「歌唱論(Ⅲ)」
歌唱論(Ⅲ)
○客観的にみるということ
どのように歌唱するのかは、一人ひとり違います。
私の場合はいくつかの条件のもとにみています。それは、私自身の感情、心とは別に、仕事としてみるということです。私自身の好き嫌いと別にみることです。
ですから、ファンの人が、ある作品に感動していたら、それはそれでよいことと思うのです。歌い手や演奏者が、自分なりに満足のいったものであれば、さらによいことです。そこに対して、私は一言もありません。一人ひとり、それぞれに違うだけでなく、時代や場所、そのときの気分でさえ違って聞こえるものだからです。
よいものが多いなかでは普通のものは悪く聞こえ、よくないものが多いなかでは普通のものでもよく聞こえます。よいものをあまり知らない人やそういうものをめったに見聞きしない人には、どんなものもよい感じになります。そのまま評価されることが多いということです。イベントやライブの客の評価が当てにならないということです。
○機能的な面での基準
声をよしあしを正確にみるというなら、機能的なことのチェックとなります。これがトレーナーの役割のように思われていますが(そういうトレーナーが多いのですが)、私は、表現への可能性をもとにみます。視点が違うので、見解が異なることが多いのです。そのために、的確なことばにすることが求められ、造語力や文章力も必要不可欠と思っています。
機能面でのチェックについてみましょう。
1.音程、音高(メロディ)
2.リズム
3.発音、せりふ(アクセント、イントネーション、ことば、方言など)の正しさ
4.声量
5.音色
などが含まれます。
1から5にいくにつれ、ノリや心地よさなどというあいまいなものになります。ビブラート、ロングトーン、発声の明瞭さ、フレーズでのよしあし、発音(外国語)なども、それらを支えるための要素として出てきます。そして、解釈や構成、展開などがあります。
○レッスンでの見方
私がトレーナーとして、みるのは、
その人自身とその声、
その声の可能性、
その声の表現での可能性(フレーズ、音色など)
本人サイドのこと
それに加えて
ステージ、歌、パフォーマンスも含めた表現力
作品、ライブ側との結びつきです。
目的に対して、何が欠けているのか、何を加えられるのかをみます。
そのためにどういう手段があるのか、何が必要か、それは声において、どう解決されるものか、解決できるのか、あるいは、ときに、声以外で何とかすべきものなのかということです。
本当に一人ひとりそれぞれに、ややこしいのです。
表現からのアドバイスは、プロデューサーや演出家に近いことなので、いろんなことに通じていないといけません。
可能性がないようなときも、工夫やアイデアしだいで最高のものにもっていく道筋を発案して、そこまでひっぱる力が必要です。
○参考意見として
本人の作品や声については、質問を受けても、本人自身がいないときは(イメージであるところまでは出せますが、却って、否定的になりかねないので)難しいし、参考意見にとどめさせてもらいます。本人の目的、表現やステージが、具体的にみえないときに、ことばにするのは難しいです。
それでも、それなりにイメージで補って、その仮のイメージを伝えながらアドバイスすることが多いです。発声を、「声のマップ」をつくって図示していくのと似た手法です。
質問の多いのは、「誰々の歌をどう思いますか」ですが、そんな答えは出せません。
出してみたところで、アーティストにもそのファンにも関係ありません。
目の前の相手にシミュレーションしてみるのに、レッスンの材料としての見解としてのみ示します。レッスンに役立つようにコメントするのです。
作品は表現ですから、好きにやったものを好きな人が聞けばよいのです。ファンとの間に、アーティスト本人のイメージのなかに成立していることに、トレーナーが口を出しても仕方ないのです。
「何とかしてくれ」と頼まれて、初めてレッスンは成り立つのです。全ては程度問題で、その必要性は本人自身が自覚することでしか成立しえないのです。本人がこれでよいと思ったら、それはそれでよいのです。「何か違う、足らない」と思えばこそ、ヴォイトレ、その他が必要となるのです。
○守りのヴォイトレ
最近は、創造的、冒険的でポジティブな試みよりも、守りのヴォイトレのようなものが増えています。のどが疲れるとか、声の調子がよくないからということへのフォローとしての利用は、調整だけになりがちなので、あまり、お勧めしないのですが、大半はこういうケースです。
そのように追い込まれてしまうくらいの力しかないとか、そうならないと気づかないことが、本当はおかしいのです。実のところ、攻めない限り、守れません。
とはいえ、心身の不調でマイナスになった状態をゼロにするためには、フォローが不可欠なので、受け持っています。このフォローとしてここを利用している人もいます。
これにはパーソナルトレーナー、マッサージ師のような役割が期待されます。人によっては、とても大切なこと、不可欠なことです。
心身の方からみるのは、表現からではなく、一個人の体から、声の状態を調整することになります。ですから、そこでは調整ですが、それをしっかりくり返していくと条件づくりになってきます。「底上げ」として再現力の基礎となります。調子を崩しにくくなる力として表れてくるのです。
〇守りから攻めへ
のどの状態チェックと実力を判断しても、将来への可能性をみる方へ力を入れないと、本当に力をつけられないし変わりません。
その時点での判断は、医者の診断に似ています。近代西洋医学は、手術など対処的に問題を解決します。ステロイドの効果の即効的、かつ大きいことは驚くほどです。
心身のリラックスによって、のどの発声を外して共鳴の効率をよくすると、一時的によい声がとりだせます。そういうことを注意するのを中心としているトレーナーは少なくありません。でも、病巣と違って悪いところをとってしまったらよくなるというものではないのです。
私のトレーニングはハードに思われていますが、漢方医のようなものです。目的や声のレベルもそれぞれに応じて変えます。そして、時間をかけてゆっくりと変えていきます。発声より、それを司る呼吸や頭を変えていくのです。体という器を大きくしていくことで応用や再現力を高めていくのです。
○形と流れ
歌の1コーラスは、大きな声で4つから8つくらいの文章を読みあげるくらいにしてください。フレーズとして、息はともかく、流れは、つながっているのです。外国人がそのくらいで捉えているものを、日本人は、16から32くらいで細かく捉えます。歌の形を声でコピーしてしまうからです。表現としては総じて固くなり、緊張を欠きます。ことば単位で切って、つなげようとすると低い次元になります。
プロは表面の加工技術に長けているので、一般の人にははっきりとわかりません。でも、感じられるものです。問題は、本人がそのフォローを技術と思い、固めてしまうこと、そこでアピールできるものとしてテクニカルに使ってしまうことです。
発声や歌唱は、迷いや不安が入るだけで安定性を欠いてしまいます。しなやかさ、柔らかさ、伸びやかさは、音楽としての心地よさのために、もっとも大切にすることです。しかし、なかなかみえません。それは、せりふにも通じます。自信をもって使いきると、それなりに説得力をもって伝わってしまうのが、せりふや歌の困ったところです。
〇意図を表現
曲から離れて全体をつかんでみましょう。楽譜を歌うのでなく、歌全体の意図を歌うのです。
声を一つずつ伸ばしてつなげるのは、日本の合唱などにはよくみられます。うまくいくと心地よさが眠気を促すようになってきます。一つずつ均等に伸ばすような日本語の母音に忠実であるほど、表現としては、間伸びしたふしぜんなものになりがちです。インパクトが切り捨てられているのです。
均等というのは、楽譜やプレイヤーの演奏上、そういうルールのときもありますが、スタッカート、テヌートでもない限り、動かさないと表現としての緊張を欠きます。
次の対立項は、日本人の歌唱、特に日本語の歌ではよくみられます。声とフレージングが、これらの2つの溝を埋めるだけでなく、超えていたら、表現としてはかなり強いインパクトを持ちえるのです。
メロディ ことば、リズム
伸びやかさ(声量) きめこまやかさ
レガート(スタッカート) ことば
ロングトーン ことば
声とフレージングが、これらの2つの溝を埋めるだけでなく超えられたら、表現としては、かなり強いインパクトを持ちえるのです(目指している目的自体がずれている人の多いのが、日本の歌唱の問題です。拙書「自分の歌を歌おう」で詳しく触れました)。
○ダルビッシュ有とパワー
世界へ出ていくサッカー選手や野球選手はよい参考になりますが、ダルビッシュのアメリカでの活躍もその一つでしょう。渡米前、「技術でなくパワーそのもので世界に挑戦したい」と言っていました。技術で勝っても本当には評価されないから、パワーで打ち勝ちたいということです。日本人も、チェンジアップや変化球で買われていたピッチャーだけでなく、野手も大リーグに出ていけるようになりました。イチローのマジックのようなバッティング技術も足も、当初はベースボールとして認められなかったのです(ボクシングでも、ヘビー級がメインなのは、フライ級とか、モスキート級という命名でもわかりますね。小が大を制する美徳を持つ日本人なら、ハエ級、蚊級とはつけないでしょう)。
圧倒的なパワーで勝負できないから、技術で勝負しようというのは、大国に対して小国日本の指針でした。大柄な外国人に対し小柄な日本人のとってきた方法です。しかし、156キロを出せるダルビッシュだからこそ、その負けん気に火がついたのです。
ところが、初戦から、そのパワーは通じず、変化球主体の投球に変えざるをえなくなります。すべるボールと固いマウンドで、コースが定まらず、シーズン半ばにして大ピンチとなります。そこで、大リーグのコーチは、変化球主体の組み立ての指示を止めます。ダルビッシュは、プライスの投球をみて、ただ足を上げて投げることしか考えていない、リラックスの大切さに気づきます。自分が小指側からついていた足と、彼のベタ足でのつきかたの違いに気づき、改めます。マウンドの土の固さの違いから、ダルビッシュのフォームは不利だったわけです。
このあたりは、NHKでダルビッシュ自身が言ったことです。
本場のコーチも気づかなかった、本場ゆえ気づかなかったのです。そのことに、重要な示唆があると思うのです。
〇修正能力
ヴォイトレでも、トレーナーの方針ややり方、メニュと、本人の上達とのギャップに、悩む人は少なくないからです。
ダルビッシュの言うように、プライドある大リーグのコーチが方針を変えたことのありがたさは、日本では難しいのではないでしょうか。「自分でみつけて、気づいてやっていく。逃げずに立ち向かっていく。まわりの意思でなく自分で向き合ってやる」
自分中心の考え方、まわりの意見で迷ったり、自分自身と向きあうことの得意でない日本人には、見習うべきことです。
着目すべきは、気づくことと、気づいたら修正できる能力の高さです。ゴルフの石川遼も、シーズン中にフォーム改造をして、成績をアップさせました。2年ぶりの優勝でした。
そういう能力をレッスンのときに磨くことです。トレーナーのアドバイスを一方的に聞くのでなく、きちんと判断して、自分にプラスに役立てていきます。ときにはトレーナーのアドバイスも自分が気づいたことでも、これまでの自分に対して異なるアプローチをしてみます。その必要性や可能性について判断して、実際に応用して結果を出すのです。
〇懐とストーリー
ダルビッシュはその後、今年最強のルーキーを、大事な場面で、なんとインハイにストレートで決めて三振にとりました。キャッチャーがOKしたのです。
そういう環境を与える大リーグとのいうものの懐の深さに、ダルビッシュは大リーグに行って、本当によかったと思ったことでしょうが、日本人としては残念に思います。
プロ野球も、相撲も、プロレスもボクシングも、私が子供の頃のような、エキサイティングな環境が失われているからです。選手も監督もコーチも、何もしていないわけではないのですが、明らかにスケールが小さいのです。野村元監督が、○○の○○監督の「何も指示しなかった」というコメントを、「その通り。正直だ」そして、「何もしないからダメなんだ、野球もダメになるんだ」と述べていました。
相手を信用して何もしないのと、指導者の役割を全うするために、考えに考えて何も指示しないのとは違います。現場のことは、そこにいる人しかわかりませんから、何が正しいとか、誰が偉いとかはわかりません。人に伝えるときにはストーリーやドラマをつくってしまうからです。
私たちの現場も、そこから先を考えていくことが大切です。
「ピンチになった、気づいた、変えたらうまくいくようになった」というほど現実は単純ではありません。もっと語られないこと、本人たちにもみえないものが、大きく働いているものです。
シンプルに学んでいくことも大切です。私たちは大リーグに行くわけでも、マウンドに上がるわけでもありませんが、選手のことばや番組のつくったストーリーから学べるものを学べばよいのです。それを明日へ、自分へあてはめて、ヒントにすればよいのです。そのために、ここで伝えています。
○トレーニングは一時、鈍くなる
問題を深刻にしないことは、大切なことです。
声を強く大きくしたいという要望に対して、多くのトレーナーはストップをかけます。なぜでしょう。
私は、ストリートサッカーの時代の必要を説いています。サッカー場でプレイする前に、どれだけボールに触れていたかが、一流のストライカーの条件と述べたことがあります。高い声や大声を自己流でやるのは、本を読んでいるだけよりはよいことだと思います。
でも、多くのトレーナーが中断させるようになったのは、トレーナーが優秀で、そこへくる人があまり優秀ではないからともいえます(私の場合は、私というトレーナーが優秀でなく、くる人が優秀だったので逆です)。習い事なら、そういうものです。優秀な先生からみると、「強く、大きく」は「鈍く、丁寧でない」のです。彼らの立場では、「強く」とか「大きく」は、学びにくるまで自分でやって失敗しているから(その限界を知って)ここでは、大人になりましょうということです。だから、その先に行けないのでしょう。
〇その先のヴォイトレ
私も「体と感覚を変えていきましょう」と、体は鍛え、感覚は磨くのです。プロは、感覚が磨かれているわりに、日本人の歌い手の体は鍛えられておらず(柔軟性にも欠けている)、息吐きメソッドなどを発案したのです(ここでは、私の「ヘビメタ=レスラー論」※を参考に)。
しかし、少しずつ、レベルが下がってくると、感覚(音楽的センスも)の強化がより重要となります。試聴音や音音程・リズムトレーニングを加えました。
感覚(耳)を磨かずに、体(声)だけ鍛えていくと、鈍くなります。体育会系の人などには顕著に表れます。彼らは体や息や声ができているほどに歌にならないのです。一方、トレーニングを積み上げなくても歌手になった人がたくさんいます。声や歌では、それで通じるくらいの日本の市場だからです。そこから先のトレーニングの不毛さを証明しています。
○ヴォイトレ、声楽はふしぜんか
役者や歌手は「ヴォイトレ(特に声楽)にいくと、ふしぜんになるのでやめた方がよい」と言われていたことがあります。それは一理あります。私が思うに、トレーニング=ふしぜんですから、トレーナーに「よい」と言われることのなかでも、のど声になる、オペラみたいな(オペラもどきの、よくない)押しつけたり、こもったりした発声になる、合唱団みたいな(合唱団もどきの)個性のない発声になる、などがあげられます。
「声楽やオペラを学ぶと個性がなくなりませんか」という質問も、よくあります。私の本を読んでいる人は、それは応用と基礎の取り違えであるとわかるのでしょう。
コンテンポラリーダンサーが、クラシックバレエを習ったら、そのダンスがバレエになるでしょうか。本人が声楽の勉強しかしていないし、それにばかりこだわるなら、どう考えても声楽っぽくなるでしょう。
習いにいったくらいで消えてしまう個性って何でしょうか。
よくあるのは個性=自分というのと、表現として現れる、価値としての個性との違いです。これはオリジナリティと混同していることです。
○一貫する
演じるあなたは、あなたであっても、あなたでないし、あなたでなくてあなたです。
「あなたが出たら、歌=音楽は出なくなる。歌=音楽が出たら、あなたは出なくなる。両方が両立、一つになるのは大変なこと」です。
私は、自分=表現=歌=音楽を一つの声として一貫させるのを理想としています。真のアーティストなら、しゃべればせりふであり、歌であり、音楽であり、そのまま作品であり、芸術であるのです。そのために必要なのが基礎トレーニングです。結局は、応用において、どれかが通じていたらOKという現実の判断を強いられるようになりました。
声がすべてでないので、歌がOKならよい、表現がOKならよい、という判断も必要です。でも声がOKではだめです。トレーニングや体づくりは基礎で、それがOKになるのは器づくりや可能性としてのプロセスです。
問われるのは、切り取った作品として歌や音楽という表現です。いくら人間としてよい人でも、歌がだめなら歌手としてだめなのです。
〇ことばにならないこと
ことばにならないことが大切なのです。「星の王子様」みたいなこと(ここの話は研究所のサイトにあります。読んでみてください)ですが、いらっしゃる人と、ことばでやり取りをして長くなることもあります。
わからないことをことばにして整理するのもトレーナーの能力であり、仕事です。でも、考えるまでもなく、ことばはどちらにもぶれさせることができます。論理に組み立てます。
そこで、どうしても雑になります。感じ、イメージから離れます。インデックスです。だから決めたがる人は、ことばを求め、ことばに安心します。そこで止まってしまうのです。
ことばは、詰めるための手段とし、使えるところで使うのにとどめたいものです。あとは、体と感覚に委ねなくては先に進めないのです。私は「本でやるのでなく、本でまとめるように」と言ってきました。
プロセス自体まわりのもの、すべてをみないようにしたら、ことばにできます。でも、それで伝えられたと思えないでしょう。
〇考察
感覚と場を読み取る力
「聞くことに答えない」という答え
他人に委ねられないのに非難するな
自分のことばのフィードバック(のりとつっこみ)
フィードバックをかけすぎる人、ためないと出せない人
継続性、連続すること
一貫しているもの、芯とぶれ
歌のなかの線、声のなかの芯
相手のなかに自分をみること
すぐれたものがあることを知っていること
相手の立場にたってイマジネーションする能力
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