110号
○私の考えるヴォイトレの基本に関する注意事項
私がレッスンとトレーニングに求めたこと
1.長期間にみるということ。
2.多角的にみるということ。
3.飛躍を求めるということ。(つみ重ねから逸脱)
4.頭を疑い、体を信じること。
5.ものごとを二極(正誤、よしあしなど)でみないこと。
○10年からの声
どの世界でも、10年でようやく一通りみえてくるものがあると思います。それが体感でき、ものにするには、もう10年かかります。そこで、私はプロとは20年、短くても15年、できたら25年続いて、最低必要条件を満たすと思ってきました。プロということばは、さまざまに使われます。ケースバイケースであることは当然で、「ざっというと」ということです。
私も声を教える、伝えるという立場になって30年になろうとしています。自分で声を使ってきたとなると、生まれたときからです。ヴォイトレで区切って、四半世紀超えとなります。
トレーナーというのは、自分でなく相手をどうにかして何ぼのものです。相手と接して10年、20年先どうなったかをみて、初めて結果がわかるのです。20代、30代でやっていたことは、ようやく40代、50代で結実してみえてくるわけです。
〇声は魔物
ですから、本を書き始めたときの私は、自分のこと以外、いや自分のことも含めて何もわからなかったと思うのです。そういう自分に接して学ばせてくれた多くの人に、特にここの関係者には、感謝してもしきれないくらいです。
ですから今、若い人はあたりまえですが、声という分野に入ってくる多くの人(年齢としては上の方も)をみると、私がこれまで試行錯誤してきたこと、迷ったことなどを、話し出されて、なつかしくも新鮮な思いに捉われることがよくあります。
声というのは魔物のようなものです。正体不明、誰もが「捉えた」とか、「わかった」とかいっていながら取り逃がしているものです。大事に見張っていたカゴが開いたら空っぽということもよくあるのです。
そのあたりは、今では、「その人がどういうことを質問するか」で、大体わかります。
ここにはけっこうな肩書やキャリアをもった人もみえます。しかし、案外と声については、その指導についてのプロセスや結果の検証からみると、まだまだ未熟です。
声については専門家がいないのです。医者は身体の専門家ですが、発声となると素人、表現になると素人以下の人も少なくありません。身体の専門家として人を診ているキャリアから私が教わることは山ほどあります。ただ、彼らのなかには、10年20年と、音大の先生と同じく、20代から勉強(知識、理論)してきたと、固まってゆずらない人も少なくありません。
舞台に関わる私たちの方が、表現を通じて声からは多くを学ばされているのでしょう。
○現実の表現からみる
演出家や映画監督、出演者と言ったプレイヤーは、表現の判断の専門家です。その舞台裏がのぞけるのは、私の役得です。
優れたプレイヤーほど、一般の人の声の問題について、学びにくいといえます。プロとしてプロ中心に接している人は、なかなか社会の問題に触れる機会がありません。
私のところは、声楽家をトレーナーにしていますが、彼らはここで初めて世間一般の現実のレベルでの声の問題につきあたります。音大では音楽的、声楽的にすぐれている人はいても、一般社会で困るような声の劣等生はいません。そんな人は学校に入れません。
健康な人もそうでない人も、伸びる人もそうでない人も、たくさんの人が、私に多くのことを学ばせてくれました。そういう面では私の方が多くを知り、体験してきているわけです。
役者、声優、お笑い、邦楽、エスニックなどについても、それぞれ専門家ゆえに声の問題には疎く、ここに研究にいらっしゃることになるのです。それでも5年、10年はひよっこというような世界の人にいらしていただけるのは、この研究所ならではの、ありがたいことだと思っています。
ここでは、いろんな分野での専門家といわれる人たちのアドバイス(考え、意見)、判断(診断や治療)も、共に検討していくようにしています。毎年400名以上を声や表現でみてきた私とのコラボレーションの実践です。専門家や私でなく、本人を中心にして、どのようにみていくのか、どのようにしていくのか、どう支えるのかが問われているのです。そこでは知識や理屈よりも思想と実践です。どうも今の日本人はどんどん頭で考え、理論や客観的な知識の方に寄っていっています。本質を見失っていっている感を否めません。それゆえ、社会や時代の問題とあわせて、切り込まざるをえないのです。
○教えて育つか
体から声はその人なりのものとして発現しています。自分の体と他人の体は似ているようで異なっています。
トレーナーは他人の体を扱います。そこに入り込み、自分の体とのギャップから、それを埋める手段をメニュとして提示します。多くは自分自身が手本、見本にならざるをえないのです。
表現者たるアーティスト、歌手、俳優、アナウンサーなどのベテランは、先輩アドバイザーとしてはよいわけです。しかし、自分の体というものがあるために、なかなか他人の声のよき指導者となれないのです。
技量やキャリアとしては優秀な先生が、自分の半分の力にも、生徒や弟子を育てられないことが多々あります。生まれや育ちに加え、日常生活の環境や習慣のなかに、つかっているだけに、歌手や俳優は、天性に恵まれていた人に学ぶのは難しいのです。昔は住み込みの弟子入りが、すぐれた養成方法としてありました。
私も、1990年代、365日24時間、ほぼ2年間の養成所体制を意図しました。全寮制をよしとする欧米の考えにも似ています。すぐれた指導方針とある意味で選ばれたエリートで構成しないと、大体はサークル化するものです。今の日本の大学が、よい例です。スポーツのようにタイムや勝敗で結果が出ない世界ゆえに、判断の基準や何を価値とするかという問題が大きくのしかかってきます。
〇歌手とトレーナー
トレーナーとしては、表現者として、あまりすぐれなかった人のほうが優秀なことが少なくありません。すぐれたフィジカルトレーナーには、アスリートとしての可能性をけがや病気のために、若くして断念した人が多いと思われるのに似ています。
特に歌手では、我が強くなくては一つの世界を築いたり、保ったりできませんから、どうしてもその傾向が強くなります。それゆえ、私は、歌手にはトレーナーを仕事として両立させることをお勧めしません。
実際に私のところにはいろんなところからいらっしゃいます。そこをやめてくる人いれば、続けながらくる人もいます(第二期は、私のところだけに在籍しているという人が8割くらいであったのに対して、今は5割を大きく割っています。外部との共同作業として、研究所の指導を考えているのは、ここ10年のことです。おかげで多くの情報が入ります)。そのときによくみると、歌手やプロデューサー(として成功した人)などが教えた人よりも、あまりそういうことですぐれなかった人の方に教わった人の方が基礎ができているものです。
○あいまいを観る
声とヴォイストレーニングの分野は、あいまいです。トレーナーといっても、専門家という資格も基準もなく、出自もやってきたことも、方法も判断も、知識も理論も違います。声といっても広範な分野をカバーするので、それぞれに自称しているだけです。医者(音声医、耳鼻咽喉科)、声楽家、作曲家、プロデューサー、俳優、声優、アナウンサー、ナレーター、話し方のインストラクター、講演家、講師、さらに噺家(落語家)から邦楽家(長唄、民謡)ビジネスマン、政治家と声を使う人ならトレーナーとして教えられるものをもつのです。誰でも先生になれます。
歌手も俳優も日常に根ざしている歌や話を専門とします。しかし、誰もが話も歌もたしなんでいるからこそ、特別な勉強もなくプロになれる人もいるのです。
その違いとなるとあいまいです。ヴォイトレの必要自体も、あいまいなものです。それにアプローチするのが目的で、こういう話になるのです。
たとえば、声がよくも丈夫でなくとも、克服してよくなった人が、体に詳しく、そこからアプローチして声にせまるのは、当然です。一方で、歌手や俳優は、大体は体力、集中力があり、健康な体をもっています。そのようなアプローチなくとも歌唱や発声にすぐれています。となると、どちらがよいとか正しいということではありません。
○「できる」と「うまい」
いつも私は、あなた自身が、具体的に詰めていくために、必要なことを述べているつもりです。個別にしか成立しないと思われている個人レッスンで、何名もの出自の異にするトレーナーと一緒に行っているのもそのためです。
1.あなた自身のこと(体、感覚)(生まれ、育ち)
2.あなたの目的のこと
1が基礎、2が表現です。この2つを抜くとヴォイトレは、あいまいになります。
人間の体としての共通要素のところでは「できた―できてない」という基準をつけると、基礎としての集団トレーニングもできます。レクチャーや文章でも伝えられることをこうして述べています。
歌や演技でのせりふとしても、「うまい―へた」くらいは、共通に望まれる表現を目的とするなら、大きくは同じような指導方法がとれます。
私はカラオケ教室やその先生を批判しているのではありません。
問題とすることが違います。私の考える基礎や表現に「できた」とか「うまい」ということが入っていません。
プロになれるのとプロとしてやっていけることは違います。オーディションに通るのと、作品で一流の実績を残せるのは違います。レベルも目的も、問われる条件も違うものです。多くの人は、その一歩としては同じと思うのです。私は違うと思うので、この問題は後述します。
本やネットでも、ヴォイトレに対して、意見や考え、ときには熱心な議論が行われています。質疑応答も行われています。私は関与していません。本人不在では、ほとんど意味がないからです。
この分野で本を出し、ヴォイトレのQ&Aサイトを提供している私がいうのですから、説得力はあるでしょう。
なのに、この連載も含めて、いつも述べ続けているのは、そこからあなた自身のこととして考えてほしいからです。これは研究所内外での私の仕事とも密接に関わっています。私には毎日の仕事や生活の一環です。
○情報論
今の時代、情報はたくさんあります。それぞれが違うと迷うでしょう。ですから何かを決めたいなら、情報をとりすぎないことです。質のよい少ないで判断します。
私のところでも、質問に1人のトレーナーが答えると相手は満足します。そのとおりにやるでしょう。私のところのQ&Aは、似た質問にいくつもの答えを出しています。「トレーナーの共通Q&A」は、ここのトレーナー10人以上が同じ一つの質問に、それぞれ自由に答えたのをそのまま載せています。
「どの子音でトレーニングすればよいのか」について、この研究所のトレーナーでは結果として異なる子音を使っていました。
あなたは混乱するでしょう。明らかに矛盾します。どれが正しいのでしょうか。どれが正しいのか私はわかりません。
あなたに来ていただいて、あなたの現状をみて、その目的を聞いて、どのようにそれらの答えを考えるのかを、アドバイスします。これが研究所での私の仕事の一つです。
あなたに問われても正解は与えられません。あなたは、他の10人のトレーナー一人ひとりに聞きますか。答えは一致しないでしょう。結局は自分自身に問うしかないのです。そして自分自身の答えを、あるいはやり方を見つけていくために、レッスンをしていくのです。もっとも大切な判断のもととなるものを学ぶのです。
〇問いをつくる
ここのトレーナーを方法やメニュということにおきかえてもよいでしょう。
私は読者に「答え」でなく「問い」を求めるようにと述べています。レッスンにも研究所にもそのように対して欲しいと言い続けています。多くの人は、本やサイト、レッスンに正しい答えを求めようとするのです。買物の、「価格コム」や「よい商品や店を教えて…」なら、答えを聞けばよいでしょう。ネット社会はそういう情報、知識をすぐにくれます。でも、表現や声は違うことを知ってください。知ったところで何ともならないのです。
ただ一人から、たった一つの答えを聞いて、それを信じるなら、それはもっとも強力かつ早く、すぐれたことかもしれません。私は情報でなく、それを発する人をみます。その人が偉いとか、知名度や実績があるということと、その答えが自分に役立つということはイコールではありません。一般的には信用できる何かがあれば、匿名などの身元・実績不明の人よりは信用できるでしょう。長年やっている人、キャリアのある人、本人の実績のある人などがいます。
大切なのは、一般的に信用できることと自分自身にとって、ということです。表現、一流の作品、オリジナリティということになると、一般的によいという基準は、役立たなくなるのです。
〇カラオケとプロ
カラオケのうまい人が、プロになれないのはなぜでしょう。「カラオケにうまくなっていくのは、プロに近づいていく基本の(あるいは最初の)一歩」ではないからです。そこで、元プロか現プロのカラオケの先生、つまりプロになれなかった、あるいはプロになっても続かなかったカラオケの先生について学ぶことをどう考えるか、です。
私はそういうところの教え方を、慣れることにおいては、いいと思います。しかし、あまり勧めていないのは、本音でいうとカラオケでうまくなるのと、プロとは逆方向と思っているからです。
条件づくりと調整との違いです。カラオケというのは調整だけの方が、早く大きな効果が上がるからです。ヴォイトレも効果を早く、求められるとトレーニングでなく、調整になりがちです。実際、多くのトレーナーは、そういうスタンスでレッスンしているのです。
○知識よりタイミング
一般的には情報も考え方も方法も、たくさんあるのが、よいと思います。しかし、整理できないと、いつも迷ってしまいます。自信がもてなくなりかねません。
最初にあらゆることをアドバイスしようとするトレーナーは、未熟でよくわかっていないのです。私は採用しません。あとでそうなってくることもあるので、折をみて注意します。そういうレッスンで相手は知識欲がみたされ満足します。実際にトレーニングとしては、進展していかないからです。
こういうことを頭で勉強したい人が増えてきたので、トレーナーとしても対応をせまられることがあります。それがどういう位置づけか、スタンスかを知らないといけません。そうでないとトレーナーも生徒も、中学校でやるようなことがレッスンと思ってしまいかねません。
レッスンで大切なのは、伝えるタイミングです。本人が受け身から主体的になり、聞いてくるのを待つ、あるいは聞いても仕方ない(とはいえ聞いてみるのはよいことです)と思い、問いを自らに向けて答えを試しにくるように導くことです。トレーナーに必要なのは、信じて待つ力、忍耐強さです。
〇主体的に補う
私のレッスンのスタンスは変わりません。はじめは表現よりも基礎を、今は、人により基礎より表現を中心にすることもあります。基礎は、トレーナーがやるからです。この分業体制を無視して、私のレッスンを部分的と思う人もいるので、最近はそういうレッスンをアドバイス・レッスンとしました。
基礎はピアノをひいているだけ、グループではすぐれた歌をCDで聞いて、2、3フレーズをやってみるだけ(相互に聞き比べ、自分なりに調整していく)表現は、フレーズを歌ったり、せりふで言うだけです(1コーラスのこともある)。
「~だけ」というのは、後は本人に補わせるためです。
レッスンでは、何よりも主体的になることです。それができるまでには、時間がかかります。かなりの個人差もあります。本人がそこで、私(やまわりの人)の心を動かす表現を声を問うのです。
表現というのは、色づけがされた声(オリジナルフレーズで、くせや個性が入る)です。基礎は、応用性の高い柔軟で変化に応じられる声です。それは無色です。本人が主体、トレーナーはサポート役です。
自分のもっているすべてを早く教えてしまおうとトレーナーが頑張ると、授業パフォーマンスが作品、生徒は観客となってしまうのです。「先生みせてよ。すごい」これでは本末転倒なのです。
〇教えたいと教わりたい
まるで中学校といったのは、日本の教育とは先生に教わることと捉われている人への私の忠告です。パフォーマンスをみないと信用できないという人もいるから、やっかいなのです。クリエイティブな現場では、トレーナーは自分のもっているものを出すのでなく、一刻一刻と相手に欠けているものをとり出すアプローチを発想できるかを、問われるのです。
ヴォイストレーニングを、どのように捉えるかも人それぞれにあると思います。カラオケ教室や英会話スクールにさえ、広義にはヴォイトレと考えられます。
まとめておきます。
現実対応―表現
自分―発掘―基礎
○初期化
私の思う歌手というのは、劇団員のようにはなれないとわかってから、今の体制に舵を切ったのです。そこまではOBや在籍した人にサブトレーナーを任せていました。生え抜きとプロデュースしたトレーナーとは、一長一短です。私は異質な集団でカオス状態にする必要を感じていました。私自身、多忙で、裸の王様状態になっていたので、ここを壊すか、離れるかも考えました。
我流のブレスヴォイストレーニングということに、こだわっていたのですが、歌という表現を取り巻く環境の大きな変化と、ヴォイトレの一般化の波にさらされたわけです。
日本では歌手という入口から、俳優やタレントになります。歌手はシンガーソングライター、アーティストである限り、そのような職名、属性はどのようでもよいのです。
20代中心の、理想としては、全日制的な体制は10年以上、つづけたものの、維持しにくくなりました。外からどう見られようと、内に人材がいるのか、育っているのかが、もっとも肝心です。踏み台のはずの私が、ヘッドに君臨するのはよくなかったのです。
ブレスヴォイストレーニングが、本来の基礎となるものなら、どのような分野や表現とも、他の人々とも、融合していくはずです。福島式とつけなかったのは、ブレスヴォイストレーニングが自由に変化していくように、という思いだったのです。
今では、試行錯誤ながら、いろんなところと提携し、邦楽から、喉の病気の人まで、それぞれにレッスンを成り立たせています。iPS細胞のように初期化したといえるのです。
〇変化と思想
ここに至るには、試行錯誤、うまくいかないことの連続でした。常に第一線で、全てをさらしていったからこそ得られたことが大きかったのです。多くの批判や叱責とともに、より多くのすぐれた人との関わりでできていったのです。
今の私ならとてもやれなかった、やらなかった、無知ゆえの活動が、多くの人や組織を巻き込みました。どこよりも多くの情報と多くの人と多くのトレーナーと多くのやり方も含めて、ここまで変化しました。ここを変えさせ、進化したのは思想であり、今もその途中にあると思います。
研究所をつくって、ようやく研究すべきテーマや方法、それに必要な技術やスタッフ、トレーナーがそろってきました。それが正直なところ、この10年の歩みです。他の人に協力を求めたり教えてもらうためには、内部がきちんとしていないとなりません。ライブやプロデュース志向の第二期には、養成所であっても研究所ではなかったのです。
○創造と環境づくり
このように研究所のことを語るのは、トレーナーに教わるという姿勢から始めたとしても、一人ひとりが自分の声、自分の表現の研究をして、独自に研究所をつくって欲しいからです。
私は、環境と習慣を変えていく、その必要性を、いらっしゃる人に話しています。
自分を中心に自分の目的を達成するのに必要な環境を整えていくこと、その一環として、ここを使って欲しい、と。昔からそのためにここを変えていきました。ここをあなたのために役立てて欲しいと思ってきました。
役立たないなら役立つようにして欲しい。やめることや休むことも含めて自由です。
表現のもつ力は、人のいる場を変えます。ここはその変える力をつけて、試すためにあったのです。養成所のときに「あなたがここを変えないなら、あなたのいる意味がない」と言いました。
教えてくれないと学べないような人が多くなると、今の日本の縮図のようになるのです。いつでも研究所や私やいろんなものを変えてきた人に多くのことを学べたはずです。充分にそれを試行錯誤する環境があったのです。
立ち上げの頃はゼロでしたから皆が創りました。最初のスタジオは、建物のペンキ塗りまで生徒がやりました。そこからライブスタジオが実現して、疑似ライブまで開催されました。すると、そこを利用したい人、創造でなく消化する人が多くなってきたのです。
そういう人は、創造する努力を怠り、ものごとを否定的にみます。その結果、チャンスがなくなる。つくっていく人が現状を変えるのなら、つくらない人も現状を変えていく。日本の戦後の、進退という2つの歩みが、この研究所でも起こるのです。
○なるようになる
創った作品を聴きたいと思うから人が集まり、聴きたくないと思うと人はいなくなる。私が皆の声(歌)を聴きたいと思ったから、どんどん聴けるようにしていったのです。そういうものがなくなったら場も機会もなくなるのは、あたりまえです。
私もがまん強く、つぶしはしなかった。再び創るのに相当かかりました。つくっていくよりひいていくことの、ひいて、つくっていくことの難しさも経験しました。
今も昔も、いつも変わりつつあるのです。すべてが変わっていく中に、変わらないものがあるのも、これまた真実です。
真実だけでなく、真実と信じ、変えたくなくても現実には、それを変えてしまわざるをえないこともあります。真実でありたいのに、そのことがそのまま通じないままにも続け、対応していかなくてはいけないこともあります。そういう後ろめたさや反省も、つづれないものかもしれません。
私にカリスマであってほしい、私の方法や言っていることはすべてが正しく、誰もがそれで救われる。こういうことを望んで、それがあたりまえのことですが、かなえられないとブチ切れる、今では珍しくもないのですが、幼稚な人にもいました。
〇研究所のことばと感動
ことばで伝えていることの限界も私は本のなかで述べてきました。頭でっかちで盲目になる。たかがことば、されどことば。本の方法も理論も、そしてトレーニングも自分に役立てるためにあるのです。それを役立てないばかりか、やり始めたときよりもだめにしてしまう。それは方法や理論にではなく、本人の受け止め方、使い方に問題があるのです。声や体のことでなく、考え方や生き方ですから、本人は気づかないのです。声や体は、死なない限り、何とでもなります。私の方法で死んだ人は知りません。
何であれ、心から魅かれて、本物だとか、すごいとか、感動したというのが、大切なことです。たとえ、十代のときだからこそ惚れてしまったアイドルの歌でも、あなたの、その心の感受性は純粋で真実です。それを「あんなアイドルは…」とか「それに夢中になった自分が恥ずかしい」となると、嘘が始まるのです。それを本人は成長したとか、めざめたとか、本当のことを知ったとか、これまでだまされていたとかいうのです。私からみると、向上心がゆがんだだけです。頭でっかちになると眼が曇るのです。
○複数トレーナーに学ぶという考え
前の先生や今ついているトレーナーがだめという理由でくる人が少なくありません。他のスクールなどに移る人の大半がそうでしょう。
私のところは、意図的に一人の生徒に複数のトレーナーをつけています。目的やレベルによって変えていく体制をとっているので、その人とトレーナーとのレッスンの問題がどこよりもわかります。他のトレーナーにつきながら、ここにもきている人もたくさんいます。
私は、20年以上、この体制でみ続けてきたのです(グループレッスンのときも他のトレーナーのレッスンに出られ、他のトレーナーに個人レッスンを受けられたのです)。否応なしに比べられるのですが、それをよしとしました。
ここのトレーナーは、この体制に慣れていきます。通常は、自分がいるのに、他のトレーナーにも習っているというのは、嫌なことでしょう。
私はトレーナーとともに生徒のことを考えています。その結果、辿り着いたのが、複数のトレーナーで一人の生徒を分担する、そのカップリングを第三者がみる、という、世界でもまれなシステムです。
多忙な先生が直弟子にレッスンを任せるのは、よくあります。同じやり方をスムーズに踏めるからです。ただし、これは別の問題を引き起こします。弟子の能力は先生に劣るのと、先生のをみようみまねで行うことになるからです(日本の徒弟制)。
私はあえて、トレーナーに本人独自のやり方を優先させているのです。とはいえ、まったく価値観や考え方が違うトレーナーでは無理です。
自分のことを知り、判断力と基準をつけていくのがレッスンの目的だからです。そのために、他の人の学び方からも学べるグループレッスンから始めたのです。
価値観、考え方が同じでも、人が違うのですから方法は違ってくるのです。同じ方法でやればいいというのがおかしいのです。弟子よりも、出自が違うのに共通した価値観をもつ人の方がトレーナーとしてよいのは、そのためです。ただ、弟子の方が扱いやすいから、日本ではそうなりがちです。
○情報を遮断しない
ここにはいろんな人がいらっしゃいます。
1.他のトレーナーから移ってきた人
2.他のトレーナーにつきながらきている人
他でついているトレーナーには、ここのトレーナーとのレッスンのことを話してかまいませんが、「言わないほうがよいかもしれません」とは言うこともあります。すぐれたトレーナーなら、すぐバレるものですが…、バレるのだから言う必要もないでしょう。私もすぐわかります。他のトレーナーの影響が良くも悪くも一時的に出るから、レッスンのスタンスが問われるのです。
でも、他のところのトレーナーは、慣れていないので不快になり、レッスンの状況が変わってしまうこともあります。よくなるならよいのですが、ギクシャクしたり、厚意的でなくなったり…。でも、私から、ついているトレーナーをやめた方がよいとは絶対に言いません。
必ずしも、そのトレーナーやレッスンに問題があるのではなく、あなたが活かせなかった、それはなぜかの方が大切なのです。どんなトレーナーであれ、レッスンのなかには、プラスのこともあるはずです。それをできるだけ活かそうとするのが、のぞましい姿でしょう。そのトレーナーとのレッスンの年月も救われます。
どんなことにもムダはありません。そのときはマイナスであったようなことでも活かせばプラスです。何事も、短期でみてはいけないのです。
そのトレーナーにもファンがいて、仕事も続いているなら「だめ」とは言えません。「合わなかった」ということでしょう。その違いは何だったのでしょう。
私のところにも、熱心な人は10年、20年と続けています。効果の測定を、洗脳されたというように蔑む人は、あわれなことです。研究所では、いつも内外関わらず、多くの作品や人に会って刺激を受けることを、どこよりも勧めています。
〇トレーナーの批判よりも活用を
トレーナーを批判するのは、およそ一方的なもので、浅はかです。ものごとには、両面あります。批判することも認めるべきこともあるのです。どちらに目を向けるかです。
私は、本を出し続けてきたたので、若くして批判の矛先にも立たされてきました。本を読んで、今までついていたトレーナーのレッスンをやめて、ここにいらした人もたくさんいます。そういうトレーナーがよく思うわけがありません。
どこにも属していないので言いたいことを言っていました。風通しがよくないままでは、この分野も発展しないからです。長年続けていると、日本においては、関係者に迷惑のかかることは避けたいと思うようにもなるわけです。
皆さん、ここに足を運び、確かめにきます。プロダクションや編集者にも現場を見せます。
批判というのは、その人に実利があると執拗なものになります。ねたみ、そねみ、ひがみも相当にあります。当人の前に出て言えるようなことは、ほとんどありません。内容もとるにたらない、とりあげるに足らないから、答えるに値しないのです。
批判やクレームは、実名にて送っていただくと嬉しいです。本については、メールや封書、FAXで。ときに専門家や一般の人からいただきます。指摘から学ばされることも多くあります。お互いのためになるようにと思っています。
○選ぶ力より合わせる力をつける
どの世界でも、多くの人は入口前でたむろしては去っていきます。
移ってくるときに、ここに来る前のレッスンを忘れたがるのは白紙に戻す点ではよいのですが、一方で困ったことです。「これまで」「前のところでは」「大してやっていない」「身につかなかった」と。そのことばをここをやめるときにくり返さないとは限らないでしょう。もちろん、ここでは、これまでにないレッスン、全くレベルの違う目的、プロセス、方法を与えることを目指しています。しかも何段階にもおいてです。
転々とスクールを変える人は、「合うトレーナーがいなかった」「合う方法がなかった」と言います。「自分と合う時間や合う体制でなかった」というのは、深刻な問題です。そこで効果を上げている人がいるのですから「自分に合わせる力がなかった」ということです。
私のところに10番目にきて、ここでも何人ものトレーナーのレッスンを受けて、合わないと言った人もいました。医者から紹介された人のなかにもいました。いくつもの医者をまわって、すべて合わなくて、ここを紹介されてきたのです。こういう人は、合わないと言う前に自分が合わす力をつけなくてはいけません。
〇合わせる力=応用力=仕事力
ヴォイトレの必要性自体、人によって違います。必要なければやらなくてよいのです。まわりはまわり、自分は自分で情報を得るのならそれもよし、勉強です。お金がないなら無料体験レッスンを受けたら、よいでしょう。合うところを見つけたいなら、「合う」という条件を具体化して交渉していくことです。
他にあたるなかで、具体的にイメージを絞り込んでいくのです。一人で悩んでいるよりも、ずっと発展的です。
研究所内ではトレーナーの選択から意図的に促しています。
大抵の人は具体化していけないで「何となく合わない」「合っているのかわからない」で終わってしまいます。普通は少しがまんして、トレーナーと相互に合わせる努力をします。少しずつレッスンができてきます。そして「選ぶ力」となり、「合わせる力」がついてきます。
トレーナーにすぐにピッタリと合わせられるのは、天才のレベルです。人に合わせる力がつくということは、「仕事にする力」がつくということです。プロになっていくのです。
1.初回からレッスンが成立する
2.初回で相手に合わせる可能性がみつかる
判断ができなくて、好き嫌いで動いているうちは、人は魅きつけられません。私も会ったら最善を尽くしますが、初回からわからないこともたくさんあります。そこからのプロセスが大切です。
そこがわからないと、ヴォイトレをして声がよくなっても何ともならないのです。
○決めること
私のところでは世界レベルを体制としてセッティングしてきました。世界レベルで最高のシンガーがきても対応できる体制があります。紹介でいらっしゃることが多いので、選ぶ間もなくピンポイントで決まるので比較できませんが。表現=目的に対して欠けていること、課題がはっきりしている人ほどやりやすいのです。
1.直観で決める
2.たくさん、まわって決める
3.長く試しながら決める
2は迷うから、1も悪くありません。たくさんみると、第二義的な要因が大きくなることもあります。サービスや設備や料金、立地などが、レッスンやトレーナーのよし悪しよりも影響してしまうということです。目が曇るのですね。
直感的に正しかったこと、真実だったことが、みえなくなってしまうのです。
憧れを抱いて、業界に入って現実をみたら失望してやめた。こういうケースも何をみたのか、同じものをみて、どう思ったのかは、人によって違うでしょう。水商売の業界、アートで表現ですから、いろいろとあるでしょう。むしろ、早く失望できた方が先が開ける、いや、自ら選択を迫られ、切り拓けると思います。
私は、多くの人が長く続いているところというのは、それほどおかしなものではないと思っています。
私は、トレーナーの未熟さにも、生徒と同様に寛容です。私もかつてはそうであったし、今もだからです。
○過去に学ぶ
学べているのなら、次のステップにいけます。学べなかったなら、ゼロから学ぼうと過去を封印するより、過去に学べなかった原因を知るのが有効なこともあります。
どこかやめてくる人はうまくいかなくて、前のところをよく思っていない人が多くネガティブなイメージですが多いのですが、私はそのレッスンからも1つプラスに役立つことがあれば、そこを活かすように心掛けています。そうしてみると必ずよいところがあります。
トレーナーにも生徒にも万能を求めるのは、目的が低いということです。何からでも学べるのです。それを絞り込んで、何をどう学ぶのかのレベルを高めていくことができてこそ、学び続けることの意味があります。
〇オープンにする
トレーナーを変えるときも、前のトレーナーに学んだことを活かせるように考えます。有能なトレーナーが去ったときのデメリットは大きいものです。しかし、トレーナーによってその人の将来が左右されるのは、あまりよくありません。
研究所では、マンツーマンで一人のトレーナーの影響しか受けられないようにはしない方針にしています。
本当のところ、トレーナーとのレッスンで行われていることは、第三者にはわかりにくいものです。トレーナーは、あまりオープンにしたがらないし、レッスンのプロセスに他のトレーナー入れたがらないものです。それゆえ、他のトレーナーが学べず、こういう分野の発展が個人のキャリアにしかならないのです。
私は、国内外のトレーナーの考え方ややり方、そこを受けた人の評価のよし悪しも、誰よりもよく知ることができました。研究所は、この閉鎖性に対する挑戦として、一般の人にも多くのトレーナーにも内容をオープンにしてノウハウの共有化をしてきたのです。こんなにメニュやノウハウをオープンにしているところは世界にもないでしょう。それを批判するひまがあるなら、自分のを公開していけばよいのです。いろいろと批判しているようにみえるこの連載は、愛情の賜物なのです。
○学べないパターン
現実に学べている人は、学んだことを感謝して、トレーナーがどうであれ、次のステップへ歩みます。トレーナーがどうであれ、続ける中で次のトレーナー、プロデューサーと活動します。
現実に学べてない人は、学べなかったことを否定して(忘れるようにして)同じことを繰り返すのです。それを学び直すならよいのですが。そこでやめてしまう人も多いし、身についたと安心してやめる人も多いのです。
学べなかったことを自己肯定しているのです。そういう形で次のトレーナーについても実力はつきません。よくあるのは、どこかで調整してもらってよくなったら、これまでのやり方を一転して全否定するパターンです。理論や知識で頭を満たす人は同じく、新理論や新知識におぼれるのです。
次のトレーナーでよく学べたとして、自ら前途を閉ざしているパターンが多いのです。悪口を言う人はこういうタイプです。本当に力がついたら、過去は気にせず活動していくからです。
そういう言動を耳にすると残念に思います。声も歌も人生もうまくいっていないかと、同情を禁じえないからです。
〇効果は出る
エネルギーや時間を自分のために集中して使えばよいのに、他の情報に振りまわされ安易なやり方をとってしまう人も多いものです。
最初の情熱をもって一所懸命に続けないともったいないです。一所懸命にやったことは、すぐに効果がなくても、続けていくと必ず役立っていくのです。ですから安心してください。
トレーニングは効果を出すためにやることです。効果がない、トレーニングにならないならやめればいいのです。ですから私はトレーニングで効果が出なかったという人は、性格はともかく、考え方を変えることと思います。
効果については、主観的なことが多いです。もっと効果が出るべきだったのか、それでも最高の効果だったのかは、わかりません。でも、いつも検証するのです。そのためにトレーニングがあります。そこに一般論や他人の実例は役に立ちません。自分を知ること。自分を活かすことです。
○茶番から
精神論と思われることも多いのですが、取り組みやスタンスに何度も言及しているのは、それがもっとも必要だからです。ヴォイストレーニングなら、何をもってトレーニングかをつきつめなくてはなりません。その必然性も、始点も終点もあいまいなままで、どう判断できるのでしょう。
日常性ということからみると、しっかりと他人と生きて生活しているなら、ヴォイストレーニングのベースは入ってくるのです。その結果が、今の声です。健康に生きていることをベースとして、ただ話すことにも声は充分に使われているのです。
このことがヴォイトレをわかりにくくするのです。それとともに、一部の即効的で目にわかりやすい効果がヴォイトレとして切り取られて、レッスンの目的になってしまいがちなのです。そうした茶番が行われているのが現実です。
たとえば、骨盤の位置を動かすと、腹がへこみます。それがダイエットになる。本当でしょうか。そのくらいのことに何百万人が一喜一憂し、何億円ものお金が動く。日本人のレベルも低くなったものです。
大切なのは、方法でもトレーナーでもなく、あなた自身のセッティングです。今や、フィジカルトレーナーの前に、メンタルトレーナーが必要です。メンタルトレーナーは心身の心を担当しますが、トレーニングの計画管理もします。スタートしましょう。そのあとのステップアップが大切なのですから。
〇次の学びに行くには
「今ここで」学べていると、方法やトレーニングを超えて、「次にどこかで」必ずよりよく学べていくのです。他のトレーナーについても、異なる方法であっても、自分なりに活かしていくことができるようになります。すると、その人は、もっと自分に必要な人に出会うことができます。今のトレーナーときちんと学べていたら、自ずと次のステップへいけるのです。
多くの人は学ぶことの限界へつきあたっていくのはなぜでしょう。学んでいくには、より柔軟に、自由に解放されていかなければいけないでしょう。しかし、学んでしまい、というのは学べなかったということですが、頭でばかり考え、頭でっかちになってしまい、ネガティブにものをみるようになってしまうのです。
これは、どこでも起きることです。どの業界でも、どのスクールでも、そういうものでしょう。一時的にそうなっても脱していけるのか、そこで止まってしまうのかの違いです。
いくつかの壁があって、大体は、その何段階目かで自らの成長をとめてしまうのです。より学ぼうとして、学んだ結果、頭にたくさんのことが入り、後進に対しても知識、理屈は言えるようになり、その結果、自らの成長は、止まります。止まるということは相対的に後進してしまうのです。場合によっては始めたときよりも悪くなってしまうのです。
まわりに自分よりすぐれている人が多いとそれは防げるのですが、年とともに大抵は逆になります。よほど冒険と挑戦をしないとすぐれた人とは、会えません。よほど高い志をもたなければ、知らないうちに、そうなってしまうものです。
○歌の限界を超えるには
歌も、ほとんどが円熟とか成熟という名のもとに汚れ、新鮮なものでなくなっていきます。昔のように、全盛期をすぎ、老いてナツメロ歌手になる頃ならよいのですが、日本ではそれが早く、昔であれば40代、早ければ30代後半で退化していたように思うのですが、今やデビューから2、3枚目のアルバムでそうなってしまうのです。
一つには客の耳がゆるく育っていないことがあります。カラオケで歌いなれた客は、他人の歌を聴く耳がおろそかになっています。☆
俳優や歌手も、ステップアップして大舞台に立つ人は、表現から、反省を強いられるうちはよくなっていきます。他のアートや海外と違い、その表現が、基礎のオリジナリティの延長にないことが、日本の場合、大問題です。
トレーナーになる人は、表現からも基礎からも厳しい追及を受けないところで自分より実力や経験のない人ばかりと接するので、マニュアル先行で直感が磨かれず、先にやってきただけの先生になってしまいがちです。
〇声を学ぶことの難しさ
自分の世界をつくっていくことは、保守化していくことになりやすいものです。トレーニングは、表現世界でなく、そのためのプロセスなので、異なるものです。
人に教えられることが、どこかに属するということになると、表現のための基礎トレーニングが、トレーニングのためのトレーニング、理論や知識の獲得のためのトレーニングになりやすいのです。ことに日本人はそういう傾向があります。
ヴォイトレでは、声の表現をしっかりと詰めていくことです。細かく繊細に、丁寧に詰めていくことがトレーニングに必要です。レッスンで他人の耳を借りて多角的にチェックしたり、アイディアを得たりしていくのです。
声が音声での表現の基礎でありつつも、全てを担っていないということが、この問題をややこしくしています。
歌手にとって発声は、基礎ですが、その習得のレベル、声を占めるその人の表現(歌)に対しての度合は、アーティストによって違います。
だからこそ、私は一見、逆の方向に、音声、表現、舞台の基礎として、ヴォイトレを位置づけているのです。声は歌やドラマのすべてを担っているのではありません。音響技術のフォローや聴衆の観客化によって、声の力の必要性は失われてきています。
しかし、ヴォイトレですから、私は目をつむった世界(レコード、ラジオ)で、耳だけのアカペラでの声力を基準にしています。時代に逆行しようと、そこを外すと声の基準は、とれなくなるのです。だからこそ、表現についてどう観るかの眼も、どう聴くかの耳も両方とも大切だと思うのです。
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