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95号

○基本と応用について

 

 レッスンの進め方を、レッスン受講生によせて変えていくか、トレーナーのもっとも自信のあるやり方で貫くか。

 トレーナーが

1.トレーナー(師や先生)から教わった方法

2.トレーナー自ら得た、もっとも自分にふさわしかった方法

3.指導に効果をあげた方法

 これらを型としてそのまま指導していくのか、レッスン生に合わせて、ときに新たに方法やメニュをつくりあげて、与えていくのか、どちらがよいかということです。

 私のところでは、これは常に問題です。しばしば私は判断を求められます。原則として、一人で教えず、複数のトレーナーをつけている研究所では、必ずこの問題は出てきます。意図して問題としてあがるようにしています。

 

 邦楽においては、絶対、守るべきは口伝でした。ところが、現代のメディア(音声動画の再生技術の普及)は、師弟制度の絶対性を根本から弱めました。

 1は、海外のノウハウを日本に持ってきただけのトレーナーにも通じます。

 2は、独善的に偏りやすい、トレーナーがどのレベルまで到達したかでみることとなります。そのことと、他の人にどこまで通じるかには、けっこう距離があります。

 3は、現実として人をどこまで育てられたかということです。

 それぞれ、その判断について一冊の本にできるほどの難題です。

 師をみるには、その弟子をみることもよい判断です。どんな弟子を育てたか、育てているかということです。あるいは、その師の師に聞いてみるのもよいでしょう。

 それによって、123のメリット、デメリットが少しは克服できます。優れた弟子になりたければ、優れた弟子のいるところを選ぶのも、一つの選択です。

 

〇オーダーメイドのレッスン

 

 時代としては、一人ひとりのレッスン生をみて、メニュや方法を組み立てる方へと、トータルとしてのオーダーメイド方式になりつつあります。

 私のところでは半々の割合を保つように努めています。

 トレーナー独自のやり方と研究所としての共通のやり方も半々、トレーナーの望むやり方と生徒の望むやり方も半々、そこで調整していくのが最もよい方法とはいえませんが、当初は、比較的よいと思っています。

 お互いを知るにも、その才能や性格を知るにも、時間は必要です。あえて試行錯誤の幅を広くとるのです。それを急いで一人のトレーナーの一つのやり方で走らせてしまうと、賭けのようになります。

 

 最初につくトレーナーの影響力が大きいことは注意しなくてはなりません。そこで価値観や判断のベースができることが多いからです。つまり、最初やその次のあたりのトレーナーは、レッスン生の判断基準の生涯のベースとなりやすいということです。

 

 自分に何があるか、何が足りないか、それはどう得ていくのか、誰から何を学ぶのか、ついたトレーナーからは何が最も学べるのか、それを自分に活かすためにはどうすればよいかといったこと、レッスンの内容、方向、自主トレの内容、メニュは、大切なものです。できたらそれを定めていくことをを当初の目的としてもよいくらいです。

 

○複数のトレーナーのアドバイスと相性

 

 一人ではなく複数のトレーナーのアドバイスにヒントを求める方が、気づきやすいのは、いうまでもないでしょう。自分に合うタイプ、相性のよいタイプもいれば、そうでないタイプもいます。そうでないからだめかというと、だからこそ必要、かつ効果的ということもあるのです。

 人につくというからには、できるだけ多面的に自分をみていくことが大切です。

 

 声はわかりにくいのです。自分とトレーナーとで比べていけばよいのですが、なかなかトレーナーの声も自分の声もわかりません。トレーナー一人よりも複数名にすると、複数の声の接します。すると、より早く、そして、深いことに気づけます。トレーナーの相違からわかることが多いのです。ですから似たタイプトレーナーをつけることは勧めていません。そこから、自分も客観視しやすくなるのです。

 歌も、一人の歌手ばかりしか聞いていないと、どこまでその人の影響か本人のものか、わからなくなるのと同じです。

 基本は、「今のあなたになく、トレーナーにはあって、自分の欲しいところ」です。みたり知ったりできるところではありません。みえても人様のものです。そこではトレーナーをみるのも、ベテランの歌手や役者をみるのと変わりません。

 

〇分化と統合

 

 トレーナーが見本ととして、わかりやすく、ゆっくりていねいに、スローモーションで分析してみせても、本当の基本とは違うのです。語学の勉強は、ゆっくりしたものを聞くよりも、ネイティブの早さに耳をならしていくことが基本です。ヴォイトレも、トレーナーが相手の体や感覚に近づいていくのでなく、その体、感覚を鋭く変えていかなくてはならないのです。私は、課題は短くはしますが、ゆっくりにはしません。

 次のどのスタンス(目的、レベル、本人の実力)で行なうのかが、大切なことです。

 

1.ステージ

2.曲の構成

3.1曲すべて

4.1コーラス

5.AメロかBメロかサビ

6.48フレーズ(832小節くらい)

7.1フレーズ(416小節くらい)

8.ひとこと、ひと声(ことば一つ)

 

 のように細分化します。その分、ていねい、かつダイナミックに、マックスの表現を求めます。次に8→1へ応用していくようにしています。

 

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○トレーナーの出身

 

 かつてトレーナーは、皆、実演家でした。先輩として後輩を教えていたのです。そこには世代、つまり年代の差=年齢差があり、おのずと師-弟子の関係があったのです(師は、一家を成し、家元ともなりました)。

 芝居で、演出家は俳優から、プロデューサーに、ありました。ディレクターはアーティスト(歌手)から、兼任、そして専任となっていきました。俳優やアーティストとして大成しない人が、次に、その途中で教えるほうの才能を買われて、専任のコーチやトレーナーとなる人が出てきました。そのあとは、舞台実践者としては、あまり経験や実績のない人も、別の専門分野の勉強を元に演出家やプロデューサーになるようになりました。

 この経緯は、評論家やコンサルタントの誕生と似ています。批評から評論という専門家として、一般の人のナビゲーターを務めるようになるのです。そうした職が創造性のある作品として実践者に認められ、対等なパートナーの関係が築けるのは、かなり後のことでした。その後、演出家、プロデューサーなどとして、人によっては実演家よりも強い立場になっていったのです。

 

 歌の先生には、作曲家、そして演出家には、曲づくりや脚本づくりという独自のパートがあり、そこから出た人もいます。映画監督も、役者やミュージシャン、小説家、お笑い芸人がやっても珍しいことでなくなりました。

これら表現というのには、もはや専門の分野などはないといえます。その人独自の世界観があるかどうかということです。

 

○声から表現に

 

 実演家が声を育てることについてのメリット、デメリットとその判断の違いについて述べます。

 私のようにトレーナーであっても、作品の選択やアドバイスまで加わるようになると、あたかもプロデューサーに近い役割になって、ぶちあたる問題があるからです。

 トレーナーとして声を育てるには、声が使えるということを、表現のよしあしで判断していく必要が出てきます。現実に使えるためには声だけの問題にとどまりません。ディレクション、プロデュースの観点が入ります。これは、1990年代に基礎ヴォイトレづくりを重ね、指針としていた研究所がとらざるをえなかった歩みでした。

 

1.声までをみている個人レッスン

2.声とそのフレーズを磨くためのグループレッスンの付加

3.グループレッスンを中心とした表現のオリジナリティを磨くための総合レッスン

4.グループレッスンでの選別、優れた人の発表の場=ライブステージのセッティング

 

 この順で、

1.声だけ(発声、共鳴、呼吸、体)

2.歌唱(アカペラ)、せりふ

3.PAや伴奏付、プロの伴奏(発表会)

4.バンドや打ち込みのBGM付(ステージ=実演)

 

 研究所の拠点も場も、

1.レンタルスタジオ

2.PA付スタジオ

3.ライブスタジオ

4.ライブハウス)

のように広がっていったのです。

 

 これは、一人のアーティストが育っていくプロセスと同一です。おのずと研究所も大きくなり、90年代後半はライブハウスをレッスン場にするに至ったわけです。公開ライブ直前までいきましたが、そこで私がストップしたのは、時流に乗せることが音声(声)歌の完成よりも、ヴィジュアル面での拡充とならざるをえない状況に至っていたからです。

 

J-POPSの力

 

 欧米の流行をまねてきた日本では、声や歌の完成に伴わない分を機材(ハード)、そしてヴィジュアルで補っていきました。

 それこそが、今やヴィジュアル中心で世界に評価されるようになったJ-POPでの裏に隠れた真実です。音声だけで成立しないための演出面での工夫が、日本人得意のヴィジュアルでの表現形態を発展させていったのです。

 

 今の時代、かわいくない、美しくない、かっこよくない、ルックスのひどいヴォーカルが日本ほどどこにもいない国はないでしょう。でっぷり太った歌手さえ出なくなりました。これは、アナウンサーや声優、役者にも通じます。

 少なくとも昭和の時代はそうではなかったはずです。一芸に優れたもの=当時のタレント性が決め手だったから、人々の生活に必要だったのです。歌手の場合は、歌=歌唱力と声でした。

 おのずとプロデュースもヴィジュアル本位の方向に行ってしまいます。音声で表現する舞台にこだわった私は、ストップせざるをえなかったのです。

 

〇研究所の個別レッスン

 

 研究所において、2000年までは、著名な演出家やプロデューサー、黒人のトレーナーまで加えていきました。グループレッスンの充実のための妥協でした。

 そこから個別レッスンにして声を中心に回帰させました。その結果、全体で歌手は半分、後の半分は役者、声優、そしてビジネスマン、一般の人になっていったのです。これは歌手においての声の絶対の必要性の低下をそのままあらわしているといえます。

 

○発声と歌の評価

 

 私は、十名ほどのトレーナー全員とレッスン生のステージでの歌を評価し続けてきました。そこで、ポピュラー出身の生え抜きのトレーナーと、声楽家出身のヴォイストレーナーとの評価の違いに悩まされました。

 声楽家は、アマチュアに対して、曲、つまり楽譜に正確かが第一条件、次に発声のよさをみます。ちなみに黒人のトレーナーたちは、素の発声のよさとバランスを重視していました。それに対し私たちは、声の働きかける力、表現力と音楽性をみます。

 役者は、ことばの表現力があります。音楽性がある人ほど、声のパワー、インパクトがないのは、日本の特徴です。

 

 これは、一人のアーティストをどのように評価するかということの難しさにそのまま通じます。即戦力としてみるか、可能性をみるかによっても大きく違います。そこで、私のところではいくつかの視点から分けてみていました。

1.発声のベース力 声楽家か、音大8年生レベル(大学院、二期会レベルの歌唱ではなく、発声や発声教材をこなせる能力としてみる)

2.歌唱力(歌手意、音楽の専門演出家として)

3.表現力(エンターテイナー、パフォーマー、声、歌を使った伝わる力として)

 

 原点に戻ると、声のきれいな人、声のよい人、声の強い人(タフな人)への見方は、同じではありません。歌手もそれぞれに、核(強味)としているところが違います。ステージでは、いくつもの能力を兼ね合わせて作品の表現にするために複雑になります(選曲やアレンジにも大いに関係します)。

 

1.きれいな声で歌っている人

2.よい声で歌っている人

3.強い表現力を伴う声(歌唱力)で歌っている人

4.パフォーマンスなど、ヴィジュアルを重視したステージングで歌っている人

 

 このように区別してみます。皆さんは、それぞれ誰が思い浮かぶでしょうか。

 

○発声の理想と表現の現実

 

 トレーナーとしてはお勧めできないと思われているとはいえ、のど(声)をムリにつぶしたタイプでは、もんたよしのりさん、長渕剛さんは、個性的です。長渕さんの「乾杯」を最初のバージョンと今とを比べると、彼の場合、きれいな声が生来あったのに、それを(テキーラで)ムリに太く強くして、変えてしまいました。声楽家やヴォイストレーナーなら嘆くことでしょう。つまり、自分の器を大きくはしたが、もともとの声の延長上でなく、大きくはみ出したところにつくったのです(もんたさんは、声域・声量も犠牲にして、声質を変えたのです)。つまり、多くのヴォイストレーナーでは否定する世界で、表現力において、作品を成立させているということです。

 私は、こういうケースでは、本人の器を大きくして、そこからはみ出さない中での可能性=限界を最大限に探究した上での自由にします。そうでないと再現性に欠け、雑になり、耐性や将来ののどへのリスクが大きくなるからです。

 

 ところが今の日本では、声を大切にするあまり、こういうアーティストの歌の発声を一方的に否定するトレーナーが(声楽だけでなくポピュラーにも)多いのです。なのに、ロックなど、デスヴォイス、エッジヴォイス、ミックスヴォイスなどの見本をみせたりやらせたりして、それを肯定するだけでなく、伝授するようなことも行なわれています。

 

 どちらもトレーナーとそれを求める人の中で成り立っている分には、私には関係も関心もありません。成り立つことがないまま、私のところにいらっしゃると問題になるのです。

 私はそれを基本と応用で分けています。そこで苦い経験もあります。基本が6割くらいできた人に、応用でややかすれながらも表現が成り立ちそうだったのに、本人自身が声そのものを気にして、違うところへ移ってしまったことがあるのです。その後、大成することはありませんでした。

 

〇ヴォイトレの害

 

 もともと、本をよく読んでからいらっしゃるようなタイプの人は、うまくいかないと思っているときに違う本を読んでしまうと、また別のトレーナーのことばややり方を信じ、これまで間違っていたと思ってしまうという、判断の二極化の傾向が強くあります。

 本当の歌い手としての鋭い感性が磨かれていたら、声よりも表現力をとるのに、発声法や定義にこだわってしまうのです。

 

そこまでいかなくとも、ヴォイトレ重視の人は、声からばかり考える傾向が強いものです。一時、それは大切なことですが、どの方法やどのトレーナーがよいかなどを気にするのは、よくありません。

 たとえば、かすれた声よりもきれいに出た声だけを常によしとします。ある時期まではそれはよいでしょう。ヴォイトレや発声練習ではよいでしょう。しかし、表現とはそんな表面的なものではないのです。そこでは世に出て行ける可能性を狭めてしまうことになるのです。

 とはいえ、作品の訴求力において、最終的には「将来や可能性」よりも、「今、ここでの力(多くのトレーナーの基準=ディレクター)」で判断されることが多いのです。あるいは過去の実績(日本のプロデューサーに多い基準)ばかり気にします。どちらももったいないことです。

 

○大切なのは活用すること

 

 方法や理論は効果を出すために使うものです。それによって効果が出ないとか、逆効果になるなら捨てたらよいといっています。私の理論や方法への反駁もときに受けますが、合わないならやめたらよいのです。もっとよく自分の目的にかなうものがあれば、そうすればよいといっています。ただ、その判断をできるだけの自分なのか、あるいは第三者でも、何年も先の判断のできる実績や経験のある人なのかくらいは見極めておくことです。

 

 トレーニングもレッスンも、自分がよくなるために使うのです。そのよいところをとればよいのです。悪いところばかりをとるのはおかしなことです。

 トレーナーや方法に対しても同じ考えです。悪いところしかとれないなら、トレーニングにならないからやめることです。

 トレーナーやアーティストをまねするのは、そういう意味で気をつけなくてはなりません。多くのケースでは、悪いところしかとれない人が多いからです。よいところはとれないものです。

 頭で考える人は大体、こうなります。それでも頭で考えざるをえないタイプだとわかれば、頭を切るために、自己肯定の理論づけをするのでなく(そんなことはトレーナーに任せて)、学べるものから学ぶという実質本位へ踏み込むことです。

 

 私が一つの方法を押し付けないのは、万人に共通の方法ほど、こと声や歌の分野において、毒にも薬にもならないものはないということを知っているからです。声は、日常のなかで使っているからです。よい薬ほど強い毒です。うまく取り扱わなくてはなりません。

 多くのヴォイトレ経験者は、心身面でのリラックスという、プラシーボ効果だけでヴォイトレを使っているとさえいえます。それでも私はよいと思うのです。何事も必要度に応じてしか身につきません。

 

○クリエイティブなスタンスをとる

 

 私のレッスンでの尽力は、ヴォイトレではなく、その必要度を高めることにとられています。ですから、レッスンにおいて、大半の人に与える主たるものは精神的なものであると思っています。

 その人の感性、感覚という器が大きくなればおのずと体、声、呼吸の足りなさがわかります。誰のどんな方法でもためになるようにセッティングされていくのです。そのスタンスなしには、頭でどんなにわかっても身にはつきません。

 トレーナーが余計なことをいって、その人が自ら気づいていく大きな流れを妨げてはいけません。頭でっかちにさせてはなりません。知識や科学的な理論づけが、補強でなく懐疑のために使われているなら、大きな誤用です。

 私が科学的、医学的に探究しつつも、レクチャーやレッスンにそんなことをみじんも持ち出さないのは、そのためです。精神的なものもできたら分析やブログですませたいと思って述べているのです。そんなことを気にし始めたら、無心にコツコツやっていくことで少しずつ身についていくことさえ妨げてしまうからです。

 

 自分に合うことと人に合うことがすべて同じなら、やりやすいでしょう。でもそんなつまらないことはありません。私はミニ福島をつくりたくないから、多くの異なる才能のあるトレーナーやスタッフと共に場をおいています。生徒を決してミニ福島にさせないためです。

 

 それにしても今の日本人の、自ら学んで創りだそうとせず、正しい先生、正しい方法を知りたいという単純な答え探しには、ほとほと閉口することがあります。

 歌やせりふの表現にはそんなものはありません。理論も方法も学会ではありません。条件や制限のない正しさなどまったく問われません。

 理論や理屈は、私が本を書くのに最小限、論じる必要があって、あるいは、ことばで注意して具体化していく、効率の悪いアプローチとして、つまり、レッスンやトレーニングを形づくるためにあります。これは、現場そのものの現実よりも、普遍化して、次の世代やここにいない人に伝えようとするため、本や会報でのやむをえない手段です。

 

 あなたの声、せりふ、歌で示すこと、その邪魔をさせないことです。トレーナーも邪魔しないことです。

 世界中には、いつの時代もたくさんの手本があります。それに大いに学び、学べるようになっていってください。

 Be Artistは、Be Creativeからはじまります。ここではあなたがそうなるところからみているつもりです。

 

 

 

★○歌謡祭と紅白(2011年末年始総括)

 

 <フジテレビのFNS歌謡祭>ほとんどデュエットでした。7080年代前後のヒット曲と、新旧バランスをとって、二人の歌手(新といっても、新人は少ないのですが)の組み合わせです。

 

 歌謡曲は、由紀さおりさんの世界的ヒットでした。組んだ相手がノリノリの人気上昇アーティストだったとはいえ、その歌声は、日本ブームにも乗っかったようには思えます。1970年代までの歌謡曲や演歌のレベルの高さを作詞作曲、そして歌唱ともに再認識させられたことになりました。

日本のバーバラ・ストライサンド、サオリ・ユキと紹介

「マシュケ・ナダ」オーアリア アイオ オバオバオバ

ある意味、1969年の気分を代表する歌です。

6歳、プロの童謡歌手~16歳デビュー(安田幸子)

1968年「夜明けのスキャット」で大ヒット、210万枚 20

69年紅白出場

セルジオ・メンデスと出会う

 

 <紅白歌合戦>初登場のレディ・ガがと、椎名林檎さんがいい味を出していました。和田アキ子さんほかは、一時の低迷から脱せてよかったです。歌そのものを忘れさせるほどの力を西田敏行さんなどにみられたのはよかったです。紅白も、今年の曲はどのくらいあったのでしょう。

 その歌手が歌ってこそプロの歌という価値はなくなりつつあります。あまり日本の場合、他人の曲をうまく歌えるプロ、ものまねでなく、オリジナリティにもっていけるプロが少なすぎるからです。

 この原因は

1.基本の力のなさ

2.応用力のなさ(オリジナリティ)

3.ファンの判断が、歌唱そのものについて行なわれていないこと

などです。

 

 批判する気はありません。TVTV、ラジオ→TV白黒カラーと、ビジュアル面で発展してきたからです。音で聞くには、集中した時間と環境が必要です。今、TVは、ゲームほどにも集中すべき対象になっていません。業界については述べるときりがないので省きます。

 

 歌の力、歌手の力が落ちたのです。これは、私たちの責任でもあります。そういえば、スポーツ、野球(特に巨人)やラグビーも、プロレスも同じように低迷ですね。お笑いは、落語も含め若い才能が集まっています。歌よりもものまねの番組が多いのは、ただお笑いでなく、それだけ才能と芸のレベルが高いということです(とはいえ、お笑いの芸としてではないのは残念ですが)。

 

○視覚効果と耳の力

 

 伝わるとか感動させるというのは、本物であろうとなかろうと、映像特有のみせ方にマッチすると「すごい」となるのです。

 私は目を開けても、つぶって聞くのと同じ聞こえ方ができるようになるのに、10年以上かかりました。それからは、目をあけていても同じように聞けます。今はアカペラでも、バンドの音も合わせて聞こえます。

 

 それにしても、メークアップの技術は、進みました。

 ものまねが得意な人は、歌手としての一面での才能は豊かです。カラオケの先生やトレーナーなら、とても上手な教え方ができるかもしれません。音大のトレーナーよりも、ポップスの歌手や作曲家などのほうが(もちろん役者、声優にもうまい人は多いです)器用でしょう。正しく美しく上手にうまく歌えるからです。

 しかし、この基準は、私が育てたり関わったアーティストの条件とは違います。姿勢、表情やしぐさを計算して動かさなくても、声色や共鳴などをコピーする力と共に、ヴォイトレの基本の力がつくと伸びてくるものです。でも素人なら、ものまね芸人の表情や体の柔軟性、声のコントロール力やプロとしてのステージングに見習うことは、よいことだと思います。

 

○ものまね芸人とカラオケバトル

 

 ものまねの人や腹話術の人も、声を扱う私の大きなテーマの一つです。プロの歌手を目指す人は、作詞作曲の力が重要となりつつあるのですが、一方で歌唱力としては、お笑い芸人やタレントのものまねレベル(カラオケマシーンで90点レベル)を一つの目安にするのもよいでしょう。ちなみに、カラオケバトルを見ました。

 

1.プロといっても、力の差の大きいこと(とても低い人もいること)、衰えの早いこと(崩れる、デビュー時と違ってしまうこと)

2.崩れても伝わる歌唱と、カラオケの採点の基準の違い

が改めてわかりました。

 一般の方の多くは、(ゲストの審査員もほぼ同じですが)歌がうまいというのを、イメージ操作、つまりイリュージョン、視覚で大きく左右されています。

 

 私も学ばせていただくこと大です。いっこく堂さんは、表情に出さずに松山千春などをコピーしています。以前、口唇音であるマ行の発音などに奇跡を起こしました。コロッケさんは、異なるアーティストの表情をして、別のアーティストの声色で歌うという高度な声色加工の使い方をしています。彼ほどのプロになると、歌手本人よりも、多くの人の印象に残っているコロッケ流デフォルメ像を元にして、加工するので、声まねは甘くなるのですが、一流のエンターテイナーです。

 そうなると、あまりTVに出ない人から学ぶほうがわかりやすいということです。彼らの創意工夫に対して、歌い手は負けているということです。

 

 年始のものまねグランプリで、青木隆治さんに勝った父、ツートン青木さんは、選曲(細川たかし、美空ひばり)とTVというメディアの特性を予選でうまく活かしていました(隆治さんは、「愛のメモリー」に挑んでしまった。彼については、よく聞かれました。

 

 ガラコンサートは、若返ったのに、私にはいつも以上に物足りなかったです。

どちらも職業柄、TVの録画でみただけです。お正月、ウクライナ歌劇団のトゥーランドットをサントリーホールでみました。

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