104号
○結びつきと強化
ヴォイストレーニングをしていました、という人も多くなりました。なかには留学までして、いろんなメニュや方法を体験していらっしゃる人もいます。しかし、肝心の声はよくなっていないのではないでしょうか。大半の人は発声のしかたを変えて、高めに楽にギアチェンジすることで終わっているからです。それが目標で満足しているからです。
声=息=体、この結びつきと強化が、本当の意味での、私の考えるヴォイストレーニングです。
声楽でも1、2年で大して変わるものではありません。ポップスのヴォイトレの数カ月では、調整して確認ができたらよいくらいです。
それは、レッスンのよし悪しでなくトレーニングとしての絶対量が不足しているのです。そこで期待したり、ガッカリしたりするのは、おかしいのです。噺家の修行さえ、前座、二つ目で、3年、5年とかかります。1、2年での成果は、声でなら、少々優れている人なら、すでに身につけているくらいのものです。
問題は、声を得るために、その手段を得にいったはずなのに、その実践を伴わせていない。つまり、いつかきちんと自分のものとなるように得てきていないことです。結果として処方や治療のように考え、先のことを忘れてしまっているからです。
今の声の響きを変化させて、声域を上に(高く浅く)広げるように言われたとします。バッティングでいうと、脱力して楽になったので、当てやすくなったのですが、キチンと芯で打つことができなくなったようなものです。ちなみに、野球は飛ばないボールに変わって、再び、素振りという基礎の大切さが、クローズアップされています。
声も同じです。マイクで音響がよくなったので、あてることばかり考え、きちんと芯で声を使うことができなくなったのです。初音ミクに歌わせるのですか。体から声を出すことの大切さを見直すことです。息吐き=呼吸のトレーニングの大切さをクローズアップしてください。
○息を深くする
喉を強くするには「声出し」をすればいいのですが、個別に持っている身体が違うので、私は、喉そのものでなくその周辺を変えるイメージをもつようにした上で、息吐きをトレーニングのメインの一つとしています。
一流の歌い手や役者は、息が聞こえるほど深い声をもっている、それを支える、深い息を持っています。人の心を動かすときに使う声=息=体です。その息からアプローチしてみようと思ったのです。
彼らをよくみて、共通の体、息、声(の芯)をとらえます。声は個人差があり、わかりにくいのですが、体や息の条件は、私も近づいていくに従って、わかってきました。結果としては全身が響いてくるのです。椅子に座ると、椅子から床まで響きます。
声の出る体では、息は意識しません。どういう息を吐こうとか、体をどう使おうとか、考えません。ただ、体から声が出るのです。少しの動きが、そのまま100パーセント声になるのです。これが完全な結びつきです。声は背骨から尾てい骨まで響きます。
目先のレッスンには、そういう根本的改善=鍛錬がないのです。浅い息、浅い響きで、高音をカバーしようというのは、逆だからです。バランスをとるために今の息の力を制限していくのですから。
「使った分しか声にならないが、使った分だけは確実に声になる」ようにしていくのが、正攻法です。
常に100パーセントの結びつきで、80パーセントや、50パーセントでは、そうならないのです。120パーセントや200パーセントでもよくありません。
1の体=1の息=1の声、この結びつきを完全に身につけると、声は体となります。これは、体や息で声を押し出すのとは違います。ことばや歌にしようというのではありません。声を発しようとしたら、もう響きが飛んでいるのです。よくみる発声練習のような、浅いつくり声ではありません。その人の体、喉をふまえた声、その人の性格、生き方、感情を踏まえた個性ある声なのです。ここでは使用目的での色は付けず、ベースとして目指すべき声とします。
○勘違い
勘違いされやすいのは、体の声とか深い声といいつつ、喉を使い、押しつぶした声です。独力での自主トレでは、ほとんどの人が間違えてしまいます。憧れの人の声から、ハスキーを見本ととらえてしまう人にも多いです。
とはいえ、これを安易に今のトレーナーは否定しますが、プロセスとしてはすべてがすべて、だめなのではありません。役者(悪役の人に多い)やハスキーな声のポップス歌手には、そういうプロセスのままの声も少なくないのです。ただトレーンングの中心にはお勧めできないということです。
声の調子が少々悪くなったくらいで、喉を潰してもいないのに、大騒ぎするようになったのは、ここ20年くらいのことでしょうか。ヴォイストレーナーがたくさん現れた時期です。歌い手のレベルも下がってしまいました(これはトレーナーのせいでなく、歌い手の安易な目標にトレーナーが応じた、いやそれしか知らないためです。短期でみるのと、長期で育てることの違いがわかっていないのです)。
とはいえ、これを促したのは、求められる歌の変化が大きかったのです。それと昔のように荒っぽい、大声練習では、通用しない人が多くなったことです。
もとより大声とレーニングは効率が悪いのですから、効率をよくするトレーニングはよいことです。しかし効率のよい発声が、可能性を大きくする声の出し方なのかというと、そうではありません。
声の弱い人と強い人がいます。この弱者がヴォイトレの対象になったために、トレーニング全体が、ヤワな方向へ行ったのは否めません。トレーナーについても同じです。タフな声のトレーナーは、本当にいなくなりました。弱い声の人が、弱い声は強くならないと、トレーナーに見切られてきたともいえましょう。
そういうことが思い当たらないという人は、昔の、声と感覚だけで勝負できていた頃の、歌手や役者の声を聞いてみてください。世界の声、そして浪曲から民謡、詩吟の名人の声を聞いてみてください。耳から目が覚めるのではと思います。
J-POPS用の声があるのではありません。いろんな声があり、いろんな歌い方があるのです。
○子供の声の日本人
浅い声の人や弱い声の人は、日本人よりは、外国人に範をとることがよいでしょう。男性だけでありません。むしろ女性の方が、その差は大きいでしょう。文化的背景として、“かわいい”文化の先進国である日本の人は、早く大人になりたいという成熟願望をもつ人の多い海外と、大きくズレているのは言うまでもありません。
トレーニングは早く一人前、大人になるための手段なのです。子供でいることを目的にすることは、大きな矛盾でしょう。
ロシア人やフランス人の深い声とは言わなくても、欧米やアジア、アフリカ、どこの国にも声は範を取れます。エスニックな歌唱、民族音楽だけでなく、日本人の伝統的な声芸にも、たくさんのよい声、深い声があります。
ここでは、聴衆の好みや歌のジャンル、流行については触れません。人類共通の体としての発声と表現に従いたいと思います。
○基本の「ハイ」
私のトレーニングには、上半身を90度、腰から屈伸させ、床に背中が平行になるようにして「ハイ」を出すことがあります。前腹を押さえる(前腹が圧迫される)ので、横や背の筋肉が使われやすく、横隔膜呼吸の拡大を意図します。もう一つの理由は、下半身を固定して、上半身だけのコントロールをしやすくするためです。ひざは緩めてかまいません。
入り口では、話声域、胸声をメインにしています。ここはすでに、私たちが持っている声ですが、使いきれていません。これは、出しやすい中音域の発声が完成に至りにくいのと似ています。生じ使えてしまっているからできていないのです。
ベテラン役者の中には、この地声を自然に高い完成レベルで使えている人が結構います。大きく怒鳴れるのです。海外の人の声を聞いてください。胸の響きで話せる人が多いから、声がひびきます。響くというと、振動するイメージとなりかねないので、「通る声」を出す、ありきたりの言い方では、「腹から声が出る」ということです。
○頭部共鳴オンリー主義の限界
私は基本トレーニングのなかでは、あまり高いところまでは無理させませんが、頭部の共鳴はイメージさせています。頭部で響くのはよいのですが、響かせるようにするのは、あまりよくないのです。これは、多くの場合、くせ声です。
このくせ声を誘導するトレーナーが多いようですが、楽にうまくなるものの、実のところ、音に届くだけで、音色も太さもほとんどコントロールできず、ハイレベルではあまり使えません。そこを安定→固定させることで、次の発展を阻害する要因になります。
優れたトレーナー、特に声楽家の中には(テノールやソプラノに多い)そのくせをつけては取りながら、まっとうに発声を伸ばしていく技量をもつ人も、少数ですがいます(「レベルⅡ」参考)。
年数を続けるうちに、自然に体、息が強化されて理想に近づいていく人もいます。恵まれた声質と感覚のある人で、日本でのテノール、ソプラノの成功者はおよそ、このタイプです(私の考え方に否定的な人も、このタイプに多いです)。
しかし、彼らの方法というより目的とするイメージでは、現実に世界では第一線で通じていないということで、私は3つほど仮説を立てています。1.メタリックな輝く頭声、2.深い息と体の支え、3.芯のある胸声、これらの欠如について、です。
体―息―声の細い結びつきを、キープしているうちに、声に共鳴が加わってきます。発声して共鳴するより、共鳴が発声を正していくイメージです。☆
プロセスは私と同じですが、私は、声―息―体と基本に逆のぼるのに対し、彼らは、声―共鳴を中心にしていたのにすぎないことが多いです。
いろんなやり方があってよいと思います。例えば頭声→胸声も胸声→頭声も、この順もどちらがよいと決める必要はありません。
日本の声楽の教育を批判しているつもりはありません。海外からの受け売りで、メニュや方法は海外のと同じです。ただ、それを使う人のもっている条件(器、体、言語、日常)という前提が違っているのです。一言でいうと小中学生の合唱団に、40代の大人のレッスンをやらせているようなものです。日本には前者しかいない、それも頭声だけですべてやろうとするような人が多いから、結果として次の要素が最後まで欠けているのです。声楽だけでなく、ポップスにもそのまま言えることです。
太さ、深さ、インパクト、強さ、大きさ、パワー、タフネス
感情表現、日常性、ダイナミズム、ドラマツルギー、個性
最初から2オクターブの歌唱を目指すか、まずは1音での完成度を目指すかということです。
○負荷のレベル
無理に負担をかけて、重い強い声にしようとしては喉を壊しかねません。自然にできていくのを、できていかないようにしているから、どの程度に無理をしていくのかがトレーニングの肝です。これを私は「負荷」や「抵抗」といっています。
きちんとした結びつきを感じられないうちに、思いっきり息を出して、その息を思いっきり声にする、さらに、それを高くとか、シャウトとか、大きくとか、長くとか、続けてやるとかで、無理になりすぎてしまいます。それは初心者には自殺行為に等しいことです。特に自主トレでは。プロでもやってはいけません。だからこそ、息なのです。
喉を傷めたり、調子によくないときは、のどを休めることです。
本番前に、息だけを流すというのは、私もよくやりました。オペラの教本にもあります。声を出すのは声帯を振動させることで、その負担やリスクを考えて、できるだけ喉を温存するわけです。
ただ、いつまでも体や神経まで、うまく働かないままでは困るのです。そこで、アフォーメーションとして、呼吸を使っておくのです。ボクサーが試合前に、体を動かして、汗をかいておくのと同じです。サンドバックなどを叩きすぎては、フルラウンド前に疲れてしまう。でも、じっとして、いきなりリングに出たら1ラウンドでKOでしょう。
声も息も体も温め、スタンバイできる態勢をつかまなくてはいけないのです。
〇喉の強さ
もう一つ、誤りやすいことを注意しておきます。声や喉も、スポーツと同じく、やや疲れたときの方が、感情が乗りやすく、伝えやすくなります。それは厳しくいうと判断ミスです。一流のオペラ歌手は鋭い感性と経験で、そんなミスはおかしませんが、ポップスでは甘いです。トレーニングをしていく人にはありがちです。そのまま続くと、喉は疲れ、消耗します。
日本人で、声量のある人の多くは、この限度をあまり気にせず、練習やライブパフォーマンスで全力を費やします。そこで、その後や翌日に、喉の不調を起こします。これは爆弾を抱えているようなものです。しかし、自覚していたら防ぎようもあります(そのために、レッスンが必要と言っています)。ステージはもとより、体調、メンタル面、年齢やキャリアによって大きく変わってきます。
「トレーニングというのは諸刃の剣、必要悪」とまで言ってきた私ですから、そういうことを記録し反省して、改良していくようにアドバイスしています。それは勇気を持って限界にチャレンジして経験を積んでいくことです。そこから得られる大切なものがあるのです。
トレーナーは、声=喉を守る役割があります。すぐに喉を壊すようなトレーナーは番外です。しかし、全く喉に負担のない声しか使えないトレーナーも困りものです。私の研究所では、声をこわしやすい人、洋画の吹き替えの声優や、子供ミュージカル役者、教師なども訪れますから、務まりません。
「喉が強い」と伝わってくるような歌手やトレーナーが、日本においては、あまりに少ないのです。ここでいう喉は、生まれつきとか、ムチャをしても、ということではありません。トレーニングで、しっかりと鍛えられ、素人とは違うとわかるレベルです。アナウンサーが、原稿を読み上げるとアナウンサーとわかるように、声優が、セリフを言うと声優とわかるというように、プロとしてはごく当たり前の声ということです。
○条件の獲得と質の向上
「強い声」「大きな声」を出すようにというと誤解されて、力ずくの危ない練習を導きかねません。私はレッスンでは「深い声」と言っています。「共鳴する声」―「深い声」―「深い息」―「深い体」、深いというのは、「腹の底からの声」と捉えてください。女性なら「胸の声」あたりです。それをトレーニング、強化しつつ、その結びつきを付けていくのです。
ヴォイトレで「強化」や「負荷」「抵抗」ということばは、あまり使われません。使ってきたのは私くらいでしょうか。
素振りをするのは、バットのコントロールとともに、全身の感覚と、体の動き、イメージをきちんと結びつけるためです。同時に体のそれぞれの筋トレにもなっています。
かつては、「素振りをたくさんしても球は当たらない」、というような批判がありました。それは、すぐに球に当てるのではなく、いつかヒット以上の打球を打つためのトレーニングです。球を当てるなら、腕だけでバットを動かす方が簡単です、素人でもできます。それでは、試合では意味がないから、今、必要でなくても、いつかのためのトレーニングをするのです。
思えば、昔もそういう理屈っぽい輩に、「ボール球でも、何でもバットに当てるスイングでなく、ど真ん中にきたのを確実にホームランにするためのフォームづくり」というような例えで述べていました。ここでいう球を当てる―飛ばすは、ヴォイトレでは、声の芯を捉える―共鳴する、のような位置づけです。
目的のとり方が大切なのです。そこからの必要性がトレーニングの質を決めるからです。状態の調整と、条件の獲得が違うことを述べてきました。
トレーニングという、質を変えるために行うことが、論議も実践もされていないのは残念なことです。育てることについては以前よりも、はるかに浅はかな状況になりつつあります。感覚が鈍ってきたのでしょうか。
古今東西、世界の一流アーティストを、こんなに手軽に身近に、たくさん聞ける環境があるのにもったいないことです。感覚がなくては、どこに学びに行っても身につきません。
○方法の限界☆
どのトレーナーもそれぞれの方法で教えています。新たな方法を知ったからと、習っているトレーナーの方法がよくないとか古いとか、否定してしまうくらいの浅い判断力では、何ともなりません。次のところに行くと、また、その前の方法が否定されるだけです。それが同じ方法だったら、肯定されるのでしょうか。方法自体は、さほど関係ないのです。
あなたの声は、前と変わっていないのではありませんか。少し器用に響かすことを覚えたくらいというのが、ほとんどの人です。それで過大に評価されている。それでは、本当の自信にも実力にもなりません。トレーナーは、わかっていてそうしているのでしょうか。いえ、けっこうわかっていないことさえあります。
その状況をきちんと知ることが、声の改革の第一歩なのです。
ここまでは才能ではありません。事実を事実として素直に受け止めるあなたの力が問われるのです。
なぜ海外にまで行き、あるいは、優れていると言われるトレーナーについたのに、メニュや方法、理論、外国語、発音などいろいろと覚えたのに、声は変わらなかったのか、という根本のことを考えて下さい。
第一は、時間が短すぎることです。まだトレーニングに至っていません。
第二に、本質的なことを理解してないことです。
一流のアーティストの声に含まれていることは、私の研究所のメニュや方法のよし悪しとは関係ないことです。
第三に、まさにこれが、ほとんど意味のないものにしている理由となる取り組み方です。よい方法やよいメニュ、そのトレーナーの評判やそこで習ったという経験を目的にしているということです。
私のように本を出しているとよくあることですが、権威づけに1、2回のレッスン体験を欲して来るのです。
1回のレッスンでもバランス調整くらいならできるので、研究所では、声楽家のトレーナーなどに任せています(レベルⅠ~レベルⅡの問題)。それで充分すぎるくらい満足していただけるのがほとんどです。このパターンは、第一、第二の問題も内包しているのです。
○声の習得の自然な流れ
声づくりは、赤ちゃんの頃から声変わりの後あたりまでを前半(10代半ばから20代まで)とします。あとは加齢して変わっていくのを後半とします。声変わりまでのヴォイトレは、無意識に日常の中で、ハードに行われています。そこから意図的にヴォイトレをします。
効果を出したいのなら、言語学習で臨界期以前に戻るように、声も前半でのプロセスを、再体験していくようにすることです。今度はより深く身につくようにします。
私はヴォイトレの方法やメニュを、売り出しているのではありません。方法、メニュだけでよいとか悪いとかと言われても困ります。
現場での声の使われ方は10人10様です。方法、メニュは無限ですが、私は「一つの声で全てを賄っていく」という、シンプルな原理に添っていくだけです。
一つの声をさまざま使って生きてきたのが現実です。いろいろと用途によって違う声を身に付けようなどというヴォイトレが多いから、ややこしくなるのです。「いくつもの声を習得するのでなく、一つの声を中心にすべてに応用していく」と考えましょう。
〇「アー」の一声
歌で音程やリズム、発音がよくなっても、声がよくなるのとは違います。歌唱のレッスンでは、ずっと声そのものは、問題にされないできました。元より声のよい人が選ばれていたのです。
今のヴォイトレでも似たようなものです。トレーナーに「大きな声で『アー』と叫びたい」と言ってみてください。きっと教えてくれません。「声や喉によくないからやめなさい」とか、「歌うことやセリフを言うのと関係ない」と言われるでしょう。でも海外では「アー」と叫べる人、それだけで日本人と大きな差のつく人が歌っているのです。すでにできていることは彼らのメニュには入っていません。
それは、「結果的に身につく」というものです。それなら、「そこを同じにできるところから入る」というのが、自然ではないのでしょうか。
赤ちゃんの泣き声は世界共通で、耳も声も人種、民族での差はありません。日本人の赤ちゃんの泣き声が外国人の赤ちゃんに負けていることはありません。しかし、3歳、5歳、8歳、12歳、15歳と育つにつれ、どんどん声の差は広がっていきます。ヴォイトレというからには、それをなくす、その差を縮めると考えるとわかりやすいでしょう。
こうした本質を説いていた私の初期の本はよく売れました。しかし、巷には歌い手やトレーナーであっても「アー」と言う声さえ体から出せない人が多くなっていきました。
○トレーナーの条件
私はプロ歌手でないトレーナーが、プロ歌手のように歌えなくても、プロの役者でないトレーナーが、彼らのようにせりふを語れなくてもよいと思っています。声のトレーナーなら、プロの声を出せること(出せたこと)が必要なのでしょう。その声一声でわからせることができる、それをもって、プロのトレーナーではないでしょうか。
ルーマニアで、私についたパーソナルトレーナー(フィジカルトレーナー)は男女二人とも、体重100キロ級でしたが、それなりに学べるものがありました。自分の体が管理できていないようにみえました。とはいえ、他人を教えることができるなら、よいとも思えます。となれば、声のないトレーナーも、何か取り柄があればよいと思っています。皆さんも、こうした問題意識を持って、励んでください。
ここにも、他でトレーナーをやっている人が、学びに来ています。「ヴォイトレのビフォーアフター」で述べましたが、ヴォイトレに資格や定義が決められていないのですから、誰でも、いつからでもトレーナーを名のれます。トレーナーであれば、そのトレーニングで何が得られる、つまり何がどう変わるかを明確にすることです。
〇日本人の声の丈
私は声域より声量、声量より音色であると思っています。歌やせりふでなく、声のトレーニングということです。
歌い手の世界では、声域(高い声)に悩む人が多いので、それが第一目的になっていることがほとんどです。マイクが使えるから問題にならなくなってきましたが、声が届かない、つまり充分な声量がなくては、声は何もなしえないのです。声量が大切です。
オペラ、ミュージカル合唱、J-POPS、海外の歌手の声域など、他に合わせるからややこしくなるのです。自分の持って生まれたものを最大限、中心に使うことを考えるのが真っ当なことでしょう。一人ひとりのレッスンの目的や手段は、異なって当然なのです(和田アキ子さんが、裏声のレッスンなど、必要としないのと同じです)。
日本の歌手やトレーナーがあまりに偏りすぎて、独自のまとまりを作っているので(日本の声楽家も似ていますが)あえて、一石を投じておきます。
私としては1オクターブで日常会話を話す海外の人たちが歌うのには、その自然な感覚を少し強め高めて、その1.5倍、1オクターブ半を中心にしているのなら、3音(3度)くらいの範囲しか会話で使わない私たち日本人は、半オクターブ、しかも彼らは話し出すと1分間まくしたてる。それが1コーラスなら、10秒くらいでバトンタッチしている私たち日本人は、半オクターブで10秒、短歌の幅で歌うのが身の丈ではないかと思うのです。
しかも集団好きだから、連歌のようなフレーズつなぎがよいと実践したこともありました(詳しくは会報の「合宿特別号」)。日本の歌謡界の流れ、スマップからエグザイル、モー娘からAKB48の流れをみていると、私の読みも外れていないでしょう。
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○理論の正当性のなさ
私が初期に直観的に理論立てて表した本には、あまり直すべきところはありません。ただ声のいろんな基本知識について、説明を加えています。他の本から引用したものは、知識や理論が短い間にも変わって、古くなったものもあります。いくつかの本で触れていますが、理論に理論で応じるのは研究家に任せ、現場で必要なことを学びましょう。
誤解の元になるのは、ことばの意図するものの取違えです。現場のトレーナーのレッスンでは、イメージ言語として使うので、そのことばの正誤を論じても、意味がありません。バスケットボールの「腕でなくて、膝でシュートしろ」みたいなことです。イメージ言語では、トレーナーと相手との間で成立して効果がでていたらよいのです。イメージ言語は、きっかけをひき出すインデックスにすぎません。
現場を知らない人が、理論から「間違っている」というのは、スタンスがおかしいのです(相手を否定することで自分を肯定し、何かに利用しようというような目的があるのでしょう)。
このように論のための論が、つまらないことを述べておきます。生理学や声楽の理論も、中途半端に知るのは、害です。トレーナーの指導でしか出てこないことばも、たくさんあります。
何を本当に問題にするかを学んでください。問題にしなくてもよいことを、問題として振りまわされないでください。そういう人が多いので気をつけるように注意しています。「声や喉がおかしいです」と言って、治療に多くのお金を費やしている人は、よく考えてください。
○胸声と頭声とミックスヴォイスについて☆
声を地声、裏声やファルセット、他の声、胸声―頭声、どのように名づけるか、分けるのかの論議に、私は加わりません。男女によって、命名や使い方が違うこともあります。頭声、ファルセットは男性、裏声は女性など。
声帯振動による生理的なレベルで、地声、裏声に二分するのは確かなことです。二つの声区ですが、それを一声区、三声区と言う人がいてもよいと思います。
頭声や胸声というのは頭や胸から出たり、頭や胸に響くのではありません。体振からのイメージ言語といえます。二つの発声は、分けることも混同させることもできるので、ややこしくなるのです。
よく使われる、声区という訳語も困ったものです。使う人によって定義が違っているからです。レジスターと言う人もいます。レジスターは、パイプオルガンの、「登録された音程」を弾くと、音階を作れる一連のパイプが選びだされ、演奏できる、その音階を作れるということです。レジはコンビニのレジと同じ用途です。ですから、どこか1点で「声区のチェンジ」が起きるというのでなく、元々、重なり合うニュアンスが強いのです。
発声のしかたが違うといっても、うまく混在させて使うことでは、一声区のようにシンプルに捉えるのも、一案です。上の線と下の線の2本で、その範囲内でどう使うか、二者択一でなく、ミックス度合ということでよいと思います。
トレーニングには、地声、裏声それぞれのアプローチがあってもよいと思います。これは胸式呼吸と腹式呼吸のようなものです。呼吸からみると一つで、胸式と腹式といっても、切り離せないのです。
混合、混在させるというミックスよりは、融けて合わせる意味で「ブレンド」ということばを使う人もいます。私もミックスヴォイスよりブレンドヴォイスというニュアンスに近く捉えています。
私は音色を、大切な判断基準としています。表―裏、開いた―閉じた、前―後(奥)、明―暗など、声のイメージで結びつけています。
○「統一音声」と支え☆
頭声と胸声の音色を、どのようにして捉え使っていくかが問題の本質です。私は「統一音声」ということばを使っています。富田浩次郎氏が、俳優訓練の本で使ったことばで、その意図もありました。
私は、当時の薄っぺらい歌唱、発声へのアンチテーゼとして、胸声でのレッスンを中心にしたのです。ファルセットや頭声からのレッスンでは、最初から調整、コントロールに、絞り込んでしまいます。成果の個人差での、よしあしの差が大きく、うまくいかないことも多いのに、です。
これは、発声を喉をはずして共鳴レベルで捉えること、つまり異次元の感覚です。話している出やすいのど声が出てしまって、うまくいかないから、声楽家は高い声中心から始めることが多いのです。
呼吸や共鳴の問題であれば、胸声でも同じです。私はアプローチとして「背中から出た声が、胸の真ん中に集まる」という感覚を、自らの体験から「支え」ということばで示しています。
○横隔膜呼吸?☆
誤用されている「横隔膜呼吸」ということばについて、声楽家やトレーナーが、科学的、解剖的、生理学的知識を生じ中途半端に知って協調したせいで、まともに使えていない悪例となっています。これを指摘します。私や邦楽の師匠は「腹から声を出せ」と言います。
横隔膜の位置を、教えているような人たちの多くが、実際よりも低めに示しています。なぜ、「横隔膜の支え」などという本人が感知していない表現を使うのでしょうか。科学的な本を勉強して受け売りしているのにすぎないからでしょう。
日本には、師、先生のことばをそのまま、実感もなく使い続ける人が多く、そういう流派も多く、何かとめんどうです。横隔膜の位置は、実感としては、支えとはいえないくらい、胸の高いところにあります。人体図や模型ですぐわかります。
呼吸の出る背中(腰)の方でなく、声のひびく、胸の真ん中あたりに、横隔膜は達しているのです。
ですから、このあたりは呼吸保持という問題です。これについては、緩んでいること、柔軟であることをトレーニングの方向として求めています。
〇ことばの定義
研究所のQ&Aや会報を見ても、いろんなことばが使われているのは事実です。使うつど、ことばの定義があるべきですが、定義の論争に時間をかけるより(そういうことには時間をかけてくれそうな人は、他にたくさんいるようなので)イメージ言語の精選を目指したいです。
海外のノウハウを、指導者から、正しく取り入れるような声楽家は、専門言語での原典購読は必要です。しかし、声楽家をトレーナーとして使っていても、オペラ歌手を育成する目的ではない本研究所では、もっと別に優先して改革すべきことがあると考えています。
○息と声
呼吸法は、レッスンでも常に問題になっています。私は日常で行っている自然な発声を強化することと思います。
横隔膜呼吸法とか、腹式呼吸法とか、胸式呼吸法があるわけではないのです。声と呼吸に高い必要性を予見したら、毎日のなかで自然と鍛えられていくのが理想のことと思うのです。
呼吸法を教わるというより、「今の呼吸では足りない」とわかることです。具体的には、そういう高度のせりふや歌の課題を与え、不足に気づかせるのが、本当のやり方です。
ヴォイトレとなると、姿勢、呼吸、発声と区分けされ、呼吸法が第一にやる基礎のようになってしまいました。私はそういう本の著者ですが、レッスンでの呼吸はウォーミングアップです。身体=声の稼働のためのエンジンをふかすようなイメージです。
歌を教えるには、ウォーミングアップを発声のスケール、ヴォーカリーズで応用してもよいでしょう。呼吸をトレーニングしなくても発声をゆっくり丁寧に行うと呼吸の足らなさ、コントロールの甘さ、ロングブレスのもたないことなどで、わかります。より実践的です。ていねいに行うようにします。
私は、ドックスブレスやロングブレスは、呼吸筋などの鍛錬を通した体作り、声を出せる体づくりとして、有効だと思います。
〇大きな呼吸
日本人は、日常であまりにも浅く短い呼吸しかしていません、何よりも言語活動、おしゃべりの中で、大声で(強く)長く、話さないからです。何もしなくては器は大きくなりません。
プロでも、しばらくみていないと、呼吸が小さくなって、歌の迫力やスケールも落ちる人ばかりです。そのときは、呼吸が浅くなった、息がもっていないのです。そうみるのは、私だけではないでしょう。
せりふを言ったり、歌いこなすことはできても、身体から、自由に余裕を持って声でメリハリをつけられないのです。高いレベルで判断する人が少ないのは残念なことです。
知識というのは、その人の発声のレベルに応じて、理論となっていくことですから、少なめに少しずつ与えることです。へたに与えすぎると、感じるプロセスを妨げかねないからです。
1.吐いた分、入るようにする。
2.単調なくり返しをしつつ、感覚を磨き鈍くなるのを避ける。
3.器づくりでは、器官は強化するが、その強さを頼ってはいけない。
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