89号 「なぜ、歌の判断が必要なのか。それはどう判断するのか」
○声と表現と研究所と私
ヴォイストレーナーには、大きく分けて、a声をみるトレーナーと、b表現、作品(歌やせりふ、トータル)をみるトレーナーがいます。どちらにも両方が含まれてはいるのは確かですが。
私は声だけをみたかったのですが、仕事がプロデューサーとプロをみるところから入ったため、作品からみざるを得なかった時期が長くありました。そこから研究所をたちあげて、声を中心にみるようにしました。しかし表現を独自にできる人が、ヴォイトレに興味を示すような人に乏しくなって補充するうちに、両方を含めるようになってきたわけです。そこで一人でなくトレーナーとの分担制をひいたのです。
○声と表現、作品の優先度
歌において、表現は、声の力と必ずしも一致しないどころか、日本においては、相反することがあたりまえにあるので、ややこしい問題です。
歌い手なら、自分かそのパートナーに表現力は、不可欠です。自分にその力がなくても協力者が何とかしてくれるわけです。もともと歌い手は、声を使うプロで、作品やステージは他に任せていればよかったのですが。それについては、次のような形でみています。
<ステージング> <ステージパフォーマンス>
衣裳、ファッション スタイリスト、メイク、コーディネーター
振付 振付師
音響、証明 SE、演出家
アレンジ アレンジャー
作詞、作曲 作詞家、作曲家
伴奏 バンド、プレイヤー
すべてが必要ではありません。その人の表現スタイルによります。それによって、レッスンでも声の必要や方向、求められるレベルも異なってくるのです。シンガーソングライターや自演(弾き語り)アーティストは、この多くを自分でやっています。
○共通すると相違するもの
トレーナーは、その人の喉、体、性格などから、その人の体=楽器に合った声を伸ばしていくことになります。それがバイオリンかビオラかによって、根本で共通するものと異なるものがあります。
体、呼吸、発声のベースは共通ですが、もっている条件が違います。音色やフレーズになると、いろんな可能性と限界が出てきます。まして歌い方になると、その人が器用にまねられるアーティストの数くらいにいろんなパターンが出てきます。
○二重性の中でのオリジナリティ
まねでなく、もっともその人らしい、オリジナルな声のオリジナルな歌い方の上に、その人のオリジナルな世界が出てくる、それは完成度において誰がまねしても追随できないというのが、理想です。
世界では、オリジナルの基礎の上に成立したオリジナルの表現しか認められません。まねは誰でもできるからです。
しかし、日本ではまねるのに高い声やシャウトに不自由するので、そこが中心になります。
向こうの文化をもろに受け入れて、向こうに似ていることがかっこよいというのが、日本人です。
受け入れてきたものを省みずに、歌をつくってきました。二重の意味でオリジナルな体の声のオリジナルな作品がわかりにくくなっているのです。
○不一致
問題は、日本で好まれ売れやすいような、プロデューサーが欲している歌唱と、体からしっかりと取り出している声とのラインが一致しないということです。ルックスがよく器用な歌手は、プロデューサーのめざす路線にのっかって上手く歌うのです。でも声の処理はうまく歌ったレベルくらいで、のど自慢のチャンピオンほどの声の表現力もないわけです。音大で声楽をかじっておけば、ミュージカルで出演できるというくらいです。日本の歌唱の程度は、それを表しているわけです。
○欠点を明らかに
トレーナーにとって歌をどう判断するのかを、抜かすわけにはいきません。私はいろんな人からのCDをもらいます。ふつうは他のトレーナーと同じく、何とかよいところをみつけて誉めます。頑張っている人を認め、勇気づけたいからです。しかし、レッスンをする人には、悪いところをハッキリと言います。そこを拡大して示します。それが仕事なのです。それはレッスンによって変わる可能性をみてはじめていえることです。悪く思われたくないから誉めようとは思いません。
トレーニングやレッスンによって、何もしていない人に勝ることはできます。しかしそうしてきた人に対抗できる力をつけるのは、並大抵のことではないのです。
○限界の対処
何らかの欠点や限界があったときの、対処の仕方は、つきつめると二通りです。一つは、諦めること。これは悪いことではありません。うまくいかないところを表に出さないように、きちんとカバーします。どんなプロもやっていることです。
もう一つは、克服すること。できるかどうかわからなくとも、それを試みることは大切です。試みてできなければ、また考えればよいというのが、レッスンのスタンスです。限界までつきつめることです。
○可能性へのレッスン
レッスンで関わらない人には、私はいろんな批評を求められても、言いません。どんな作品でもよいところはあるし、よいと思う人もいます。そういう人とやればよいからです。私のアドバイスは私の基準を投影することになります。プロの歌手なら別でしょうが、原則はよりよくなる可能性からみるべきです。
そのときに悪いところを注意して、カバーしてもその場しのぎです。それに気づかずカバーもしない人にそのことだけ教えては、その人のためになりません。それをカバーしたくらいの歌で終わってしまうからです。
悪いところより、よいところ、武器になるところを見つけるのです。それがパッと出てくることは、そんなにありません。長い時間がかかることもあれば、本人が思ったものと違う場合もあります。
○中立になる
フレーズのトレーニングでは、その人の声からオリジナリティをみます。たとえ声に力がなくとも全体から何か心に引っかかるところがないのかと徹底してみます。
私の立場は、個人の好嫌を離れた無私であることです。これは、一流アーティストの感覚だけでなくすぐれたトレーナーのもつ共通の感覚を学んでおかないとできません。鏡となることです。
プロの歌い手が人を育てられない理由は、自分の作品や声の世界からみるからです。自分の世界があるからこそプロなのですから、職業病です。それを離れることができても、自分の喉で相手の喉をイメージして、教えるとどうしても無理がでるのです。
○トレーナーの一人よがりを避ける
私のように、トレーナーをもプロデュースする立場では、チーフのトレーナーとしては、常にどのトレーナーがその人に向いているかを判断します。結果も、そのトレーナーたちより客観視できます。よりよくみえるわけです。
トレーナー自身が全ての生徒に見本をみせるのではなく、その生徒の将来の声や歌にもっとも適した他のトレーナーが見本になった一人の方がよいという考えです。
私の場合、本のCDも吹き込ませます。私の指示の元に、トレーナーが吹き込むのです。
今の私の立場は、トレーナーのコーディネーターやプロデューサーのようなものです。つまり、プロ野球であれば、ピッチングコーチや打撃コーチを束ねる監督のようなものです。このことによって、一人でトレーニングして、一人よがりにならないようになります。ついたトレーナーによって、特定のトレーナーよがりにならない、そのトレーナーのくせがつかないメリットがあります。
○最初から慣れていく
何人ものトレーナーに次々とついても、その関連性がわからなくては無意味です。最初にトレーナーの中からあなたに合う人を、一人でなく複数から選んでつくことに、メリットがあることをわかって欲しいと思います。
トレーナーを使える力をつけることです。いろんなトレーナーにつくのは、自分を知るために有意義です。複数の観点をもつことが大切です。歌と声を別々に教えてもらってもよいし、発声を2、3人のトレーナーに教えてもらうのもよいです。
声は変わっていくので(しっかりしたトレーニングをしたら、ですが)、その効果やよしあしは、違う時期に他のトレーナーについても、本当のプロセスはわからないことが多いです。それなら、最初から複数のトレーナーからアドバイスを受けたらよいのです。
一人のアーティストの作品しか聞かないと、自分の歌が影響を受けているのに、どういうところなのかさえわからなくなるものです。まねしていなくとも自ずとついたクセが抜けないというのと同じです。
○多角的な視点をもつ
トレーナーごとにやり方、判断は違います。それぞれに必ずクセもあります。判断の仕方や歌の評価も一人ひとり違うのです。相性もあるでしょう。
クセをとるのはトレーナーの役割ですが、厳密には、あなたのクセをトレーナーのクセで弱めているみたいなことで、必ずトレーナーのクセがつくのです。でも、それで、前よりはOKとかましということもあるからです。クセがいつも悪いのではありません。
〇トレーナーのスタンスの柔軟性
私は10人近いトレーナーと、いつも生徒の評価をつけながら、比べることからとても多くを学びました。トレーナーは、一匹狼の人がほとんどなので、他のトレーナーがどのようにみるかを学んでいる機会が少ないものです。プロデューサーと仕事をしていたら、プロデューサー的な見方になるし、フィジカルトレーナーとなら、体を中心にみるようになります。いろんな人(特にプロ)と仕事をすること、他のトレーナーと比べてみることも必要なことです。
○異なる価値観に触れる
レッスンをして、トレーナー二人の意見、育て方や判断が違ったらどうしますか。私はどちらかに軍配を上げるのではなく、違いが何で生じたのかをあなたに伝えます。
矛盾していてもいいのです。確かな実績があって人を育てているトレーナー、やり方と価値観を持つトレーナーが判断をした事実として知っておけばよいときもあります。
やり方が違ったら自分のトレーニングでは好きな方を選んでもよいし、別々にやってもよいのです。
トレーナーのどちらかが絶対正しいわけではありません。ただし、あなたが高く評価したり、やりやすいと思うトレーナーがあなたの将来によいとも限りません。
○トレーナーとのレッスンの意味
自分の判断が第一に優先できないところに、ヴォイトレの難しさがあるのです。あなたが最高の判断のできる力があるなら、声や歌はすでにあなたの思うように使えているはずです。そういう人は、世の中にたくさんいます。ヴォイストレーニングに関しては、以前のあなた(の感覚)をあまり信じてはいけないのです。ヴォイトレや歌のレッスンなしにうまく歌ったり、声を扱える人はたくさんいるのですから、それに対して何が欠けているのかを知ることです。
どのトレーナーもあなたよりは、あなたの声についてはわかっています。あなたが力をつけていき、トレーナーよりも的確に自分のことを判断できるようになるためにレッスンをするのです。
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「科学的トレーニングとマエストロのレッスン」
○音声科学で変わったこと
私の研究所では、一早く声紋分析の器材を使い始めました。音声科学の発展はすばらしいことです。天文学や物理学、医学でいうと、天体望遠鏡や顕微鏡が出てきて、目で確認できるようになったくらい、革新的なものでしょう。
関連書籍でも生理学から、音声学、音響学まで、詳しくわかりやすく、よいものが出てきました。声の基本的なことを誰でも知ることができるようになりました。
特に大きく変わったのは、
・声区(レジスター)と胸声、頭声の関係、音色は胸や頭(腔)での共鳴の否定、仮声帯で裏声を出すのでないこと
・ミックスヴォイスほか、いろんな声の分類の細分化
・声帯の振動、発声、共鳴の可視化
・裏声、ファルセット(フルート)、地声、表声などにおける、男性、女性での定義
○現場第一主義
自分の若い頃、半世紀前ほどの勉強のままの指導法を継承しているマエストロ的なトレーナーもいます。私の立場は、新しい発見や学説を学び続けても、それが実際の結果や効果をもたらすまでは、様子見です。よいと思えば試しに直観的に使うことはあっても、メインにはしません。一時的な成果でなく、長期的に複数の事例の結果をふまえてみるには、何年も要するのです。あまりジタバタすることではありません。若いトレーナーや指導をはじめて4、5年くらいの人の言うことをそのまま信じたりはしません。
新しく出た理論や言っていることと、今、受けているレッスンや自分のトレーニングしてきた本やトレーナーの言うことが違っていても、迷わないように、と言っています。
○レッスン優先主義
研究所では、私が本に書いたことより、レッスンでトレーナーにいわれることを優先してくださいと言っています。私のレッスンでも他のトレーナーのレッスンでも、現場第一です。
本は一般的な対象に述べたことです。レッスンはあなたを個別に、今、みているのです。「どちらが」と迷うことはおかしいのです。レッスンに疑問があればレッスンで説明しています。
私は現場(特定の相手とのレッスン)を離れたところの論争に加わるつもりはありません。尋ねられることが多いので、いろんな立場の人の意見や理論を知って、混乱している人の頭を整理させられるようにはしています。
それは、レッスンのためでなく、その立場にいるために、問われることに答えるためです。私自身には、興味もない、本や番組でも、他の人に必要になると思われるものについてはコレクションしています。それと同じ理由です。
○価値
バイオリンという楽器は、実に多くのすぐれた演奏家と技術者(製作者)によって、高度に完成されていきました。家が買えるほどの高価なストラリバリウスの音は、今の技術者でも超えることはできないともいいます。しかし、科学的に性能を比較すると、他のバイオリンと差がないというデータもあります。年月が楽器を育てたのか、名声が名演奏家を惹きつけ、伝説となったのか、知るよしもありません。
そういう伝説の名器は別にして、私たちが買うくらいのバイオリンについては、およそ高価なものは、安いものよりもよいといえます。理想の形、素材があり、そのバイオリンで評価できるということです。
これは声楽家という持って生まれた喉と体ということになります。その管理の仕方、育て方も入ります。10倍の費用を出してでも、1パーセントの質を向上させたいと思うかどうかは、その人によるでしょう。
○優劣ということ
a.元々の楽器=のどを中心とした体
b.使い込み、手入れ、今までの歴史、経年変化=育ち、育て方(スキル)
c.今の使い方=テクニック
オペラにおいては、本人の努力はあるとしても、持って生まれたものの差は大きいと思います。パヴァロッティのような声を聞くと天与、giftということもわかります。しかし、表現やオリジナリティを踏まえるなら、ロマのバイオリンのようなもの、インドのカーストで音楽を生業とする人の演奏のレベルの高さは、それにひけをとりません。楽器は、ボロボロのようにみえますが、本人がつくります。手製ですが、その調整の耳とそれを活かす演奏がプロフェッショナルなのです。楽器を半分つくり変えるほどの調整と演奏をしてしまうのです。
民族音楽とオーケストラに使われる楽器の優劣を簡単に述べることはできません。そのこと自体、無意味です。どの時代どの国にも、すばらしい演奏家も歌い手もいたということは事実です。クラッシックの楽器は均質化され、誰もが練習しだいでよい音を出せる保障がされているといえます。
○人間の力
すべては人間の力、その人をとりまく環境から、表現へのあくなき欲求によるのです。それが有利で才能が輩出した時代や地域もあれば、まったく不毛だったときもあるということです。
私はあなたに、ロマのすぐれた演奏家を目指して欲しいのです。自分のもつ楽器を疑わず自分流に最大限に活かせる工夫をして、最高に使い切るつもりでトレーニングにのぞんで欲しいのです。
声帯によって一流のオペラ歌手の素質が必ずしも決まっているわけではありません。こんなのどや声帯でどうしてあのような声、演奏が可能なのかといわれる一流の歌手は、たくさんいるのです。人間の力は科学の分析などを易々と超えます。
○知識、理論、科学の使い方と限界
知識は知識、理論は理屈です。否定的でなく、肯定するのに使うのならよいことです。自分の洞察力がないときに、一方的な思い込みで才能をつぶさないためのリスクヘッジになります。あるいは実力が伸びるまでの時間を稼げるかもしれません。
知識は、要領よくうまくなるのには役立ちます。しかし、それくらいでは、人の心を奪うほど感動させることはできません。
それは歌い手のルックスでの争いのようなものでしょう。歌や声の力が足らないから、問題になることです。表現が凄ければ、ルックスなどは凌駕されるのです。演奏がすぐれていたら、顔のよしあしなど吹っ飛んでしまいます。
○科学、理論と芸
私は、科学を否定しているのではありません。それはよりよく生かすことで意味があります。中途半端な理屈やことばにとらわれ、自分を否定する根拠のように、自分のためにならないように使うのなら、知らない方がましです。芸事における科学や知識は、そう使うものと考えてください。科学的知識、理論は否定されても芸には関係ないのです。
一流の歌手がまったく知らなくても、何一つ不自由していないのです。そんなことに時間や気を奪われること自体、勘がよくないということでしょう。
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