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103号

○理想の一声☆

 

 最近、ある役者さんと邦楽家の席に招かれ、お話したことを取り上げてみます。私のヴォイトレにおける立場や考えに通じることです。

 「ヴォイトレは、声楽とどう違うのか」ということから、始まったのですが、声楽の定義は、これも人それぞれですから、ここでは触れません。音楽之友社の、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」)に詳しく述べてあります。

 ヴォイストレーニングという定義についても同じです。私がヴォイストレーニングで示そうとしたものは、声の発された一瞬を、理想として通用するレベルに高めようというものでした。一言で言うと、まさに「一声」、これだけで声の真価を示そうということです。

 そんなことができるのかという人は、そういう声を聞いたことがないか考えてみてください。ことばとして意味をもつ以前の声の力です。声=ひびき=歌ともいえますが、歌のような形式が定まっていないものを考えているのです。

 一瞬にできないもの、示せない声は、歌にも使えないというのが、当初の私の見解でした。

実際には、一声、一フレーズも、一瞬も、もたなくても、セリフや歌はもちます。プロはそこだけで見せているのではないからです。

 その「一声」といっても個人差があります。私は誰にも共通の一声(見本として、特定のプロや、あるいは私自身の声を元にする)を目標にさせるつもりはありません。そのために、理想の発声原理として「体―息―声の結びつき」と、「声そのもの」を見ていました。その人にはその人なりの発声があり、バランスがあるということです。

 そこにトレーニングということが入ると、このバランスと部分強化ということでの優先順位や価値観が生じ、いろいろと複雑になるのです。さしあたって考えるべきことは、次のようなことです。

1.その人にとっての「理想の声」というのはどういうものか、それは一般的な「理想の声」とどう異なるのか

2.それは、どういう状態や条件に支えられているのか

3.条件に対して、補ったり、強化したり、新たに獲得する必要範囲とは何か

4.表現における必要性からみた状態と条件について、どう考えるか

 

 この前提として、声を鍛える、磨く、それは声を変えることの可能性や限界への追究です。声の音色そのものの変化と言えましょう。それについては、ほとんど何も明かされてきていないのです。

 

○レベルⅠのヴォイトレ

 

 一般的なヴォイトレは、声の使い方を変えて、声域、声量(共鳴)、ロングトーンやレガートなどに対応しやすくすることを目指します。調整して、整えていく方向で行います。そのために表現や発声機能を変え、効果的に声が響くようにすることが多いです。便宜上、これをレベルⅠとします。

そのために、生声である発声に対しては、喉を外して、いかにカバーするか、というアプローチがなされます。ポップスのヴォイトレ、プロデューサー、演出家、作曲家、プレイヤー(特にピアニスト、ストリングス)、カラオケの先生のレッスンは、これにあたります。

 そこは、経験がある人、勘のよい人や、条件がそれなりに整っている人なら、レッスンを受けなくても結構できてしまいます。お笑い芸人の物まねでも、私が感心するほどに声を使える人もいます。

 日本でのコーラス、ハモネプ、合唱団、J-POPS、オールデイズ、ジャズ、シャンソン、民謡歌唱あたりの歌手を思い浮かべてください。声は軽く、浅く、頭声共鳴がよく、高い声が出しやすいタイプです。それはこういう人などをもっぱら教えているトレーナーにもあてはまります。

 これが主流なのは、初回のレッスンからすぐに効果が出てわかりやすいからです。短期において、わかりやすく、ローリスクなトレーニングともいえます。リップロール、ハミングなどは、このメニュの定番です。

 わかりやすい声域、高音域に焦点をあてていますが、音色などの基本条件は大して変わりません。声量はつきませんが共鳴がよくなるでしょう。トランペットでいうと、ラッパの先を広げてみるようなトレーニングといえるでしょう。日本のポップス、アナウンサー、声優あたりでも行われています。

 呼吸や姿勢も扱いますが、実のところ、表面的な形で、ウォーミングアップ程度に行われているだけです。そのため、本格的な習得にはなかなか至りません。その差は日本人と外国人の音色やパワー、特に、高音の違いに顕著に表れています。

 そのトレーニングの結果は、別のトレーナーのもとに行くと、「基本ができてない」という(言わなくても思われる)くらいです。

 このレベルではレッスンしたという判断が、端からつかないことも少なくありません。困ったことにこのレベルが日本では多くのトレーナーの指導目標になっています。こういうトレーニングがヴォイトレで一般的なのです。

 バランスを整えるということでは、海外のトレーナーも同じようなメニュを導入や仕上げ段階として使います。それは日常の声の基礎レベルの高い欧米人のシンガーには合っています。しかし、そこでのギャップは、Ⅱのレベルで補う必要があります。

 

○レベルⅡのヴォイトレ

 

 レベルⅡは、日本人の日常や、平均的な器からはみ出したトレーニングといえます。日本では声楽か俳優の、ややハードなトレーニングにあたります。

  1. 喉そのものを変える

2.表現、強いインパクトを目指す

3.体、呼吸、共鳴、その結びつきを変える。

 やり方、メニュや優先順位は違っていても、結果的にこの3つのことを相乗効果として、求めます。これは、日本では、ヴォイトレよりも長年の舞台経験や日常のトレーニングの成果として現れているほうが多いようです。

 役者は12から、声楽家は3からアプローチして、トータルとして13が変わっていきます。レベルⅠよりも全身での発声感覚が強いのと音色が深まる(芯のある声)となるのが特色です。

 最近は、科学的(生理的)な知識をもって、筋肉レベルでアプローチするトレーナーもいます。それは、レベルⅠでの、喉の状態をよくすることという、かなり限定されたなかでの効果しかでていないと思います。

 根本的には、喉の脱力で解決します。トレーニングとみるよりは、フォローとみるべきでしょう。

私は、ポリープや結節などの医者の手術でさえ五分五分、何でもすぐに処方すればよいとは思っていません。発声はもちろんのこと、体や心、日常生活そのもの、あなた自身の環境や習慣を変えていくことが、大きな課題と思っています。

 しかし、メインの処方ですぐに直して使いたい人が多いのが事実です。そういう人は、それでもよいと思います。大した変化は起きないでしょう。ハードに使えば同じ障害が起きるとわかると、少しずつ使わないようになってきて、表現の可能性も失っていきます。部分だけで処方してもよくなりません。多くの人は喉が原点だと思って、そこの問題だと考えるのです。

最近は、喉が弱い人が多いので、そういう傾向が顕著です。しかし、喉が弱いなら、鍛えなくてはいけないのです。それをどうこういじったところで、少しよくなったり、また少ししたら悪くなりで一喜一憂しても仕方ないです。その上、くせで固めて、声量を犠牲に安定させてしまいます。それを発声法だと信じてしまうのです(これは私でなく医者の大先生お二人からの意見です)。それでは11回の舞台で、23ケ月毎日の舞台に耐えられる日はこないでしょう。

 このレベルⅡで全体的に調整しつつも、結果として日常の枠を破りましょう。それが私にとっては最低限、トレーニングというのに値します。これまでのあなたの日常での限界、日本人の限界を、知らず知らずに、外しましょうということです。ここでは声についてのことです。

 

○レベルⅢの声

 

 レベルⅢでは、世界レベルで、人間としての共通のベースです。そこで声を掘り下げ、深めていくのです。結果としてみるだけでなく、最初からプロセスを、意図的にトレーニングするということです。これが私のブレスヴォイストレーニングの主旨です。

 素質に恵まれた人はⅡでも充分かもしれません。それを超えたければやりましょう。もっと恵まれた人はレベルⅠで楽しくやるのでもかまいません。目標レベルを最高にあげてやるためのニーズにⅢは応えます。起死回生でここからやるという人にはよいでしょう。

 一流なら、表現も時代、国を越え、普遍的に通じていくものになります。基礎というのも人間の体を掘り下げたら、時代、国(人種)を越え、共通になります。上を表現、下を基本として、その枠をⅠは上下にレベル1メートル、レベルⅡは10メートル、レベルⅢは100メートルにとっているようなものです。

 ブレスヴォイストレーニングが独創的で、すごいといっているわけではないのです。リズムでいうと、Ⅰは楽譜で学び、Ⅱはフィーリングで踊りながら振付の中で学び、レベルⅢはアフリカやラテンの国で生まれて育ったら身についた―ということに掘り下げるようなものです。つまり「日常性の最大化」ということです。方法やメニュで問うているのではないのです。

 スポーツで例えると、バッターなら、

レベルⅠは、ワンポイントアドバイス、すぐにできるくらいのフォーム修正。

レベルⅡは、バッティングマシーンでのジャストミートでのトレーニング。

レベルⅢは、重いバットを振るとかランニングや筋トレから行うことにあたるでしょうか。

 これは、ステージ、舞台での、非日常を日常にすることです。その人にとって、注意としてのレッスンか、トレーニングをチェックするレッスンか、日常をトレーニングに取り込むかの違いです。

 

○声の表現力

 

 先日、ある合唱団の先生が、「リズムは体でとると遅れるからイメージ()でとれ」と教えていました。こういうのは、体感、イメージ力で、頭ではないのです。現にその先生自身は、体でリズムをとっていました。そこまでには何年もかかるから演奏会に間に合いません。普通の子の体や感覚はまだまだは鈍いですから、こういう指導がマニュアルとしてはよいともいえるのです。でも、こうした期間限定ばかりで仕上げようとしているのが、今の日本の大人です。中高校の合唱団は期間限定ですから、これはこれでよいとなるのです。

 今の日本のプロレベルのオーディション対応の歌唱やセリフまでは、レベルⅡで充分と思っています。しかし、その型を破り、個性にして、オリジナルのフレーズで勝負するならば、Ⅲレベルに達することが必要だと思っています。「歌手なら、しゃべるように歌い、役者なら歌うようにしゃべれる」ということです。

 レベルⅠ、Ⅱ、Ⅲというのは、レベルが上がっていくのはなく、必要性が上がっていくのです。Ⅲがハイレベルというのではなく、最も基礎の基礎となるのです。

 多くのヴォイストレーニングの受講者が、「歌うようにして歌おう」となるのは残念です。日本のミュージカルの歌が、その典型ですが、どうしようもなく違和感を感じるのです。その世界に入ったとたんに、置き換わった目標がミスリードしているのです。

 私は、演出家の作品としてのよし悪しとは別に、個としてのアーティストの表現しているものを見ています。表現としての声、ことば、歌をみています。声の問題が半分、あとは独創性、つまりは思う、感じる、考えることの集大成です。

 私のレッスンでは、一フレーズでも、どう思ったのかを確認します。一人で判断できる力をつけるためにです。その実習を通じて、主体的に考えられるようにします。本人の意見も参考にしつつですが。

 ことばに頼らないで深く感じることですが、ことばにしないと、積み重なっていくことの把握が難しいからです。研究所ではトレーナーにも、ことばで具体的に示す能力を求めています。

 

〇芯のある声

 

 一流の歌手は、声に表現力をもっています。それには表現、イメージのレベルを上げなくてはなりません。これは声の力とともに上がってくるのが望ましいのですが、クラシックならともかく、今のポップス歌手はそれを待てずに先に先にといってしまうのです。

 鍛えて磨いた声、その共鳴、輝きを作品に、全身(全霊)でそのまま使おうとするのは、オペラ歌手です。ポップス歌手や俳優は何でもありです。しかし、声として共通する、表現の核、中心をつかんでいくのが、本当のヴォイストレーニングと考えています。そういう核となる声、中心の声を、「芯のある声」ということばで表しました。これはジャンルを選ばず、全身全霊で表現し切れる声です。

 今の私の個人レッスンで発声の判断は、どこのトレーナーよりも厳しいです。昔は、本人がわかるまで待つレッスンが一般的でした。そういうアンテナの感度を高めて保つのが難しくなりました。

 私のレッスンは、5分間もあれば示せます。その5分間のうち、たった5秒のことが、5年、10年の課題です。呼吸も、体も、筋肉も、全身のバランスやセンサーも、共鳴もそれぞれに整わなくては実現しません。何かが、すぐにそこで実現できてしまうくらいの基準では、レッスンにならないではありませんか。

 

○基礎の基礎

 

 理論や理屈は、中途半端に持つと、却って害になります。アーティストやトレーナーのつくった教則本はありますが、私のように、あらゆるケースを想定、反証、チェック、フィードバックして、直し続けている人はいないでしょう。全ては仮説、試行錯誤で、私としても、完成はないと思っています。きちんとやらないで成果を云々したがる風潮は困ったものです。

 「これが正解」と示されても、それはその人のトレーニングや自分の周りで適用したサンプルにすぎません。

 一流の声楽家は、生涯にわたり、自分を研究し、発声も練習方法も変化させつづけているのです。スポーツ選手でさえ、たびたびフォームを変えるのです。

 私の考え方や理論も、変わっていくと思います。でも感性や本質をみるところではあまり変わらないでしょう。そういうものは、その人が20年、30年とやり続けて何を残していくかです。長くみていくしかありません。

 研究所は、今の時点でこれまでの研究所史上、トレーニングもトレーナーも一番充実しています。いらっしゃるアーティストもいろいろです。紹介をはじめ、異分野の人がたくさんいらっしゃっています。対象の広がりに追いつきません。だからこそ、研究所です。いつも大切となるのは、応用で問われる基礎の力なのです。

 

○感覚と感性と自立

 

 若い人に全力で全身から声を出す経験を与えないことが、日本の声力の低下をもたらしています。歌唱やセリフ、いや、発声の前に、声というものの、もっともベーシックなところでの、トレーニングを行う必要を、私は提示しています。それが必要な理由は、オリジナルなフレーズとして使うためです。それは自由な声の条件として必要です。そこで、外国人ヴォーカルのフレーズ処理からメニュの材料をストレートに与えてきたのです。イメージでは慣れてきます。声がイメージに伴わないところでねばるのです。

 

 声の器づくりとして、強い息や大きな声、深い声などを模倣して、急にたくさんやったり、休みを入れずにやったりすると、声が潰れるリスクが高まります。これは、トレーニングとか、メニュとか方法以前に、当たり前のことです。発声の原理にあまりに反することをはやめましょう。

 感覚的に心身をトレーニングするには、今の自分の発声の限度の把握が欠かせません。いわゆる常識的な判断のことです。こんなことまで言わなくてはいけないことが、今の日本での、声のレベルの低下を示しています。

 かつては、無謀と思われる悪環境での大声トレーニングでさえ、トレーナーや受講生は鋭い感性で、喉を守っていたと思われます。なかには無神経なまま、痛めた人もいるでしょうが、タフな人も多かったのです。そうして覚えていったのです。

感覚、感性は鋭くあるべきです。ハードな条件を課して、得ていくことです。

 

〇形はない、自立心

 

 私のレッスンやブレスヴォイストレーニングの方法、メニュというのは、他のトレーナーのように、特別に決まった形で存在するようなものではありません。相手に応じて変化します。材料は何でもかまいません。どの母音、子音でも、どのスケールでもかまいません。あなたの歌の一フレーズ、セリフの一言、何でもいいのです。それだけで5年、10年と育成し保つ基準があります。

 できないときには、アプローチの技術として考え、実のところ、すぐれた一流のアーティストの声を後追いしていくのです。そういう感覚や心身をめざし、発声の原理の獲得を目的にするのです。

アーティストの日常を、まだ非日常にしている私たちが拡大して取り込み、日常化していくということです。その考え方が、ブレスヴォイストレーニングであり、私のレッスンです。

 

レベルⅠ 基礎

レベルⅡ 結びつき

レベルⅢ 表現

 

 一つのやり方、方法、メニュ、プロセスでなく、多様な方法、メニュ、プロセスがあるのが、豊かな世界だと、私は考えます。問題がどんどんでてくるからこそ、克服する力がつくのです。

 その前に、どのやり方が正しいとか、自分に合う方法や合うトレーナーは誰かと、すぐに決めたがります。それ以外にも何か問題があると、すぐに解決しようとします。そのために少々うまくなるだけで、育たないのだと思います。問題は成長する限り続いていくのです。

 本人もトレーナーも、早くうまくなるのを目指しているとそうなるのは当たり前です。もっと根本的、本質的、その人の生活や生き方から、出てくるものをみるのです。凝視することです。

 私には、日本の音楽や歌が、戦後アメリカに守られて、自立も覚悟もない、自分の意見もつくれない、言えない、出せない、リスクを引き受けられない、今の日本人のありようとダブって見えるのです。

 「自分の歌を歌おう」これは私の出した本のタイトルです。未だ何も変わっていないように思います。

 

○ブレスヴォイストレーニングのメリットとデメリット

 

 レベルⅠ~Ⅲを捉えてこそ、ブレスヴォイストレーニングが、世界の対応のトレーニングといえるでしょう。世界に通用するようになりたいという人がきます。それでまた、いろんな面で、ブレスヴォイストレーニングの可能性と限界を見ることになります。本人や私の条件をも省みることになるからです。

 「トレーナーの選び方」で述べた、他のトレーニングやトレーナーのことを、私自身にも当てはめて、そのよし悪しを考えるのです。

トレーナーの条件やトレーニングの基本については、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」(音楽之友社)を参考にしてください。私自身のことはあまり述べていませんが、この本の至るところに、私の声の背景があります。

 

 手本かサンプルかわかりませんが、一声でみせる見本、鍛えられた声の一つの叩き台としての、私のやサンプルの声を使います。30年にわたるトレーニングで、これに並ぶ、優れた人の声も、同じレベルの声として出します。

 声としては異なっても、音楽を司る表現力やコントロール力のある声を、歌唱、声として加えます。

 私が歌手の声として参考にしただけでなく、プロ歌手のプロの声として「レッスン曲史」などで紹介している声色、役者声は共通している何かがあります。トレーナーや声楽家にももっている人がいます。

 何をもってプロの声とするかの議論は不毛です。それぞれの分野で活躍した、プロの人の持つ声です。

 いつも私はこれからトレーニングをしていく人に、トレーナーとしてのスタンスでいいます。それぞれに違う声がありますから、与えられた声を、どう目一杯使うかに技術もあるのです。私や私の示すアーティストたちに、あなたの声が似ているのかどうかは考えなくてもよいのです。

 

○声を決める要因とまね

 

 声を決める要因があります。ここでは、声を出す体は楽器であるとして、体を中心にみていきます。それぞれに組み合わさっているので、声を決める要因、これで全て決まるわけではありません。

  1. 身長、体重、胸郭、頭部―頭蓋骨、

  首の長さ、太さ―喉頭の大きさ、声帯(筋)、

  輸状甲状筋、輸状被裂筋

  1. 表情筋、呼吸に関する筋肉

3.それらの使い方

 

 以前から、身長の高い人、首回りの太い人は低い声、という説がありました。男女の喉頭(のど仏)の違いで、声帯の長さの差が出て、ほぼ1オクターブの差となります。体格による声の違いも無視できません。大男でハイトーンの名人もいれば、小さい女性でヘヴィな声を出す人もいるので、断定することはできません。

 育ちでの発達の違いや、言語や文化圏の違いもあります。発声には本人の性格や、気質、心情、感情、表現の方向性まで、複雑にからみあっています。

 他人の持つものに憧れても、自分の持つものを伸ばしなさい。そのために他人を知る、他人に学ぶことです。しかし他人のまねが目的になると違ってきます。相手が優れているほどに、早く自分の限界が来るのです。あなたの見本、憧れる声がトレーナーの声と似ている場合のメリット、デメリットは省きます。

 一流のアーティストでも、あまりまねない方がよいタイプもいます。人間離れした喉を持つ人も多いだけに、そこは、よく考えないとなりません。サッチモ(ルイ・アームストロング)など、白人がまねをしても壊したアーティストは、日本人に勧めるわけにはいきません。この研究所へもヘヴィな声やハスキーな声、たとえば、ロック以外にフラメンコなどを求めにくる人もいますが、まねから入るのは禁物です。

 

○私の声の歴史

 

 私が今の声をメインにしたのは20代後半くらいからです。自分でも歌の声から日常の声に切り替わったと感じました。主に仕事上の理由で、体からの声を使わざるをえなくなったのです。18時間近く、ぶっつづけで声を出す毎日が、私の声を変えたというよりも、その声を選んだのです。喉をつぶしたくなければ、体で支えないと、日夜連続した発声の必要性に耐えられないからです。

 こうして選ばれる声は、もっともよい声とは限りません。もっとも強い声、いえ、耐久性のある声です。非日常が日常化したため、高度の使用上の必然性から声が変わっていくのです。それまでトレーニングで体全体でなんとかコントロールしていた声が、いつも話す声にシフトしたのです。

 喉は全く疲れないが、体が疲れる。しかし、体が疲れても、喉に負担がこないで、その分、支えが強くなるという、よい意味で身につくローテーションに入ったのです。

 これを一歩間違うと、こわしては休めて直すという負の循環になります。それは、大声トレーニングやハードなトレーニングで声を手に入れていた昔の歌手や役者と、かなり似たプロセスだと思います。

 

○喉の弱さとメンタリティの問題

 

 研究所での当初のトレーニングは、プロに対しては調整や共鳴、アマチュアに対しては作品のフレーズコピーから行いました。後者は、本人の資質と勘の鋭さが成否を分けます。マニュアル漬けのレッスンやトレーニングとは大違いです。

 武術が武道となり、健康法となるのはよいことです。その健康法で実戦を戦えると思っているようなのが、今の声のレッスン市場のように思われてなりません。ピアノの演奏中、ピアノのタッチにばかり気がいっていたり、指と鍵盤との角度ばかりを気にしたりしているようなものでしょう。

 私の研究所は、声の病気のリハビリの人も受け入れています。声の仕組みを知り、自分の喉の状態を気にするようにアドバイスします。しかし、それはトレーニングのためで、頭の中ばかりが拡大していくのはよくありません。ヴォイトレに関わることで、メリット以上にデメリットをもたらしていることはないでしょうか。

 私やここのトレーナーの喉は鍛えられた喉です。形成のプロセスや自覚はそれぞれに違いますが、普通の人の何倍もの声を集中して使ってきたのです。

 それを、すぐにそうならないからと、医者やトレーナーを巡っているような人が増えました。そのメンタリティの問題を、医者はともかく、助長しているトレーナーが多くなったようで気になります。

 

〇理論は理論

 

 パワフルな声になりたいのとハードにやるのは別です。目的を高くポジティブにとる方が、効果が上がります。

 そこは眺めがいいのです。世界を目指せば日本では通用します。結果がでればいいのです。

 理論派のトレーナーは、皆さんの弱点が喉であり、そこを克服しなくてはならないようなことを言います。そういうことを言われても忘れたらよいのですが、そういうところに行く人ほど、そういうことを気にするメンタリティを持っているのでまずいのです。

 ヴォーカリストになるために、まず医者に行くのは、天才か、的外れの人です。いろんなチャレンジをするなかで喉の健康診断のために医者に行くのは賛成しますが、少しトレーニングしても喉がよくないとすぐに医者やトレーナーに依存してしまうのは感心しません。「自分の喉は、人と違って弱い、よくない、変わっている、だから直さなくてはいけない」などと思いつめないようにしましょう。

 

○頭より体~階段で足が痛む?

 

 整体などで日頃のストレスをとっている人はそれでいいと思います。プロのスポーツ選手やアスリートなら、専門のフィジカルトレーナーをつけていますね。声はメンタルとフィジカルがとても関係するものです。そこで取り組む姿勢はよいのです。しかし、常に見直すことです。

 ヴォイトレよりも体づくりや柔軟で解決する問題は少なくありません。ジョギングや柔軟、ヘッドスパやマッサージだけでも声がよくなる人がたくさんいます。そこをヴォイストレーナーがメインにするようになったのが、今のヴォイトレ市場と私はみています。

 理論、理屈で喉にせまるとよくない結果となります。「喉で声を出すな」という反理論が、広く使われていることからも明らかです。知るととらわれてしまうのが人間です。なかでも、そういうメンタリティを持つ人です。

 本の読者が来ますが、

「レッスンでは本のことは忘れてください」

「頭をからっぽにしてください」

「年に何回か、頭をまとめたければ、そのときに読み返してください」

 というようにアドバイスします。

 いつも自問してみてください。毎日10分も歩いていないのに、階段を上がって足が痛かったから骨や筋肉がおかしいとか、歩き方が変だとか考えないでしょう。マッサージしようとか、医者や整体に行こうというまえに、少しずつ無理なく量を増やしていくことです。毎日、しっかりと自分の足で歩くことです。

 

○タフでない日本人の声

 

 日本人の喉と声の可能性を、私は、英語の発音の専門家と本を書くほど比較して考えてきました。日本人の背の低さやモンゴロイド系の平坦な顔が、欧米人に引けをとって同じようにできないと言う人もいました。体格に差がありますが、国際的に活躍している欧米以外の多くの人をみると、これらはもう条件とはならないと思います。

 むしろ、近頃の日本人のダイエット好き、小顔で、首もひょろりとして、体力、精神力(ハングリー精神)も衰えていっている方が気になります。声は心身のタフさが支えるものだからです。

心身の問題は、大きくなった日本人に、大きな弱点として突き付けられているように思うのです。表現からの必要性も、声そのものとして向かなくなっているようです。プロとお客、アーティストと一般と、両面とも必要を感じなくなっているということです。その2つは声が弱化する大きな要因なりつつあります。

 

〇日本と時代の流れ

 

・日本人の作家、詩人は、大衆の前で朗読しない。

・ホテル、レストランのロビーやラウンジに歌い手がいない。

・全世代に共通する歌がなくなった。ラジオ、テレビからネットへ移った。

昭和の頃はクラブ歌手、流しの歌手もいました。

 

 

 歌の地位の凋落は、世界的な傾向ですが、日本では、光GENJIがレコード大賞をとったあたりがターニングポイントとみています。世界でも、マドンナ、マイケル・ジャクソンの頃を思えば、現在の歌手の社会的な影響力は、限定的です。とはいえ、世界各国とも、アーティストの歌唱や表現レベル、声の力は、それほど、落ちていません。その中で日本だけは、フルダウンです。ヴォーカロイドに将来を委ねるのでしょうか。

 私が少年の頃は、今ほど手軽に、面白く遊べるものがなかったから、スポーツや歌を楽しんだのかもしれません。野球や相撲やプロレスも昭和のものだったのかもしれません。演劇も、不条理劇やアングラなど難しいもの、向こうから説いてきたり、問いかけてくるものは姿を消しました。誰でも楽しめるミュージカルなど、エンターテイメントに主流が移りました。日本では、ミュージカルでさえ視覚効果が第一で、音や歌の扱いがぞんざいです。

 誰もが背伸びすることに憧れももたなくなり、等身大のコミュニケーションに満足しているようです。宝塚から劇団四季、AKB48という流れが、私には、虚ろに見えます。

 

〇失われた大人の声

 

 大正から昭和にかけ、日本には大人の文化があり、大人っぽく、わからないものに憧れました。そういうものが挫折しました。“かわいい”でくくられるロリータ文化は、アニメ、漫画、ゲームと、世界に発信できるクールジャパン、日本文化となりました。私たちは、日本人は大人になりきれず、ピーターパンの理想国家を築いたのかもしれません。世界の動乱の中で、日本は安穏として、ガラパゴスなムーミン谷だったのでしょうか。

 

a.本人の声―体、日本人

b.表現の声―時代、日本

この2つについては、私の根本にある問題意識です。これからも至るところに出てくると思います。

 

○胸のハミング

 

 私は、日常の声、胸中の共振感覚をもとにした発声、声の芯、声のポジションなどについては、高い声が楽に出せてしまうタイプの人は、こだわらなくてよいし、メニュから、飛ばしてもよいとしました。

 これは日本の歌手やトレーナーに、特にそのタイプが多いからです。高校生くらいから、高いところがうまく出て(そのままで身にはつかなかったので)、歌手にならずにトレーナーやカラオケの先生になってしまった、というタイプです。これは、喉、声帯、呼吸が高声に、うまく対応してしまいすぎたのです。

 

 落語家や俳優にも、このタイプはいます。見かけよりもずっと高い声を使う人です。おネエ系の人の中にもいます。声が不自然なのでわかります。持っている資質もありますが、育った環境や性格で、声を高めに使っていた人に多いです。こういうタイプは、太い声、低い声に弱いです。

 

〇高い声と低い声

 

 男性は女性域でも弱く歌えるけれど、その逆に女性が男性の低音域は無理です。バス、バリトンが、音色ということを問わなければ、テノール域まで声が出せないことはありませんが、テノールにバスの声域は無理です。バイオリンとビオラを考えてもわかります。高い声を低くするほどには、低い声を高くするのは難しくありません。声帯の発声原理からも明らかです。

 高い声は技術しだいで出せるが、低い声は身長の高い人しか出せない、というように言われていたこともあります。これは、身長の高い人というのでなく、低い声の出せる条件のある人というべきです。つまり、高音は工夫しだいで、出せる可能性が大きいので、ヴォイトレの目的になりやすいのです。

 低い声は、発声の原理で限界があるので、あまり広がりません。もとより、歌は高めにシフトしていくものですから工夫もされません。

 カラオケの市場の発達とJ-POPSの高音化が、この傾向に拍車をかけました。そこに中途半端な理論も出てきました。

 私も、半ば現実と妥協、日本の業界に個人の持つ資質を合わせて中心を移しました。それによってここが悪影響を受けることは、それほどありませんでした。ここの声楽家のヴォイストレーナーは、ポップスやジャズ、役者や声優に対処するにあたって、自然とこの考えを取り入れていたのです。

 

○バランスと支え

 

 バランスは状態であり、支えは条件です。

 低いドから高いドまでの1オクターブ、その下にソ、その上にソとして、歌唱の2オクターブ(男性)を考えます。その上のドがハイCです。女性は、それを3度下げて、ミ()ーミ()ーミ()の域にとるとよいでしょう。

男性() ソードーソードーソ()

女性() ミーラーミーラーミ()

これを高低(上下)で便宜上2分してみます。真ん中のソ(ミ)で分けます。それぞれに、高い線と低い線を、並行して引いてみると、高い線(上線)は細く、低い線(下線)は、太い音色です。その上下の間で、いろんな音色がとれるということです。

a.頭声―頭声共鳴(共振)―細

b.胸声―胸声共鳴(共振)―太

と、これを2つに分けるのでなく、a-bを両極として、この間に、いろんな声のとり方があると考えるのです。

 

〇胸声の必要性

 

 私の読者には、私が胸声だけを勧めていると、誤解している人が少なくありません。それにお答えしておきます。

 当時も今も、歌は高い方へ音域をとるので、カラオケであれ、何であれ、自然と高く響かせ届かせようとします。それがうまくいかないから、そのコツを教えるのが発声、今はヴォイトレのように思われています。

 それに輪をかけて、声楽家も、ソプラノやテノールの先生ばかりの日本ですから、頭声の指導ばかりです。

海外の人や、歌手としての才能があって歌う人には、胸声の条件が、ある程度、備わっていたから、そこはスルーされました。備わっているものには、気づかないものです。似たタイプはうまくなり、そうでないタイプには、うまくいきません。頭声ばかりに偏る日本の問題は、一部の声楽家によって反駁されています。

 私は、誰もが高音から入ることに反対しません。そかし、行き詰ったなら、できているつもりの胸声を掘り下げる必要があると指摘しています(胸声という発声や胸声共鳴という共鳴があるのではないので、念のため)

 

○声域と音色

 

 この頃は、多くの人が声域を優先します。私は、音色を優先しますから大きく異なります。以前は、声量と共鳴の延長上に音色をおいていました。どちらがよいとか、正しい間違いの問題ではないのです。いろんな考えがあってよいのですが、声の質感こそ、忘れてはいけないことです。

 

 役者や外国人の日常の声のレベルに接して、その差をふまえた上でギャップを克服し、歌唱へ入るのがブレスヴォイストレーニングのプロセスです。

 日常の声のレベル、たとえば、思いっきり「アー」と出した声ですでに生じるギャップを埋めていくことを中心にします。だからこそ、役者も、他の分野の人も、早くからいらしたのです。

 

 伝えることの限界として、高い声は応用ですから、相手をよくみなくては、かなりリスクの高いトレーニングとなります。これは現場のトレーニングで対応することです。

 

〇ヴォイトレのリスク

 

 もし私の本を読んで、声を出して壊したり、つぶしたりしたり、前より悪くなったという人がいるのなら、次のことが考えられます。

  1. 無理に大きな声を出す。
  2. 無理に高い声(で、大きな声)を出す(私のメニュにはありません)

3.ほとんど休みを入れずに続けてやる。

  1. 声を喉で出している

私の本やレッスンの主旨とは違うことです。

 喉さえ壊さないのであれば、体や息、喉頭や呼吸に関わる筋肉のために、一時、若干、ハードに使うことは悪いことではありません。

 ヴォイトレがあろうとなかろうと、役者なら、舞台で大きな声を出すのです。雑に急すぎるからよくないのです。トレーニングも同じです。感性が鈍くならないことです。

トレーニングの目的と、メニュでやっていることとの位置づけを、しっかりとふまえて行うことが前提です。

 こういう注意は、マラソンのためのランニングをする人に、「時間をチェックして」「信号や車に気を付けて」と言うことに近いでしょう。

 声を出すことは、新しいことでも、危険なことでもありません。声をうまく出す、つくらないで自然に出す、よくするためにすることです。それを歪ませたり、潰したりする方向へ近づけていくのは変でしょう。

 素人や初心者だからわからない、という高いレベルの方法やメニュではないのです。

 もしそうなら、ハイトーンで、複雑なメニュをやることの方が、ずっとリスクは高いでしょう(私の基本メニュには入っていません)

 そういうメニュを使うと、メロディやリズムを正しくとることで目一杯で、声をしっかり出そうとできないのです。その結果、喉を疲れさせてしまうのでしょう。

 

〇目的のためのプロセス

 

 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲのレベルでの、それぞれの目的とプロセスを、よく考えてください。Ⅱ、Ⅲが、Ⅰの下積みになっているのです。

 Ⅰのトレーナーが、成果をすぐに上げられるように思うのは、誤解です。そこで上がったくらいの効果では、どこにも通用しないです。5年もみたら、わかります。一からやり直しするために、こういうところにいらっしゃるからです。

 

 日常性のところで通用しなかったのに、やり方を少し変えてみてよくなったと思う、そう思わせるトレーナーや整体のようなことに依存してしまう。となると、声の調子は、よくても本番の舞台には通用しないでしょう。それを自分の素質とか才能のせいにしてあきらめてしまうことになるのです。

 それをメニュや方法のせいにしないようにしてください。メニュや方法が悪いのでなく、おおよそは、あなたのスタンスの問題なのです。日常のベターを取り出すこと、使い方のよさでバランスを取ることが最終目的では、そこで上達が止まって当たり前なのです。

 

 私がⅢのレベルで課しているのは最悪のコンデションでもプロを凌ぐレベルです。こうなると、一声で違うのです。

 ですから、私は、最初から、あなたのめざすレベルの声、ヴォイトレやトレーナーが引き出すことができ、目的とした声が出たところで、どの程度、通用するかを考えることから、始めるように言っています。声域が曲をカバーできても、どうしようもないでしょう。

 

○現実対応のトレーニング

 

 自分のヴォイトレの声を聞いてください。いや自分の声だからわからないなら、一流のプロの歌でなく、声を聞いてみてください。「ここがポイント、ヴォイストレーニング」にも述べました。

 そういうことを目指している人にも、否定する人がいます。しかし、よほど勘の鈍い人以外は、喉を壊していないはずです。合わなければやめればいいというのは、責任逃れなので言いません。研究所はⅠとⅢの間にⅡをおいています。

つまり、他のヴォイトレやヴォイストレーナーが行うことのほとんどもまた、研究所の中で共存し併行させています。どれがよいかではないのですが、共に研究すべき課題だからです。

 

 どのトレーナーも自分のやり方に自信を持ち、こだわっています。すると、他のトレーナーの方法におのずと否定的になります。私も最初、始めたときはそうでした。肯定できないから研究しだしたのです。結果は、いらっしゃる人の欲するものが手に入るかどうかです。それ以上に持論を押しつけません。

 音大受験でも、ミュージカルのオーディションでも、パスすることが目的なら、そこにレッスンをシフトして、対応しています。

 トレーニングにあまり色がつくのはよくないことです。全ては本人のものとして、成果が出なくてはならないのです。そうでないトレーニング、特に歌や発声にトレーナーの形が、そのまま出ているものはよくないといえるのです。

 

○発声でみせない

 

 「トレーナーは黒子で、相手が学んで、自立していけるようにする」ことを本意とする私をカリスマ化するのは、困ったことです。その人自身の考え方や精神だけが、将来、未来を切り拓いていくのです。

私は声を材料にして、伝えるのに尽力しています。こうして、伝えたいことを補っているのです。

 自分の成長を自ら、阻害する考えを持ち、そういう言動を行う人がいるのは、残念なことです。そういう人は、人を妬み、僻み、落とし込むことに情熱をかけるのです。前向きに生きていたら、自分のことで精一杯で、他人をどうこう言う時間はありません。私とて、このようなことを述べるようになったのは、一段階引いてからのことです。

 

〇発声だけでみないこと

 

 表現のための発声ですから、発声の理想から外れても、表現を優先させる判断力をもつことです。その優先順位をヴォイトレマニア、人が表現する場にいない人や、浅い経験しかない人、表現してこなかった人は、とれません。

 私は歌を聞くときは発声でなく、歌をみます。喉声であろうと、心を動かされる表現をとれます。これはヴォイトレに毒されていなければ、誰でもわかるのですが、ヴォイトレが10割のつもりでやっているとわかりません。よい表現が出ても、「発声が違う」と否定します。発声がわからないときに、確認を求めたがるのです。これは目的をはきちがえています。マンガのようですが、よく目にします。

 若い時期やヴォイトレを始めてから、一時期は、そういうことは起こりやすいものです。いずれ、そこから出られたら、問題はありません。でも、そういうヴォイトレ信者になってしまったら、もったいないことです。マニアックに権威者の元を回り、発声だけの確認を得て、満足するタイプは増えているようです。

 

○問題にしないで学んでいく

 

 「問題にするから問題になるだけで、問題にしなければ何の問題もないのに…」と、私が最近よく思うことです。医者やメンタルトレーナーを頼り、一時的な喉のよさを求める人もいます。それは、時間もお金もかけて、なんら変わっていけない状況に自分をおいています。

 トレーニングもトレーナーも、自分に役立つために利用するものです。一流の人は誰からも学び、何でも吸収して、周りの人を活かしていきます。だめな人ほど、誰をも否定し文句だけ言って、周りの人を何ら使えないのです。

 いつの世の中も同じです。私がこうして指摘しても何ら変わりません。厳しく言うと逆恨みを買いかねません。こうして何か言うような手間さえかける人は少ないのです。大きな甘えなのです。無視すればよいことに、応答するのに文句を言うなということです。

 

〇お客にならない

 

 プロは客商売です。彼らにとってはアマチュアの人はお客様で、アンチファンにしておきたくはないのですから、よいことしか言いません。トレーナーも生徒がやめたら困ると思うと褒めることしかしません。こういう構造は知っておくことです。

 厳しいことを言われたら感謝すべきです。学べなくしているのは学べない本人のせいで、学べるようにしているのも本人の力です。

 そこは私もトレーナーも、限度があります。そこをも何とかしたいと思ってアドバイスをし続けています。

 トレーナーも大変だと思いますが、期待してレッスンをしています。どんな人がいらしても、学べるようにしたいと努めています。何事も縁ですから、大縁に育てましょう。お互いに学び合っていきましょう。私がここを続けている理由です。

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