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109号

歌唱論(Ⅱ)☆

 

○理とスタンス

 

「歌は時代と人とともにある」と思いつつも、日本の歌や声の力の弱体化をみてきました。結局のところ、流行したり売れているものは、何かの理があります。それを他のところ(たとえば国外)や他の時代(昭和以前)と比べて、評したところで、しょうもないのです。その理の正体を見据えて対さなくてはならないのです。日本の歌には、そういう人の存在感も希薄です。

批評家を気どるのではありませんから、私は歌や演技だけを単体として評することはしません。トレーナーという立場と、批評家、プロデューサー、客はスタンスが違います。私は「今、ここで」よりも「将来いつか、どこかで」を本人の可能性の軸の延長上においてみます。歌だけを吹き込まれたテープを送られても、本人のことを何も知らずに評することはできません。レッスンをする立場での可能性や限界について、本人の目的、レベル、表現活動において、声をみます。

 「プロになりたい」といらっしゃることが多いので、立場上、「プロとは何か」、「どういうプロか」という問題を本人と共有をせざるをえません。プロでも、レッスンに訪れる人は、もっとプロらしいステージをというのがトレーニングの目的となるので同じことです。それは、今の日本、世界はもちろん将来を本人を中心に見据えていく力を必要とします。

 

〇絶対基準

 

 基礎トレーニングについては、声楽をベースとした体、呼吸、共鳴、発声でよいときは、トレーナーに任せています。表現についての問題は、複雑です。今の日本では、さまざまな事情を加えると、なかなか判断ができないのです。

 私は「声からの絶対基準」と「表現からの絶対基準」をベースにしています。ここで「絶対」というのは、時代や国を問わないということです。本人の資質をベースに最大の可能性=オリジナリティで問うということです。

 しかし現実には、仕事になるための「今、ここで」=「21世紀の日本」「客やファンの求めるもの」でという相対基準、外から求められるスタイルや能力に合わせるという基準を配慮せざるをえないのです。そこを超えたところでは、思想、価値観となります。

 総合力としてのオリジナルが評価される今、声での創造力においてのオリジナルでやっている歌手は、ほとんどいません。トレーニングで教えられるもの、育つものではないからです。となると、精神的サポートが中心とならざるをえなくなります。

 

○日本のゆがみの構造

 

 日本人における「二重構造」は、今もクラシックもポップスも音楽業界に根強くあります。欧米人と同じ教育を受けることを最上とし、欧米人の感覚で評価してきた流れのことです。ロックやへヴィメタルなど、洋楽しか聞かず、洋楽しかやっていない人にも多いですから、クラシック、ポピュラーに共存する問題といえます(楽器では幼少から行われていますが、歌では難しいでしょう)。

 「本物は本場に近いほど優れている」「向こうの人が認めたら本物」というものですから、評価は楽です。向こうの誰かに近いかどうかです。そこには、世界を席巻した欧米の声楽やポップス歌手だけでなく、作曲家や演奏家も含め歴史と実績に支えられているわけです。世界の覇権者の推移(モンゴル→ポルトガル、スペイン→オランダ→イギリス、フランス、ロシア→アメリカ)と無関係ではありません。文化や芸術も世界と連動してあるものです。

 明治維新以降、上からの音楽教育改革によって、西欧にシフトし、戦後さらに欧米化した日本では、今でも音楽教育は欧米に追いつけ追い越せなのです。世界支配のための戦略として、宗教と武力を用いた欧米人のやり方は、プログラム化され、世界の欧米化=グローバル化を促進しました。

 私が研究所を運営するのに、トレーナーを声楽家中心にしたのは、そこに一個人に左右されない基準があったからです。この基準を、私は自分の基準と相対化させています。

 

〇未熟という独自性

 

 オペラは、世界の観客を熱狂させた、一部の天才の能力にのっかってきたのも事実です。200年も前の、遠く離れた国で権勢を誇っていたものが何一つ疑問を持たせず東洋の島国、日本で伝承され、保持され、存在していることを否定するつもりはありません。ラテン、カントリー、ロックからヒップポップ、ハワイアン、フラメンコまで、どの国よりも柔軟に世界中のものを集めて、楽しんでしまえる日本人の許容度の高さは、歌に限ったことでないからです。スポーツや舞踏だけでなく、工業製品からクリスマスなど宗教まで受け入れアレンジしていくのは日本人の能力でしょう。こうなると文化、宗教の定義さえ日本人の場合は特殊となります。

 

 本来のオリジナリティは、文化や風土に触発されて生じ(地に足をつけて)、高度な域に高まるものです。その資質の上に表現が生じてオリジナリティとなると思います。なのに、日本では本人の上でなく、斜めや横の方に開かれてしまうことが多いのです。そのいい加減さ、未熟さにも、よし悪しがあります。

一流の職人などではありえない、その独自性の完成について、歌の場合、歌手は(俳優、声優やアナウンサーなども含め)本人不在のままにパッケージ商品化されてしまいます。その矛盾に対して誰も指摘しないことです。

というより、プロデューサーはじめスタッフなど、まわりはむしろ、それを促進していく構造になっているのです。つまり、判断がなされているのに、その基となる判断基準がゆがんでいる。客についてもいえると思うのです。未熟をよしとする文化の歌が、代表になりました。

 

○まねから総合化へ

 

 「欧米には、世界の人が憧れるすごい文化がある。同じことを日本人がまねてくれたら、向こうに行かなくても見たり聞いたりできる―。」

歌唱、演劇に限らず、多くの分野でこうして模倣が生じたのです。宝塚歌劇団、劇団四季も、ステージ側、観客ともその構造下にあります。日本のシャンソンが向こうのものを日本語で歌ってヒットしたようなことです。その点では、そういうジャンルのトレーニングやレッスンに声楽の基礎を学んだトレーナーにつくのは意味があります。

 日本人は、プロデュースした人や世に出た人が、それを元に日本人向けの基準を本人の好むところの狭い範囲に定めてしまいがちです。それが結果として、本来、自由であるべき声や歌まで限定をかけてしまうのです。それを受け入れ続けるのも鈍いのですが…。

そして、それがマニュアル的な指導をつくるのです。早く、うまく、人に見られて恥ずかしくないように、ミスのないようにするために、正しくうまくの形づくりです。形で示されるとわかりやすいため、歌唱も再現芸術になり下がります。結果、リアルなライブでなくなるのです。これを安易に誰でもできるようにビジュアルと装置化して、日本独得のステージ技術が発展したのです。まさに「カラオケ」的といえます。声や声の表現である歌や歌の表現のストレートさ捨てて、能のように複合芸術化をしたのです。

 

〇ビジュアル化と声の弱化

 

 昭和のころまでは、歌も世界を目指し、欧米とも張り合おうとしていました。二番煎じに甘んじつつも日本人のオリジナリティ対して、探求もされました。ただ、結果からみると、声でなく作曲、アレンジ、演奏、ステージ技術での発展が顕著でした。

 世界的にもビジュアル化へしていきました。そのためにクールジャパンとして日本は肯定され、高める必要も失ったのです。

「私たちからみて、今の若者のだらしない会話の声や発声が、そのまま使われているカラオケやJ-POPSが、ポップスとしては、日本人らしくてよい」と私が言っていたのは1995年頃でした。

 日本人のもつ特性について掘り下げて考えるとよいと思います。私は、その頃、歌に表現力が感じられないから、モノトークとしてせりふでの表現力に戻してレッスンに入れました。今はせりふの表現力でさえ取り出せないレベルになりました。声を支えるフィジカルやメンタルが、弱化し続けているのです。メンタルについて問題と私の考えは「メンタルはフィジカルから鍛える」で触れました。[fukugen 2012/10/01

 

○ビジネスの声の弱化

 

 私は早くからビジネスマン相手にヴォイストレーニングを行っていました。しかし、日本のビジネス界で、本当に相手を論破できる声が必要なのかは疑問でした。声をパワフルに使えているのがよいというのはオーナーや一匹狼のセールスマンくらいではないでしょうか。

 「大きな声を出せるように」と頼まれていた研修も、「心に伝わる声、相手に好ましい印象を与える声」のようなものに変わってきました。

 声は、戦国の武将の時代をピークにして、武士→軍人→会社員(モーレツサラリーマン)と弱体化してきました。

もう弱いために「語尾まできちんと言えるように」、「何をいっているかわかるように滑舌をよく」というレベルで

す。日本の公の場での言語環境の歴史については改めたいと思います。

オフィシャルな場での最低限の声、声かけ、挨拶、電話、会議、プレゼンにも欠く声が当たり前になってきました。幼少から成人するまでの日本人の発声総量(大きさ×時間)は大きく低下しているので、当然です。

 

〇音声のリーダー喪失

 

 体や心の弱化について、コミュニケーションの問題から取り上げます。一国の人々の声力(言語力―広い意味での)は、その国のトップの声でわかります。日本の首相は、世界で何位くらいでしょうか。伝達力としては間に合っても、敵を説得する力は乏しいようです。

 これまでも、かなり声力のひどい首相がいました。日本は、音声での説得力でリーダーが選ばれる国ではないのは確かです(首相であった人々、田中角栄、橋本、小泉、中曽根、大平、麻生、菅、細川、安倍などの声を比較してみましょう。各国首脳、たとえば、アメリカの歴代大統領、クリントン、オバマ、トランプほか、女性首相なども)。

 相手をやり込めてまで意見を通そうとする説得力、言語力、論理力、声の力が、それほど日本人に必要なかったということでしょう。

 

 福沢諭吉がスピーチを「演説」と訳したあと、自由民権運動と議論が高まりました。そこから団塊世代の学生のときの安保闘争や赤軍派の挫折などを経て、少しずつ、言語の信頼が喪失していきます。今の若者は喧嘩もしませんが、討論もしないでしょう。

 

〇個性化と日本人の声

 

 私は1980年代までは日本でも個人化(個性化)、表現化が進むと、音楽はアコースティックにオリジナルな表現がより強くなると考えました。現実は逆となり、研究所は1995年に得たライブハウスを2002年に手放しました。

 少子化はともかく、若年層の保守化、メンタル、フィジカル面での衰えがこれほど大きくなるとはと思わなかったのです。大きなモノへのあこがれや、大きな欲求の時代は終わり、ささやかな差別化に精を出すようになりました。それも豊かさの一面なのでしょう。安全ゆえ政治は軽視され、有能な政治家は出なくなります。世界に出ていけるアスリートは、戦前教育のようなスパルタの親が育てているといえます。

 

○状況共感時代へ

 

 歌手の集団化、スターをつくらないシステムが、日本らしい成功をおさめているといえます。そこでは、演出家、プロデューサーがアーティストです。テクノや機器でしか世界に出られない日本、SEやアレンジャーがアーティストのステージ、客が主役のフェスティバル・コンサートと、アーティストのカムバックブームからAKB48まで、シンプルな図式がみられます。

 デビュー曲にインパクトとオリジナルの表現力の出ていた有能な歌手が23年たつと、ありきたりの歌い方になります。海外から戻り、日本のステージをやるにつれインパクトがなくなるMCが多くなり、客に寄り添う共感型(ブログやツイッター型)になる、それが日本のもつ文化でしょう。それを打ち破るべきアーティストがそれに迎合してしまうのです。

 

〇対人スキル

                                                              

 欧米でのリーダー、スターは、ステージ上から自分が思うように客を動かせる人です。感動させること、未来、あるべき姿を伝える人です。歌手も役者も、牧師もゴスペルをみたら同じとわかります。ヴィジョンによって人心はまとまり、盛り上がり、行動します。狩猟の手順でもあり、家畜や奴隷の支配の方法にも通じます。

 そのために声を使うのです。正確に論理的にことばを使い、相手を説得します。正論をもって人を説き伏せます。

 民族の交わるところで鍛えられた人の対人スキルのレベルの高さです。私は、外国人に接するごとに、驚かされてきました。言いたいことは言い、くだけたり、脅したり、褒めたり、諭したりしつつ、目上にも目下にもフレンドリーで変幻自在なおしゃべりで、当初の目的を達成します。

 私たちが、立場をふまえ、相手をみてその出方に気遣い、反論を避け、雰囲気をこわさないように努めるのとは対照的です。彼らからは、そういう日本人の「和」の文化は、あいまいで、「どう考えているのかわからない」となります。何も考えていないのです。日本語もそういう性格を持つ言語です。この一例として、私は日本のシンポジウムで最後に必ず対立が解消されたかのように終わること=日本特有の儀式としてみています。

 

〇日本語の弱点と場の空気☆☆

 

 日本語を使わない方が外国人だけでなく、日本人同士でもはっきり意思を伝えられます。日本語よりも強く声に出しても相手が傷つかないからです。日本語は相手を気遣ってハッキリと意思を伝えない言語、かつ音声の使われ方までも弱く、あいまいにして、それに従っているのです。私は、愚かなきまりと思いつつも、楽天などの英語の社内公用語化のメリットをここにみます。

 

 日本語のことばのあいまいさは、取り上げるまでもないことでしょう。でも、「はい」は、yesでなく、「はい、聞いていますよ」ということです。「わかりました」も同じです。「もういいよ」「いいですね」は(よくないよ)です。

 

侵略され、ひどい目にあったことがないから、ことばに寛容といわれます。イヌイットやモニ族(ニューギニア)など、世界では少数です。

謝ることで責任を徹底して追及され悲惨な目にあった経験がないからです。

 農耕民族で同質性が高く、以心伝心で「察する」文化といわれるゆえんです。場の雰囲気や面子をたてるため、思いやりにあふれ、情緒的といわれます。

 場という集団的な雰囲気=空気に逆らえません。鶴の一声に逆らえず、問題が大きくなるまで止められず、それがしばしば、悲惨な結果を招いてきました。

 それでも責任者は追及されないのです。第二次大戦も原発も、今の政治支配も同じ構造です。

厳しくジャッジする第三者がいないのです。日本は司法をもマスコミも第三者でなく、政党も一党です。

 中根千枝氏が、「たて」の構造社会で指摘した自分と身内をウチ、それ以外をソトとする構造です。他の国のように「自分(自我)―他人」でなく自分は場(自分、まわりの人)、人と人の間にあるのです。

 

〇大道芸と宴会

 

 コミュニケーションとは、見知らぬ人、育ちや考えの違う人への説得ツール=言語となります。自分の考えを意識化して、言語化して伝えなくてはいけないから、言語=論理になるのです。

 ステージも、この個と説得する相手としての客の対立図式です。通りで箱の上に乗って、通りゆく人に呼びかけて、その人の足を止め、そこで聞かせ続ける大道芸人型です。

それに対して、日本では、歌は内輪のもの、宴会芸です。カラオケも前者から発展した後、この形に落ち着いたわけです。客=ファン=身内=場なのです。客は、従順で安心、安定した存在ですから身近なMC中心がよいのです。「勝負」でなく「共感」の場なのです。お互いに気遣い、よい感じに終わらせます。日本では、不調でキャンセルするアーティストはとても少ないです。「熱が出ていますが」でも出るのが、レベルが落ちても支持が得られるのです。いわゆる「甘えの構造」です。

 

〇日本人は会話だけで対話がない。

 

 今の時代、日本で、観客の想像にゆだねるアングラ劇や不条理劇は成立しにくいです。楽で安心して見られるミュージカル仕立てが流行するのです。歌もインパクトがあり、声がよく歌がすごいのよりは、身近に感じられるステージがよいのです。叫ばずにつぶやく(ツイッターやニコニコ動画)にも、無記名(匿名)であんなに書き込む努力ができるのは日本人だけでしょう。

 これは今に始まったことではありません。クールジャパンの一端をなすのです。

 日本人の海外の文化の柔軟な取り入れは、日本語の成立をみても明らかです。中国語や英語が和語と対立は起こさず、二者択一を避けて全て受け入れてから、自然な流れで選択されていくのです。カタカナでの外来語受容は特殊なものです。一方、インドなどでは、部族言語が多すぎて共通に使える英語に頼るため、英語力がつくのです。

 

○声のオーラ

 

 私は、世界が日本のようになるのが理想です。しかし、現実には国家単位とその対立で世界が成立しているので、日本人も21世紀前半はナショナリズムに立地せざるをえないと思っています。そのモデルとしての他民族社会の世界、アメリカ合衆国に幻滅し、ユーロ圏も崩壊していくでしょう。まだまだ時間がかかるし、危険も大きくなりそうです。

必ずしも世界中が日本のように子供っぽくなるのがよいとは思いません。それが平和ということなのでしょう。世界には日本たるようアピールすることに努める力としてクールジャパンをみています。女子供化、メンタルもフィジカルも戦えなく弱くなったら…です。多くの国はそれで滅びました。

 

 私は言語としての限界を日本人らしくよく知っていたので、それで示される世界よりも音楽や声を重視してきました。日本の歌はストーリー、歌詞、物語重視です。それゆえ、その他での完成度が低く、声もいまいちです。

 今のミュージカルやJ-POPSにも「立派な歌詞」のうさんくささを感じています。でも声力が歌詞を上回れば、ことばを超えた音楽となり、その問題はなくなります。スピーチでさえ伝わるのは、ことばや内容を支える声のオーラでした。

 日本のアーティストは概して草食系です。その理由もわかるでしょう。歌詞の部分でも、自分―他人でなく、自分=身内(場)で成り立っているものが多いのです。半面、欧米の弱点は、自分―他人の対立での孤独に耐えられなくなってきていることです。グループカウンセンセリングなどが日本人には考えられないくらい、処方されています。

 欧米の設けたリング、スポーツにしろ、アートにしろ、そこでしか鍛えられないとしたら、それは、おかしなことです。

 和道、日本の芸の多くは、自分=身内が場でありながら師弟構造を有しています。役者養成所はサークル化に伴い、趣味の場になりつつあります。一億総セミプロ化の時がくると1985年頃言いました。レッスンにおいて、そうなってきているのが現状です。

 

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