111号
〇トレーナーとアドバイザー☆
現在の日本のヴォイストレーナーは、ヴォイスアドバイザーやヴォーカルアドバイザーにあたると思います。
アドバイザーは、役者、声優、アナウンサー、ナレーター、朗読の指導者で、今ある力を100パーセント確実に活かすために次のようなことを扱います。
1.全体のバランスの調整を仕上げ
2.発音、発声の安定、使い方や応用のアドバイス
3.メンタル的勇気づけ
アナウンス学校やカラオケの先生を思い浮かべるとよいでしょう。
それに対して、トレーナーというのは
1.個々の要素の相違、分析と目標設定、調整
2.心身や発声そのものの強化、鍛練、地力のアップと調整
3.日常でのトレーニングやその管理
これはパーソナルトレーナーを思い浮かべてください。徹底して個々を中心とするのは、当たり前のこととして、多くの研究や試行錯誤の上に専門家として、対処するというのが、違いです(この専門というのが一口で説明できないのですが、実技の経験だけでは無理ということです)。
○白紙にして大きく変わる
体で覚えていくものは、覚えていたらできているのですから、できないとしたら、それを認めることからです。これまでの考え方、やり方、経験の上に、よくも悪くも今の自分の実力があると認めます。それで不足していると感じるのなら、他の助けを借りないと大きく変わらないと考えることです。
そのために
1.目標の基準
2.現状の把握基準
3.1、2のギャップを埋めるためのプロセス(計画)
1、2を明らかにして、そして、3の可能性をきちんと考えることです。
覚悟のもと、自主トレするのなら、可能性を考え、実行あるのみです。
トレーナーとのレッスンとなると、大切な問題は、何でしょうか。自分の体をオペするなら自己責任、他人の体をオペするには、合意がいることです。手術にも100パーセントがないように、声も誰でもどうにでも変わるわけではないのです。
レベルの低い目標や、経験の少ないトレーナーなら、誰でもどんなことでもできるように言うかもしれません。せいぜい、今より多少よくなるくらいでしょう。少しよくなっても目標に到達できるわけではないから、私からみると、それは効果なしに等しいのです。大きく変わるために、他の人を使う、専門家のアドバイスを受けるのです。
○勘と発想
次の3つの原則を頭に入れましょう。
1.誰もをその人が望むようにできるというトレーナーはいない(あなたにとって、トレーナーが仮にそうであったとしても、それ自体、客観性に乏しいことですが、他の誰もがそうはいかないということです)。
2.どのトレーナーもメリット(強味)もあればデメリット(弱味)もある。
3.オールマイティにこなせる人ほど個別対応に弱く、特定のことに強い人は、他のタイプに弱い。
つまり、強い分野や強いタイプがある分、弱い分野や弱いタイプもあります。
これは、十数名のトレーナーとずっと続けている私だから、よくわかることです。
新しいトレーナーに対し、半年くらいは、そのトレーナーの強いところと弱いところ、向くレッスンと向かないレッスン、向く相手と向かない相手を見極めていきます。それは見極めと同様に大変なのです。
その人のその時の声だけみて、毎日どのくらいその練習をするのかがわかるわけではありません。本人がやると言っても、どこまでやるかまではわかりません。
多くの人と長く接していると、自ずと勘が磨かれてくるのです。私がトレーナーとして、いや、トレーナーをまとめて皆さんに提供する立場として、もっとも重視しているのは、こういう経験から働く勘です。トレーニングの現場で見聞きしたり試行してきたことからの発想です。この二つが、もっともな大切なことです。
○うまさと仕事の価値
技術を得たいというなら技術のある人に、世の中に出たいというなら世の中に出た人についていけばよいのです。ただ、歌手というのは、歌手を育てるのに適していないということです。歌手になりたければ歌手を育てた人につくのがよいと思います。
まじめな人ほど声や歌の技術が一番必要と思うのです。それを得たら、プロになれる、ヒットする、歌手や役者で生活できると。まじめな人ほど、名も知れず、声や歌がすごいという人に惹かれていきます。
これは、画学生がきれいに絵の描ける人にあこがれるのと似ています。学生ならいいでしょう。でも、その人はうまくきれいに描けるのに、その絵が売れていない、価値を認められていないという理由を考えないのはなぜでしょう。
世界中、日本中に声のよい人、歌のうまい人はたくさんいます。なのに、売れていないとしたら、声や歌がへたでも売れる人はもちろん、それで売れない人よりも大きな欠落があるということでしょう。これは、どんな仕事にも当てはまります。仕事とは創生した価値を与えることです。☆
へたな人はうまくなるとなんとかなるかもしれません。でも、うまい人はどうしようもないでしょう。
私のところも、そういう人がたくさんきたので、よくわかります。自信とプライドで固まったところに努力やまじめさ、一所懸命さが表れても、それはアマチュアです。アマチュアがプロになるのにもっていてはよくないのです。声のよさ、歌のうまさは一要素ということです。
○プロの育て方
プロの育て方はどういうことでしょう。プロデューサーが何千人のオーディションで最高の素材を選んで、歌を覚え込ませ、売れっ子作詞作曲家でヒットを演出させるという昭和の頃の歌謡曲や演歌のやり方は、もう通用しません。今も売れっ子の作曲家やプロデューサーに近づけばチャンスと思う人もいるのでしょうが、それはあなたが最高の素材であればです。
彼らは、選りすぐれた人材を見出し、デビューさせることでのプロです。プロデューサーは、声質や歌い方のくせにファンのつく魅力を見出したり、2、3年たてばアイドルになる子を見抜く点ですぐれています。声質を重視しますが、それに偏ったプロデューサーも減りました。
私は、声100%でみた上で表現力を100%でみるという2つの基準をもっています。業界や市場の思惑は、最初は、別にしておくように、と思います。
あなたがあなたを充分に発揮すれば、今の日本をきちんと生きてきたあなたは、今の何かを切り取ることができるのです。それは、私やトレーナーができないことです。だからこそ、共同作業のレッスンの価値があるのです。
○プロの育ち方
ここで「育ち方」としたのは、人は、育てようとして育つものではないからです。特にアーティストは、です。
学ばせて学べたら、教えて教われたら、そんなによいことはないのです。それはそうしないよりもましです。しかし、そんなことをしなくても、毎日そうして生きている人がたくさんいる世界では、それでは大したものにならないのです。
私が日本語の教室に行くようなものです。すると、教えると理屈っぽくなりそうです。日常では、さほど、そういうことはいらないのです。でも、理屈のなかに本質があれば、それのエッセンスが一つ上に行くのに役立ちます。
だからこそレッスンを通じて環境や習慣、思考や考え方が大きく変わるのです。変わらないと、大してこれまでとアウトプットが変わらないです。
歌やせりふは、他人の人生に触れていきます。自分の口から嘘を言って、その虚構に他人を引き込み、共感、感動を、ときにその人の生活になくてはならないほどの大きな影響を与えるのです。究極のサギ師です。
だからこそ、日常が日常であってはいけないし、他の人には特別な場のレッスンスタジオやステージが日常になってこなければならないのです。
○「気持ちより」発声を
小さい頃からピアノを弾けた人は、なぜ弾けるようになったのか、覚えていないでしょう。教えるときには、もの心ついてから学んだ人よりも苦労します。弾けるようになった手順を覚えていないからです。
歌ならなおさらです。もの心ついたときにスターになったような人は、教えるにも「気持ちがすべて」と。そのような人は「気持ち」でコントロールできるのですが、大半の人は発声、音感、リズムを何とかしないと、どうにもなりません。
NHKののど自慢のゲスト歌手の励ましに似たようなトレーナーのレッスンもみたことがあります。日本人が海外に行くと社交儀礼とともに、レッスンがそういうレベルでされていることがよくあります。
自信とプロフィルの履歴がつくのです。私が体操を内村航平くん、スケートを浅田真央さんに習っても、彼らの人生の無駄です。
幼い時に習ったピアノで絶対音感が残っている私に、その音を出せない人の指導はできません。しかし、十代でやりだした発声は、プロセスが明確に残っています。発声のプロセスをみたのです。
○音楽を知る
プロの歌手をたくさんみているうちに、
世界の基準からみる
一流との比較からみる
同曲異唱からみる
同一歌手の歌のよしあしからみる
など、骨董屋か目利きになるためのようなことを、私は歌声で他の人の何十倍してきました。
受講者の1コマ1時間ほど聞くものを、私は、東京で5~6コマ、京都で3コマと、ほぼ10倍、同じものを聞き続けたのです。それも十年以上ですから100倍です。フレーズなど1時間で30回ほどまわしたものは、1ヶ月の中で10コマ分、300回聞いたのです。
教える材料として出したのです。その頃、私は「ヴォイストレーナーDJ」と自称しています。未来型の教育として認めてもらってよかったほどに思います。
受け身の人には評判がよくないでしょう。日本での学校教育に慣れてしまった人には仕方ありません。
当初、ぼんやりみえていた輪郭がはっきりしてきて、確信に変わってくるのです。曲のよしあしが1フレーズごとのよし悪しまで鮮明にみえてくるのです。そういうレッスンを目指していたのです。
○贅沢なレッスン
毎日、熱心な生徒がレポートを出して、「この曲で」「このフレーズで」こんなことに気づいたと教えてくれます。それは、教室で終日ゴスペルを歌って踊って説教しているような毎日でした。
私は世界レベルに歌を捉えて、そこから降ろしてきます。そうでないと、迷いが出てしまうからです。
本人のオリジナリティが音楽、歌のオリジナリティを凌駕したとき出してくる絶対性、オーラは、確かに存在します。それを使う作品(一部)、ステージは、伝説となります。
日本の場合は、それが大衆のものとして一体化して認められないのです。ほんとにすごいものでないもの、ディズニーのイベントでさえ、芸術かアートのようになってしまうような構図があります。評論家の論評として、誰かまとめて欲しいものです。
私のケースでは現場で、レッスンのなかで相手の可能性を伸ばすための材料として使ってきたのですから、贅沢なことです。
○「もっとも厳しい客」として
私は飽きっぽいタイプです。それがよくも悪くも「もっとも厳しい客」としての判断のできる資質になっています。今でも、声や歌を溺愛しているといえません。他によりよく伝わる手段があれば、それを使います。声や歌で邪魔するべきでないと思います。ヴォイストレーナーとしてはあるまじき本音を吐いています。
日本の声楽は、舞台どころか基礎レッスンでも、一部しか成り立っていないと、声楽家たちと一緒にやりながら述べています。私にしてみれば、一部が成り立つところをすごくありがたがって認めているといえます。ポップスのような、暗中模索のまま、「失われた20年」より、ずっとましです。
同じ曲、つまり、課題曲を1日に80人が歌うのを飽きないとしたら、モータウンレベル以上のアーティストを聞けた日でしょう。私はいつでも、そのレベルにセットして聞いています。
続けられているのは、皆様のおかげです。他のことは全て飽きてきたのに、わからないのが声の魅力です。
日本人に必要なのは、アーティストの努力を認めつつも、つまらないものにまで優しくしないことです。当のアーティストが伸びません。「ブラボー」と言うのはいいけど、言おうと思って準備してきて言わないようにしてください。
○「アハ!体験」
本格的なオーケストラの指揮者はやったことはありませんが、似たことはやってきました。メトロノームで♪=60,80などの基本テンポを覚え、ドレミレドとピアノを弾くのにドーミとミードを数コンマいくつまで一致させようとしたりしてきました。何人もの世界の第一線で活躍する優秀な指揮者が出るのですから、日本人の耳は捨てたものではないと思います。
私たちが苦手なハーモニー、瞬時のそのときの全ての音を把握する空間的な能力と、曲全体を総括して捉え、構成と進行展開を論理的に捉える時間的な能力です。
私は歌に接して10年も経って、みえたのです。
それは、中学のバスケットボール部を退いてから、高校のクラス対抗のときに全体図、つまり10人の構成と次の展開がみえたのと同じような「アハ!体験」でした。これは、中学生の頃、TVでワールドカップ大会のサッカーをみて、高校でラグビー、アメフトをみて、大学でアイスホッケーをみて、ゲームの醍醐味がフォーメーションであることに気づいたことと似ています。
○織りなす曲 中島みゆき「糸」
歌曲は、中島みゆきさんの唄う「縦の糸と横の糸が織りなす布」のように、まさに織物なのです。発色模様も計算された上で、アートなのです。
大切なのはオリジナルのことばや音色、フレーズが出たら、一つでもよいから可能性としてストックすることです。それが恵まれている人は、構成を整理すればよいのです。惹きつけるところをセーブし、絶妙のタイミングに抑えるのです。それを私は促します。
逆にうまくてきれいだけど、インパクトがない人は器量貧乏なわけです。一色、一線を求めましょう。何曲使ってもそれを見出すセッティングをします。声域、キィの変更、テンポの変更、声量を変えると、かなり変わります。効果となるポイントを探す、なければそれを出すためのセッティングがレッスンの目的となります。
○その人の音色
私の初期の本には、「一つもよいところがなければ、いくらがんばっても大きくは変わらない」「1秒が通じなければ1曲ももたない、まして1時間もたない」というような表現をしています。
楽器の演奏では、曲の前にその人の音色がなくてはなりません。楽器の音はある程度決まっていて、誰でも出せるようになりますが、それは楽器本来のものです。その製作者なら出せます。
アーティストはそこから音づくりです。自分の音で線をどう描くかなのです。音の色と線で基本デッサンが成り立ちます。それを私はみているのです。
それでつなげる曲もあれば、うまくいかない曲もあります。そこは選曲の妙となります。
アレンジが自由なのがポップスなのですから、ムリに声域、声量で不自由になる必要はありません。そこで無理をしているのが、日本のミュージカルです。声域とバランスをそつなくこなせる人しか選べなくなります。日本人では、レベルアップが難しいのです。
○次の世代の声
すでにある作品を輸入して、それをまねて作品をつくると、歌手にはハイレベルなものとなるわけです。こなそうとするのが輸入期です。その啓発期ではまねるしかやりようがないからです。
日本人がすぐれた歌手を世界に送り出せたのは、一曲です。そこに邦楽の伝統があったというのが、坂本九さんという、キャラクターのオリジナリティあふれるヴォーカリストの実績です。彼の母親は常磐津の師匠でした。
歌謡曲は三波春夫、村田英雄ほか、邦楽との和魂洋才です。詩吟や長唄なども、オペラも、団塊の世代以降ではどうなるのでしょうか。
私はこれらを同列に扱ってきました。「マイクを使わないという条件での声づくり、体づくり」に共通するので、声の基準としてわかりやすいからです。
○声の力
思うに、80年代くらいを境に、ヴォーカルの条件が、音色、声量から声域に、ハイトーンへ変わりました。役者も声量が条件でなくなる、というか声の力でなくなってきたのでしょう。オペラも含めての、ビジュアルの時代の到来、シネマからTVの時代です。日本はそれが顕著でした。
「どこの国のアイドルも歌手なら歌唱力はあるのに、日本は」など言っていたのも懐かしいくらいになりました。
世界を回ってレコードやテープを買うときは、「イケメンや美人、可愛い子を避ける」のが、私の原則でした。ときにニ物を持っている歌手もいますが、ブサイクな人ほど歌唱力が上なのは、どこでも同じです。デブ、ふくよかな人がお勧めです。
私がこの世界に入って最大の転機は、すごい美人の歌手がいくらうまく歌っても、全体重、いや全存在をかけたブサイクが出て、すごい一声を発すると、きれいとかうまいとかいった程度のものは、すべてが飛んでしまうということでした。ひどい悪口のように聞こえるかもしれませんが。
○一声の力と総合力
歌も芝居も、演じるというのは総合力です。一声だけで勝負は決まらないのです。しかし、一声だけで明らかに負けている場合はどうでしょう。
ミュージカルでも、テーマパークでも一声の違いで日本人と外国人は区別できました。長年、世界の声と比べてきた私には、ヴォイトレとは「まずは、その一声からの勝負を可能にする」ための世界です。今の若いトレーナーは、あまりにも意識していないようです。歌を一声でなく、総合的なステージで見ているからです。
海外では声の力は前提として確保されています。トレーナーはその使い方を応用度を高めるテクニカルな方へ導きます。特にマイクのあるポップスではそうなります。
日本も、歌手を目指す人は高音域が出ることばかりこだわるので、声のあて方のようなコツがヴォイトレのメインになりつつあります。トレーナー本人はよくても、その人に似たタイプしか教えられたことをコピーできていないのです。
本当に伝えられる声を目指す人は、私のところでも、基礎となる発声、技術を伝えられるソプラノやテノールにつきます。高いレベルを目指すなら最初からその方が早いです。
本当の問題は多くの場合、声域ではないからです。なのに、それをマスターすることが目的になっているのは、大きな間違いです。
○楽譜のビジュアルライズ
歌の解釈について、私は、雑誌の連載と通信教育でやることになりました。声の本質的なことを伝えようとするのは、とても難しいものです。メインは、詞の捉え方の深さを語ることで歌心を伝えることでした。文字の限界です。
レッスンでホワイトボードに図で表し、様々な工夫をして何とかイメージを伝えます。そのうち、長くいるメンバーとはイメージを共有できるようになるのです。
歌詞か楽譜にいろんな曲線を入れて、歌い方と、そこからよくなる可能性のあるところとに線を引いたり、一言、一字ずつに○△×をつけます。一字(一音)でもその入り方、キープ、終わり方(抜け方)で○△×をつけたりすることもあります。
部分を丁寧にみることでは、私は職人の域に入りました。コンダクターの個人指導並で、きめ細やかすぎるヴォーカルアドバイザーといえましょう。細部にいたり、なかをみるのと同時にフレーズや全体の流れをみているのです。
○ヴォーカルのフレーズ
細部にいろんな動きが出るのはよいことですが、それがメインのフレーズの線と共にどのように働きかけているかが大切です。作曲家が意図してプレイヤーの描く基本線をふまえた上で、そことセッションしていくのが、ヴォーカリストの歌というものです。そのままなぞるのでありません。それでは楽譜に正しく歌う音大の入試やよくある合唱団レベルでの歌いこなしになり、きれいでうまいだけのものとなります。
そのときの変化、結果として、創造したものの評価は、その人の呼吸にのっているかということです。大きくはみ出させたいなら、大きな呼吸が必要です。それがないと不自然、形だけが狙ってそうしたのがみえて、音楽としてはぶち壊しです。素直に歌うより悪くなるのです。しかし、歌に飽きかけた客はそういう形が出ると声を出し拍手するのです。
○ヴォイスナビ集と楽しむレベル
フレーズのつくり方をギターのフレーズナビ集のようにつくったことがあります。シャウトやアドリブを中心にしました。スキャットについて、数多くの基本パターンをマスターしておくと応用がきくと思ったのです。
歌唱に近いとわかりやすいのですが、うまくつくると、マイケル・ジャクソンの歌をコピーするようになって、日本の歌のステージでよくみられることです。却ってよくありません。発声上も応用をやるより、基礎をやるべきです。まねするべきでないということでは、ここでゴスペルなどをやめたのと似ています。
音楽やダンスを日常のなかで自然と楽しみ身につけてきていない、日本人に対して、それを体得してきた外国人などは、「まずは音楽を楽しみ、感じることから始めましょう」となります。それは当然のことで、正しいと思います。パフォーマンスを楽しむにも、日本人には覚悟がいるのですね。皆と一緒にスタートするのは、とてもよいのですが、個人としての能力がないと、教えてくれるトレーナーがいただけで、少しも前に進まないのです。
自分が楽しむのと、人が楽しむものを自分が出すのは違います。日本では彼らが言うのと同じように、「自分が楽しんでいないと、見てもいる人楽しくならない」というのが、「自分が楽しめばみている人も楽しくなる」となってしまったように思えるのです。
○相似形
私がいろんな歌唱の構造がみえたのは、楽譜の研究、いや、楽譜にこじつけて、すぐれたヴォーカルたちに歌唱の解釈や創造したなかでのよしあしの判断の基準を皆に納得させようとしたことによると思います。
シンガーソングライターがつくった曲を分析すると、作曲家とは違うおかしな点がたくさんあります。それはシンガー特有の呼吸や声の特質からきています。コード進行にのせて楽器でつくる人より、即興型(鼻歌型)の人はその傾向が強いことから、その意味をていねいに読み取ったものです。本人(シンガーソングライター)は、そんなつもりもなく、つくれてしまった。それでよいと思うのです。Aメロ―Bメロ―サビでのBメロ(日本人の歌の特色の出るところ)の研究でも、得るところが大きかったです。
海外の曲などは4呼吸くらいでつくられて歌われています。それを日本人は4×4×4=64フレーズでカバーしています。力量の器の差が呼吸に出ます。日本でも昔は4行くらいで3番までの曲が多かったのです。それは日本人の呼吸に合っていたと思うのです。
○俳句、短歌に習う日本の歌唱
私は、日本人の歌唱力からみて(ポップスですが)半オクターブ、30秒(Aメロ、4×4=16小節くらい)にする、「俳句、短歌のような歌唱」論を提唱しました。そこまではヴォイトレで自然にことばと音楽が一致するレベルの声をつくれるし、処理もできたからです。
その基礎もなく、2オクターブ、ハイトーンまで使うから、いつまでも声が育たないのです。歌が特殊発声技術の上にきて、それを追いかける人ばかりになったことを警告してきたのです。
しかし、ますます、そうなって歌は世につれなくなってきました。若い人に昔の歌がカバーされているこの頃の風潮も、こういうことでしょう。学校でのレコード鑑賞や唱歌は、ためになっていたと思います。
今は誰もがすぐにつくれるし、公開できる時代です。となると、つくるために学ぶというところからの観賞レッスンにするとよいと思うのです
○曲全体のトーナメント構造
一例として、曲は、Ⅰ(1、2、3、4)、Ⅱ(1、2、3、4)、Ⅲ(1、2、3、4)、Ⅳ(1、2、3、4)で1コーラスとすると、これが3つで3コーラスです。このケースでは4×4×3コーラスです。
4というのは起承転結としての4つ、それぞれ1つのブロックです。文章と同じように、そこにはそれぞれの役割と、伝わりやすくする工夫が入っているのです。これをさらに細かく、Ⅰ(1、2、3、4)のⅠ(1)を取り出すと、ここにも4つのフレーズ(小節)a-b-c-dが入っています(数え方では8つともいえます)。すると1コーラスは4×4×4=64となります。そして、ⅠのなかⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳのなかのそれぞれに1-2-3-4が入り、そのそれぞれにa-b-c-dが入るという3重の相似構造になるわけです。図示するとトーナメントのような形となります。
○相似形とニュアンス
あるフレーズから出てきたものを+αとすると、この+αが出てくるルールがあります。その+α(私はニュアンスとよんでいます)が、どこに出るかをみます。最下層で出たところを結んだ形とします。+αが(1、2、3、4)の上位のⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳにも相似形として表れていることがよくあります。
1行のなかの3つめのことばが、起承転結の転というのと同じ、1段落4行でも3行目が転で働きます。それがⅠ~Ⅳ番まであれば3番目が転じる役割となるというのと似た相関関係です。
そのリピートと複層的なレベルでの2ステップ、3ステップと次元の違うところの相似性が、意味をもって聞いている人の心に迫るのです。転じた後、4つめにAメロに戻ることで安心感、落ち着きを出すというのも同じです。
○フレーズでつなげる 役者の歌
形を歌わない、演じて形だけにならないために、全てをゼロに戻して再構成する必要があります。実として身につけ、出すためです。
個性の強い歌い手は、役者のように自分を中心として、歌を再デザインします。自ずとそうなるのです。
日本では、役者の歌は音楽性で欠けるものが多く、全体の流れの構成、展開を無視して、自分の呼吸で音楽の呼吸を妨げる、つまり、彼らの強みであることばとその感情表現で、力づくでステージを成立させてしまいがちです。
しかし、それはリピートの効果を損じます。背景の絵を台無しにしてしまうのです。だまっていてももっとたくさん伝わる効果があるのを、一人で全てやろうとがんばってしまうのです。フランク・シナトラやイヴ・モンタンのように完全な両立をなしえた人との違いです。
これはレッスンで変えることができます。表現力の基礎があれば、力の配分を加減すればよいからです。その前に声楽で高音域のマスターをしておくこと、歌の構成を入れることです。声そのものは、コントロール力の問題です。
○分解と再構成(「マック・ザ・ナイフ」)
ソロのプロでありたいなら、出る杭は打たれる日本の合唱団のようなところより、ステージを独自に経験してきた人の方が早いです。お笑い芸人の歌唱力がそれを証明しています。一人芝居でもよいでしょう。
歌手は今や、企画、演出、アレンジ、デザイン、スタイリストからメーキャップアーティストまで兼ねる存在なのです。演出家なども案外、歌えます。たとえば、渡辺えり子さんの「マック・ザ・ナイフ」は、日本語の歌詞も含めて最高レベルでした(エラのコピーですが)。
音楽としての構成、展開を実感させるには、自らその曲の作詞、作曲、アレンジャーになりかわることです。他の人の曲でかまいません。次のような手順で分解して再構成してみてください。
テンポを2倍に速くして、息継ぎの回数を半分以下にします。Aメロを一フレーズで捉えて感覚します。そう、8×4小節くらいを4~8回のブレスで歌っているのを1~2回でできるスピードにするのです。すると、違う音の関係やつながりが感じられるはずです。元のテンポでもそのくらいのロングブレス、ロングトーンに対応できる呼吸を養いたいので、そのためにもよい練習です。
○つながりフレーズ感
よくA、A’、B、Aの基本パターンフレーズで(それぞれ8小節くらいで8×4行)のときに、プロや外国人がA’からBをノンブレスで続けて、Bの途中でブレスを入れて盛り上げるパターンがあります。それを聞いてまねてやるのはよくないです。形をとるのではなく実=身として捉えましょう。呼吸が余裕があるから感情の盛り上がりでつながってしまうのでなければ、しぜんでないのです。即興である歌の応用表現です。
それをA-A’、A’-B、B-Aでもやってみてください。つまり、ブレスの位置を1つすらも、音の流れをもっともよいところにして、そのことを知るのです。
1コーラスで、どのような動きをしているかを歌詞を抜いて、しっかりとたぐっていきます。そのために、コンコーネ50などを母音や子音の一音、ハミングなどで歌っておくことは、基礎の基礎となるのです。
○歌のドライビングテクニック
発声から歌唱を車の運転と思ってやりましょう。プロでも日本では、急アクセス発進、急ハンドリング(ステア)、そして急ブレーキです。これでは音楽的に心地よくありませんね。
ちょっとした踏み込み、キーピング、終止の仕方で、歌は天地のように変わるのです。ドライビングテクニックでいうなら、車体感覚と運転感覚をもつことです。自らの体に置き換えて、ていねいに体を扱うことです。愛や恋を表現するのですから、当然のことでしょう。
ていねいにていねいに、でも、そこから始めるのはよくありません。ハンドルやフロントガラスに目を近付けた危険な運転のようになります。
ですから、教習所でも姿勢から教えます。そのための姿勢保持、筋肉、集中力がいるのです。とはいえ、レーサーと通勤のドライバーでは、求められるレベルが違います。
そういえば、私はよく「レーサーになるのに、ずっと教習所に習いに行っても何にもならない」と言っていました。求めるレベルは高い方がよいのですが、運転は実用に応じたレベルの習得でよいので、そこは大きく違います。
○器と基礎力
かつて作曲家は、歌手のために曲を書きました。歌手によって、その歌の魅力が十分に発揮されました。ときには、歌わせる歌手の器をふまえて書いていたからです。
ときに歌手が作曲家のイメージを覆ってしまうくらいの歌唱をして、大ヒットする時代になりました。作詞家の永六輔を怒らせたという坂本九さんの「上を向いて」の節まわし、沢田研二さんや山口百恵さんあたりも、よい意味で、曲のイメージを裏切り続けた人でした。森進一、前川清、八代亜紀など、紅白の常連組の3分の1くらいはそれがありました(そういう人のすべての歌がそういうものというわけではありません)。
シンガーソングライターになると、本人が自分を総合的に演出することになります。声そのものや音楽としての基本デッサンの力は、あまり問われなくなりました。
J-POPSになると、プロになりたい人に見本にさせるのはリスクがあるほど個人と曲の結びつきが強くなりました。歌の基礎力の大切さがわかりにくくなったのです。
○スタッフの力
歌手とまわりのスタッフの力量のなさは、日本の歌手が世界に出られない最大の要因です。好きに楽しく歌えているヴォーカリストを気づかうのか、大切なことを伝えられていない。プロデューサーからバンドのメンバーまで、私は、欠けていることを本音で言うようにお願いしてきました。
海外のように、まわりが皆、ハイレベルに歌えるなかで、絶対的なオリジナリティをもつ存在としてしか成り立たないのがヴォーカリストであれば、ミュージシャンレベルで厳しくレベルが問われます。声=音の世界でのデッサンとして演奏力が問われるのです。
しかし、日本ではけっこうなレベルのプレイヤーでも、音楽や声に無知なことが多いです。音のアドバイスは、なかなかもらえません。大体80パーセントはのり(リズム)、ピッチ(音高)の注意という状況です。声を音として、音楽として聞く訓練がないのです。☆
これは当のヴォーカリストにもいえます。まわりはヴォーカルよりも先に音楽の世界をつくって、そこにヴォーカルを当てはめようとします。そのために予定調和で、荒のない作品になるのですがベストなものになりません。
○カラオケとヴォーカルの関係
日本の独自開発のカラオケ現象は、全世界に広がりました。しかし、そこではヴォーカルのつくり出していく音の世界にそってプレイヤーが音を動かしていくというセッションが成立していないのです、カラオケというのはヴォーカルが歌っていなくても伴奏として進行して、終わりまでいくからです。むしろ、日本の歌は、このカラオケ感覚に堕していきました。
ポップス歌謡全盛の60年代に、日本ではすでに、すぐれた作曲家が編曲、アレンジして伴奏をつけていました。しかし、そこは相当耳障りなバックの音が入っていたので、歌手の力を引き出すのではなく、もたせられるようにしました。
トータルプロデュースの時代となり、ますますヴォーカルの力に頼らなくなっていったのでしょう。それだけの力がヴォーカリストにないのか、今も昔も、まわりの人の才能を引き出しました。果ては、ハイレベルなカラオケ機材まで生み出したのは、私の立場からみると、皮肉で残念なことです。
○あてになるヴォーカルに
作曲家やプロデューサーは、ヴォーカルのフレーズでのデッサンを当てにしなくなりました。いや、もともと当てにしていません。アドリブ、スキャット、即興は、日本では普通はありません。形だけ合わせる歌に、未来はありません。
海外ではオリジナルのフレーズに対し、トレーナーは、応用技を伝えています。日本ではその前にフレーズを、音色を、さらにオリジナルのフレーズを養成するところから必要です。いえ、そういうことであることを気づくところから必要です。
そうでないので、いくら海外のトレーナーについても真の実力としては大して変わらないのです。それは、そういうことをした人たちの声からも明らかです。ヴォーカリストでなく、トレーナーとしての権威づけになるだけです。
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