106号
○表現と基礎の間で
桜が舞い花吹雪が水面を埋め、桜色の流れゆくのにも心打たれる。これも自然の表現です。
私が枝を揺らすと、パッと桜が散ります。それを見て、小学生たちが並木を次から次と幹を両手で揺らしていきます。あまり、桜は散りません。
“そんな唄をたくさん聞いているな”と思いました。力づくでは、絵にならない、桜の幹の力に負けているのです。基礎と応用、そんな話をしてみたいと思います。
最近、いろんな分野の専門家が、ここに学びに来ます。ここではいろんな分野のトレーナーもレッスンを受けています。他でよいレッスンをするためにここにいらしているのです。
私は誰がいい、どれがいい、どの方法やメニュがいいなどに関知しません。そういうところで頭でっかちになった人の頭をはずすのを引き受けています。そういう人はたくさん勉強して覚えたら、声も歌もよくなると思い込んでいるのです。
桜の散るのに心を打たれるには、素直な心で、受け入れることです。「ソメイヨシノが日本の桜の中では…で、それは…であり…」などという知識はいりません。学者とアーティストは違います。人よりも、感動する心が豊かに保つのに努力もいるのです。それは知識ではありません。もし知識とするなら、科学や文明よりは、教養、歴史や古典などを通してのイマジネーションをふくらませるものでありたいものです。
○100人に1人
喉が弱いとか、傷めやすいとかで体の不調で医者に行くことは悪いことではありません。大体、行く必要のある人は、10人に1人くらいです。メンタル的に頼りたいとか、安心したいという本心で、5、6人でしょうか。整体やマッサージなどと似てきます。
それは、そのときの心身の状態をよくすると声もよくなるということがメインです。それで1、2割よくなったり、元に回復したところで大したことのできないのは、スポーツやアスリートを考えたらわかります。
10分の1の人のうち、本当にそこに行って効果のある人は、更にその10分の1です。つまり、100人に1人、あるいは100回行って1回くらいでしょう。これでも、私は多めに数えているつもりです。
○声のリハビリ
1年間入院していた人が、退院した翌日にマッサージでほぐしてもらっても、マラソンには出られません。私は1週間入院したことがありますが、その後1ヶ月、あまり体を動かせませんでした。そこで、3年の計画を立てました。1年目は、息と体、2年目は、発声と共鳴(半オクターブ)、3年目は、1オクターブ半(2年目にコンコーネ50を50番までやりました。最初は10曲でも調子が悪かったのが、2年かけて50曲できるように戻しました)、私がトレーナーゆえ、よくわかっていることであり、年の功です。
いつも触れていることは、目的のための具体化したスケジュールと必要性の向上です。これが日々の計画と欲であり、表現と基礎ということにあたります。
3年後のマラソン完走にはさかのぼってプランニングします。そして最初の1ヶ月目、1日1万歩、ジョギング、柔軟や体作りから、というようなことです。そこで医者に行くとか、整体師のところでほぐすのは、チェックとしてよいことです。
問われるは毎日、どれだけ練習をやったかということ、それと目的との距離、ギャップや方向づけ、それを埋めるプログラム、日々のトレーニングの計画をきちんとさせているか、ということです。
〇プログラミング
研究所では、プロの表現については私が中心で、目標の決定から、管理し、プランニングをつくっています。基礎づくりは、初心者は、トレーナーにつきます。プロについては、その人の資質や方向によって、いろんなスタッフを加え、分担しています。
少なくても100分の1や、10分の1をもって、自分の何かが大きく変わるような錯覚は起こしてほしくないのです。
「その日の喉の調子がよくなる」ことと、「2、3年後の実力(声力)」がつくことは、全く別の次元のことです。
ここでは100人に1人くらいは、治療などをした方がいい人もいます。専門外のことには、専門の人に引き合わせる判断をします。年に何人か、医者のアドバイスのもとに、トレーニングを併行していることもあります。
○声の症状と日常性
声がかすれる、喉が痛い、声が弱いという症状でいらっしゃる人が増えています。養成所やプロダクションに入ったり、オーディションを通ったりした直後のプロやセミプロにも多いことです。
昔は、喉について教えてくれる人はいなかったのに、今は、あなたの喉はこのようになっているとか、他の人と違う、などと、丁寧に説明してくれる人もいます。そのために、うまくいかないのは喉のせいだと思い込む傾向が著しくなってきました。
アドバイスや知識を得るのは悪いことではありません。自分を知ることも、勉強するのは、よいことです。私も毎日、いろんな本を読み、学説や論文にも目を通しています。
しかし、それは現場では大して使いません。というより、使えません。もっとも使っていると感じるのは、自己否定的な態度をとる人の根拠を崩すためです。知っていることによって、よくない方向に振り回されている人に、それを忘れてもらうためです。早くトレーナーを信頼してもらうのに必要なときがあります。
知識を信じる人は知識のある人を信じ、それを使わない人を信じません。知識の虜となっている人は、固まった頭をほぐさないといけません。
理屈で納得したいのですから、頭で理解しないと体や感覚にも効かないのです。それは大きな欠点です。細かいことや正しさにこだわる人に多いです。今の日本では一般的になりつつあり、結果として救われないのです。
「それは確実に上達できるか」「絶対に効果はあるか」「何回、何ヶ月か、いくらかかるか」というアプローチをするような人です。
私はその問いも半分は当然のことと思っています。できたら、これらの問いに対してクリアしたいと思っていますから、問うこと自体を否定しているのではありません。
しかし、声や歌は日常のものであるからこそ、そういう問いは、不毛になりがちです。変えるためには、非日常なレベルに目的を置き、必然性を高めておかなくては、いつものレベルに戻ってしまうからです。
〇一日の効用~ワークショップ
私は気づきを最大の効用とし、一日でよい声を出せるようにするワークショップには重きをおいていません。自分の今のなかでよい声が出たらそのままで通用するという、誤解を与えてしまうからです(私はそれを「ベターな声」と言っています)。
それならば、なぜワークショップで出せた声が、同じ体なのに、いつも出せないのかということを追及して解決していないことが欠陥です。
プロのトレーナーの演出のマジックで、心身がリラックスしそのときだけ取り出された声色、それは一人では出せないのです。
喉の仕組みや腹式呼吸などの筋肉などの働きから説明されると、そのメニュや方法が、あたかも効いたかのように思うのです。
そういうセミナーやレッスンは、コンプレックスの払拭のためのものです。自信を持つという効果が最大のメリットです。つまり何度も受けて慣れるというのなら話べたの人や緊張して人前でうまく話せない人などのメンタル改善にはよいでしょう。
○程度~ワークショップ
私がバッティングセンターで、プロのバッティングコーチに打つコツを教わると、快音が響くようになるかもしれません。うまくいくと最初は、よい結果が出るでしょう。でも次の30球で息切れ、集中力が切れ、やがて腕がマヒするでしょう。
100球中、70球ジャストミートできる人は、1つの町内に何人かいるでしょう。そんな程度までとわかっていてやる分にはいいのです。イチローのように、小学校からマシンで毎日何百本も続けたら高度に身につくかもしれません。
多くの人はワークショップの日で終わります。次に別のワークショップで、似たことをくり返します。知識は豊かになります。頭では理解でき、人にもしゃべれるようになりますから、一見上達したようです。が、体というのは毎日相当にやらないと変わりません。
知識は100分の1の人に役立つ、あるいは100分の1くらいは足しになると言いましたが、その言い方を借りると、100分の99は知識と関係のない、体のトレーニングの積み重ねから生じる結果(効果)です。つまり、ワークショップや診断のチェックは入口、あるいは、その前提です。
私は、それが必要条件とか、前提とは思いませんし、害されているとはいいません。しかし、誤解を広めていることが多いのが現実だと知っています。
一言でいうと、「中途半端な知識ほど害になるものはない」のです。私も本は読みますが、そこに述べられているからといって、そのまま使おうとは思いません。まじめな人は、何とかの一つ覚えみたいに、教わったり、読んだだけで、他の人のメニュを教えるのにも使っているようです。
私はメニュや方法自体についてよし悪しはないし、使う人の技量次第と思っています。ですから、知ったメニュを試してみるのはよいと思うのです。自分自身に試すのもよいでしょう。
自分に効果があったからと、目的も資質もキャリアも違う人に、そのまま当てはまると思い込むことがよくないのです。
だからといって死ぬほど危険ということではないので、程度問題ですが…。トレーナーとメニュとの関係については、いろんな問題があるということです。
○バランスとインパクトにスタンス☆
a.ステージ=状態、調整、リラックス、バランス(声域)、本番
b.トレーニング=条件、強化、集中、インパクト(声量、音色)
これは、私がよく使う声や歌の本番(ステージ)とトレーニングの違いを述べた対比表です。aはマイナス、ミスをなくす方向、bはプラスをみつける、個性を引き出す方向です。
本人自らbからaに行くのが自然な流れです。つまり幹から花です。しかし、声に関しては日本では、幹がしっかり根を下ろさないうちに花を求めるので、あまり大きくなりません。
日本では、形、それも輸入された作品のコピーや、そこからの評価基準を薄めて採用してきました。そのために、手本をまねる傾向が強いので、その形が漠然としていた頃は、まだ個性豊かでパワフルなスターも出ていました。だんだんと形をまねるだけになり、まさに形になっていったわけです。
声楽家もヴォイストレーナーもaでの技術面については、うまくなったと思います。音痴やガラ声のような歌はなくなりました。それは同時に、個性をも殺すとまではいわないまでも、個性を伸ばせないようなものにしてしまったのではないでしょうか。第一級の人材が出なくなっています。
私などはトレーナーの判断で、育てたりできるのは、一流のアーティストではないと知っています。そうであれば基準の判断力を与える、プラスして考え方や精神のフォローをすることで充分と思っています。
それではレッスンになりませんから、きめ細やかにその人をメイキャップし演出していく、日本ではそういう形を持った人でないと使いにくいといった傾向があります。才能よりも、従順さを優先しているからですが…。
○フレーズ
私が1フレーズにこだわるのは、その人の表現と判断の精度をあげるためです。
ど真ん中にくればホームランとなる力を養います。そのために再現性が必要で、そのためのフォームもいります。タイミング、勘、筋力、神経など、あらゆる心身の能力のパフォーマンスを上げておくことです。ここに知識はいりません。
喉が他人と違っていたり、声が違っていても、気にすることではない。むしろ可能性を豊かにしていると捉えることです。普通の人ならデメリットになることをメリットに高めてこそ、個性であり、一流への道を切り拓くのです。
そこに研究者の協力があるとよいと思います。日本のスポーツも、それで補強されてきました。しかし、誰もがそこで力を培ったのでなく、育った人は、高める機会をもらっただけなのです。多くのアスリートは誰よりもたくさん練習し、覚悟し、自力で工夫してきたのです。頭を使うなら、自分のトレーニングにどう全力を投じるかということです。
実際にはスタートライン前でうろうろしている人が多いのです。
5キロ走ったら足が痛くなった、だから病院に行って、パーソナルトレーナーについて、というのは、なんと贅沢、虚弱かということです。
喉の手術をしても、ドクターの制止を振り切り、2,3週間で現場復帰し、高熱や大病でも、それを隠して気づかせない、そんなプロも、同じ人間です。喉が合金でできているわけでもないのです。トレーニングで鍛え、リスクを背負ってきたからこそ、微妙なコントロールで鋭く使えるようになるのです。
それに対して、第三者の観点からサポートしているのが、トレーナーです。
昔の私は無視か制止をしていました。アーティストは暴走するからです。今はムチを入れなくてはなりません。アメを与えすぎられているからでしょう。これは時代が変わったというより、人間力の劣化と思います。
○役者と声楽家
私が声楽家と組んでいるのは、彼らのオペラの舞台での実力レベルでなく、5年、10年、15年以上、発声や共鳴、呼吸を人並みでないレベルで高めてきたプロセスを買うからです。そこまでのプログラムと方向性に、発声の基礎の共通点を見出しているからです。
彼らは、先輩、同輩、後輩と、一定の基準をおいて多くの他人の成長を長くみてきています。それは、よい経験です。
研究所の発足時、私は役者の声をベースにして考えました。日本の声楽家一般よりも個性的かつ、強く豊かな声に思えたからです。ただし、日本の歌い手の場合、声域(高音域)での問題があり、そこでは共鳴を集めて行く必要があったので声楽を使うようにしたのです。
役者は、3年、5年くらいは声もセリフによって鍛えられますが、その後は、表情やしぐさに声が従います。死にそうな演技をしたら、死にそうな声が出るのです。そこは個性というより、なり切りようです。死にそうな声のメソッドやトレーニングはありません。役者は、役によって、声はバラバラです。
声楽家は、死の間際のシーンの表現にも体からの歌唱、つまり発声呼吸、共鳴をキープします。ことばは発声を妨げることでもあります。となると、セリフでの発声よりは、共鳴での発声の方が高いレベルをキープできます。
これは、ことばを伝えるという限定のある役者と声の輝き(共鳴)を優先できる声楽家の大きな違いです。それを職業や現場での使い方で分ける必要はありません。
私は、役者や声優だからこそ、ことばを離れた声だけのトレーニングをすることに意味を感じるとよいと思います。ベテランは、セリフを読ませたら、もうスタイルができていて、あまり直すところもない。さらに声の力をつけるなら、イタリア曲の歌唱(アリア)を使う方が、極端ゆえに気づく、変わる―という結果につながるのです。
○研究する
私は、ヴォイストレーニングに、プロレベル、そして生涯、長期に使えるということを想定しています。どのトレーナーについているとか、研究所にいるとか、いないなどと関係ありません。
研究所をやめても、多数の人が会報を購読しています。レッスンに戻ってくることもあります。そういう例は他にはあまりないでしょう。声の研究誌を月刊で出しているところは、世界にもありません。
研究所ですから、自分の研究をするのです。私もトレーナーも、レッスンにいらしている人も研究です。
作家の渡部淳一さんが以前、「歌手は、覚えた曲を歌っているから楽だ。小説家は…」みたいなことを述べられていました。仕上げたら、またゼロから筋を考える作家は、大変だと思います。そして日本の歌手の多くは、彼らからそう思われても仕方ないほど、クリエイティブでないのも確かと思いました。
プロでもデビューあたりまであったインパクトや声量が、昔なら7、8年、今や2、3年も経たないうちに、なくなるのです。無難に安定して、テクニックに頼った、危なげない歌唱になっていくのです。その結果、歌は、いや歌手の歌は市民権を失いつつあります。私たちの生活に必要なものから、離れていきます。そこに今の歌の凋落がある―とまでは言いませんが…。そういうステージを許す日本の客、プロは、ステージでは鋭いから、客に応じているとするなら、そういうステージを期待する日本の客というのがあるわけです。プロデューサーからトレーナーまで一色汰で、まさに日本らしいのです。
私は、そうでなく、もっとも個の感覚や息にのっていく声、その表現を作り出す、場を提供してきました。しかし、多くの人が求めるのは、目先のテクニックや調整なのです。
○トレーナーとの分担
トレーナー、声楽家は、現実に、ここにいらっしゃる方には、とても役立っています。ニーズに応えるのが仕事ですから、そこはそれでありがたいことです。
私も応用ということで、基本を掘り下げつつ、ムチャ難題、いろんなところで解決できなかった問題の持ち込みに対応しています。次々と新たな問題を持っていらっしゃる人がいるから、ここは長年、声の研究所として活動できているのです。
何よりも、声や歌が育っています。それは、目先の結果でなく、何年後の感覚や体の違いに焦点を当てているからです。
1、2割うまくなればよいという人はアマチュアなら、カラオケの先生、プロならプロデューサー、役者なら演出家にアドバイスしてもらえば早いのです。そこはヴォイスアドバイザーとして使い、ヴォイストレーニングに使うなら、もっとしっかり考えなくては、もったいないです。トレーナー自身も伸びません。少し歌えたり声の出る人が、もう少し歌えるように、もう少し声が楽に出るようにしているというのでは、大した成果をもたらしません。 歌のプロと演技のプロと声のプロは、違います。応用は、歌やセリフ、その基礎が、声なのです。
私のところは、今年10年、20年とプロの活動をしてきたり、トレーニングをしてきた人もよくいらっしゃいます。研究所には私よりも年配のトレーナーも何人かいます。
桜の美しさでいうと、葉桜の美しさを何年かしたらわかるかもしれません。歳をとってこそ、経験してこそわかることもあります。それを若いトレーナーに求めるのは酷ですから、いつも知っていることの裏に、知らないことがあること、きちんと知らないということさえ知らないということを、アドバイスしています。
○多様な見方を知る
研究所内ではレッスンがマンネリにならないように、時々、他のトレーナーにサードオピニオンとして、一言アドバイスさせたり、ローテーションを変えることをお勧めしています(原則として、最初から2人以上トレーナーがついています)。
研究所の外で別にトレーナーについている人が、そこを続けながら来ていることも少なくありません。私のところは、困りません。当人が、使い分けられたら問題はないのです。
先方のトレーナーが嫌がる場合は、秘密厳守にしています。日本で有名な劇団やプロダクション、養成所では対外レッスンを禁止しているところがあります。そういえばオペラ界でも邦楽や落語業界でもタブーですね(音大では少し自由になってきたようです)。
世の中に出て、いろんな人にいろんなことを言われていく歌手や役者、声優が、それで育つわけがありません、一人のトレーナーの価値観の中で、同じ判断を共有するのはよいのですが、それしか知らずにいるのは、どうでしょうか。
〇判断の違いに学ぶ☆
声に関する絶対的な判断はないということです。声楽家でさえ、一流の人は、生涯にわたり研究して発声を変えていきます。スポーツ選手、野球選手やゴルファーでさえそういうものです。プロセスや芸の道に判断基準はあるから、レッスンは成立するのですが。相手やそのときによって、かなり違ってくるということです。これがわかるトレーナーは、あまりいません。一人で指導していては、気づく機会が少ないからです。
一人の判断では○か×かですが、二人になると○○、○×、×○、××と4つになります。私がそこに入ると2の3乗ですから8つの判断パターンがあります。一人のトレーナーのなかでも○×でなく△とかになることがあるでしょう。基準として、大切なのは独り立ちしていくために、その人自身が自分を判断する時に、本当の力となるのは何でしょう。それは○×のように判断のわかれたところや△をどう細かくみることができるかです。
2人の意見が○×に分かれたとき、私が○なら○○×で、2対1で片方が正しいということではないのです。正しいのは○○○の一致だけかもしれませんし、3人一致で決まるものでもないのです。つまり、何をみているかということの違いなのです。そこは、やがて本人もわかるかどうかです。
審査する人が3人いて、あなたの歌や声に対する評価が違うときもあります。あなたは、自分自身で判断しなくはなりません。その基準をどのようにトレーニングで得ていくのかが、本当のレッスンの意義です。
○バランス重視で没個性
気をつけなくてはいけないのは、すぐに仕上げようとするなら、必ずバランス重視となることです。バランスを整えるのは平均化です。そこから個や我が出てくるでしょうか。むしろ、それを抑えることがバランスをとるということになりがちです。
「我」が、くせと一緒に除かれてしまうと、個は育っていかない、つまりは、誰かのような声、誰かのように歌うことになりがちです。
私が最初、日本の声楽家と組まなかったのは、そのことが大きかったからです。ちなみに日本にいる外国人トレーナーも日本人をレッスンするときは、この傾向が強くなります。日本になじんで受けのよいトレーナーほどです。そういうタイプがトレーナーになっています。
歌のうまいトレーナーにつくほど、人は育ちません。教えるのがうまいトレーナーほどテクニック漬けの、おかしな歌になってしまいます。それは、日本ではミュージカルの一部に顕著です。
バランスよりインパクトを重視すると、一時、歌は下手になります。「これまでの歌では通用しないから根本的に基礎から変えたい」といって来た人が、いざ、そのようになると、あたふたと不安になります。前よりも高いところが出ない、フレーズが回りにくい、ピッチ、音程が不安定になる…と混乱します。一時でもマイナスになったところばかり気にする、また、周りに指摘されるからです。立場の弱いヴォーカリストではその声に抗えません。何事も、新しく試みると、その試みが大きいほどマイナス点も出てくるものです。
できているのなら、そう歌っているのにできていないから、直す、いや補充するのでしょう。ですから、いろんな乱れが生じるのは当たり前です。
伸びないのは、守りから出られないからです。本番、バンドやステージがいつもある人は仕方ないので、切り替え力に応じて進行を加減します。
〇声そのものでみる
ヴォイトレは、うまくなるために受けるのに、一時でもコントロールが乱れたら失敗と考えるのでしょう。基礎から変えたいなら、大きく変わるためには、今の発声から離れなくてはいけないのです。バランスとピッチ、リズムにだけ合わせようと、くせをつけたり、ぶつけてきて覚えてきたのです。そのことを守ろうとしている限り、大して変わりようがないのです。
こういう人は、今まで歌えてきたこと、そこが技術やスキルと思ってきたことが、自分がより大きくなる部分を邪魔していると、気づいたのに、また見失ったということです。
「そういうやり方やメニュは間違っている」と言われると、安心して、それを直せばよくなると思うわけです。そういう調整トレーニングにつくと、さらに表面的な技術やスキル、メニュやノウハウばかりを増やして弱化していくことになるのです。
声そのものがトレーニングされていない限り、同じ問題は残ったまま目立たなくなるだけです。スケールの大きな跳躍はかないません。
〇二重の方針
とはいえ、誰もが一流の大歌手などを念頭おいているわけではありません。声楽のトレーナーで、声域やバランスについては、他のところのトレーナーより、ずっと条件の変わることを長期的に考えた上、短期の成果も出すことを、セットしているのが、今の研究所の体制です。
これはプロで舞台、オーディションが迫っている人が増えたための対応でもあります。こういうときは私もバランス重視でみます。条件を大きく変えることよりも、状態の調整を優先しなくてはならないケースなのです。
レッスンであるので、今、困っている問題でいらっしゃると、そこに、発声のメニュ、方法ですぐに応えてみせると、人気が出て評判もよくなります。
発声の本にあるように、軟口蓋を上げて響きをまとめ、呼吸で支える。
呼吸筋を鍛えて、息そのもののコントロールを強くも繊細にもできるようにする。それのできない体や感覚でできることは、10分の1なのです。即効のメニュやレッスンをやりつつも、長期的に上達する方向でのプログラムを続けていくのが、基本方針です。
○基礎のフォーム
初めて何か新しい、スポーツでバッティングなどをスタートしようとすると、余程、勘がよく、体や感覚が優れている人を除いて、ほとんどは手や足、部分的に力が入って、痛くなります。そこで手首のスナップなど教えてもらっても、ボールになんとか当たるだけ、それでは、部活の2年目の生徒にもかないません。毎日のトレーニングで2年生レベルにかなうためには、2年かかります。いくらプロのトレーナーがついたといっても、素振りのフォームが安定するまで繰り返す必要があります。柔軟や体力強化も必要ですね。
私は水泳をやりました。わずか2年半くらいでも、フォームを支えるに足る筋トレ、左手の補強などで、素人レベルで10年、20年泳いでいる人よりも、速く、長く、楽に泳げるようになりました。続けて毎日行うことの相乗効果です。とはいえ、ずっと長く基礎からやっている人にかなうことはありません。トレーニングは正直なものです。声だけが別ということはありません。
〇圧倒的なインプットのための課題でのアプローチ
マンネリを防ぐのは、表現の世界での具体的なアプローチをしていくことです。
歌がうまくなりたい。自分の歌が歌いたい。これに声だけが出ても無理です。リズムや音程のトレーニングをしても無理です。一流の人が学んだのに習います。時間や量を効率化するのが、トレーニングです。レッスンの課題をペースメーカーにします。
よく例に出すのは、聞き込みの課題ノルマです。月20曲(カンツォーネ4、シャンソン、エスニック4、歌謡曲4、日本曲4、自由曲4)で1年間240曲です。ここから20曲セレクトします。2年後には、翌年分240曲から選んだ20曲と合わせてレパートリー40曲ですが、そこから20曲に絞ります。5年ではレパートリー100曲から、本当に人前に出せる20曲、トータルの練習曲数は240曲×5=1200曲。10年なら2400曲ですね。量としてはこのくらいで最低レベルであり、プロのベースと考えています。
歌える人ならたくさんいますが、オリジナリティとして、自分の世界を、プログラムして、意図的に(それがトレーニングですから)作っていくなら、このくらいをベースに入れなくては、何も出てこないでしょう。
一流のプロは、質もともかく、圧倒的なインプット、ストックがあります。これにトレーニングを加え、レッスンでは、1フレーズでも、1曲でも、質、気づきを与えます。聞き方、感じ方を変えていきます。体―感覚の相互作用で、効果を出していくのです。頭は、このことで工夫して、フィードバックするのに使うのです。
○歌唱表現と技法のギャップ
解剖学や生理学の勉強をしても“身”につくものはありません。第一線のオペラ歌手やポップス歌手にそんな人はあまりいません。トレーナーとして人に教える時に、学ぶのはよいことでしょう。餅は餅屋に任せましょう。
歌うときは、頭を空にしないと、オーラ、集中力、気力に満ちたピークパフォーマンスは実現できません。最高の声を取り出したり、保ったりすることに集中しましょう。
歌唱表現に問われるもの
1.声の共鳴―発声―呼吸一体
2.声の使い方、フレージング
3.歌の見せ方、組み立て、アレンジ、構成、展開
a.ヴォーチェ・ディ・ペット
b.ヴォーチェ・ディ・テスタ
ここに声の理想的なあり方とか訓練は入っていません。いろんな発声法、テクニックやメニュ、方法を使うのは、表現という目的の元に、具体化された問題とのギャップを埋めるためのきっかけです。その日の声のチェックとか柔軟を響きで確認するのは、トレーニングとは違います。
リップロールとかハミングも、そういう意味で役立てるものです。しかし使われていてもが有効でないことが多いです。人によっては、目的からみて使わないほうがよいこともあります。
発声のなかで、ビブラートやミックスヴォイスなどということばを使うとレッスンらしくなるのですが、ことばで物事を分けていく(頭でっかちということ)と大きな問題が見えなくなってしまうのです。欠点の修正や、やむをえないケース以外は、イメージ、統一性のある連続感覚の中で、一つに捉えていく方がよいと思います。
〇理想のレッスン
スケールなども、最初は1音ずつ正しくとるのはやむをえませんが、レガートに一つの線上に声(音)がおかれる感覚を養うことです。一般的なレッスンをみると、あまりに雑すぎます。
ピアノを弾いていて、注意しないために雑になるのでしょうか。しっかりと聞いていないのです。発声の練習でよい声をとり出したり、育てるはずのレッスンが、音程(ピッチ)とリズムを正しく、ピアノに合わせていくことに目的をすり替えているのです。トレーナーが気がつかないなら、その先に、声での発展は期待できないでしょう。
とはいえ、時間や量が変えていくこともあるので、トレーナーが余計なことを言わず、黙々とやり続けていくのは、理想的なレッスンのスタイルです。アカペラで声を出すこと、聞くことを勧めます。
本人の目的や必然性が高ければ、変わろうとする努力がレッスンに出てくれば変わっていくものです。その点は、私はレッスンに期待はしていないが、来る人の可能性や能力について、誰よりも信じています。
○基本の基本「ハイ」
基本の一声として、「アー」でも「ヤッホー」でもいいですが、私は「ハイ」をよく使います。「ハ、イ」という、元気のよい明快な声ではなく、「Hai」と体からストレートに出てくる声です。Hは声帯音で、発声に障害のある人が、最初のきっかけにとる音でもあります。「ハイ」は、人間関係の基本でもあります。相手に反応して「ハイ」と返してコミュニケーションしていくでしょう。ビジネスマンの研修では、この理由を、もっともらしく後づけしています。
最初は「ハッ」を使いました。お祭りや掛け声からのヒントでしたが、喉に負担を強いるので、「イ」をaiの二重母音のような感覚でつけました。だから、日本語の「イ」のように口を横にひっぱっらないのです。響きが、鼻の辺りに残るようなのがよいです。ことば、発音でなく声(音)の練習です。ことばの「ハイ」の明瞭さでなく、声がよく聞こえる方がいいのです。
これは、最初は日本人に苦手な深い声、胸声の強化として、低めで、「太く、強く、大きく」としていました。発声というと、すぐに頭や鼻に響かすのが練習というのは、声楽から来た慣習のようです。
日本人は元々鼻にはかかりやすい声をしているのです。日本語はフランス語ほどではありませんが、鼻音、鼻濁音もよく使います。戦前戦後、1950年代くらいまでの歌手をみるとよくわかります。小柄な日本人にとって頭での共鳴は民謡など邦楽でも、大いに使われていたのです。
そして、「Hi」は最初、スタッカートのように、伸ばさないで切っていたので、一瞬の声(今でポジション、声の芯をとる発声、それをぶつけすぎから)でした。そこから共鳴につなげられない人が多く、歌とつなげるため、レガートのように「ラ、ラー」とつけました。「ハイ、ラ、ラー」と3ステップにしたのです。つまり、声の線をとるトレーニングです。
よく考えれば、「ハイ」のところで「イ」の響きを頭声にもってくれば、すむわけです。こうして相反する要素を1つの声の中で包括して、器を大きくする基本メニュにしました。
これは、セリフで原詞を読み、1オクターブ上で歌って、カンツォーネの大曲などでフレーズから、声を育てていた即興的な方法にはついていけない人へのアプローチとして有効です。150キロのボールを振り切って当たらないなら、まぐれ当たりでホームランを打てる人を除いては、空振りする間に、バントからミートしていきましょうということです。
○方法、メニュによし悪しはない
こういう方法のよし悪しは、よく議論されます。しかし、方法やメニュ、トレーニングは、目的のために行うものです。例えば「ハイ」をやったら歌いにくくなったと言っても、当たり前のことです。これは、すぐに歌うためのトレーニングではないからです。
こうした現場をみずに、方法やメニュだけを取り出して、単体で使えるとか使えないとか、正しいとか間違っているかというよう論議や批判はやめてもらいたいものです。
私は「腕立てをやったあと、すぐにバッターボックスに入るバッターはいない」と言っています。トレーナーにおいても、相手においても、同じメニュが、目的、レベル、現状において千変万化します。少なくとも私は1000以上のメニュを持っていますが、どのメニュも変化させて使っています。
1か月先どうしたいかから、1年、5年、10年先をも予感しなくてはいけないから、その人の表現の問題に入らざるを得ないのです。つまり、体から出てくるであろう声の向かう先です。そこで体から出てくる声の必要のないこと、使っていられないこともあるからです。
表現に合わせて声を使わせるレッスンの多いなかで、私は基本的に「出てきた声の上で表現を動かそう」という主旨です。
すると声の完成度の高い声域、声量、音色での表現となります。現実には半オクターブくらいでのフレーズトレーニングが中心にならざるをえません。その人の声と歌、セリフをどのようにみていくかは、本人と相談しながら進めていきます。そこで方針、これは方法と共に将来的な可能性と展開についての予見を伝えて、考えてもらうのです。
○幅を広げること
声の器を大きくするというのは、上の線(頭声や裏声)を伸ばしたり下の線(胸声)を伸ばしたりするのではありません。上の線と下の線の間に幅をもたせ、その中でいろんな線の引ける可能性を高めていくことです。
一つの声でも、「縦の線に」と言っています。上にもっていく(奥をあける、頭部共鳴させる)のは、たての線の上半分のこと、いや、先端にすぎません。☆
そこばかりひっぱる人が多いのですが、その分、下に根っこを引っ張ることが必要です。これは誤解されやすく、「重く、暗く、太く」を、「ぶつける、こもる、押しつける、掘る」となると、好ましくありません。このあたりをわからせるには、説明では大変です。実感できる日を待つしかありません。
胸声を、喉声として否定する人は、欧米人のロックや役者の声、ワールドミュージックを聞いたことがないのでしょうか。
自分でできないから、他人にできないと思ってはいけないのです。自分にできなくとも、その人にできるものを引き出して伸ばしましょう。他人をどう活かすかも、オリジナリティでしょう。
○2つの役割
ヴォイストレーナーは、声に関して、芸道の基礎を作っていく、という役割があります。これは、声楽家のトレーナーでも声楽かぶれしていなければ、半分はお任せしてもよいと思います。
もう一つ、表現のオリジナリティを見抜くこと、これは、音楽プロディーサーやディレクターの役割ですが、日本の場合、多くをビジュアル面に負っています。ルックスやスタイル中心と音楽性の判断にすぐれた人はいるのですが、なぜか歌の声にまで至っていません。そういう人は歌としてみると、声のよし悪しでなく、音楽としてのよし悪しでみてしまうのです。
本当のオリジナリティは、その間に、その人の声が歌いだすとき、歌と声が一体化するときに生じるのです。心と体の一致といってもよいでしょう。
私は、
1.声そののもの魅力
2.声のフレーズでの魅力
3.フレーズの組み合わせの魅力
と分けてみています。1は生来持っている声、2は音楽性で比較的わかりやすいのですが、どう化けるかわからないところです。よほどの人でないと意図して取り出せません。
〇飛躍のためのレッスン
声と音楽の配合によって本当の歌が生じる飛躍の瞬間があるのです。
それを、予期して引き出すのが、私の中では、最高のレッスンです。そのようなレッスンは、100回に1回、100人に1人ですが、確かにあるのです。そのようにセッティングしないと、才能ある人が来ても、奇跡の生じることはありません。そのきっかけや兆しだけでもかまいません。10回に1回、何かが出てくるようなレッスンであれば、よい関係です。
頭でっかちになること、偏見をもってみること、意図を露わに出すのは、避けることです。無理な発声の音域や声量では難しいフレーズでは、こなすのに精いっぱいです。新しい可能性の出てくる余地がないのです。自分でできることでしっかりと歌い込むのは、基礎ではないのですが、大切なアプローチです。
〇トレーナーの限界
トレーナーに個性があるほど、メリットとデメリットを両方、受けることになるのです。ここでは、私が仲介できるようにしています。個性のないトレーナーが、基礎トレーニングとして適していることもあります。
トレーナーが自身の限界(才能と長所、短所)を知っていること、自分より有能な適材の人材を知っていて、任せることを選択に入れていることも大切です。
若くてもパワーがある、時間がある、安いとか、技量とは違うメリットを持つトレーナーもいます。人によっては回数や量を与えた方がよいこともあります。それらをフィードバックできる体制を持つこと、援護したり補ったりする組織にする必要があります。
本人が活動していくプロの現場を知っていること。そういうところにいるプロやプロデューサーと関係をオープンにしていることが大切です。
声はいかようにも使われます。自分の生きてきたところ、見聞した世界だけが全てと思ってはなりません。常に社会に対して、仕事に対して、開かれていなくては偏るのです。
○体の声
歌い手は歌という作品で勝負しますから、1オクターブ半で3分間という単位を中心に考えます。ディレクターは、90分というステージ構成で考えるので、どうしても、こなす、まとめる、あげるという方向になります。どちらもベテランになるほど技巧者になります。
プレイヤーに対し、パーソナルトレーナーは、監督やコーチとは別の役割です。その人の体や筋肉からみて整えることが仕事です。
私たちも、体の声として表現に思いを馳せますが、体と声から整えたく思っています。その人のライブやレコーディングそのものではない、それを参考にしても、もっとあるべき理想を追求します。
私は歌や音楽にどっぷり漬かっていないから、ことば、音楽より、声の原初のエネルギーからみるのです。そこでは、あまり急ぐとよくないのです。
ですから、今のあなたの歌と声そのものに可能性を加え、あなた自身の可能性をみているつもりです。「期待はしないが誰よりも信じている」と思います。それは、「人生は生きるに値するほどでないが、絶望するほどひどくない」に似ているようです。
ある意味で、今、ここでの歌や表現をスルーしているときもあります。それは、その人がその人自身たるエネルギーを発していないからです。パワーをもつまで潜在的なあなたの力に働きかけていくのです。
〇一声、一フレーズ、一曲の関係
多くの人を通して、一つの歌、一つの声のその成果を、最高のレベルに結実させるようにしています。それには、声が成立するところがスタートです。それを私は「ハイ」という一声から探っています。
一声で成立させることが無理なら、一フレーズで、一フレーズで無理なら一曲与えようというのが、私のスタンスです。これは一曲が無理なら一フレーズで、一フレーズが無理なら一声でという絶対的な厳しさの中で声の本質を取り出すためです。「ハイ」と成り立たなければ何にもなりません。完成には遠くとも、一フレーズで使い、一曲で使って知っていくことです。こなすとかまとめるというふうにとられると困るのです。一声で勝負できなくとも、歌では一曲でいろんな勝負の仕方があることも知っておくのも大切です。
これは無限の表現の可能性のようにみえます。しかし、そこでは、限界を早く見極めたゆえの、工夫、へたをすれば割り切り、ごまかしにもなります。もとより虚を実に見せる世界ですから、その虚は問いません。
逆にいろいろとあるのは迷ったり、堂々めぐりすることになるので、まずは、一フレーズと言っているのです。
〇人知を超えて
声の動きに、そこからこぼれてくるニュアンス、印象、余韻を、散る桜の花びらの舞いに例えたいと思います。そこに人間の力、いや、人が人を超えた力が働きます。歌があれば、声が、音楽の中のことばと溶け合うのです。私はその天使となれる日を夢見ていました。何十回か堪能させてもらっています。まずは私の心を射抜くものが出てくるところからです。その日のためにレッスンはあります。ステージで喝采を浴びるのは、私の手を離れたところで委ねています。
声の働き、動き、ため、艶、彩、空気の振動、これらは鼓膜だけでなく、体感、心の反応、心揺さぶる感動、甘美な世界への誘いとなりゆくのです。
一流プレイヤーとなると、ミューズをみるといいます。そういうレッスン、それを、私は声や歌で、マイクもないアカペラのステージで、レッスンの場として経験してきたと思います。一流のアーティストのように何度も、自分自身ではとり出せなかったものを、才能のある人に接する中で感じるのです。
○声がなくなる
ヴォイトレのレッスンというと、以前はスケールの上下降することや「アエイオウ」のヴォーカリーズ、歌いあげることのように思われていたようです。
私はその人と、人間として向き合いつつ、その時間は相手も私もいなくなってしまうのを理想としています。声が全ての空間、時間を満たして、声があらゆるものを無にする。聞こえるのは声だけ、見えるものは何もない、それで満たされるのです。他に何ら欠けていない主役として演じている相手も、同じように感じているのです。
いつも、声も歌もあってはいけない、消えていることです。それが本当の声であり、歌です。
外国人やお坊さんに声がいいですねと言われている私は、そんな程度であり、それゆえヴォイストレーナーに甘んじている次第です。
ただ、歌や声で、もっと大切なものを邪魔しないように心がけています。声を出すのもせりふを言うのも、歌を歌うのも、せりふや歌そのためではありません。声もせりふも歌も消して心が満たされるためにあるのです。私のヴォイトレは、そこをみているのです。
〇声が聞こえる
あなたの声も歌も、みてくれと言われるとみています。多くのレッスンはそこで終わりです。しかし、みてくれと言われなくとも、私は、あなたを感じようと沈黙します。あなたが私を感じさせたら、そこから、あなたは変わっていくのです。
他のトレーナーの指導しようというスタンスとは、私は違います。そこは他のトレーナーにお願いしています。レッスンや指導で妨げないことです。教えても大して何にもならないことも知っていますが、人に教わることは、とてもよいことなので、そうできるようにしています。
シンプルにすれば、おのずとみえてくるものです。それを声やことばや、歌で邪魔をしてはいけません。そしたら、本当の声もことばも歌も聞こえてくるのです。
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