97号
○声とその専門化の領域
声のトレーナー、それに似た職の資格をつくるという話は、いろんなところから持ち込まれてきました。私はいくつかの理由で保留しています。
1.定義ができない
2.出身畑(出自)がさまざまである
3.すでに多くの人が名乗ったり使っていて、それぞれに実績もある。今も多くの人が使っている
4.私的(個人的)あるいは、一門(流派)にならざるをえない、共通化にはよい面とともに悪い面もあるが、その範囲について見当がつかない。
ということです。
これには、MT(ミュージックセラピスト、音楽療法士)やST(スピーチセラピスト、言語聴覚士)のように、医療介護の方面から定義付けるアプローチもあると思います。
見当がつきにくいのは、整体やパーソナル(フィジカル)トレーナーとも似ています。カイロプラティクスなどは、狭義に定義し、試験制度、教育体制などを整えているようです。それを国際的に確立できたと、石川光男先生から賀状にて教えていただいたところですが…。
話し方などの分野も似ています。カリスマトレーナーの周りに一門ができていることもありますが、まとまってはいきません。
話し方のトレーナーは、元々、話がうまいのでなく、真逆だった人が、努力して一人前(もしくは一流)になったことで、そのプロセスを方法として伝えています。多くは、あがり防止といったメンタル的な要素です。
日本語の話せない外国人がいて、日本語教師が成り立ちます。日本人に日本語教師が成り立たないとまではいいませんが、日本人に日本語を教えるのは英語教師ほどの需要はないでしょう。
声や話や歌は、かなりのところ日常化しているので、何をもって身につけたのかがわかりにくいし、基準をどうするかが最大の難点です。
話のプロというなら噺家(落語家)です。二つ目、真打などの協会の定めるグレードが目安です(これも、2つの協会、2つの離反した流派)。
そこからみると、楽器の上達グレードなどは、中級者くらいまでは、かなり簡単に作成できます。楽器メーカーが、行なっているのが日本らしいところですね。
日本語においては、音声以外のことが主となりがちです。音声でも、発音、滑舌などの正誤で判断しやすいものだけが、習い事となると、プログラム化しやすいわけです。
○声の多彩さと難しさ
なぜ私が他の分野の専門家やビジネスリーダーなど多彩な人と関わりあうようになったのか、今もそうしているのかを述べたほうがわかりやすいかもしれません。それこそが、声というものの多彩さを表すからです。表現ということを追求すると、すべての人間の活動に関わらざるをえなくなるからです。声―表現に関わらない人は、世の中でほとんどいないといってもよいからです。
整体師は、心身のことにおいて、その人の実力で処方のレベルとしてもピンきりです。また、一人でどこまでできるかということも、人間であれば、すべてに万能とはいえないと思います。相手あってのものなので、まさに、健康法のようなものと思ってよいでしょう。
それにしても、今の専門家、特に体のことを扱う医師やそれを伝えるマスメディアの、一つの方法と理論だけをシンプルに、一律、誰にでも効果のあるようにとりあげる風潮は危険です。
〇専門とは何か
声については、専門家のようであって、専門は何かといえば、出自(出身畑)のことに過ぎないのです。それがアナウンサーなのか劇団員(役者)なのか、歌手なのか、演出家なのか、セールスマンか、声優なのか、ということになります。ただの人でも、人生経験をたくさん積んだら、専門家ということもあり、でしょう。まして人心を掌握するために声を毎日、使ってきた政治家や社長、セールス、渉外、交渉、水商売なら、声の表現技術の専門家です。
ですから、誰にでもできる、誰に対してもできる、と思ってしまう危険性があります。そこで、ここでは2つだけ注意します。
一つは、専門家というのは、自分の専門の範囲や能力の限界を知っている人です。
もう一つは、専門家は、他の分野の専門家の範囲や能力を知っていること。自分よりもふさわしい人材がいるときは、そちらを紹介できる能力、人脈を持っていることです。
私を頼っていらっしゃるのは、この2つをもっているからです。
研究所内にも多彩な人材をおき、外にもそういうネットワークを持っています。そこで我を離れた判断ができるのが、専門家の価値です。素人にはできない、専門家ゆえの強みです。
ですから、皆さんは次のことを覚えておくとよいでしょう。
1.世の中に万能な人はいない
2.その専門家の専門領域と、その専門外を知ること(本人に聞いて、きちんとそういうことを話せる人は少ないです)
3.今、ここでの判断が、ベストとは限らない。ずっとその疑いはあってもよい。今の楽や今のもっともよいのが将来によいとは限らないし、むしろ可能性を早く狭めることもあるようなことです。
あなたにとっての世界一の優れたトレーナーに会うのは、あなたが優れていくことによって、そのあとに起こってくればよいことです。
私は、それを妨げない努力をしています。よりふさわしい人を紹介するというのも、医療などでないとわかりにくいものですが、そのためにあなたが判断力をつけられるレッスンやトレーニングをセットするように心がけています。
○声の可能性と限界
専門家とは、わからないことがあること、わからないことについてはわからないとはっきり言える人です。これが今や、「何でも努力すればできる」などと、いらした人を説得する傾向の強い人ばかりです。本人さえもできていないことや努力していないことも勧めていることが多いのです。
トレーニングは誰でも始められ、やることはできます。それを人に問うことになると、可能性よりも、限界が突きつけられます。本当の壁を破ったり超えたり、見極めて方向を変えたりするために、トレーナーやメンターを使うのです。自分にとってどうなのかは、最終的に自分で判断するしかないからです。
それでも、多くの人は、好き嫌いや一時の他人の評判や権威に価値をおいてしまうものです。その眼をくもらせないためにレッスンがあります。しかし、その眼をくもらせてしまうレッスンのほうが多いのは、甚だ問題です。
観る眼を求めている人が少ないというのは、よく感じます。人間的、性格的に好きなトレーナーといたいというのが本音というケースもよくあります。眼力をつけるために他に学びにいくのです。
あなたの才能の発掘と、それを活かす学び方を身につけていくのが、レッスンだとしたら、楽しいことばかりではありません。己を知り、限界を知り、そこから可能性を、努力で得ていくのです。目的は目先でなく、一歩も二歩も先にあるのです。
〇ヴォイトレの複雑さ
医者も整体師もプロデューサーも、分野を問わず、優れた人はそういうことをよく知っています。彼らは知識や時代、歴史を、先人やライバルから学びつつ、現場で最良のセレクトをできるように努力します。本能的、直感的なものを大切にしつつ、科学的・客観性をも整合させようと日夜、努力しています。それはすぐに結果の出るものではありません。
まして、このような未熟な分野で、未熟な人の集まるところでは、科学や理論といいつつ、もっともそこから離れたもの、偶然の経験や実験、少ない症例などで自己証明したと思い込んだことだけを主張している人も少なくありません。
大切なのは、一時、自己否定することになっても現場で効果をもたらすもの、短期でなく長期にもたらすものを見抜く力です。
未熟な分野は未熟な人が集まります。頭であれこれ考えてまわりと同調し、多数決のような感覚で判断します。その結果、いつまでも烏合の衆から出られなくなります。未熟と思えば、分野を超えて、すぐれた分野や人に学ぶことに尽きます。
〇失敗、未完成の現実直視
声や歌は、日常のものがうまく育っていないというのが現実です。ある意味で、日本における声の問題はその未熟性の結果なのです。ですから、そこを見据えて、今の自分自身の判断を保留しなくては、そのままで昇華しないのです。
ヴォイトレが複雑になっているのは、心身の問題、未熟さが声に結果として出てくるのです。
気分のよいとき、体調のよいときの声がよいのは、生命体なら当然です。レッスンの目的にとることではありません。現実に多くのヴォイトレは、そのスタートラインの前提(入口)のはずのことが目的化しつつあります。トレーナーも心身リラックスに重きをおかざるをえません。病気や医療の副作用で人並みの声のリハビリが最終目的の人は別です。彼らには、日常を取り戻すこととして、それが大切です。
しかし、目的をアップすることでもっと効果のあがる人が、そこで満足することはもったいないことです。必要性をアップさせる、モチベーターとしての役割が主流となりつつあるのが、ヴォイトレに限らないのではないのでしょうか。
レッスンにヴォイトレそのものよりも自ら生きてきた人生の経験の力を使うようにしています。そこはまだ未熟、世の中には人生の大家はたくさんいます。トレーニングとうまく使い分けてください。
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○伝統へのアプローチ
能や狂言観の観劇をすることになり、すべてのせりふが入ってくるようになりました。慣れとは恐ろしいものです。邦楽、長唄、詩吟の指導などにもこのような経験があったら、もっと根本から体現できていたのでは、と思います。
歌から始めて、カンツォーネ、オペラからシャンソン、ラテン、エスニック、さらにはゴスペルからミュージカル、ジャズ、落語、お笑いへと、相手も役者、声優、一般の方と時流に翻弄されつつ、日本の芸と、ビジネスマンや経営者の声に接してきて、今があるのですね。
形のあるものに対しては、形をこわす。それが体制や権威や伝統のようなもので、つちかわれていて、こちらが微力なときには、その根っ子の部分で専門性を発揮しながら、時間をかけます。本質を把握して少しずつ応用していく。
これは私が若く無力なときに、実力のある歌手、演出家、作曲家などに学んできたことです。
ヴォイトレにおいては、それは、発声器官や体、呼吸、共鳴という人間としての共通の体という楽器、時代や国を超えて人の心を動かす一流の表現、の両極です。
アナウンサーは、発音、アクセント、イントネーション、ナレーションのプロですが、発声の専門とはいいがたいとも思います。報道で求められる正しい伝達の声と、芸術の感動の伝わる声は違います。美しい声と印象に残る声も違います。一流のレベルにおいては、職分よりもその人個人が問われるので、こういう比較は一般論でしかないのですが。
○声の基礎と役割分担
声の基礎づくりについてみていきましょう。
第一レベルは、心身の基礎。スポーツ選手に対するメンタルトレーナー、パーソナルトレーナー(フィジカル)、マッサージ、整体師、医者、栄養士などです。
第二レベルは、専門へ特化するためのそれぞれの基礎。たとえば野球であればバッティングコーチやピッチングコーチにあたります。それぞれに目的も専門も違っています。
ヴォイトレを、大きく3つに分けると、
A.表現 ―本番、ステージ、レコーディング ―ディレクター、プロデューサー
B.歌唱 ―作詞作曲、アレンジャー、SE、ヴォーカルアドバイザー
C.発声 ―ヴォイストレーナーほか
もちろん、私は、A~Cを通してみる立場です。それぞれの専門家との共同作業をしています。Cは声楽家のトレーナーと発声の基礎づくりのところで行なっています。このもう一つ基礎に、ゼロレベルとして
D.健全な心身
というのがあります。これが最近は大きな課題です。
そこで、医者(音声専門)、整体師、メンタルトレーナー(心療内科、精神科医)、ST(言語聴覚士)、MT(音楽療法士)とも連携を深めています。
最近、広義のヴォイトレには、ジム、ヨーガ、(占い、ヒーリング)などあらゆる心身運動の分野が混在してきています。トレーナーが、他の専門や関心をもっていたら、おのずと、これらは混じってくるものです。それは、声が日常生活とともにあるからです。ただし、セラピーの方向については、医療などの専門家以外の人が言及するようなことは、気をつけなくてはなりません。
○2つの面からのアプローチ
私も多くの専門家と交わることで多くの分野の勉強、研究をすることになりました。声を扱う以上、「声のしくみ」(ヤマハミュージックメディア)で明らかにしたように、人間の活動領域全般に関らざるをえないからです。今も大学に行ったり、教育関係者とも、いろんな研修や研究をしています。
主として次の2つの面からアプローチしています。
1.心身、自己の確立
2.コミュニケーション、表現
参考までに、学校での教科としては
国語―日本語、読む聴く、朗読劇、せりふ
理科―物理、音声音響、生理―生物、成長、発達史、遺伝学、骨相、考古学
英語―語学、外国語、発音、聴きとり(ヒアリング)
社会―日本、世界、歴史地理
音楽
体育、保健、成長期、老化
大学であれば文化人類学、解剖学、哲学、美学など、さらに含まれるでしょう。
大まかには、国語、物理、生物、体育、音楽がメインです。
〇総合化とシンプル化
ヴォイトレにおいては、声の表現のあいまいさから、まわりの条件から、その本質が隠されてしまうことが多いのです。私のヴォイトレは、シンプルです。必要なのは、その人とその声だけです。それなりの人はすぐわかってくださいます。その信用やレベルということが知りたいなら、それは私が私の声で実現してきたところです。研究所としては、私の選んだトレーナー、スタッフに、外部の協力者の総力で、あなたに対応することとなります。
せりふも歌も、ステージもレコーディング、放送などに必要な声も、いろんなものの総合物です。それをすべて一緒に考えるのは、あまりに乱暴です。
野球チームなら、優勝という目的に向けて時間軸(タイムスケジュール)とともに、チームメンバー(構成)を考えて、そのメンバー一人ひとりの問題をみるでしょう。ここでも一人のなかのいろんな問題をみていきます。
レッスンは、いろんなレベルでいろんな目的で行なっています。ピアノをつけたり、マイクやライトを使うこともあります。それは、一つ上の目的のためです。声をみるなら、声をみればよいし、そこから声を直したり、鍛えたり、変えたりしたらよいのです。
○ハイレベルなレッスンとは
私が声と発音を分けるのは、発音はチェックしやすく、誤りを直しやすいからです。歌でも音程やリズムのミスは、そこを直すのですが、それとヴォイトレとは、分けなくてはいけません。
昔から、歌のレッスンはありましたが、私の考える本当の意味でのヴォイトレは行なわれていませんでした。声楽家でさえ、そこを飛ばして、歌唱のテクニックから発声を始めていたのです。ポップスでは、作曲家がピアノでメロディを教えて、歌詞を合わせて一丁あがりでした。
それでも、日本では歌心ということばで、歌手志望者は、生活のなかで仕込まれたわけです。「歌をトータルで伝える」ために「その環境や習慣を与える」のは、素晴しい素質のあるものには最高の教育法です。
あたかも、芸人や役者は舞台に立たせたら成長する、子どもは川に落としたら泳ぎを覚えるといった、ハイレベルでのハイリスクな方法です。真の天分のある人は、早く大きく育ったのです。
そのやり方は、今の日本では難しいでしょう。多勢のなかから抜きん出た力をもつ人を師が選ぶというシステムの上に成立したのです。それは、日本の伝統芸能や相撲などにも通じます。欧米でもすぐれたアーティストがプライベートで同じことを行なっている例があります。世界中から天才を集めて教育するのです。しかし、マンツーマンで教えるのでなく多対多でチームをくんで教えるのが一般的です。
才能や素質にめぐまれず、頭でっかちな人はこういうシステムを頭から否定します。それだけの修行をしていない人、その境地まで達していない人が何を言っても仕方ありません。
嫌だからやらないというのも、アーティストの特権です。私は本人の意見を尊重します。しかし、それを嫌と思うところで嫌と思わない人に負けているともいえます。
世の中にでていく人にとって、自分の好き嫌いなどは超越しているのです。
「私が」「私が」といっていると、レッスンの効果も限られたものになります。
声に日常性のなかでこれまで培われて動いてきたのです。ハイレベルにするには非日常性と、とても高い必要性を与えることです。それが、トレーナーの真の役割です。
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