100号
○事始め
かつての私の方法(もし、そのようなものがあるとするのなら)は、プロ志向の人向きでした。全国でレクチャーをしていたのですが、地方在住の年配のトレーナーに「かなりモチベートと心身のある人でないと対応できないのでは」と、言われたこともあります。貴重なアドバイスと思って受けとめました。プロや一般の人に対応していく、その後の指針にもなったわけです。
当時の立場は、昭和の頃の、歌唱指導(声楽も含め)に対し、アンチなものにならざるをえなかったからです。そのことは音楽之友社「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」に詳しく述べました。
プロのレッスンから始めたので、その理由もわかっていました。曲を正しく覚えて、すぐにレコーディングにもっていかないと間に合わないプロに、基本の基本からやり直す時間はありません。その頃は専門的な要求レベルの高い人しかこなかったので、心身共に恵まれた条件をもつ人が多かったのです。一方で、地方に限らず、その頃、ヴォイトレをするのは喉の不調で医者に行かざるをえない人と同じ層、つまり、自分の心身が自分でコントロールできない人が多かったといえます。歌うのにトレーナーについたり声の不調で医者に行くような時代ではなかったのです。
それが、ヴォイトレの成果をわかりにくくするとともに、その人たちの声での表現の限界をつくってしまっていたのです。
当時のプロは、プロなりに感覚と心身はすぐれていたと思います。ただ、今はさらにそうなってしまいましたが、国際レベルでみると、声の力が絶対的に不足していたのです。先人をのりこえるためにトレーニングがあるのですから、ハードなのは当然でした。ずっとこういうことをしっかりと伝えるべきと思ってやってきました。
○10年毎に…
10年経つと、その20年ほど前のプロのすぐれたところに改めて気づいていく、というのが、20代以降の私のパターンのようです。プロデューサーは、何年か先のプロとしての優れたところを見抜くし、ファンは、新しいプロを認めます。それから比べると、私は遅れているといえます。しかし、実のところ、私は10年ごとに音声に求めるべき基準を下げているわけです。よくいえば、柔軟になり、その人のトータルの才能をプロデューサー的見地でみるようになってきているのです。
業界に関わっていると、そうなるわけではありません。そのことで、プロになりたい人に適確にアドバイスできるし、他のトレーナーの相談や声以外のことについてもアドバイスできます。ここには「声をよくする」人や「プロになりたい」人もいらっしゃるので、この要素ははずせません。
欠点よりもよいところをみる、これも私は声に限っていたのですが、トレーナーたちに任せられるようになったからこそ、プロとして仕事として、その人がやっていける要素を見出すことができるようになったともいえます。
私は、10年古い感覚でやってきたから、20年以上年配の人たちとやってこられたし、世に出てたくさんの仕事をいただくことができたと思うのです。
○地球と半世紀☆
私は、もっとも多忙な30代、40代で海外へほぼ年6回、50カ国以上を訪れました。日本と世界との差を実感するためでした。東京にいることで鈍くなっている感性をリフレッシュするため、あたりまえのものをあたりまえにみるために、世界の感覚を入れておくことの必要がありました。日本もその間、網走から沖縄まで、ほぼ二巡りしました。キューバやジャマイカ、アルゼンチン、ブラジルと、行き着くところまで行ってしまい、「日本は日本」と開き直ってからは、アジア中心に巡りました。地球を半周すると、その大きさが何となく実感できます。50年生きて、半世紀を実感するのと合わせ、私の1つのスケールとなりました。
〇この50年、1960年代~
私は、自分の育った頃のアーティストから、彼らが影響を受けたアーティストに20年ほど遡っていって、そのままです。1950年代、1960年代をベースとして、ポップスのアーティストを捉えています。マイケル・ジャクソンでいうと、ジャクソン5のマイケルはよいが、ソロとしてのエンターティナーとしてのマイケルは別、プレスリー、シナトラあたりも、若い頃の声でみていました。
これまでに、音のメディアは、レコード、ラジオ、トーキー(映画)、テレビ、ネットと、大きく変わりました。何よりも人間の声を聞きたかった人類は、レコード、ラジオで、歌と、音声でのことばを普及させました。貴族の特権だった音楽を、大衆のものにしました。そこから、100年、カラオケ、合成音声(初音ミク)、と大改革が、受け手だった側に起きてきます。まさに、ネットでインタラクティブ化しているのです。
〇声、歌、音楽の衰退化
海外では、街やホテル、店で気軽に触れられる音楽や歌が、日本、特に東京では特殊な場でしか聞けません。TVでも、歌番組は少ししかなくなってしまいました。
世界的にみると、歌や声は、一時の勢いは失いましたが、日本ほど顕著ではありません。このあたりは戦後、いや、明治維新以後の日本の欧米化の問題との絡みが大きいと思います。憧れて取り込んだあと、発展させるか。切り捨ててしまうかということです。歌や声について、日本人は発展させてこなかったと思うのです。
私は、2つの原因をあげたいと思います。音楽、特に歌以上に、手軽で面白いものが登場したこと、音楽、特に歌のレベルの劣化(特に声の力)です。音質は向上していますので、ハード面ではなく、ソフトについてのことです。
一人のアーティストとしての人間の力と、作品のレベル、創造力や発想といえばよいのでしょうか、それが衰えているのです。これは、発展途上の国と、発展を終えた国の人材の可能性のようなものでしょうか。日本には大物も大スターもいません。時代の流れの問題でもあります。
〇アーティストの不在
1960年代からアーティストを挙げていくと、70年代、80年代、90年代、2000年代、2010年代と、明らかに、歌の説得力として、声の力として、衰えています。これは、日本においての特殊な現象と思います。海外もビックスターは出なくなりましたが、それなりにレベルはキープしていて層も厚いです。
カラオケの普及や指導法の改善、音響機器の発達で、平均レベルは上がっています。しかし、アーティストというなら、トップのレベルでみます。常に前の世代より上のものをつくってこそ、アーティストです。
歌はファン、聞く人の目的、レベル、志向あってのものですから、戦後、苦難の時代に大スターは求められ、祭りあげられたのは言うまでもありません。
しかし、アーティストは、ファンを新しくつくるのです。歌の衰退は、業界に才能が集まらなくなったからです。番組や場がなくなったとか、客が集まらなくなった、CDが売れなくなった、歌手では稼げなくなったというのは、本末転倒です。
私の仕事がなくなるとしたら、私の実力がなくなったからです。世の中が変わったとか、多くの優秀な人が出たからではありません。本人がやる気がなくなったとか、別のことをやりたくなったというケースは別ですが(日本の歌の衰退については前出「読むだけ…」のP194「これから歌手という職は成立するのか」に詳しい)。
○ベースとしての6~20曲リスト
つまるところ、私が10年遅れて現実を認めてきたのは、10年分、鈍かったのではありません。その10年に、前の10年を越えるアーティストが現れなかったからです。
私は、「一流を見本に」と多用してきました。かつて、ここに関わった人なら、必ずここのある6曲(ある時期までは20曲)を聞いているはずです。そのリストはいまも変わりません。私が年をとったとか、保守的になったのではありません。これらは私の生きた時代の思い出の曲でもありません。私がリアルタイムでは生きていたけれど、リアルに聞くことのなかった、私の育った時代より古い曲です。今ならもっと古くなった曲です。
今もこのリストであるということは、結果として、日本は、そのレベルのアーティストを育てられずにいるということです。
日本の歌でいうと、せいぜい1980年代前半くらいまで、歌謡曲と演歌がしのぎを削り(五八戦争とは、五木ひろし、八代亜紀の賞争いレース1980年)プロの作詞家、プロの作曲家がプロの歌唱をする歌手と一流の作品を生み出していた時代です。リストでは、もう少し古く1968年くらいまでです。
私はレコード大賞を光GENJIがとったとき(1989年)、この賞も終わり、紅白歌合戦も、裏番組のナツメロ番組と同じになったと思いました。
私の目的は、世界に通じない歌と業界を超えることでしたが、世に求められる歌や声は、80年代を調整期間として90年代、大きく私の本意とするところから外れていきました。
○研究所の発足
当時、私は、プロの育成から一時、手を引き、一般向けの研究所を開きました。1年363日体制で、来るもの拒まず、スタートしました。東京で300~400名、京都で40~50名で15年ほど続けたのです。
そこでは、皆さんからもたらされる歌、マスメディアでの曲の批評、連載などで、時流に応じることを余儀なくされていきました。
おかげで、そうでなければ聞きもしなかったであろう、よい歌やすばらしいアーティストにも巡り合えました(曲リストは、研究所ホームページ、前出の本に一部あり)。
そこでの私は、30年間、まったく軸がぶれていないのです。やや無理やり、日本のアーティストの歌を付け加えていますが、カンツォーネを使い、シャンソンを使い、ファドやラテンなどエスニックを使うなかで、発掘できたアーティストもたくさんいます。欧米などで歌っているVHS(ヨーロッパ式の)、日本未発売のは、LDを研究所に追加していきました。全集もあり、ほぼ全てはライブラリーに入れてきました。何万枚もの声のコレクションです。TVの特別番組やライブ版は貴重なものです。
○歌い手のありかた
大して気にかけなかったアーティストが、ある曲、(ときに他人の曲)で、たまたまTVのライブ、あるいはイベントで、すごい歌唱をするのを聞いて、見直すこともあります。大いに反省して、その人のCDを聞きまくるのです。といっても、他の曲は、どうもよくない、というケースも多いです。
日本の場合は、すぐれたアーティストでもほとんどが1曲です。しかもデビュー曲などに多く、アーティスト発掘というより、その歌1曲を見つけたという方がよいです。これは大いに考えさせられる問題です。
アーティストに力がありながら、その力を作品に活かせていない、デビュー後に力量を伸ばせていないのです。プロデューサーやスタッフなどまわりの問題も大きいです。昔から変わっていないのです。歌や声に関しては、レベルダウン著しいと言えます。
演歌歌手に、ポップスを歌わせたり、トリビュート版を作ったりするような、企画はよいとしても、選曲やその完成度は評価できません。質がよくないのです。やってみた、歌ってみたのレベル、ファンサービスで、創造していないのです。いろいろと聞かせていただいても、選曲や作品のねらいに首をかしげます。
〇客のありかた
ファンはその人が歌っていたらいい。曲が好きならば、それでいいのでしょう。日本のアーティストは自分の歌のよし悪し、レベル、どう歌えばもっと良く見せられるのかを知らないのでは、と思うほどです。うまく歌えば、すぐに評価される、そのまま、同じに歌っていればよい、これは日本の風潮です。
声や歌について、クリエイティブではないのです。
エンターテイメントとしてのみせ方で、向こうのマネから始めても、アーティストによってはかなりクリエイティブな試みをしているのと、対照的です。進行、構成、照明、すべてが、装置産業となりました。日本ではステージの設備投資が莫大で、赤字になるくらい凝っています。
それは、目をつぶって聞くと関係ありません。音に対してのクリエイティビティや完成度への追及が、ずっと甘くなっているのです。
〇アーティストとトレーナー
喉を壊す歌手が少なくなったのはヴォイトレの進歩でなく、そこまで使えなくなったということです。レコーディングレベル以上に、生で歌える人も少なくなりました。カラオケのようなリバーブの効果に頼り、表現よりも喉を守り、そつなくこなし、ビジュアル(ダンサブル、振り)で見せていく。作詞作曲での才能が、プロの証となっていったのですから仕方ありません。海外ではハードなバンドも、作詞作曲はプロがやっている例が多いのですが…。
ファンをライブで、感動させているから、プロを続けられているのは、確かです。そのことは評価すべきことです。世界に向かうよりも、日本の、今の目の前の人に受けるように、というのが、今の日本のアーティストとでしょう。
私は、アーティストがそのように活動するからこそ、支えるトレーナーが、それに迎合するだけではだめだと思っています。トレーナーの元に来たら、大きく変わらなくてはいけないのです。ただの調整なら、マッサージや整体などで充分です。医者の元へいけば誰でも即効的に声が出るようになりますが、すでに持っている状態をよくして出す、日々の疲れを回復させる。それは、調整で、トレーニングではないのです。
○能力発揮までの三段階
例えば、走ることでは、天性のランナーがいます。走るのが好きで走っている人が選手になった、というレベルです。その人の生来の素質、精神、いわゆる心技体が向いていて、しかも日常でかなり接していたというケースです。
走ったことがない人は、ランナーになれませんから、育ちが要因としてあります。毎日の生活に組み込まれているかでしょう。毎日10キロ通学していた子や、農業、漁業を小さい頃から手伝っていたという人は、日常の中で、体や感覚が鍛えられていきます。知らないうちに他の人のレベルを凌駕してしまうのです。
両方と関わりますが、そういう人がたくさんいる中で、その人だけに突出したという、何かがあったということです。これは生来のものかもしれないし、育ち方、学び方に起因するのかもしれません。フォームを改良したり、努力したのかもしれません。素質や才能といわれるものとは区別しがたいです。
つまり、ここまで、
A.生来(DNA、生まれつきの何か)
B.育ち(日常生活の環境での何か)
C.A +Bの中で、更なる変化、他人に優れる何か、ギフト(天与のもの)とみてきたわけです。
〇日常生活とヴォイトレ
声、話や歌は、日常にありますから、トレーニングを考えるにあたっては、両親やまわりの人、また遺伝的要素まで、深く関係してきます。しつけ、教育や遊びの環境とこれまでの生活に、経験ものります。考え方、性格の向き不向きも含めて、関係してきます。自分を知ること、それは一人ではできないから、トレーナーを使うのです。
ヴォイトレは、声やことばや歌が生活と育ちのなかにあるだけに、わかりにくく見えにくいのです。トレーニングをしなくとも、トップレベルに近い人もいるし、トレーニングを10年しても、平均なところまでいかない人もいます。それでも向上するから意味はあります。ふつうは、日常の中に、どっぷりとつかっているから、そんなことがどう起きてきて、どうなるかを捉えられないのです。ヴォイトレは、必要と思わないなら必要でないし、声にも発声にも正誤があるのでなく、程度の問題です。
体力のない人は体力をつけるだけで、声はよくなります。体力が著しく劣るのに、ヴォイトレしても限度がありますが、きっかけにはよいと思います。眠れない人は、眠れるようになることが、声が出せるようになる秘訣です。喉に病気のある人は、医者で治すことです。ここまでは納得できるでしょう。ここからが、大切なのです。
〇調整とトレーニング
研究所には、お医者さんの紹介からもいらしています。ポリープ、声帯結節などは治療します。手術すればすぐによくなるものもあります。しかし、そのままでは再発する可能性が高いなら、ヴォイトレすることでしょう。
他の人と同じ練習をしていて、自分だけなったというのなら、発声法や体質や環境、習慣などに問題があるといえます。同じ練習や同じ生活をしていると、再発しやすいです。
5時間、声を張り上げて、声が枯れたら休んでも、今度は1時間、声を張り上げたら同じようになるのです。カラオケポリープも同じです。たまにしか歌わないから悪化しないだけです。整体やマッサージでほぐしても、元々の楽器や使い方に無理があるので、そこを改めなくてはなりません。
喉の状態の調整では、しばらくの間の改善だけでしかないのです。いきつくところ、自分の器を知って、それ以上、ハードに使わないようにしようとなります。これまでよりも、ハードに使いたいのに使えない人は、どうするのかということです。
使い方で負担をかけないためのレッスンが多いのですが、必要なのは、負担がかかっても耐えられるようになるトレーニングです。
そのことがわかっていないのが、ヴォイトレの一番の問題です。この2つは似ているようで全く異なるものです。
歌手や役者、声優、芸人のように、高いレベルで、強い声、タフな声を要求されているなら、調整は、準備体操にすぎないのです。声が弱い人がヴォイトレに頼ろうとするときに、発声法や呼吸法の問題と勘違いをしてしまいます。柔軟体操や準備体操ですべて解決すると考えているようなものでしょう。
○レッスンとトレーニングの異なる次元
走ることを目的としていても、1.オリンピックで勝ちたい、2.マラソンを完走したい、では、求めるレベルが違います。1はスポーツ選手レベル、2はアマチュア選手レベルとします。そこに30分、5千歩も歩いたら、足がパンパンという人がいたとします。これを3.一般の人レベルとします。
一般の人が医者やマッサージや整体に行ったからといって、どうなりますか。疲れはとれて楽になります。しかし、2、3カ月後に、2、3キロも走ったら、また同じことでしょう。
毎日のトレーニングで鍛えて条件を変えていかない限り変わらないのです。1と2と3には、求められるレベルとして日々行うことに雲泥の差があります。
ヴォイトレも同じです。習いに行って、リラックスしたり、発声法を変えて、その日に、よく声が出たからといって、発声が身についたわけでも、基本が身についたわけでもないのです。何も変わっていないのです。
私自身、そういう見せ方も、一日セミナーでは使っていましたから、よくわかります。使い方を少し変えて状態をよくして声をとり出してあげると、皆、喜んでくれます。これだけでは、条件のどれ1つ、変わっていないのです。
○非日常化のためのトレーニング
トレーニングが真にトレーニングといえるものなら、それによって明らかに、体や感覚が変わり、結果、ヴォイトレなら声が変わるものです。
日常のなかで、よく眠ったり心身が活性化されたりしたら出るくらいの声を目的にとると、声の出方で自分の体調などわかってくるでしょう。つまり体調が悪いと、声もひどくなるわけです。それが少し悪くても感じられるようになっていくわけです。そうして声に対する感度が上がるのはよいことです。しかし、それはトレーニングの前提であってトレーニングとは違うと思いませんか。
たとえば、入院して療養する患者さんへのヴォイトレ効果―ヴォイトレしなくとも、気力、体力が回復してくると人並みの声が出るから、そこまではトレーニングの効果ではないのです。
声が機能的に出ないところでのアプローチやメンタルケアが、ヴォイトレのメインになっていることが多くなりました。病後の声に悩みのある人のリハビリと同じです。そこはST(スピーチセラピスト)の仕事です。歩く―走る、という日常のことを、話す―歌う、に例えてみました。
〇目標をMAXにしてから整えていく
走りたいならマラソンのレースに出る、マラソンに出たいなら、オリンピックに出る、そのように目的をレベルアップして必要性をあげるとよいでしょう。すると、効果もすぐには出ませんが、出るとすぐわかるほどになるのです。日常を非日常化させてこそ、非日常が日常化していきハイレベルになるのです。その結果、条件が変わり、身につき、はっきりするということです。
日々にやっていることをくり返すだけでなく、次のステップにしていくことです。
マッサージして状態がよくなってそれでよいと思うか、ハードなトレーニングのフォローとしてマッサージを使うのかくらい違うのです。マッサージを否定しているわけではありません。日常生活で、階段50段上って疲れたからとマッサージを使うより、5キロ、10キロと少しずつ長く走って、無理を起こさないように使うということです。そこでステップアップのためにいろんなメニュを使った方がよいと思いませんか。ハイレベルに問わないと、声などは本当の効果がわかりにくいのです。
〇条件改良のための高目標
私は、ヴォイトレも、マラソンの例えでいうと、オリンピックに出るか、かつよい成績で完走できるか、など、具体的な目的を設定するとよいと考えています。今のあなたからみて非日常的なものにしたいと思います。それを遂げたらすごいけれど、遂げられなくても多くは問題ないでしょう。高い目的を持った方が、結果として条件改良を強いられ、早く向上できます。
日本人は、まじめでいけません。「それは無理だと思います」「そこまで望んでいません」という人が多いのです。そんなことはわかっています。
万に一つもあなたはオリンピックに出られません。でも、そのレベルの設定で行うからこそ、日常から変わってくるのです。市民マラソン完走したいのなら、それを目的にするよりもオリンピックを目的にする方が、ずっと早く、確実に成し遂げられる可能性が高まるということです。
高めに、できるだけ具体的に目的をとりましょう。
1.世界の一流を超える(オリンピックの金メダル)。
2.世界の一流と並ぶ(オリンピックに出場)。
なら、日本で通じる選手になれる可能性がずっと高まります。
○一流への基礎づくり
海外での経験が先であった私は、研究所でも、世界の一流のアーティストが鍛えられ、成立するレッスンやトレーニングというのを、常に念頭において考えてきました。それを実際に海外のトレーナーやアーティストと試みたこともあります。
そういう体や感覚をもっている人は、その場でできます。そこで、私が一番感じたことは、欧米、いや今やアジアも加えて世界と、日本との、声の質感、声量の差だったのです。
これは、テーマパークの催しものやミュージカルでさえ、外国人の出演者の声を聞いたら、直に感じることです。歌は、音響技術でカバーはできますが、声のインパクトや個性の差は、埋まりません。
研究所には、ハーフやクォーターの人、帰国子女もいます。日本に染まっていない人ほど日本人でも声が出ます。歌謡界での、韓国勢の力をみてもわかるでしょう。今始まったことではありません。昔からです。スポーツも同じです。立場上、本人の努力も並ならないものとは思いますが。
世界の一流のアーティストが来て、対応できるレッスンやトレーニングをセッティングすること。一流を超えるものを想って、あらゆるものを考えていたのです。そうなるほど、メニュが基本の基本に戻るのは、どの世界も同じです。
〇状態を使い方で変えるヴォイトレの盲点
私は、声の弱者のためにメンタルとフィジカルの勉強をしました。これは、声の強者の基礎づくりのために、最初はアプローチしていたものです。
1.体と感覚の条件の違い―鍛え方でフォローする。
2.体と感覚の状態の違い―使い方でフォローする。
1は、どっぷりと日常のなかに入っています。そこでレッスンとなると、どうしても、2が中心になります。体や呼吸を使うというのは、難しいのですが(使えているなら使っているので)、軟口蓋をあげるとか、顎を引くなどの方法は、わかりやすいからです。声楽的な教えでは、そうなりがちです。でも軟口蓋を上げてもどこかで限界でしょう。これで1、2音高い声が出るようになったり、軽く響きやすくなったり、変わるところまで行い、そういう面をチェックするのです。
このとき、よくなった面を、トレーナーは指摘しますが、実のところ、それによって、よくなくなっている面もあるのです。それを同時に知らせることやカバーすることはできないと思います。多くのトレーナーが気がついていないこと、そこが問題なのです。
何も言えない理由にこだわり、気にしてしまうと、悪くなることがあります。しかし、相手をみて、よし悪し、両方について伝えるように努めています。
一つのレッスンやトレーニングは、大きな目標を遂げるために、ある小さな目的や時期に対してあります。それは優先度や重要度において、全く違います。そこで優先する目的だけしかみないでやることで、ある面においてデメリットが生じ、大きなリスクがあるのです。
〇養成所時代
どのトレーニングも、大きな効果を早く求めるとなると、個別に(人によって)どれくらいを、どのペースでやるのかを、丁寧に扱う必要があります。大きな効果と、早く出る効果は違います。
私自身、最初は一般の人にもかなり大きく目標を与えてきたと思います。体育会系のように「毎日10キロ走れ」と言うようなことです。こうすると、条件に恵まれた人は、ついてこられますが、それに劣る人は、努力しないと、あきらめざるを得なくなるのです。当時は平均年齢20代前半、しかもプロ志向が強い人ばかりでした。劇団の養成所の厳しさからみたら、私のところなどは甘いところでしたが、声について、厳しかったのです。
レッスンは私と対するのでなく、一流のアーティストの音源に対して挑ませました。トレーナーがアーティストの才能を潰してはいけない。それゆえ、一流のアーティストとストレートに対させることしかないのです。そのときは、私はいないわけにもいかないのですが、できるだけ、無となることが必要でした。
私のグループレッスンは音源を聴いて、そのフレーズでのアプローチ、そことオリジナルの創造をメインとしていました(そんなレッスンだけができたのが、1990年代の半ばまででした)。
個人レッスンでは、ピアノの音にのせて声でのアプローチです。話はしません。自分の声、それを通しての体や感覚に、一心集中して、何か変化の生じるのを感じて欲しいからです。
プロがプロに行うレッスンは、プロが一般の人(お客さん)に行うレッスンとは、目的もレベルも全く違います。ヴォイトレのワークショップでは、一般の人の心身をほぐし、リラックス、楽しさ、コミュニケーションの力での発声、メンタルの改善が中心にあります。私は、これを「マッサージ効果」と言っています。
それに対して本当のレッスンは、厳しく孤独に、緊張を強いられます。そこでコツコツと重ねていくので静かなのです。
○外国人のトレーナー
海外のヴォイストレーナーについた日本人が、ほとんど実質上の効果をあげていないのは、どうしてかと聞かれたことが何度かあります。本人に効果をあったと思わせるようにセットしている点は、ワークショップと似ています。そもそも、トレーニングというのは1回や2回、1日や2日で変わるものではありません。著名なトレーナーほど、そこにはハイレベルで条件の整った人が来るのですから、なおさらです。条件にふれず、状態を状況で改善しているのです。
私は多くの外国人トレーナーと会いました。ここに招いてレッスンを引き受けてもらった人は相当な数です。ハイレベルなトレーナーほど声質だけをみるので困るのです。オーディションにおけるプロデューサーと同じです。それでは、自ずと声の繊細な調整となります。バランスの良さを重要視しますから、結果として、カラオケの先生の指導のようになってしまいます。それはチューニングで、楽器作りではありません。
一流を育てている外国人のトレーナーは、日本人特有のくせを解せず、喉をより締めることにもなることも少なくありません。向こうでは通じるやり方では通じないのでリラックス状態を中心にした、メンタルトレーニングに移しているのです。
私は彼らに、声を褒められたので、悪くは言いませんが。コミュニケーションを中心にして、褒めること、リップサービスは、日本のトレーナーも見習っているようです。そうして音楽に関わっているもの同士のコミュニケーションの手段や場のように、レッスンがなってしまうのです。
その状況は、あまり好ましくありません。「欧米に習え」の時代を思い出します。まだまだ彼らと対等になれていない悔しさを感じます。
真のレッスンなら、ぶつかって当たり前です。反論する人もいない。トレーナーがどうも、そういう肩書に接し、形としてのキャリアをもらうことに払っているようです。
学びに行っていると、効果が出るはずなのに、私の知るところ、海外に習いに行った人はたくさんいて、本当によくなった人は、ほとんどいません。歌がよくなったという人はいますが、声、ヴォイトレのトレーナーがあげている、育てた人リストなどは、声や歌では活躍できていない有名人です。実績はほとんどありません。
○全体と個
それでは、個人の問題として、声を強化したり変えるには、どうしたらよいでしょう。
たとえば、「黒人は足が早い」という現実を目にして、彼らに勝ちたいと思ったら、何をしますか。
欧米人が考えるのは、まず「ルールを(自分に有利に)変える」、次に「本番の場を変える」。スポーツでは日本人選手も、これでハンディを負わされ、潰されてきました。ビジネスでは、もっと悪条件を与えられました。しかし、そのことで、相手よりも努力して優れていったのです。
さらに「ヘッドハンティング」があります。これはプロデューサーの仕事です。たとえば、海外から優れたものを持ってくるだけでも、日本でヒットさせられるのです。
最後にようやく、彼らを分析して、それと同じように育てようとなります。
一流の人と自分を書き出し、比較し、分析してください。
研究所では、現場での習慣と環境を与えようとしました。ピアニストなら、音源と楽譜とピアノ、バレリーナならDVDとスタジオ。私のところでは音源とスタジオとなるでしょうか。防音スタジオも環境の一つです。優れた人のデータを入手し、体や感覚のギャップを補うメニュを与えます。
人生や仕事での成功の秘訣は、時間をかけて組み立てることです。私は、成功ということばを使うときは、用心しています。
要領よく、てっとり早くやりたいということに焦点を合わせていると、最終的にはそうなりません。具体的なようで、実のところ、あいまいだからです。優れた人になるために、優れた人とのギャップをみて、具体的に埋めることです。
〇プランニング
プランニングとは、その名の通り、計画ということです。
1.モデルの選択、把握、目的をおく。レベル―ある人物(→作品→歌唱→声)を想定する。
2.現実を把握、分析する。自分に欠けているものを知る。
3.アイデア、ギャップを埋めるアイデアを出す。
4.プランニングする。アイデアを入れ、スケジュールにする。
5.トレーニングを実行する。TO DOリスト(today)の厳守。
アドバイスとしては、周りの人(大体、自分と同じレベルの人)と同じことをしないことです。そして、一流の人の頭で考えられるようにしていくことです。そういう人にアドバイスを求めてチェックすることです。
ここがわからないと大して効果はありません。
レッスンに通うのでなく、レッスンで変わることが大切です。大した効果が出ないようにみえたら、出るまで続けていくのです。通っているだけでなく、変えていくことです。環境と習慣の方を変えるのです。
すぐにできるなら、レッスンもトレーニングも必要ありません。毎日、走らない人が、いつかマラソンに出て完走することはありません。
アーティストは、自らのルールを決めています。声や歌を考えるためのツール、アーティストやプロになるのに役立つツールはあります。
〇腹式呼吸を例に
一流のレッスンとトレーニングは、一流に目的レベルをセットしたものです。しかし、一般の人でも、一般向けのトレーニングや初心者用トレーニングを行うよりも、私は最初から一流に、ハイレベルにセットすることを勧めてきました。
基本の体―呼吸―発声―共鳴(母音、子音)などを、一般レベルでみると、逆にわかりにくいからです。腹式呼吸は、一般の人でも、およそできています。これを横隔膜呼吸などと、名称や定義を変えても、科学的に理論的に説明しても、本質から離れるだけです。
本質は、直感的に腹から声を出していると周りもわかる声になっていることです。お腹から声が出せている人と出ていない人がいるというのは、明確な差として、現場での感覚、イメージで捉えられています。
「軟口蓋を開ける」「助骨を開く」というようなアプローチは、レッスンで好んで使われる表現です。本などで、読んで知っていることでしょう。そういうことも本当のベースが伝えられていないのです。それは、頭では知らなくてもよいからです。
トレーニングで、意識して、自覚して体から動いていないから、トレーナーが注意するのです。腹式の呼吸ができていないと、肩や胸が動き、発声の安定がよくならない、それは理屈です。呼吸からやり直し、とトレーナーは言うのです。
○ギャップと時間
トレーニングですから、できている人はできているという状況の事実を知ることです。
それをイメージして、
できていない人はできていないというギャップを把握する―A、
それをできるようにしようと意識する―B、
そのギャップをうめるために行動する―C、
をセッティングします。
それが行われていたら、トレーナーは、黙って時間を待つだけでよいのです。
多くの場合、このプロセスが雑なのです。細かく把握し、再セットします。
できないということが、1.姿勢、2.呼吸、3.発声、に起因していたら、それぞれに、また再セットするのです。多くの原因は、その一つでなく、全てにギャップがあり、足りないことです。
そのアプローチを、どこからチェックするかは、トレーナーや、その人によって違ってよいと思います。しかし、それだけで全てよくなると考えられると困るのです。
○程度という問題
昔の芸人や職人は事実より、真実を知っていました。それは見えません。暗黙知です。教えて直るようなことではありません。教えたくらいで直るなら直っているのです。だから教えても仕方ない、だまってくり返せということでした。
トレーナーが、目先の効果でしか考えていないと思われることが多くなりました。ちょっとしたアドバイスで、ちょっとした効果が出て喜んでいる人を見ているからでしょう。
最初にわかりやすい効果を出さないと、信じないし、そうした効果を毎日出し続けないと来なくなる(他のところに行ってしまう)という、今の人の学びの浅さも要因です。そして、こうして学んだ人がトレーナーになって教えているから、さらにそうなります。フィジカルや整体などの分野では、顕著です。
体については、声よりも研究され、実績も理論も練られて、わかりやすいです。そこで私も体からのアプローチを声の基礎の基礎にしています。しかし、だからこそ陥りやすいワナがあるのです。
「5分で○○ができるようになる」に対して、「だから、何になるのか」というのが、私の見解です。痛みがなくなるとか、楽になる、楽にできるようになる、という健康や医療面のことなら、口を挟みません。外見の魅力やファッションアピールのことなども論外です。
肉体を変える、声を変える。その人の価値観ですが、声を磨く、そのために体も鍛えられる必要があるわけです。
〇基本と応用
ヴォイトレも「5分で…」というのは、それで一つのアプローチにはなります。入口はどこでもよいでしょう。問題は、入り口なのか、最初の一歩になっているのかということです。
私のところでも、「基本ができないと、次にいけない」とは、言いません。基本も程度問題だからです。基本ができなければ、応用の幅や深さが狭まります。次に行けないとしたら、基本が基本でないのです。
一流のアーティストは、そんな表向きの形を直感的に無視して、固めるべきところを固めています。
フィジカルトレーナーでも、一般の人が相手なら、あるいはテレビ用になら、そういうことをマジックのようにやります。
一流のトレーナーなら、対応するアプローチをもっているものです。歌や声、感性は一人ひとり違います。どこからアプローチして、どのくらいしたら、次に移るのかも違います。
基本と応用との問題は、一般化して説明しにくいものです。私は応用できてこそ基本、だからこそ応用を高い目的レベルで設定して、基本を高められるように、セットすることを勧めているのです。
○ワークショップ
ワークショップのもっとも大きな問題は、そこで行われていることが、レッスンやトレーニングへの前提、導入になっているようでなっていないことです。次のアプローチがないという点です。気づきとしてあっても、同じライン上に並んでいるだけです。実際は、その後に交わらないし深まらないことがあげられます。チェックや現状把握として終わっているのが大半です。
多くのワークショップを受けてきた人を、たくさん見てきました。それよりは一つのワークショップを長年続けて受けている方がよいくらいです。理論や方法などというのは、それが消えてから身につくということを知っておいてください。
ゴスペルやコーラスを何年もやっているのに、ソロでは音をはずすような人は少なくありません。日本では、いくかのクワイヤともやってきましたが、外国人やリーダーはよくとも、あとの人はだめ、ほぼ育っていないのです。
〇チェックと自覚
目的が違うといえば、それまでですが、チェック機能、自覚のなさは、問題です。皆で声を合わせて応用しているだけでは、基本を深めることに役立っていないのです。
歌っているだけの歌い手の歌も、あるところから変わりません。話のスタイルも、中学生くらいから、手振り身振りとともに多くの人は変わらないでしょう。話し方やトーンのことです。セールスマンや水商売など、技量がすぐに結果で問われるような仕事についた人は変わります。それだけ厳しいということでしょう。
レッスンも、うまく歌えること以上の結果(応用)が現れるところにおいて、基本を学ばなくてはもったいないです。私は、早い時期から一流アーティストの一曲のトレーニングをメインにしてきました。一曲が無理でも、一フレーズなら使えます。一フレーズが同じレベルで歌えないのに、一曲歌えるわけがないのです。
ですから、基本は全て一フレーズです。あとは任せています。それ以上のことは、あなた次第です。ただし、せりふや歌のチェックは細かく厳しくやっています。
へたな作品でなく、一流のアーティストの共通要素から、学んでください。
○質と個人のレッスン
研究所は、量の時代を経て、質の時代に入りました。いくら量だけを与えても、自分で365日やっているアーティストには敵いません。そこでトレーナーに質のチェックをさせています。
レッスンでは、課題とのギャップの現状を把握させます。そして、その改善をアドバイスします。大切なのは、把握と次への問題提起です。
毎日、そのように自分で行っていくことです。ハイレベルな課題なら、月に1回かのレッスンでも賄えます。しかし、普通は月8~12回くらいのレッスンは必要に思います。
自分にあったものを否定するのではありません。そこは自分でやればよいのです。より大きく変わるために、自分以外の、一流アーティストの感覚(複数の方が無難)にどっぷりと浸って欲しいのです。潜在的な可能性を開花させるためです。
一回が何分とか月何回などにこだわる人が多いのですが、問われるのは質です。時間や回数でなく、続けていくなかで相乗効果をあげていくことが大切です。語学やスポーツと同じ、いやそれ以上に、声には連続の上での飛躍が大切です。
自分の状況が自分で変えられないうちは、できるだけ重ねてレッスンするといいのです。変えることは、体力、使い方、状態、そして何よりも条件、です。変えられないうちは、トレーナーとマンツーマンで向いあうとよいです。
○滑舌
声優、ナレーターのように「滑舌をよくしたい」なら、私の本のCDで、優れた声優をまねると、人並みになります。それを続けながら、基本(体―呼吸―発声―共鳴)に戻していくことです。そこは人によって異なりますし、その人が何をどこまで求めるかによります。
新人アナウンサーレベルから実力派といわれたいのなら、滑舌などは一つの条件にしかなりません。そのことを早く知ることです。かまないでスラスラ、日本ではそれで出ていける人もいますが、そのうちやれなくなります。声、表現力、演出力をつけていくなら、芸人、役者や歌手のようにハイレベルでナレーションや、声優の仕事もこなせている人をめざしてください。本質を捉えて本当の地力をつけていくことが大切なのです。
○自分のメニュづくり
対処法は、その時その時にある力の方向を変えることです。トレーナーのメニュは、大体そういう大きな叩き台です。健康法と同じで、あなたにすぐ合うのも、しばらく合わないのもあります。今、合わなくても、合っていくものが重要です。口、舌、喉と一人ひとり違うのです。ハイレベルにみると、どれとして同じものはありません。
自分のメニュが作れたら一人前です。ヴォイトレでは、これは難しいことです。そうなると、合わせやすい難のないメニュが選ばれるからです。
本研究所のサイトにもたくさんのメニュがあります。全てをやる必要はありません。どう選びどう組み立てるかが、あなたの上達を決めていくのです。
私のところは声楽でも8つの音楽大学から十数名のトレーナーを招いています。これは、日本の発声の縮図です。音大に行くよりも発声の研究ができると、クラシックの人もいらっしゃいます。習うとか教わるとかでなく、ここは、自分の研究をする研究所です。
○感覚とギャップを埋めるための鍛え方
声の学び方について、輪郭が見えてきましたか。一流の人からどう学ぶかは、「読むだけで…」(音楽之友社)に、詳しく述べましたが、前提として必要なのは、一流の耳作りと感覚作りです。声楽の人も邦楽の人も、参考にしていただければよいと思います。
歌謡界では、藤山一郎、淡谷のり子さんなど、昭和時代は歌の名人が輩出していました。かつては一般の人もクラッシック歌手には一目おいていました。TVにもよく出ていました。
一般的に知られた人では、立川清澄、五十嵐喜芳、中丸三千絵、鮫島有美子、森久美子、中島啓江さんなど。山路芳久さんは早逝しました。
平成に入り、レベル的には底上げしたのに、有名な人が出ないのは、残念なことです。
そういうプロセスで、レッスンやトレーニングは、誰かに合わせて行うものではありませんが、基準の喪失が惜しまれます。そこを変えていこうではありませんか。
感覚や聴覚、楽器としての声、発声器官の調整と改善、補正、強化です。それは筋肉や神経レベルでは解剖学的な話になるのですが、軟口蓋や喉頭の位置のような話になりかねません。共鳴、発声、呼吸、筋肉などを自覚して、感覚から体を変えていくようにすることです。
総括的なところでなく、部分的に捉えていくと変わります。関わりにもいろんなパターンがあります。より高く、より大きく、より音色、よりバランスよく、よりコントロールできるようにしていくのです。
〇メニュの使い方
目的によってメニュも判断も違います。仮にメニュは同じでも、判断を変えることになります。
今のヴォイトレは、部分化しているため、○○のための○○のメニュとなっています。「○○のメニュを行うとこうなる」というのが、形だけになっていることが少なくないのです。「軟口蓋をあげる」ようなことは、「リップロール」「タンギング」「ハミング」などでの使用も同じことがいえます。
これは、私だけでもなく他のトレーナーも、指摘しています。形だけなのか身についているのかは現状を見なくてはわかりません。メニュとして使っていけないものはないのです。
整体で「ツボを押す」となっていても、押し方によって、効くことも効かないことも、悪くなることもあります。それは相手や状態にもよるのです。同じようにいかに柔軟に応用できるのかが問われているのです。
○基準と材料☆
私は理論、メニュやQ&Aをたくさん公開しています。「考えるな」と言っても人は考えてしまうから、それならとことん考え尽して考えるのが切れるのを待てばよいのです。私が考えておくことで省けるでしょう。
トレーナーは、説明して、自信をつけたり、信用させたりしなくてはいけないので、過度にそのようになりやすいものです。その人の才能を見つけることが、おろそかにされていませんか。
私はトレーナーをも見続けてきました。アーティストだけをみるのでなく、トレーナーの指導とのペア、組み合わせということに敏感です。☆
トレーナーは何にでも応じて、話だけのカウンセラーになってはいけません。広げた分、浅くなります。声を育てること以外については、応じるのには慎重であるべきです。勉強は広くすることですが、応じるのは狭く深くとなります。おのずと他の専門家とのネットワークが必要になります。
「こうすればこうなる」という図式を疑うことです。方法やメニュよりも基準と材料ということばを私が使うのは、そういうニュアンスをこめているからです。
ことばはキーワードとなり、レッスンに有効です。しかし、イメージがうまく共有できないなら、誤解の元、害にさえなります。こういう文章も同じです。だからこそ、毒をもって毒を制する、つまりトレーニングとして、有効なのです。
〇第一線へ
アーティストで、一人でうまくできるようになった人は、必ず私の述べていることを自ら実行しています。別にどこかのトレーナーのメニュを使わずに、第一線にいるのです。
ですから、トレーナーは相手を自分の才能の範囲で判断して、自分の下においてしまうことに用心しなくてはいけません。
未知の若い才能に、自分の解釈を強いてはいけないでしょう。
声楽家には、「他の指導を受けてきた人はくせがついているからよくない。真っ白の人がいい」とよく言います。その人が世界一流の人でもなければ、あるいは確実に全ての人を一流に育てていなければ、同じ穴のムジナです。その人が教えた人も他ではそのように言われているのです。
人間関係を最大に重視するトレーナーは、その人のために、いろいろやってあげようと思うものです。しかも自分一人でなんとかしようとして、大体は、もっともよくない結果を招くのです。
一流の条件について、ヴォイトレとトレーナー自身がよく陥る点について、注意を促してきました。
〇トレーナーの割り振り
どういうトレーナーを選ぶかは自己責任です。選んだ以上、選んだトレーナーをどう使うかが大切です。メニュもトレーナーにも当たりもはずれはあります。しかし、そこからみると大したことではありません。
私はセカンドオピニオンをやっています。ここに通うようなことは、立場上、勧められません。ここに来たいという人にも、その人のトレーナーのために、お断りしたり、他の専門家を紹介することもあります。
そこをフェアに扱うようにしておかないと、問題でないことを問題にしてしまうことがでてきてしまうのです。特にメンタル面です。
研究所に私を訪ねて来た人を、他のトレーナーに割り振るのは、とてもよいことと思っています。
回数や時間も大切です。しかし、すべては目的や必要度で決まってくることです。基礎の基礎を求めてくる人が、まず一通りの基礎を学んでいくのは悪いことではありません。
○理詰め
私はトレーニングについて、理詰めを徹底して使えばよいと思っています。
多くの問題は、「○○では△△できない」です。これは「□□では△△できる」という、声の程度の問題です。声が出ている以上、ゼロではないのです。できないというのは、すでにできている延長上できていないのですから、その間を詰めます。その必要があるのかも問うことです。
トレーニングは器作りですから、細かなことは後まわしでも構いません。
「高いところで音程が不安定」なら、「低いところは音程が安定」かをみて、そこから片付けます。どの音から不安定になるのかをみることが、一般的な教え方でしょう。
高いところの声がコントロールできないなら、音程練習の前に、発声を中心に行うとよいでしょう。一見、本人の目的を違う目的より優先させなくてはならないことになります。
「高音域で声量がない」というなら「低音域で声量が出る」かをきちんとみます。
(詳しくは音楽之友社の「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」に述べています。)
〇次元のステップアップ
声の場合、問題になっているところほど、へたに手をつけないことがよいでしょう。本人がいろいろとやると、くせ(限定)がつくからです。それを忘れて、違うアプローチをしていると根本的な解決に結びつきやすいのです。
コピーバンドでの歌手を目指すと言われた場合、初心者なら、コピーしていくとよくなりますが、ベテランは、引き受けるときに充分に考えます。
ベテランの役者の発声は、すでに日本語では使いつくしているので、イタリア語の朗読やオペラ歌唱をやることもあります。状態でなく条件を変えることにより、日本語で広がった日常性をイタリア語で切るわけです。そこで「次元がアップ」するのです。
この次元アップの積み重ね、これがクリエイティブなレッスンです。
AもA’もできないとき、その答えを2つのどちらかやその間で探すのでなく、自分の器(体、感覚)を大きくすることで、上の次元のCで解決していくのです。もっと上位にある見本を開いて、感覚を同化していくのです。まねるのではありません。
○まねるな
歌や声は、一流であるゆえに一流のオリジナリティ、それは、その人なら正解なのを、他の人がやると間違いになるというものです。
野球で名選手の王貞治と張本、野茂、イチローなどのフォームをそのまままねてはいけないのと同じです。
一流になるなら、一流を超えるためのレッスンが、必要だと私は考えています。そして、一流の人が来たら行うヴォイトレを、一般の人にも与えていたいのです。
そこで、理解しにくいことや手間のかかることは、研究所のトレーナーたちが補充してくれています。ここのトレーナーは、その師や先輩とは同じにはなりません。私とも違います。トレーナーに独立性を与えているからです。
生じ私をまねしようとする先輩では、小坊主のように害になりかねません。初心者にはわかりやすくて受けはよいでしょう。しかし、一流になるべき人にはプラスにならないのです。日本の師やアーティストは一門を構え、そういう人をそばにおいて重宝して、守りに入って、だめになってしまうのです。
〇基礎のメニュ
基礎のメニュはシンプルです。スケールトレーニング。それは、
1.同じ音を3つ、もしくは5つ。
2.ドレミレドのスケールで、これをテンポ、声域やことばを変えて使います。長さを変えることもあります。
3.半音シドのスケール。
もっとていねいにみるのに使います。使い込んでいくのです。
これらを応用するだけで、テンポ、リズム、音感、ハイトーンも他、中音域、高音域、ロングトーン、スタッカート、ファルセット、ハミング、すべてできます。基本はレガートです。
○「何を」でなく「どう」使うか
ヴォイトレには、いろんな種類のメニュもあります。音程の広いもの、特殊なリズムもあります。それらは早口ことば、演出加工した声と同じです。声そのものの育成の目的から外れていたり、外れた使い方をされているのです。
カラオケと歌唱ヴォーカルアドバイス、ヴォイトレは分けておくことです。総合点なトレーニングとして、他のパートの強化トレーニングの中で声も育つこともあります。声に接点がついていればよいともいえます。
そこを声の芯(ポジション)、音色(トーン)、コントロールなど、楽器のトーンコントロールのようなことをしていく。これが最もヴォイストレーニングとしてふさわしい考えです。
声にそこまで求めない人は、せりふのトレーニングを人一倍やっていたら、声量がついてくる式のトータルトレーニングでもよいでしょう。その段階にていねいなヴォイトレを入れたらよいのです。
〇私のヴォイトレ
私のヴォイトレは特殊なもののように思われるかもしれませんが、声の自然に育つプロセスを、一般の人ではなく、一流のアーティストレベルから持ってきているものです。正しいとか、間違いなどはないのです。
私のが正しい方法、他のトレーナーが間違った方法とは言ったことはありません。それなら私は一人でやっています。いろんな力がついて、総合的に器が大きくなっていけばよいのです。大らかさも大切です。
〇保留する
方法でなく、一流の感覚、完成の影響下で自分を一時離れることです。捨て、殺し、保留するのです。つまり、()カッコに入れておくことです。
追いすがっては振りほどかれ、また追いかける、一流のアーティストに憧れ、一流になっていった芸人たちの後追いをする、それ以外に真の上達はないのです。
レッスンでできることは、トレーニングがそのようになるように目的と必要性を高くセットするということです。それコソトレーナーがすべきことです。
基本の基本と応用のための基本、これについてイメージしてください。充分な情報は与えますが、それを使えるために、あなたに基準が必要です。それがなければ、それを得るまで、まず学んでいってください。
多くの人の才能が開花させられるように、この研究所をつくり、日夜、声の研究をしています。あなたも、そのように自分の声の研究をし、創り直し、声を、表現力を活かしてください。そして、必要なら、この研究所を活かしてください。
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