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99号

○表現と基本

 

 表現と基本ついて、私は、いつもヴォイトレの念頭において考えてきました。まとめたのを音楽之友社から発刊しました。ここでは、緻密に述べてみたいと思います。

 

 一つのトレーニングをていねいに説明すると、これは何に根ざしていて、という基本と、これは何に使えて何になるという応用が入ってきます。本を書いてりレクチャーしたのが、そのために役立ちました。

 それを「その場での修正」と「長期的な改良」の違いとみます。一軍の試合の監督の采配と、二軍でのトレーニングコーチのように、対象も目的も役割も違うということです。

 プロデューサー、演出家と、医者やパーソナルトレーナーは、同じ相手に対しても違う視点でみています。それぞれの目的、レベルの設定をしているのです。ヴォイストレーナーは、それらを全て兼ねることもあります。とはいえ出身やレッスン目的により、おのずと偏ります。私のところでは、私が 基本の基本と応用(の応用)をみて、基本をトレーナーに振り分けています。ときに、即時対応(本番、舞台やオーディションなど)にも応じなくてはいけませんが、そこに焦点を当てると本当の意味で高いレベルに、人は育たないのです。

 トレーナーには、声の基本、共鳴発声呼吸、つまり、声づくり、体づくり、感覚づくりをメインに取り組んでもらっています。一人のトレーナーでは徹底してできないことも分業体制で、それぞれに専念できるようにしています。トレーナーも専門別に細かな役割分担をさせるときもあります。

 

〇静かなレッスン

 

 レクチャーや一般向けのワークショップでは、基本とともに基本の応用を、それがなぜ必要とか、それを行なえばどうなるのかの説明が求められることがよくあります。個人レッスンでも最近はその傾向が強いです。私のところもそこで1万件のQ&Aを公開しています。

 それは、レッスンが質疑応答で終わってはいけないからです。私が言語化して、文章で伝えること、会報や本で公開するのは、レッスンで、声だけ、あとは無言、無音で進めたいからです。ですから、これを読んでいる人は、レッスンでは質問にくるのでなく、静かに淡々と自分の声に集中する時間を大切にしてほしいと思っています。大切なのは説明でなく、本人の気づきです。変化、感覚、体の育成です。

 表面上の効果を急ぐ人が多いので、サービス精神旺盛なトレーナーは、そこでのわかりやすい説明で相手を納得させる方向にレッスンをプログラミングします。

私は、本や会報をその役割に使ってきたので、レッスンでは静かです。本ではていねいなのにレッスンでは教えてくれないと思われたら本望です。レッスンは個別対応ですから、その人の人生の時間軸、空間軸から捉えていくので、そんなに簡単にアドバイスできません。

 その場を(つまり相手を別の思惑で)満足させるアドバイスはできますが、あえて避けます。ここのトレーナーも競争意識や親切心など、生徒のためにたくさん話すようになると、私はたまに釘を刺します。

 

〇入り口の先

 

 レッスンは、イベントではありません。トレーナーのパフォーマンスをみせるところではないのです。とはいえ、私の声を聞きたいなら、レクチャーにいつでもくればよいと、機会はオープンにしています。声はごまかせません。

 話やパフォーマンスでみせなくても、基本は、声そのものです。声は声として発したらわかるものです。シンプルに示せばよいだけです。ですから、私も声は出します。しかし、本当は生徒の声だけにレッスンの時間が費やされ、私が無言なのがベストのレッスンです。そんなことがわからない時代になってきたと感じます。

 

〇パフォーマンスとしてのレッスン

 

 応用、演出にすぐれたトレーナーは、それはそれで使いようがあります。「こうして、こうすれば声が出るでしょう」と、人気のあるパーソナルトレーナー(多くはフィジカルトレーナーを指す)もそうですね。5分でウエストがくびれるとか、バストが大きくなるとか、それは嘘ではありませんが、真実ではありません。とはいえ、TVに出るほどのパーソナルトレーナーは、それを知ってパフォーマンスとしてやっているのでしょうが。それをまねているだけでバックの基本のないトレーナーは、早々にいなくなるでしょう。

 大切なのは、それが将来相手の大きな可能性につながるようにしているかです。演出してみせるのは、入り口としてはいいのですが、入り口から先がない、そのために、いつも入り口だけで終わっているケースが多いのです。フィジカルでは若いトレーナーに多いのですが、ヴォイストレーナーでは、ベテランにも少なくありません。役者や演出家のワークショップにもよくみられます。この入り口を出口、目的とし、セッティングしてみせると、一日でみるみる上達するような、実感のするセミナーになるからです。

 

PS.「インチキな人は、有名人を宣伝に出す」とTVで流れていました。有名人が自分でPRするのはかまいませんが、私たちの方から、こんな人がきていますというのをPRしません。実績を上げていたら紹介で人はきます。即効果を求めていらっしゃる人は、本当はトレーニングの対象にはなりにくいものです。お医者さんの紹介で、本当に困っている人がきます。少しずつよくなっていくのをみると、急いで成果を求めてはいけないと思います。

 

〇出口が入口

 

 声については案外と他の専門家も見抜けないことが多いようで、嘆かわしいことによく直面させられます。私としては、そこを他のどんなトレーニングもそれもあり、それもよしとした上で、一線を画しています。その出口が入り口にしか過ぎないことを知ってからいらっしゃればありがたいと思っています。

 一般の人には、手が届くような目標にしてみせて、モティベートや自信を起こさせる、それは、メンタル面に問題のある人にも、場合によっては、よい処方箋となるからです。

 多くの人に対して短い時間で効果をみせなくてはならないとき、専門外やまったくの畑違いの人にヴォイトレをアピールするときに、わかりやすく伝えられるのです。私もときおり利用しています。

 たとえば、研修で、早口ことばを入れると、早く打ち解け和気あいあいとなります。体のこと、体操や柔軟なども同じです。発声と関係しているから、程度の低いことですが、一般受けも、玄人受けしてしまうのです。

 本当の問題は、全体ではなく個、今ではなく将来に対して、どのようにトレーニングをセットしていくかということです。

私がグループレッスンをやめて個人レッスンにした第一の理由です。他人をみて学べるというメリットをなくすのは勇気がいりましたが、より大きなメリットをとりました。

 

 自分の今をみる、今の体、今の24時間、次に過去をみてこそ、本当の自分の将来を推し量る力がつくのです。これまでのすべての問題が今の声(発声に関するすべて)に出ていますと、そこを、どこまで厳しくみることができるかどうか、今の声をどこまでていねいにコントロールしていけるのかという感覚=体に入ることが大事なのです。

 

○頭を空っぽにする

 

私も、のどや体について、随分と詳しくなりました。でも、ことばには専門用語や知識は、なるべく出さないようにしています。中途半端に頭でっかちにするとあとで苦労します。事実よりもイメージの言語が大切です。ことばや知識、理論にこだわる人は、発声がよくなりません。私のところには、本や、メルマガの読者でいらっしゃる人も多いので、そこを注意しています。

 トレーナーは人の体を扱うので、最低の知識は、健康や安全のために必要です。しかしトレーナーについているなら、そこはトレーナーに任せればよいのです。レッスンでは頭を空っぽにしましょう。

最近はメンタルな問題も大きいです。どうしても正しい知識に基づいてとか、科学的ということを重視する傾向が強いからです。

 私のところは、そういうものを測る専門の器材があります。、そういうもの関心があっていらっしゃる人もいます。しかし、すぐれたトレーナーの耳には及びません。たとえば、声帯の振動数が1秒に何回という世界において、その回数を云々するようなことは研究者に任せたらよいのです。

 ゴルフのボールとシャフトのインパクトの角度が何点何何度などというのは、いくら知っても使えないでしょう。コーチが分析してアドバイスすればよいのです。本人は、ボールの行き先をみていれば、結果はわかるのです。角度でなく、全体のフォームとそのコントロール力で正していくしかないのです。そのまえに、同じスイングができる力をつけることです。

 

〇科学、医学とヴォイトレ

 

 科学が、アートの世界にまで入ってきたのはよいことですが、私は科学としての情報を集めて、使えないとことを説明しています。のどをいくらみてもらって、外科的な手術で解決できること以外については、メンタルの問題が大半です。心身ともに鍛えていくためにトータルのトレーニングをやるしかないのです。その当たり前のことがわからなくなっている時代です。

 何事にも、そこにいけばすぐに解決するなどということはありません。いろいろな理論武装をして、いろんなものを手を変え品を変え、やろうとしても、本当のことに気づけば、そんなものに頼らず、自分でしっかりと日々トレーニングしていくしかないのです。そういうところから、ここにはいらっしゃった人がたくさんいます。(Vol.250巻頭言より)

                                            

 声に関わる機能的な問題はいろいろとあるのですが、舌の長い短いなど、医学(手術)で直せないことは、自分をよく知って、最良の使い方を見つけていくのです。そのためにトレーナーを使うのです。自分を知るためにレッスンを使うのです。他の人と比べたり自分の悪いところばかり気にしてもしかたありません。

 声は最高の声、歌は最高の歌を目指してください。たとえ、そうでなくてもやってはいけないわけではないのです。他人になろうとは、しないことです。

 

○カラオケと初音ミク 

 

自分の声や歌が嫌だとか、めんどうだとなると、ヴォーカロイドを使うようになります。その是非はここでは問いません。クールジャパン、日本の商品文化として大いに世界で広まると良いと思います。生身でない分、24時間、世界中で同時に活躍できるのですから、デジタルは違う可能性があります。ドラムで32ビート、64ビート、128ビートが、打ち込みで可能といって使わないのと同じく、初音ミクが10オクターブで歌っても受け入れられるでしょうか。生身の体でハイC超えとか3オクターブに挑戦している人を、もしアートをめざすのなら、もったいないと思います。否定はしませんが、世界にはすでにもっとできる人がいっぱいいます。

日本の技術は、声や歌をカバーして「カラオケ」を開発、普及し、次に「ヴォーカロイド」と、先端のテクノロジーでフォローしました。のゲーム世代の耳=脳の変化もあります。アナログ=ラジオ・レコード、デジタル=ipad、パソコンとはいいませんが、人の感情は育ちでできた脳で決まっていくのです。私が嫌なデジタル音でうきうきする人を、おかしいとはいえません。目が疲れて、朗読で聞く人が増えています。このあたりを私は押さえていくところにしています。

 

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○一流と二流のプロセスの違い

 

 先日、ある高名な役者と話す機会がありました。そこで、一流として大成する人と、それに至らない人との違いの話をしました。

 考えてみると、研究所に、プロの人がいて、その上を目指してレッスンをしています。一方で、何とかこの世界で生きていこう、一人前になるというところを目指す人もいます。人並みの声に戻せたら、幸せという人もいます。

他のところでは、決してできない内容や体制で行なっているから、さまざまな人がきます。30%くらいの人は、よい面でも悪い面でも、他にはいくところのない人といえるかもしれません。ここは、すごくおもしろいところと思っています。

 

〇一流の感覚

 

 私が最初から研究所でめざしていたのは、一流の人材の養成です。心技ともにずば抜けたレベルに到達するためにレッスンとトレーニングがありました。スタートラインがプロへの指導だったために、必修でした。一流育成のために、世界の一流に学ぼうということで、声を徹底して学ばせたわけです。

 そののち、かつてのグループレッスンでは音楽の感覚までをプログラムすることになりました。世界の一流レベルの声、歌、そこから日本人の一流レベルの声、歌と、相違点を徹底して分析して、プログラム化しました。わかる人にはわかること、どのようにわからない人に伝え、わからない人をわかる人にできるかが、レッスンの目的になっていきました。これには個人レッスンの方が適していたのでスタジオも体制も大きく変えました。

理想を保ちつつ、どこまで現実にあてはめていくのかの試みです。いらした方だけでなく、私自身にもさまざまな示唆を与えてくれたと思います。

 

○オペラ歌手の基本に範をとる

 

 今、私は能という、舞うのも座るのも形があるもの、型の決まっているものに接しています。謡の声は、姿勢、肉体の制限下に調整しなくてはなりません。直立不動の合唱団で発声を最高にするためにそこから何をするかということに似ています。そこで私は、そういう職人肌の人を共に組むトレーナーとして選びました。

プロデューサー、演出家の注文に合わせて、声をコントロールする術を与える、これは、トレーナーをはじめたときの私の立場、やり方に似ています。演出家、プロデューサー、作曲家と共に選ばれたのに基礎力のない日本のプロ歌手に、私はレッスンしていたからです。基礎力がないと、タレントや役者に移るか引退、転職することになります。私の理想と裏腹に、現場での要求という現実に対処していたのです。それを直視して、基礎づくりをまでじっくりととりくめないプロダクションやプロとやるよりも、一般の人から育てようとグループレッスンを始めたのです。 

プロに対して、私は、表現と体(声)からみています。ここのトレーナーの出身はオペラ歌手が多く、全身から声を出して共鳴させる専門家です。現実対応の先に理想があります。一般の人、役者、声優を教えていると、現実に対応できるようにもなります。現実に対応してしまうようにもなってしまうのです。

 役者の声とオペラ歌手の声のもっとも大きな違いは何でしょう。それは、クライマックスの死ぬシーンで顕著に現れます。役者は死ぬ人になりきり、しぐさ、表情に同化した声を出します。オペラ歌手は発声を共鳴、スタイルを崩さずに通します。声ことば共鳴の優先順位が違うのです。

 役者や声優がたくさん学んでいる研究所なのに、声楽家中心のトレーナーにしているのは、私が声から全てを考えている立場をとっているからです。

 

○「早く」と「上に」の違い

 

 トレーニングとは、より早く、より上にいくためのものです。この「早く」と「上に」をきちんと考えなくてはなりません。「早く」とは、他の人が10年かけてたどり着いたことを、10年より早く達することです。それに対して、「上に」とは、その人より上にいけるということです。その人とは、師やトレーナーでもよいし、最高のアーティストでもよいでしょう。何年かかってもいくということです。では、上とは何かということになります。ここでは他の人の上というのをさらに超えて「深い」といっておきます。

 気をつけなくてはいけないのは、早くあるレベルにいけたからといって、誰よりも上にいけるわけではないということです。まして深くなるとは限りません。

 同じことをできるようになるのに、早くできた人のほうが、より上にいくのに有利と思います。早く活躍の場、機会と経験が与えられると、力がつくことが多いからです。

 しかし、人生、大器晩成型もいます。長く生きる人もいます。途中で失速する人もいます。

創始者や他からこの世界に飛び込んできた人と、二世三世といった人との違いもあります。オーナーとサラリーマン経営者、二世などの違いも関係ありそうです。

 

○姿形の制限と音声の成立

 

 日本人は、音声よりも形、耳よりも目を重んじてきました。声も話も歌も、ヴォイトレも、フィルターをかけてゆがませているというのが、私の持論です。

私は、研究所を、「音声、表現、(生)舞台での基本」を学ぶところとしました。目をつぶって聞こえてくる世界で、基準を確立しようとしたのです。日本のほとんどの分野がヴィジュアル中心になっていくことへのアンチテーゼ

です。

 詩吟、邦楽、歌舞伎、噺家の指導をしてきた私も、能と関わったときは、ためらいました。目をつぶって聞こえてくる音、声の世界での成立の基準のとりにくさでした。生の舞台や舞台裏をみたあとも、狂言はわかりやすいのですが、能は、衣装や舞とヴィジュアルあっての音声で、様式美中心です。型のなかに声を入れていくことで、音声の可能性は閉ざされているのかもしれません。節回し(音程、リズム)や声のトーンには、流派によって多様な価値観があり、音声を切って離せないでしょう。

 私は能のCD(音声世界)というのは、成立するのかというと疑問を持たざるをえないのです。詩吟、長唄はそれが主です。落語や狂言では、音声だけにすると見る面白さが失われるとはいえ、名人級であれば成立するでしょう。

 一流の音声を学ぶのなら、声楽家やオペラだけとはいいません。自らの体を中心に最高の音声(表現)を追求すべきです。そのときに形、姿勢や表情、ことばや発音をしないのです。これが私の考える声、発声の基本であり、ヴォイトレです。

 それに対して、一流に見せようと早く上げるなら、制限された型のなかでの使い方、体、声、歌を覚えて、コントロール、調整していけばよいのです。

 師をまねて守破離の手順を踏む日本の伝統芸では、時代を経るにつれ、守で終わってしまいがちです。伝承に傾いているからです。某歌劇団や某劇団から、二世三世ではありませんが、トップスターを真似て、早く途中まで育った挙句、そこに達しなかった人を山というほどみてきて、そう考えるのです。

 

〇今をみるトレーナーと先をみるトレーナー

 

 レッスンとして具体的に考えるのなら、両立は不可能ではありません。2人のトレーナーが、一人は今に、もう一人は遠い将来に対応するのです。「発声、声づくりと歌唱は反する」というのは、こういうことを言っているのです。どちらかしか選べないとか、矛盾して駄目になるのではありません。

本人の器が大きくなって、包括して昇華できればよいのです。消化してしまってはいけないです。

 職人はクリエーター、発注主の注文に応じてつくりかえます。芸術家はアーティストとして、自分の思うものをつくります。トレーナーはアーティストよりは職人であることを望まれます。役者や歌手よりも監督、演出家、プロデューサー、作詞作曲家、アレンジャー、SEあたりの方が創造的で、アーティストとして取り上げられるようになったのですから、トレーナーもアーティストであるべきというのは、私の立場です。

 

○救済と創造

 

 声から考えるのと、(体から)表現から考えるのは、大きな隔たりがあります。現代の人は少しでも早くばかりを結局求めがちです。早く楽にうまくなりたいというのは、学校教育=平均化=落ちこぼれ救済教育であります。(他国に模範をとれる工業化社会時代のもの)

 基礎はそれでいいと考える人は日本に多いのですが、私は、基礎こそ、創造的でなくてはならないと考えています。思えば、日本の産業は欧米の表面的なものまねでスタートしました。基本特許料を払っていました。今は、アジアが日本をまね、日本の基礎の部品を使っていないとつくれないのです。ところが、アートの分野は逆行しているような感が強いのです。

 日本の誇るべき伝統の芸は、今や風前の灯です。戦後、特に団塊の世代のアメリカ化によって、ロックやエレキギターに置き換えられていったのです。それでも楽器やダンスの技術はスポーツと同じく国際レベルに達しています。

 復興してピークにある落語、弱体化したもののすそ野の広いお笑い芸(人)、そして、かぶき者の歌舞伎の音声は、ときに胸を打たれます。世界で引けをとるものではありません。

 トレーナーとしては、落ちこぼれ救済での実績を元にして一流の才をつぶすようなことを気をつけなくてはいけません。才能のある多くの人の将来は、そう簡単に見抜けないものです。

 私は、ひと声については、それぞれにすごい研究所のトレーナー(オペラ歌手ですから)ですが、その点の自覚と自戒を促しています。ここに来ないと救われなかった人の声を助けること、それと、どこでもやれる力があるからこそ、ここで他のどこよりも進歩させられたという人を輩出すること、これが今からの研究所のあり方となっています。

 

○レッスンとPR・個人情報

 

 研究所の出身者やここにいる人のこと、有名人などを聞かれます。私は、ここではみかけても口外しないようにお願いしています。

 トレーニングというのは、人にみせるものでありません。一人で静かに、たんたんと、地道に積み重ねなくてはならないものです。レッスンは、そのためのアドバイスであり、確認です。トレーニングがベースで、日常の生活で音声の環境や習慣を変えることが求められます。体、感覚の条件づくりのペースメーカーと思っています。そういう環境を守れなくてはすべて、個室の個人レッスンにした意味もなくなります。

 ですから、私もレクチャーでは饒舌で、サービス精神旺盛です、方針についてはたくさん説明しますが、レッスンでは寡黙でありたいと思っています。

 

 かつてのグループレッスンでも、私は一言もしゃべらない、来た人が主役のレッスンをめざしていました。ライブでも、合宿でも、MC役の私が声を出すようになるにつれて、終わっていったたと思います。

 自分の声を自分で聞くことがとても大切です。メールでQ&Aをして、レッスンは「話よりも声を」と考えています。

 トレーナーが、たくさん話したり、たくさん見本をみせると、最近は、たくさんやってくれたということで、受けられた人の評価は上がります。それは主役が違います。

 レッスンにくる人がレッスンをするのです。声を出すのです。この時代、私のように沈黙で伝えるという技は使えなくなっていくのは、困ったことです。

 

〇レッスン環境の保持

 

 オペラ歌手でも医者でも、若くして世に問う、持論をもち本を出したりすると、日本の社会では、ねたみ、そねみ、嫉妬で、疎外されることが少なくありません。一人前でなく、世にも知られていない若さで、人に教える、ポップスや役者、一般の人に教えに行くこと何事かというような風潮はあります。歌手が、医者に行くのも、実力不足、管理不足とみなされ、選抜に影響したり、役から降ろされかねない、精神科医や心療内科となると。この時代錯誤の認識は困ったことです。

 私はどこにも属さないので、何を言われても利害関係がない分、どのプロダクションとも良好の関係を保てます。どこかに推薦してもらっているのでもないから、どのオーソリティ、専門家、学者や医者ともやっていけます。

 ホームページに具体的に名を出さないのは、私の責任の下、レッスンに集中する環境を保持したいからです。

 

 芸能人も有名人も、ここでは一人のレッスン生です。他で話せない苦労や厳しい立場におかれている人も多いので、声を中心に応援をしています。隠れ家的に利用ができるのが最大のメリットです。紹介で来られますので、PRは出していても、活動は別、レッスン室のなかでトレーナーと個別にレッスンは行なわれています。

 関わった人を例に出すのは、どういう分野の人がいるのかはヒントになるからです。体験談も、職業、年齢、性別があれば、伝わるものが大きいと思います。しかし、ここは常にプライバシーを優先しています。私の発言でも、今は個人の名を出すのは控えています。

 

〇充実感と実績

 

 トレーナーや医者というのは、職業上、個人情報の秘匿が義務です。いらっしゃる人も、あまり他の人に知られたくないことを話せます。それがレッスンに関係することもあります。メンタルのケアが入るので、精神科医と同じようなことに気をつけるようにしています。

 トレーナーにも、生徒さんの情報の扱いには厳しい契約をしています。生徒さんの情報も個人が特定されることは出していません。

 トレーナーを評価し、そのトレーナーに感謝して、名を挙げるのは自由ですが、ここでは、それも困るトレーナーもいます。

その人が、トレーナーに育てられたと思うのは自由として、トレーナーが、この人を育てたというのは、傲慢に思います。私は、関わったとか、ここにいらしたというところまでしか言いません。

プロでなくとも多くのトレーナーについていることもあります。他のところに行って、同じか、それ以上の効果が出ていたかもしれません。充実感や満足度と、実績とは別です。

 私は、ここのトレーナーをほめられるよりも、その人が、トレーナーを利用して、自らの夢を実現された、何かを変えることができたら、嬉しく思います。

有名な人がたまたま来て、数回、接したくらいでその名を挙げるような人の神経はわかりません。人は、10年、15年と長く付き合ってこそ、信頼、信用となるのです。どうして12年くらいのレッスンで、成果や結果をPRできるのかと思います。人は人、です。

 

○方法やメニュではない

 

 他のところのレッスンの方法やメニュ、考え方、理論、説明、関連商品などについても、正誤を知りたく、いらっしゃる人がいますが、私は他のところについては寛大です。

ことば、知識、科学としておかしくても、ペーパーテストではないのですから、成果が出ていたらよいのです。ことばや理論を読めば、大体、どの程度のものかはわかります。

 それに惹かれる人はそのレベルですから、そこからスタートすればよいのです。優れたら、次のステップ、次のトレーナーへ進めばよいのです。

どっぷり浸かっても、本当に全力でやっていくと必ず次につながります。侮いを残すのは、全力でやらなかったからです。全力でやれなければ、やれる環境にしていくことです。どこにいくとか、誰につくではなく、それを元に自らの環境や習慣、生活をどう変えるかが本質的な問題です。そのために自分のセンサーを磨いていくことです。

 私はレッスンで、声がよくならなくとも歌がうまくならなくとも、センサーが磨かれ、基準が一流レベルに高まっていればよいと思っています。おのずと成すべきことがわかるからです。すると、そう行動し、必要なこととめぐり会えるからです。

 その基準があれば、トレーナーにそれを満たす材料をもらえばよいのです。レッスンではチェックして、目的とのギャップをみて、その材料をもらいます。トレーニングをしてギャップを埋め、レッスンで高い目的をもらいます。それを自らの必要性として深めて満たしていく。それが研究所の求めているところです。

 評判や雰囲気に影響されるのではなく、本質をきちんとみることです。長く多くの人とやっていける人は、本当に少ないのです。5年で95%の会社は潰れているます。誰も潰したいのではないのに、あたりまえのことがあたりまえにできていないからそうなるのです。

 私は、23年の関係で、人を信用することも、評価することもありません。寛容です。誰から何をいわれても、その人を否定したり、関係をこちらから絶つこともありません。よいところをみつけていく、それは基本、大切なものが発酵していくのに要する沈黙の期間なのです。

 

○天のやり方、地のやり方

 

 天才の俯瞰的な物の見方と、秀才の俯瞰的な積み重ねの二方向からのアプローチが必要です。

 どんなに毎日トレーニングしていても、それが日常、あたりまえとなると次のレベルが求められます。常に非日常を日常化して、そこに非日常をセットする取り組みが求められるのです。私は、これを「状態づくりから条件づくりへ」、つまり、今の状態のベターを取り出すことは、将来のベストを求めることの前提としています。しかし、必ずしもつながっていないこともがあるのです。

それをくい止めるために、頭が空っぽにするのが必要と考えてください。

 私は今、一番出しやすい声からアプローチさせますが、その声イコール将来の目指すべき声そのものではありません。もしかするとその基礎も当たらないということもあります。これは、どこかで考えておくべきなのです。

 今その人の一番出しやすい声よりも、トレーナーは、自分の理想の声そのものや自分の発声、あるいは、その人の理想と思い込んだ声を押しつけやすいのです。トレーナーというのは、この点で危険な存在ともいえます。

 稽古やトレーニングが理不尽、修羅場であることで、自らを捨てて、つかんだり、「破」や「離」ができるきっかけになるのなら、結果として、よいことです。これは、その人の資質によるので、人をよくみて、対処するとしかいいようがありません。

 

○マジックの効用

 

 その日にすぐに結果を出すためのレッスンやワークショップというのは、考えものです。ますますそういうことを求められているからです。一番ひどいのは、TVYoutube、動画といった映像で、目で見える効果を最大限に発揮するものですから、ビジュアル>オーディオです。日本人の視覚優先社会、最近はわかりやすいものしか認めない感覚が輪をかけています。身近な道具を使うトレーナーや声をグラフ化してみせる分析家が優先されるのです。

 早逝されましたが、ピンポン玉、割りばしなどで声をよくしていた上野氏などは、TVによく出ていました。私も、カラオケの取材がよくあったのですが、TVという媒体が、あまりに本質よりも表層だけ曲げて伝えるので、お断りしているうちに来なくなりました。90年代には、経験としてトレーナーに振っていたのですが、リズムを縄跳びしかクローズアップしないことなどでショックを受けました。音の変化よりも、滑舌、高音など、明らかなものに集約されるのは、しかたありません。企画書に、主婦の日常でできるトレーニングに包丁を使い、リズムを取るなどと台本にあったときに、ムリと思いました。

 90年代終わりからは、お笑い芸人タレントが仕切る番組が多くなり、バラエティ化して、おもしろいもの、楽なものが求められるようになりました。私は電話があると、上野氏のほうへ振っていました。

 彼の名誉のために言っておくと、彼の声はよかったし、ヴォイトレを一般化させた功績は大きいと思います。タレント、芸能人(ボブ・サップあたり)と、一般の人が対象でしたから、マジシャンのような役割を自ら引き受けられていたのだと思います。

 比較的まともな番組で、科学的として専門家や大学の教授が出るものでも、声で行なうことは、話題に合わせ、パフォーマンス化しています。番組のために即興でつくられた驚きをあたえたり、視覚の効果的でおもしろいメニュ、方法が多いのです。

 私は、心身、健康とも結びつく発声、声だからこそ、細心の注意を払うべきと考えています。声の判断は、とても難しいものです。それを見てまねる人に、のどが悪くなったり、方向違いの努力を強いられることを憂慮せざるをえません。

 「トレーナーに合うが自分に合わないもの」もあります。まして、みせるための方法は、よくありません。

 

○みかけの効果

 

 滑舌はやればやるほど、すぐによくなります。誰でも判断がつくので、一般受けするメニュです。私も、一般向けの研修に入れます。一回だけとか、一日だけ、というところでは、デモンストレーション、パフォーマンス、プレゼンテーションの要素を求められてしまうのす。

体験レッスンなどもその一つでしょう。すると、ビジュアル的に、使用前、使用後と、こう変わりました、のような即興効果に焦点を当てざるをえないのです。

 

私が一時、必要としたのは、そういう方面で能力のあるトレーナーでした。私もスタートはそれがあったからこそ業界に求められ、プロになれたのです。

 これは根深い問題です。真のレッスンと、みかけのレッスンとの違いといって片づけられない、というのも、形に実が伴わない、みかけが、真を呼び込むこともあるからです。

 私が組むのは、少なくとも自分のやっていることの位置づけがみえている人です。他の人をまねただけでやっているトレーナーには、この仮やみかけを、ど真ん中に思い込んでいる人が少なくありません。 

 

 多くのトレーナーが研究所にもきています。教えているトレーナーでなく、生徒として学んでいるトレーナーです。それはとてもよいことです。トレーナーには、学ぶことの必要を誤解している人が少なくないからです。

自分の方法を相手にやって効果が出ないと、資質がないとか、努力不足として片づけてしまうのです。これは、すぐれた人ばかりをみているトレーナーの中にも、昔から多かったので、私はそういうトレーナーを「先生」として、区別しています。お山の大将でも、お山の上だけなら、そこでやれていたらよいのです。

一流のアーティストに役立てばよいというのと、1000人の一般の人が確実によくなる(よくなったと思わせる)のは、同じことではありません。トレーナーの置かれた立場、相手の目的、レベルによっても変わります。

 今の研究所は、広く多くの異なる目的やレベルに対応して、方法やメニュも多彩にしています。

 一流のアーティストへのレッスンをバックボーンにもちつつ、いらっしゃる人のニーズに合わせ、応用しているところです。

 そのよしあしは、こうしていつもチェックし、舵取りをしています。教えることのまえに、みることに専念するのです。

 

○イメージ言語と理論(野村克也氏)

 

 ヴィジュアルの次におかれる難題は、トレーニングという、本来、自己目的化してはいけない特別なもの(期間、プロセス)のあり方です。

私は野球での、天才型の長嶋茂雄さんと秀才型の野村克也さんとの比較で例えます。「来た球を打つだけ」「こうきたらコーンと打つ」というイメージ言語中心の長嶋さん。これは松井など同じく天才型のバッターにしか伝わらないでしょう。こうきても、こう打っていない人が多いのです。でも、プロ野球選手はエリート中のエリートですから、通じるところもあります。勘、理論、データベースを加えて、指導法から人生哲学にまで結びつけたのが野村さんです。相手打者の研究を徹底して指示する捕手と、野性の勘と派手なパフォーマンスで客を興奮させるサードとの違いでもありました。

 野村監督がストライクゾーンを8×864に分けました。ピッチャーもそのときは考えていても、そのデータの蓄積から出てくるものは知らないのです。そこで野村さんの術中(読み)にはまるわけです。

 私は、かなり前に、この8×8の考え方を、声にあてはめて述べたことがあります。私のような素人では、せいぜいストライクゾーンといってもバッティングセンターやゲームセンターなどにある3×39のマップしかないのです。それを8×864で区分けして捉えるのは、よりていねい、繊細なコントロールや判断が必要とされるということです。もちろん、3×3でコントロールできないうちは、8×8は無意味ですが、その先の世界を意識づけしておくのは有意義です。そして、レッスンやトレーニングを次元アップさせる感覚の意識的基準になります。

 

〇勘と動作

 

 トレーナーのなかにも、声を分類して名称をつけ、その出し方を一つひとつ教えている人がいます。ヴォーカルでは、地声-裏声、ファルセット、デスヴォイスやエッジヴォイス、低中高音域の発声、ミックスヴォイス、日本人は、こういうことが大好きです。

私は当時、ボール球を打つ練習をしても悪くしかならないという例で、欧米人ヴォーカリストのとてつもなく高い声やダミ声(ハスキーヴォイス)をまねるような練習はしないようにさせていました。

テニスでも野球でも、基礎というのはいろんな球をいろんなフォームで打ち分けるのでなく、もっとも理想的な一つのフォームを身につけること、それで全てをシンプルにまかなうことです。

たとえば体で打つ、腰の入ったフォームを、球を打つ前に徹底してマスターします。

8×8のマップがあろうがなかろうが、そのど真ん中に来た球を百発百中、ホームランにできる力がなければ、通用しないのです。

プロが3割しか打てないのは、プロのピッチャーとの心理的駆け引きのせいで、次にストライクが来るのを読めたら、ほぼ、確実にヒットに(あるいはホームランに)できるそうです。素振りのなかで、8×8どころか、80×80、いや、イメージした線上に12ミリの狂いもないようにバットを運ばないと、ホームランにはなりません。物理的に考えたらわかります。

 最大に力が働くところに、タイミング(時間)と空間の軸を瞬時に一致させ、ボールとバットの面での拡張、そして、ボールを運ぶのです。予測(勘)と、選球眼(ボールに手を出さない)、あとはストライクで、打てる球がきたら打つだけなのです。そのために、全身で統合し、シンプル化しておかなくてはいけません。そこにはバットにボールを乗せるとか、まさにイメージ言語でしか伝わらない世界があるのです。

 

 ですから、3×3しか知らない人に、8×8の世界があることを見せるのは、よいことです。しかし、ここで64通りの打ち分けのフォームを教えても、どうなるでしょうか。多分、対応できようもありません。ゴルファーが、肝心の素振りを大してせず、チェックせずに、球とヘッドの角度を測ってばかりいるようなものです。測ってよくないのを知るのは大切ですが、00コンマ何度と考えて練習すると部分的に力が入ってしまうでしょう。全身を一つにして、アウトプットするということが、最大に優先されるべきなのです。

 こうした状態の調整が使い方の工夫がメインになって、細分化されてばかりいくのはよくないことです。一方で、大きく条件をつけていくこと、つまり鍛えて変えるべきところを変えていくことを怠るのなら、本末転倒です。

 

○「一つの声」から

 

 私のお決まりの比較表です。

ステージ・本番   トレーニング

応用        基本

全身        部分

調整        強化

無意識       意識的

 しかし、そこへ至るプロセスの練習では、意識して、部分的につかみ変えていくのです。

 役者が肉体をパーツに分け、パントマイムを学ぶように、です。

 ちなみに、ファインプレーは応用の最たるものです。それを誰も練習しません。危険ですから、同じプレイなら、ファインプレーにせずに、基本のレベルで処理できる人のほうがずっとレベルが上です。難しいボールを派手に転倒してとる人より、地味に目立たずとる人の方が実力が上ということです。

 

 ヴォイトレも、声を分け、それぞれをやり方で学んでいくというのが流行しているのでしょうか。トレーナーの方法をみると、3パターンが多いです。初心者にはわかりやすいからでしょうか。ストライクゾーンでいうと、高-中-低、内-中-外の3×3マトリックスと似ていますね。

 私はあえて、まず一つの声といいたいのです。研究所には声優が多くいらしています。仕事としてはまず、最低57つの声を使い分けられないといけません。一人何役もやるからです。しかし、私は、一つの声を徹底してマスターしてから応用していくのか、正道と思っています。

その人に無理がくるので、ものまね声やアニメ声からスタートさせません。分けると早く上達したかのようにみえて、早く限界がくるのです。

 噺家は人物を描き分けている、声で演じ分けているといいますが、まったく違う声を使っているのではありません。若い噺家なら、女性なら高く弱く、男性を低くと変える人もいますが、ベテランや名人は、同じ声で、声の表情で分けてみせます。2つの声が必要なのではなく、高度に使える一つの声が必要なのです。ここは声の種類をどうみるかということになりますが、実際の名人の声を聞いて判断してください。

 

〇自分のストライクゾーン

 

 長嶋さんのレベルでは、ストライクとボールの区別もなく、単に打てる球、打てない球、いや、打ちたい球と打ちたくない球だったのでしょう。野球がおもしろいのは、どんな悪球、ワンバウンドした球でも、敬遠の球でも、打ってもよいということです。確かにボール球はヒットになる確率は低いのです。一流は、そんな常識も通じないからこそ一流なのです。これこそが、声や歌で一流になろうとする人が知っておかなくてはならないことです。そういう人を育てたいと思っているトレーナーが心しておくことです。狭い判断や自分のパフォーマンスのために、その人の大いなる可能性を邪魔しないように気をつけることです。

 

 レッスンをしたり、トレーニングをしたり、アドバイスをすることで、ことばにしたり、マニュアルや本にすることで、何かは、まとまり、その分、何かは失われます。

 いくら科学的な分析や理論が進んでも、一流のプレーヤーはさして多くなりません。一流のアーティストもそこからは生まれません。学ぶこと、知ることは大切ですが、頭でっかちにならないことです。頭をとるために学ぶのだということを忘れないでください。トレーナーも、頭の固まりみたいな人が多いものです。

 

○メンタルとフィジカル

 

 私は、2000年から、メンタルの勉強、2005年からフィジカル(体)の勉強を中心にしました。スクールにくる人に対応するトレーナーが異なり、私の場合は、くる人に対応している、トレーナー(の対応しきれない人)に対応するという、より高度な必要に迫られているからです。

 より早く、より高く、より厳密に、判断を求められます。生徒さんへのトレーナーの回答やそこでの疑問にも答えなくてはなりません。

 トレーナー間での考え方、価値観、判断の違い、優先順位、メニュの違い、そこでの矛盾や問題など、これらは、その本質をみるには、しばらく放って起きたいこと、本人が(生徒もトレーナーも)問い、答えをつかむまで見守りたいことが多いのですが、早々に助言せざるをえない立場にいます。それで、いつも考えさせられます。

 よく、「何十冊も本を書いたり、ブログの連載も続けられますね」といわれます。私たちのサイトに掲げた何千ものQ&Aをみていただいてもわかるように、私には1000冊でも書ききれないほど、わからないこと、知りたいこと、聞きたいことがあります。ここで関わっている人にいいたいこと、伝えたいことがあります。でも、いろんなことをいっているようでも、同じこと、一つのことをいい続けていると思っています。

 

〇昇華と統合化

 

 ABが矛盾するとき、それを包括した力をつけ、Cとして一つ上で統合しなくてはいけないと、哲学的なことです。ABのどちらを正しいと思って、分析して細分化しても、そこには、あなたの答え(人生の)はありません。だから、ここに関わっているときは、理屈はトレーナーに任せて、頭を空っぽでやってください。

空っぽにならないから、公案を考えつくして解脱するために、これを述べているのです。「私のいうことから学んでください」ではありません。問いも答えも現場にあります。

 トレーナーとの一つひとつのレッスン、ご自身の一つひとつのトレーニング、そこで体から出てくる声が全てを教えてくれようとしています。それを聞き取る耳を、感覚を、感性を磨いていくことです。声だけでは通じませんが、声を通して、そういう力をつけることができます。その力が声に宿ります。

 体は、声の楽器です。その状況、状態を判断し、よい状態にして日常的に声をうまく取り出せるようにしていくのです。

 しかし、これまでの日常でそうならなかったでしょう。このことをしっかりと自覚することが第一歩です。だからこそ、非日常であるレッスンやトレーニングでシェイプアップさせるのです。そこでの主役はあなたです。

 

○解剖学と発声

 

ときどき言語聴覚士(ST)と、仕事をやっています。声のつくりや名称については、厳密にしなくてはならないと感じることがあります。医者と話すときも、専門用語や薬の名が出てきます。

しかし、一般の人なら、私がヤマハで出した「声のしくみ」で、知識面はおつりがくるでしょう。

たとえば、発声やスポーツで上達するのに、感覚でなく現実に正しくの体を知ることが必要と唱える人がいます。

 こういう傾向がトレーナーにも多く、体幹やコア、ハムストリングスまで言及されるようになっています。研究所のトレーナーのQ&Aのアンサーにも、出ていますね。

 

 私は専門用語はあまり使いません。それでわかった気になってもらっても仕方ないからです。解明されていないことがたくさんあるので、決めつけて、あとで迷わせたくもありません。

 机上の理論で悩む暇があれば、自分の体、声を使い、練習することです。

 たとえば「舌はとても大きい(牛タンを見たらわかりますが)」ということを、マッピングしたところで、発声にどうプラスになるのでしょう、舌がどこまで続いているかは、もとより、体は一つであって、命名したところで区分されているのだけなのです。西欧医学の一処方としてあるだけです。

舌のリラックスができない人がそう捉えることで、リラックスできるなら、よいと思います。しかし、私はイメージで、感覚で描かれた図のような、新しいマップを自分なりにつくって体を捉えて直すほうが有意義だと思います。

私の本には、意図的に最低限しか入れていません。そういう図版がたくさん入っている本もあります。

 研究所にも、解剖図や人体の模型があります。発声の状態のみえるソフトもあります。人の体に関する本も、専門書から一般書まで、ここ1年に100冊以上増えていきます。ターザンなども毎月、読んでいます。

 

 しかし、それがどう役立つかは、疑問です。疑問が問いになるために、私は読んでいます。何らかの結果、かたちになっているとは思っています。そうしないより、そうしたほうがよいと、私の何かが、そうさせています。皆さんにも、そのくらいの距離をとって、科学や知識とは接した方がよいと、忠告します。

 それを求めても大して現場で役立つものではありません。だからこそ、接しているのは大切かもしれません。体やその働きを正確に知るのは、合理的や理論的にみても、自然や神へのアプローチの一つなのです。それは、アートをつくっていく人には、大きなヒントになります。でも、もっと大切なのは自分のイメージで膨らませることです。そこに出口を求めることを忘れないでほしいのです。

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