「判断力と再現力」
○「ハイ」の再現力
私のメニュのなかでの基礎のチェックです。
1.「ハイ」を10回言ってみる。その中の一番よい「ハイ」を選ぶ(判断力)。
2.選べなければ選べるようにする力をつけていく
3.その「ハイ」を10回言う。言えなければ言えるようにする(再現力)。
次のステップとして、
4.「ハイ」のなかで一番よい「ハイ」を選ぶ。
5.以下「ハイ」をくり返していく。
これで私のヴォイトレの基礎のすべてといってもかまいません。これに伴う考え方としては、
1.今のなかで、もっともよい「ハイ」をよりよくしていく。
2.今のなかで、そうではない「ハイ」を今のもっともよい「ハイ」にそろえていく。
このもっともよいは、今のなかで、ですから、もっともよいといっても、その人のなかでは、ましな「ハイ」に過ぎません。
「ハイ」を使う理由は、「基本講座」を参考にしてください。
これを、グレードのようにランキングしますと、「ハイ」=Hとして、10個のHのうちの1つが勝ち抜き、レベルが1つあがる、以下、同じように、それを10個くり返し、そのまた10個のHのうち1つを選んでいく。もちろん、もっと下位から始める人もいるでしょう。すべては例えです。「ハイ」や10個というのは一例であり、現実的にはそれぞれを母音、子音、ハミングなどで、発声練習で行っているわけです。
レベルA H(1つの「ハイ」)
レベルB HHHHHHHHHHHHH(10の「ハイ」)
レベルC HHHHHHHHHHHHHHH…(100の「ハイ」)
レベルD HHHHHHHHHHHHHHHHH…(1000の「ハイ」)
〇判断のレベル
バッティングのフォームづくりにたとえて説明します。バット(竹刀でもよい)を持って10回振ってみてください。そのなかでどれがもっともよかったか、直観的に選んでください。何となく選べるはずです。素人である私なら、それと同じスイングを10回くり返すことができません。野球部員なら、私よりもそろったレベルからスタートできるでしょう。
これはスイングの違いが何センチメートルくらいの幅で認識できるのか(判断力)、実際に振って調整できるか(再現力)の能力の差となります。イチローなら、その差はミリ単位でしょう。ボールを投げる側で例えてもいいですね。距離、スピード、コントロール力と、今はスピードマシンで測れるからわかりやすいでしょう。
人それぞれ、スタートのレベルが違います。2、3ケ月たつと、その人なりに調整できるようになってきます。少しコツがわかるのです。そういう判断力や修正力がどのくらいあるのか、またどのくらいついてくるのかが、その後の伸びの違いとなります。それはスタートのレベルの違いよりも大切です。
トレーナーは、あるレベルまでは、本人よりも正しく選べます。声は判断しにくいものだから、その指示に従えば、修正へ効果的に進めていけるでしょう。少なくとも本人よりは客観的に聞くことができるのです。しかし、その客観性は、客観ゆえの限界があるのです。高いレベルでは、表現性に伴って判断は変わります。磨かれた本人の感覚が、そのレベルを逆転するようにしていくように育てることです。ここでは直観的に知っておいてください。☆
○「できていない」とわかること
トレーナーがつくのは、「どれが正しくて、それにどう合せて修正するのかを教える」ためと思われています。しかし、「どのように判断するのかを伝えること、その判断を満たすように、方法を試行錯誤させ、本人に編み出させる」ことがもっと大切なのです。
でも、つい、「こういうふうに」と教えてしまうことになります。答えを知らせても、その解き方を学び、自分で実感できなければ、本当は何も変わりません。トレーナーの答えは、トレーナーのものにすぎません。
最初はなんとなく「できていない」と思うだけで「何が」「どう」「できていない」のかが、わからないのです。
でも、よくわかっていないことがわかっていくなら、一人で行うよりは、長い目でみるとずっとよいことです。
〇場を求める
「大きな声が出ていない」「のどでなく、お腹から声を出せ」と言われて、レッスンを受けにくる人がいます。「やっているうちにできてくる」とよく言われます。そう指摘されても、「どうすれば大きな声が出るか」、「どうすればお腹から声が出るか」は、具体的に示されないから、困って、ここにいらっしゃるのです。
本人が「充分にやっていないなら、やる」ことです。やればよい。それで解決しないからトレーナーにつく。そこからでいいのです。
「必要性に応じて、場を求めて、次のステップに進む」ことの一例です。
「やっているのに、やれていない」というのを判断するのが、本人よりトレーナーが厳しくしてこそレッスンです。その実現を目指し、具体的に進めていくのがトレーニングです。
○体での習得を知る
スポーツや武道を経験したことのない人には、あるいは、頭でっかちだと自覚している人には、今からでも簡単なスポーツを試して欲しいと思います。自覚できていない人こそ行って欲しいのですが。そこで頭と体やイメージの関係をつかみ直してほしいのです。声だけで行うのは、案外と難しいことだからです。
結果が出るというのが、どういうことかを身をもって経験してもらいたいのです。フォームをみてチェックしてもらうのをコーチにつくならもっとよいでしょう。自分の感覚や体のズレとその修正法を客観的に教えてくれます。その結果を構造的に捉えてほしいのです。
ゴルフやバッティングは練習場があり手軽です。バスケットやテニス、弓道、アーチェリー、ボーリングなどもよいでしょう。ダーツ、卓球、ビリヤードは、少しわかりにくいかもしれません。いかに自分の頭と体がうまく動かないのかを知るだけでもよいでしょう。
〇実践と表現
同じスイングが10回できるということをつめていけば、それには確固たるフォームが必要であり、体力、筋力、集中力など、それを支えるものを補強する必要がわかってきます。試合で確実に実現するとなると、確実なフォームの再現に加え、それを臨機応変、変化自在に動かせる応用力が必要になります。モチベーションやリラックスできる力も必要です。
トータルとしての柔軟な対応力が、ステージや仕事には必要です。それがないと続けられないでしょう。
だからといって、こうした応用ばかりでやっていては、基礎が得られません。得ていたとしても狂っていき、応用が効かなくなくなります。柔軟性や対応力が劣ってくるからです。それは基礎的なことを固めない、あるいは固めたとしても、それを維持することを継続しないからです。
○固定化させないレッスン
ここで重要なことを述べます。同じことをくり返すことで固定させられるような技術ができ安定度を増すと、失敗は少なくなります。でも同時に新鮮味や面白み、凄さは欠けてきます。応用性も落ちてきます。
いつの間にか、高いレベルを目指すべきトレーニングが、安定し、リスクをなくすことだけを求めるように置き換わってしまうのです。
アーティスティックなことも、仕事になると、そうならざるをえないのです。そこで伸びが止まります。これは子供という天才が、大人という凡才になっていくプロセスと似ています。
だからこそ、それを壊すためにトレーニングをしなくてはいけないのです。
しかし、自分で壊して創れるのは、人に教えられたままに、でなく、自分で気づいて、たえずゼロに戻って試行錯誤して自分をみつけ、伸ばしてきた人だけです。つまり、独自の自分の世界、オリジナリティのある人だけなのです。そこは、一人では難しいので、レッスンがあるのです。ただ、レッスンの目的によって大きく違ってきます。
〇パターン化するレッスン
日本でよく行われているパターンは次のようなものです。
レッスンで正しい方法を教えてくれる。
それと違う方法は間違いだと教えられる。
正しい方法で調整して、よくなる。
その方法を技術(テクニック)として、習得して固める。
これで固めて進歩が止まる。
頭でっかちなレッスンでは、トレーナーの求める形がここにあるから、どうしようもないのです。
こういう人は、自分以外の他の方法や他の理論に批判的です。他の否定において自らが肯定する人も多いのです。そんなことができるわけではないのですが、そう思う人が、教える人にはよくみられます。
すると、「どの先生(のやり方)が正しいのか」となり、「この先生(のやり方)が一番正しい」、「他の先生(やり方)は劣っている、間違っている」と思い込むようになります。
そういうことは、一人のトレーナーと一つのレッスンで続けていると必ず陥ることです。
私は、2、3年そういう時期があってもよい、いや、そうなるのは当たり前のことと思います。そうして一所懸命やったことは身につきます。そして次のステップにいけばよいからです。たとえ、次のトレーナーと方向や判断が異なっていても、極端な話、正反対であっても意味はあるのです。
それを方法だけでみると表現と対立するのです。あなたへのアプローチに、なぜそういう方法がとられたのかを考えてみましょう。それを知ってみる努力は怠らないようにしましょう。
〇次のステップへ
演奏や実践に秀でたトレーナー、初心者の指導に秀でたトレーナーなど、いろいろなタイプがいます。それが見えない時期は、自分をみようとして、一所懸命やるとよいです。
大切なのは、その自分を突き放して、次に進むステップを用意していくことです。その時期その時期に、あなたに必要なトレーナーもいるし、あなたに必要な判断や方法もあると思ってください。
すぐれた人は、自ら生涯にわたり方法を変えていきます。方法はツールにすぎないからです。
多くのトレーナーとともに行なっていると、トレーナーの直感を磨き、本人の力を伝えることの必要を感じます。表現できるようになることです。本人が考えたり、疑ったりしても、壁があっても、そこを突き進む力を与えることだと思うのです。
○しぜんに伝わるとは
頭から入る人もいます。体から入る人もいます。いろんな学び方があります。表現から入る人もいます。声や体から入る人もいます。いろんなプロセスがあります。
声や歌がよくても、そこで表現にならなければ、学ぶことが必要です。表現がよくなるには声の力もいります。しぜんに力を入れなくても伝わるくらいで、声が働きかければ、かなりよいと思ってください。
そのためにトレーニングし、声を使い切って、表現力を伸ばしてほしいと思っています。
しぜんにうまくいっているのが一番よいのです。トレーニングもレッスンも、それを補うものです。
一人でしぜんとできていたら一番よいです。そういう人はとても少ないから、すぐれるために人について学ぶのです。レッスンやトレーニングをするのです。その逆になってはなりません。
〇補強としてのレッスン、トレーニング
レッスンやトレーニングは補強にすぎません。気づいて変えるための時空です。私はレッスンでは、声だけでなく、ことばの働きも重視します。感覚が磨かれるからです。本質をみるには、くり返すだけの練習では足らないからです。
私は、カラオケ教室のスタイルは肯定しています。他の方法もどれも否定しません。それなりに実践が伴って、目的とニーズがはっきりしているからです。
こういう関係について、ヴォイトレの定義や関係性があいまいなので、ほとんどの人はつかんでいません。ですから、本番への調整と本来のトレーニングの違いを、くり返し述べているのです。
かつて、カラオケ教室や歌唱教室で、音程やリズムトレーニングをやっていました。うまい人はどちらにも行きませんでした。へたな人は、習って少しうまくなりましたが、アマチュアのうまい人並みにもいきませんでした。なぜでしょうか。結果を早く求められると、固めることを上達と思うからです。バランスと安定感が評価となるからです。
バッティングセンターでは、慣れない人(特に女性など)は、バットにボールをあてようとして、あたって前にはねかえったら喜んでいます。くり返しているうちにあたるようになってきます。しかし、これでいつかちゃんと打てるようになるでしょうか。「バットにボールをあてる」のと「ボールにバットをあてる」のは違います。あたるのではなく、あてなくてはいけないですね。似ているようで逆のことです。笑わせることと笑われることくらい異なります。
まずは、腰中心の素振りをマスターした方がよいですね。コーチが子供に教えるときはそうしています。ヒットを打つのと、バットにボールをあてるのは、目的が違います。必要とされる条件も違います。そこをみて、変えないと大した上達は望めません。
○積み重ねても固めないこと
バットにボールをあてることが先決なら、バント練習もありかもしれません。それが第一歩といっているのが、今のヴォイトレのように思えます。早く楽しむための手段として考えるとそうなります。
ここがややこしいところです。そこにいる客を満足させるところで判断されるライブと、客を超えるべき一流の作品を、どのように考えるかでしょう。
高校の野球部員、ノンプロの打者でも、バッティングセンターなら10発10中、ジャストミートします。まわりでみてはいる人は驚くでしょう。でもプロとはレベルが違うのです。
舞台は、客商売であるので客のレベルにも左右されてしまいがちです。至高の表現よりも瞬時の作品として、確実安全なものを求めてしまうのは当然でしょう。でも表現者なら…。
大きな素振りをしたところからトレーニングの一歩が始まります。そこに、柔軟から体づくり、筋トレがあるものでしょう。
〇代用
「まず楽しみましょう」という人の行うヴォイトレのワークショップやカルチャー教室は、きっかけとしてはよいと思います。それをトレーニングとは思わないことです。体験する機会として行われているからです。私も似たことを導入としてやったときもあります。しかし、そのままトレーニングに結びつけられないのは欠陥です。
バッティングセンターでも100回振るのではなく、いいフォームを100回みて、1回振る、イメージ通りに一回振るために、バッティングセンターの外で、素振りを100回振る、そのための筋トレをすることです。本来の上達は、そこからです。
声や歌も同じように考えてよいと思うのです。歌い込みが大切なのは、表現でのオリジナルのフレージングのレベルでのことです。基礎は、何回も聞き込むこと、100回聴いて全身全霊で1回行うのです。そのために別にヴォイトレの時間をとって、声を鍛えておくことです。
量だけでも、質だけでも足りないのです。このようなことに時間、量をかけることで、質とつながるのです。そこを区分しておいた方がよいということです。このあたりを、レッスンと自主トレの関係と私は考えています。
家では、思う通りにやりたいだけやればいいのです。よくわからなくなってもよいのです。それに指導や方向づけを与えるのがトレーナーのように思えます。本来は一流のアーティストやその作品からの天啓です。その代りとして、トレーナーが部分的、ある時期、関わっていると考えてください。
○自分と体での判断
トレーナーの言うことや理論に振り回されることは、本末転倒です。
情報量を中途半端に増やしていくことを学んだと思うこと、そのために決めつけたり、混乱したりするくらいなら、「情報をマックスにして判断不能にしてしまえばいい」と思います。それでこうしてたくさん述べています。
本人の資質もいるので、必ずしもお勧めはできませんが、「すべての情報を切って体で動くこと」です。
「ハイ」でもスイングでも「どれが一番いいですか」と聞く前に、本当に見分けがつかないのか、選べないのか、とことん試してみればよいのです。
体というのは、頭よりも正しくて、精巧なメカニズムで動いています。少しでも狂ったら死んでしまうくらいに、あなたの体は正確無比に働き続けてきたから、生きているのです。そこを信頼すればよいのです。
〇モデルとグレーゾーン
あなたの声も歌も、あなたが否定しているとするなら、すぐれたモデルをイメージとしてインプットして、そこから正すことです。それが唯一の王道です。トレーナーがそれを左右する存在ではいけないのです。
何かを教えたり、アドバイスすることは、有益であるほどに邪魔もするのです。薬と同じです。たくさんの薬はいけません。中途半端に他の本や他のアドバイス、レッスンを受けて混乱するのもよくないです。
そのグレーゾーンのレベルで、悩むなと言っているのです。悩むとネガティブになり、行動が後ろ向きになります。他からここのレッスンに移ってくる人の半分はそういう状態ですから、よくわかります。問題の解決でなくてもトレーナーを移るという行動でポジティブになるなら、それも一つのアプローチです。
〇変わること
なぜ、何かを知ることで変わると思うのでしょうか。
体が正確に動いている限り、大きく変わるのは、ハイリスクなことです。
日常は安定しているから日常で、そうでなければ非日常です。
歌手や役者は、虚構の世界の非日常的存在として表現者たるのです。それでありつつ、そこでの本質を日常化していくことで、プロとして一流としてのキャリアを積んでいきます。
デビューのときには緊張してあがっているのに、慣れてくると落ち着くのと同じことです。でも高いレベルへ挑むと、また緊張するはずです。そのうち、場や相手など、まわりに左右されずにできるようになります。舞台が特殊に日常化したのです。そこから各々の世界を作るべく、自立した個として、イマジネーションとの格闘に入ります。
○その人らしい声や歌
声、ことば、歌は、日常のところに帰る必要があります。でも日常では、それゆえに、ふしぜんにできません。そこでトレーニングします。日常を変えることもトレーニングという必要悪においては可能なのです。
特に日本の場合、歌やせりふが、その人の日常に求められるものでないのです。別に形づくられ、そこから判断されるのでややこしいです。
私はヴォイトレで、その人の声、その人の歌の復権を意図してきました。業界の求めるものでなく、本当の意味でのその人らしさです。この「らしい」さえも、日本では形が優先されます。
そこがよくわかる例の一つは、ミュージカルの歌です。ブロードウェイと比べてみましょう。本場のゴスペルと日本のもの、合唱団などと比べるのでもよいでしょう。
〇ダブルバインド
日本の声の表現での二重性(ダブルバインド)について、プロデューサーや演出家はもちろん、トレーナーも、それを助長してきたのは否めません。
あこがれの歌い手のような声で、その歌い方のように歌いたいのは、誰もが同じでしょう。カラオケの指導や、ヴォイトレは、そこにも使えますが、それは真意でないと私は思っています。
自らの器を大きくして、今は非日常のものを、明日の日常に化していくことがトレーニングだと思うからです。
〇トレーニングと努力の才能
誰でもトレーニングしだいで何でもできるようになるわけではありません。結果として自らの潜在的な能力を開花させるところまでです。
それを理想の方へ、変えていくのです。何かをなしとげた人は、努力で叶うと言います。すべてが叶うほどの努力をした人の言うことを否定するほど、私は傲慢ではありませんが、それだけが真実なのではありません。そこまでの努力ができるのも一つの才能であり、それ以上の努力をしても適わないこともあります。
〇トレーニングの本意
確認しておきます。トレーニングで潜在的な能力を開花させていくのは、そのことですべてが可能になるからではありません。むしろ、「やっていない人たちのなかには、やれば通じること」でも、「やっていない人たちのなかではやるのがあたりまえで、なかなか通じないこと」を知るためです。つまり、自らの勝負をできる場を知るためです。
努力するのは、敗れる限界を知りつつ、そこを破っていくことで、自分の本当の限界を知ることです。
ヴォイトレで声域や声量を拡げたい、でも拡げても、限界があります。あなたの限界を超えてやれる人もいます。上には上がいます。
努力しても、努力していないようにみえる人にかなわないこともあります。そこから本当の個としての勝負が始まるのです。
○限界、制限あっての個性の表現
レベルが上がるというのは、可能性の世界のことです。クラスのなかでバスケットボールが一番うまくても、バスケット部に入ったらどうでしょう。市の優勝校のエースでも、県では、国では、オリンピックではどうでしょう。能力がついて活躍の場が上がるほどに、自分以上の存在や能力をまわりにみることになります。そこから上がるには、誰もかなわないところにいくしかないでしょう。そこから、本来の意味での、オリジナリティが決まってくるのです。
私は「才能があれば…」「金があれば…」「方法があれば…」「トレーナーがいれば…」などという人には、期待しません。大切なのは時間です。時間があなたを変えていくのです。
〇量的な時間と質的な時間
才能、トレーナー、金、方法などは、量の質的転換において使えるのです。
精一杯やれば、今の自分の限界がきます。本当の自分の限界を知るためには、一つ上の何かが必要です。それがレッスンと、それに基づくトレーニングです。
ここで初めて、あなたが判断し行動を統制する才能と、それを補助するトレーナーが、本当にものをいいます。
あなたの位が上がるにつれレベルの高い参謀が必要になります。
歩兵には参謀は使いこなせません。将軍には参謀が必要です。共に持っている専門能力は違います。それぞれに高めあってきた能力を合わせてことにあたっていくわけです。
〇独自のフォームへ
声は、体が楽器です。そこで、共通して人間のもつ体というところで、あるところまでは共通のトレーニングができます。能力、体力、集中力、呼吸など、他のことで共通している基礎といわれるものがあります。
そこからいつかは、独自のフォームを持つ世界へ入るのです。野球でいうと王、張本、野茂、イチローといったところでしょうか。
オリジナリティとは、他人がまねられないフォームの確立のことです。その結果による実力が一流の証明です。
歌やせりふはアートで、スポーツより自由が効くので、本質のが見抜きにくいです。見抜く人は早くオリジナリティの壁につきあたります。見抜けない人や、他人のようになりたい人は、異なる壁に突き当たります。見本のようにはパーフェクトにできないという不可能の壁です。
そこに優劣の基準を設けることは難しいことです。人の好き嫌いというもの、ファンという移ろいやすいものに支えられているとするなら、エンターテイメントとしてみるしかありません。
とはいえ、何でもOKです。よいものは人に伝わり残っていきます。そういうものを価値とする、というのは結果論です。
そこまで考えると、ヴォイトレのよしあしも申せません。いろんなメニュや方法で、いろんなトレーナーや関わる人がいるという状況で、私もよしとしているのです。
○成り立ちのありよう、ありかた
まとめておきます。(詳しくは「声の基本図」参照)
基礎←→応用
自分←→相手
積み重ね←→飛躍
これらは左から右へいくのでなく、インタラクティブ(双方向性)です。
ヴォイトレは、体から声へ、そして、自分の声へ進んでいきます。
歌やせりふは、表現の必要性から声を引き出していきます。
トレーニングでは、地力、底上げ、再現の確実さ、徹底した丁寧さを目指します。
レッスンには、いろんな目的があります。私のレッスンについては、内容としては次の4つが中心です。
1.日常のトレーニングのチェック
2.声のチェック―体、息、発声、共鳴、それらの結びつき
3.表現のチェック―声を中心としたオリジナリティ
4.ステージのチェック―表現を中心としたオリジナリティ
〇ステップとメニュ
歌でもせりふでも、歌手でも役者でもかまいません。
何かをチェックするということは、一つ下に戻って、支えるためのそれぞれの要素を、より確実に行なう、行なえるように調整したり、鍛えたりすることとわかります。
歌は、歌としてみるのですが、そこでチェックしたり直したりするのではありません。そこでの問題を一つ戻って、それを成立させる各要素の成り立ちのありようをみるのです。
ヴォイトレというのは、歌のありようをみて、それをバランス調整するだけでなく、どのありかたなのかを根本まで遡ります。たとえば、舌や軟口蓋や喉頭の位置などをみて直すようなのは、こういう理由です。
トレーナーは、表現をみながらも、その基礎のところまで、いくつかのステップを戻ります。連続的に、かつ構造的に捉えていくのです。医者の診察のように仮説をたてながら、不足している情報を得るために、メニュ(この場合は、チェックリスト)で本当の問題をあぶり出していくのです。あるときは部分的により丁寧に絞り込んでいき、包括的にみます。
何かを習得させるためにメニュがあるのではありません。問題を拡大して本人に気づかせ、自ら修正できるようにするために、メニュを与えるのです。レッスンは気づかせること、ピアノを弾いているだけでも、スケール範囲、テンポなどをいろいろと変え、気づかせようとしていきます。
〇沈黙のレッスン
教えないで気づかせること、それまで待つ沈黙のレッスンこそが、もっとも本質なものと思います。教えないレッスンが成立するには、生活からの表現の感覚が磨かれているか、磨かれてくることが大切です。
教えられることがレッスンだというのは、私からみると依存症です。今の日本の教育を受けたらそれも当たり前となった人がくるので、成り立たせることが難しくなります。商品のように「払った分、ノウハウを教えろ」となるからです。
ことばで言うのは簡単ですから、多くのトレーナーはすぐに教えます。教えていると楽だし、気持ちいいし、時間も早く感じるから、先生というのはとかくしゃべりたがります。求められないことまで話してしまいます。その方が生徒の受けもよくなり、充実したレッスンになります。しかし、これこそが虚構のトレーニングなのです。
私はトレーナーに「話すな」「理論を言うな」「教えるな」「やらせてなさい」と、時折、注意します。力のないトレーナーは知識や理論を使わないと間がもちません。
最初はしゃべれなくても慣れてくるとしゃべれるようになります。受けがよくなり、2、3年放っておくと話がとても多くなる。自分が学んだり、他で気づいたことを話しまくります。本人の気づかない慢心も出ます。私はそれをメッセージや会報ですませるようにしています。文字にするとフィードバックができるからです。
〇活かすか育てるか
レッスンの目的を個別(その人のオリジナリティ)のモデルか、共通の要素(誰にも必要と思われるもの)に重きをおくのかで、そのスタイルも大きく変わります。
「誰にでも必要と思われる」ことは、オリジナリティの価値がある人ほど必要としないこともあるので、そこでトレーニングをどう考えるのかは大きな岐路になるわけです。
たとえば、オリジナリティを重視するなら、その人の今の全部、歌い方を、作品、ステージ、音響も含めて、どう活かせるかを考え、声についてもそれに最大限必要なところまで伴わせます。これは、プロデューサーや演出家的な立場です。すでに選ばれたものを選んで絞っていく、即戦力として役立てるためのレッスン=調整なら、これでよいのです。
しかし、育てていく立場なら、その人中心に考えます。その人のよいところが活かされる(基礎の徹底)のと、仕事になる(求められる)ことは、必ずしも一致しません。
私はその一端として、声楽を音大にいったつもりで学ぶようなトレーニングをお勧めしています。
○音大リスク
研究所では、発声については、ある面では、音大やスクールよりも効率をよく伝えられていると思います。発表に重点をおいていない分、そのためのロスを基本の声づくりに集中させられるからです。
研究所には、少なくとも8つ以上の音大の声づくりのノウハウをおいています。
これは、私一人が教えることとはケタはずれにパワフルな体制です。
「一人のトレーナーの考え方や方法、嗜好で結果が左右されるリスク」が防げます。
トレーナー同士が話しあえば何事も解決するわけではありません。それを徹底していくと、意見、見解も分かれることでしょう。それでも本人に多角的な気づきを、早くたくさん与えていくこと、同じ期間や同じ練習に対して、よりよく変えていける可能性が高まります。
〇効率とステップ
効率というのは、一つの指標にすぎません。情報が優先される世の中において、即興的効果、早ければ1回ごとと、1、2ヶ月で何かを効果としてみせることを強いられるトレーナーは、そういう方法やメニュをとらざるをえないからです。
これをわかって行っているならまだよいのですが、トレーナーによっては、いらっしゃる人が充実したり、満足するのがもっとも正しいと信じているのです。こうなるとビジネスか癒しです。ヒーリングなどにもその傾向が強くみられます。
「早く2、3割よくなるプロセス」と、「時間がかかっても2、3倍よくなるプロセス」とは一致しません。早く2、3割よくしていこうということが、その先の可能性を低くしてしまうのです。
初心者用レッスンというのが第一歩として、第一ステップとなればよいのですが、入口に入れない第一歩であることが多いからです。
より高いレベルにいたるには、より深く掘り下げなくてはいけません。建築物のように、高さを考えるほど、土台を深く堀ることを優先することと思っています。自己流を停止させ、基礎を固めるのが初心者用レッスンと思うのです。それが本人の自己流と異なっても、トレーナーの自己流となるのはよくないでしょう。
〇即興的効果の限界
現実にステージをやっている人がくると、今さら土の中にいる蝉のような潜在期をもつことは難しいのが現状です。オーディションや大きなステージ前には、柔軟的なこと、調整以外のことは、薄めてステージに差しさわりのないように、用心しなくてはなりません。「ヴォイトレをやったら、へたになった」と言われかねないからです。だから、柔軟、のどの調整がヴォイトレのように思われるようになってきたのです。
ワンポイントアドバイスなら調子がよくなるのですが、根本的に変えていくようなトレーニングをすると、一時的にバランスをくずし、調子の悪くなることもあります。
自己流で泳げている人に、コーチが正しいフォームを教えたら、一時は、泳ぎにくくなり、記録も上がらなくなくなるでしょう。ふつうは、バランスがとれず疲れます。
ここでメキメキよくなるのは、自己流というのがひどかった人だけです。そういう人がヴォイトレにも多くなってきているので、問題がややこしくなるのです。
ここで正しいというのは今日結果が出るので正しいのでなく、将来、今とは比べられないくらいに飛躍した、よい結果が出るので正しいということなのです。それを今日だけでみるなら間違ったフォームとさえなります。
○腹式呼吸を例に
たとえば、呼吸法だけでも変えたら、発声は今までよりうまくいかなくなります。声を変えたら歌もうまくいかなくなります。といっても、肺呼吸をエラ呼吸にするわけではないのです。
トレーナーは「腹式呼吸に切りかえなさい」と言うのですが、「胸式と腹式を併用して呼吸しているのを、腹式をより働かせられるようにする」ということです。「より高度の必要に使えるようにする」ということです。
「長く伸ばす」とか「大きな声を出す」とか、「楽に出す」というのが進歩としてわかりやすいので、目的にされます。本来は、「より繊細にコントロールすること」「息から声に、より確実に変え、理想的に共鳴し、それを支える」ということです。
「より大きな必要に耐えられる」ように、胸式呼吸でがんばると、肩や胸が上下にも動いてしまうので、発声に支障が出ます。それを抑えられたらよいだけです。お腹で横隔膜あたりで対処するのです。
それは発声のためという、生命のためとは異なる機能で強く求められたために生じたことです。そのために呼吸法、呼吸トレーニングがあります。といっても、それも日常の延長上なのです。より大きな表現、より大きな必要性があって身につくのが理想です。
「○○法」とかいうように、特別のメニュをつくるのは、そこだけに要素を分けて、集中するためです。
〇余裕と余力
表現するには、ギリギリの基礎より、やや余裕をもって余力のあるくらいに身につけておいた方がよいということもあります。
より早くより強く身につけられる、これが私の考えるヴォイトレ、つまり、トレーニングです。
ふつうのヴォイトレは、「胸式を腹式に切り替えましょう」レベルですから、何年たっても、結果として、あまり身につきません。1、2回でも、あるいは1、2ヵ月でも、そのような感じにはなります。緊張気味のレッスンで、少しゆるめたらそう感じるだけです。パンに飽きて中華を食べるとうまいと感じるようなものです。日常での少し運動したあとくらいの強さの呼吸にすぎないのです。他のスクールからきて、腹式呼吸や腹から声を出せるような人は、10人に1人もいません。日夜トレーニングしていないのですから当然です。
トレーニングでも、その必要性も高めていないと何年たってもそのままなのです。
〇フォームと基礎
スポーツでも、フォームを教えてもらったところで、それをキープする感覚や支える体、筋力を身につけていかないと、自己流のくせのあるフォームに戻ります。
知らない人よりはましかもしれませんが、できないのは同じです。こういう人は、しゃべるとまっとうなことを言います。ヴォイトレのトレーナーにも、そういうトレーナーのレッスンを受けた人にも、そういうタイプの人は少なくありません。わからなくても、説明できなくても、できていれはよいです。
息の吐き比べ、声の伸ばし比べでもよいでしょう。息での声のコントロール力だけでも、その違いは一目瞭然です。
息を吐けたからといって偉いわけではありません。歌やせりふがすごいこととも違います。ただ、基礎というなら、比べるとわかりやすい。試合でなく、野球の素振りやサッカーのリフティングだけみせて差がわかるというようなものです。
本当の基礎の差はせりふや歌でなくとも、一瞬の呼吸、声でわかります。そういうことが直観的に感じられない人が多くなったのは、困ったことです。
その人の動作や体つき、たとえば、筋肉の付き方からだけでもわかるのが、アスリートの世界です。もちろん、スポーツにもよりますが…。それでも、走ることなどを除くと、スポーツは、楽器のプレイヤー同様に、かなり特別なトレーニングを長期にわたり、続ける必要があります。
それに比するのは、ポップスよりは、声楽や邦楽の世界でしょう。そのためもあって、私のトレーニングのベースの説明は、そうなっていったと思うのです。
○レッスン特有の価値問題
個性とは、多様なものですから、それに基づくレッスンでも多角的にものをみるようにしています。そのことは、共通化、共有化、ルール化が必要とされる実際のトレーニングにおいて、多くの問題を引き起こします。まして組織として、複数で行うと尚さらです。複雑になってもしかたないので、どこかで「エイヤ!」とシンプルに切らざるをえません。たとえば、効果となると、トレーニング前と後に比較ができるような指標をとらざるをえなくなります。
人間は、わかりたいし、わかりやすいほうをよいと思うので、自ずとそういう方向に進んでいくのです。そういう方向に進めている人が評価を得ているとそっちへ行きたくなります。組織ができるといつ知れず、それが固定観念となっていきます。例外を許さなくなっていくのです。ミュージカルや合唱団なども、その傾向が強いですね。何にあっても「道」というものがつくられやすい日本人は、一糸乱れぬことに美を見出そうとする意識が強いように思います。
一般の人だけでなく、さまざまなトレーナーや専門家がここを訪れてくださいます。それが、固定観念を妨げてくれるところがあります。
人は、正解を求めてくるのですが、私は「そんなものではない」と述べています。
私の本を読んできた人も、同じことを聞くことがあります。つまり、突き詰めると「でも、正解は?」
これについては、レッスンという場も、時間が限定された特別な空間として、ある目的をもつ場合での仮の答えとして考えるしかありません。トレーナーに接する時間や場を共有し、ヒントを得るために使うことです。
〇教える関係での偏り
トレーナーの仕事が教えることとするなら、何らかにおいて教えられる人よりすぐれており、そのスキルを伝えることで仕事としているからです。
すると、歌ってきた人とこれから歌う人の間では、歌ってきたことで知っていることを伝えるのが教えることにもなります。プロがアマチュアに教えるといっても、表現のプロもいれば、指導のプロもいます。何をもってプロとするかは大変にわかりにくいことです。アマチュア同士で教え合うこともあるので、あまり区別しないでよいとも思います。
スクールでは、入ったばかりの人が、すぐにトレーナーに勧誘されてなっているケースもあります。そういう人は、いろいろと困って、よくここに教え方を学びにきます。教える資格がないとは思いません。長年やっているからといって問題がないともいえません。完成することのない、奥の深いものだからです。
レッスンやトレーニングでは、「教える―教えられるという関係」が生じることによって、それまでになかった、たくさんの問題が出てきます。それらのなかには、教えるという体制をつくるためにつくられたもの、人によっては必要のないもの、役に立たないもの、害になるものも少なくないのです。
○文化とプログラミング
私は、どんなメニュもやり方も、ないよりはあったほうがよいと考えています。選ぶ機会が多様にあるのが豊かなことであり可能性も広がるからです。そのなかから選ぶだけではありません。自ら創り出すための材料となるからです。一人でゼロから創ることを考えてみたら、どれだけ助かることでしょう。
人類は先人の経験を生かし、文明や文化をつくり出してきました。継承の上に創ったから偉大なこともなしえたのです。
文明は共通に基準化され、伝達され模倣されて発展します。一方、文化は、一般人、一個人、一地域、一時代のオリジナリティを元とします。この二律相反の問題には悩まされるものです。
あるところまでのプログラミングは、文化、芸術の理解、指導、習得に有効です。私が方法やメニュを一個人でなく、組織として扱い、それを通じてまとめ上げ、公開するのもそのためです。
第一段階として、材料を一覧化しています。第二段階として、ノウハウやメニュを欲しがる人が多いのですが、必要なのは、基準とそれを満たす材料です。
表現は基礎を必要として、基礎によって可能性を大きくします。しかし、基礎そのものの中や、その延長上に表現が生じないことも多いのです。小説をいくら読んでもよい小説が書けるのではありません。それをいうなら、いくら書いてもよいのが書けるとは限らないともいえます。
声は基礎、表現は歌やせりふとなります。声を出しても、そのまま表現にはなりません。それは、よい竹を叩けば、よい音が出るというレベルです。尺八の音にするには、楽器として加工し、演奏者が技術を高めなければなりません。そのレベルでの表現を私は目標にしていますが、難しいものです。
〇基礎の声
声が基礎、でも基礎の声とは何か、ということが最大の問題です。人間としてもって生まれたもの、例えば顔などと同じで、時代や違いによってよしあしはあっても、正しいとか間違いとかはありません。今、流行の歌や声というならあるのでしょうが…。
「どの人の声にも間違いはない」ということです。いろんな問題を抱えて、いらっしゃるのですが、本当に問題になる人は1パーセントくらいです。声が出ないとか歌がへた、音痴が直らないといっても、その1パーセントの人以外は、大して深刻な問題でないのです。
その1パーセントの人の問題は、声の器官、耳(聴覚)、脳の問題があげられます。医療の分野やメンタル的なアプローチを要します。
多くの人は、「本来の問題をきちんと捉えられていない」「足らないものを知って補充していない」だけです。それをチェックしていくのがトレーナーの第一の仕事でしょう。
そこでも大半は、声というよりは、話や歌での機能での問題、声量やことばの明瞭さ、滑舌(発音)や音感、リズム感の解決をはかります。不慣れなら慣れていくことで、ほぼ解決します。緊張などメンタル面も大きく関わっています。
舌、表情筋、呼吸筋ほか、柔軟性や運動不足などの日常生活のもたらすものが関係します。そこからみると、発声の効率などは、基礎であるのに高度な問題です。
〇くせをとる
本人の声と本人の理想とする声(憧れの声、モデルとしての声)とのギャップは、問題です。
声の判断基準は、いろんな人の声を聞いて、できてくるものです。多くの場合は、自分の声から目指すべき理想とイメージでの理想にギャップがあります。
すでにこれを無理に(くせをつけて)のりこえると、自分本来の発声でなくなっているのです。歌うときにはもちろん、日常の声にもくせはついているものです。
自分の発声と思っているものも、本人のもつ生来の声に、育ちや生活(環境や習慣)が入って、姿勢などと同じでくせがついているものです。ですから「くせを取り除く」というのが、レッスンの第一の目的となりやすいのです。その結果、そこでは悪い意味で合唱団の発声のようになることが多いのです。体や呼吸の使い方も、声量を抑えて丁寧にということで不問になるのです。
それが本人らしい声なのか、理想の声なのか、他人の求める声なのか、いろんな見方があると思います。
私は何であっても、できないよりはできた方がよいという判断もしています。表現の可能性、応用性を大きくしていくのが、トレーニングの目的でもあるからです。合唱のできる人は、できない人よりもよいのです。ただし、そこから踏み出せたら、です。
〇応用力のある声
基礎としての声をどのようにするかは大変な問題なのです。多くのケースでは、「シンプルに認める」か、「タッチしないでスルーする」というようにされています。
私は、これを応用力のある声と捉えています。
体の中心からの声で、共鳴した声でなく、共鳴を自在にできる声、
芯のある声、小さくても聞こえる声、通る声、深くてパワーのある声、
口を動かさなくても発音が明瞭な声、
聞いて心地よい声、その人らしい声、説得力のある声、しぜんな声、
器の大きい声、限界のみえない声、
と捉えています。
○よい声とタフな声
私が皆さんと接して使っている声は、もっとも私らしい理想の声やよい声というよりは、仕事を完遂できる声です。崩れずに8時間以上の持続に耐えられる声です。よい声かどうかは別にして、タフな声、強い声です。仕事に使うのですから仕事の声です。
レッスンのなかでは、変えることもあります。使える声といっても、応用されるのですから、ケースバイケースで多様なものです。
応用というのは、ある意味では調整でなしていることです。自分のもつ器のなかで上下左右と動かしていくことは、器の拡大とは違うのです。これを上下左右、器のなかでも大きな振り幅で動かしていけると、結果としてしぜんと器を大きくしていくことになります。リスクをおさえ、時間をかけてやっていくことで、トレーニングとしてみると正攻法なのです。
大人の声になっていくのは、人生の歩みとともにある声です。トレーニングではない、しぜんな日常の声の進歩が、本来は理想です。
〇強さを求める
誰もが歩いたり走ったりしていたらオリンピックに出られるとか、記録をつくれるわけではありません。高いレベルを求め、自分自身の不足を補い、能力を早く手にいれたいとなると、無理が生じます。その無理を承知の上でセッティングするのがトレーニングです。私は「トレーニングは必要悪」と言っています。
今の器を大きくするのは、今の形を壊すともいえますが、違うものをゼロからつくるのではありません。ベースに今のあなたの声があります。その最大の器をみます。そのまま全方向へ伸ばすのではなく、ど真ん中の声をみて、そこをつかみ直して、可能性をマックスにしていくのです。
野球で言うと、ストライクゾーンを拡げるのではなく、もっとも力を発揮できるコースを絞り込んで、自分自身のストライクゾーンをセットしていくようなものです。それが資質や応用性に恵まれていて、ルール上のストライクゾーンを包括するくらい大きくとれる人もいれば、その半分くらいしかとれない人もいるかもしれません。
しかし、勝負すべきは、広さではなく強さなのです。
声の広さというと声域になるのですが、ヴォイトレでは、高音を目的にトレーニングをする人ばかりが目立ちます。そのためのトレーニングとやらは、長い目でみると、方向違いになりかねません。トレーナーの指示とメニュで、一時的な上達に長けてしまうことも少なくないのです。
高い声が出るようになっただけ、声質(音色)やコントロールは、初心者のままという結果です。何年たっても、そうであれば、プロセス、そしてその目標のセッティングが違っていたのです。
○刷りかえで教える
たとえば、「歌える体づくり」といっていながら、「声の向き」の指導において、「できましたね」とほめるときには、いつのまにか声の高さが変わっています。「向き」ということをポイントにするのは、悪いことではありません。
高さが変わってできるようになったのなら(それが目的なら)よいのです。そうでなく、最初からできる高さに問題をすり替えて、「できた」というのは、まやかしにすぎません。
自信をつけ、トレーナーの信頼感をもたせるためにしているのなら、一種のトリックです。右に求めていたことを左にしてOKと思わせているのです。多くのトレーナーは気づかずにやっているのですから罪はありません。トレーナー自身が気づいていないのが、今の日本のヴォイトレのレベルです。こういう例はとてもたくさんあります。意図せずやっているのです。
〇目的のための仕掛け
私やここのトレーナーは、多少、意図的に使っています。私は知って使っていますが、知らないで使っているトレーナーがいたら、そこは注意します。そういう手練を知った上でレッスンに役に立つなら使ってもよいと思っています。しかし、これをトレーニングとか、トレーニングの成果とすべきではありません。
レッスンに、こういう仕掛けをするのは、目的を遂げる手段の一つとして容認しています。ただし、トレーナーが知っていて、トレーニングのために役立てることが前提です。リスクも使える範囲も知っていて、処方するからこそ、専門家です。
こういう場合、声を害するのは、注意を守らない人の一人よがりの自主ハードトレーニングです。
こうしたトリックがトレーニングと信じているトレーナーも少なからずいます。すると、レッスンを受けても変わりません。次のようなところで、こういうトリックは、よくみられます。
高い音に届かせる→あてる
音程、あるいは音高を正しくとる→あてる
大きな声にする→ぶつける
その日に行う下半身の筋トレや、股関節の柔軟、お腹のふくらみ、お尻の穴を締める、手を上げるとか、このあたりも、状態の変化を促すためのとってつけのようなものです。何かを変えるためにやっても、プラシーボ効果です。
「気持ちや体の状態が変わることで初心者の声は大きく変わる」「変わったように聞こえる」ので、よく使われるのです。どれも、高いレベルでは使えないことで、本当に変わったといえないのです。
○「お腹からの声」の嘘
大きな誤解の上で行われている一つは、「お腹からの声」「腹式での発声」「声量のある声の出し方」でしょう。質問にも多い事柄です。
高音に届かせたり、喉をはずしてクリアな声にしたいなら、そう出すことは調整でできるようになるのです。しかし、その実、ぬいたり、そらしたり、逃がしたりしているだけのことが多いのです。ポップスのトレーナーの見本をみるとわかります。
カラオケになら使えるのでよいとして、「体からの声を腹式呼吸によって(同時に)出す」というのは、一般のビジネスマンなどの声の指導などにも使われるようになってきました。しかし、大体が「押しつけ、無理をした声、お腹を固めた声」です。
そうしたトレーナーの見本の大半が、お腹からの声でなく、「のどで胸に押し付けた声」になっています。そうでないトレーナーは、ごく少数です。
〇演出としてのトリックと実際
しぜんにお腹から出ている声では、レッスンとしてわかりにくいので、わざと、体や息を使っているようにみせるような“演出”が必要なこともあります。深い息を、無音なのに、有音にしてみせたりするのは、私も演出(先の「トリック」)として使っています。しかし、トレーナーがそれを本当に「腹からの声」と思っていると、どうなるかわかりますね。のどを乾燥させたり痛める危険が大きいでしょう。
私は「トレーニングは無理を強いるもの」と言っています。それが、本当に使える声として反映するまでにはかなりの時間、タイムラグをみています。
「できないことは簡単にできるわけがない」というのが原則です。「すぐできたらおかしい」と言えます。そこで教わって、すぐにできたとしたら、それはトレーナーがすごいのではなく、トリックです。
フィジカルトレーナーのところでも、いくつかの例を示しました。それが入口で本人のモチベート、やる気になるならよいことですから、私は反対はしません。
ただ、そういうトレーナーが多くなると、そうでないことをしっかりと時間をかけるトレーナーを無能に思うようなことがあるのが問題なのです。「どこまで求めるか」ということです。
○「できる」ということ
ある能楽師の話です。「鼓というものは最初うまく鳴らない。手で打っていると、よい音が出るのに30年もかかる」しかし、「そのあともずっとよくなっていく」そうです。それを最初から無理に伸すと、板などで打つと、すぐに音が出るようになるのですが、長持ちしないそうです。発声も同じことに思います。
体からの声でも、調整としては部分的な障害として、力が入っているのを解決するのに、脱力、柔軟などをします。呼吸の扱いの向上が発声へ結びつきます。共鳴のイメージと共鳴の向上など、本一冊では述べられないくらいチェックポイントがあります。それは求めるレベルや人によって変わります。
姿勢を定め、固定し(下半身の力で支え、上半身のリラックス)、フレーズを短くすると、できたように感じます。しかし、そこで間をとらずに8フレーズくらいに伸ばすと、もう対応できません。「ハイ」でも説明した通りです。
歌やせりふで、バランスや間や流れが悪くなっているのに、「できた」とは言いません。メニュを使わなくても、1フレーズで、ゆっくりと短めにやればできていくのです。
〇両立させる
トレーナーの考えた方法やメニュでできたように思わなくてよいです。その分、他のことが疎かになり、両立できていないのをみていないだけです。つまり、ABCDEの課題で、ABCDができて、Eができていないときに、Eだけやって、できたというのは一つの要素を取り出しただけです。A~Dと両立できていないのです。本当は使えていない、使えないのです。Eだけでやれば元々できているのを、「できた」と思っただけです。本当にできていたら、すでにA~Eのなかでできているのですから。A~Dとともに使えなくては本番では使えないのです。
「一人でやるとできない」というトレーニングには、こういうケースが多いのです。こんなことはレッスンを受けている人は知らなくてもよいのですが。
「できた」と思ってやる方が、「できていない」と思ってやるよりも楽です。その錯覚を利用するのは、一つの方法です。
つまり、ABCDは○、Eは×を、ABCD-×、E-○にしてみせたのです。もっとも多く犠牲にされるのが声量です。小さな声にすると、他のことはうまくこなしやすくなるのです。
体を鍛え、息を深くして、声の結びつきをより強固にして、その結果、体から出た声は、聞くだけで違います。姿勢も、ポジショニングも、呼吸も発声も「しぜん」のままに体から出した声でないと「ふしぜん」で、しぜんには使えないのです。
私はビジネスリーダーに、「アナウンサーのように話すな」と言います。役者や歌手に、「ステージで腹から声を出すとは考えるな」と言います。
調整は今すぐ使えるとしても、トレーニングが今日使えることはありません。アナウンサーのような滑舌練習、オペラ歌手のような腹式呼吸の練習は、毎日やります。
○心身の問題
筋トレや柔軟に対して、私は「自分のメニュ」と「教えるメニュ」と分けています。
「他のトレーナーのメニュ」も否定もしません。「どんなメニュでもよい」と言っています。本人にとってよいのか悪いのかは別のことです。
どんなレッスンでも、生徒もトレーナーも思い込みのなかでやっています。ですから、「あまり片寄らないようにやる方がよい」といえます。
たとえば、走ることをいくら練習しても、山を登るときはつらいでしょう。それには階段を上るような運動の方がよいトレーニングになるでしょう。
息を深く吐いてみるのは、深く息を吐くためでありません。表現の声の必要に応じた深さで入れるようにするためのシミュレーションです。「息が浅い」と言うのも、ことばへの感覚やスピード感が劣っていることが問題なのです。すぐに息を深くしても直りません。
喉が弱くなった。
声量がなくなった。
声域がせまくなった。
これらは、一つひとつの問題より、心身の問題であることが多いです。発声法や喉の問題にするのと、トレーナーとしては教えやすいし、そこでできたように思わせられやすいからです。心身のトレーニングで、あなたの実力は2、3割は、アップする(取り戻せる)はずです。
〇一つの声として、みる
魅力的な声
説得力のある声
強い声
よい声
安定している声
これらは、それぞれに違います。できたら一つの声(の応用)でまかなえるのが理想的です。すべて自由に変じて対応できるのが理想ですが…難しいものです。
自分の声を中心に、自分の声の中心をみつけ、イメージや理想をその可能性のマックスのところにおきます。そうするようにできるようにすることです。
あこがれの人の声を中心にして、まねていこうとしたり、そこで自分の声とのギャップを埋めようとしないことです。またいくつもの声の出し方をそれぞれに使い分けて、つくってしまうようなことも感心しません。教え方としては一般化しているようですが、特別な目的の場合を除いて、私のところでは行っていません。
発音、話し方、歌い方などの表現においては、一流の作品からストレートによい影響を受けてください。そういう環境に身をおきましょう。
たった一人の相手を見本にするのでなく、何人もの一流の人から多面的に刺激を受けて、自分の未熟さを補いましょう。一流のアーティストの共通のベースに気づき、自分の不足を補っていくといのです。
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