「文字から動画へ」
○文字から動画へ
人類は、文字を発明するまで口承で伝えてきました。文字ができてから長らく写され広められました。絵が絵文字、そして文字になったプロセスは、今のアナログからデジタルに変わる以上の大転換といえます。時間、論理が入ってきたからです。そこで未来を考え、不安や恐れを抱くようになったからです。
活版印刷の発明で16世紀から本の時代となりました。20世紀初めには画は写真に、音声はレコードに記録、保存できるようになりました。さらに動画として映画、フィルム(サイレントからトーキー)になり、ラジオやテレビで視聴できるようになりました。
デジタル化とは、大量のデータを統一して(0と1の組み合わせで)圧縮、コンパクトに保存し、瞬時に伝達できること、および検索できることです。これは文字だけでなく、音声、動画をも同じデータ(0と1)として容易に扱えるようにしました。コミュニケーション(発信、伝達、受信)のコストを徹底して下げたのです。
情報を発信する一方のマスメディアが、今世紀になり、インターネットの発達で、手紙、電話といったプライベートな交流が一気に高まりました。1990年代にマルチメディアということばで見通されていたことです。世界の距離や時間の感覚は、この10年で大きく変わりました。全てがスマートフォンに集約されつつあります。
この問題を扱うのは、20年ぶりですが、文字で伝えることのもつ意味を確認しています。
○デビュー本からの派生
私がヴォイトレの本を初めて書いて30年経ちました。発声について欧米から学んだ人が書いた本とは異なる、日本人としての本でした。それはそのまま、シンコーミュージックの「基本講座」は理論、「実践講座」はメニュを中心の本として世に出しました。
いくつかのカラオケ指導の歌の本や医者の喉の本などはありましたので、喉の仕組みあたりに引用させてもらいましたが、それ以外は、ほとんど独創的なものでした。
「ロックヴォーカル」とついていたものの、ポピュラー全般を対象にし、歌の本なのに歌には触れず、歌手や歌詞にこだわらず、声についてまとめました。一から声づくりをしていくために、当時の私のヴォイトレの活動を参考にまとめたものでした。
意図したことは、日本人の感覚や体に焦点をあてることです。これはベーシックであったために役者や声優などでも使えるもの、今では邦楽から一般のビジネスマンにまで応用されているものとなりました。その分、対象、レベル、目的は、やや不明確になったということです。その点は、岩波ジュニア(10代、教師向け)や祥伝社(女性や中高年向け)、英語やビジネスなど、対象によって異なる本へ分化させたのでカバーできたと思っています。
○動画教材のよし悪し
本にCDを付け(ビジネスマン、一般対象本では10年後)、ガイド音源も入るようになりました。
動画化は、踏み込みませんでした。
音声だけでみせることにこだわったのは、声=音を学ばせたかったからです。
わかりやすくみえることは、学ぶこととは異なるからです。これはTVやラジオの経験からも痛感していました。他のビデオ教材をみて、本当のことを伝えるのは無理と思いました。まともにつくるとイメージダウンや誤解が大きくなると思いました。
1.楽器の練習のようには格好はつかない。
2.トレーニング風景は、役者の舞台裏のように地味で暗く、アングラな感じになる。
3.キャスティングをモデルさんは、リアル感がなくなる。
4.プロの歌い手で行うと、歌はよいけど絵になりにくいし学びにくい。
5.個別にメニュや方法がかなり異なる。
当時は作曲家の先生(たとえば曽我先生)のが、いくつか出ていました。それらしきものになってしまうことしかイメージできなかったのです。
研究所には、国内外の数多くの発声やヴォイトレのビデオ、DVDがあります。合唱団の発声など実用的なものも、たくさんありましたが、私自身にあまり役立たなかったし、人に勧められなかったからです。
〇自分の声を入れない
CDについても多種多様につくってきました。いつも試行錯誤していました。英語の教材からヒントを得たことも多々ありました。
最初は、体や息のトレーニングは、音声にならないので、カットとしていました。
最近は、図やイラスト、あるいはナレーションで指示してトレーニングメニュとして入れています。そういうことも他のDVDやCDが出てくるまで、わからなかったのです。
私の声を入れるのは避けました。私はナレーターでなく、アーティストをサポートする立場だからです。いつもの現場通り、練習メニュとしての体系を入れ、現場でディレクションするようにしました。トレーナーは相手の声を指導することのプロです。よりよい仕上がりになったと思います。
一般の人向けで、説明も必要となります。
本で理論ややり方を理解できるようにして、CDにはできるだけ余計なことを入れないようにしました。CDをかけたらすぐに練習できるとよいと思うからです。私自身が使えるもの、使いたいもの、生徒の自習に使えるもの、使わせたいものを目指しました。
〇CD教材のつくり方
CD教材といっても、一回聞いて終わりのものと、くり返して使うものは違います。最初にイントロや説明が長く入っていたら、2回目からは邪魔でしょう。
トレーナーが一方的に見本をみせているのもあります。生徒とかけあってレッスン室のようにしているのもあります。TV向けのパターンでは、よくわかるようでも、他人のレッスンでは、自分がレッスンに使うには邪魔でしょう。見学会のようなものですから、1回みれば充分でしょう。他人の声が入っているのも邪魔になるでしょう。分けて入れても、時間がムダになります。
私は、原則として本人の自習、自主トレ用としてつくっています。トレーナーが呼びかける対面式のようなものか、目の前にお客のいる本番シミュレーション的なものとなら動画でもよいかと思います。
レッスンに通う人が使うのなら、補助教材です。レッスンに通わない人がレッスンのかわりに使うとするなら、シンプルにつくらないと使いにくいでしょう。
CD付の本も多くなったせいか、違いを聞かれます。
私の本のCD、音源のメニュをサイトに載せました。参考にしてください。
○教材のつくられ方
本は文字ですから、イメージは伝わりにくい、といわれます。でも読んだ人のレベルに応じたイメージがつくられていくといえます。音声があると、声のイメージははっきりとします。それにもよし悪しがあります。
具体化される分、限定されるからです。絵がつくとさらに具体化し限定されていきます。ラジオはホットなメディア、TVはクールと言われるゆえんです。
「よい例」、「悪い例」をたくさん入れてあると判断力をつけるために役立つでしょう。でも、悪い例を何回も聞くのは、喉にもよくないでしょう。練習用としては賛成しかねます。
同じ理由で、あまりに個人的なメニュや部分的なメニュも悪影響を与えかねません。一般的にはシンプルなメニュがよいのです。
メニュがたくさん入っているのはよいのですが、全て使ったからといって大して意味はありません。特殊なものを除き、できるだけ誰でもあてはまる範囲内に収めておく方がよいでしょう。
海外のものにも、かなり特殊なケースでのハイレベルのトレーニングが入っているのもあります。参考にするにはよいのですが、使う人が今、使ってよいのかどうかの判断をできるわけではありません。優秀な人以外は、喉にダメージを受けかねません。本来は、そのトレーナーに会って、レッスンを受けてから使うべきものです。
見本の声の入っているものは、具体的な分、よしあしがどちらの方にも大きく振れます。日本のものは、残念なことに、困ったものが多いです。弱々しく抜いただけの声や、がなった声、喉声も少なくありません。それを聞くたびにイメージが悪くなり、声にも喉にもよくありません。
ヴォイトレなのにスケール(音程、リズム)などが中心で、発声、呼吸や共鳴などはつけたしとなっていることが多いのです。
応用や周辺から入っていく、慣れるというのもアプローチの一つです。本当に身になるトレーニングが欠けていると思えるのです。
〇レッスンの声に向き合うこと
使い方次第なので、いくらでもある分はよいですが、誰もが同じように使えるわけではないのです。
発声については、教材は実際のレッスンに及びようはありません。
レッスンのまとめとして、トレーニングのモチベートや方向性を確かなものにするのに、本はよい判断材料となります。本にもよりますが、声については、実際に知っている人の経験談です。ただ、多大に期待してはなりません。
私が本、会報、ブログなどでたくさん述べているのは、レッスンに来られない人のためではありません。レッスンでできるだけ無言でありたいからです。自分の声に自分で向きあってもらいたいからです。
一方的に他人に委ねるレッスンは、最初はよいと思うかもしれませんが、本当のあなたの力にはなりません。トレーナーの声を見本にまねる、そういうレッスンが多いのです。それがあたりまえのようになると鈍くなります。
自分の声に向きあうのに、時間がかかってもかまわないのです。
〇トレーナーと個性
トレーナーのところにいくと、自分の歌や表現が変わるから心配だとか嫌だという人が少なくありません。それは直感的に正しく、それゆえ、勇なことです。トレーナーの悪影響があるくらいにしか自分に向きあっていないのなら、そのままでも同じです。「トレーナーにつぶされる個性など個性ではない」のです。トレーナーを、自分に向かい合うためのレッスンや、そこからのトレーニングを自分に活かすために、使うことです。
トレーナーと長く一緒にいると何か身につくと思う人が日本には多いのです。それは確かにそうかもしれません。でも、それだけではどうにもなりません。
週一回のレッスンでも、何にもやらないとか、一人でやるよりはずっとましです。しかし、週二回の方がよいでしょう。そして、レッスンが、365日をひっぱらない限り、大して変わらないのです。レッスンの回数についての答えです。
○ピンチに思想を学ぶ
ヴォイトレで調子を崩すと、トレーナーや方法やメニュのせいにする人もいます。なぜ、調子を崩したのかを分析し理解していく、その対処こそ、トレーナーとともに行うことです。絶好の機会です。その前でやめるのでなく、それを超えていくことが、力をつけることです。
ボクシングでコーチに言われたままに出場して、初戦でKOされたら、コーチに「バカヤロー」と言う人は、幼いだけでしょう。
レッスンもトレーニングも誰かに頼まれて来るのではありません。自分の目的のために、より自分を活かすために、使うものです。
そこでは自分の求めるものをすぐに成し遂げようとするのでなく、本当の目的、本当に必要なこと、可能なことを知っていくことから始めてください。
すぐにわからなくてもかまいません。ずっとわからなくてもよいです。でも、考え続けることです。基準やプログラムがないと後で伸びないのです。基本的な考え方=思想を学ぶことが大切です。
○ことばの力
私は、写真や動画は、情報量が大きいので参考にしますが、自分に取り込むにあたっては、発信している人の情報とその文章をみます。
TVの大きな影響力はまさに「百聞は一見にしかず」ですが、その「一見」は、自分が生でみたものではありません。誰かが意図をもって切り取ってみせたものです。それを知らずに、その意図に乗せられてしまいがちなのです。
文章では、案外と真実を直接、イマジネーションによって捉えることができます。
ビデオを何十回みるより一言のアドバイスがすべてを変えてしまう例は、少なくありません。両方あればよいのです。一度みた動画、画像があまりにも強烈な印象を残すことには、用心すべきです。
○視覚の盲点☆
私は、あるときの合宿で、声=音の無力さを証明するような体験をしたことがあります。20名ずつの舞台で、あるとき、リハで音声だけでパーフェクトに成り立たせたのを、ちょっとした振りと動き、ビジュアルの効果を入れたところ、音声の完成度が格段に落ちてしまったのです。演出している私以外、出演者もみているお客(出演者の控え)も気づかなかったのです。
目にみえる効果が入ることで音の世界がこんなに壊れる、しかし、客は、そういう効果に目を奪われ、トータルとして作品がよくなったとさえ思うのです。
舞台ですからビジュアルの効果が大きいのは当然です。しかし、ここのメンバーは、声=音中心をメインにしてトレーニングしてきて、ビジュアル効果をトレーニングしてきたわけではないのです。耳と声は充分鍛えてきたと思っていたのでショックだったのです。
私のような、耳だけで、目をつぶっているかのように判断するというような音に厳しい客がいないと、音より視覚効果に力を入れるのが当然なのでしょう。私がプロデューサーや演出家であったら、声のちょっとした変化を示すよりも、手の動きで示す方を客に伝わるということで選ぶことになるはずです。私がアーティストでも、迷わずそれを選ぶでしょう。
一般の客の耳での判断力は低く、目での判断力が高い、これが日本の、日本人の音声表現力の育たない最大の原因と私は思っています。ヴォイストレーナーからみるから、よくないということですが。
このことを踏まえた上で言うなら、音の世界での完成度を落としてはいけないのです。絵のために音を犠牲にするなど論外です。動きとしての振りも本人のなかで、表現=振りと音とが完全に結びついていなくてはならないのです。
〇視聴と聴を分ける
私は、舞台のビデオをみせるときに、2回に分けるようにしました。最初に動画でみせて、次に音だけで聞かせます。ときには逆にします。しつこく両方を試みることもあります。動画でみると、その出来に安心していた人が、音だけで聞いたときに唖然とします。
私は目でみながらも、耳で判断します。声のトレーナーだからです。みるのは、他の人、客や出演者の心の動きです。舞台からは目をつぶったのと同じ世界で働きかけてくる音、声だけをひろいます。このあたりは、まさに音楽監督と一緒です。
これを日本の演出家は、せりふはまだしも、ミュージカルや歌においても、声を楽器の演奏レベルで捉えられていません。その結果、ダンスが世界のレベルに一部、追いついても、声や歌は置き去りにされてしまったのです。
ベテランになるにつれ、歌い手もそうなりがちです。ラジオやレコードだけならそうならないのですが、ステージの体験が皮肉にもそれを助長します。
○声とビジュアル面
ライブ舞台では、こと日本では、ビジュアル面の演出、照明、衣装といった装置の発展のおかげでもたせてきました。その分、声の表現について雑になります。その分、プレイヤーの音については、馬鹿丁寧です。
歌手は、音楽技術を使いこなすのでなく、それでカバーしてこなすだけになるのです。他人と同じように、そして、自分のも前と同じようにこなすのが、うまいと言われます。これも悪循環です。
うまいからダメだという理由は、岡本太郎さんの論拠で略しますが、そうやって表現力を薄めてしまうわけです。
「喉に負担なく、リスクなく」というのは、それだけをとると悪いことではありません。発声の基礎条件です。ヴォイストレーナーは皆それを教えているのです。ただ、それは何のためでしょうか。実状は、即興性がなく、結果として消化試合のように、そのエネルギーを体の動きやMCの方へまわすわけです。
プロとしてステージを活かすためには、演出、脚色は当然だと思いますが、それでもたせるとなると、形だけになります。若く有能なヴォーカリストが早い時期からそうなっていくのをみるにつけ、残念でなりません。
〇音声と表現力
PVやテレビも、音声の表現レベルの高い人が登場してきました。それに加えて振りや衣装や装置が派手になってきました。すると今度は、その演出や装置を使うと、音声の表現力のない人もみせられるように、もつように、こなせるようになるわけです。
アイドルやダンサブルな人たちを批判しているのではありません。もともと音声の表現力のレベルで選ばれたり認められたりしていないのですから、あたりまえのことです。それぞれに売りが違うだけです。
いつの時代でも、かわいいだけ、かっこいいだけのスターがいました。ただ、歌手というなら、歌=音声において、みせられる力で聞きたいと私は思うのです。
シンガーソングライターは曲づくりの才能の総合力、アーティストも総合力というのはわかります。その結果、昔のように何を歌っても、その人の声、その人のフレーズでオリジナルなものにしてしまえる人、歌唱におけるプロ、声のプロと節回し(フレーズ)のプロというのがみられなくなったのならば残念なことです。
詩吟や邦楽などは、伝統芸で、年齢、ルックス、スタイル、振りが問われなかったので、声での表現力での勝負です。
そういう人が、ここには多くなってきました。オペラでさえビジュアル力を問われる時代です。でも、そうでない大半の人たちには、みかけだけに囚われて考え違いをしないで欲しいものです。
○邦楽は、音声を鍛える
音色を、まるで染物のようにしめたり絞ったり、声を歌へと編み上げ、色づけしていくのは、邦楽の方が多彩です。あるいは、エスニック音楽、ワールドミュージックといった民族音楽での歌唱です。それは、輝き響く声、柔らかく強い声を、オーケストラという大音響を抜けて会場の隅まで飛ばせることを条件に求めるオペラと異なります。どのような価値観で判断するかは、その世界、そして指揮者や師匠の感性です。
一流のものは、シンプルに飛んできて、聴く人の心にしみ入り、何か奥深いものを感じさせ、宿したり、動かします。声が違うというよりも表現の働きかけが違うのです。基礎の上で離反した本人独得の表現だから、トレーナーが云々できないし、コメントしても仕方ないのです。
〇トレーニングのレベル
再現性をキープするための喉や体の管理について、基礎を固めることでは、分野という境界なく共通です。極端にいうと、フィジカルトレーニングやマッサージと同じように位置づけられます。今や、ヴォイトレにも、フィジカルトレーニングが幅を利かしています。それは、ノウハウが高まったというより、フィジカル能力の劣化です。
声のベースのキープは大切です。毎日整えましょう。日頃、体を動かしておかないと、動けなくなるのと同じです。ただ、これをもってトレーニングというのは、私には抵抗があります。
○名人には学べない
一流に学べと言っていますが、名人の表現は、結果としてすごいから、ただ開く、聞き込むだけです。感覚に入れておくためで、直接の参考になりません。
弟子なら師匠、師匠はその師匠と、手本、見本とした代々の名人をくり返し聞いておくとよいでしょう。このときは目をつぶって入れておくのです。私のように眼をあけて客の心にも沿いながら聞くには、少し修行がいります。
そのまままねすることが、稽古では求められます。ヴォイトレでは、必ずしもそれはよくないです。「守破離」でいうと、名人は離反してしまっているのです。本人のもつ喉で絶妙なギリギリの表現をしています。声の延長上というよりは、それを超えてしまう破、飛躍してしまった離で、作品を提示しているのは、まねると危険でもあります。しかも、喉は必ずしも全盛期ほど柔軟でないため、名人級のテクニックでカバーをしているケースが多いです。
〇歳月
基礎のデッサン力のない人が、いくらピカソの抽象画をまねしてみても、でたらめにしかなりません。ですから、学ぶなら、名人の初期の若い頃のもの、最初の頃の作品の方がよいことも多いのです。名人にもよりますが。
これはトレーナーにもいえます。私が若い人を若いトレーナーに預けるのは、私の声では、生きた年月でも、培ってきたキャリアでも、名人には及びませんが、普通の人と離れているからです。ベテランのトレーナーも、「自分のようにやってみるように」と、教えるのはよいですが、そのようにできないのを注意しても仕方ありません。
トレーニングは、本当の成果が出るまでは、必ずそれなりの歳月を必要とします。そうであればこそトレーニングというのです。
1、2ヶ月で、あるいは半年、1年で、いかなる芸事の分野で一人前になれるでしょうか。基礎が習得できるものでしょうか。
人前で演じられるのには、最低、必要な条件というのがあります。最初からそれがあればトレーニングは必要ないという人もいます。もっと高みを目指したり、確実な力をキープしていくなら、最低限、歳月は必要です。余力も余裕も、最悪のときにも声が失われては困るのですから、あるくらいにつける必要があります。
〇固定と解放☆
最初に、固い、直線、強い、弱い、などという声は、柔らかく、丸く、コントロールできるようになります。そうならないところは、ある時期、無理をかけてみることがあってもよいと思います。私は、拡散が集約され、固定したことが自由に解放され、しなやかになってくるのが、上達のプロセスと痛感しました。
その前にいろんな準備段階があるのです。固定するのは悪いこととはいえ、解放がいい加減なときは一時、固定させていくのもプロセスなのです。喉も同じで、喉が閉まっている人には閉めないようにしますが、閉まりもしない人(声にならない人)は閉めることから入るのです。
やがて飛躍します。私には、次のように感じられました。
声に息や体がついてくる
吐くのでなく、吸うように声が出ていく
当たるのでなく、集まってくる
○ステージ以前の歌の基礎
たとえば、
1.声が伸びずに生声になる。響きがない、声量が足らない。
2.高音が出にくい。または、中低音域が出にくい。
3.ピッチがずれる。リズムにのれない。
4.発音、歌詞がクリアに聞こえない。
いざステージとなると、誰でもこのような問題への対処が迫られます。レコーディングなら尚さらでしょう。個々の問題については、Q&Aブログにたくさん載せてあります。ステージとして、歌としての問題でなく、ヴォイトレの問題、声の基礎や音楽の基礎としての問題です。多くは、ステージ以前に解決しておくべきことです。
一言で言うと、これらは、もともとできていないままに声を出して使ってしまったゆえに出てくる問題だということです。
フィギアスケートで例えるなら、TVで放映される決勝ラウンドでは、仕上がりや技を競います。でも習い始めて間のない子供の発表会やコンテストなら、最後まで何とか滑れるレベルで競うこともあることでしょう。
〇自論のスタンス
ここでは、トレーナーとしてのスタンスのとり方、ひいては、トレーナーから本人へアドバイスすることとして、あげておきます。ケースによって相手によって異なるので、いつものように「自論」としてあげておきます。
ここで「自論」というのは持論というよりも、自分だけのための論法や自分に限定したなかで通じる例としてのような意味、私見に近いといえましょう。他人には役立たないものですが、それゆえ、一時例、特殊例として突き放すことで一般化でき、誰もがワク組をとることができる、というものです。
スタンスとして、問題は個々に具体的にあるのです。
〇基礎のなさに気づく
テンポに遅れないだけのドラマー、コードだけを間違えずに抑えられるベーシストは、アマチュアですが、自分の足らなさを知っています。歌やせりふは、そこがあいまいなために厄介なのです。ルックスや慣れだけでもけっこうよいステージにみせられる人もいます。
大した練習をしなくてもできる人もいるだけに、レベルという問題が捉えられないままに進められてしまうのです。あるとき、急に基礎のなさに気づくことになります。
あるときとは、
1.より高次のレベルのことをやるとき
2.より高次の人とやるとき
3.自分のベストがキープできなくなったとき
4.喉の不調、声が出にくくなったとき
などです。
○基礎とは何か
ここでの基礎とは、音大やスクールで学ぶことではありません。プロなのに、ここに「基礎がないので」「正規にやってきていないので」と、いらっしゃることもあります。
でも、プロであったなら基礎がないのではありません。それは、音大やスクールに行って学んだことを基礎と思っているのでしょう。理論や生理学的な知識を基礎と思い込んでいる人もいます。しかし、そういうものがなくとも、きちんとした活動ができていたならば、高い基礎力があるともいえるのです。
「歌ってきただけ」「舞台に出ていただけ」とおっしゃる人もいますが、そこで、声や歌の力を認められていたのですから、声の基礎は、100点満点のうち、少なくとも70点はあると自信をもってよいのです。それが50点でも歌や演技などで70点になり、ステージで100点になっていればよいのです。
応用されてこその基礎であり、応用できない基礎は、本当の基礎ではありません。100点のステージができるなら基礎も100点といってもよいくらいです。また、声の基礎は100点でなくてはいけないのではないのです。基礎の力×応用力(%)となるのですから。
〇基礎と応用力
少し基礎の話をします。応用できるまでに基礎は応用のできないステップを踏んでいきます。どこかで応用できないから、その手前の基礎を固めるのですから、あたりまえです。
問題は、応用できないところで気づかされた、フィードバックしたときの基礎のレベルの欠如という見方もできます。ただし、基礎として声をしっかりとさせたら、応用として歌がすべてよくなるかというと、必ずしもそうはなりません。基礎といってもたくさんあるし、応用にも向き不向きがあるからです。
木の幹と根で、応用と基礎を説明したことがあります。今回は、建物で例えましょう。建物とその地盤ということで、その地盤を掘って、コンクリや杭を打つことを、まさに「基礎」といいます。そのときに、真下に何メートル掘るのか、どのくらい固めるのかは、地盤の固さと、建物の大きさ、高さや重さによるはずです。どれくらいの安全を保つ必要があるのかにもよります。地震の多い日本は、世界一厳しい基準で、かなり余裕をもたせているはずです。
基礎も考え方でいろいろと変わるということです。さまざまなバリエーションがあります。形、量、深さ、時間、材質など、どこまで必要であるのかが元で、その必要に見合うものであるべきです。
応用のバリエーションにおいても、かなり変わるでしょう。いつものメンバーとのカラオケで同じ曲を同じように歌うという目的なら、かなりの限定ができます。限定すると早く仕上がるのです。
本当の基礎はいつ何時、どんなときも通じるレベル、などというと見当がつかなくなります。余裕があるに越したことはないので、限界がない基礎づくりとなるでしょう。
○ステージでの解決
ステージでの問題は、発声、声に落とす前に、ステージとしてのレベルで解決することが早いし効果的です。ヴォイトレが広まってから、すべてを発声や共鳴のせいにする傾向が強まってきました。声帯のせいにする人までいます。
「基礎がないからうまく歌えない。せりふが言えない」、勉強熱心な人に多く、最近は、ヴォイトレ、トレーナーなどが、この傾向を助長しすぎる嫌いがあります。
本当につきつめて、発声や声帯の問題が入ってくるならよいのです。多くのケースでは、そこまで掘り下げなくても大丈夫です。ステージはステージングの問題として解決できるのです。
プロデューサーや演出家は、声にふみこまずに現場の演出で解決しています。カラオケの先生が3~6か月で発表会の歌を仕上げてしまうのと似ています。表面を加工して、お客さんが「へた」に気づかないレベルにします。そのポイント(この場合は、聞こえ方)をずらすのです。そこでは、メンタル的なもの、フィジカル的なものでの調整がものをいいます。声や歌では、音響技術での音声加工で済むところがほとんどです。
〇生きる力
モチベーション、意欲、気迫、やる気、自信、覚悟、体調のよさ、体力、気力の充実、リラックス、疲労感軽減。
これらは発声でなく発声の基礎、いや、人としての基本、生きる力での問題でしょう。
ステージには、構成、展開の力も入ります。音響、照明、伴奏、アレンジ、パフォーマンスなどで解決できることもたくさんあります。
それぞれについて、10点満点でチェックしましょう。低いところは補い対策します。その分野のプロのヘルパーを捜すのです。
現在のステージのように総合芸術化した上にコラボを必要とする分野では、トータルとしての力と、個としての力について、両方からみることです。
〇専門家を使う力
私も全てについて専門ではありませんが、それぞれの専門家がどうみるか知るように努めています。そこまでいかなくても、それぞれの専門家をどうみるかは、大体知っています。
自分の限界を知って、他の専門の領域は他の専門家に任せるのは、専門家としての大切な見識です。
世の中に何でもできる人はいないのです。一人のトレーナーからすべて学ぶのは、こういう分野では、リスクが大きいということを知っておいてください。
トレーナーが「すべて一人でできる」「自分が正しい」と思っている人なら、あるいは、トレーナーのそういう時期にあたると、そう思うようになってしまいます。世に出られない人をつくる「立派な」先生には、ご注意を。
〇もっている力と求められる力
今立っているところにきちんと足をつけ、現実の世の中の求めていることの少し先を行こうとすることは、まさに基礎であり応用です。この2つがみえないままに、宙ぶらりんになっている人が多いように思います。「みえない」とかいうよりも、「みない」というべきかもしれません。自分自身のもっている力と、世の中や、他の人の求める力ということについても同じように言えそうです。
自分を変えるのは、まわりに合わせるのでなく、自分のもっとよいところを伸ばすためです。眠っているところを起こして、充分に使えるようにするためです。
ここも日本ならではのダブルスタンダードになりがちです。充分に自分をみないまま、先に求められる形に早く、器用に合わせるように求められることが多いです。そのようにしか学べないと本質を見失いがちです。
でも、受験勉強もそんなものでしょう。詰め込みだからと避けるよりは、正面から受け止めてクリアしたのちに、自分の足で歩くとしたら、そのストックは悪いことでもありません。精進したことは、何であれ役立つからです。一人で自分のことを知るのは、とても難しいからです。
〇周りと変える、自分を変える
私が、当初からオリジナリティの発掘などを、自分に頼りすぎないように感覚や体を磨き、一流のもつオリジナリティにふれつつ、聞き込むことを中心のプログラムにしていたのは、なかなかのものと思います。その先に自分で歩むことを求めない人には、ただの遠回りに思えるかもしれません。
アーティストであるなら、自ら釣った魚を自らさばいて食べるべきです。いつまでも魚を買っているばかりではいけないということです。
基礎としての基準づくりは、まわりと相関させながらも、独自のものです。他人とは一致しないものです。
それが応用されたときに他人と明らかな差異が出てこなくてはなりません。ここで日本人は、大きな勘違いをしてしまうのです。他人と同一化する方へ自分をゆがめてしまうのです。憧れたまま、まねてしまって終わるのです。
自分だけのものを、よしあしの前に見極めなくては、声もフレーズも決まってこないのです。そこで必要なのは、発声技法でなく、本当に、声からの表現を導く発声、フレージングです。
○流行のヴォイトレ
ここのヴォイトレのメニュには、呼吸、発声、共鳴(胸部、頭部)声域、声量、声を伸ばす、響きを集める、声を飛ばす、体に感じる、のどをあける(共鳴腔を広げる)、息をコントロールする、スケール、発音、母音子音など、さまざまなものがあります。他のところにも、たくさんのメニュがあります。
たとえば、食事や健康法、体を治す方法にも、いろいろとあります。誰もが自分のが正しいと、あからさまにそうは言っていなくても、主張しています。そういうなかで、あるものが流行したりすたれたりしています。
TVなどで、とりあげられるヴォイトレのメニュは、絵にする必要上、派手なものが多く、特定の人には役立つが、あとの人にはあまり役立たないもの、害になるものさえ少なくありません。部分的にはよい場合もあるが、トータルでは、あまり効果のないものといってもよいくらいです。世界でもっとも多くの声のメニュを扱ってきた私の言うことですから、一理あると思ってください。私自身も、いろんなメニュを提供してきたからわかるのです。
〇成果と評価
誰に対して何をどのように処するとどうなるのかを、声において、普遍的なレベルまで、きちんと考証できている例は、ほとんどありません。私としても、「一般的には」とか、「多くの人には」と言えますが…。
私もいろんな経験をつんで多くの人やトレーナーを長年みてきましたから、今さら、「どれが一番正しい」とか、「誰が一番いいトレーナー」など、言うつもりもありません。
評判も、個別である相手に千差万別であるので、参考になりません。トレーナーも生徒も、きちんとした一定の基準において成果を実証しているわけではないからです。
「プロになりたくて、レッスンしたらプロになれた」ということは、名目のたつ実績でしょう。オーディション合格のパーセンテージなどは、実例としてわかりやすいと思いますが、どこまでトレーナーやレッスンがそこに寄与したかを証明できません。効果談では、本人の実感でというところまでです。
声のレッスンは、その充実感や満足感が評価になりやすいものです。
最近の傾向として、病院が医者の腕より、ロビーの心地よさなどの、サービスでランキングされるのに似ています。風邪ならそれでよいですが、難病なら違います。死ぬかもしれない患者を救うために腕を磨いている医者もいるのです。ときとして、医者や病院の評価は、まったく相反してしまうわけです。万一の訴訟を考え、患者の受け入れを拒む病院や執刀したがらない医師が出るのです。
ヴォイトレは、健康への回復ではなく、あいまいなので困りものです。
無理しても響いたら、高い音にぶつけられたら、それでよしとする。説明ばかり求めて、自分の知識が増えたり、うんちくが確認できたら喜ぶ。こういうのもレッスンの副次的産物ですが、成果とは、いいがたいものです。
○すぐにわかること
トレーナーのもつ感覚や体ができることを、すぐにできるのでしたら、それは間違っているか、ごまかされているだけです。そのトレーナー自身が基礎ができていない低いレベルなのか、求めるレベルが低いならありえますが。
でも、1回のレッスンだけの満足感や充実感を求める、そういうことばかりが、大切になってしまいます。それなら、それでもよいともいえます。
入口では一歩進むことが目的ではありません。慣れるとか心地よく声が出せる体験のほうが大切なケースもあります。
研究所の一階ロビーに振動マシンをおいていました。それに乗り、全身をリラックスさせると、それだけでよい効果が出ます。パソコンやスマホの疲れがとれるだけでも声はよくなるでしょう。体が柔らかくなり、温まり、頭もリラックスして、呼吸が深くなり、よい声が出やすくなります。
〇トレーナーのレベル
トレーナーの発声は、素人あがりのトレーナーでなければ、すでに何年ものキャリアの結果として示されています。深い息に支えられた声で響いています。それを将来のイメージ、あるいは基礎のあるイメージの一つとして参考にしてください。それができたら、その日で卒業できます。
そういうトレーナーさえ少ないのが今の日本のレベルで、悪声を売りにしているトレーナーもいます。
何年かに一人、ここにも声を出すことをハイレベルに特化したレベルの人がきます。劇団四季をやめ、ブロードウェイにいく途中に寄った人がそうでした。ほぼ、ここのトレーナーのできることをマスターしていた唯一の人でした。
○トレーニングの実質
レッスンするトレーナーを複数束ねている私としては、教わる側よりも、教える側に実感のあるレッスンで終わらせないようにしています。トレーナーが声を出すのでなく、本人が声を出すレッスンを重視しています。
本人の限界をはっきりさせつつ、その打破の手段を与えます。試みるとともに、打破できないのを、二次策、三次策と用意していきます。
大切なことは、トレーニングでは、声を飛ばすこと(声量、共鳴、コントロール)であれば、どちらに飛ばすとか、どう飛ばすとか、応用に焦点を当てるのではありません。そこからのアプローチはかまいませんが、数年かけてでも、声を飛ばせる、そのために声をキャッチすること、そして、それを支える呼吸をもつ体につくりかえていくことです。
それを拙書の「基礎講座」では、こう例えました。「手に、しっかりとのせて飛ばすこと」、このときに飛ぶかどうかでなく、きちんと支えて飛ばそうとすることでフォームができる、つまり、腕の力がつくことが肝要だと説明しました。
スポーツなどでは、ボールをどこまで飛ばすかが大切ですが、そのベースとなるトレーニングでは、負荷に対しどこまで抵抗できるかが問題なのではなく、それによって筋力がどうつくかということです。
○基礎メニュのつくりかた
たとえば、1オクターブ半で2分間=120秒の歌があったとします。声域、時間、テンポなど、歌なら、いかにトータルとして聞きごたえのあるようにするかです。心地よくとか、バランスよくとか、みせどころをつくります。「声の個々の要素より大切」な「ステージでの個々の要素」をみせるのに声の要素も大切という位置づけです。
トレーニングでは、集約します。部分的に拡大して、もっと丁寧にするのです。たとえば、♪=120の曲のテンポを半分(スピードを2倍おそく)♪=60にしたら、うまく歌えなくなるでしょう。♪=100くらいでもよいトレーニングになりますが、♪=80くらいまでやるとよいでしょう。すると声域もきつくなるから1オクターブ内に編曲(カット)して歌いやすいように移調します。発声=息(呼吸)=体の結びつきを徹底して、そこでもっとも理想的な声のポジションをみつけてみましょう。
〇基礎メニュでのチェック
1.息(浅い→深い)
2.息→声
3.声→共鳴
4.1~3の体から声の共鳴までの結びつき
これだけで
1.豊かな響き
2.息とコントロールされた声
3.深い音色(声の芯やフレーズでの線)
その人の声とフレーズのオリジナリティのベースが浮き出てくると思います。一瞬でも(=一音でも)、その完成形を自覚すると目的が具体的になります。レッスンはそこが入口です。イメージの入口までにも時間がかかるのです。
○フレーズのレッスン
歌い手の価値は、声に加え、歌=音楽での創造性です。音色を動かしてデッサンしていくのです。そのイメージのオリジナリティと実現力が問われます。色と線でのデッサンです。最初はイメージからですが、自分のもつ声の上にセッティングできるかを問われます。
多くの人はできないので、自らの声の延長上に、そのイメージを声でつくっていくことがステップになるのです。楽器の音のように自由に動いてくると、それがフレーズになります。組み合わさって作品となるプロセスを踏むのです。私が求める基礎というのは、ここのことです。
どう作品にするのかは、ヴォイトレでは、応用された表現として、基礎を掘り下げる必要性のためにみるのにすぎなかったのです。しかし、音響の発達で声の不足が補われてしまい(ごまかされてしまい)、その分、その人の表現からのデッサンを、必ずしも声と関わらせることなく折りこんでみるようになりました(特にポップス歌唱において)。
邦楽の人や役者をみるには、この基礎をもとにすると、同じ土俵でトレーニングできるのです。
○教えることの進化
私の考え方は最初から変わっていません。「基本講座」「実践講座」に、具体的手段が細かく述べてありますので、参考にしてほしいと思っています。
最初は、私自身が学び、習得してきたプロセスの体系化で、私の考え方と実践が入っています。その後、改訂したのは、他の人がより対応できるようにするためです。他の人に教えてきた経験を加えたのです。仮説を実践の上に検証して、同じ本を出せたのは、私くらいでしょう。ありがたいことです。
本の使い方や意味については、何度もくり返し述べています。こういう類の本はなかったため、デビュー本は、今からみると不親切で自主レッスンにそのまま使うには、いろいろと不足がありました。
ここでレッスンをしている人を元に書いたからです。ありがたいことに、その後、私の本で自主レッスンをしてきた人を、ここでたくさんみることになり、いろんな気づきがありました。
トレーナーと組むことによって、別の面からの気づきも多くありました。私から学んだ人が教えるのをみると、おのずと、その人がどこを学び、どこは学んでいないかがわかります。相手に対して同じように継承しているのはどこで、改良や別のメニュにして与えているのはどこか、それはなぜか、と考えます。よしあしはともかく、ここでの伝承、伝統ということの現実が、見事にまでわかるわけです。
私がどのトレーナーよりも恵まれていたのは、365日、全力投球する努力家の弟子(私がそのように言うと怒るかもしれないので、生徒でもいいのですが、敬意を込めて)に恵まれたことです。人として伸び盛りの時期に、ヴォイトレの5年から8年くらいのプロセスを何百人の単位でみるのは、声楽や邦楽でも、なかなか難しいのではないかと思うのです。音大、宝塚歌劇団、劇団四季あたりでも、果たして可能でしょうか。
〇応用、進化、分化
私は、才能があり努力する人たちと、トレーニングを応用、進化、分化させていきました。研究所も、声づくりだけを専らやるところだったのに、歌からステージ、せりふからビジネスのプレゼンテーションなどに広がっていったのです。プロセスは以前にも詳しく述べました。
考えや方法、価値判断を異にしていた人もたくさんいましたので、多くを学べたのです。
今の研究所のレッスンは、私だけで間違えるようなことができなくなっています。
大したことがないように見えるかもしれませんが、個人一人で教えている先生との最大の違いです。実践に鍛えられた研究所たるゆえんです。
若くしてトレーナーになっても、生涯まったく変わらず、同じやり方でやっている人もいます。自分が正しいと、他を否定することでしか自らを肯定できない人もいます。すべては試行錯誤し、間違い、改め、そうやって、ものごとは進歩していくのです。
今の研究所も私のやり方も万全とはいえません。しかし、長い年月にわたり変わっているからこそ、古くて最新でありえるのです。
○万能薬はない
研究所で私が学べたことは、一つの方法をもって、すべてのタイプ、すべての時期にはうまく当てはまらないということでした。トレーナーの違い、方法の違いは、生徒の違いと同じく、どこで同じ、違うと分けることが、すでに偏りなのです。その判断自体が価値観の違いだからです。
同じとしたものを丁寧に細かくみていくと違うのです。ですから、「正しい判断」について、などという論争は、この分野では不毛です。
方法やトレーナーについての先入観や固定観念で判断するのをやめるようにお勧めします。
毎回、少しずつ身になることもあれば、どこかの時間をバーンと飛躍することもあります。しかもそれは、トレーナーや方法よりも本人によることといえます。
〇役立てる
レッスンやトレーナーは、本人が役立てるように活かせばよいものです。同じトレーナー、同じ方法でも、活かせる人もいれば活かせない人もいます。誰もが少しずつ活かせる人や方法もあれば、誰かがあるところでバーンと大きく活かせるのもあります。
私自身が十数名のトレーナーのほか、外部のトレーナーのレッスンの情報も集めて、内外問わず、方向も含めてアドバイスしているのは、そういうことをやる人がいないからです。
誰もが正しい方法、正しいトレーナー、正しい…を求めています。ほぼすべてのトレーナーが、それは自分だと思っています(私のところのトレーナーも同じです)。
考えればおかしなことです。皆が正しいなら、皆同じになるはずです。
目的やレベル、プロセス、自分でできることできないことなどを、個々に絞り込めば選びやすくなります。
私のところで何人くらいかのトレーナーを経験すれば、日本のあらゆるトレーナーを体験するのと同じくらい、世界の(といっても欧米中心になりますが)およそのヴォイトレはわかります。
〇ライブラリー☆
研究所には、アメリカのセス・リグスはじめ、イギリス、フランス、中国の発声のプログラムや音源、教材などがあります。日本のものは、この30年内のものは揃えています。高木東六さんや曽我さん、遠藤さん、松田トシ(敏江)さんのも。今の30代のトレーナーのものまであります。
私と日本の声楽家の叡智を集めた研究所のトレーニングは、私のトレーニングの欠点もフォローしています。
世の中には、早く上達させられるようなプログラムや機器がないわけではありません。何度もくり返すように、トレーニングというからには、長期的に確かな差となってくるもの、逆にいうなら、ちょっとした違いにしかならないものは、無視するべきです。こういう方針は、現代には合わないのかもしれませんが、死守するつもりです。
オーディションに受かりたいなら受かることをすればよいでしょう。しかし、その後続かなければ…。人生は長いのです。2、3年でやめる人もいるのですが、プロというのは、10年、20年やって初めてそういえるのです。せめて、トレーニングというなら力になることをやるべきです。その2つの根本的な違いについて、何十回も述べているのです。
○表情筋のトレーニング
ヴォイトレでは、表情筋について、よくクローズアップされています。美容で詳しく扱われていたのですが、カメラでさえ笑顔認識する昨今、口角を上げることは、必修化しつつあります。
表情の魅力づくりとして、自己啓発セミナーでもよく取り上げられます。笑いのセミナーもあります。アンチエイジング、ボケ防止、就活、婚活にと、この口角上げは、まるで万能薬のようです。
声楽やヴォイトレでは、以前から割りばし、スプーン、鉛筆、指などを使って、教える先生もいます。共鳴のために共鳴控を拡げたり、舌根を下げ、喉頭を下げて、声道を広くすることが、直接のねらいです。
〇顔の柔軟性
私のテキストにも、表情を各パーツごとに動かす運動を入れています。初心者や自主トレ用に入れたものです。私のレッスンや私自身は行っていません(ここのトレーニングでは似たことをやるレッスンもあります)。
声の調子の悪いときに少しやることはあります。表情がこわばっているときは全身、体の柔軟性も失われていることが多いのです。
自分がやらないのに本のメニュに入れているのかというと、体力づくりや柔軟と同じような意味で、基礎レベル以前のことだからです。それの伴っていない人に、意識づけ、アプローチさせるためのものです。
私の頬はゴムまりのようにフワフワになりました。よく使っていたので、あまりやる必要がなかったのです。
新人の営業マンはミラートレーニングでやらされますが、ベテランはいつも表情が柔らかくなっているので不要です。新人アナウンサーは早口ことばをやって、局入りしますが、ベテランは不要です。身についていたらよいのです。
〇口を動かさない
私のテキストには声を安定させるまでは、あまり口を大きく動かさない(発音より発声優先)のです。その期間、あまり表情を使わない人は、補強するトレーニングを本に入れてあります。
高音の練習になるにつれ、表情は動き、太もものあたりにまで支えが求められます。そのあたりでのトレーニングをしていると、表情筋のパーツトレーニングは兼任されるのです。母音で1オクターブ統一できることを目指して下さい(この支えの感覚の要、不要については、改めて述べます)。
「基本講座」には「へたな練習するよりも、腹を抱えて笑った方がよい」と述べました(これを声の本で最初に引用してくれたのは、巻上公一氏でした)。毎日、腹を抱えて笑っていたら、このトレーニングはいりません。
目的は、声で伝えることです。発音の明瞭さは一つの要素にすぎません。明瞭なのはよいのですが、明瞭さにこだわり、声質、感情、間、メリハリが犠牲になっては、元も子もありません。
表情たっぷりに歌う人もですが、基礎の発声において、装飾のしすぎは禁物です。
レッスンやトレーニングで滑舌(早口)に凝りたいときは、その目的でよいのです。
○発音の前に発声(劇団四季とオペラ)
声楽家が滑舌トレーニングを基礎に入れていないのは、口形を変えることで、声の質に影響が出てはよくないからです。魅力的な声の共鳴、輝きと発音のクリアさは最高音になると、両立しがたくなります。オペラ歌手は当然、共鳴の完璧さを取るのです。
初心者の客は、ことば=ストーリー内容を聞きにくるのですが、通の客は、声を聞きにきているのです。オペラは原語で歌われるので、日本人にはわからないから声を犠牲にできない。ゆえに、ヴォイトレの目的と一致するのです。
役者はことば命ですが、声はしぐさ、表情に従属します。死にそうな状態になりきれば、そこで出た声がリアルになるのです。そこがオペラとの最大の違いです。
劇団四季は、母音の口形練習を徹底します。誰でも聞きとれるように発音重視の日本語にするため、喉に負担を強います。浅利さんが演劇出身で、ことば重視で音楽軽視なところがみられます。それは日本人にとても合っているのでしょう。日本人は、ことば、ストーリーの方にしか耳がいかないという私の論の証明になります。
○ベテランアナと新人アナの違い
若いアナウンサーの場合、日本では声もできていない状態でTVに出します。すると、どうしても発音のため、口形重視となります。表現力のないアイドルアナをすぐ起用するのが日本です。それをいうなら歌手も声優も役者もレポーターも、すべて似たようなものですが、できないのに出ているために見過ごされていた問題の例です。これは一流レベルでのセレクトがなされている国や分野では起こりえません。
1.口形のはっきりした、わざとらしいくらいの大げさな動き
2.そこでの発音
3.そこでの声
4.伝わる度合
これをベテランアナと比べてください。1~4の重点が全く逆の結果になります。
ベテランは、
・よく伝わる
・声がいい、個性的
・発音は気にかけていないがクリア
発音の明確さは、本来は目的でなく、内容が伝わることが目的なのです。それがなかなかできないから、発音とルックスで何とかやっているのが、日本の新人アナです。もちろん、TVゆえ、口形も表現力の要素となりますが。
〇アナウンサーとキャスター☆
日本はメディアに主義主張の偏向のあってはならない、というおかしな国です。正確に内容を伝えるだけが報道である、ということです。そういう本来はありえない未熟なジャーナリズムには、ルックス本位の人の未熟な声が魅力的なのでしょう。
本当のことをいえば、発音トレーニングもいらないのです。口をはっきりと切り変えすぎるのはふしぜんです。アナウンサーが30代になり、朗読、詩吟などをやりたいなどということになると、先生に「素人より悪い」などと言われて、私のところによくきます。
何人ものアナウンサーをみてきましたが、役者のせりふやお笑いも噛み合いません。アナウンサーという職業病です。日常会話さえ、報道モードになる人も少なくありません
欧米では、一般の会話レベルは報道でなく、日本でいうところの演劇モードレベルです。アナウンサーは個性あるキャスターなのです。
表現の本質をわかって、声を伝えるようにした人が、キャスターとなり40代、50代と活躍しています。たとえば、国谷裕子さん、森田美由紀さんなど。
大竹まことさんのラジオ番組に出たとき、阿川佐和子さんに「役者の声は、もてますが、○○アナウンサーの声はどうですか」とふられ、「だめです。もてません」と答えたところ、阿川さんは「アナウンサーは。(句点)までしか読みませんが、役者はそこで切ったあとに、伝わらなくてはなりませんから…」というようなことを言っていました。「さすが」です。
○メニュの使い方(外郎売り)
ヴォイトレでは、声中心にしたいものです。それは当たり前のことなのに、日本ではそうなっていません。
ヴォイトレで、本質的なことをやりたいなら、本質的なメニュとそうでないメニュを区別しておくことです。
とはいえ、こういう説明もあまり意味が伝わらないのは、同じメニュでも、その人やトレーナーの使い方で学べることにもなるからです。どんなメニュでも、使い方によっては本質的になるのです。
たとえば、「外郎売り」は、滑舌のための早口ことばとして使われているメニュです。メリハリをつけて使うと、口上として表現力を磨くことができる魅力的な課題となります(初心者には、読むだけで難しいので、どうしても滑舌のトレーニングメニュになりがちです)。
表情筋トレーニングは、高音の発声のためのメニュに使われています。本当は、高音を出していくと表情も動いてくるのです(変えずに最高音を出せるのは、パバロッティのレベルで一流)。そこで、兼任できる範囲までが望ましいともいえます。
きちんとヴォイトレをやっているなら、姿勢のためのメニュなどは不要なのと似ています。退院したてのような人はヴォイトレの前に何か月か、筋トレ、柔軟、呼吸に追加して、発声せずに立ち方のトレーニングをした方がよいと思います。
一人ひとり異なるのです。一人では捉えられないからトレーナーが必要です。トレーナーには幅広い視野と深い考察力が望まれます。
〇本質的なメニュとは
誰にでも共通して必要な「基本メニュ」が難しいので、簡単にしたものをたくさんつくってきました。トレーナーにも、「これがいい」とか、「これはよくない」とかいろいろと言われているようです。しかし、メニュの形式でなく、目的を明確にすることが大切です。メニュそのものは、使い方で変えれば、どうにでもなるのです。一つか二つを徹底して使い込めたら、充分によいのです。
たとえば、「母音はどの音、子音はどの音を使えばよいのか」というと、私たちのブログの「トレーナー共通Q&A」でわかると思いますが、それぞれの母音、子音にいろんな特徴があり、それによって可能性や処方があるのがわかると思います。どれか1つが絶対ということはないのです。目的やその人のレベル、タイプによって異なります。メニュを変えなくとも、使い方を変えれば対応できるのです。
どれがよいとか悪いでなく、その人の今の発音や発声、目的にもよるということです。
この研究所でも、トレーナーがそれぞれに使うスケール(音階)、母音、子音は、違うのです。おもしろいことです。その違いを超えて、学べたものが本質であることがわかります。すべての発音やスケールを学ぶ必要はありません。いくつかを使って全てに通じるものを学ぶのです。
○バランスを変える
ある1フレーズ(8小節くらい)をサンプルとします。あなたの歌うための声、器の容量が2オクターブで16小節とします。
器(トータル)を拡げるイメージ
トータル=2オクターブ(使う声域)×16小節[伸ばす長さ]×声量
2オクターブなら8小節×声量1Q(単位は仮に1Qとする)
1オクターブ(8度)~8小節×2Q
半オクターブ(5度)~8小節×4Q
3音(3度)~8小節×8Q
1音~8小節×24Q
ここまでは、声域を1/2、1/2、1/2、1/2、としてきたという意味です(正確ではありません)。
1音~4小節×48Q
1音~2小節×96Q
1音~1小節~192Q
その後は、長さを1/2、1/2、1/2、1/2、としています。
2オクターブで8小節歌っていたのを、1音で1小節にすると192倍の声量(が出るわけではありませんが)かなりの大きさの声は出るわけです。
〇トレーニングでの補強
今度は、長さ(小節)を省きます。あなたの器を100として、10×10つまり、声域1オクターブを10とし、声量に10を使うとします。
→声域を半分にすると5、その分、声量へ20をかけられます。
→声域を3音だけとすると、声域3×声量33.3…
→声域を1音(もっとも出しやすい1音高)声域1×100
1オクターブで歌うと10ホーンでしか出せない人を、もっとも出る1音だけにすると100ホーン出る。極端な例として例えていますので、こんなことはありませんが、イメージしてみてください。
たとえば「アー」と目一杯出してみればわかりますね。このままの声量で歌には使えません。歌には声域などがあるからです。カラオケの人は、声量を小さくして声域をとりますね。
この2つの他にも、長さ、メリハリ、音、リズムなどが同じように変数として使えます。目的は、器そのもの、トータルを増やしていくことです。
そこで、トレーニングでは、体、息、声、それぞれの器を大きくすることを目指します。さらに大切なのは、同時にそれらの結びつきを強めていくことです。そこでは深い息、深い声がポイントとなります。
〇高さを強さにする
拙書の「基本講座」では、高低差(声域)3度ドレミレドと、声量ド<ド>ド強弱差(声量)を同一の見地で述べています。ドからミへ音(ピッチ)が高くなるのは、体や息の負担でない。むしろ「高い方は楽になる」というのが反論としてありました(新刊版では説明を加えています)。
ここでは、振動と周波数ではなく、ドがもっとも出しやすいなら、ミは(あるいは下に3度低いラでも同じ)その台の支えをつくらないと同じには出せない―出せるようにする―そのために息や体が備わるということです。「息や体の力を強く使え」ということではないのです(違う高音を、音色を同じにして出すというのは、文章では伝わらないので、知りたい人はいらしてください)。
〇バランスをとるのではなく崩す
歌唱、発声の2オクターブをみると、ほとんどは1オクターブ半以上高くなると、声帯の使い方が変わります(声域が変わる。裏声、ファルセット)。別のやり方で、振動数(つまり周波数)を増やす使い方にします。
「基礎講座」では、基礎の1オクターブまでが中心なのです。話声区に限れば、強く言うと高くなるという、単に、声門下圧と声帯(声帯の長さと緊張度)で捉えてよいのです。
多くの人は喉声なので、私は、胸声でのフレーズで動かせるようにしています。クレッシェンドと同じ感覚で音程(この場合、高めの音)をとります(「メロディ処理」=私の造語)。
ベルディングのようなのは、声楽では中高音以上になると、その発声を否定されています。単なる命名では実体を伴わないので論じません。地声(1オクターブ内)では、一流の声楽家は、声の芯で同質の深い共鳴をキープしています
日本人が歌唱をせりふの延長上でなく、響きの方からもってきたことについては、非日常的で、そこに二重性の問題をはらむというのが、私の立場です。日本人の歌唱が、なかなかしぜんなロックや、ミュージカルにならないことで証されています。
すべてのバランスをとることが、うまくこなすこととして目的になりがちですが、トレーニングは、そのベースを固めつつ、ときに、その逆を試みるものということです。バランスを意図的に崩してそこで、異なる可能性を追求するのです。特別なメニュを使うのも、そのためです。
そうして自分自身の声の可能性を知っていくのです。基礎だけでなく応用である表現で、これまでのバランスを壊しても作品がもつように、それがもっとよくなるようにしたいものです。
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