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「研究の3条件」

〇事例研究

 

 毎月何十人、トレーナーも入れると何百人とのレッスンでの接点をもつ、この研究所では、日々いろんな問題が生じます。あるものは持ち込まれ検討に、あるものは新たに対策をたて、あるものは改めることを余議なくされています。いつも対処に追われています。

 組織というのは、ありがたいもので、私に持ち込まれる前に、トレーナーやスタッフが対処し、本来は私が1時間かかることを1行の報告ですむこともあります。

 声という得体のしれないものについて、事例をたくさん必要とする研究において、ありがたいことです。教育や指導の前に研究の体制が充実していなくては、大きな成果をあげられないでしょう。

 トレーナー個人の研究は、基礎です。それを元に多くの事例を吟味し、分析したり解釈したりして「仮説」を構築しつつ、第三者の目を通して実証、証明していくのです。ようやく、そういう体制が整い、私自身、研究所の内外でその実践者に会い、研鑚する機会が増え、ありがたく思っております。

 

○研究の3条件

 

 スタッフやトレーナーの質とともに、いらっしゃる人の質も大切です。数だけではありません。勤勉な人の声に接することが何よりも大切です。

私たちトレーナーは、そのときの症状のよしあしを診る医者ではなく、将来に向けて力をつけさせることが役割だからです。しかも一人ひとりの人に5年、10年と、長く接していかなくてはわからないことがあります。

1.数の多さや年月(時間)の長さ

2.種類(タイプ)

3.質(熱心さ)

この3つがそろっていなくてはならないのです。

研究所でも、10年以上、いる人やプロや活躍をしている人を100人単位で捉えていくのを目標としてきました。これまでも、こういう条件を成り立たせていたのです。そのプロセスをきちんと捉える方法や体制を私やトレーナーだけでなく、第三者に認めてもらう体制をつくりつつあります。

 

○トレーナーとしての絶対量

 

 私は、最低で5年間がトレーニングでの実績、レッスンの最初のステップでの判断の目安だと思っています。どの世界でも、3年くらいは、初心者から一歩抜けたところ、一通りものがみえるようになった程度にすぎません。オリンピックであれ、まともなレベルの競技であれば、経験3年以内では、優勝はおろか、出場できる人は稀でしょう。将棋や碁でも、噺家でも芸者、医術、武道でも、何らかの一芸、一道、一分野で頭角を現すのに、必要な単位は、10年が最小ではありませんか。

 

 専門的な教育を受けずともデビューはでき、勘がよければ現場だけで力がついていく、数少ない分野が役者や歌手です。

 そのため、そこに関わるヴォイトレも軽視されています。トレーナー自身の経験においてさえ、大半は、あまりに絶対量が少ないです。ヨーガの初心者かスポーツインストラクターの1年目くらいのスタンスでやっている人も少なくないのです。資格もないので、入ってきた生徒さんをいきなりトレーナーとして雇うようなスクールも珍しくないくらいです。

 最近はそういう人が、ここにも学びにくるので、あたりまえのことをあたりまえに言うことが多くなりました。せめて、音大を出たくらい、といっても、音大を出たくらいでよいと思われると困るのですが、34年くらいは、舞台や社会経験をも踏まえてほしいです。他人の指導を受けたり、指導者の横で学ぶ必要があるように思います。

 

〇ソロからのトレーナー

 

 問題が多いのは、プロ(現場)から指導者になるパターンです。音大では、まだ誰かに学び、同期や先輩、後輩をみて、その成長や伸び悩みという他人の経験を、共通の課題や同じステージで共有します。ミュージカルや合唱も、そういう経験がもてます(同期と比較したり、時間をかけて他人の経年変化をみること)

 タレント性で役者や歌手になった人は、歌唱はソロで、自分にしか通じない自己流です。

 本来なら、経験を積まなくてはいけないのに、挫折し(それは、スポーツトレーナーでもケガなどが大きな理由で転向する人が多いのですが)、生計のために指導にまわる例です。

いちいち例をあげてはキリがないし、また本位ではないのですが、研究所がそういう人の場にもなっているので触れました。ここ5年くらい、レクチャーやレッスンでの問題として、目立つようになってきたということです。

 

○表現と基礎との距離

 

 地方からいらっしゃる人について、プロ志望の人、歌の先生に学んでいる人がきます。ここの通信教育で学んでいて、お会いする人もいます。

 ときとして、面倒な問題となるのは、声の問題以前にその人の考え方、判断の枠組みの頑なさです。

 私は、「声、ことば、歌は、日常の24時間、生涯の生きてきた時間、育ってきた環境と切り離せない関係にある」から、「日常を変えなければ大きくは変わらないこと」と強調しています。

 もっともメインにしているのは、「12年で12割よくなって、そこで止まるレッスンやトレーニング」と、「3年先から基礎が身についてくるレッスンやトレーニング」との違いです。

 これは「ヴォイトレが、なぜ本当の基礎づくりのトレーニンとして行われていないのか」という、まさに、「あたりまえのことがあたりまえにできていないこと」、それなのに、「できていないことに気づかないこと」を言っています。

 

〇成果、効果とは何か

 

私は他のトレーナーの能力がなくて、ここのトレーナーや私が、そういうことを全て解決していて有能と言っているわけではありません。正直なところ、ここでも

1.目にみえる成果が出ていない

2.あまり成果が出ていない

と言わざるを得ない例もあります。

 

 体験談や効果としてアップしていることは、私どもがよいものばかり選んで載せているのではありません。よかったことは報告してくれますが、悪いことを書いて出す人は少ないからです。日々のやり取りのなかでは、問題になるようなことも出てきます。

 「成果とはいったい何か」ということを考えてみてください。少しの効果とかたくさんの効果などということよりも、求める成果とは本当のところ、何なのかを明らかにしなくてはなりません。

 これらは、私たちが取り組んできた問題の一つです。これについては、多方面からのアプローチを専門家の方々としています。複数のトレーナーとレッスンを行っていますから、ここでは、日常化している問題です。

 

〇効果の検証

 

1.効果があったが他のトレーナーならどうであったか(もっと効果が上がった、同じくらいだった、効果が上がらなかった、悪くなった)。

2.効果が出なかったが、(以下同文)

3.効果が出ているが、(以下同文)

私が思うに、9人のトレーナーがだめでも、1人のトレーナーが解決できるときもあるのです。これは研究所のなかで、9人がだめでも、まだ他のトレーナーがいるとか、研究所がダメでも、他のところにそれを解決できるトレーナーがいるとかで考えているのではありません。

 トレーナーの数などでなく、組み合わせでどう扱うかということです。同じ人でも目的、時期、レベルにもよるし、トレーナーも同じです。

 

〇トレーナーを判断する力、活かす力

 

 結局、

「誰にでも万能なトレーナーはいない」

「そのトレーナーが自分にとって、もっともよいトレーナーかはわからない」

 それゆえ、

「自分自身で判断できる力をつけていく」「なら、多面的な指導を受ける方がよい」

ことになるのです。トレーナーを判断する力をつけることも入ります。トレーニングそのもの、いや、その結果としての声そのものを判断する力ということです。

 

 今までついているトレーナーをやめて、ここにいらっしゃる人もいるのですが、どんなトレーナーでも全て否定されるようなこともありません。どこかは、何かは、メリットがあるのです。そこをどう活かすかです。

 トレーナー自身も相手により(目的、レベル、期間etc.)変わります。成長もするし、方針ややり方も変化します(そのような学べる環境におかれたらですが)。

 私は今、若いトレーナーもみています。彼らも、ある時期を経て、発声の基準や方法、教え方が変わっていきます。大体は成長していくものですが、あるタイプにはより向くようになるが、あるタイプには向かなくなることもあります。

 

〇トレーナーとの分担でみえること

 

 ここでは、レッスンの感想レポートをトレーナーにみせています。トレーナ―にもいろんな引き出しがあるので、それに工夫して対処していきます。そして、その力を引出、力をつけてもらうためです。

「自分なりに選んだトレーナーと長く密にやっていくことで、自分がもっとも使えるトレーナーにしていく」

 「自分のトレーナーの才能を全開させるようなレッスンにしていく」

ことが、最終的にはすぐれた接し方です。

私もそういう生徒さん、トレーナーたちのおかげでここにいて、誰もが経験できるわけではないすばらしいことを学ばせていただいています。

私自身が決めつけた答えをもたずに、私のやり方を押しつけずに、使えるトレーナーに育て、その制御だけをしてきたからです。自分ですべてをやるのでなく、トレーナーの才能を見抜き、レッスンの役割を分担してきたからです。こういう相手を育てたり、相手の仕事をつくる考え方こそ、人に接するときに大切なものです。

 

〇削ぎ磨いていく

 

 二十代の頃は何もかも一人でやろうとして、あまりに膨大なやるべきこと、知るべきこと、生徒の数やレッスンの量に忙殺されました。

 まわりは、レッスンだけでも大変な私に、ステージから打ち上げ、合宿からライブ、研修、構成、取材、執筆と、歌えや踊れや、書けや話せや、プロデュース、マネジメント、飲みに、話に、世に出せ、紹介しろと、何もかもを期待し、要求してきました。それを脱し、本当に大切なものだけを残したのが、今の研究所です。これからさらに削ぎ落していくつもりです。

 

○思い込みの排除

 

 レッスンを受けようといらっしゃる人は、少なくとも「今の自分を変えたい」「よりよくしたい」という思いのある人です。ですから、9割くらいの人は、今ここにあるレッスンを肯定的に受けとめてくれます。

レッスンというのが、正しいとか間違いとか、合うとか合わないとかばかり考えるのは、思い込みの強い人に見られます。あまりよくない先生や本などで学んでしまって、目が曇らされてしまったと思わざるをえないこともあります(こういう人はレッスン以前の問題です)。勉強して、レッスンすることを頭が邪魔をしてしまうのです。

 

1年半のジレンマ

 

私のレッスンは、私の本を読んでくる人が多いので、その傾向が強い人もきます。学んでいくうちに、心身や声そのものよりも頭ばかりがでかくなる人もいます。トレーナーになる人にもこのタイプは多いため、そういうトレーナーのレッスンがそうなりやすいということもあります。

 

 その世界に接すると、接する前よりも見えなくなってくる現象については述べました。1年半くらいたって、少し身についてきたあたりから、それは表れてきます。

トレーナーも全く同じです。1年少しで、自信が高慢になる人もいます。最初は遠慮し謙虚になってまわりに学んでいたのが解き放たれるからです。車の事故も大きいのは、免許取得後1年くらいの人だそうです。

 

○ビギナーズラック

 

 ビギナーズラックについては、それまでやっていないのだから、やった分は伸びて当たり前です。自分の潜在能力、これまでの余力の出るのです。しかし、時期が過ぎ、人並みになるとあたりまえにように、伸び悩むようになります。すると、いろんな疑念が生じるわけです。

 プロや経験者が、専念していたトレーニングから、ふと我にかえり、もしかしたら、ものになっていないのでは、と俯瞰して気づく時期にも重なります。

 このことが、3日とか3週間、3か月単位でくる人もいます。

 

〇頭でわかるな

 

勘や頭はよいと思われているのに、大成しないタイプもいます。芸事や仕事には知識は害にしかならないのです。そのことに気づかない、知、理論、科学が万能という信者です。つまり、芸や人間の深さを知らないのです。

これは自分は何でも一番だったとか、他人よりもできると思っている人に多いです。日本では頭で評価されてくるので、本人は他のことも同じようにわかるものと思いがちなのです。「わかるとできるは違う」のです。

 

○できるということ

 

 たとえば「地声で歌いたい」という人に、トレーナーが裏声(ファルセット)のレッスンをしたとします。すると、すぐに「これはいりません」とか「歌に使いません」という人がいます。

 言うのは構いません。そう思っていたのを伝えるのはよいことです。トレーナーも再考するでしょう。

しかし、地声のレッスンを望んでいるなら、地声でやるのが当たり前なのに、なぜトレーナーは、そうでないことをしたのでしょうか。

1.知らなかったから、忘れていたから

2.必要だと思ったから

1なら、本人が知らせたらよいのです。なかなかトレーナーには言いにくい人もいるので、私どもではメール(感想レポート)を使えるようにし、スタッフを介在させています。事前にも事後にも、ここはレッスンに向けて、本人のレポート(現状や本日のレッスンへの希望)で検討や確認ができるようにしています。

 本人の判断がつかなくとも、他のトレーナーやスタッフが介在します。私もトレーナーの報告(これは必須)、本人のレポート(これは自主的提出)をみてチェックして、必要があれば対策を考えるわけです。

とはいえ、毎回のレッスンで効果をあげたり、一つひとつの是非にこだわることはよいことではないのが、声の難しいところです。知識のように最初から○×が決まっているわけではないからです。声は、その日によっても違うですから、将来どうなるかは、すぐにわかるとは限りません。ここを間違えないでほしいのです。

 

〇受容から

 

 今の日本人には、510年とかけて何かを身につけていく経験をしたことがない人が増えています。頭で学んでいくこと、多くは記憶の反復しか経験していないから、なおさら、判断について、自分にとってよくないことをしてしまうのです。

 「思考をストップして、まずは受け入れてみる」本当に頭がよく、体で成果を出せる人は、こういうスタンスです。「体で結果を出せることを頭がよい」と、私たちの世界では言うのです。本当に頭のよい人は頭を使わないことができるのです。それが大切ということを知っているのです。

 

・具体的に事実をもって検証する。

・いろんな例外や他の可能性を否定しない。

・長期的に反復して確証を高める。

 

〇進歩する

 

基本的なことを踏まえていると、単純に、「自分だけが正しい」とか、「自分と違うから間違いだ」とか、浅いレベルの発言をしないでしょう。

 学ぶほどに知るほどに、経験するほどに問いがたくさん出てくるものです。つまり、進歩するとは、「知らない」ということを知ることです。

 

 「わからないけどできている」それがよいのです。わかろうとする努力は必要ですが、答えを求めるのでなく、問いをつくる、気づくことに意味があるからです。

 「答え」は、あなたの表現、ステージ、人生で出せばよいのです。まして、声やヴォイトレは、何かのための手段でしょう、メディアです。ですから、そこだけで、よし悪しを言うことはできません。

 本やTVやネットで、いいとか悪いとか言ったところで、いろいろな見解があるというだけのことです。現実での、現場での内容こそが大切です。時間をかけて本質に少しずつでも近づいていくことが、レッスンの本意です。

 

〇歌とヴォイトレ

 

 「歌に対してのヴォイトレ」をどういうスタンスで捉えるかについて、言及します。応用の基礎とか表現のトレーニングというくくりでも述べてきましたが、私の述べる狭義のヴォイトレは「声」の強化で、

1.共鳴

2.発声

3.呼吸(体)

の次元です。そこで、それぞれ、その関連を捉えるのです。

しかし、広義には、歌やせりふまで入ります。「話」の基礎として、その技術、あるいは声の機能面として日本語、その発音、アクセント、イントネーションなども含めています(「声の基本図」参照)。

 それをチェックするためには、現実的には目的にすべき表現、その人の世界観まで、必要とせざるをえないので、上位に「表現」をおいています(表現と声との問題だけみるケースや声の表現の判断やアドバイスだけをしているケースがあるのは述べてきました)。

 今のステージのために、声を応用するのが歌です。その状態を調整するのが即興的な歌のレッスンです。それに対し、将来のための基礎づくりとして、条件面を鍛えていくトレーニングとしてのヴォイトレを私は目指してきました。それゆえ一度、自分を白紙にして、表現を離れることが余儀なくされるのです。

 

○日常性の拡大

 

 発したらそのまま、表現に使える声というのは、理想的です。その根底にある本来の声の力にもっともこだわっているのが、私のレッスンです。

ことばも歌もつかない声そのものの表現力、絵でいうとデッサンの線や色でなく、一本の線だけ、一色の色だけをみます。そこまでシンプルにするのは、ここでしか行われていないと思います。

 一声だけのレッスンです。「ハイ」や「ヴォーカリーズ(母音)」「スケール」(ロングトーン、レガート)「ハミング」さえ、応用練習と位置づけています。

 歌では、その人の本当の声から離れていくことが、日本人の場合、一般的です。人のまねから入り、そこで留まるからです。

 無理なレベルのまね(外国人のヴォーカリストなど高度すぎるもののまね)か、逆に身近かな、あまりしっかりしていない日本人のヴォーカルのまねから入ることが大半です。入るのはよいのですが、それを目標とするので、そこから抜け出せません。「うまい人のまねをして、うまくなった」で終わってしまうのです。

 

〇歌の声を忘れる

 

 体の声とみていくことで、歌うための制限から声を解きます。すると、当初、発声の声と歌やせりふの声が一致しません。そういうジレンマに陥るのです。だからこそヴォイトレです。

声の完成を目指すのなら、そこで歌えなくなる、せりふにならなくなるのは、あたりまえです。そのジレンマをしっかりと受け止めなくてはいけないのです。

 自分の歌やせりふの声は、あまりよくないと多くの人が思っています。日常的に使っているからこそ、そのなかでのレッスンでは、大してよくならないのです。そこで私は、「非日常なまでに日常性を拡大する」ようにしていくのが、レッスンだと言ってきたわけです。これは、本人が「これまでにない表現や世界に対応できる器をつけていくこと」を意味します。

 たとえると、毎日一万歩歩くのがきつい人が、一年後に楽に一万歩歩けるようにする。腕立て10回しかできなかった人が50回できるようにする。10回しかできない人にとって、日常は10回で、50回は非日常です。でも50回できる人にとっては50回が日常です。100回ができなければ、そこは非日常です。本人が、その器が大きくなることで日常が強化される、拡大するのです。

 声量や声域では、量的な比較がしやすいので、それがヴォイトレの目的になりやすいのですが、それは副次的効果にすぎません。声からみたら、せりふということばでの発音なども副次的効果とさえと言ってよいと思います。

 

○声を目的にしない「ヴォイトレ」ばかり

 

 歌やせりふという表現は、声を基礎としつつも、声でなく、発音やメリハリ、メロディ、リズム、センス、その他の多くの別の要素、しかもそういう要素の組み合わせで問われています。すると、どうしてもわかりやすいものに目がいくのです。急いで身につけようと思うと、尚さら、表面的、機能的なものを求めてしまいます。残念なことに、トレーナーの多くも、そのレベルでヴォイトレをとらえています。

 そのため、余程、声だけにこだわらない限り、声は変わらないし、本当の成果も出てこないのです。

 

 「ヴォイトレで声そのものを求めている人」は、実のところ、案外と少ないといえます。また、教える側も「ヴォイトレ」と言いつつ、そのレッスンが大して声を中心にしていないことが多いのが現状です。「声と違うものを目的にしている」ことを表しています。それでは、声が変わるはずがありません。

 

〇声と発音の違い

 

 私のところは比較的、声そのものを目的にしている人が多いと思います。それでも、3人に1人くらい、その人のなかでも30パーセントくらいが、本当の意味で声の問題といえるでしょうか。それでもよいと思うのです。

 たとえば、アナウンサーなどが教えるのも、よいと思う「発音」や「語尾まではっきり聞こえる」ためのレッスンなどは、発声や呼吸から正していくことで、根本的な解決がはかれます。だからこそ、基礎というのです。

でも一時間くらいでの成果でみるなら、「滑舌、早口ことばのレッスン」が対処療法で早く効果が出ます。口をきちんと動かして、早口ことばを読んでください。レッスンしてしばらくは発音がよくなっているはずです。やりすぎて疲れると悪くなることもあります。

 日常から人前でしっかりと伝えている本職の人は、それが日常なのですから、必要ありません。一度マスターしたら、それは日常の能力に納まるのです。

 

 やっていないからできないものは、やればよいのです。私の出したCDの発音トレーニング(「ベレ出版」)でも使えば、すぐによくなります。しかし、声そのものがよくなるには10年、20年がかかるでしょう。

「アナウンサーの発音と発声」については述べたことがあるので割合します。彼らは発音から入り、結果として、その世界で続けていけた人は発声もよくなっています。発声までよくなった人が50代あたりなると、よい仕事をしていると私はみています。

 言うまでもなく、「今できていることはできていて、今できていないことはできていない」のです。「今できていないことは日常にないこと」なので「日常の環境や習慣を変えていく」ことです。すると、「今できていないことができている」ことになるのです。そのためのきっかけとしてレッスンがあるのです。

 

○本当の原因☆

 

 「今できないことが、将来、本当にできるようになるのか」については、そこでの必要性を細かく分類して示しました。

 今できないことは、これまで生きてきたところで、できている人に比べ何か(環境、習慣含め、素質、感覚、体、機能など)が足りなかったのです。ですから、そのままにするのでなく、変えるために、補強しなければいけません。「レッスンでそれに気づき、トレーニングで変えていく」のです。

 そこで「今すぐにできたり、役立つこと」は本来、トレーニングというほどのことではないのです。

 すべての元は、体や感覚です。フィジカル(肉体)とメンタル(気持ち)も含まれます。発声器官とともに聴覚、脳や神経に関わります。あなたの精神や体のことですから、出生から育ちと、これまで生きてきたすべてのことの問題です。

 しかし、安心してください。90パーセントは備わっています。あとの大半は、使われていないから、うまく調整されてこなかったのです。

調整できないのは、より高いレベルでの必要性、判断の基準がなかったからです。そこまで求められる必要性、条件がなくて、鍛えてこなかったことが、大きな原因です。

 

〇目標を高める

 

 「日本語を話せること」と、その「日本語のスピーチで人を感動させること」との違いのように、声と発音には、けっこう大きな差があるのです。そのわりには、とてもあいまいなのです。日常でたくさんのみえない経験が積まれてきた結果が今のあなたの声です。

どの場でも、状況で声の状態は異なります。多くの場合、人によっても評価の基準がまちまちです。

 声やせりふや歌は、慣れるだけで、かなりのことができるようになります。ですから、私はいつも、「目標を高く、必要性をMAXに高める」ように言っています。そうしないと声のレッスンもヴォイトレも、あるところからわからなくなると述べてきました。やることがわからなくなり、伸びなくなるのです。つまり、目標とのギャップが解消された=自己満足で、次の高みの目標とのギャップがみえていかないのです。

 

〇慣れと実力の違い

 

 慣れで状態をよくするのは、ワークショップのようなレッスンです。即興的な効果、本人の実感のレベルでの評価がなされます。その限界を、何度か「レッスン」というものとの比較として指摘してきました。状態を変えて対処できるようにしたくらいでは、一日体験教室なのです。

 一方で、すぐれた役者は、早くから現場で厳しい基準で指導されています。そのようなケースでは、自らの気づきを自分で組み立てて、活かせる人が残っていくのです。そういう人は日本では少数で、勘のよい天性の役者です。仕事にひっぱりだこになるので、そうでなかった人は違うと思ってください。

 今の力を10%高めるか、2倍にするか、10倍にするかで考え方もやり方も大きく違ってきます。これを論じられないのは、何をもって声の力とみるか、それが2倍とは何をもっていうのかが決まらないからです。あなた自身で決めるものです。声の表現で感動する人が2倍になるとか、感動が2倍になるというような結果でみるのです。

 

○地声と裏声

 

 地声と裏声の問題について、補足します。私はどれが地声だとか、どこがチェンジだとか、現場で相手があって初めて言える問題を、こういうところには出しません。ポップスでは、かなり微妙なことです。

 具体的な解答を期待している人には悪いのですが、どんなに一般例、他人の例について詳しく述べても、あなたに当てはまらなければ意味がありません(それでも、そこから学べるという人は、私の本や研究所の会報やブログでも扱っている範囲で学んでください。この「範囲」というのは、けっこう大切なことで、それを逸脱すると役立ちません。役立つことをやらずに、役立たないことに労力を費やす人が多いので注意しましょう)。

 

 「生徒とトレーナーとの質疑応答」を直接、聞いたらわかりやすいかもしれませんが、それでも当事者以外関係ないです。一人の生徒さんについて、何人かのトレーナーが相互の見解を出すとき以外は、意味がありません。

一般論、抽象論にもなりかねませんが、そこから自分に当てはめられる人には気づきの一歩になると思い、進めていきます。つまり、当てはまるかどうかは問わず、こういう世界観、判断基準が実在しているということを知るとよい、という意味です(これは論ですから踏み込むのであり、レッスンにトレーナーが論を持ち込むと、必ず偏りが出ることは知っておくとよいでしょう)。

 

〇ファルセット、裏声

 

 しゃべる声、地声はふだんから使うので個性的、かつ多様さ、変化に対応できます。それに対して、裏声はそこまでの変化は求めにくく、どうしてもある程度、どれも似てきます。そのため、私は、発声は共鳴を中心にして精度をあげていき、楽器的に使うべきものとしてみています。

 ケースによっても異なります。一般的に、男性は地声、女性は裏声で歌うなどと言われてきました。歌においては、男性は1オクターブ低く発声して、1オクターブ半くらいで使えますが、女性はそれだけの声域を地声だけでカバーしにくいので、裏声に切り替えることが多いのです。

 最近の日本の男性の歌唱については、J-POPSでの高音化により、特殊な楽器的効果でしか使われなかったファルセットをよく使うようになった(身近なものにした)といえます。かつては、ファルセットは高いファ、ソあたりで一音だけ使っていたのです。今はその半オクターブ高く(ハイCあたり)使う人もいます。また、ファルセットをハイトーンに限らず、効果を狙って頻繁に使うようになりました。

 

○離れる

 

 発声の先生で"地声”の悪い声を避け裏声だけを使わせる人がいます。「地声は厳禁」というわけです(こういう地声裏声の用語については拙書に詳しい)。ケースによっては「練習を裏声で、歌で地声」というのも決しておかしくないのです。

 「高音が出ない」という人に、高音でやってみます。そこでうまくいかないとわかったところで、低音や中音域中心のレッスンをやります。これは、高音域をあきらめたわけではないのです。一時、そこを離しただけです。スポーツの部活動での試合で負けて、走り込みを強化しているからといって、やめたとか陸上へ転向したとか言わないでしょう。

 「本人が今の課題から離れられないで行き詰っている」からこそ、そこから離すのがトレーナーの役割であり、「一つの指針」です。

 

〇すぐにできることは問題と言わない

 

多くの場合、くせで固まっているのです。早くうまくするなら、そのくせを器用に扱うすべ(共鳴)を教えます。根本的によくするのなら発声をおいて、声そのものについて学ばせることです。

 「できているなら課題ではない」のです。「できないから課題」なのです。そこですぐにできたらおかしいのです。少しやっただけで、または、ちょっとしたアドバイスで解決することは大した問題ではありません。つまり、直しても、そのことで大した力もついていないのです。

 実力がないのに、これといった問題がないとしたら、本当の問題を発見することが大切です。その人の器は、問題をつくるところにあるのです。トレーナーの才能についても同じことがいえます。あとはそのギャップを時間をかけて埋めていけばよいのです。

 歌手は、役者よりも自由な分、答え探しや答え合わせに急いでいるような気がします。

声や歌というのが本人の自然体から離れているということでは、「こう歌わなくてはいけない」という制限が、多くの人にあるからといえます。

 

○二大問題

 

1.呼吸の問題=体ができていない

2.イメージの問題=声の判断能力が足らない

というのがヴォイトレの二大問題です。

多くの人がそれに気づかず、目先の問題で悩んでいます。バンドやまわりの人も、目先の問題ばかりを指摘します。目先とは、声量、声域、音程、リズム、発音などです。

 そういうものは、慣れたら直るもの、少しやれば変わるものが大半です。

ヴォイトレがそういうことの修正にばかりに追われているケースが多いのは残念なことです。根本からのトレーニングをやらなくては、高いレベルでの解決は、何年たっても、多くの場合、一生かかっても大して変わりません。

 即興的なレッスンで、うわべで直るものは直してしまうのもアプローチの一つです。23年やって、「根本的にやらないと直らない」と真底思ってから、本当のスタートをするのです。そこで基礎の大切さを知っても遅くありません。この際の問題は、その修正が将来の邪魔をしないかの見極め、これに尽きます。

 

〇呼吸のこと

 

 発声の基礎は呼吸と言われていますが、そのことが本当にわかっている人はほとんどいません。トレーナーも含めてです。“呼吸法”などといったまやかしは、どうでもよいことです。トレーニングの方法も、メニュもどんなものでもよいのです。それによって深まっていくかが全てです。

 「表現を支えられるだけの呼吸を得る」ことが、本当の基礎です。これは生きていること、生きる力そのものです。

 いくら音声表現の基礎といっても別に習得するような特殊なものはありません。90パーセントはすでに誰もがもっているものです。その延長上にあるのです。

 呼吸でも寝たきりの病人と、オリンピック出場レベルの選手では、かなり違います。そこを私は9099パーセント内での違いと言っているので、誤解のないように。そして、研究所は、アスリートもできていない残り1パーセントをつめるところです。

 

 ヴォイトレというといつも呼吸法が問題となります。私も呼吸に関するたくさんの質問に答えてきました。研究所でも、メニュやQ&Aなどでよく扱われています。大体は「胸式呼吸でなく腹式呼吸を使いましょう」のレベルです。

 そこでは、呼吸や発声のふしぜんなども伴って問題とされます。ヴォイトレの本意を伝えたい私にとって、いつも取り上げざるをえない課題です。

 最近は、呼吸法や腹式呼吸の訓練、トレーニングそのものを否定する論調や、腹筋トレーニングを害とするようなものもあります。どれも低いレベルだから問題になるだけのことです。

 

〇現場での進化

 

 いろんな方の疑問に、いろんな専門家の論も引用されています。勉強にはなりますが、私の指導を変えてくれそうな説得力のあるものではないのです。私も、新たなことに気づくために質問を受け付け、答えてはいるのですが…。

 「勉強になる」のは、これまでもくり返してきたように、ことばの限界、トレーニングやレッスンの浅さについてです。自己正当化のために立論しているのならまだしも、10代の子のように「こんなことを聞いた」とか、「偉い人がこうやっているから」というレベルでの引用、思いつきのような言い放しなど、仮説にもならないものが大半です。

 多くの仮説や問いかけが出ていますが、現場を持ち、地道に何年も何百人にも試行し、他の専門家に聞と試してきているのが、研究所です。

 ことばやレッスン、トレーニングの仕方は、相手によっても、また、日々でも、変わっていきます。そこで変わらないのが本質的なことです。

 今のここでのレッスンは10年前の私のレッスンとは違います。レクチャーで話すことも毎年、変わります。

 学べない人のなかには、昔の私の本をもって批判する人もいますが、私も常に改訂する努力を続け、本も、こぅいう文章も改め続けているのです。今の、ここでのことでの意見を賜りたいものです。

 

○腹筋のトレーニングの害?

 

 呼吸については、浅はかと考えざるをえないことが具体的にいくつかあります。呼吸は体と密接に繋がっているのです。

 「腹筋トレーニングは害だ」ということ、これは「腹直筋」は発声に直接、関係ないから鍛えない方がよいというような類のものです。「ボディビルダーのように筋肉をつけても、マラソンや100メートル走で優勝できないどころか、走るのに邪魔になる」という理屈でしょう。

 初心者には、アスリートなみの筋肉を持つ人は少ないでしょう。アスリートの筋肉をもっても声がよくなるという保証はないのですが、その上で、体力、筋力は、欲を言えば、彼ら並みにあった方がよいのです。それと、彼らのメンタル力だけでも、歌手や俳優の必要条件のおよそは満たせると思います。

 大体、そういうことを言うのは、両極の人です。スポーツなどで、すでに鍛えられた筋力をもつ人と、その真逆の人です。体の弱い人やあまり運動したことのない人にも多いのです。なかには腹筋が弱い人もいるでしょう。

 最低限の腹筋をつけずには、歌やせりふは言うに及ばず、舞台で30分、集中力を欠かさず立っていることも難しいでしょう。普通の人なら、声をよくするのに心身を鍛えること、柔軟にすることがもっとも効果的なアプローチだと思っています。まして、弱い人なら効果倍増です。ですから、その逆のことを知識として習得することは余計なことです。

 害になるとしたら、「カール・ルイスがバスケットの筋トレをしたら100メートルが遅くなる」というようなハイレベルにおいてです。舞台においては、心身の力、体力や集中力は余りあるほどつけて損することはないというのが、現実のアドバイスです。

 

○メニュを自分に合わせる

 

 私のトレーニングについて、本のメニュでは、出すごとにその回数や秒数を減らしています。アゴの運動なども制限しました。「痛くなる人はやめるように」などの注も付けました。スパルタな鍛錬法からラジオ体操や健康維持レベルに落としました。

 誰が使うのかわからない本では、心身の弱い読者のことも考えなくてはなりません。私は心身について、かなり学んでいるつもりですが、治療の専門家ではありません。本のトレーニングも発音や体に関することは、それぞれの分野の専門家のチェックを受けています。

 メニュのトレーニングでは負担が多い人もいます。そこでは伝えたのと違う方法や基準でやる人もいます。

まじめで熱心な人は注意しましょう。自分によくないと思えば減らしてよいのです。体育会系で「痛い分、身につく」みたいな考えの人は、やりすぎないようにしてください。

 

〇鍛えるプロセス

 

 大体、よくない方向に行くのは「急ぎする」「充分な休みを間に入れない」ことが原因です。それでは、雑になるので、喉が疲れてしまいます。再現性に欠くところがよくないのです。一時よくない方向にいってもそれ自体は大して問題ではありません。どこかがよく、どこかが悪くなっていることが多いからです。

それが自分にどこまで必要かという判断ができるかです。しかも、トレーニングですから、今でなく将来にということです。

 

 ここは十数名のトレーナーでレッスンをしています。レッスンで喉を痛める人はいませんが、自主トレやステージでは、ときにやりすぎる人がいます。喉の悪い状態でレッスンにくると、クールダウンしかできないこともあります。

 「喉の鍛えられるプロセス」については、未だ、解明されていません。現実の成果と照らし合わせて、個人差や年齢、性別と模索中です。一人ひとり違う喉で違う発声をしているのです。そう簡単に万人に共通のアプローチはできません。

 声楽というところでの基準は(これも決して完全に統一できるものではありませんが)、マイクを使わず共鳴させる技術としてのプロセスをとることです。これはある程度、民族、性別、年齢を問わず、共通に使われ、実績を出してきたので、今のここのレッスンの中心に据えています。

 

○アイドルのレッスン

 

 ここには何名か、日本でメジャーな会社のアーティストがきています。発声に声楽の基礎を身につけさせています。

 大した基礎もなく、現場に出される日本の業界は特別です。かつては20歳大半ばで使い捨てでしたが、今は、あまり年齢で決めつけられないところはよくなりました。

 しかし、ルックスとスタイルなど、声とは別の視点で選ばれてくる人なので(女性も男性もです)、現場は大変です。アナウンサー、声優、ナレーターと「声がメインなのに声以外の要素で選ばれていること」が少なくないからです。

 「クールジャパン」というカルチャーとしては、「かわいい」という一面で肯定しつつも、私たちのレッスンのスタンスとして、そこには距離をもってとるようにしています。

 何であれ、世に出て、人に影響を与えているものは容認しています。次代のものであればこそ、わからないのですから、そこには口を出しません。古いものも新しいものも、関わるからには、手助けをする立場をとっています。

 

 次の世代に目を向けるように気をつけています。上の世代には、私自身も大きな影響を受けてきたと思います。その上で、団塊の世代と戦争経験世代をみてこそ、今の日本も次代もわかるのです。

 20代のブームは40代くらいの人が仕掛けているので、そこはわかりやすいところです。今のTVからネットへの変化というトレンドが、みえにくくしているのです。

 

〇声楽を使う理由

 

 アイドルの話を持ち出したのは、私が最初に関わって、もう30年になることと、その縁でいろんなところからいらっしゃるからです。

 最初は「ステージのための声の調整」がメインでした。時間的に基礎づくりをできなかったために、私が研究所を一般の人が長期的にトレーニングできる場として設けたいきさつがあります。当時、ポップスを教えるのは、作曲家やピアニストだったのです。

 今の研究所では、声の調整としては、声楽を広く使っています。歌以外での活動で声を疲れさせ、本調子の出ない人の管理、医者や整体師のようなスタンスにレッスンの重点が移ってきたのです。

 

〇喉の負担と管理

 

 オペラ歌手でさえ、ヒロイン(プリマドンナ)以外は、打ち上げに顔を出す時代です。握手会やサイン会が、コンサートのあとも、歌手の喉に大きな負担をかけています。

 喉は疲れたら、休めるしかないのです。コンサートのあとにカラオケで歌ったり、アルコールを飲んだり食べながら大声でしゃべると痛めるリスクが大です。すぐ休めるように言っています。

 黙っているか眠るのが一番よいのです。しかし、まわりがそれを許しません。ヴォーカルは、本人の気性もありますが、立場上もどうしてもリップサービスする役を避けるわけにはいかないことが多いからです。ましてアイドルや、先物買いされた人たちは、笑顔と会話が売り物なのです。

 「喉の管理としてのヴォイトレ」をしています。特別なやり方があるわけではありません。自分の心身や声の状態の把握、サイクルの分析、予兆の捉え方とそれぞれの状態でのメニュをつくり、やるべきこととやらないことを決めていくのは、通常のヴォイトレと変わりません。

 同じことをどういう意識をもち、何を基準にして、どう判断していくのかがすべてです。そういう意識のない人は、それを学んでいくことがレッスンでもっとも大切なことです。

 

○イメージをもつ

 

 まわりにアドバイザーはいても、本当に的確なアドバイスをしてくれる人はかなり限られるものです。大した根拠もなく無責任に言っているだけの人は多いものです。お客や周りのメンバーの意見も似たようなものです。細かいこと、よいことや悪いことを言ってくれる人が必ずしもアドバイザーとは限りません。そういう人の言うことは、かなりズレていることも少なくないのです。

 しかし、くり返し言われると、知らずと本人はそれを軸に考えるようになります。それを無意識のうちに入れていくから恐いのです。

 自分の知らないうちに、現状や理想と異なるイメージの世界ができてしまうのです。トレーナーにも気をつけなければなりません。レッスンでの声や歌のイメージづくりは、必ず偏るのです。

すぐれたトレーナーも、あるタイプに対しては間違ったイメージを入れてしまうケースも少なくありません。トレーナーとしては、もっとも気をつけなくてはいけないところです。

 イメージは大切なので、一つに限定せず多様にしましょう。レッスンで声のイメージを共有し確立していきます。そのイメージが現実化したところで、どうなるかをいつも考えることです。

 

〇スタートライン

 

 「高い声を出したい」、それが「出せた」としましょう。それでOKでなく「何が変わるのか」をスタートラインにすることです。

 「オーディションに受かりたい」というなら、「受かったらどうなるのか」です。多くの人は、このスタートラインを目標にしたり、あるいはスタートラインにもならないことを目標にします。

 それでも何ら目標を持たないよりはよいのです。目標は変更できるからです。「よい声にしたい」「ファルセットを究めたい」でもよいでしょう。それらは一時的な目標で、きちんとした目標を持つためのスタートラインです。

 よく似た例を出すと「英語をしゃべれるようになりたい」人と「外交官として活躍したい」人では、また、「英語でビジネスをしたい」人と「英単語をできるだけ覚えたい」人では、このスタートラインが異なると思うのです。

 スタートラインから、ゴールを定めるのはなかなか難しいのです。だからこそ、レッスンを通じて、そのようなことを実践していくのです。そこで学びながら設定していくのでよいのです。

 ですから「学べるところ」へ、いえ、「学べる何かが与えられるところ」、「自分にとって何か大切なものがひらめくところ」へ通い続けることが大切です。

 

○なれないところでなる☆

 

 「誰もがこうなれます」というところで「こうなりたい」なら、さっさと行って「なればよい」のです。でも誰もが、お金や時間でそうなれるのなら、そういう保証がうたわれているなら、それは、そうなっても大した価値もないのです。

「やった人の誰もがそうなった」というところは、ゴールでなくスタートラインです。そこから「誰とも違い、誰にでも(そこまではいいませんが、誰かに)価値を与えられるようになる」ことです。

 最初から「他の誰かができること」でなく、「自分になる」道を選べばよいのです。しかし、自分勝手では自分になれず、自己否定を通じてのみ、自分が活かせるというパラドックスもあるのです。すでに何かしら、あるものに入って鍛錬することが、結局は、正道となります。

 それは、人間として共通の価値だからです。あなたの心身も、それに支えられて生きています。すでに体は正しく働いているのです。

 でも、頭というのは白紙で与えられ、自分で配線するのです。育ちのなかで、自分の好き嫌いや自分の欲で気づかないまま、ほとんど配線されてしまっているのです。自分らしくなどといった、小賢しい知恵で曇らされてしまうのです。これが大きな知恵、智恵になるのにはその頭を切らなくてはなりません。仏教の知恵ですが、まさにそういう世界では、この世で生きていくための理が述べられているから、いつの時代も人々が惹きつけられているのです。

 

○知恵

 

 宗教、哲学、芸術は、真理を求めて、それぞれのアプローチで成立してきたのです。芸や武道、スポーツも、発明や研究など、すべて人間の高度な活動には理があります。そこを本質として捉えられるか、その経験を得られるのか、それをレッスンという場は与えていると、私は思っています。

 私自身、声を通じて気づいたこと、学んだことは数え切れません。そういう見えにくいものを少しは見えるようにしたのが研究所であり、メニュやカリキュラム、ここのシステムです。問い合わせから、皆さんのアプローチしてくるものにも、いろんな知恵があるのです。

 

〇価値をつける

 

 与えた100100以上に使える人は少ないものです。うまくいく人たちは1割を10倍にして使っています。つまり、私が1万円渡しても、1000円くらいにしか使っていない人もいれば、1万円として使う人も、10万円や100万円にしている人もいるということです。

 レッスン料として、30分で何コマというのは、代金に過ぎません。レッスンの時間や回数と料金にとてもこだわる人もいます。サービスに見合う価格設定という、世の習わしに即しているものの、本来、学びの場に金額はつけられません。何億円にも比べられない、無限の価値にもっていった人もいれば、払った分だけ得たという人もいるし、なかには払った分、損したという人もいるでしょう。

 

 今の消費者主体の世の中、商品やサービスに関しての考え方は、芸事に関しては受難の時代といえます。評価の定められるものに対して、厳しい意見は貴重です。しかし、芸事ではそういう基準もなくなり、敢えて厳しいことばを投げる人がいなくなりました。ほとんど誰もが「いいね」を押してくれるのです。

 会社で上司が部下を育てられなくなった。部下に媚びるばかり、叱ることができない。家庭で親が子供を育てられなくなった。これも同じです。

 好き嫌いでなく、芸がすぐれているかでみなくてはいけない世界で、好きでしか選ばない、嫌いなものや人には接しない、というのでは浅いレベルでしかならないのです。嫌う人にも有無を言わさないのが、芸の力です。

 

○好きとオリジナリティ

 

 「好き」は大切ですが、ファンとしてではなく、表現者としてみるなら、「感性として何かに惹かれる自分がいる」「それに反応する自分に、そのなかに何かがある」から、「そこは個性やオリジナリティの元になる」ということで重要です。つまり、可能性です。

 「好きでなければ続かない」というのは浅いレベルです。ものにする人は、好きであろうとなかろうと続けるのです。好きでなければ続かない人は、好きでなくなるとやめます。入り込むほどに好きでなくなることもよくあります。そんなことはどうでも、続けているのを、私は、プロ精神としての好きとみます。

 それはその人の個人の感情を超えて何かがその人を動かしているのです。深い「好き」が大切です。

 

〇くり返し重ねる

 

 コツコツとした努力は欠かせません。単調なことのくり返し、シンプルなことの連続が行われていますが、同じことを続けるのは、なかなか難しいことです。

幼い頃に無理に習わされたことでも、一人で自由になっても続けていたら好きなのでしょうし、やめたらそれほどでもなかったといえます。

 そのように没頭している自分が好き、くり返している自分が好きというのがあります。時間が積み重なるなかで得られるものは限られていきます。多くの他のもの、ことで、人生は犠牲になります。残るのは、確かな技術であり、職の価値です。そこで働きかけるものが、アートの価値です。

 レッスンは、そのきっかけ、気づきです。トレーニングはこのくり返しです。「がんばる」というのは、まずは「黙々と続ける」ということなのです。それによって底上げができ、再現性が高まります。その準備があってこそ、その人独自の才能が開花する、可能性が高まるといえるのです。

 

○精神論として

 

 私の本は、精神論が多いと、よくも悪くも言われたことがあります。私はそれでよいと思っています。本だけでは、トレーニングにはなりません。「問い」を発して、その人の思考から思想をつくるのが、私の考える役割です。場として研究所があるのですから、本は精神論でよいのです。

声のメニュやノウハウは、そのままでは多くは誤用されます。あるいは誤用もおこさないくらいの表向きだけのレベルで使われます。自己満足―自己完結の域をなかなか出られないのです。

 

 人は、それぞれに学び方があります。本や文章は、その可能性を拡げられたら充分です。それ以上に問うてくる人には、「論に向かうのでなく、実践しなさい」と言います。論に振り回され、それだけでの承認を求めたくなるような、今の日本の風潮は、気がかりです。ですから、論に振り回されないように論じているのです。

 

○オリジナリティ

 

 オリジナリティを「初めてやったこと」とか「誰もやっていないことをやった」など、人と違っていればよいという見解もあります。しかし、私は、レッスンとトレーニングの視点から、オリジナリティを「他人のなしえないことで他人に通じさせる価値」として捉えています。

 確かに初めての試みは、そのことで評価されてもよいですが、他人と違うことをやればよいわけではありません。私の立場として、研究所のレッスンとの絡みで述べています。となると、リピートと積み重ねが肝心です。

 YouTubeで話題になるものは、動画という伝達手段を誰もが手にして、まだ日が浅いため、「初めて」とか「人がやっていないこと」が多いでしょう。それなりに楽しめる価値があることを知らしめました。確かに100万回以上も再生されているのは、100万枚売れたレコードには遠く及ばないとしても(少なくとも無料ですから)、何らかの価値のあるものと言ってもよいでしょう。

 でもオリジナリティとは「オリジン」、「その人のなかの、その人たるもの」が出てきたことについて、私は使っているのです。他人との違いというと、同じか違うかというのは、程度問題、細かくみていけば全てが違うのです。

 

〇認める力

 

ものまねもそっくり芸であれ、同じものはこの世に2つもないのです。

 でも、同じくらいに誰もができるものなら、先にやった人が勝ちだと思います。先にやって認められるというのは、結構なエネルギーがいることです。それを最初に認めた人が大変に重要な役割を果たします。トレーナーもまた、そういう役割を担っているのです。

 最初は、着目したところや発想が問われるのです。最初の人は手がけたけれど認められず、二番手が世に知らしめたという例もあります。ハンバーガーのマクドナルドもそうでした。

 日本のように他国のまねから文化、文明を発達させてきた国は、この二番手以降の応用に強いのです。

あるものが他の国に入り、他の民族が行うと結構なオリジナリティにまでなるわけです。あたりまえのように生活のなかで扱っているものの価値を発見したり高めたりするのは、いつも周辺の人たちです。

 

〇オリジナリティと声

 

 多くの人が長い時間、継承して育んでいく。それが文化です。ですから、オリジナリティもその風土と切り離せません。

 「誰かに影響を受けて、誰かが立ちあげること」から、オリジナリティの価値が問われます。歌を、表現、アートとしてみたときに、トータルとしてのステージ、その人の体から出る声、その動きの一つである歌と、その人の人間としてのトータルな世界観としてオリジナリティの価値が問われます。

 そこからみると声は、それだけで充分ではないとしても、必要な条件の一つといえます。

 歌い手が、歌の価値をどこにおいているかは、それぞれに違います。価値を声に置いたとき、その人がもって受け継いできたDNAから、そこまで生きてきた育ちに大きく影響されているものです。そこからオリジナルの声や作品としてのオリジナリティをいろんな形に切り出すことはできます。声として、歌として、ステージとして、それぞれに表現をみるのです。それを念頭においた上で、ヴォイトレでは、まずは、体からの声というところでみる、独自の声としてのオリジナリティをみるべきだと私は思うのです。

 トータルであるがために作品づくりに急ぎすぎ、声にくせをつけたり、本人の限界まで整えずに可能性を狭めたりしていませんか。使いやすいだけの声、痛めていく声を使っているのは、もったいないことです。

 その前にもっと開放すると、自由自在に扱える声があるのです。もっと深めたら大きな可能性が開かれるのに、歌はおろか、ヴォイトレまでも、声そのものよりも発音、ピッチ(音高)、リズムばかり気にして、本当の声を使うアプローチをしていないことが、現実には本当に多いのです。そこが、私は残念でならないのです。

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