No.345
独創
工夫
先人
修行
伝統
世代
個人
限界
感動
意義
断定
過去
総体
達成
肝心
大道
歴史
独自
材料
心持
用心
面倒
革命的
忠実
役づくり
腐心
考証
スタンドプレー
滋味
眺め
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独創
工夫
先人
修行
伝統
世代
個人
限界
感動
意義
断定
過去
総体
達成
肝心
大道
歴史
独自
材料
心持
用心
面倒
革命的
忠実
役づくり
腐心
考証
スタンドプレー
滋味
眺め
<レッスンメモ>
規範さえ与えたら盛り上がる
一か所ですべて満足できるもの
パフォーマンス、刺激、過激
ネタは情報 モノマネはフィジカル
0→1オリジナル 1→10フォロワー
確実にリピートする技術
歌手のキャラと曲のスタイルの分離 [564]
〇トレーナーとアドバイザー☆
現在の日本のヴォイストレーナーは、ヴォイスアドバイザーやヴォーカルアドバイザーにあたると思います。
アドバイザーは、役者、声優、アナウンサー、ナレーター、朗読の指導者で、今ある力を100パーセント確実に活かすために次のようなことを扱います。
1.全体のバランスの調整を仕上げ
2.発音、発声の安定、使い方や応用のアドバイス
3.メンタル的勇気づけ
アナウンス学校やカラオケの先生を思い浮かべるとよいでしょう。
それに対して、トレーナーというのは
1.個々の要素の相違、分析と目標設定、調整
2.心身や発声そのものの強化、鍛練、地力のアップと調整
3.日常でのトレーニングやその管理
これはパーソナルトレーナーを思い浮かべてください。徹底して個々を中心とするのは、当たり前のこととして、多くの研究や試行錯誤の上に専門家として、対処するというのが、違いです(この専門というのが一口で説明できないのですが、実技の経験だけでは無理ということです)。
○白紙にして大きく変わる
体で覚えていくものは、覚えていたらできているのですから、できないとしたら、それを認めることからです。これまでの考え方、やり方、経験の上に、よくも悪くも今の自分の実力があると認めます。それで不足していると感じるのなら、他の助けを借りないと大きく変わらないと考えることです。
そのために
1.目標の基準
2.現状の把握基準
3.1、2のギャップを埋めるためのプロセス(計画)
1、2を明らかにして、そして、3の可能性をきちんと考えることです。
覚悟のもと、自主トレするのなら、可能性を考え、実行あるのみです。
トレーナーとのレッスンとなると、大切な問題は、何でしょうか。自分の体をオペするなら自己責任、他人の体をオペするには、合意がいることです。手術にも100パーセントがないように、声も誰でもどうにでも変わるわけではないのです。
レベルの低い目標や、経験の少ないトレーナーなら、誰でもどんなことでもできるように言うかもしれません。せいぜい、今より多少よくなるくらいでしょう。少しよくなっても目標に到達できるわけではないから、私からみると、それは効果なしに等しいのです。大きく変わるために、他の人を使う、専門家のアドバイスを受けるのです。
○勘と発想
次の3つの原則を頭に入れましょう。
1.誰もをその人が望むようにできるというトレーナーはいない(あなたにとって、トレーナーが仮にそうであったとしても、それ自体、客観性に乏しいことですが、他の誰もがそうはいかないということです)。
2.どのトレーナーもメリット(強味)もあればデメリット(弱味)もある。
3.オールマイティにこなせる人ほど個別対応に弱く、特定のことに強い人は、他のタイプに弱い。
つまり、強い分野や強いタイプがある分、弱い分野や弱いタイプもあります。
これは、十数名のトレーナーとずっと続けている私だから、よくわかることです。
新しいトレーナーに対し、半年くらいは、そのトレーナーの強いところと弱いところ、向くレッスンと向かないレッスン、向く相手と向かない相手を見極めていきます。それは見極めと同様に大変なのです。
その人のその時の声だけみて、毎日どのくらいその練習をするのかがわかるわけではありません。本人がやると言っても、どこまでやるかまではわかりません。
多くの人と長く接していると、自ずと勘が磨かれてくるのです。私がトレーナーとして、いや、トレーナーをまとめて皆さんに提供する立場として、もっとも重視しているのは、こういう経験から働く勘です。トレーニングの現場で見聞きしたり試行してきたことからの発想です。この二つが、もっともな大切なことです。
○うまさと仕事の価値
技術を得たいというなら技術のある人に、世の中に出たいというなら世の中に出た人についていけばよいのです。ただ、歌手というのは、歌手を育てるのに適していないということです。歌手になりたければ歌手を育てた人につくのがよいと思います。
まじめな人ほど声や歌の技術が一番必要と思うのです。それを得たら、プロになれる、ヒットする、歌手や役者で生活できると。まじめな人ほど、名も知れず、声や歌がすごいという人に惹かれていきます。
これは、画学生がきれいに絵の描ける人にあこがれるのと似ています。学生ならいいでしょう。でも、その人はうまくきれいに描けるのに、その絵が売れていない、価値を認められていないという理由を考えないのはなぜでしょう。
世界中、日本中に声のよい人、歌のうまい人はたくさんいます。なのに、売れていないとしたら、声や歌がへたでも売れる人はもちろん、それで売れない人よりも大きな欠落があるということでしょう。これは、どんな仕事にも当てはまります。仕事とは創生した価値を与えることです。☆
へたな人はうまくなるとなんとかなるかもしれません。でも、うまい人はどうしようもないでしょう。
私のところも、そういう人がたくさんきたので、よくわかります。自信とプライドで固まったところに努力やまじめさ、一所懸命さが表れても、それはアマチュアです。アマチュアがプロになるのにもっていてはよくないのです。声のよさ、歌のうまさは一要素ということです。
○プロの育て方
プロの育て方はどういうことでしょう。プロデューサーが何千人のオーディションで最高の素材を選んで、歌を覚え込ませ、売れっ子作詞作曲家でヒットを演出させるという昭和の頃の歌謡曲や演歌のやり方は、もう通用しません。今も売れっ子の作曲家やプロデューサーに近づけばチャンスと思う人もいるのでしょうが、それはあなたが最高の素材であればです。
彼らは、選りすぐれた人材を見出し、デビューさせることでのプロです。プロデューサーは、声質や歌い方のくせにファンのつく魅力を見出したり、2、3年たてばアイドルになる子を見抜く点ですぐれています。声質を重視しますが、それに偏ったプロデューサーも減りました。
私は、声100%でみた上で表現力を100%でみるという2つの基準をもっています。業界や市場の思惑は、最初は、別にしておくように、と思います。
あなたがあなたを充分に発揮すれば、今の日本をきちんと生きてきたあなたは、今の何かを切り取ることができるのです。それは、私やトレーナーができないことです。だからこそ、共同作業のレッスンの価値があるのです。
○プロの育ち方
ここで「育ち方」としたのは、人は、育てようとして育つものではないからです。特にアーティストは、です。
学ばせて学べたら、教えて教われたら、そんなによいことはないのです。それはそうしないよりもましです。しかし、そんなことをしなくても、毎日そうして生きている人がたくさんいる世界では、それでは大したものにならないのです。
私が日本語の教室に行くようなものです。すると、教えると理屈っぽくなりそうです。日常では、さほど、そういうことはいらないのです。でも、理屈のなかに本質があれば、それのエッセンスが一つ上に行くのに役立ちます。
だからこそレッスンを通じて環境や習慣、思考や考え方が大きく変わるのです。変わらないと、大してこれまでとアウトプットが変わらないです。
歌やせりふは、他人の人生に触れていきます。自分の口から嘘を言って、その虚構に他人を引き込み、共感、感動を、ときにその人の生活になくてはならないほどの大きな影響を与えるのです。究極のサギ師です。
だからこそ、日常が日常であってはいけないし、他の人には特別な場のレッスンスタジオやステージが日常になってこなければならないのです。
○「気持ちより」発声を
小さい頃からピアノを弾けた人は、なぜ弾けるようになったのか、覚えていないでしょう。教えるときには、もの心ついてから学んだ人よりも苦労します。弾けるようになった手順を覚えていないからです。
歌ならなおさらです。もの心ついたときにスターになったような人は、教えるにも「気持ちがすべて」と。そのような人は「気持ち」でコントロールできるのですが、大半の人は発声、音感、リズムを何とかしないと、どうにもなりません。
NHKののど自慢のゲスト歌手の励ましに似たようなトレーナーのレッスンもみたことがあります。日本人が海外に行くと社交儀礼とともに、レッスンがそういうレベルでされていることがよくあります。
自信とプロフィルの履歴がつくのです。私が体操を内村航平くん、スケートを浅田真央さんに習っても、彼らの人生の無駄です。
幼い時に習ったピアノで絶対音感が残っている私に、その音を出せない人の指導はできません。しかし、十代でやりだした発声は、プロセスが明確に残っています。発声のプロセスをみたのです。
○音楽を知る
プロの歌手をたくさんみているうちに、
世界の基準からみる
一流との比較からみる
同曲異唱からみる
同一歌手の歌のよしあしからみる
など、骨董屋か目利きになるためのようなことを、私は歌声で他の人の何十倍してきました。
受講者の1コマ1時間ほど聞くものを、私は、東京で5~6コマ、京都で3コマと、ほぼ10倍、同じものを聞き続けたのです。それも十年以上ですから100倍です。フレーズなど1時間で30回ほどまわしたものは、1ヶ月の中で10コマ分、300回聞いたのです。
教える材料として出したのです。その頃、私は「ヴォイストレーナーDJ」と自称しています。未来型の教育として認めてもらってよかったほどに思います。
受け身の人には評判がよくないでしょう。日本での学校教育に慣れてしまった人には仕方ありません。
当初、ぼんやりみえていた輪郭がはっきりしてきて、確信に変わってくるのです。曲のよしあしが1フレーズごとのよし悪しまで鮮明にみえてくるのです。そういうレッスンを目指していたのです。
○贅沢なレッスン
毎日、熱心な生徒がレポートを出して、「この曲で」「このフレーズで」こんなことに気づいたと教えてくれます。それは、教室で終日ゴスペルを歌って踊って説教しているような毎日でした。
私は世界レベルに歌を捉えて、そこから降ろしてきます。そうでないと、迷いが出てしまうからです。
本人のオリジナリティが音楽、歌のオリジナリティを凌駕したとき出してくる絶対性、オーラは、確かに存在します。それを使う作品(一部)、ステージは、伝説となります。
日本の場合は、それが大衆のものとして一体化して認められないのです。ほんとにすごいものでないもの、ディズニーのイベントでさえ、芸術かアートのようになってしまうような構図があります。評論家の論評として、誰かまとめて欲しいものです。
私のケースでは現場で、レッスンのなかで相手の可能性を伸ばすための材料として使ってきたのですから、贅沢なことです。
○「もっとも厳しい客」として
私は飽きっぽいタイプです。それがよくも悪くも「もっとも厳しい客」としての判断のできる資質になっています。今でも、声や歌を溺愛しているといえません。他によりよく伝わる手段があれば、それを使います。声や歌で邪魔するべきでないと思います。ヴォイストレーナーとしてはあるまじき本音を吐いています。
日本の声楽は、舞台どころか基礎レッスンでも、一部しか成り立っていないと、声楽家たちと一緒にやりながら述べています。私にしてみれば、一部が成り立つところをすごくありがたがって認めているといえます。ポップスのような、暗中模索のまま、「失われた20年」より、ずっとましです。
同じ曲、つまり、課題曲を1日に80人が歌うのを飽きないとしたら、モータウンレベル以上のアーティストを聞けた日でしょう。私はいつでも、そのレベルにセットして聞いています。
続けられているのは、皆様のおかげです。他のことは全て飽きてきたのに、わからないのが声の魅力です。
日本人に必要なのは、アーティストの努力を認めつつも、つまらないものにまで優しくしないことです。当のアーティストが伸びません。「ブラボー」と言うのはいいけど、言おうと思って準備してきて言わないようにしてください。
○「アハ!体験」
本格的なオーケストラの指揮者はやったことはありませんが、似たことはやってきました。メトロノームで♪=60,80などの基本テンポを覚え、ドレミレドとピアノを弾くのにドーミとミードを数コンマいくつまで一致させようとしたりしてきました。何人もの世界の第一線で活躍する優秀な指揮者が出るのですから、日本人の耳は捨てたものではないと思います。
私たちが苦手なハーモニー、瞬時のそのときの全ての音を把握する空間的な能力と、曲全体を総括して捉え、構成と進行展開を論理的に捉える時間的な能力です。
私は歌に接して10年も経って、みえたのです。
それは、中学のバスケットボール部を退いてから、高校のクラス対抗のときに全体図、つまり10人の構成と次の展開がみえたのと同じような「アハ!体験」でした。これは、中学生の頃、TVでワールドカップ大会のサッカーをみて、高校でラグビー、アメフトをみて、大学でアイスホッケーをみて、ゲームの醍醐味がフォーメーションであることに気づいたことと似ています。
○織りなす曲 中島みゆき「糸」
歌曲は、中島みゆきさんの唄う「縦の糸と横の糸が織りなす布」のように、まさに織物なのです。発色模様も計算された上で、アートなのです。
大切なのはオリジナルのことばや音色、フレーズが出たら、一つでもよいから可能性としてストックすることです。それが恵まれている人は、構成を整理すればよいのです。惹きつけるところをセーブし、絶妙のタイミングに抑えるのです。それを私は促します。
逆にうまくてきれいだけど、インパクトがない人は器量貧乏なわけです。一色、一線を求めましょう。何曲使ってもそれを見出すセッティングをします。声域、キィの変更、テンポの変更、声量を変えると、かなり変わります。効果となるポイントを探す、なければそれを出すためのセッティングがレッスンの目的となります。
○その人の音色
私の初期の本には、「一つもよいところがなければ、いくらがんばっても大きくは変わらない」「1秒が通じなければ1曲ももたない、まして1時間もたない」というような表現をしています。
楽器の演奏では、曲の前にその人の音色がなくてはなりません。楽器の音はある程度決まっていて、誰でも出せるようになりますが、それは楽器本来のものです。その製作者なら出せます。
アーティストはそこから音づくりです。自分の音で線をどう描くかなのです。音の色と線で基本デッサンが成り立ちます。それを私はみているのです。
それでつなげる曲もあれば、うまくいかない曲もあります。そこは選曲の妙となります。
アレンジが自由なのがポップスなのですから、ムリに声域、声量で不自由になる必要はありません。そこで無理をしているのが、日本のミュージカルです。声域とバランスをそつなくこなせる人しか選べなくなります。日本人では、レベルアップが難しいのです。
○次の世代の声
すでにある作品を輸入して、それをまねて作品をつくると、歌手にはハイレベルなものとなるわけです。こなそうとするのが輸入期です。その啓発期ではまねるしかやりようがないからです。
日本人がすぐれた歌手を世界に送り出せたのは、一曲です。そこに邦楽の伝統があったというのが、坂本九さんという、キャラクターのオリジナリティあふれるヴォーカリストの実績です。彼の母親は常磐津の師匠でした。
歌謡曲は三波春夫、村田英雄ほか、邦楽との和魂洋才です。詩吟や長唄なども、オペラも、団塊の世代以降ではどうなるのでしょうか。
私はこれらを同列に扱ってきました。「マイクを使わないという条件での声づくり、体づくり」に共通するので、声の基準としてわかりやすいからです。
○声の力
思うに、80年代くらいを境に、ヴォーカルの条件が、音色、声量から声域に、ハイトーンへ変わりました。役者も声量が条件でなくなる、というか声の力でなくなってきたのでしょう。オペラも含めての、ビジュアルの時代の到来、シネマからTVの時代です。日本はそれが顕著でした。
「どこの国のアイドルも歌手なら歌唱力はあるのに、日本は」など言っていたのも懐かしいくらいになりました。
世界を回ってレコードやテープを買うときは、「イケメンや美人、可愛い子を避ける」のが、私の原則でした。ときにニ物を持っている歌手もいますが、ブサイクな人ほど歌唱力が上なのは、どこでも同じです。デブ、ふくよかな人がお勧めです。
私がこの世界に入って最大の転機は、すごい美人の歌手がいくらうまく歌っても、全体重、いや全存在をかけたブサイクが出て、すごい一声を発すると、きれいとかうまいとかいった程度のものは、すべてが飛んでしまうということでした。ひどい悪口のように聞こえるかもしれませんが。
○一声の力と総合力
歌も芝居も、演じるというのは総合力です。一声だけで勝負は決まらないのです。しかし、一声だけで明らかに負けている場合はどうでしょう。
ミュージカルでも、テーマパークでも一声の違いで日本人と外国人は区別できました。長年、世界の声と比べてきた私には、ヴォイトレとは「まずは、その一声からの勝負を可能にする」ための世界です。今の若いトレーナーは、あまりにも意識していないようです。歌を一声でなく、総合的なステージで見ているからです。
海外では声の力は前提として確保されています。トレーナーはその使い方を応用度を高めるテクニカルな方へ導きます。特にマイクのあるポップスではそうなります。
日本も、歌手を目指す人は高音域が出ることばかりこだわるので、声のあて方のようなコツがヴォイトレのメインになりつつあります。トレーナー本人はよくても、その人に似たタイプしか教えられたことをコピーできていないのです。
本当に伝えられる声を目指す人は、私のところでも、基礎となる発声、技術を伝えられるソプラノやテノールにつきます。高いレベルを目指すなら最初からその方が早いです。
本当の問題は多くの場合、声域ではないからです。なのに、それをマスターすることが目的になっているのは、大きな間違いです。
○楽譜のビジュアルライズ
歌の解釈について、私は、雑誌の連載と通信教育でやることになりました。声の本質的なことを伝えようとするのは、とても難しいものです。メインは、詞の捉え方の深さを語ることで歌心を伝えることでした。文字の限界です。
レッスンでホワイトボードに図で表し、様々な工夫をして何とかイメージを伝えます。そのうち、長くいるメンバーとはイメージを共有できるようになるのです。
歌詞か楽譜にいろんな曲線を入れて、歌い方と、そこからよくなる可能性のあるところとに線を引いたり、一言、一字ずつに○△×をつけます。一字(一音)でもその入り方、キープ、終わり方(抜け方)で○△×をつけたりすることもあります。
部分を丁寧にみることでは、私は職人の域に入りました。コンダクターの個人指導並で、きめ細やかすぎるヴォーカルアドバイザーといえましょう。細部にいたり、なかをみるのと同時にフレーズや全体の流れをみているのです。
○ヴォーカルのフレーズ
細部にいろんな動きが出るのはよいことですが、それがメインのフレーズの線と共にどのように働きかけているかが大切です。作曲家が意図してプレイヤーの描く基本線をふまえた上で、そことセッションしていくのが、ヴォーカリストの歌というものです。そのままなぞるのでありません。それでは楽譜に正しく歌う音大の入試やよくある合唱団レベルでの歌いこなしになり、きれいでうまいだけのものとなります。
そのときの変化、結果として、創造したものの評価は、その人の呼吸にのっているかということです。大きくはみ出させたいなら、大きな呼吸が必要です。それがないと不自然、形だけが狙ってそうしたのがみえて、音楽としてはぶち壊しです。素直に歌うより悪くなるのです。しかし、歌に飽きかけた客はそういう形が出ると声を出し拍手するのです。
○ヴォイスナビ集と楽しむレベル
フレーズのつくり方をギターのフレーズナビ集のようにつくったことがあります。シャウトやアドリブを中心にしました。スキャットについて、数多くの基本パターンをマスターしておくと応用がきくと思ったのです。
歌唱に近いとわかりやすいのですが、うまくつくると、マイケル・ジャクソンの歌をコピーするようになって、日本の歌のステージでよくみられることです。却ってよくありません。発声上も応用をやるより、基礎をやるべきです。まねするべきでないということでは、ここでゴスペルなどをやめたのと似ています。
音楽やダンスを日常のなかで自然と楽しみ身につけてきていない、日本人に対して、それを体得してきた外国人などは、「まずは音楽を楽しみ、感じることから始めましょう」となります。それは当然のことで、正しいと思います。パフォーマンスを楽しむにも、日本人には覚悟がいるのですね。皆と一緒にスタートするのは、とてもよいのですが、個人としての能力がないと、教えてくれるトレーナーがいただけで、少しも前に進まないのです。
自分が楽しむのと、人が楽しむものを自分が出すのは違います。日本では彼らが言うのと同じように、「自分が楽しんでいないと、見てもいる人楽しくならない」というのが、「自分が楽しめばみている人も楽しくなる」となってしまったように思えるのです。
○相似形
私がいろんな歌唱の構造がみえたのは、楽譜の研究、いや、楽譜にこじつけて、すぐれたヴォーカルたちに歌唱の解釈や創造したなかでのよしあしの判断の基準を皆に納得させようとしたことによると思います。
シンガーソングライターがつくった曲を分析すると、作曲家とは違うおかしな点がたくさんあります。それはシンガー特有の呼吸や声の特質からきています。コード進行にのせて楽器でつくる人より、即興型(鼻歌型)の人はその傾向が強いことから、その意味をていねいに読み取ったものです。本人(シンガーソングライター)は、そんなつもりもなく、つくれてしまった。それでよいと思うのです。Aメロ―Bメロ―サビでのBメロ(日本人の歌の特色の出るところ)の研究でも、得るところが大きかったです。
海外の曲などは4呼吸くらいでつくられて歌われています。それを日本人は4×4×4=64フレーズでカバーしています。力量の器の差が呼吸に出ます。日本でも昔は4行くらいで3番までの曲が多かったのです。それは日本人の呼吸に合っていたと思うのです。
○俳句、短歌に習う日本の歌唱
私は、日本人の歌唱力からみて(ポップスですが)半オクターブ、30秒(Aメロ、4×4=16小節くらい)にする、「俳句、短歌のような歌唱」論を提唱しました。そこまではヴォイトレで自然にことばと音楽が一致するレベルの声をつくれるし、処理もできたからです。
その基礎もなく、2オクターブ、ハイトーンまで使うから、いつまでも声が育たないのです。歌が特殊発声技術の上にきて、それを追いかける人ばかりになったことを警告してきたのです。
しかし、ますます、そうなって歌は世につれなくなってきました。若い人に昔の歌がカバーされているこの頃の風潮も、こういうことでしょう。学校でのレコード鑑賞や唱歌は、ためになっていたと思います。
今は誰もがすぐにつくれるし、公開できる時代です。となると、つくるために学ぶというところからの観賞レッスンにするとよいと思うのです
○曲全体のトーナメント構造
一例として、曲は、Ⅰ(1、2、3、4)、Ⅱ(1、2、3、4)、Ⅲ(1、2、3、4)、Ⅳ(1、2、3、4)で1コーラスとすると、これが3つで3コーラスです。このケースでは4×4×3コーラスです。
4というのは起承転結としての4つ、それぞれ1つのブロックです。文章と同じように、そこにはそれぞれの役割と、伝わりやすくする工夫が入っているのです。これをさらに細かく、Ⅰ(1、2、3、4)のⅠ(1)を取り出すと、ここにも4つのフレーズ(小節)a-b-c-dが入っています(数え方では8つともいえます)。すると1コーラスは4×4×4=64となります。そして、ⅠのなかⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳのなかのそれぞれに1-2-3-4が入り、そのそれぞれにa-b-c-dが入るという3重の相似構造になるわけです。図示するとトーナメントのような形となります。
○相似形とニュアンス
あるフレーズから出てきたものを+αとすると、この+αが出てくるルールがあります。その+α(私はニュアンスとよんでいます)が、どこに出るかをみます。最下層で出たところを結んだ形とします。+αが(1、2、3、4)の上位のⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳにも相似形として表れていることがよくあります。
1行のなかの3つめのことばが、起承転結の転というのと同じ、1段落4行でも3行目が転で働きます。それがⅠ~Ⅳ番まであれば3番目が転じる役割となるというのと似た相関関係です。
そのリピートと複層的なレベルでの2ステップ、3ステップと次元の違うところの相似性が、意味をもって聞いている人の心に迫るのです。転じた後、4つめにAメロに戻ることで安心感、落ち着きを出すというのも同じです。
○フレーズでつなげる 役者の歌
形を歌わない、演じて形だけにならないために、全てをゼロに戻して再構成する必要があります。実として身につけ、出すためです。
個性の強い歌い手は、役者のように自分を中心として、歌を再デザインします。自ずとそうなるのです。
日本では、役者の歌は音楽性で欠けるものが多く、全体の流れの構成、展開を無視して、自分の呼吸で音楽の呼吸を妨げる、つまり、彼らの強みであることばとその感情表現で、力づくでステージを成立させてしまいがちです。
しかし、それはリピートの効果を損じます。背景の絵を台無しにしてしまうのです。だまっていてももっとたくさん伝わる効果があるのを、一人で全てやろうとがんばってしまうのです。フランク・シナトラやイヴ・モンタンのように完全な両立をなしえた人との違いです。
これはレッスンで変えることができます。表現力の基礎があれば、力の配分を加減すればよいからです。その前に声楽で高音域のマスターをしておくこと、歌の構成を入れることです。声そのものは、コントロール力の問題です。
○分解と再構成(「マック・ザ・ナイフ」)
ソロのプロでありたいなら、出る杭は打たれる日本の合唱団のようなところより、ステージを独自に経験してきた人の方が早いです。お笑い芸人の歌唱力がそれを証明しています。一人芝居でもよいでしょう。
歌手は今や、企画、演出、アレンジ、デザイン、スタイリストからメーキャップアーティストまで兼ねる存在なのです。演出家なども案外、歌えます。たとえば、渡辺えり子さんの「マック・ザ・ナイフ」は、日本語の歌詞も含めて最高レベルでした(エラのコピーですが)。
音楽としての構成、展開を実感させるには、自らその曲の作詞、作曲、アレンジャーになりかわることです。他の人の曲でかまいません。次のような手順で分解して再構成してみてください。
テンポを2倍に速くして、息継ぎの回数を半分以下にします。Aメロを一フレーズで捉えて感覚します。そう、8×4小節くらいを4~8回のブレスで歌っているのを1~2回でできるスピードにするのです。すると、違う音の関係やつながりが感じられるはずです。元のテンポでもそのくらいのロングブレス、ロングトーンに対応できる呼吸を養いたいので、そのためにもよい練習です。
○つながりフレーズ感
よくA、A’、B、Aの基本パターンフレーズで(それぞれ8小節くらいで8×4行)のときに、プロや外国人がA’からBをノンブレスで続けて、Bの途中でブレスを入れて盛り上げるパターンがあります。それを聞いてまねてやるのはよくないです。形をとるのではなく実=身として捉えましょう。呼吸が余裕があるから感情の盛り上がりでつながってしまうのでなければ、しぜんでないのです。即興である歌の応用表現です。
それをA-A’、A’-B、B-Aでもやってみてください。つまり、ブレスの位置を1つすらも、音の流れをもっともよいところにして、そのことを知るのです。
1コーラスで、どのような動きをしているかを歌詞を抜いて、しっかりとたぐっていきます。そのために、コンコーネ50などを母音や子音の一音、ハミングなどで歌っておくことは、基礎の基礎となるのです。
○歌のドライビングテクニック
発声から歌唱を車の運転と思ってやりましょう。プロでも日本では、急アクセス発進、急ハンドリング(ステア)、そして急ブレーキです。これでは音楽的に心地よくありませんね。
ちょっとした踏み込み、キーピング、終止の仕方で、歌は天地のように変わるのです。ドライビングテクニックでいうなら、車体感覚と運転感覚をもつことです。自らの体に置き換えて、ていねいに体を扱うことです。愛や恋を表現するのですから、当然のことでしょう。
ていねいにていねいに、でも、そこから始めるのはよくありません。ハンドルやフロントガラスに目を近付けた危険な運転のようになります。
ですから、教習所でも姿勢から教えます。そのための姿勢保持、筋肉、集中力がいるのです。とはいえ、レーサーと通勤のドライバーでは、求められるレベルが違います。
そういえば、私はよく「レーサーになるのに、ずっと教習所に習いに行っても何にもならない」と言っていました。求めるレベルは高い方がよいのですが、運転は実用に応じたレベルの習得でよいので、そこは大きく違います。
○器と基礎力
かつて作曲家は、歌手のために曲を書きました。歌手によって、その歌の魅力が十分に発揮されました。ときには、歌わせる歌手の器をふまえて書いていたからです。
ときに歌手が作曲家のイメージを覆ってしまうくらいの歌唱をして、大ヒットする時代になりました。作詞家の永六輔を怒らせたという坂本九さんの「上を向いて」の節まわし、沢田研二さんや山口百恵さんあたりも、よい意味で、曲のイメージを裏切り続けた人でした。森進一、前川清、八代亜紀など、紅白の常連組の3分の1くらいはそれがありました(そういう人のすべての歌がそういうものというわけではありません)。
シンガーソングライターになると、本人が自分を総合的に演出することになります。声そのものや音楽としての基本デッサンの力は、あまり問われなくなりました。
J-POPSになると、プロになりたい人に見本にさせるのはリスクがあるほど個人と曲の結びつきが強くなりました。歌の基礎力の大切さがわかりにくくなったのです。
○スタッフの力
歌手とまわりのスタッフの力量のなさは、日本の歌手が世界に出られない最大の要因です。好きに楽しく歌えているヴォーカリストを気づかうのか、大切なことを伝えられていない。プロデューサーからバンドのメンバーまで、私は、欠けていることを本音で言うようにお願いしてきました。
海外のように、まわりが皆、ハイレベルに歌えるなかで、絶対的なオリジナリティをもつ存在としてしか成り立たないのがヴォーカリストであれば、ミュージシャンレベルで厳しくレベルが問われます。声=音の世界でのデッサンとして演奏力が問われるのです。
しかし、日本ではけっこうなレベルのプレイヤーでも、音楽や声に無知なことが多いです。音のアドバイスは、なかなかもらえません。大体80パーセントはのり(リズム)、ピッチ(音高)の注意という状況です。声を音として、音楽として聞く訓練がないのです。☆
これは当のヴォーカリストにもいえます。まわりはヴォーカルよりも先に音楽の世界をつくって、そこにヴォーカルを当てはめようとします。そのために予定調和で、荒のない作品になるのですがベストなものになりません。
○カラオケとヴォーカルの関係
日本の独自開発のカラオケ現象は、全世界に広がりました。しかし、そこではヴォーカルのつくり出していく音の世界にそってプレイヤーが音を動かしていくというセッションが成立していないのです、カラオケというのはヴォーカルが歌っていなくても伴奏として進行して、終わりまでいくからです。むしろ、日本の歌は、このカラオケ感覚に堕していきました。
ポップス歌謡全盛の60年代に、日本ではすでに、すぐれた作曲家が編曲、アレンジして伴奏をつけていました。しかし、そこは相当耳障りなバックの音が入っていたので、歌手の力を引き出すのではなく、もたせられるようにしました。
トータルプロデュースの時代となり、ますますヴォーカルの力に頼らなくなっていったのでしょう。それだけの力がヴォーカリストにないのか、今も昔も、まわりの人の才能を引き出しました。果ては、ハイレベルなカラオケ機材まで生み出したのは、私の立場からみると、皮肉で残念なことです。
○あてになるヴォーカルに
作曲家やプロデューサーは、ヴォーカルのフレーズでのデッサンを当てにしなくなりました。いや、もともと当てにしていません。アドリブ、スキャット、即興は、日本では普通はありません。形だけ合わせる歌に、未来はありません。
海外ではオリジナルのフレーズに対し、トレーナーは、応用技を伝えています。日本ではその前にフレーズを、音色を、さらにオリジナルのフレーズを養成するところから必要です。いえ、そういうことであることを気づくところから必要です。
そうでないので、いくら海外のトレーナーについても真の実力としては大して変わらないのです。それは、そういうことをした人たちの声からも明らかです。ヴォーカリストでなく、トレーナーとしての権威づけになるだけです。
<レクチャーメモ「歌からお笑いへ」>
私が子供の頃、映画からTVに主流が移り、TVの半分はドラマ、さらに歌番組がゴールデンタイムに多かったものです。つまり、俳優と歌手がスター、お笑いは色物、添え物に近かったのです。
1980年、山口百恵引退の頃、ドラマからバラエティとアニメへとメインが移ります。お笑い芸人からお笑いタレントとなり、彼らのTV番組のMCからコメンテーター、ひな壇まで占有していきます。
お笑いライブも、プロダクションが事務所ライブとして新人発掘に使い始めます。まさに、歌手の発掘のやり方と同じです。そして、音楽事務所がお笑いタレントを抱えるようになります。
空気が読める、トークのできるタレント、ステージとしてのセットが不要で、素人参加型にも適合する、時間をとらないネタでどこでもできる、そうしたものがTV低迷時代のニーズにマッチしていったのです。
リモコンによるテレビのチャンネル変えから、YouTubeのザッピングになると、ショートなものほど本領を発揮するわけです。
アドリブ力とボキャブラリーが求められ、わかりやすいもの、大衆受けするものの時代の到来です。
昭和の初め、落語家、漫才師、声色
次に喜劇役者、コメディアン、エノケンの軽演劇
森繫久彌や伴淳三郎、渥美清など、
当時は有名になると役者へ転向。
クレージーキャッツと渡辺プロダクション
プロダクションとマネージャーによるバックアップ
「コント55号」「ドリフターズ」から、
1980年漫才ブーム、「B&B」「ツ―ビート」「紳助 竜介」など。
1982年NSC(吉本総合芸能学院 95年東京進出)
「THE MANZAI」オレたちひょうきん族」楽屋オチのネタ。
映画、ドラマ、ニュースキャスターなどへ進出。
その先駆けは、放送作家の青島幸男、前田武彦、大橋巨泉、永六輔。
「いいとも!」タモリのMC。
バラドル(バラエティ・アイドル)森口博子、井森美幸、山瀬まみ
1988年SMAP、ジャニーズ出身者のタレント化
1989年「ベストテン」終了
リアクションタレントとひな壇 出川哲朗、山崎邦正、上島竜兵
システム
吉本 興行では、最初の1年
2ヵ月1回のライブ ネタ1分
1分のオーディション [491]
<レクチャーメモ「歌からお笑いへ」>
私が子供の頃、映画からTVに主流が移り、TVの半分はドラマ、さらに歌番組がゴールデンタイムに多かったものです。つまり、俳優と歌手がスター、お笑いは色物、添え物に近かったのです。
1980年、山口百恵引退の頃、ドラマからバラエティとアニメへとメインが移ります。お笑い芸人からお笑いタレントとなり、彼らのTV番組のMCからコメンテーター、ひな壇まで占有していきます。
お笑いライブも、プロダクションが事務所ライブとして新人発掘に使い始めます。まさに、歌手の発掘のやり方と同じです。そして、音楽事務所がお笑いタレントを抱えるようになります。
空気が読める、トークのできるタレント、ステージとしてのセットが不要で、素人参加型にも適合する、時間をとらないネタでどこでもできる、そうしたものがTV低迷時代のニーズにマッチしていったのです。
リモコンによるテレビのチャンネル変えから、YouTubeのザッピングになると、ショートなものほど本領を発揮するわけです。
アドリブ力とボキャブラリーが求められ、わかりやすいもの、大衆受けするものの時代の到来です。
昭和の初め、落語家、漫才師、声色
次に喜劇役者、コメディアン、エノケンの軽演劇
森繫久彌や伴淳三郎、渥美清など、
当時は有名になると役者へ転向。
クレージーキャッツと渡辺プロダクション
プロダクションとマネージャーによるバックアップ
「コント55号」「ドリフターズ」から、
1980年漫才ブーム、「B&B」「ツ―ビート」「紳助 竜介」など。
1982年NSC(吉本総合芸能学院 95年東京進出)
「THE MANZAI」オレたちひょうきん族」楽屋オチのネタ。
映画、ドラマ、ニュースキャスターなどへ進出。
その先駆けは、放送作家の青島幸男、前田武彦、大橋巨泉、永六輔。
「いいとも!」タモリのMC。
バラドル(バラエティ・アイドル)森口博子、井森美幸、山瀬まみ
1988年SMAP、ジャニーズ出身者のタレント化
1989年「ベストテン」終了
リアクションタレントとひな壇 出川哲朗、山崎邦正、上島竜兵
システム
吉本 興行では、最初の1年
2ヵ月1回のライブ ネタ1分
1分のオーディション [491]
○私の考えるヴォイトレの基本に関する注意事項
私がレッスンとトレーニングに求めたこと
1.長期間にみるということ。
2.多角的にみるということ。
3.飛躍を求めるということ。(つみ重ねから逸脱)
4.頭を疑い、体を信じること。
5.ものごとを二極(正誤、よしあしなど)でみないこと。
○10年からの声
どの世界でも、10年でようやく一通りみえてくるものがあると思います。それが体感でき、ものにするには、もう10年かかります。そこで、私はプロとは20年、短くても15年、できたら25年続いて、最低必要条件を満たすと思ってきました。プロということばは、さまざまに使われます。ケースバイケースであることは当然で、「ざっというと」ということです。
私も声を教える、伝えるという立場になって30年になろうとしています。自分で声を使ってきたとなると、生まれたときからです。ヴォイトレで区切って、四半世紀超えとなります。
トレーナーというのは、自分でなく相手をどうにかして何ぼのものです。相手と接して10年、20年先どうなったかをみて、初めて結果がわかるのです。20代、30代でやっていたことは、ようやく40代、50代で結実してみえてくるわけです。
〇声は魔物
ですから、本を書き始めたときの私は、自分のこと以外、いや自分のことも含めて何もわからなかったと思うのです。そういう自分に接して学ばせてくれた多くの人に、特にここの関係者には、感謝してもしきれないくらいです。
ですから今、若い人はあたりまえですが、声という分野に入ってくる多くの人(年齢としては上の方も)をみると、私がこれまで試行錯誤してきたこと、迷ったことなどを、話し出されて、なつかしくも新鮮な思いに捉われることがよくあります。
声というのは魔物のようなものです。正体不明、誰もが「捉えた」とか、「わかった」とかいっていながら取り逃がしているものです。大事に見張っていたカゴが開いたら空っぽということもよくあるのです。
そのあたりは、今では、「その人がどういうことを質問するか」で、大体わかります。
ここにはけっこうな肩書やキャリアをもった人もみえます。しかし、案外と声については、その指導についてのプロセスや結果の検証からみると、まだまだ未熟です。
声については専門家がいないのです。医者は身体の専門家ですが、発声となると素人、表現になると素人以下の人も少なくありません。身体の専門家として人を診ているキャリアから私が教わることは山ほどあります。ただ、彼らのなかには、10年20年と、音大の先生と同じく、20代から勉強(知識、理論)してきたと、固まってゆずらない人も少なくありません。
舞台に関わる私たちの方が、表現を通じて声からは多くを学ばされているのでしょう。
○現実の表現からみる
演出家や映画監督、出演者と言ったプレイヤーは、表現の判断の専門家です。その舞台裏がのぞけるのは、私の役得です。
優れたプレイヤーほど、一般の人の声の問題について、学びにくいといえます。プロとしてプロ中心に接している人は、なかなか社会の問題に触れる機会がありません。
私のところは、声楽家をトレーナーにしていますが、彼らはここで初めて世間一般の現実のレベルでの声の問題につきあたります。音大では音楽的、声楽的にすぐれている人はいても、一般社会で困るような声の劣等生はいません。そんな人は学校に入れません。
健康な人もそうでない人も、伸びる人もそうでない人も、たくさんの人が、私に多くのことを学ばせてくれました。そういう面では私の方が多くを知り、体験してきているわけです。
役者、声優、お笑い、邦楽、エスニックなどについても、それぞれ専門家ゆえに声の問題には疎く、ここに研究にいらっしゃることになるのです。それでも5年、10年はひよっこというような世界の人にいらしていただけるのは、この研究所ならではの、ありがたいことだと思っています。
ここでは、いろんな分野での専門家といわれる人たちのアドバイス(考え、意見)、判断(診断や治療)も、共に検討していくようにしています。毎年400名以上を声や表現でみてきた私とのコラボレーションの実践です。専門家や私でなく、本人を中心にして、どのようにみていくのか、どのようにしていくのか、どう支えるのかが問われているのです。そこでは知識や理屈よりも思想と実践です。どうも今の日本人はどんどん頭で考え、理論や客観的な知識の方に寄っていっています。本質を見失っていっている感を否めません。それゆえ、社会や時代の問題とあわせて、切り込まざるをえないのです。
○教えて育つか
体から声はその人なりのものとして発現しています。自分の体と他人の体は似ているようで異なっています。
トレーナーは他人の体を扱います。そこに入り込み、自分の体とのギャップから、それを埋める手段をメニュとして提示します。多くは自分自身が手本、見本にならざるをえないのです。
表現者たるアーティスト、歌手、俳優、アナウンサーなどのベテランは、先輩アドバイザーとしてはよいわけです。しかし、自分の体というものがあるために、なかなか他人の声のよき指導者となれないのです。
技量やキャリアとしては優秀な先生が、自分の半分の力にも、生徒や弟子を育てられないことが多々あります。生まれや育ちに加え、日常生活の環境や習慣のなかに、つかっているだけに、歌手や俳優は、天性に恵まれていた人に学ぶのは難しいのです。昔は住み込みの弟子入りが、すぐれた養成方法としてありました。
私も、1990年代、365日24時間、ほぼ2年間の養成所体制を意図しました。全寮制をよしとする欧米の考えにも似ています。すぐれた指導方針とある意味で選ばれたエリートで構成しないと、大体はサークル化するものです。今の日本の大学が、よい例です。スポーツのようにタイムや勝敗で結果が出ない世界ゆえに、判断の基準や何を価値とするかという問題が大きくのしかかってきます。
〇歌手とトレーナー
トレーナーとしては、表現者として、あまりすぐれなかった人のほうが優秀なことが少なくありません。すぐれたフィジカルトレーナーには、アスリートとしての可能性をけがや病気のために、若くして断念した人が多いと思われるのに似ています。
特に歌手では、我が強くなくては一つの世界を築いたり、保ったりできませんから、どうしてもその傾向が強くなります。それゆえ、私は、歌手にはトレーナーを仕事として両立させることをお勧めしません。
実際に私のところにはいろんなところからいらっしゃいます。そこをやめてくる人いれば、続けながらくる人もいます(第二期は、私のところだけに在籍しているという人が8割くらいであったのに対して、今は5割を大きく割っています。外部との共同作業として、研究所の指導を考えているのは、ここ10年のことです。おかげで多くの情報が入ります)。そのときによくみると、歌手やプロデューサー(として成功した人)などが教えた人よりも、あまりそういうことですぐれなかった人の方に教わった人の方が基礎ができているものです。
○あいまいを観る
声とヴォイストレーニングの分野は、あいまいです。トレーナーといっても、専門家という資格も基準もなく、出自もやってきたことも、方法も判断も、知識も理論も違います。声といっても広範な分野をカバーするので、それぞれに自称しているだけです。医者(音声医、耳鼻咽喉科)、声楽家、作曲家、プロデューサー、俳優、声優、アナウンサー、ナレーター、話し方のインストラクター、講演家、講師、さらに噺家(落語家)から邦楽家(長唄、民謡)ビジネスマン、政治家と声を使う人ならトレーナーとして教えられるものをもつのです。誰でも先生になれます。
歌手も俳優も日常に根ざしている歌や話を専門とします。しかし、誰もが話も歌もたしなんでいるからこそ、特別な勉強もなくプロになれる人もいるのです。
その違いとなるとあいまいです。ヴォイトレの必要自体も、あいまいなものです。それにアプローチするのが目的で、こういう話になるのです。
たとえば、声がよくも丈夫でなくとも、克服してよくなった人が、体に詳しく、そこからアプローチして声にせまるのは、当然です。一方で、歌手や俳優は、大体は体力、集中力があり、健康な体をもっています。そのようなアプローチなくとも歌唱や発声にすぐれています。となると、どちらがよいとか正しいということではありません。
○「できる」と「うまい」
いつも私は、あなた自身が、具体的に詰めていくために、必要なことを述べているつもりです。個別にしか成立しないと思われている個人レッスンで、何名もの出自の異にするトレーナーと一緒に行っているのもそのためです。
1.あなた自身のこと(体、感覚)(生まれ、育ち)
2.あなたの目的のこと
1が基礎、2が表現です。この2つを抜くとヴォイトレは、あいまいになります。
人間の体としての共通要素のところでは「できた―できてない」という基準をつけると、基礎としての集団トレーニングもできます。レクチャーや文章でも伝えられることをこうして述べています。
歌や演技でのせりふとしても、「うまい―へた」くらいは、共通に望まれる表現を目的とするなら、大きくは同じような指導方法がとれます。
私はカラオケ教室やその先生を批判しているのではありません。
問題とすることが違います。私の考える基礎や表現に「できた」とか「うまい」ということが入っていません。
プロになれるのとプロとしてやっていけることは違います。オーディションに通るのと、作品で一流の実績を残せるのは違います。レベルも目的も、問われる条件も違うものです。多くの人は、その一歩としては同じと思うのです。私は違うと思うので、この問題は後述します。
本やネットでも、ヴォイトレに対して、意見や考え、ときには熱心な議論が行われています。質疑応答も行われています。私は関与していません。本人不在では、ほとんど意味がないからです。
この分野で本を出し、ヴォイトレのQ&Aサイトを提供している私がいうのですから、説得力はあるでしょう。
なのに、この連載も含めて、いつも述べ続けているのは、そこからあなた自身のこととして考えてほしいからです。これは研究所内外での私の仕事とも密接に関わっています。私には毎日の仕事や生活の一環です。
○情報論
今の時代、情報はたくさんあります。それぞれが違うと迷うでしょう。ですから何かを決めたいなら、情報をとりすぎないことです。質のよい少ないで判断します。
私のところでも、質問に1人のトレーナーが答えると相手は満足します。そのとおりにやるでしょう。私のところのQ&Aは、似た質問にいくつもの答えを出しています。「トレーナーの共通Q&A」は、ここのトレーナー10人以上が同じ一つの質問に、それぞれ自由に答えたのをそのまま載せています。
「どの子音でトレーニングすればよいのか」について、この研究所のトレーナーでは結果として異なる子音を使っていました。
あなたは混乱するでしょう。明らかに矛盾します。どれが正しいのでしょうか。どれが正しいのか私はわかりません。
あなたに来ていただいて、あなたの現状をみて、その目的を聞いて、どのようにそれらの答えを考えるのかを、アドバイスします。これが研究所での私の仕事の一つです。
あなたに問われても正解は与えられません。あなたは、他の10人のトレーナー一人ひとりに聞きますか。答えは一致しないでしょう。結局は自分自身に問うしかないのです。そして自分自身の答えを、あるいはやり方を見つけていくために、レッスンをしていくのです。もっとも大切な判断のもととなるものを学ぶのです。
〇問いをつくる
ここのトレーナーを方法やメニュということにおきかえてもよいでしょう。
私は読者に「答え」でなく「問い」を求めるようにと述べています。レッスンにも研究所にもそのように対して欲しいと言い続けています。多くの人は、本やサイト、レッスンに正しい答えを求めようとするのです。買物の、「価格コム」や「よい商品や店を教えて…」なら、答えを聞けばよいでしょう。ネット社会はそういう情報、知識をすぐにくれます。でも、表現や声は違うことを知ってください。知ったところで何ともならないのです。
ただ一人から、たった一つの答えを聞いて、それを信じるなら、それはもっとも強力かつ早く、すぐれたことかもしれません。私は情報でなく、それを発する人をみます。その人が偉いとか、知名度や実績があるということと、その答えが自分に役立つということはイコールではありません。一般的には信用できる何かがあれば、匿名などの身元・実績不明の人よりは信用できるでしょう。長年やっている人、キャリアのある人、本人の実績のある人などがいます。
大切なのは、一般的に信用できることと自分自身にとって、ということです。表現、一流の作品、オリジナリティということになると、一般的によいという基準は、役立たなくなるのです。
〇カラオケとプロ
カラオケのうまい人が、プロになれないのはなぜでしょう。「カラオケにうまくなっていくのは、プロに近づいていく基本の(あるいは最初の)一歩」ではないからです。そこで、元プロか現プロのカラオケの先生、つまりプロになれなかった、あるいはプロになっても続かなかったカラオケの先生について学ぶことをどう考えるか、です。
私はそういうところの教え方を、慣れることにおいては、いいと思います。しかし、あまり勧めていないのは、本音でいうとカラオケでうまくなるのと、プロとは逆方向と思っているからです。
条件づくりと調整との違いです。カラオケというのは調整だけの方が、早く大きな効果が上がるからです。ヴォイトレも効果を早く、求められるとトレーニングでなく、調整になりがちです。実際、多くのトレーナーは、そういうスタンスでレッスンしているのです。
○知識よりタイミング
一般的には情報も考え方も方法も、たくさんあるのが、よいと思います。しかし、整理できないと、いつも迷ってしまいます。自信がもてなくなりかねません。
最初にあらゆることをアドバイスしようとするトレーナーは、未熟でよくわかっていないのです。私は採用しません。あとでそうなってくることもあるので、折をみて注意します。そういうレッスンで相手は知識欲がみたされ満足します。実際にトレーニングとしては、進展していかないからです。
こういうことを頭で勉強したい人が増えてきたので、トレーナーとしても対応をせまられることがあります。それがどういう位置づけか、スタンスかを知らないといけません。そうでないとトレーナーも生徒も、中学校でやるようなことがレッスンと思ってしまいかねません。
レッスンで大切なのは、伝えるタイミングです。本人が受け身から主体的になり、聞いてくるのを待つ、あるいは聞いても仕方ない(とはいえ聞いてみるのはよいことです)と思い、問いを自らに向けて答えを試しにくるように導くことです。トレーナーに必要なのは、信じて待つ力、忍耐強さです。
〇主体的に補う
私のレッスンのスタンスは変わりません。はじめは表現よりも基礎を、今は、人により基礎より表現を中心にすることもあります。基礎は、トレーナーがやるからです。この分業体制を無視して、私のレッスンを部分的と思う人もいるので、最近はそういうレッスンをアドバイス・レッスンとしました。
基礎はピアノをひいているだけ、グループではすぐれた歌をCDで聞いて、2、3フレーズをやってみるだけ(相互に聞き比べ、自分なりに調整していく)表現は、フレーズを歌ったり、せりふで言うだけです(1コーラスのこともある)。
「~だけ」というのは、後は本人に補わせるためです。
レッスンでは、何よりも主体的になることです。それができるまでには、時間がかかります。かなりの個人差もあります。本人がそこで、私(やまわりの人)の心を動かす表現を声を問うのです。
表現というのは、色づけがされた声(オリジナルフレーズで、くせや個性が入る)です。基礎は、応用性の高い柔軟で変化に応じられる声です。それは無色です。本人が主体、トレーナーはサポート役です。
自分のもっているすべてを早く教えてしまおうとトレーナーが頑張ると、授業パフォーマンスが作品、生徒は観客となってしまうのです。「先生みせてよ。すごい」これでは本末転倒なのです。
〇教えたいと教わりたい
まるで中学校といったのは、日本の教育とは先生に教わることと捉われている人への私の忠告です。パフォーマンスをみないと信用できないという人もいるから、やっかいなのです。クリエイティブな現場では、トレーナーは自分のもっているものを出すのでなく、一刻一刻と相手に欠けているものをとり出すアプローチを発想できるかを、問われるのです。
ヴォイストレーニングを、どのように捉えるかも人それぞれにあると思います。カラオケ教室や英会話スクールにさえ、広義にはヴォイトレと考えられます。
まとめておきます。
現実対応―表現
自分―発掘―基礎
○初期化
私の思う歌手というのは、劇団員のようにはなれないとわかってから、今の体制に舵を切ったのです。そこまではOBや在籍した人にサブトレーナーを任せていました。生え抜きとプロデュースしたトレーナーとは、一長一短です。私は異質な集団でカオス状態にする必要を感じていました。私自身、多忙で、裸の王様状態になっていたので、ここを壊すか、離れるかも考えました。
我流のブレスヴォイストレーニングということに、こだわっていたのですが、歌という表現を取り巻く環境の大きな変化と、ヴォイトレの一般化の波にさらされたわけです。
日本では歌手という入口から、俳優やタレントになります。歌手はシンガーソングライター、アーティストである限り、そのような職名、属性はどのようでもよいのです。
20代中心の、理想としては、全日制的な体制は10年以上、つづけたものの、維持しにくくなりました。外からどう見られようと、内に人材がいるのか、育っているのかが、もっとも肝心です。踏み台のはずの私が、ヘッドに君臨するのはよくなかったのです。
ブレスヴォイストレーニングが、本来の基礎となるものなら、どのような分野や表現とも、他の人々とも、融合していくはずです。福島式とつけなかったのは、ブレスヴォイストレーニングが自由に変化していくように、という思いだったのです。
今では、試行錯誤ながら、いろんなところと提携し、邦楽から、喉の病気の人まで、それぞれにレッスンを成り立たせています。iPS細胞のように初期化したといえるのです。
〇変化と思想
ここに至るには、試行錯誤、うまくいかないことの連続でした。常に第一線で、全てをさらしていったからこそ得られたことが大きかったのです。多くの批判や叱責とともに、より多くのすぐれた人との関わりでできていったのです。
今の私ならとてもやれなかった、やらなかった、無知ゆえの活動が、多くの人や組織を巻き込みました。どこよりも多くの情報と多くの人と多くのトレーナーと多くのやり方も含めて、ここまで変化しました。ここを変えさせ、進化したのは思想であり、今もその途中にあると思います。
研究所をつくって、ようやく研究すべきテーマや方法、それに必要な技術やスタッフ、トレーナーがそろってきました。それが正直なところ、この10年の歩みです。他の人に協力を求めたり教えてもらうためには、内部がきちんとしていないとなりません。ライブやプロデュース志向の第二期には、養成所であっても研究所ではなかったのです。
○創造と環境づくり
このように研究所のことを語るのは、トレーナーに教わるという姿勢から始めたとしても、一人ひとりが自分の声、自分の表現の研究をして、独自に研究所をつくって欲しいからです。
私は、環境と習慣を変えていく、その必要性を、いらっしゃる人に話しています。
自分を中心に自分の目的を達成するのに必要な環境を整えていくこと、その一環として、ここを使って欲しい、と。昔からそのためにここを変えていきました。ここをあなたのために役立てて欲しいと思ってきました。
役立たないなら役立つようにして欲しい。やめることや休むことも含めて自由です。
表現のもつ力は、人のいる場を変えます。ここはその変える力をつけて、試すためにあったのです。養成所のときに「あなたがここを変えないなら、あなたのいる意味がない」と言いました。
教えてくれないと学べないような人が多くなると、今の日本の縮図のようになるのです。いつでも研究所や私やいろんなものを変えてきた人に多くのことを学べたはずです。充分にそれを試行錯誤する環境があったのです。
立ち上げの頃はゼロでしたから皆が創りました。最初のスタジオは、建物のペンキ塗りまで生徒がやりました。そこからライブスタジオが実現して、疑似ライブまで開催されました。すると、そこを利用したい人、創造でなく消化する人が多くなってきたのです。
そういう人は、創造する努力を怠り、ものごとを否定的にみます。その結果、チャンスがなくなる。つくっていく人が現状を変えるのなら、つくらない人も現状を変えていく。日本の戦後の、進退という2つの歩みが、この研究所でも起こるのです。
○なるようになる
創った作品を聴きたいと思うから人が集まり、聴きたくないと思うと人はいなくなる。私が皆の声(歌)を聴きたいと思ったから、どんどん聴けるようにしていったのです。そういうものがなくなったら場も機会もなくなるのは、あたりまえです。
私もがまん強く、つぶしはしなかった。再び創るのに相当かかりました。つくっていくよりひいていくことの、ひいて、つくっていくことの難しさも経験しました。
今も昔も、いつも変わりつつあるのです。すべてが変わっていく中に、変わらないものがあるのも、これまた真実です。
真実だけでなく、真実と信じ、変えたくなくても現実には、それを変えてしまわざるをえないこともあります。真実でありたいのに、そのことがそのまま通じないままにも続け、対応していかなくてはいけないこともあります。そういう後ろめたさや反省も、つづれないものかもしれません。
私にカリスマであってほしい、私の方法や言っていることはすべてが正しく、誰もがそれで救われる。こういうことを望んで、それがあたりまえのことですが、かなえられないとブチ切れる、今では珍しくもないのですが、幼稚な人にもいました。
〇研究所のことばと感動
ことばで伝えていることの限界も私は本のなかで述べてきました。頭でっかちで盲目になる。たかがことば、されどことば。本の方法も理論も、そしてトレーニングも自分に役立てるためにあるのです。それを役立てないばかりか、やり始めたときよりもだめにしてしまう。それは方法や理論にではなく、本人の受け止め方、使い方に問題があるのです。声や体のことでなく、考え方や生き方ですから、本人は気づかないのです。声や体は、死なない限り、何とでもなります。私の方法で死んだ人は知りません。
何であれ、心から魅かれて、本物だとか、すごいとか、感動したというのが、大切なことです。たとえ、十代のときだからこそ惚れてしまったアイドルの歌でも、あなたの、その心の感受性は純粋で真実です。それを「あんなアイドルは…」とか「それに夢中になった自分が恥ずかしい」となると、嘘が始まるのです。それを本人は成長したとか、めざめたとか、本当のことを知ったとか、これまでだまされていたとかいうのです。私からみると、向上心がゆがんだだけです。頭でっかちになると眼が曇るのです。
○複数トレーナーに学ぶという考え
前の先生や今ついているトレーナーがだめという理由でくる人が少なくありません。他のスクールなどに移る人の大半がそうでしょう。
私のところは、意図的に一人の生徒に複数のトレーナーをつけています。目的やレベルによって変えていく体制をとっているので、その人とトレーナーとのレッスンの問題がどこよりもわかります。他のトレーナーにつきながら、ここにもきている人もたくさんいます。
私は、20年以上、この体制でみ続けてきたのです(グループレッスンのときも他のトレーナーのレッスンに出られ、他のトレーナーに個人レッスンを受けられたのです)。否応なしに比べられるのですが、それをよしとしました。
ここのトレーナーは、この体制に慣れていきます。通常は、自分がいるのに、他のトレーナーにも習っているというのは、嫌なことでしょう。
私はトレーナーとともに生徒のことを考えています。その結果、辿り着いたのが、複数のトレーナーで一人の生徒を分担する、そのカップリングを第三者がみる、という、世界でもまれなシステムです。
多忙な先生が直弟子にレッスンを任せるのは、よくあります。同じやり方をスムーズに踏めるからです。ただし、これは別の問題を引き起こします。弟子の能力は先生に劣るのと、先生のをみようみまねで行うことになるからです(日本の徒弟制)。
私はあえて、トレーナーに本人独自のやり方を優先させているのです。とはいえ、まったく価値観や考え方が違うトレーナーでは無理です。
自分のことを知り、判断力と基準をつけていくのがレッスンの目的だからです。そのために、他の人の学び方からも学べるグループレッスンから始めたのです。
価値観、考え方が同じでも、人が違うのですから方法は違ってくるのです。同じ方法でやればいいというのがおかしいのです。弟子よりも、出自が違うのに共通した価値観をもつ人の方がトレーナーとしてよいのは、そのためです。ただ、弟子の方が扱いやすいから、日本ではそうなりがちです。
○情報を遮断しない
ここにはいろんな人がいらっしゃいます。
1.他のトレーナーから移ってきた人
2.他のトレーナーにつきながらきている人
他でついているトレーナーには、ここのトレーナーとのレッスンのことを話してかまいませんが、「言わないほうがよいかもしれません」とは言うこともあります。すぐれたトレーナーなら、すぐバレるものですが…、バレるのだから言う必要もないでしょう。私もすぐわかります。他のトレーナーの影響が良くも悪くも一時的に出るから、レッスンのスタンスが問われるのです。
でも、他のところのトレーナーは、慣れていないので不快になり、レッスンの状況が変わってしまうこともあります。よくなるならよいのですが、ギクシャクしたり、厚意的でなくなったり…。でも、私から、ついているトレーナーをやめた方がよいとは絶対に言いません。
必ずしも、そのトレーナーやレッスンに問題があるのではなく、あなたが活かせなかった、それはなぜかの方が大切なのです。どんなトレーナーであれ、レッスンのなかには、プラスのこともあるはずです。それをできるだけ活かそうとするのが、のぞましい姿でしょう。そのトレーナーとのレッスンの年月も救われます。
どんなことにもムダはありません。そのときはマイナスであったようなことでも活かせばプラスです。何事も、短期でみてはいけないのです。
そのトレーナーにもファンがいて、仕事も続いているなら「だめ」とは言えません。「合わなかった」ということでしょう。その違いは何だったのでしょう。
私のところにも、熱心な人は10年、20年と続けています。効果の測定を、洗脳されたというように蔑む人は、あわれなことです。研究所では、いつも内外関わらず、多くの作品や人に会って刺激を受けることを、どこよりも勧めています。
〇トレーナーの批判よりも活用を
トレーナーを批判するのは、およそ一方的なもので、浅はかです。ものごとには、両面あります。批判することも認めるべきこともあるのです。どちらに目を向けるかです。
私は、本を出し続けてきたたので、若くして批判の矛先にも立たされてきました。本を読んで、今までついていたトレーナーのレッスンをやめて、ここにいらした人もたくさんいます。そういうトレーナーがよく思うわけがありません。
どこにも属していないので言いたいことを言っていました。風通しがよくないままでは、この分野も発展しないからです。長年続けていると、日本においては、関係者に迷惑のかかることは避けたいと思うようにもなるわけです。
皆さん、ここに足を運び、確かめにきます。プロダクションや編集者にも現場を見せます。
批判というのは、その人に実利があると執拗なものになります。ねたみ、そねみ、ひがみも相当にあります。当人の前に出て言えるようなことは、ほとんどありません。内容もとるにたらない、とりあげるに足らないから、答えるに値しないのです。
批判やクレームは、実名にて送っていただくと嬉しいです。本については、メールや封書、FAXで。ときに専門家や一般の人からいただきます。指摘から学ばされることも多くあります。お互いのためになるようにと思っています。
○選ぶ力より合わせる力をつける
どの世界でも、多くの人は入口前でたむろしては去っていきます。
移ってくるときに、ここに来る前のレッスンを忘れたがるのは白紙に戻す点ではよいのですが、一方で困ったことです。「これまで」「前のところでは」「大してやっていない」「身につかなかった」と。そのことばをここをやめるときにくり返さないとは限らないでしょう。もちろん、ここでは、これまでにないレッスン、全くレベルの違う目的、プロセス、方法を与えることを目指しています。しかも何段階にもおいてです。
転々とスクールを変える人は、「合うトレーナーがいなかった」「合う方法がなかった」と言います。「自分と合う時間や合う体制でなかった」というのは、深刻な問題です。そこで効果を上げている人がいるのですから「自分に合わせる力がなかった」ということです。
私のところに10番目にきて、ここでも何人ものトレーナーのレッスンを受けて、合わないと言った人もいました。医者から紹介された人のなかにもいました。いくつもの医者をまわって、すべて合わなくて、ここを紹介されてきたのです。こういう人は、合わないと言う前に自分が合わす力をつけなくてはいけません。
〇合わせる力=応用力=仕事力
ヴォイトレの必要性自体、人によって違います。必要なければやらなくてよいのです。まわりはまわり、自分は自分で情報を得るのならそれもよし、勉強です。お金がないなら無料体験レッスンを受けたら、よいでしょう。合うところを見つけたいなら、「合う」という条件を具体化して交渉していくことです。
他にあたるなかで、具体的にイメージを絞り込んでいくのです。一人で悩んでいるよりも、ずっと発展的です。
研究所内ではトレーナーの選択から意図的に促しています。
大抵の人は具体化していけないで「何となく合わない」「合っているのかわからない」で終わってしまいます。普通は少しがまんして、トレーナーと相互に合わせる努力をします。少しずつレッスンができてきます。そして「選ぶ力」となり、「合わせる力」がついてきます。
トレーナーにすぐにピッタリと合わせられるのは、天才のレベルです。人に合わせる力がつくということは、「仕事にする力」がつくということです。プロになっていくのです。
1.初回からレッスンが成立する
2.初回で相手に合わせる可能性がみつかる
判断ができなくて、好き嫌いで動いているうちは、人は魅きつけられません。私も会ったら最善を尽くしますが、初回からわからないこともたくさんあります。そこからのプロセスが大切です。
そこがわからないと、ヴォイトレをして声がよくなっても何ともならないのです。
○決めること
私のところでは世界レベルを体制としてセッティングしてきました。世界レベルで最高のシンガーがきても対応できる体制があります。紹介でいらっしゃることが多いので、選ぶ間もなくピンポイントで決まるので比較できませんが。表現=目的に対して欠けていること、課題がはっきりしている人ほどやりやすいのです。
1.直観で決める
2.たくさん、まわって決める
3.長く試しながら決める
2は迷うから、1も悪くありません。たくさんみると、第二義的な要因が大きくなることもあります。サービスや設備や料金、立地などが、レッスンやトレーナーのよし悪しよりも影響してしまうということです。目が曇るのですね。
直感的に正しかったこと、真実だったことが、みえなくなってしまうのです。
憧れを抱いて、業界に入って現実をみたら失望してやめた。こういうケースも何をみたのか、同じものをみて、どう思ったのかは、人によって違うでしょう。水商売の業界、アートで表現ですから、いろいろとあるでしょう。むしろ、早く失望できた方が先が開ける、いや、自ら選択を迫られ、切り拓けると思います。
私は、多くの人が長く続いているところというのは、それほどおかしなものではないと思っています。
私は、トレーナーの未熟さにも、生徒と同様に寛容です。私もかつてはそうであったし、今もだからです。
○過去に学ぶ
学べているのなら、次のステップにいけます。学べなかったなら、ゼロから学ぼうと過去を封印するより、過去に学べなかった原因を知るのが有効なこともあります。
どこかやめてくる人はうまくいかなくて、前のところをよく思っていない人が多くネガティブなイメージですが多いのですが、私はそのレッスンからも1つプラスに役立つことがあれば、そこを活かすように心掛けています。そうしてみると必ずよいところがあります。
トレーナーにも生徒にも万能を求めるのは、目的が低いということです。何からでも学べるのです。それを絞り込んで、何をどう学ぶのかのレベルを高めていくことができてこそ、学び続けることの意味があります。
〇オープンにする
トレーナーを変えるときも、前のトレーナーに学んだことを活かせるように考えます。有能なトレーナーが去ったときのデメリットは大きいものです。しかし、トレーナーによってその人の将来が左右されるのは、あまりよくありません。
研究所では、マンツーマンで一人のトレーナーの影響しか受けられないようにはしない方針にしています。
本当のところ、トレーナーとのレッスンで行われていることは、第三者にはわかりにくいものです。トレーナーは、あまりオープンにしたがらないし、レッスンのプロセスに他のトレーナー入れたがらないものです。それゆえ、他のトレーナーが学べず、こういう分野の発展が個人のキャリアにしかならないのです。
私は、国内外のトレーナーの考え方ややり方、そこを受けた人の評価のよし悪しも、誰よりもよく知ることができました。研究所は、この閉鎖性に対する挑戦として、一般の人にも多くのトレーナーにも内容をオープンにしてノウハウの共有化をしてきたのです。こんなにメニュやノウハウをオープンにしているところは世界にもないでしょう。それを批判するひまがあるなら、自分のを公開していけばよいのです。いろいろと批判しているようにみえるこの連載は、愛情の賜物なのです。
○学べないパターン
現実に学べている人は、学んだことを感謝して、トレーナーがどうであれ、次のステップへ歩みます。トレーナーがどうであれ、続ける中で次のトレーナー、プロデューサーと活動します。
現実に学べてない人は、学べなかったことを否定して(忘れるようにして)同じことを繰り返すのです。それを学び直すならよいのですが。そこでやめてしまう人も多いし、身についたと安心してやめる人も多いのです。
学べなかったことを自己肯定しているのです。そういう形で次のトレーナーについても実力はつきません。よくあるのは、どこかで調整してもらってよくなったら、これまでのやり方を一転して全否定するパターンです。理論や知識で頭を満たす人は同じく、新理論や新知識におぼれるのです。
次のトレーナーでよく学べたとして、自ら前途を閉ざしているパターンが多いのです。悪口を言う人はこういうタイプです。本当に力がついたら、過去は気にせず活動していくからです。
そういう言動を耳にすると残念に思います。声も歌も人生もうまくいっていないかと、同情を禁じえないからです。
〇効果は出る
エネルギーや時間を自分のために集中して使えばよいのに、他の情報に振りまわされ安易なやり方をとってしまう人も多いものです。
最初の情熱をもって一所懸命に続けないともったいないです。一所懸命にやったことは、すぐに効果がなくても、続けていくと必ず役立っていくのです。ですから安心してください。
トレーニングは効果を出すためにやることです。効果がない、トレーニングにならないならやめればいいのです。ですから私はトレーニングで効果が出なかったという人は、性格はともかく、考え方を変えることと思います。
効果については、主観的なことが多いです。もっと効果が出るべきだったのか、それでも最高の効果だったのかは、わかりません。でも、いつも検証するのです。そのためにトレーニングがあります。そこに一般論や他人の実例は役に立ちません。自分を知ること。自分を活かすことです。
○茶番から
精神論と思われることも多いのですが、取り組みやスタンスに何度も言及しているのは、それがもっとも必要だからです。ヴォイストレーニングなら、何をもってトレーニングかをつきつめなくてはなりません。その必然性も、始点も終点もあいまいなままで、どう判断できるのでしょう。
日常性ということからみると、しっかりと他人と生きて生活しているなら、ヴォイストレーニングのベースは入ってくるのです。その結果が、今の声です。健康に生きていることをベースとして、ただ話すことにも声は充分に使われているのです。
このことがヴォイトレをわかりにくくするのです。それとともに、一部の即効的で目にわかりやすい効果がヴォイトレとして切り取られて、レッスンの目的になってしまいがちなのです。そうした茶番が行われているのが現実です。
たとえば、骨盤の位置を動かすと、腹がへこみます。それがダイエットになる。本当でしょうか。そのくらいのことに何百万人が一喜一憂し、何億円ものお金が動く。日本人のレベルも低くなったものです。
大切なのは、方法でもトレーナーでもなく、あなた自身のセッティングです。今や、フィジカルトレーナーの前に、メンタルトレーナーが必要です。メンタルトレーナーは心身の心を担当しますが、トレーニングの計画管理もします。スタートしましょう。そのあとのステップアップが大切なのですから。
〇次の学びに行くには
「今ここで」学べていると、方法やトレーニングを超えて、「次にどこかで」必ずよりよく学べていくのです。他のトレーナーについても、異なる方法であっても、自分なりに活かしていくことができるようになります。すると、その人は、もっと自分に必要な人に出会うことができます。今のトレーナーときちんと学べていたら、自ずと次のステップへいけるのです。
多くの人は学ぶことの限界へつきあたっていくのはなぜでしょう。学んでいくには、より柔軟に、自由に解放されていかなければいけないでしょう。しかし、学んでしまい、というのは学べなかったということですが、頭でばかり考え、頭でっかちになってしまい、ネガティブにものをみるようになってしまうのです。
これは、どこでも起きることです。どの業界でも、どのスクールでも、そういうものでしょう。一時的にそうなっても脱していけるのか、そこで止まってしまうのかの違いです。
いくつかの壁があって、大体は、その何段階目かで自らの成長をとめてしまうのです。より学ぼうとして、学んだ結果、頭にたくさんのことが入り、後進に対しても知識、理屈は言えるようになり、その結果、自らの成長は、止まります。止まるということは相対的に後進してしまうのです。場合によっては始めたときよりも悪くなってしまうのです。
まわりに自分よりすぐれている人が多いとそれは防げるのですが、年とともに大抵は逆になります。よほど冒険と挑戦をしないとすぐれた人とは、会えません。よほど高い志をもたなければ、知らないうちに、そうなってしまうものです。
○歌の限界を超えるには
歌も、ほとんどが円熟とか成熟という名のもとに汚れ、新鮮なものでなくなっていきます。昔のように、全盛期をすぎ、老いてナツメロ歌手になる頃ならよいのですが、日本ではそれが早く、昔であれば40代、早ければ30代後半で退化していたように思うのですが、今やデビューから2、3枚目のアルバムでそうなってしまうのです。
一つには客の耳がゆるく育っていないことがあります。カラオケで歌いなれた客は、他人の歌を聴く耳がおろそかになっています。☆
俳優や歌手も、ステップアップして大舞台に立つ人は、表現から、反省を強いられるうちはよくなっていきます。他のアートや海外と違い、その表現が、基礎のオリジナリティの延長にないことが、日本の場合、大問題です。
トレーナーになる人は、表現からも基礎からも厳しい追及を受けないところで自分より実力や経験のない人ばかりと接するので、マニュアル先行で直感が磨かれず、先にやってきただけの先生になってしまいがちです。
〇声を学ぶことの難しさ
自分の世界をつくっていくことは、保守化していくことになりやすいものです。トレーニングは、表現世界でなく、そのためのプロセスなので、異なるものです。
人に教えられることが、どこかに属するということになると、表現のための基礎トレーニングが、トレーニングのためのトレーニング、理論や知識の獲得のためのトレーニングになりやすいのです。ことに日本人はそういう傾向があります。
ヴォイトレでは、声の表現をしっかりと詰めていくことです。細かく繊細に、丁寧に詰めていくことがトレーニングに必要です。レッスンで他人の耳を借りて多角的にチェックしたり、アイディアを得たりしていくのです。
声が音声での表現の基礎でありつつも、全てを担っていないということが、この問題をややこしくしています。
歌手にとって発声は、基礎ですが、その習得のレベル、声を占めるその人の表現(歌)に対しての度合は、アーティストによって違います。
だからこそ、私は一見、逆の方向に、音声、表現、舞台の基礎として、ヴォイトレを位置づけているのです。声は歌やドラマのすべてを担っているのではありません。音響技術のフォローや聴衆の観客化によって、声の力の必要性は失われてきています。
しかし、ヴォイトレですから、私は目をつむった世界(レコード、ラジオ)で、耳だけのアカペラでの声力を基準にしています。時代に逆行しようと、そこを外すと声の基準は、とれなくなるのです。だからこそ、表現についてどう観るかの眼も、どう聴くかの耳も両方とも大切だと思うのです。
〇一声惚れ
声には表情、姿勢、話し方、歩き方といったものの総合的な要素が、凝縮されて出ているのです。
一目惚れというのがありますが、一声惚れも案外とあるようです。
かつて、イタリアの男たちは、二階の令嬢にセレナータで愛を競い合いました。ロミオとジュリエットでも、思い浮かべてください。しかし日本では、つけ文でしたね。いえ、歌垣までさかのぼれば……。
一目惚れは別として、だいたいの恋のスタートは悪くない人だなという程度で、始まります。本当に惚れるには、電話でのやりとりも含め、声の印象抜きにはありえませんでした。
もちろん、あばたもえくぼ、惚れられたら声など、どうでもよくなるともいえますが。逆もあります。
声に惚れたら、あとはどうでもよくなるというのもロマンチックですね。
〇第一印象を分ける声の印象
現実は、日本人は、目でみて判断する度合いが高いと思います。これが端的に表われたのが第一印象というものです。でも、これにはおもしろい結果が出ています。声の感じは、むしろ第一印象に大きく問われているそうです(心理学者メラビアンによると、38パーセントは声ということです※)。
一目ぼれに近い状態が起きても、次のステップがなくては発展はありません。その多くは、第二の出会い、心配りや気遣いなど内面的なものが触れ合ったときに起きます。
しかし、声からみると、言葉が働きかけたときです。たった一言、たった一声が運命を変える。その最終結果がプロポーズの言葉かもしれません。
〇オルゴールは、なぜすたれたのか
軽井沢、那須、嵐山、小樽、河口湖、箱根など、「オルゴール館」は、日本全国の観光地にできています。あの豪華絢爛な大オルゴール、それが、なぜすたれたのか、わかりますか。
それは、エジソンがおもちゃ代わりにつくった蓄音機の発明のせいです。そう、レコードに代わられたのです。
そこに人間の声を入れた。歌声など、当時のは、雑音だらけで聞くに耐えなかったのです。
ちなみにオルゴールは、貴族がオーケストラや弦楽四重奏を呼ぶ代わりに、購入しただけあって、荘重で、迫力あるすばらしい音質の演奏にまで、発達していたのです。ただ一つ、欠点がありました。それは、人間の声が入らなかったことです。つまり、人はそれほどまで人の声を聴きたかったのです。
〇声は見た目じゃわからない
ストーカーまがいの恐い声というのは不気味ですが、その声の持主を知りたいと思う声もあるでしょう。私は、オンエアだけで聞こえる声に惚れたことが何度かあります。そのまま、その声の主が誰かわからなかったこともあります。
歌も、かなりあとになって映像を入手して、顔をみて、ああ、こういう人がこう歌っていたのかと知った例も多いです。ジャケットや雑誌、本などのうつりの悪い一枚の写真のイメージで、思い込んでしまった例もあります。 スモーキー・ロビンソンやライオネル・リッチーなど、実像は、思い描いたイメージとギャップがあって、それなりにショックを受けました。慣れたら、より魅力的に聞こえるようになりましたが。
あなたも、歌い手や声優は、声で判断していませんか。昔から噺家などは、声で客をくどいていたものです。
〇声の感じと人柄
ということは、日常にも少なくありません。私は電話だけで話していた人と実際に会ってびっくりしたことがあります。とても明るくバリバリに声で思っていた人が、地味でおとなしい人だったとか、暗く軟弱そうに思えたのに、会うと筋骨隆々で明るくいい人だったなど。
多くの人の場合、声の感じと人柄は、大体、一致します。
ところが、例外もあります。
なぜそうなったのかを聞いてみると、なるほどと思うこともあります。生まれ、育ちの環境も影響していたのです。
○女性の声
世の中には、声の魅力的な女性は少なくありません。現代においては、うぐいすのような声や、ソプラノ歌手、たとえばマリア・カラスのような声は、必要ありません。寵愛を一身に受ける声というのは、もはや、女性の“能力といいがたい”からです。
仕事においてバリバリのキャリアウーマン、プライベートにおいてかわいい女、イメージによって求められる声は違いますが、これを使いこなしている声の芸術家も少なくありません。女性の美しい顔、体、そして声は、もちろん男性の気をそそります。
魅力的とは、そのように見える、そのように聞こえるということです。素顔と、化粧ばえでない表情です。声も、生の声より表情のある声が求められます。
カラオケの歌声で自己アピールする人も多いですが、普段のさりげない一言のもつ声のニュアンスを大切にしましょう。そこにキュンとなる人も、決して少なくないはずです。
〇育った環境が声をつくる
声は、もって生まれたものだけでなく、育った環境で大きく左右されます。英語圏の人が英語にすぐれ、インターネット社会でも有利なのと同じです。声にも先進国とはいいませんが、すぐれた環境とそうでない環境があります。
国際的にみると、声をあげるのも話すのも笑うのも、はしたないとしてきた日本は、弱声国です。カラオケなどでがんばっていますが、のどを嗄らすだけ、日本人に限っていうと、スポーツ応援でも選挙戦でも、終盤にはもう声を損ねています。あまり、そんな国はありません。
欧米のように乾燥していて、家が石造りで声を反響させて伝えるのと、木と紙で障子に目あり、声がつき抜けてしまい、いつも小声でしゃべる、じめじめした日本とは、求められた声が違ってきても当然でしょう。
○うるさい地域の声
地域にしてみると、強いのは、うるさいオバさん、オジさんのいるところです。関西(特に大阪)を中心に、広島、福岡、沖縄です。江戸、博多、土佐、薩摩といった方言のアクの強いところも、含めてよいでしょう。
私は昔、関西から10名、関東から40名の団体を引率して、「皆さん関西から?」と言われました。2割の人数の関西弁が、東京を“凌駕した”のです。
だいたい暑いところはうるさく、寒いところは静かです。東北の人は、“朴訥”で口が重い。北陸、山陰などでも、似た傾向があります。そこで、方言の問題も生じます。
〇なまっていてもよい
東京にも、方言はあります。この情報化時代、全国あらゆる言語が統一されてしまって、味気なくなっています。どんな地域の人も、共通語を理解して話せるようになってきています。かえって千葉、埼玉、栃木、茨城、福島あたりの、少々なまりがかかっている方が治りにくいと思われます。大して気にすることはありません。
言語に正しいを求めるなら、言葉遣いや敬語においてのことです。日本で活躍している外国人の日本語でも、充分に通用しているのです。
〇育つ環境と声
声は育った環境に大きな影響を受けることを確認してみましょう。
育つなかであなたの声は多くの人の影響で変えられてきたはずです。特に、よく会う人、とても関心を抱いた人(好きな人)、キャラの際立っている人、特徴のある人の声は、あなたの声の形成に大きく影響しています。あなたの声に関する判断基準、好き嫌いにも関係しているのです。
・親の影響
・学校や先生の影響
・職場の影響
・職業による声の違い
〇方言は声の宝物
しかし大切なのは、この事実よりも、ここからくる考え方です。地方出身だからと方言を気にしていると、ますます口ごもり、もぞもぞっとはっきりしなくなります。堂々と話し、笑う奴には笑わせておけばよいのです。方言を改めるのでなく、もう一つ標準語を獲得すると考えてください。外国語を覚えるよりも楽でしょう。ちなみに私は、方言で話す人を、とても尊敬しています。
〇共通語の必要性
外国語は、恥かく人ほど早くマスターするのです。故郷の言葉を恥じる必要は、全くありません。そのニュアンス、その思いの深さは、標準語が失ってしまった声の、もっとも大切なものをたくさん保っているからです。あなたは、方言をもっていることに胸を張って誇ればよいのです。
ただ、人とコミュニケーションするのは、別だということです。仕事では、各地方の言葉やニュアンスを、いちいち解釈していられないからです。方言のよさを活かしつつ、共通語もマスターしておきましょう。
〇日本語
ときおり、日本語見直しブームのようなことが起きています。日本人は、日本語を大切にしてきました。それは日本を大切にすることだったのです。
たとえば、インドは西欧文明を英語で取り入れたため、いまだに20以上の公用語があり、少し離れると、英語でしか共通に話せません。そのため、欧米との仕事はしやすくなりましたが。日本人は、日本語に世界中の言語を翻訳し造語してきました。情報習得量が、膨大に上がりました。こうした先人の努力に、頭の下がる思いがします。
歌唱論(Ⅱ)☆
○理とスタンス
「歌は時代と人とともにある」と思いつつも、日本の歌や声の力の弱体化をみてきました。結局のところ、流行したり売れているものは、何かの理があります。それを他のところ(たとえば国外)や他の時代(昭和以前)と比べて、評したところで、しょうもないのです。その理の正体を見据えて対さなくてはならないのです。日本の歌には、そういう人の存在感も希薄です。
批評家を気どるのではありませんから、私は歌や演技だけを単体として評することはしません。トレーナーという立場と、批評家、プロデューサー、客はスタンスが違います。私は「今、ここで」よりも「将来いつか、どこかで」を本人の可能性の軸の延長上においてみます。歌だけを吹き込まれたテープを送られても、本人のことを何も知らずに評することはできません。レッスンをする立場での可能性や限界について、本人の目的、レベル、表現活動において、声をみます。
「プロになりたい」といらっしゃることが多いので、立場上、「プロとは何か」、「どういうプロか」という問題を本人と共有をせざるをえません。プロでも、レッスンに訪れる人は、もっとプロらしいステージをというのがトレーニングの目的となるので同じことです。それは、今の日本、世界はもちろん将来を本人を中心に見据えていく力を必要とします。
〇絶対基準
基礎トレーニングについては、声楽をベースとした体、呼吸、共鳴、発声でよいときは、トレーナーに任せています。表現についての問題は、複雑です。今の日本では、さまざまな事情を加えると、なかなか判断ができないのです。
私は「声からの絶対基準」と「表現からの絶対基準」をベースにしています。ここで「絶対」というのは、時代や国を問わないということです。本人の資質をベースに最大の可能性=オリジナリティで問うということです。
しかし現実には、仕事になるための「今、ここで」=「21世紀の日本」「客やファンの求めるもの」でという相対基準、外から求められるスタイルや能力に合わせるという基準を配慮せざるをえないのです。そこを超えたところでは、思想、価値観となります。
総合力としてのオリジナルが評価される今、声での創造力においてのオリジナルでやっている歌手は、ほとんどいません。トレーニングで教えられるもの、育つものではないからです。となると、精神的サポートが中心とならざるをえなくなります。
○日本のゆがみの構造
日本人における「二重構造」は、今もクラシックもポップスも音楽業界に根強くあります。欧米人と同じ教育を受けることを最上とし、欧米人の感覚で評価してきた流れのことです。ロックやへヴィメタルなど、洋楽しか聞かず、洋楽しかやっていない人にも多いですから、クラシック、ポピュラーに共存する問題といえます(楽器では幼少から行われていますが、歌では難しいでしょう)。
「本物は本場に近いほど優れている」「向こうの人が認めたら本物」というものですから、評価は楽です。向こうの誰かに近いかどうかです。そこには、世界を席巻した欧米の声楽やポップス歌手だけでなく、作曲家や演奏家も含め歴史と実績に支えられているわけです。世界の覇権者の推移(モンゴル→ポルトガル、スペイン→オランダ→イギリス、フランス、ロシア→アメリカ)と無関係ではありません。文化や芸術も世界と連動してあるものです。
明治維新以降、上からの音楽教育改革によって、西欧にシフトし、戦後さらに欧米化した日本では、今でも音楽教育は欧米に追いつけ追い越せなのです。世界支配のための戦略として、宗教と武力を用いた欧米人のやり方は、プログラム化され、世界の欧米化=グローバル化を促進しました。
私が研究所を運営するのに、トレーナーを声楽家中心にしたのは、そこに一個人に左右されない基準があったからです。この基準を、私は自分の基準と相対化させています。
〇未熟という独自性
オペラは、世界の観客を熱狂させた、一部の天才の能力にのっかってきたのも事実です。200年も前の、遠く離れた国で権勢を誇っていたものが何一つ疑問を持たせず東洋の島国、日本で伝承され、保持され、存在していることを否定するつもりはありません。ラテン、カントリー、ロックからヒップポップ、ハワイアン、フラメンコまで、どの国よりも柔軟に世界中のものを集めて、楽しんでしまえる日本人の許容度の高さは、歌に限ったことでないからです。スポーツや舞踏だけでなく、工業製品からクリスマスなど宗教まで受け入れアレンジしていくのは日本人の能力でしょう。こうなると文化、宗教の定義さえ日本人の場合は特殊となります。
本来のオリジナリティは、文化や風土に触発されて生じ(地に足をつけて)、高度な域に高まるものです。その資質の上に表現が生じてオリジナリティとなると思います。なのに、日本では本人の上でなく、斜めや横の方に開かれてしまうことが多いのです。そのいい加減さ、未熟さにも、よし悪しがあります。
一流の職人などではありえない、その独自性の完成について、歌の場合、歌手は(俳優、声優やアナウンサーなども含め)本人不在のままにパッケージ商品化されてしまいます。その矛盾に対して誰も指摘しないことです。
というより、プロデューサーはじめスタッフなど、まわりはむしろ、それを促進していく構造になっているのです。つまり、判断がなされているのに、その基となる判断基準がゆがんでいる。客についてもいえると思うのです。未熟をよしとする文化の歌が、代表になりました。
○まねから総合化へ
「欧米には、世界の人が憧れるすごい文化がある。同じことを日本人がまねてくれたら、向こうに行かなくても見たり聞いたりできる―。」
歌唱、演劇に限らず、多くの分野でこうして模倣が生じたのです。宝塚歌劇団、劇団四季も、ステージ側、観客ともその構造下にあります。日本のシャンソンが向こうのものを日本語で歌ってヒットしたようなことです。その点では、そういうジャンルのトレーニングやレッスンに声楽の基礎を学んだトレーナーにつくのは意味があります。
日本人は、プロデュースした人や世に出た人が、それを元に日本人向けの基準を本人の好むところの狭い範囲に定めてしまいがちです。それが結果として、本来、自由であるべき声や歌まで限定をかけてしまうのです。それを受け入れ続けるのも鈍いのですが…。
そして、それがマニュアル的な指導をつくるのです。早く、うまく、人に見られて恥ずかしくないように、ミスのないようにするために、正しくうまくの形づくりです。形で示されるとわかりやすいため、歌唱も再現芸術になり下がります。結果、リアルなライブでなくなるのです。これを安易に誰でもできるようにビジュアルと装置化して、日本独得のステージ技術が発展したのです。まさに「カラオケ」的といえます。声や声の表現である歌や歌の表現のストレートさ捨てて、能のように複合芸術化をしたのです。
〇ビジュアル化と声の弱化
昭和のころまでは、歌も世界を目指し、欧米とも張り合おうとしていました。二番煎じに甘んじつつも日本人のオリジナリティ対して、探求もされました。ただ、結果からみると、声でなく作曲、アレンジ、演奏、ステージ技術での発展が顕著でした。
世界的にもビジュアル化へしていきました。そのためにクールジャパンとして日本は肯定され、高める必要も失ったのです。
「私たちからみて、今の若者のだらしない会話の声や発声が、そのまま使われているカラオケやJ-POPSが、ポップスとしては、日本人らしくてよい」と私が言っていたのは1995年頃でした。
日本人のもつ特性について掘り下げて考えるとよいと思います。私は、その頃、歌に表現力が感じられないから、モノトークとしてせりふでの表現力に戻してレッスンに入れました。今はせりふの表現力でさえ取り出せないレベルになりました。声を支えるフィジカルやメンタルが、弱化し続けているのです。メンタルについて問題と私の考えは「メンタルはフィジカルから鍛える」で触れました。[fukugen 2012/10/01]
○ビジネスの声の弱化
私は早くからビジネスマン相手にヴォイストレーニングを行っていました。しかし、日本のビジネス界で、本当に相手を論破できる声が必要なのかは疑問でした。声をパワフルに使えているのがよいというのはオーナーや一匹狼のセールスマンくらいではないでしょうか。
「大きな声を出せるように」と頼まれていた研修も、「心に伝わる声、相手に好ましい印象を与える声」のようなものに変わってきました。
声は、戦国の武将の時代をピークにして、武士→軍人→会社員(モーレツサラリーマン)と弱体化してきました。
もう弱いために「語尾まできちんと言えるように」、「何をいっているかわかるように滑舌をよく」というレベルで
す。日本の公の場での言語環境の歴史については改めたいと思います。
オフィシャルな場での最低限の声、声かけ、挨拶、電話、会議、プレゼンにも欠く声が当たり前になってきました。幼少から成人するまでの日本人の発声総量(大きさ×時間)は大きく低下しているので、当然です。
〇音声のリーダー喪失
体や心の弱化について、コミュニケーションの問題から取り上げます。一国の人々の声力(言語力―広い意味での)は、その国のトップの声でわかります。日本の首相は、世界で何位くらいでしょうか。伝達力としては間に合っても、敵を説得する力は乏しいようです。
これまでも、かなり声力のひどい首相がいました。日本は、音声での説得力でリーダーが選ばれる国ではないのは確かです(首相であった人々、田中角栄、橋本、小泉、中曽根、大平、麻生、菅、細川、安倍などの声を比較してみましょう。各国首脳、たとえば、アメリカの歴代大統領、クリントン、オバマ、トランプほか、女性首相なども)。
相手をやり込めてまで意見を通そうとする説得力、言語力、論理力、声の力が、それほど日本人に必要なかったということでしょう。
福沢諭吉がスピーチを「演説」と訳したあと、自由民権運動と議論が高まりました。そこから団塊世代の学生のときの安保闘争や赤軍派の挫折などを経て、少しずつ、言語の信頼が喪失していきます。今の若者は喧嘩もしませんが、討論もしないでしょう。
〇個性化と日本人の声
私は1980年代までは日本でも個人化(個性化)、表現化が進むと、音楽はアコースティックにオリジナルな表現がより強くなると考えました。現実は逆となり、研究所は1995年に得たライブハウスを2002年に手放しました。
少子化はともかく、若年層の保守化、メンタル、フィジカル面での衰えがこれほど大きくなるとはと思わなかったのです。大きなモノへのあこがれや、大きな欲求の時代は終わり、ささやかな差別化に精を出すようになりました。それも豊かさの一面なのでしょう。安全ゆえ政治は軽視され、有能な政治家は出なくなります。世界に出ていけるアスリートは、戦前教育のようなスパルタの親が育てているといえます。
○状況共感時代へ
歌手の集団化、スターをつくらないシステムが、日本らしい成功をおさめているといえます。そこでは、演出家、プロデューサーがアーティストです。テクノや機器でしか世界に出られない日本、SEやアレンジャーがアーティストのステージ、客が主役のフェスティバル・コンサートと、アーティストのカムバックブームからAKB48まで、シンプルな図式がみられます。
デビュー曲にインパクトとオリジナルの表現力の出ていた有能な歌手が2、3年たつと、ありきたりの歌い方になります。海外から戻り、日本のステージをやるにつれインパクトがなくなるMCが多くなり、客に寄り添う共感型(ブログやツイッター型)になる、それが日本のもつ文化でしょう。それを打ち破るべきアーティストがそれに迎合してしまうのです。
〇対人スキル
欧米でのリーダー、スターは、ステージ上から自分が思うように客を動かせる人です。感動させること、未来、あるべき姿を伝える人です。歌手も役者も、牧師もゴスペルをみたら同じとわかります。ヴィジョンによって人心はまとまり、盛り上がり、行動します。狩猟の手順でもあり、家畜や奴隷の支配の方法にも通じます。
そのために声を使うのです。正確に論理的にことばを使い、相手を説得します。正論をもって人を説き伏せます。
民族の交わるところで鍛えられた人の対人スキルのレベルの高さです。私は、外国人に接するごとに、驚かされてきました。言いたいことは言い、くだけたり、脅したり、褒めたり、諭したりしつつ、目上にも目下にもフレンドリーで変幻自在なおしゃべりで、当初の目的を達成します。
私たちが、立場をふまえ、相手をみてその出方に気遣い、反論を避け、雰囲気をこわさないように努めるのとは対照的です。彼らからは、そういう日本人の「和」の文化は、あいまいで、「どう考えているのかわからない」となります。何も考えていないのです。日本語もそういう性格を持つ言語です。この一例として、私は日本のシンポジウムで最後に必ず対立が解消されたかのように終わること=日本特有の儀式としてみています。
〇日本語の弱点と場の空気☆☆
日本語を使わない方が外国人だけでなく、日本人同士でもはっきり意思を伝えられます。日本語よりも強く声に出しても相手が傷つかないからです。日本語は相手を気遣ってハッキリと意思を伝えない言語、かつ音声の使われ方までも弱く、あいまいにして、それに従っているのです。私は、愚かなきまりと思いつつも、楽天などの英語の社内公用語化のメリットをここにみます。
日本語のことばのあいまいさは、取り上げるまでもないことでしょう。でも、「はい」は、yesでなく、「はい、聞いていますよ」ということです。「わかりました」も同じです。「もういいよ」「いいですね」は(よくないよ)です。
侵略され、ひどい目にあったことがないから、ことばに寛容といわれます。イヌイットやモニ族(ニューギニア)など、世界では少数です。
謝ることで責任を徹底して追及され悲惨な目にあった経験がないからです。
農耕民族で同質性が高く、以心伝心で「察する」文化といわれるゆえんです。場の雰囲気や面子をたてるため、思いやりにあふれ、情緒的といわれます。
場という集団的な雰囲気=空気に逆らえません。鶴の一声に逆らえず、問題が大きくなるまで止められず、それがしばしば、悲惨な結果を招いてきました。
それでも責任者は追及されないのです。第二次大戦も原発も、今の政治支配も同じ構造です。
厳しくジャッジする第三者がいないのです。日本は司法をもマスコミも第三者でなく、政党も一党です。
中根千枝氏が、「たて」の構造社会で指摘した自分と身内をウチ、それ以外をソトとする構造です。他の国のように「自分(自我)―他人」でなく自分は場(自分、まわりの人)、人と人の間にあるのです。
〇大道芸と宴会
コミュニケーションとは、見知らぬ人、育ちや考えの違う人への説得ツール=言語となります。自分の考えを意識化して、言語化して伝えなくてはいけないから、言語=論理になるのです。
ステージも、この個と説得する相手としての客の対立図式です。通りで箱の上に乗って、通りゆく人に呼びかけて、その人の足を止め、そこで聞かせ続ける大道芸人型です。
それに対して、日本では、歌は内輪のもの、宴会芸です。カラオケも前者から発展した後、この形に落ち着いたわけです。客=ファン=身内=場なのです。客は、従順で安心、安定した存在ですから身近なMC中心がよいのです。「勝負」でなく「共感」の場なのです。お互いに気遣い、よい感じに終わらせます。日本では、不調でキャンセルするアーティストはとても少ないです。「熱が出ていますが」でも出るのが、レベルが落ちても支持が得られるのです。いわゆる「甘えの構造」です。
〇日本人は会話だけで対話がない。
今の時代、日本で、観客の想像にゆだねるアングラ劇や不条理劇は成立しにくいです。楽で安心して見られるミュージカル仕立てが流行するのです。歌もインパクトがあり、声がよく歌がすごいのよりは、身近に感じられるステージがよいのです。叫ばずにつぶやく(ツイッターやニコニコ動画)にも、無記名(匿名)であんなに書き込む努力ができるのは日本人だけでしょう。
これは今に始まったことではありません。クールジャパンの一端をなすのです。
日本人の海外の文化の柔軟な取り入れは、日本語の成立をみても明らかです。中国語や英語が和語と対立は起こさず、二者択一を避けて全て受け入れてから、自然な流れで選択されていくのです。カタカナでの外来語受容は特殊なものです。一方、インドなどでは、部族言語が多すぎて共通に使える英語に頼るため、英語力がつくのです。
○声のオーラ
私は、世界が日本のようになるのが理想です。しかし、現実には国家単位とその対立で世界が成立しているので、日本人も21世紀前半はナショナリズムに立地せざるをえないと思っています。そのモデルとしての他民族社会の世界、アメリカ合衆国に幻滅し、ユーロ圏も崩壊していくでしょう。まだまだ時間がかかるし、危険も大きくなりそうです。
必ずしも世界中が日本のように子供っぽくなるのがよいとは思いません。それが平和ということなのでしょう。世界には日本たるようアピールすることに努める力としてクールジャパンをみています。女子供化、メンタルもフィジカルも戦えなく弱くなったら…です。多くの国はそれで滅びました。
私は言語としての限界を日本人らしくよく知っていたので、それで示される世界よりも音楽や声を重視してきました。日本の歌はストーリー、歌詞、物語重視です。それゆえ、その他での完成度が低く、声もいまいちです。
今のミュージカルやJ-POPSにも「立派な歌詞」のうさんくささを感じています。でも声力が歌詞を上回れば、ことばを超えた音楽となり、その問題はなくなります。スピーチでさえ伝わるのは、ことばや内容を支える声のオーラでした。
日本のアーティストは概して草食系です。その理由もわかるでしょう。歌詞の部分でも、自分―他人でなく、自分=身内(場)で成り立っているものが多いのです。半面、欧米の弱点は、自分―他人の対立での孤独に耐えられなくなってきていることです。グループカウンセンセリングなどが日本人には考えられないくらい、処方されています。
欧米の設けたリング、スポーツにしろ、アートにしろ、そこでしか鍛えられないとしたら、それは、おかしなことです。
和道、日本の芸の多くは、自分=身内が場でありながら師弟構造を有しています。役者養成所はサークル化に伴い、趣味の場になりつつあります。一億総セミプロ化の時がくると1985年頃言いました。レッスンにおいて、そうなってきているのが現状です。
研究所は、アーティストがアーティストになりたい人をサポートする場“でも”、あります。アーティストとは、世間では、「不要不急」のものを、自らの意思と努力で、誰かに必要重要絶対にまで高めていく仕事をしている人です。
私にとっては、人間が生きていく上で不要不急のものである食糧、水は、こういう状況では、生きるのに最低限あればよいと思っています。無人島へもっていくものと聞かれたら、最低限の衣食にアートを入れる人は、たくさんいると思います。
アートを不要不急と思ったら、どうして、その道を選べるのでしょうか。アーティストをサポートするのを仕事に選んだ人が、どうして、休めるでしょうか。
また、一般の人、趣味で楽しむ人にも、こういうときだからこそ、心身の健康維持、増進のためにも、芸事や公のところでは禁じられた"発声、歌唱に、工夫して親しんで欲しいと思います。
大きな声を出せる環境がなくても、いろんなレッスンはできますので、何でもご相談ください。