No.340
〇歌謡曲史
うたの起源には、神にうったふ(訴える)とか、言霊で魂を打つとか、拍子を打つなどの語源説があります。
声を出し、抑揚をつけ、語って消えていくものでした。
1914年(大正3年)「カチューシャの唄」松井須磨子(劇中歌)。作詞、島村抱月に作曲、中村晋平デビュー作。無伴奏のアカペラです。
1.公演、2.新聞に歌詞と楽譜、3.レコードの順で、ヒットしました。
ラジオ放送は、1925年(大正14年)開始、
そこから1928年(昭和3年)までにレコード会社、日本ビクター、日本ポリドール、日本コロムビアの設立がありました。
「東京行進曲」(昭和4年)、「影を慕いて」(昭和7年)などでスタート、
大正期、1917~1923年~浅草オペラ、田谷力三「恋はやさし野辺の花よ」
1929年エノケン劇団「カジノ・フォーリー」「洒落男」(モボだと云われた男… )
第2期として、ラジオでヒット曲が生まれます。
古賀政男、古賀メロディを中心にジャズ、シャンソン、ポップステイストのもの、日本調と何でもあり。
1933年NHKが「流行歌」でなく「歌謡曲」ということばを使う
詞と曲と歌手のぞれぞれがプロとしての三位一体スタイルで商業的成功を狙いました。
「国境の町」(1934年)、「別れのブルース」「人生の並木路」(1937年)
「湖畔の宿」「蘇州夜曲」(1940年)
戦後、「リンゴの唄」「青い山脈」などが大ヒットします。
「リンゴの唄」「かえり船」(1946年)
「星の流れに」(1947年)「東京ブギウギ」(1948年)
「悲しき口笛」(1949年)、「青い山脈」(1949年)
「雪の降る町を」(1953年)、「カスバの女」(1955年)
「黒い花びら」(1959年)
坂本九の全米ヒット
1961年10月「上を向いて歩こう」日本で発表
翌年、イギリス、バイレコード社長来日、持ち帰り
所属のケニー・ポール楽団でインスト版発売
「スキヤキ」で1963年1月、全英チャート10位
ワシントンのKORDのDJリッキー・オズボーンが日本語のオリジナル版を番組で流し、ワシントンから全米へヒット、6月15日全米1位。
外国語の歌の全米1位は、カンツォーネ「ボラーレ」以来のこと。ビルボード誌で3週、キャッシュボックス誌で4週連続1位。
世界69ヵ国で発売。ちなみに、1964年1月には、ビートルズの「抱きしめたい」が全米初の1位。
そして、ここからヒートアップしていくのです。
「アカシアの雨がやむとき」(1960年)
「ヨイトマケの唄」(1965年)
「夜霧よ今夜もありがとう」(1967年)
「ブルーライトヨコハマ」(1968年)
昭和30年代に音楽出版社が出て1970年代に、その全盛期となります。
やがてフリー作家と音楽出版社が原盤製作までするようになります。
グループサウンズ(1966~70年)とフォーク、ニューミュージック、シンガーソングライターの登場。
音楽出版社には、芸能プロダクションとテレビ局系(日音、TBS系、日本テレビ音楽など)があります。
後者からTVの番組でアイドルが出ていきます。大人の舞台のスターの憧れの歌の日常化、親しみやすく安心して聞けるように、幼稚化もしていくのです。
CDは、1982年(昭和57年)に商品化され、ウォークマンとともに音楽を個人のものとしました。
日本は、詞から、サウンドとラップへ
内田裕也(~2019年)、日本のロック論争(1970年10月~)
はっぴいえんどの大滝詠一(~2013年)と細野晴臣は、コンポーザー、アレンジャーに近い役割でした。
「キャラクターで売れてくる国だな」と(細野)
加藤和彦(~2009年)
1978年サザンオールスターズとYMO、スペースインベーダーの登場。
J-waveとJポップ、1980年代半ば~1990年代半ばに、洋楽の大量輸入
2007年「ポリリズム」Perfume、デジタル・エフェクト 中田ヤスタカ
2007年VOCALOID(ヤマハ)、初音ミク、ボカロP
2011.8きゃりーぱみゅぱみゅ
歌=声=サウンドの一つ、音、トーン、リズム
シンセサイザーから入ったのは、小室哲哉、中田ヤスタカ
坂本龍一らは、歌詞は聞かないというので、耳=リスナー型です。
メッセージよりサウンド、ローカルかグローバルか
カウンターカルチャーになりえなかったのです。
「人気が出たら、何をやっても受け入れる」のが日本人の柔軟性であり、やさしさであり、甘さなのでしょう。