108号
○プロ歌手へのレッスン
すでにプロである歌手に対するのと、そうでない人のプロになっていくプロセスに対するのでは、トレーナーのとるスタンスは異なります。プロ歌手についての定義や分類などというのは、現実や過去の歴史をみて、実物に当たればよいことですが、アイドルや役者、タレント出身の歌手になると、問われる要素から違ってきますから、やっかいな分野なのです。
素質と、それを伸ばすこと、さらに足らないものを補わせること、この3つを述べます。そこに3つの歌のレベルを想定しておきます。
A.プロ歌手 世界の一流レベル
B.プロ歌手 日本の一流レベル
C.プロ歌手 日本のデビューとそこから10年レベル
分類をするのは、問われるレベルと要素が違うからです。
ヴォイトレの意味がわからないというプロの歌手や役者、プロデューサーがいるのが、CとBの間で、論じているからです。トレーナーもCとBの下ので対応しているからです。
デビューとデビューから10年レベルを、同じところにおいたのは、日本では声の力においては、あまり変わらないか、デビュー時よりも劣っている人が多いからです。
演歌、歌謡曲に至る一連の流れ、浪曲、民謡などのレベルは、昭和の時代をピークにしています。トレーナーでいうと、1980年代後半あたりからは、1960年あたりのレベルを超えていません。私の親の世代のトレーナーは、日本の歌を育てていました。当然、次の私たちの世代は、それを世界のレベルにすることでした。そこに至っていない現実から、私はスタートしたのです。
1990年代に、J-POP、カラオケの隆盛で、歌はプロから、一般の人のものへ移りました。トレーナーも、そこに対応するようになったのです。
私は、私の前の世代の方が、科学的なことや知識はともかく、指導においては適切であったと思っています。それでトレーナーに対しても、ここで述べているわけです。
普通の人(仮にレベルDとしますがCと変わらないかもしれません)が声をよくしたいというと、トレーナーは心身のリラックスを教えて、よくなったと言うと本人も納得します。日常で足りている声を、不調だからバランスを整えて、マイナスをゼロにしてOKです。これは今のヴォイトレの現状です。歌い手も同じです。
世界のレベルを目標にして、歌の二極化(私の、アナウンサー-キャスター、ナレーター-パーソナリティーなどの対立構図を念頭にしてください)は、その上にようやく合一できるということです。
○目的と基準のおきかた
実力のある歌手に、2曲の歌唱レッスンをします。表現力と基礎力をつけるためにいらしています。基礎力は、私は一声、一フレーズでみます。そこのトレーニングは、基礎を身につけているトレーナーに任せています。一流のオペラ歌手でなくとも、その基礎条件を持っている声楽家で、一般の人やポップスに理解のある人なら、務まります。私のところのトレーナーのことです。
目標レベルは、たとえば、オペラの一フレーズが歌えるための、声域、声量、共鳴、発声、呼吸、体と音色、コントロール力を持つことです。Caro mio benやコンコーネの1番の冒頭ができたら十分です。音大入試でなく、大学院レベル、劇団四季のオーディションで受かり、契約更新が確実なレベルとするのもよいでしょう。
ここで日本のプロ歌手(と自称する人の4分の1は、こういう必要性もないかもしれません)で研究所にいらっしゃる人には、私は基礎として、日本のミュージカルや合唱、ゴスペルなどでも通じるクリアでシンプルなレベルを最低ラインにしています。
〇周りに合わせない
他の人と合わせるための耳の力、発声の力を最低限の音楽的基礎力としてつけます。
周りと比較しやすいと自分のことが分かるのでヴォイトレにくるのです。周りと比較するというのは、日本人の場合、周りが皆似ているために、それに合わせようとしてしまいがちです。「類は友を呼ぶ」も「朱に交われば赤くなる」は、あまりよい意味ではありません。多くは、日本のミュージカルのように、宝塚のように、なるのです。日本のシャンソンやジャズのように、なるのです。批判しているのではありません。ファンはそういう世界が好きですから、ファンの色に染まるのです。でも、逆ではないでしょうか。
その中にも、かつてはそういう分類にとどまらない、個として発色するスターがたくさんいました。オペラ、シャンソン、カンツォーネ、ラテン、エスニック音楽、日本にも、お笑いから踊りまで、世界のものを取り入れた時代があったのです。今はどうでしょう。
この二重構造が、オリジナリティの発掘、創造、評価を難しくしています。反面、どの分野も、どこかの国の大使のようなプロデュース型―あるいは翻訳型のアートが、日本では評価されやすいです。初めて持ち込んだ(初めてつくったのでなく)のが、第一人者になるのです。
○基礎の3レベル
これは
A.歌手レベル
B.日本の一流歌手レベル
C.世界の一流歌手レベル
の条件を持つとするとわかりやすいでしょう。
分類すると、1.体、2.呼吸、3.発声、共鳴、音色、4.声量、5.声域、6.音感、音程、7.リズム感、8.フレーズ、9.構成、展開、10.オリジナリティ、
オリジナリティも、声そのもの、発声フレーズ、組み合わせ、と分けます。基礎のところで、その人の声のタッチやフレーズでのオリジナリティは充分に出ます。それにことばがついたくらいが歌なのです。
声の完成(音楽的な声のフレーズ)に対して、ことば(母音、子音、発音、強弱、イントネーション)があります。ことばがつくと歌のように思われていますが、スキャットなら、ことばはいりません。
由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」の前半部分とか、サラ・ボーンの「枯葉」にいたっては、スキャットでほとんどもたせています。サッチモ(ルイ・アームストロング)のトランペット演奏の部分と同じことです。
○役者の声の個性
私のところは、役者も来るので、声の基礎+セリフの表現と、声の基礎+歌唱の表現で、大きく2つにコースを分けています。リズム、音程練習などは音楽基礎として、歌唱につけます。
声の完成に、発声からフレーズを音楽的にこなす力(メロディ処理)をもつというのは、私のブレスヴォイストレーニングの原型の最終形です。外国人レベルの表現力を含める可能性のある声をつくり、そこに歌をのせるのです。歌は後からついたのです。
〇ミュージカルを比較
日本で最初に参考にしたのは、日本の歌手や声楽家ではなく役者でした。役者の声を持てば、歌が変わるということです。そこにあったのは、声の表現力、個性といったオリジナリティの豊かさです。
日本のミュージカルと黒沢映画を比べてみてください。あるいは日本のミュージカルとブロードウェイのミュージカルの明確な差を感じてみましょう。劇団四季の人がたくさんいらっしゃる前から、マドンナプロデュースの「エビータ」(マドンナ、アントニオ・バンデラス)とで徹底した比較をしました。主役の2人だけでなく、他の歌についても差が何なのかということです。ブロードウェイへ行く人も何名か短期でみました。
声の芯、深さ(胸中共鳴)、そして声量(圧力)やインパクト、エッジ、ハスキー、リズムや切れ込みの鋭さ、加速度、パワーなど、日本の歌が失ってしまったもの、追いつけていないものがあります。
日本の歌とひとくくりにするのは乱暴ですが、そこを足らないと気づいた人が変えていけばいいのです。このあたりは、私は、
やれている人はやれていることでよしとし、
さらなる高みを目指すなら、+α
やれない人はやれるための+α
それがレッスンやトレーニングで得られると考えています。
得られないものもあるでしょう。日本の評価基準も確立していない。メロディとリズムが取れて、そこに歌詞がのっていたらよしというように問われているぐらいでは(その形が音楽や声なのに、ルックス重視となれば)、ど真ん中のトレーニングで成り立たないのは当然でしょう。1980年代からの作品の多くは成り立っていなかったとみてよいと思うのです。
○表現の3レベル
表現の3つのレベルについて述べましょう。
C.全体をまとめ、無難にこなす。
B.発声の響きで統一し、丁寧にことばを処理する。
A.本人の最も武器になるものを中心に表現する。
としてみます。
Bには、個性的で歌はうまくない、けれどもパワフル、インパクトのあるプロの歌手もいます。これをB2としましょう。役者型ということです。シャウト系やシンガーソングライター系が含まれます。
B1は、オーケストラや合唱団などとフィットする歌い手を考えるとわかりやすいでしょう。私はこの2つのBを日本の二極と言ってきたのです。ミュージカルでもB2は少ないです。日本にはB1とB2と併せ持つ人がいないのです。
AはB1+B2+Cです。B1やB2は含まれて目立ちません。世界の一流のヴォーカリストと呼ばれている人の顔、ステージ、歌声、しゃべり声を思い浮かべてみてください。
表現のA~Cは、本人の事情、目的やレベルもですが、今、置かれている立場、活動の現状も踏まえなくてはなりません。それに従い、Aへ歩んでいた人も、B2からB1にそしてCへ戻ってしまうことが多いのです。
○差を知ること
世界に通じる声になりたいという人がいらっしゃいます。
海外のトレーナーを闇雲に高く評価する日本人らしい人もたくさんいます。海外のトレーナーは、日本人に対して大した覚悟をさせられません。実力差が大きいので、親善交流レベルです。
それがなぜかを考えずに、1、2割の改善で、一流の指導を学んだという歌手やトレーナーもいます。単にその肩書を履歴につけたいだけ、毎年渡米して継続しなくては、お偉いトレーナーも不憫でしょう。
フィギュアスケートやJリーグ(サッカー)などと比べてみれば一目瞭然です。日本のトップレベルの選手は世界に並びました。
ステージやレコーディングが迫っている人に、根本的なトレーニングは、表現力を一時落とさずには難しいということです。基礎はやりすぎることはありません。歌から一時遠ざかることもあります。
発声に関するノウハウや新たなメニュを得ることで、歌が楽になったり、表現力を増すことはよいと思います。喉が荒れてくる人もいるのですが、ウォーミングアップ、クールダウンして使えばよいです。
表現はよほどの実力のある人でないと、ど真ん中の声からやっていくと、バランスを崩しかねません。誰でもこれまでに「声は使ってきているし歌は歌ってきている」という事実です。特にプロは、かなり使ってきています。
日頃の生活から、よいところ(プラス)も悪いところ(マイナス)も積み重なって、今の声に出ているのです。あなたがプロなら、すでにもっているものによいこともたくさんあります。そのために犠牲になったり、制限されたところもあることを忘れないようにしましょう。総合的にみると、これまで、あまりやっていない人よりは、問題が複雑になっているのです。
○スタンスの違い
歌をみるとき、次のスタンスでみます。1.悪いところを目立たなくする。2.よいところを目立たせる。2が基本で1が応用、2がトレーニングで1がリハーサル前です。
構成展開から入っていき、実力のある人なら声の置き方や呼吸を変化させて歌をブラッシュさせます。テンポやキィをその人の最大の力が出るところに合わせます。
腹から声が出ているような、喉が鉄でできているような外国人のシンガーが来たら、声の差は明らかです。それを音響、構成、声の統一性などで、客にはわからないようにするのが、日本のヴォイストレーニングに必要な条件かもしれません。ですから、注意も、口内のこと、軟口蓋をあげて、みけんや鼻腔に声を集めていくような部分的な事になるのです。
前に、森和彦氏の指摘を引用しました(私の著書では、リットーミュージックの「ヴォーカルトレーニング」「ヴォイストレーニング」「ヴォイストレーニングの全知識」に詳しい)。
スタンスの違いは、大きいです。日本のオペラが、一流の歌手を出せないのは、指導者がわかっていないためでしょうか。森氏は、山路一芳氏の師です。イタリアでは一般の人が出せるベルカントを日本の歌手が使えないのは、教養やテクニックの問題ではありません。もちろん、声楽家は使えているのですから。
表現に対し、自然にありのままに自らの声を鍛えているかです。それをなくして発声や音響のテクニックでカバーしようとしているからです。
○表現からの基礎
私は、基礎だけのレッスンを好むのも(ヴォイトレにくる人には)よいとは思っていません。基礎がなくては表現できないのではなく、表現の必然性が、基礎のレベルを高めるからです。
自分があり、自分の世界があり、表現に結集していくのです。最初からそんなことは、よくわからないから、基礎をやって、テクニックでなく、自然に声が出る、自由に声が出る、おのずと人に働きかけるというのもありです。表現するのでなく、表現手段を得て待つことになります。普通は十代の時期にあたります。
声は、あてるのでなく、あたるのです。トレーニングだから、方向づけ、意識づけをするのです。
「今すぐできるようにするから問題」なのです。将来大きく確実にできているようにするのに、急ぎすぎないことです。その結果、少し先に行くと同じところをぐるぐる回っている人が多いからです。一冊の本から学ばずに、何十冊も読みっぱなしにしているのに等しいです。
同じことのリピートが力をつけるのですが、リピートに飽きてしまうのはメニュや方法のままだからです。意識が基礎に厳しくないからです。細部の発声が変わり、気づいていくのを待ちます。同じものが違って聞こえたり、異なる感覚で発声できてこそ、一歩なのです。
どうして、こんなに誰もが見えるもの、わかるものしか求められないようになったのでしょうか。
誰でもできていることなら、誰でもできています。あなたが今の力で少し変えてできるくらいなら、もうほとんどの人ができています。そういう日常で埋まるくらいの小さなギャップでは、トレーニングの意味はないと思ってください。1、2か月で学んだものは1、2か月で忘れ去られていきます。それでは体力づくりと大して変わらないでしょう。
○表現と判断
表現について述べていきます。あなたが全力でやったところで70パーセント、そこから100パーセントに満たそうと思わないことです。そのギャップをずっと抱えていくのです。その日に100パーセントに整えると小に、3か月から1年くらいで100パーセントにすると中になるといったところでしょうか。
ライブやレコーディングでは、応用して50の力で100に見せる方法や演出があります。そこは演出家、プロデューサーがプロです。しかし、カラオケの先生やヴォイストレーナーもそうやっています。
多くの人は、カラオケのエコーのように、+αされたところも含めて実力と思うので、それ以上に伸びません。トレーナーも自信をつけさせるためにそこを褒めるでしょう。
自分で厳しく判断することです。本音で言ってくれというのなら、私は1曲でいくつでも指摘します。いくつも指摘できるのは、表現、音楽など、どれかの土俵にのっているからよい方です。多くはそのレベルにありません。
一遍に言っても伝わりようもないので、1年、2年、3年と、タイミングをみます。ガイドラインをプランニングします。そういう関係が成立すると、厳しい分、実力はつきます。多くのケースでは土俵にのっていないことに気づいてもらえません。
〇転機
ビジュアル、ルックス、パフォーマンスが売り物の人のプロです。比較的、研究所には、少ないタイプですが、年に何人か(何組か)来ます。プロダクションからは、このタイプが多いです。そういう人は、昔なら20代半ば、今は30代くらいで転機が来ます。
元々、与えられたものの表現をパフォーマンス中心で見せてきた人が多い。それでやってこられたゆえに、本当に表現に入るには、ゼロからやるくらいの時間と努力を要します(モデル出身の歌手はこの代表的存在です)。
早々に限界が見えるのに、問題は複雑化しています。喉の限界は、ていねいに扱えば音響でカバーできます。ファンが声や歌での表現を大して求めていないので、考えなくてはなりません。プロデューサーにも相談します。
こんなに話が本質からそれるのは、本質をそれたレッスンやトレーニングが中心で行われているからです。しかし、それも間違いではないのです。要求に対応するために、レッスンもあり、トレーナーもそうなるからです。それが価値のあるレッスンとは思いませんが、そうでないと買ってもらえないことも多いのです。カラオケがうまくなるためのレッスンなので、カラオケの先生に文句を言う人はいません。私は、トレーナーにも生徒さんに気づいて欲しいのです。
〇表現の基礎レッスンの実際
表現のレッスンは、声よりも呼吸です。大きな呼吸の動き、その自由度を優先します。
一曲をテンポ早めで4回くらいのブレス(息つぎ)で歌いきってみましょう。作曲家になって自分の実感で作り上げていくプロセスを踏むのです。
鼻歌(ハミング)→コーラス→歌唱のような感じです。なかなか1コーラス(一番)が一つにならないはずです。これを4つくらいで、構成、展開していきます。起承転結でも、Aメロ、Bメロ、サビでも構いません。ここで型(パターン)としてのフレーズに、その変化、伏線やニュアンスなど、表現に結びつくものが自然に出てくるとよいのです。
難しいときは、フレーズ毎に作っていきましょう。1フレーズ(4~8小節)で1つ、それを組み合わせて4フレーズで4つ。4つが同じようにならないように変化をつけます。(展開)シンクロ+αで相似形、リピート(型)とチャレンジ(型破り)、安定させて変化させ、インパクト(迫力、パワー)と丁寧の両立と、二律背反することを入れていくのです。
○声から歌へ
1.声から(歌)→音楽へのアプローチ
2.音楽から(歌)→声へのアプローチ
で試してみましょう。できている(と思っている)ことを完璧にするために補うのは、基礎力です。これが、本当のヴォイトレです。
1.体→呼吸→発声(結びつき)
2.発声→共鳴(声域)
3.共鳴でことばの処理(声量、発音)
ここに声域、声区、声質(地声、裏声、ファルセットとメリハリの問題も入ります。
歌では高音域、頭声中心になりがちですが、低音域、胸声が基本です。強化には量での強さ、大きさ、太さが必要です。急ぎすぎたり、無理をすると喉によくありません。調整として、質をていねいに、弱く、小さく、細くやるのは、強化で無理をしすぎていないかのチェックによいです。
〇トニー・ベネットのF
「Fly Me to the Moon」をトニー・ベネットで聞いてみてください。そこからコピー→自分のオリジナリナルにする、のプロセスを踏んでみましょう。外国人の声と、日本人のプロの声を何曲かで比べるとよいでしょう。
音色に注目してください。Fillで始まる2番は大変です。In other words ~の2回のくり返しを2コーラス、表現し切った上で、収めらますか。
日本人のは、ボサノバ調などにして、喉でまとめているのが多いでしょう。歌いこなして、うまく処理しているようでも、そこに本人しかできない声での音楽、表現の成り立ちと創造の力は、弱くありませんか。曲のメロディの良さだけが引き立つとしたら、BGMと同じです。そういう歌を日本人が好むのは確かですが、ヴォイトレでの可能性からみると、もったいないことです。
○本当の基礎
一般の人でもプロでも、基礎を学びたいといらっしゃいます。本当は基礎でなく、せりふや歌を、プロのようにうまくなりたいのです。できたら、ストレートにセリフや歌を直したいと思っているでしょう。ですから、レッスンでも、せりふや歌を取り入れています。
基礎は最初の5分だけというレッスンもあります。これは、目的とするレベルのプロセスへのスタンスの問題です。
何もやっていない人は何をやっても伸びます。1つのレッスンから、学べない人も、1を学べる人も、100を学べる人もいるということです。気をつけることは、時間をかければ有利というのは量でなく、質的変化を伴うということです。
レッスンへのスタンスについて、私は、レッスン前にレクチャーしているのですが、なかなかわかってもらえないこともあります。その私の力不足は、受け取る側の器不足は、こうしてフォローしているのです。
○本当ではない基礎
歌唱に入るまえの発声練習で、スケール、母音の統一の練習を行っているのは、基礎というよりは、調子のチェックとウォーミングアップです。最後にそれを繰り返すトレーナーもいます。それはクールダウンになっている、レッスン前後の声の状態をチェックすることが目的のこともあるのでしょう。
よい発声になっていると、レッスンの成果が上がったように思います。状態が整うからです。レッスンでも対応できなかったり、合わなかったりすると、状態が悪くなることもあります。すると、自分の力にショックを受けたり、レッスンがよくないと思う人もいます。しかし、その感じだけを知って、次のレッスンに臨めばよいということです。大騒ぎすることではありません。
トレーナーが、あなたの要求に対応して、すぐに方法を変えたり、途中で中断したりすることもあります。これも一長一短です。言っておきたいことは、よし悪しを一回のレッスンで判断することは、あまりよいことではないということです。☆
現場では、そこですぐ判断してメニュを変えて調整するトレーナーの方が優れているように見えます。見えるだけに厄介です。わかりやすさが問われる、トレーナーもそういう形にレッスンをしがちです。
固定メニュのレッスンをするトレーナーのと、相手に応じてメニュを変えるトレーナーの違いで、それぞれにメリット、デメリットがあるのです。
○教える―教わるの関係をはずす
せりふや歌なら、表現としての成立は、オリジナリティです。セリフや歌というもののはるか上の判断をもってレッスンを行うことは、難しいでしょう。基礎なら、「体や感覚そのものを将来に対して大きく変えていくこと」を行うことです。
トレーナーは、「先での判断をもって今のレッスンを行う」というのが、私の考えです。
リズムや音程も、複雑なものを、その音にあてることで、「正確にあてたから、OK」というのは、あまり感心できないことです。今の状況や状態での慣れを問うているだけです。その人にとっては進歩かもしれませんが、それをやらなくても、日常のレベルでできる人がいます。それが日本で日本人で、ということであれば、そのくらいのことなら、本当の実力にならないのです。でも、慣れから入るのも大切なので、入口としてはOKです。
歌手は、そんなことで音感やリズムを得てきたのではないのです。発声のレッスンなのに譜読のトレーニングで終わっていることもあります。それも基礎ですが、人に教えるためにそこを重視しがちです。
トレーナーに学ぼうとする人も、そういうトレーナーにつくのでその傾向が助長されます。器用な人と器用なトレーナーほど、そういう影響力で目的の設定をしてしまいます。
〇正しさでみない
本当の基礎は、リズムや音程でも、そんな表面的なことではないのです。その上でのアプローチというのなら、よい場合もあります。音程、リズムは、発声の悪さや声域の問題から、うまくいかないことが多いのです。トレーナーも本人もうまくいったと思っているのに、うまくいっていないからややこしいのです。
正誤でいうなら、その音にあたれば正しいです。あたらないことを間違いとするからです。しかしヴォイトレというなら、あててはならないのです。
あたっていなくてはいけない、あてなくともあっている、というレベルになることです。無理に意識的に行っていると、脳や発声器官が覚えて、自然と無意識にあたってくる、無理のない発声域において、そうなるのです。だから、そこを拡げるのが、基礎です。
スケールや母音での声域、共鳴の獲得や、コールユーブンゲンでの音感、音程(発声、リズム、譜読、レガート、スタッカートなども含む)と、目的に応じていろんなメニュがセットされます。あなたの使いやすい音高、母音、長さ、強さ、音色、響きは、他の人と必ず異なるのです。
「使いやすい=将来のベストではない」ということも注意しましょう。
○メニュはシンプルに
音程、リズム、スケールは、基礎として全パターンのトレーニング音源をつくりました。コールユーブンゲンでも、本当に使おうと思ったら、難易度が高いからです。ずっとやさしいメニュでさえ、ほとんどの人は音を取るだけで終わっています。自然に理想的な発声でできていないことを知るために、シンプルにしたのです。
一方で、発声を耳から直していく、正すために、思いきり高度なものを入れていく、これは、表現から学ぶことです。その高度なことに耐えうるために基礎を行うので、シンプルにします。表現と基礎応用も基本は表裏一体です。
日常レベルで優れた人が何のトレーニングもせず、できてしまうものについては、基礎や表現で考えない方がよいし、そういう基礎や表現の前提が必要条件になると思わない方がいいのです。☆
絶対にトレーニングをやっていないとできないこと、5年のトレーニングをやった人と同じことをしようとすると5年はかかるというレベルに目的を設定した方がよいのです。その分、年月はかかります。だからこそ一日ですぐによくなるレッスンとは相いれないのです。
このあたりは私の根本的な方針です。
レッスンは、そのチェック、判断、基準と、それを満たす(補う)材料の提供です。そこから具体的にどのようにするかについて考えます。
○器と耐久力
「器を大きくする」と、私はよく使います。これは応用力をつけることです。仕事でのいろんな要求に応えられるようにすることもですが、本当は自分の最もオリジナルなところでの表現(これは、それゆえ、しばしば世の中に認められない、嫌われる)を通じさせる力ということです。
日本の、誰かのようになれば充分という、輸入文化のまま、「外国人のように」とか、「昔の師匠とか先生のように」と、他人の作った基準でみてしまうのは三流国です。いつも、ダブルスタンダードとして両立させる努力が強いられます。
日本では、器用にまねのできる人が重宝されるので、そういう人がプロになり、トレーナーになり、悪循環が続いています。
トレーナーと実力派アーティストとの関係が築かれていかないのは、歌のレッスンは心身の管理に終わっているのは、なぜでしょう。プロ歌手も、基礎と言いつつ基礎を身につけようとしていない、喉にかからない共鳴で正確に歌いこなせたらよいというのが実状です。
自分の体からの芯のある声でのオリジナリティの確立に至らずに、です。
一流のアーティストや役者に、対応できているトレーナーはとても少ないのです。アイドルやモデル、タレントにアドバイスできてよしとするくらい、スタッフ、トレーナーとも、未熟な世界です。声も弱体化してスターも出なくなったのです。
〇器づくり優先を
レッスンは、目に見えやすい、わかりやすいもので、素人にも判断できる高い声(音域)、発音(ことば)音程、リズムが中心になりがちです。歌は、バランスでみるので、どうしてもそうなります。
それが、役者でもあるはずの歌い手から、声そのものの表現力や個性を奪ってしまった要因です。役者は声量とせりふ(表情、しぐさ)力、のどの強さ、タフさが条件でした。昔の歌手もそうでした。声の基本の力がなくなり、歌手も役者もタレント化しています。一度、本質に戻らなくては、ヴォイトレも先がないと思います。
器の要素
喉 声 呼吸 体
声の高さ、共鳴(母音、音色)、長さ、大きさ(強さ)
長時間、タフに
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