No.347
援護
格闘
苦心
至言
金言
妙諦
修行
芸人魂
驚嘆
弱音
叱言
真似
心持ち
一歩
プライド
プロ根性
愚かさ
徳
小賢しい
気質
一途
語り分け
ドラマ
調子
曲芸
こっけい
八人芸
人物
苦心
面白さ
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援護
格闘
苦心
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金言
妙諦
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芸人魂
驚嘆
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叱言
真似
心持ち
一歩
プライド
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小賢しい
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語り分け
ドラマ
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人物
苦心
面白さ
<レッスンメモ「処し方、動き方」>
若い人材へのハードルは低くなっている
臆病でも、それを自覚して、成長していく
普段から他人をみて、言動をシミュレーションしておく
ノリから浮くことが許されない状況におかれても、支配する空気を変える行動を考え、実行する
心理的防御機制や自己責任への合理化を意識する
仲間内でどうみられるかで動かされてしまうことを知る
自由には、コストがかかる
努力に伴う我慢への覚悟をもつ
世の中や社会との取引を学ぶ [580]
<レクチャーメモ「仏教と宇宙」>
○般若心経
色は物質。空、波動はエネルギー。
物(質)は色、波動、エネルギーです。
空、波動、エネルギーは物(質)です。
色=存在、物質(的現象) 空=(物質で)ない
波動、エネルギー
現象としての存在がそのまま実在です。
実体はなく、生成して消滅する現象があるだけで、固有の本質などはないのです。
不生不滅―相補性、ゆらぎともいえます。
○宇宙、しぜんのリズムとハーモニー
宇宙の律動、体の胎動
体は、29種類の元素でできています。9割は水素、炭素、窒素、酸素
肉体4%
ダークマター エーテル体
ダークエネルギー
アストラル体 感情、欲望
メンタル体 表情、知力
コーザル体 概念、超個
あとは、太陽系外から混入したものです。
ストリングスの振動、ひも理論では、10次元
膜宇宙論で11次元
ブルーン宇宙論
しぜんはフラクタル [536]
歌唱論(Ⅲ)
○客観的にみるということ
どのように歌唱するのかは、一人ひとり違います。
私の場合はいくつかの条件のもとにみています。それは、私自身の感情、心とは別に、仕事としてみるということです。私自身の好き嫌いと別にみることです。
ですから、ファンの人が、ある作品に感動していたら、それはそれでよいことと思うのです。歌い手や演奏者が、自分なりに満足のいったものであれば、さらによいことです。そこに対して、私は一言もありません。一人ひとり、それぞれに違うだけでなく、時代や場所、そのときの気分でさえ違って聞こえるものだからです。
よいものが多いなかでは普通のものは悪く聞こえ、よくないものが多いなかでは普通のものでもよく聞こえます。よいものをあまり知らない人やそういうものをめったに見聞きしない人には、どんなものもよい感じになります。そのまま評価されることが多いということです。イベントやライブの客の評価が当てにならないということです。
○機能的な面での基準
声をよしあしを正確にみるというなら、機能的なことのチェックとなります。これがトレーナーの役割のように思われていますが(そういうトレーナーが多いのですが)、私は、表現への可能性をもとにみます。視点が違うので、見解が異なることが多いのです。そのために、的確なことばにすることが求められ、造語力や文章力も必要不可欠と思っています。
機能面でのチェックについてみましょう。
1.音程、音高(メロディ)
2.リズム
3.発音、せりふ(アクセント、イントネーション、ことば、方言など)の正しさ
4.声量
5.音色
などが含まれます。
1から5にいくにつれ、ノリや心地よさなどというあいまいなものになります。ビブラート、ロングトーン、発声の明瞭さ、フレーズでのよしあし、発音(外国語)なども、それらを支えるための要素として出てきます。そして、解釈や構成、展開などがあります。
○レッスンでの見方
私がトレーナーとして、みるのは、
その人自身とその声、
その声の可能性、
その声の表現での可能性(フレーズ、音色など)
本人サイドのこと
それに加えて
ステージ、歌、パフォーマンスも含めた表現力
作品、ライブ側との結びつきです。
目的に対して、何が欠けているのか、何を加えられるのかをみます。
そのためにどういう手段があるのか、何が必要か、それは声において、どう解決されるものか、解決できるのか、あるいは、ときに、声以外で何とかすべきものなのかということです。
本当に一人ひとりそれぞれに、ややこしいのです。
表現からのアドバイスは、プロデューサーや演出家に近いことなので、いろんなことに通じていないといけません。
可能性がないようなときも、工夫やアイデアしだいで最高のものにもっていく道筋を発案して、そこまでひっぱる力が必要です。
○参考意見として
本人の作品や声については、質問を受けても、本人自身がいないときは(イメージであるところまでは出せますが、却って、否定的になりかねないので)難しいし、参考意見にとどめさせてもらいます。本人の目的、表現やステージが、具体的にみえないときに、ことばにするのは難しいです。
それでも、それなりにイメージで補って、その仮のイメージを伝えながらアドバイスすることが多いです。発声を、「声のマップ」をつくって図示していくのと似た手法です。
質問の多いのは、「誰々の歌をどう思いますか」ですが、そんな答えは出せません。
出してみたところで、アーティストにもそのファンにも関係ありません。
目の前の相手にシミュレーションしてみるのに、レッスンの材料としての見解としてのみ示します。レッスンに役立つようにコメントするのです。
作品は表現ですから、好きにやったものを好きな人が聞けばよいのです。ファンとの間に、アーティスト本人のイメージのなかに成立していることに、トレーナーが口を出しても仕方ないのです。
「何とかしてくれ」と頼まれて、初めてレッスンは成り立つのです。全ては程度問題で、その必要性は本人自身が自覚することでしか成立しえないのです。本人がこれでよいと思ったら、それはそれでよいのです。「何か違う、足らない」と思えばこそ、ヴォイトレ、その他が必要となるのです。
○守りのヴォイトレ
最近は、創造的、冒険的でポジティブな試みよりも、守りのヴォイトレのようなものが増えています。のどが疲れるとか、声の調子がよくないからということへのフォローとしての利用は、調整だけになりがちなので、あまり、お勧めしないのですが、大半はこういうケースです。
そのように追い込まれてしまうくらいの力しかないとか、そうならないと気づかないことが、本当はおかしいのです。実のところ、攻めない限り、守れません。
とはいえ、心身の不調でマイナスになった状態をゼロにするためには、フォローが不可欠なので、受け持っています。このフォローとしてここを利用している人もいます。
これにはパーソナルトレーナー、マッサージ師のような役割が期待されます。人によっては、とても大切なこと、不可欠なことです。
心身の方からみるのは、表現からではなく、一個人の体から、声の状態を調整することになります。ですから、そこでは調整ですが、それをしっかりくり返していくと条件づくりになってきます。「底上げ」として再現力の基礎となります。調子を崩しにくくなる力として表れてくるのです。
〇守りから攻めへ
のどの状態チェックと実力を判断しても、将来への可能性をみる方へ力を入れないと、本当に力をつけられないし変わりません。
その時点での判断は、医者の診断に似ています。近代西洋医学は、手術など対処的に問題を解決します。ステロイドの効果の即効的、かつ大きいことは驚くほどです。
心身のリラックスによって、のどの発声を外して共鳴の効率をよくすると、一時的によい声がとりだせます。そういうことを注意するのを中心としているトレーナーは少なくありません。でも、病巣と違って悪いところをとってしまったらよくなるというものではないのです。
私のトレーニングはハードに思われていますが、漢方医のようなものです。目的や声のレベルもそれぞれに応じて変えます。そして、時間をかけてゆっくりと変えていきます。発声より、それを司る呼吸や頭を変えていくのです。体という器を大きくしていくことで応用や再現力を高めていくのです。
○形と流れ
歌の1コーラスは、大きな声で4つから8つくらいの文章を読みあげるくらいにしてください。フレーズとして、息はともかく、流れは、つながっているのです。外国人がそのくらいで捉えているものを、日本人は、16から32くらいで細かく捉えます。歌の形を声でコピーしてしまうからです。表現としては総じて固くなり、緊張を欠きます。ことば単位で切って、つなげようとすると低い次元になります。
プロは表面の加工技術に長けているので、一般の人にははっきりとわかりません。でも、感じられるものです。問題は、本人がそのフォローを技術と思い、固めてしまうこと、そこでアピールできるものとしてテクニカルに使ってしまうことです。
発声や歌唱は、迷いや不安が入るだけで安定性を欠いてしまいます。しなやかさ、柔らかさ、伸びやかさは、音楽としての心地よさのために、もっとも大切にすることです。しかし、なかなかみえません。それは、せりふにも通じます。自信をもって使いきると、それなりに説得力をもって伝わってしまうのが、せりふや歌の困ったところです。
〇意図を表現
曲から離れて全体をつかんでみましょう。楽譜を歌うのでなく、歌全体の意図を歌うのです。
声を一つずつ伸ばしてつなげるのは、日本の合唱などにはよくみられます。うまくいくと心地よさが眠気を促すようになってきます。一つずつ均等に伸ばすような日本語の母音に忠実であるほど、表現としては、間伸びしたふしぜんなものになりがちです。インパクトが切り捨てられているのです。
均等というのは、楽譜やプレイヤーの演奏上、そういうルールのときもありますが、スタッカート、テヌートでもない限り、動かさないと表現としての緊張を欠きます。
次の対立項は、日本人の歌唱、特に日本語の歌ではよくみられます。声とフレージングが、これらの2つの溝を埋めるだけでなく、超えていたら、表現としてはかなり強いインパクトを持ちえるのです。
メロディ ことば、リズム
伸びやかさ(声量) きめこまやかさ
レガート(スタッカート) ことば
ロングトーン ことば
声とフレージングが、これらの2つの溝を埋めるだけでなく超えられたら、表現としては、かなり強いインパクトを持ちえるのです(目指している目的自体がずれている人の多いのが、日本の歌唱の問題です。拙書「自分の歌を歌おう」で詳しく触れました)。
○ダルビッシュ有とパワー
世界へ出ていくサッカー選手や野球選手はよい参考になりますが、ダルビッシュのアメリカでの活躍もその一つでしょう。渡米前、「技術でなくパワーそのもので世界に挑戦したい」と言っていました。技術で勝っても本当には評価されないから、パワーで打ち勝ちたいということです。日本人も、チェンジアップや変化球で買われていたピッチャーだけでなく、野手も大リーグに出ていけるようになりました。イチローのマジックのようなバッティング技術も足も、当初はベースボールとして認められなかったのです(ボクシングでも、ヘビー級がメインなのは、フライ級とか、モスキート級という命名でもわかりますね。小が大を制する美徳を持つ日本人なら、ハエ級、蚊級とはつけないでしょう)。
圧倒的なパワーで勝負できないから、技術で勝負しようというのは、大国に対して小国日本の指針でした。大柄な外国人に対し小柄な日本人のとってきた方法です。しかし、156キロを出せるダルビッシュだからこそ、その負けん気に火がついたのです。
ところが、初戦から、そのパワーは通じず、変化球主体の投球に変えざるをえなくなります。すべるボールと固いマウンドで、コースが定まらず、シーズン半ばにして大ピンチとなります。そこで、大リーグのコーチは、変化球主体の組み立ての指示を止めます。ダルビッシュは、プライスの投球をみて、ただ足を上げて投げることしか考えていない、リラックスの大切さに気づきます。自分が小指側からついていた足と、彼のベタ足でのつきかたの違いに気づき、改めます。マウンドの土の固さの違いから、ダルビッシュのフォームは不利だったわけです。
このあたりは、NHKでダルビッシュ自身が言ったことです。
本場のコーチも気づかなかった、本場ゆえ気づかなかったのです。そのことに、重要な示唆があると思うのです。
〇修正能力
ヴォイトレでも、トレーナーの方針ややり方、メニュと、本人の上達とのギャップに、悩む人は少なくないからです。
ダルビッシュの言うように、プライドある大リーグのコーチが方針を変えたことのありがたさは、日本では難しいのではないでしょうか。「自分でみつけて、気づいてやっていく。逃げずに立ち向かっていく。まわりの意思でなく自分で向き合ってやる」
自分中心の考え方、まわりの意見で迷ったり、自分自身と向きあうことの得意でない日本人には、見習うべきことです。
着目すべきは、気づくことと、気づいたら修正できる能力の高さです。ゴルフの石川遼も、シーズン中にフォーム改造をして、成績をアップさせました。2年ぶりの優勝でした。
そういう能力をレッスンのときに磨くことです。トレーナーのアドバイスを一方的に聞くのでなく、きちんと判断して、自分にプラスに役立てていきます。ときにはトレーナーのアドバイスも自分が気づいたことでも、これまでの自分に対して異なるアプローチをしてみます。その必要性や可能性について判断して、実際に応用して結果を出すのです。
〇懐とストーリー
ダルビッシュはその後、今年最強のルーキーを、大事な場面で、なんとインハイにストレートで決めて三振にとりました。キャッチャーがOKしたのです。
そういう環境を与える大リーグとのいうものの懐の深さに、ダルビッシュは大リーグに行って、本当によかったと思ったことでしょうが、日本人としては残念に思います。
プロ野球も、相撲も、プロレスもボクシングも、私が子供の頃のような、エキサイティングな環境が失われているからです。選手も監督もコーチも、何もしていないわけではないのですが、明らかにスケールが小さいのです。野村元監督が、○○の○○監督の「何も指示しなかった」というコメントを、「その通り。正直だ」そして、「何もしないからダメなんだ、野球もダメになるんだ」と述べていました。
相手を信用して何もしないのと、指導者の役割を全うするために、考えに考えて何も指示しないのとは違います。現場のことは、そこにいる人しかわかりませんから、何が正しいとか、誰が偉いとかはわかりません。人に伝えるときにはストーリーやドラマをつくってしまうからです。
私たちの現場も、そこから先を考えていくことが大切です。
「ピンチになった、気づいた、変えたらうまくいくようになった」というほど現実は単純ではありません。もっと語られないこと、本人たちにもみえないものが、大きく働いているものです。
シンプルに学んでいくことも大切です。私たちは大リーグに行くわけでも、マウンドに上がるわけでもありませんが、選手のことばや番組のつくったストーリーから学べるものを学べばよいのです。それを明日へ、自分へあてはめて、ヒントにすればよいのです。そのために、ここで伝えています。
○トレーニングは一時、鈍くなる
問題を深刻にしないことは、大切なことです。
声を強く大きくしたいという要望に対して、多くのトレーナーはストップをかけます。なぜでしょう。
私は、ストリートサッカーの時代の必要を説いています。サッカー場でプレイする前に、どれだけボールに触れていたかが、一流のストライカーの条件と述べたことがあります。高い声や大声を自己流でやるのは、本を読んでいるだけよりはよいことだと思います。
でも、多くのトレーナーが中断させるようになったのは、トレーナーが優秀で、そこへくる人があまり優秀ではないからともいえます(私の場合は、私というトレーナーが優秀でなく、くる人が優秀だったので逆です)。習い事なら、そういうものです。優秀な先生からみると、「強く、大きく」は「鈍く、丁寧でない」のです。彼らの立場では、「強く」とか「大きく」は、学びにくるまで自分でやって失敗しているから(その限界を知って)ここでは、大人になりましょうということです。だから、その先に行けないのでしょう。
〇その先のヴォイトレ
私も「体と感覚を変えていきましょう」と、体は鍛え、感覚は磨くのです。プロは、感覚が磨かれているわりに、日本人の歌い手の体は鍛えられておらず(柔軟性にも欠けている)、息吐きメソッドなどを発案したのです(ここでは、私の「ヘビメタ=レスラー論」※を参考に)。
しかし、少しずつ、レベルが下がってくると、感覚(音楽的センスも)の強化がより重要となります。試聴音や音音程・リズムトレーニングを加えました。
感覚(耳)を磨かずに、体(声)だけ鍛えていくと、鈍くなります。体育会系の人などには顕著に表れます。彼らは体や息や声ができているほどに歌にならないのです。一方、トレーニングを積み上げなくても歌手になった人がたくさんいます。声や歌では、それで通じるくらいの日本の市場だからです。そこから先のトレーニングの不毛さを証明しています。
○ヴォイトレ、声楽はふしぜんか
役者や歌手は「ヴォイトレ(特に声楽)にいくと、ふしぜんになるのでやめた方がよい」と言われていたことがあります。それは一理あります。私が思うに、トレーニング=ふしぜんですから、トレーナーに「よい」と言われることのなかでも、のど声になる、オペラみたいな(オペラもどきの、よくない)押しつけたり、こもったりした発声になる、合唱団みたいな(合唱団もどきの)個性のない発声になる、などがあげられます。
「声楽やオペラを学ぶと個性がなくなりませんか」という質問も、よくあります。私の本を読んでいる人は、それは応用と基礎の取り違えであるとわかるのでしょう。
コンテンポラリーダンサーが、クラシックバレエを習ったら、そのダンスがバレエになるでしょうか。本人が声楽の勉強しかしていないし、それにばかりこだわるなら、どう考えても声楽っぽくなるでしょう。
習いにいったくらいで消えてしまう個性って何でしょうか。
よくあるのは個性=自分というのと、表現として現れる、価値としての個性との違いです。これはオリジナリティと混同していることです。
○一貫する
演じるあなたは、あなたであっても、あなたでないし、あなたでなくてあなたです。
「あなたが出たら、歌=音楽は出なくなる。歌=音楽が出たら、あなたは出なくなる。両方が両立、一つになるのは大変なこと」です。
私は、自分=表現=歌=音楽を一つの声として一貫させるのを理想としています。真のアーティストなら、しゃべればせりふであり、歌であり、音楽であり、そのまま作品であり、芸術であるのです。そのために必要なのが基礎トレーニングです。結局は、応用において、どれかが通じていたらOKという現実の判断を強いられるようになりました。
声がすべてでないので、歌がOKならよい、表現がOKならよい、という判断も必要です。でも声がOKではだめです。トレーニングや体づくりは基礎で、それがOKになるのは器づくりや可能性としてのプロセスです。
問われるのは、切り取った作品として歌や音楽という表現です。いくら人間としてよい人でも、歌がだめなら歌手としてだめなのです。
〇ことばにならないこと
ことばにならないことが大切なのです。「星の王子様」みたいなこと(ここの話は研究所のサイトにあります。読んでみてください)ですが、いらっしゃる人と、ことばでやり取りをして長くなることもあります。
わからないことをことばにして整理するのもトレーナーの能力であり、仕事です。でも、考えるまでもなく、ことばはどちらにもぶれさせることができます。論理に組み立てます。
そこで、どうしても雑になります。感じ、イメージから離れます。インデックスです。だから決めたがる人は、ことばを求め、ことばに安心します。そこで止まってしまうのです。
ことばは、詰めるための手段とし、使えるところで使うのにとどめたいものです。あとは、体と感覚に委ねなくては先に進めないのです。私は「本でやるのでなく、本でまとめるように」と言ってきました。
プロセス自体まわりのもの、すべてをみないようにしたら、ことばにできます。でも、それで伝えられたと思えないでしょう。
〇考察
感覚と場を読み取る力
「聞くことに答えない」という答え
他人に委ねられないのに非難するな
自分のことばのフィードバック(のりとつっこみ)
フィードバックをかけすぎる人、ためないと出せない人
継続性、連続すること
一貫しているもの、芯とぶれ
歌のなかの線、声のなかの芯
相手のなかに自分をみること
すぐれたものがあることを知っていること
相手の立場にたってイマジネーションする能力
〇情報のデメリット
最近の若い人は、年齢よりもませて、判断できるレベルを超えて、たくさんの情報を得ています。そのことで、行動しにくくもなります。
情報が多いため、一つずつ目でみて手間をかけることができないので、選択の判断を情報に任せてしまいます。そして、情報から、結果を予測してしまうからです。
やってもみないのに「やってもムリ」と思うと、動かないのです。そこには、「やってムリなら、無駄、損した」というような、省エネ思考が見受けられます。「ムリなことをやるのは恥ずかしい」と安っぽいプライドに支配されつつあるようにも思います。
声を出したり、他人に声をかけることも同じではないかと思うのです。
○声の力を使う
「あなたは、この二日間、何も食べていません。お金も持っていません。さて、どうすればよいでしょうか」今の若い人にそのように聞けば、「ネットで検索して調べます」と答えるかもしれません。ネットで調べても、あなたのお腹はふくれないでしょう。メールで、食べものを送ってもらいますか。
外に出て、通りがかりの人に片っ端から事情を話してみたら、たぶんそれほどかからずに、あなたは一食分、手に入れているでしょう。
声をかけたからです。それが、あなたのすべきことなのです。
もちろん、1、2回でうまくいかないので、そこでやめると動けなくなります。「そんなことをしても、できない」というしばりになります。もったいないことです。もらうことが目的なら、もらうまで、声をかけ続けたらよいのです。
もらえなくても、「ムリそうなのでやらない」というのと、「やってもできなかった」というのはまったく違います。そこで体験ができたということが大切なのです。その体験から学んでいけるからです。
すると、次にやってまたできなくても、少しは近づけます。そうして学んでいけばよいのです。
○失敗は成功の元
情報はいくら手に入れていっても何も変わらないのです。その情報ですぐできてしまうものなどは、できたといわないからです。ただ、やり終えただけです。できないようなことをできるようになって、できたというのです。
できた、できていない、成功、失敗を一時で決めないことです。時間をかけることです。
できないことをやり続けるのが、人生の醍醐味です。
〇行動しよう、声を出そう
何ごとも成功よりも、失敗したときに味わいがあります。人間関係も同じです。失敗しないと成功もまた味わえません。
成功したときに誰もが楽しく失敗談を話します。失敗せずに成功した人はいないのです。
つまり、試みることに意味があるのです。
成功、失敗と白黒に分けるのでなく、成功も失敗も体験しなかったことがもったいないのです。
だから、行動しましょう。はい、「声を出しましょう」ということです。
〇自分の首をしめる声
首をしめたときの声は、死ぬ間際の声で、殺されるような声ですね。「借金で首が回らない」といいますが、本当に筋肉がこわばり、首が回らなくなるのです。すると声も、出なくなります。押し殺された声になります。
暗い声を元気なさそうに使う、ヒネたふりをする、子どもっぽい声を出す、それらは、すべてあなたの首をしめることになります。
昔、私は、ほとんど風邪が治りかけていたのに、まだ具合の悪い振りをしていたことがあります。声を力なく出していたら、本当に気分が滅入って具合が悪くなりました。
病気に逃げると、多くの人は病気に慕われて、本当に病気になってしまうのです。
○バランスを整える
人間の心身は、とても際どいバランスをとって、ようやく成り立っているので、気を抜き、息を抜き、声を抜くと、しぼんだ風船のようになってしまうのです。そのときには、あなたの体は、まわりにあふれている病原菌のかっこうの棲み家になってしまいます。恐いことですね。
しかし逆にあなたが、気を入れ、息を入れ、声を出したら、風船はパンパンに膨らみ、何ごとをも跳ね返します。気合いを入れ、「イエィ」と叫んでみてください。
暗い声を使いたくなったら、まずニコッとして笑い、その気分を吹きとばしてください。
○ネガティブ感情の昇華
自分に否定的な言葉やネガティブな声を使うのをやめましょう。
言葉のクセはなかなかとれません。まず、声だけでも明るくしましょう。
悲しい歌を悲しく歌うのは悪くありません。他人には、悲しさが伝わります。少し救われます。しかし、プロは、悲しい表情で歌い切ったら、ニコッと笑います。あなたの心の悲しさを少しもちあげて、何かを気づかせ、そっと解消させてくれます。それが芸というものです。
人は、救いを求めるのです。悲しいことを喜んで言ってはなりませんが、声はそれほど暗くする必要はありません。陰気にしていると、幸福も逃げてしまうのです。
〇ストレスで声が出なくなる
マイナスイメージのいきつくところ、発声の機能に何の損傷がみられないのに声が出にくくなってしまうことになります。
ストレスによって、心身にはいろんな変化が生じます。そのなかでも、声は比較的、大きな影響を受けます。ヒステリーで声を張り上げ、その後出せなくなる人もいます。
落ち込んだときの声は、暗くこもってしまいます。心の壁を巡らしたことを、声はまわりに伝えてしまいます。
「一人にしてくれ」というときには、声は出しません。声からその人の状態がわかります。
でも、こういうことを笑いとばすことでよい方向へ早くもっていけることもあります。
○ストレスの効用
ストレスは、生きていくために必要な刺激です。ストレッサーといいます。それをプラスに受けとめるかマイナスに受けとめるかは、あなたしだいです。受け身になるほどに、つらいのです。
ポジティブになると楽になり、楽しくなります。人の心身は、そのようにつくられています。
あなたはジェットコースターは好きですか。動物は、その事情がわからないから、もし乗せられたらパニクって、大嫌いになるでしょう。まるで拷問のようになります。
あなたも嫌いなら、絶対に乗りたくないでしょう。好きでも具合がとても悪いときは、つらいでしょう。自ら選んでストレスを受けるのは快感ですが、強いられて受けるのは不快なのです。
ジェットコースターで手を上げ、声をあげ、楽しむ人は、そのストレスで大きく心身を解放しているのです。ためたら暗くつらくなることが、声で発散させることで、楽しくなるのです。
〇ダイエットは声に悪い
ダイエットは、声によくないのですが、スタイルと声と、どちらかを選べといわれたら、多くの人はスタイルをとるのではないでしょうか。
しかし、過度のダイエットは健康のためにも声のためにもよくありません。
声のよいのは太ったオペラ歌手と相場が決まっていました。太れば声がよくなるのではありません。しかし、体が楽器ということでは、体格は関係します。大太鼓と小太鼓では、迫力が違いますね。
しかし、声は、迫力だけで勝負するわけではありません。深い音色ではチェロにかなわないヴァイオリンも、オーケストラでは重要なポジションにあるのです。
かつては体が大きく強い男たちの時代でした。もちろん、多産の時代は、女性も大きなお尻が求められたものです。日本では少子化がとどまらず、もう遠い時代となりましたね。
とにかく、魅力的な声は、健康が売りもの、健康な体がベースです。声によい食べものは諸説ありますが、栄養価の高いものです。
〇考えないから、ややこしくなる
何ごとも、常に主導権は、自分にあると思うことです。嫌がらせを受けても、無理してすぐ心を閉ざしてしまうのはよくありません。気にせず放っておけばよいし、それでやまないのなら、原因や対抗策を考えることです。
それは、自分のどこが悪いかと反省するためではありません。まずは、事実を客観視するためです。もしかすると、嫌がらせだと一方的に思い込んでしまったのかもしれません。何ごとも決めつけ拒まないことです。真剣に考えることです。ことばにすることです。相手に言うことかどうか、どういえばよいのかまで考えて行動することです。
○声と人間関係
新聞や雑誌、TVのニュースなどの情報だけで判断して行動するのは、あなたの人生を狭くつまらないものにします。
あなたの声、言葉一つで、およそですが、どんな人とも良好な関係を築くことも可能です。成功した人は、こういう小さなことを一つずつ、自分のためになる人間関係に転じる努力を惜しまなかったと考えてみてください。
世の中に出て、何年かは、人に振り回されてみるのも大きな勉強です。充分に人間の嫌なところ、くだらなさも体験し、実感してください。その時期が過ぎていつまでも、一生、振り回されていては、先もありません。あなたから切る必要はありません。すべての人にうまく関わっていこうとは考えなくてよいのです。それでも、あなたは生きていけるでしょう。はっきりとことばにして、自分の考えをまず自分に言ってみましょう。
そらで歌えるほどに何度も聞いているのに心には感じられない歌もあれば、初めて聞いたところで異質で馴染めず感じられない歌もあります。その両極の間に感じられる歌があるということになるのでしょうか。こういったことは、歌以外でも同じなのでしょう。
そのゾーンを自らにセットしておくと、感じられるものに出会いやすくなります。出会いたいのなら、その両極のゾーンをそれぞれ小さくして真ん中のゾーンを大きくすればよいのです。同じ曲、似た曲ばかりを聞かないで、違う曲、違う時代のものを聞くとよいでしょう。知り合いでない人に紹介された曲などもよいかもしれません。
心のフックにひっかかるもの、心を動かすニュアンスの含まれる率の高いものは、周辺や異文化にあることが多いです。
私は根っからの音楽好きでも、歌うのが好きでも、プレーヤーでもないゆえに、みえるもの、聞こえるものが純粋=素だったと思うのです。どこかに帰属してどっぷりと浸かっている人には、その立ち位置ゆえに、みえないものが、みえたと思うからです。
つまり、歌という形でも、歌われたものとしてでもなく、感じたもので残したいと思うものを見いだしてきたからです。