトレーナーにも多様性と個性を望みます。そのために複数トレーナー制にしたともいえます。私自身が表現を説くと、私の個性も出ざるをえません。そこで、一人でやるのを断念したいきさつがあります。

 一般的に考えて、皆さんの意思で選べるという師というのは、個性を出してよいと思います。生徒から選べないという学校の先生は、あまり個性を出さない方がよいのかもしれません。そういうことでは、日本の合唱団の先生には最も理解していただけないかもしれません。ただ、世の中の誰よりも私と考え方の一致するのが、その代表といってもいい合唱団のある先生だったというのも不思議ですが・・・。

 キャスターやDJとアナウンサーとの違いのように、そこは似て非なるところが大です。こういった二つの分類は、私の発声に必要とされるものの区分にも共通しています。つまり、個性ある声と上手でうまい声との違いです。

 

○エリートの育て方

 

 言い換えると全員を平均点にあげるのと、一部のエリートをトップスターにするのとは、考え方が違うのです。

 日本は戦後、本当の意味での(心身、体の)エリート教育を捨ててしまいましたから、こういうことがわからない人が多くなりました。誰もが平等、同じ実力、同じ評価というのを、芸にまで持ち込みかねない風潮です。

 たとえば、プロからアマチュアの指導に降りてくる人には、プロだったゆえにやさしい人がとても多いのです。ファンサービスの延長上に、よい人と思われるように振る舞います。結果として、プロには絶対になれないように指導してしまいがちです。これは仕方がないことかもしれません。

 私の知人の黒人トレーナーは、日本人にはやさしく、同じ黒人にはとても厳しくレッスンしていました。日本人に好かれることが第一だったかもしれませんし、生計がレッスン料によっているという現実の問題もあります。

 

○グレートということ

 

昔、プロや先生というのは、初心者や一般の人にはやさしく、内弟子や見込みのある人や同じプロには厳しくと使い分けているものでした。厳しくされるようになったことがプロへの道の証と思ったものです。同時に冷たく遇される、つまり同じ道を行なうもの、同業者、ライバルとなったのです。

 海外で一流のトレーナーがやさしくレッスンしてくれて、とてもほめてくれた「Great!」の連発だったなどというのは、アーティストやビジネスレベルでなく友好コミュニケーションのレベルです。日本の大手の英会話学校で外国人講師につくとよくわかります。

 

 レベルの低い日本だからこそ、海外で改めて、トレーニングのプロセスやノウハウを評価されることもあります。私もときにそういう動きに引っ張られて行くことがあります。そこでは客観かつ冷静に処するようにしています。現実にはトレーナーも、バンドのメンバーも日本のプロ歌手より声がしっかりしているのです。

 

○イエスマン

 

 トレーナーが個性的で、アーティストであるときの弊害は、そのファンになったり、ミニトレーナー化するケースです。

 私は日本のすぐれたトレーナーが、そのトレーナーが好きな人ばかりの中に埋もれ、新たな才能を伸ばせなくなったのをたくさんみてきました。これは、トレーナーに限りません。それゆえイエスマンに囲まれる裸の王様にならない努力もしてきました。たとえば弟子を自らに敵対させて乗り越えさせるというのは昔よくあったやり方です。私は歌手でないので、棲み分けができたので、対立はしないのですが。

 もっとも高いレベルを求める人でなくては、こういうこともうまくいきようないのです。

 

○世界との接点

 

 とても難しいことでしたが、確かに一時、私のグループレッスンにおいて、声で世界と接点のついていた時期がありました。90年代前半までのことです。

 私も30代で今思えば、まだまだそこからを活かせませんでした。

 私自身を世の中に問うことに生きていたので、背中で語るしかないときでした。今もその頃のメンバーは何人かいます。ゼロからモータウンレーベルのように築こうと思っていました。それからの経緯は、歌そのものの変容によるところが多く、今だ総括して語り切れません。

 トレーナーが生徒さんと仲良く「ちいちいぱっぱ」をやるようなものをみていた私としては、トレーナーという名称さえ使わなかったのです。今から考えると、孤軍奮闘の芯のあるトレーナーも少なくなりました。日本で先達を乗り越えようという意気込みがあった最後の時代を私は拾っていたのでしょう。

 

○内制化ということ

 

 外にある見本によって、自らに内制化できるのかということに入ります。アーティストもトレーナーも、歌や芝居もその一部のフレーズ、トレーニングメニューもすべて、自分自身の外にあることについては同じともいえます。

 ヴォイトレとして取り出し、そこにレッスンとして本番ではできないプロセスをおきます。

 方法やメニュとして断片的なものを用いるからこそ、うまくもいくし、ややこしくなるのです。トータルではなかなか学べないから、部分での完成度から徹底するということを突きつめます。声で一声、歌で一フレーズをとことんまでやるのです。

 ヴォイトレとして、ヴォイストレーナーがやるからこそ、ややこしくなるところがあるのです。そこはきちんと位置づけしておき、あとで挽回しなくてはなりません。そうでなければ、その人の才能を活かせず、混乱、埋没しかねないからです。

 

○トレーナーはどこまで関わるべきか

 

  1. 声や声のための体づくりにだけタッチする
  2. 表現や仕上げまで関わる

 大別して、2タイプのトレーナー、トレーニングする人がいるわけです。

 aはフィジカル(パーソナル)トレーナーやマッサージ師、医者のようなものでしょう。日本でヴォイスティーチャーやヴォイスコーチでなく、ヴォイストレーナーという名称がつけられたのは、そういう役割分担だったのかもしれません。

その割には、ヴォイストレーナーはヴォイスのトレーニングではなく、歌い方やせりふを教えていることが多く、基礎について徹底していなかったのです。今は逆に体や声の知識が過剰になり、そのためメニュや方法だけが一人歩きして、声そのものが力を発することができないようになりつつあります。

 

○教えるプロとしてのトレーナー

 

 日本も現場が厳しくなくなったせいか、長期的な視野でみるトレーニングの必要性を感じない人が多くなってきたのです。ヴォイトレする人が増えているのは、盲目的な依存化とさえいえます。

 カウンセラーなどの世界と同じく、ヴォイストレーナーも他に何もできないから(声がすぐれているとか学んできたというならよいのですが)、これしかなかったという人と、他の事にすぐれていて、参入してきた人がいます。

 後者は声での経験は浅いかもしれませんが、何らの表舞台での実践経験は豊かで、教えることにキャリアのある人です。勘や気づき方、伝え方に長けているので、生徒も心を奪われやすいのです。

現実に世の中でやれている人につきなさいというのが、私のアドバイスの一つです。鋭くなっていくべきレッスンで、鈍くなることこそ、最大に恐れなくてはならないことだからです。

 

○トレーナーの選び方の本質

 

 私は、トレーナーについても、舞台の経験を重要としてみています。目的実現のためのヴォイトレでありたいからです。目的が健康やストレス解消、アンチエイジングでもOKです。そういうトレーナーもいます。それも含めて私はトレーナーには、世に問うているプロの人に対応できることを求めています。私より目上のトレーナーもいるのです。

 目的がその日にトレーナーがサジェストしたらやれてしまうくらいのものなら、トレーニングというのに値しません。私は十年以上の下積みを通して、声をものにするということがどれだけ大変かをそれなりに知っています。それを人に伝え、変えていくことは、今でも大変なことと思っています。

 

○その日の効果

 

 私も、その日に効果を上げるように求められることが少なくなかったのです。すべての対象に応じるとなると、劇団のワークショップのようにメンタル面の解放や心身のリラックスがメインになっていくものです。

だから、ワークショップなどで評判のよいやり方もいろいろと知っています。それが得意なトレーナーもいます。多くのヴォイトレでは、そのときのリラックス声がベスト、目的です。私にはそれは初めの一歩かそれ以前なのです。セッティングして効果が表われると、自信ややる気をもてることで、声が変わるのは確かです。このすぐにみえるのを目指すようなヴォイトレは否定しません。

 

○人並と並を超えること

 

 私は並を超える変革を求める分、メニュは同じでも、その使い方には厳しいです。難しいのはまだ、私の実力不足たるゆえんですが、真意を伝えるのは大変なものです。だからこそ、価値があると思うのです。

 あまりに方向違いや、力づくばかりで声をうまく扱えず悩んでいる人の多い日本では、リラックスが先だとも思います。他のレッスンで物足りなくなってから、こちらに来る人の多いという現状は、それでよいと思っています。

 

○鈍さ

 

 私は10-20%の調整で満足してしまうような、いくら続けても自分のトレーナーのレベルにさえ届きそうもない鈍さが嫌なのです。そのくらいで育てたといっているトレーナーの鈍さも嫌です。そういうところには、あまり関わらないようにしています。

 

○初期効果

 

 どのトレーニングもどのトレーナーも存在意味はあります。そのやり方がうまくあてはまる人もいます。なかなかうまくいかない人もいます。短期でみているのでは本当は※しません。それをしっかりと把握して研究改良を続けています。こうして30年以上やっているからこそ、みえないものもわかります。

 

 どうも日本人は、ただのスタートで、つまり独立開業したところで祝って、ちやほやしてしまうことが多いようです。その9割は、5年先にはうまくいかずに終わっているのです。大学でも卒業より入学に重きが置かれている国です。トレーニングも同じかもしれません。スタートしたところでなく、その人の5年先、10年先をみて、判断することです。それには、かなり多くの人をかなり長い時間みた経験がないと、できないでしょう。

 

○創造の厳しさ

 

 何にもやらずに口だけのような人は問題以前で、その取り組み、考え方、自己把握、分析、処世術を直さないと何ともなりません。

 日本人のほとんどは、創造していく世界に対して、プロも含めて苦手です。

養成所で私は、ゼロから叩き上げていたのですが、そういう演出家や監督もいなくなりました。今やバッシングされて続けられないかもしれません。

 でも、そこから学ぶ人もいるので、私としては頑張って欲しいのです。何もやらないで批判や否定するばかりの人が増えていくなかで、声に関わる人は、思う存分、表現して欲しいのです。

 

○トレーナーと一流の作品

 

 トレーナーは偉いもの、完全なものでも力のあるものでもありません。会ってみたらわかります。本やNETでもわかります。だからこそ、一流の作品から学んでください。それがどう一流であるのかを耳や体を通して知ってください。あなたが少しは早く、少しは深く、気づけるお手伝いをできたらと思って、私はこの仕事を続けているのです。

 トレーナーに問われるのは、声より耳、指導力よりは発想力でしょう。声もよろしければ尚よい。でも、人を育ててなんぼです。では何をもって育てたというのが難しい分野だけに、先に続くということになるのです。

 

 私は名誉とか所属とかはどうでもよいのです。そこにいたとか役職についていたとか、そういうものに頼ること自体でおごってしまう人をあまりに見てきました。声を求めに来た人も声があいまいゆえに、惑わされることが多いものです。

 文章は、私の思想であり、世の中への問いかけとして、残していきます。あとは、声を耳で、レッスンそのものや声で判断してもらえばよいと思っています。

« 第85号「ヴォイストレーニングの”ビフォー&アフター”」 | トップページ | No.339 »

1.ヴォイストレーナーの選び方」カテゴリの記事

ブレスヴォイストレーニング研究所ホームページ

ブレスヴォイストレーニング研究所 レッスン受講資料請求

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

発声と音声表現のQ&A

ヴォイトレレッスンの日々

2.ヴォイトレの論点