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87号 「トレーナーの声の把握と見本」

○プロの不養生

 

 この頃は、けっこうな立場にある人もいらっしゃいます。しかし、声の本質について、把握は直観的に理解できないことが多いことに気づかされ、私はいささかショックを覚えています。私などよりもずっとステージの実績や経験のある人が、私からみると初歩の初歩、声の把握そのものができていないのです。次のいくつかのケースを考えてみます。

 

1.声の把握が根本的に間違っている

2.声の把握が別の価値観としてある

3.声についてはど素人である

 

○他の見方

 

 私はいつも私を疑い続けてきました。もう聞く必要もないのですが、私のところの十数名のトレーナーに問うていました。この十数名の問うのは私の見解を肯定するためでなく、否定するためです。他の専門家の意見や考えを大いに参考にしようとしているので、その点はわかって欲しいのです。

 私には信頼できるセカンドオピニオン、サードオピニオンがいます。常に他の見方を知ることができます。しかし、こういう人はこれまで生涯、声の研究、あるいは演出について専門にやってきても、それだけに死角があるのです。

 

○一般的なトレーナー

 

 私はここで、自分の立場が一般の聞き方、耳と異なるというケースで、述べていきます。

 他の考えをする人を肯定することで、私を否定してしまうことを恐れずに、他方を声について日本人の一般的な代表としてみることにしてみると、私の立場がより明確になるからです。それは、日本人や日本の文化と国際レベルでの、声との比較となり、その対立点を明らかにすることにもなるのです。

 

 他のトレーナーの見解をまとめると、彼のは、

1.一般向き、とっかかりとしてわかりやすい

2.そこからの深みがない、次へのステップがない

3.声楽や声への誤解、短絡的なノウハウが目立つ

 

 3については、日本の声楽家も国際的な実績を残せていない分、自虐的に把握されてしまうこともあります。そのレベルを認めざるを得ない現状があるという言及もあります。

 自分を主体とし、原点として捉えなくては、こういう議論は机上のものとなります。そうしてこそ、彼自身の声はどうなのかということに切り込めるからです。その見本として、声の力のなさを指摘するのがもっとも本質的なこととなるからです。

 

○日本のポップスのトレーナーの声

 

 それにしても、日本のいろんなCDDVDで入っているトレーナーの声というのは、どうしてこうも力がないのでしょうか。そういうことさえ思わないで買ったり、利用したりする人がほとんどです。こういうものを使っても、効果はないどころか、逆効果でしょう。一声聞いて、わからないのでしょうか。喉声はよくないといって、トレーナーは見本は喉声で録音していることもあります。トレーナーのなかには「それは“のど声”で決して目指してはいけない、見本は、私の声です」というのです。

 

○シンプルな一声「バーレスクのアギレラ」

 

 たとえば、映画「バーレスク」のクリスティーナ・アギレラの一声、もし声のトレーニングというものがあれば、その結果がシンプルに、冒頭の23秒の声で示されています。

 トレーニングが、一般化(一般の人対応に)してわかりやすく、安全になりました。誰でもできることを行なって、すぐに楽にできるのがよいとなったところで、大きく変わりました。一流のアーティストの声などは、危険、かつ人間離れしたものになって、目的にならなくなったのでしょうか。

 

○「バーレスク」のシェール

 

 すべての人が、パワフルな声や歌唱の方向を目指すわけではありません。一流といわれる声の使い手にもそうでないタイプがいます。映画「バーレスク」のシェールも、その一人でしょう。

 ヴォイトレという以上、一声で示せることを目指した上でそれでかなわないなら、次善の策があると考えた方がよいのではないでしょうか。最初から、次善の策に入るのは、もったいないことです。

 

○トレーニングで扱えない声

 

 こういうハードな声を常人にはできないと否定してよいのでしょうか、トレーニングをやってもみないうちに、です。多くの日本人の歌手、ほぼ全てのトレーナーが見本を示しているような高く、細く、きれいな声だけが理想なのでしょうか。ウィーン合唱団や、カーペンターズのカレンや白鳥恵美子さんのような声は、生来的に選ばれている声です。

 トレーニング以前に、特別に恵まれた声としての素質のある人何万人に一人くらいの確率でいると思うのです。それは逆にトレーニングでつくれない声なのです。そこに似させるのが、ヴォイトレでしょうか。それは“発声練習の声”と思われてしまいませんか。

 

○個性的な音色の消滅

 

 マイクなしには届かない声に頼る傾向は、著しくなりました。声楽でもドラマティックなイタリアオペラのようなものでなく、きれいな統一した音声にまとめるドイツリートが主流になりました。劇団や声優なども、個性的な音色をもつ人は少なくなり、誰もの声が裏声のようになってきたのです。

 それなら、生声の方が個性的と、日本でもそのままぶつけて歌う人も増えました。どちらも音響技術に大きく支えられています。ポップスでは、体から腹からの声がなくなってきた、いや使えなくなってきているのです。

 

○求められる声の変化

 

 体からの声は、演歌などでの音色と共鳴にはみられます。細川たかしから前川清、石川さゆりから坂本冬美さんまで、彼らの持っているものに通じます。細川たかしの高音のよさは、民謡からきたものです。テノール(クラシック)に通じるものです。

 若い人はふつうの音域でも、ファルセットを使うようになりました。昔より半オクターブ上でも歌うようになりました。求められる声が大きく変わってきたのは否めません。

・パワフル

・インパクト

・メリハリ

・太さ

・重低音

・安定感

 

 私がスタンダードな見本にとっていた歌い手を聞いたことのない世代も増えました。そういう声を聞いても心動かないのかもしれません。同じ世代の歌に惹かれるのは、いつの時代もです。ポップスですから、歌はそれでよいのです。

 しかし、基礎トレーニングとしてのヴォイトレは、国や時代を超えて通じる声をベースに置くべきというのは、私の最初からの考えです。私がサンプルにあげているヴォーカルは、私の若いときでもけっこう過去の人も多いのです。

 

○胸声への理解

 

 日本の歌手やトレーナーに絶対に欠けている感覚が、胸声の理解と習得です。それがあるので、私は、高声や1オクターブ(一番低いところからは2オクターブ)上の発声や共鳴も、ふしぜんにつくるのと違うところで理解できます。

 声帯や目指す声のイメージは、人それぞれ違うのですが、私は、歌手の声と一般の声とを分けていません。テノールやソプラノは、ふつうの歌と全く違う声という立場の人もいます。

 私は低い方の声もあるので、多くのトレーナーの高い方ばかりの指導と異なるところも多いです。

日本のように”まね”から入ると、高い声が求められる傾向が強いため、本当の基礎がなおざりになってきたといえます。

 

○背中からの声

 

 今の私は、高い声が出やすい人はそこから入り、胸声にこだわるべきではないという立場を、相手によってはとっています。日本にはほとんどいないドラマティックなテノールは、バスやバリトンに近い声帯で高音域発声までをテクニカルに習得したというのは、私の直感的な仮説です。

 

 バスの声を出せる日本人は少なく、ムリに日本人が追いかけても仕方がないともいえるかもしれません。日本で太い音色をもつ、あるいはハスキーな声でハードに歌ってきたのは、欧陽非非、キムヨンジャ、新井英一、和田アキコさん、となると、大陸系の人です。

 スポーツ界とも似ていますが、文化やスポーツは、周辺から成り立っていくので、不思議なことではありません。パリの文化も、フランス周辺からの移民で荷われていました。

 映画「バーレスク」のクリスティーナ・アギレラのように背中(背骨)から声を出して歌えるようなヴォーカルは、日本から出るのでしょうか。アジア、中国、韓国やフィリピンあたりからは、欧米をしのぐ声の持ち主がどんどん出ています。世界標準と日本人のズレ、ガラパゴス化が気になるところです。

 

○体の楽器化

 

 体からの深い声には、息の深さ、太さ、体や筋肉の支えの強さなど、体の徹底した「楽器化」が問われるわけです。

 私のいう「体の楽器化」とは、一部のオペラ歌手や役者などが自分の演奏(表現)能力の限界を体に感じて、その体そのものを変えて限界を超えようとするときに表れてくるレベルです。口内だけのものまねの芸人と、骨格さえ変えるといわれるコロッケさんのものまねとの違いのようなものです。

 オペラ歌唱の絶唱の顔、つまり発声共鳴に有利な形は、ホセ・カレーラスなどオペラ歌手の最高音の顔をみるとわかりやすいです。楽器としての理想から追求されたものです(独特なラッパ顔です)。

 私も経験がありますが、発声しているともっとあごが開けば、口が開けば、鼻や眉間が出っ張っていれば、もう1音、23音クリアできると、音域(特に高音)がわかりやすいですが、感じたことがあります。

 

○しぜんな表情での難しさ

 

 発声トレーニングをして本気になると、高音では一時、顔がくしゃくしゃになってくるのです。ポーカーフェイスでハイCまで歌えるパヴァロッティの偉大さは、その逆ということで捉えられます。生身というしぜんと、造作というテクニック、人工的なものとのせめぎあいが生じるのが、ふつうなのです。表情を変えずに声色を変えられるいっこく堂さんのすごさです。

 喉という楽器の完成へのプロセスを未完成なりにももっとも、うまく奏でるために、というところからテクニックとのせめぎあいとなります。喉とその使い方においての葛藤につながるのです。

 

 

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