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2021年1月

「ダンスに学ぶヴォイトレ」☆ 

○南流石さんに学ぶ

 

 心して聞いて欲しいことがあります。振付師、南流石さんのことばです。習い事の4つのステップです。

「他の振付師とか、踊りの先生は『君が楽しまなかったらお客さん楽しめないよ』って必ず教えちゃうんですよ」私は真逆なんですよ。『お前ら楽しむな。私のこの歌、踊り一生懸命やって、あなたに笑顔になってほしいのって気持ちを伝えることを優先して欲しい』って言いますね。『私の踊りみて楽しんでください』は100万年早い」

「ダンス側からだと『面白いでしょ』というつくり方になる。みている人側からみて踊りだしたくなるかどうか、というのを重視している」

「ネタ切れちゃう。自分の踊りがないから知っていることをやっていると途中で何をやったらよいかわからなくなる。これできない限り、ダンサーとは呼ばない。バックダンサーとしか呼ばない。自分の踊りがないのはだめ、今の踊りは誰でもできそうだよね。こんなの誰にもふじこのすごさわからないよ。振付けがあればできるだけだからね。それは代わり一杯いるぜ。消えてった人何人も知ってるから。そうならないためにはどうしたらよいか」

「楽曲聞いたらすぐ目的を同時に考えて、何のために踊るか、誰のために踊るか、それを一瞬でインプットして、あとは音が導いてくれるままにもっていけばいい。踊りづくりに情熱と衝動が大事なので」

 

○他人のことばを使うということ

 

 他人のことばを使うというのは、どういうことかというと、私は、最初は自分のことばだけで述べていたのですが、どうしても、原因や理由づけには若い自分の体験だけでは説明できずに、権威筋の理論や論文、科学的データなどを使うことになったわけです。まともな人からみたら、それが当たり前なのですが、未知な分野においては、そういうものを使うほどに、そういうものは、後で新発見とやらで古くなって、引用した私の分が悪くなるということで、あまり使わなくなったのです。まあ、権威筋が出していた本に「裏声は仮声帯で出す」、などと述べられていた時代です。私はそこは引用しなかったのですが。

 本は誤植や校正ミスがあってもすぐに直せないので厄介です。図やイラストもなかなかうまく伝わるように描けないのですが、少しずつ改良されています。これは先人のおかげですが、私もじきに、先人の仲間入りをしそうです。

 未知の上に個々の体をメインとし、音で展開するヴォイトレの分野を文字で述べるのは、無理な試みです。

 ですが、私は、多くの人と関わって、交わす対話のなかにヒントがあるなら、それを役立てて欲しいとリライトして、編集して、残していったのです。

 自分のことばだけで述べると、同じことのくり返しになります。アナロジーとして、ものの例えで説明せざるをえません。

 そこでは、他のアートやスポーツを例に引く方がわかりやすいので、アスリートやアーティストのことばも引用します。データとしてはよくなくとも、メンタル面においては、一流の人のことばが有効です。有効であるならはよい―ということで、私は広く「アーティストのことば」を伝えようとしてきました。今、流行の蔵言集みたいなものです。

 

○人のことばの使い方

 

 引用するのですから、自分の論に絡めなくてはいけないのですが、鋭い人には、面倒な解説なしに「○○が○○と言っていたよ」だけで済んでしまうのです。これがアナロジーのよさです。どんなことばも価値は受け止める人によるのです。

 とはいえ、同じことでもくり返し述べていると、わかっていく人がいるから、似たことをくり返しているのです。言っていることは同じです。「本質を見抜き、自らに役立てる」ということです。「自らに役立てるように使う」「使えるようになれるように学んでいく」のです。

 残念なことに、まじめで勉強熱心な人ほど、「どれが役立つ」とか、「正しい」とか「間違っている」というクイズやゲームのようにしてしまいがちです。他人をはかっているようでいて、実のところ、自らを貶めているのです。☆それでは成長しませんから、宝くじに当たるよりも不利な勝負になります。周りが成長していくなかでは相対的に劣化していくからです。

 当たりくじをみつけるのでなく、自分のくじを当たりくじにしていくことです。それが主体的に生きて学んでいくということです。教科書の中には、他の人の過去のことは書かれていますが、あなたの未来は描かれていないといのです。

 

○蔵言のブーム

 

 蔵言とは、「よいことばに学び、悪いことばに学ばない」ようになるための、「どんなことばからもよくなる方に学ぶ」ための試金石と思っています。

 人との付き合いにも似ています。相手の悪いところに目のいく人は、よいところに目のいく人よりも、その人とうまくいかないでしょう。悪いところさえ、よいと思える人はうまくやっていけます。

 自分の好き嫌いとは別に、そのようにふるまえることが大人になるということです。レッスンも本もよいとか、悪い、正しい理論とか、間違った理論と考えること自体がおかしいのです。

 たくさんのことが広く学べるものと、一つ、深いことに気づかせてくれるものと、どちらがよいとはいえません。

 その逆ばかり考えている人がたまにいます。もっとも損な人です。ことばのかけようをなくしてしまう人です。

 具体的な事例に基づく批判は大切ですが、よりよい方向に行くために、という前提があってこそです。現実を潰すだけの反対論や否定は何にもなりません。いろんな制限のなかで明確な答えがわからなくても代替案や試行錯誤してつかんでいくものです。

 ヴォイトレでは、一人の人間がいて、初めて論じられるものです。ですから、一般論とか多数決、多対多での論争などは不毛なのです。現実の可能性を潰したい無駄な努力ができるだけの暇な人が関わるものとしかいえません。

 

2つの位置づけ

 

 「絶対的に正しい人」も「絶対的に間違った人」もいません。「絶対的に正しいやり方」も「絶対的に間違ったやり方」もありません。

 私がヴォイトレを論じるのは、多面的な考え方をして欲しいからです。方法や技術などでなく、ましてや、理論や知識でなく、表現と音声ということに対し、学びの本質を知って欲しいからです。

 私の考えや思想を押しつけるつもりはありません。「もし自分がうまくいっていないと思ったなら、それを抜け出すヒントや問いがあるかもしれない」くらいで捉えてください。これがきっかけで人とうまく接することができるようになれば、半ば成功です。残りの半分は、毎日の努力の積み重ねです。その2つ、それは、まさに表現と声に対してとるべきスタンスと同じです。

 人に働きかけるように外に出る、内なる自分のオリジナルな声をみつめることです。歌や芝居のためだけではありません。アートは、その象徴にすぎません。リアルとしてある社会での仕事、生活に通じるスタンスです。この2つの位置づけを学びましょう。

 

○楽しめるか

 

 ダンスに距離をあけられてしまった日本の歌、そしてヴォイトレを述べます。

 トレーナーが、最初に「歌やステージを楽しめ」と教えるのは、日本では、あまりに当たり前となってしまったことです。それと、真逆の私は、けっこうな批判も浴びてきました。「海外のトレーナーは、自分で楽しめと言うよ」というのも何回も聞いてきました。私は、声が出ないことや歌えないことに苦しんだタチですから、それを「楽しんで克服しろ」とは言えません。

 何にしろ、プロフェッショナルとして考えるかどうかの問題です。自分で満足した歌は2曲、いつの日か、それを越えられたらと思って、今も努力しております。

 活動を楽しむのは、+αが落ちてきたら、あるいは、本当に暇で何もやることがなくなったり、老化したときのリハビリが必要になったらでしょうか。でもまわりにすぐれた歌い手がいてくれるので必要とされません。トレーナーとしても、まわりにすぐれたトレーナーを集めたし…。

 外国人は、あまりに楽しめていない日本人をみてしまうから、そう言うのでしょう。外国人のヴォーカルならハイレベルに「百年早い」を克服した人も少なくないでしょう。そこまで日本人はいかない。そういうのはオンビジネス、いやそこまでも行かない、社交辞令ということに気づくべきです。

 

○楽しむ前に

 

 私の体験でも、プロとして、自立して一本立していく人は、楽しいとか楽しくないとか、そんなことではありません。聞く人やみる人が「楽しめるかどうかが全て」というのは、当たり前のことです。

 アスリートが、昔の特攻隊のように、オリンピックへ日本代表としての覚悟をもって臨み、本番で固くなって実力を発揮できなかった、かつての日本人選手の反動として「楽しんできます」とか言えるようになった。そのために勘違いが加速されたと思います。スポーツとアート、そのなかでもミュージックとは違いもありますが。

 でも、「百年分」の努力があって、ようやく人前で楽しむことに入れるのは、ダンスや音楽でも同じです。アマチュア精神的なものをよしとしても、目的が違うだけです。

 ハイレベルな人のことばを、そのまま自分にあてはめてはなりません。

 プレイヤーやダンサーは絶対量が必要です。ヴォーカリスト、役者は量とはいえないところがあります。楽しんでそのままプロになれた人から、そういうことばが出るから、自分もそうだと思うと厄介ですね。

 

○楽しめないステージとは

 

 私はいろんなステージで、本人や本人たち(出演者)だけが楽しんでいるステージをたくさんみてきました。いや、トレーナーという立場上、プロセス上の人をたくさんみているのですから、半分以上は、そういうステージであり、そのうちのいくつかは本人も楽しめないものでした。

 ステージの見方ということです。この「楽しめない」にはいろんなパターンがあります。

 全力を出しきったけど本人が満足できない(客は大満足)というのが、プロのあるべき姿です。客の求めるレベルを超えるからこそ、次にステージがさらに高みに昇っていく可能性があるのです。

歌は、ステージと本人のよさとの間にいろんなギャップがあります。私からみると、どうしてもステージ力ばかりに評価が行っています。まして、声は、一要素で、省みられることも少ないのです。

 アマチュアでも本人の実力以上のものが出ることがあります。1コーラスまでで驚かされることは、しばしばあります。2曲くらいならプロを上回ることもあります。これは私の期待する「ブラボー」の対象レベルに達するのです。

 プロはコンスタンスに、すべてにおいて見せていかなくてはいけないため、日本では実力不足で、リスクを避けるため、無難に納めることが多く、つまらなくなりがちです。ステージでなく歌や声ということでいうと、です。でも、エンターテインメントとしては歌でなくステージの勝負なのですから、私が偏ってみているといえます。そのみえないところの声や歌の基礎の地力が、本当は、大きな差となってついているのですが。

 

○日本人の許容度

 

 表現は、伝わることが第一に大切ですが、本人の肉体とその使い方に負うダンスも、今や複合アート化した歌(というより音楽のステージ)とは、かなりのズレが生じています。日本のダンスのレベルはアップしました。Jリーグ並みで、世界に通じるトップダンサーが出て、クラシックバレエでさえ、一流の人材を出しています。

 私はこれをスポーツと同じく、目で分析できることでの日本人の可能性の高さとして論じてきました。欧米型の体型でないと不可能とも思われていたクラシックバレエでさえ、日本人は成し遂げたのです。個人の力が問われ、評価基準がはっきりしているゆえに実力の育成される体制がとれるのです。

 歌い手は、声の魅力がストレートに問われる海外と、タレント性でもカバーできる日本では、比較になりません。ミュージカルで比べると、とてもわかりやすいでしょう。今の日本では女性アイドルやタレントで主役ができてしまうのです。実力派の歌手では務まらない―そこが問題です。歌への日本の観客の許容度は大きく、そこで求められるレベルが甘いからです。

 

○働きかける

 

 私は、オーディションを、ときに客席のさらに前や、ずっと後ろからみています。私は、私の見方だけに踊らされないようにとても気をつけてきました。トレーナーやお客さんの反応も受けとめて学んでいったのです。私の尊敬するアーティスト(複数)ならどう聞くかという観点も必ず入れています。

 聞いていて、自分の体が揺れていくか、心が弾んでいくか。つまり、動きたくなるか、踊りたくなるか―というのが、いくつかの判断の基準です。そこは、ダンスをみるのと同じです。

 どんなに声がよくても歌がうまくても、働きかけのないとプロではありません。そこからみると、声のよさや歌のうまさは副次的な産物です。声量、声域などと同じで、プロになる条件にはなりません。

 状況においては、きれいな声、うまい歌というのは、伝わって人々を深く感動させます。しかし、それは悲惨な状況で慰めのことばが心に響くようなもの、そのときその場の状況下だけで成立するものとして、別に考えています。ある状況下での評価と、生きている歌は、私は異なると思っています。

 

○イベントとライブ

 

 私は「イベント」と「ライブ」ということばを意図的に使い分けています。「イベント」というのは、限られた時間で行われるものです。たとえば、何年かぶりに懐かしんで聞く歌は、人の心を打ちます。でも、毎日となるとどうでしょう。

 私は、その日に聞いたら「すぐに、知り合いや友達に伝えたいか、連れていきたくなるか」というのを基準にしています。

 12曲聴いたら、次に6曲もつか、そしてステージのエンディングまでもつかを予測します。職業柄お許しください。常に、即時に評価しなくてはいけない立場にいるからです。他の人のすぐれた歌唱の後に歌っても、異彩を放つかをみています。

 勉強法として、「同じ曲で異なる歌手の10曲をCDに入れ、11曲目に自分のを入れて聞いてみなさい」と言っています。そのようなレッスンもしています。

 基準は、比較において、もっとも明らかになります。すぐれたアーティストの作品と比較するのは、一番よい勉強です。もちろん、比較されるくらいのものは、それだけのものでしかないのですが。すぐれたアーティストは比較されません。

 人は好き嫌いでみますが、誰かの心にNo.1であればよいわけです。私情を抜きにしてです。「知り合いだから」とかはダメです。

 

○本当に心地よいもの

 

 基準は、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」(音楽之友社)に述べました。

 私は、同じ曲を80人、80回、一日で聞くようなことを10年以上やってきました。歌った本人たちよりも私の耳がもっとも厳しくつくられました。

そこから、曲のよさ、詞のよさなど抜かしていく作業、その人への個人的な感情も(そのくらいの人数になると誰が歌っているのかもどうでもよくなる)努力や全力が伝わるというのも影響させない作業を通じて、ピュアに聞くことができるようになりました。心身も耳も疲れてくるから、やる気や勢いだけを通じているようなものでは拒絶反応が起きるのです。

 そこで聞きたいと思うのは、心身によいものです。ほとんどの歌が、失礼ながら、続けて聞くのに努力を要します。その努力ができなくなると聞こえなくなります。心地のよいもの、自分の免疫力を高めるものだけが残ります。クリアに聞こえ、それは清涼剤のように離しがたくなる、必要とされる。(といっても80分の1)こういうレベルでみれば、歌は、いわゆる音楽性のあるものがNo.1となります。☆役者などの歌は、全力で、あるいは雰囲気、その人となりが伝わっても、二流となるのです。

 

○「ネタ切れ」☆

 

 「基準をもって学ぶ。そのために、その基準を高めていくことが学べることの前提」になるのです。自分がよしと思えば、レッスンをやめてよいのです。

基準アップよりも、そのレベルでの活動を保持するという考え方、方向でいらっしゃる人も増えたと思うのです。

 客の反応に、よくとも悪くとも戸惑い、バンドやまわりの人の意見に悩む人こそレッスンにいらっしゃるとよいのです。

 きっと私は、誰よりも明確な判断の基準を1秒単位で示せると思うのです。それを厳しく受け止められるのなら、ブロードウエイのオーディションなどを受けるときのレベルといえます。しかし、私のレッスンは、自分がよしと思えない基準を与えることだから厳しいのです。

 「ネタ切れする」「自分の歌がない」、これが日本人の最大の問題です。一つのネタもないまま、他人のを真似ている。つまり、うまい歌手、声のよい歌手というのは、ダンスでいうとバックダンサー、つまりコーラスみたいなものです。

 それを目指すのがあなたの本意なのでしょうか。それに比べて、「声が変」とか、「歌もどうも」と言われていても、20年、30年以上やり続けているプロの歌手もいますね。日本では、それも作詞・作曲の力といえばそれまでですが、「その人自身の声、歌がある」と思いませんか。

 

DJヴォーカル

 

 ヴォイストレーナーで、基本をきちんと勉強し、声楽科を出たような人は、発声や歌唱を、正確さ、安定度を重視して歌い手をみるものです。そのことは問題です。歌い手としてなら、その活動でみることです。

 ヴォイトレで「育てなくてはいけない」と思うと、そういう正しさといえる基準にもっていきたくなります。教材をマスターしたというのは、わかりやすい努力目標になるからです。それが「安定のためのローリスクな発声」の方向になっていくのは理解しています。

 何もないよりは、こういう技術は確かだからです。と言っても大きな面からみると同じことで、最後に「情熱や衝動」というのがくるのか、勝負はそういうところです。

 ミリオンセラーのあるヴォーカリストが、世界との差を知り、力のなさを知り転向してしまったのを、私はその時期、接して案じていたのですが、それはネタ切れでした。ステージで次々と即興のフレーズが生み出せない点でした。最初は声の問題でしたが、私はトレーナーとして否定しました。今の世の中、声そのものは何とでもなるからです。メインのヴォーカルがDJ、それでよいかどうかは、考え方次第です。でも、日本ではDJの方がはるかに即興性はあります。

 一流のレベルからは不要だが、一流のないところでは、そこが基準になってしまうのです。芸や才能でみずに、やる気と体力と忠誠心でみているのは、サラリーマン社会のようです。

 

○プロとしての力

 

 自分のネタは自分の歌というと、日本の場合、自分の作詞作曲したものが、ネタとみられてしまいます。シンガーソングライター全盛となったため、歌唱だけで勝負できる歌手は少なくなりつつあります。プロを、その収入で生活している、と捉えるなら、歌唱より作詞作曲の印税がものをいうからです。歌手は、「自分のつくった歌を歌う人」となっていったのです。としたら、歌唱そのものの力が落ちたのは仕方ないということでしょうか。

 確かにプロとしての歌手の力というのはエンターテイメントの世界ですから、その名とヒット曲が世に知らしめられているかどうかです。その名や曲でどれだけ売れるか、人を呼べるかです。

 ただ、昔の杵柄で、ずっとやってきた人が多くなりました。この時代、日本では、団塊の世代でポピュラー音楽のピークに一致したまま、ずっと引っ張ってきた経緯があるので、ややこしいのです。

 一度ウケた歌を繰り返し同じように歌っている歌い手ばかり、若いときと全く同じに歌えと求める客ばかり、となると、何とも保守的なところだと思うです。

 

○オリジナリティ~憂歌団

 

 「自分の歌」とは、私は「本人だけの声とフレーズ」をもってオリジナリティとします。自分のつくった歌がヒットしたのでなく、他人と同じ曲を歌っても、その歌手独自のものになるということでのオリジナリティのことです。

 私はが、古いものは必ずしも好きでないのに、今もってなお、美空ひばりを最も評価せざるをえないのは、その点において、他に類をみないからです。今の日本のベテラン歌手といわれる人でも、彼女の歌を歌うと彼女の歌い方が出てしまいます。それを自分に置き替えなくてはだめなのです。逆に、ひばりは、どんな歌も自分のものにして歌っているのです。

 日本の歌手はプロでも、他人の歌を歌うと自分自身のオリジナリティを失い、他人の物まねになりがちでがっかりします。これでは、アマチュアのうまい人と同じ、物まね芸人レベルなのです。

 そこは、カバーでも一味も二味も違う、憂歌団の木村さんを見習ってください。

 海外で学ぶ日本のトップレベルのヴォーカリストでも、海外のレベルのヴォーカルに追いつけと真似ているだけで終わっているばかりです。日本では外国人に似た“オリジナル”そっくりの歌い方ができれば評価されるという、いつもの「二重性の問題」は、未だに根深いのです。

 

○入れ込み気づく

 

 私は、月16曲紹介し、そこに本人の選んだ4曲を加えて、年に240曲を、覚えられなくても、聞くように勧めています。できたら月に20曲から気に入った曲を48曲マスターしていくようにさせています。これでもかなり甘いものですが。

 ネタを入れ込んで、シェークし、発行させていく、自分の強みをさらに強化し弱みを補充するには、これしかありません。基準も材料も、ここから変わっていくのです。できるだけ一流のものを入れておくことです。

 私は、なぜアマチュアの人が、多くのプロも知らないし、使っていないような発声の理論やヴォイトレの方法に振り回されるのかわかりません。

 プロは心身()をつくってきたのと同時に、一流の声や歌を聴き続けてきた。そちらが中心です。

 次に、同じように聴いても、入る人と入らない人、出てくる人と出てこない人がいます。その自分に気づいて変えていくことです。気づく人も、気づかない人もいます。こうして、気づくヒントを与えているのです。それがレッスンを支えるものです。

 

○遅れている

 

 声とヴォイトレの分野は、取り組みも方法も人材も、そして、その結果を世界的レベルでみると、全てに遅れをとっています。客についても、文句を言えることではありませんが、優しすぎます。意志をステージに伝える人はいません。辛口な批評家はいるでしょうか。私は、ヴォイトレを役立てようとする人に、ヴォイトレの可能性からのストレートなアドバイスをすることに専念しています。そのために、例として、とりあげている人や作品を批判せざるをえないときもあります。作品を離れた批判はしていないつもりですが。

 未熟な分野は、そうでない分野から学ぶ方がよいと思います。私もいろんな未知の分野からの要望で、次々と新しい仕事をやらされました。いろんな先達を参考にしました。人間が行うことですから、全てに共通して通じるものがあります。それをヴォイトレに関わる人は、先入観で狭めないでほしいと思うのです。トレーナーは主役ではありません。補助のサポーターであり、それぞれの人に未知の可能性があるのです。

 

○多様性を認める☆

 

 最近も日本の有名どころのトレーナーをまわってきた人が、ここにしばらく落ち着くことになりました。トレーナーもうまくいかないこと、認めたり、悩んだり、迷うことを素直に認めたらよいのにと思います。私の立場からは、ストレートには言えないことをですが。

 私は、早くから、他のトレーナーとやってきたので、自分の短所、弱点を認めています。自分の長所や得意なことでさえ、世界や日本でも、もっとできる人がいることを知ることができました。今ももっと知ろうと努めています。

 この分野が未熟なのは、「お山の大将」が多いからです。

 声というのは多彩なものです。「正しい声」、「間違った声」は、単独には、ありません。目的やケースによって違います。

 声楽をベースとしても、世界にはそれ以外にすぐれた音声の表現がたくさんあります。日本でもたくさんあります。医学的な判断も表現となると別です。私は、能や邦楽など、異なる観点から、声についても学ばされ、声の判断の多様性に気づくことがよくありました。

 

○万能になりえない

 

 「万人にとっての万能なトレーナーはいない」

 私の専門外のことは、専門と思う人にまわします。声については、専門家はあまりにも少なく、しかも、何をもっての専門で、どうみて、そう対処するかは、わかりにくいものです。適任の人を選ぶだけでも多くの課題があるのです。

 音声に強い先生でも、かなり見解が違います。まして、ヴォイストレーナーはとなると。

何でもできると豪語する村医者のような人もいます。が、次の点からみましょう。これは研究所のトレーナーに対してきたアドバイスですが。

1.とても伸びている。→でも、別のトレーナー、別のメニュ、方法なら、もっと伸びた可能性はないか。(トレーナー、別のメニュ、方法など)このケースでも「早く伸びる」と「大きく伸びる」では異なります。

2.あまり伸びていない。→でも、別のトレーナー、別のメニュ、方法ならもっと伸びなかったのではないか。

これは、伸びる人はどのトレーナーでも(ここの研究所以外のトレーナーを含められることもあります)、あるいは一人でやっても伸びるケースが多いです。その逆では、誰についても声が伸びないことがあるということです。

 

○誤解のプロセス

 

 トレーナーも他の専門家(医師など)も、実績を積むにつれて次のような傾向が出てきます。

1.最初、自分なりのやり方を試行錯誤しながら、自らの経験をもとに方法や論を確立していく。(仮説)

2.他人にそのやり方を試してみる。(試行)

3.効果が現れる。(実証)

4.そのやり方に自信をもつ。(確信)

5.効果の出る人や、効果の方しかみないようになる。

このとき効果の出ない人や効果のないことをスルーしてしまうのです。無意識か、気づかないこともあります。そういう相手の多くは途中でいなくなるからです。

以前なら、自分の教えた通りにできない人や、うまくいかない人を非難したような先生やトレーナーも少なくなかったと思います(とはいえ、どちらの問題かは、わからないところがヴォイトレの問題です)。医学は、救命や痛みを抑えることを目的につくられているのです。そこから判断できます。

 そういう対処的な現場の判断と、これからの育成というトレーニングで必要とされる判断は、別です。現場(仕事場)の表現に結びつくことを求めながらも、そことは異なる判断を必要とされます。つまり、将来か今かでいうと、トレーニングは将来のためであり、レッスンには両面があります。しかし、多くは将来でなく、今だけの効果を求められてしまうのです。

 

○離反する

 

 音が導くように―まさに、プロのダンサーはそこで勝負しようとしているから、日本人でも追いつけ追い越せで、マイケル・ジャクソンのバックダンサーのレベルにまで到達しました。

 歌はまだまだです。お笑いやダンスほどにも自分自身でつくるということさえ考えていないからです。音声の世界では、アレンジャーやプロデューサーが振付師と言ってよいのでしょうか。声の振り付けをして、結果として歌になるようなことは、ヴォイストレーナーの領域と思うのです。

 合唱団のトレーナーは、指揮者として、表現とヴォイトレを一本に結びつけ、表現で求められる成果をレッスンして出していきます。ポップスでは、求められる表現を、合唱コンクールのように決められません。本人から出てきた表現から入るしかないから、「材料を与えて待つこと」ことです。それにはかなりの時間がかかるはずです。声量、声域、ピッチ、リズムをよくしたいという目的のレッスンでは、表現の深い世界へ結びつくよりは、それと離反していきかねません。発声のレッスンも単独で成り立つのか、と私は疑問を感じます。

 

○鈍らない

 

感動を結果とする世界を妨げるのは、退屈に麻痺していく感覚です。ですから、私はレッスンは30分で1コマで充分としています。本当のところ、初心者には10分でもよいとも思います。正味15分のレッスンもあります。60分あるなら2人のトレーナーをお勧めしています。

 リラックスしてゆっくりと進めるところから入るのはよいことですが、それでダンサーのレッスンに勝てますか。

 他のヴォイトレの見学にはよく行きますが、リハビリ教室のようなことが多いです。そういうことがプロの世界へつながっていると考えているのなら、感覚のレベルで鈍っています。

 レッスンは、鋭くなるように使っていくことです。レッスンをトレーナーに左右されるくらいでは、世の中で何ができるというのでしょう。声を一流に育てていく情熱やインパクトをもって取り組まなければ変わりようがないと思うのです。いつもダンサーのレッスンの上をいっているか問うてください。

 

○表現=基礎

 

 「表現というものは、ジャンルを超える」、その最たるものが神懸かり的なもの、ファインプレー、あるいは、「ゾーンの状態」です。一方で、「基礎というのは、ジャンルを超える」のです。心身の力を欠いたアスリートもアーティストも、一流の仕事人もいません。フィジカルは、体力と柔軟、誰でも続けたら鍛えられていきます。それが限界を感じたら、その分、心、精神、魂といったメンタルの力で支えます。

 私のヴォイトレは、表現と基礎の2極に近いところで行うのを理想としています。多くのヴォイトレは、この真ん中くらいの中ぶらりんなところでやっているように思います。表現でも基礎でもないところです。

 表現だけど基礎がないとか、基礎だけで表現がないケースもあります。本人がそれを知り、他で補っていればよいのですが、どうでしょう。このあたりはスポーツの練習を総合から部分、本番から体力づくりで分けたことに通じます。

 

○アスリート並み

 

 技術は、表現と基礎を結ぶものです。心身の基礎というのなら、一流のアスリートなら充分にもっています。本番に強く、日常での心身の管理ができていなければ、スポーツで結果を出せません。歌手や役者はアーティストといっても、画家や作家よりはアスリートに近いものを求められます。肉体芸術です。

 歌やせりふの技術というのはありますが、いつも基礎の話をするのは、ことば(日本語)と同じく、声は日常化しているからです。その点、やや非日常に分けられた声優やアナウンサーの技術の方がカリキュラムはたてやすいのです。

 今の日本は、歌であれば、アスリートやお笑い芸人なら、かなりのところまでこなせます。ダンスほど歌手は、オリジナリティのレベルまでいっていない。ゆえに、世界に出る人材もないし、TVでも物まね芸人にワクを取られてしまうのです。

 つまり、古典芸能のように特殊化して、保守化しつつあるのです。ともかくも、アスリート並みの心身をもつこと。これが基礎としては大切です。

 

○高音の技術

 

 心身の鍛えられたアスリートが歌っても、追いつけないところが、歌い手の歌い手たる技術となります。そこでわかりやすいのは、声の高さです。そこでヴォイトレの、半分くらいの目的が集中してしまうのです。誰かの歌をカバーしたいとなると、今のプロは高音やファルセットを多用するので、そのマスターが前提のように思われてしまうのです。

 私は、声域は、副次的な効果であり、人によっても違うのですから、メインの目的にはしたくはありません。

 求める人の目的には対応するので、もともと高い声の出たポップスのトレーナーよりは、少しずつ獲得していった、完成度の高い声楽のトレーナーに任せています。

 日本のミュージカルや合唱、ハモネプなどは、ハイトーン、ファルセット、共鳴、ハモリ、ビブラートを前提条件のようにしています。そこで、まさに音大のベースに一致するのです。声楽家でそういう条件に恵まれた人は、目的もキャリアも、問われるものが違うのですが、トレーナーとして教えると、大いに参考になるはずです。

 

○レベルを上げる

 

 私がサッカーを私のまわりの仲間と楽しむなら、シュートだけを練習したら十分です。でも、サッカー部の人と試合をするには、ボールを受けパスを出したり、ドリブルする練習が必要です。

「こういうのも何時間かやってみる」、というのが、今、行われているヴォイトレ、基礎と本番(試合)の真ん中にあるものです。もし本気で勝ちたいなら、彼らに走り負けしない体力、走力、筋力をつくります。試合は5分で終わりませんから、走り負けたら、シュートのチャンスどころかボールに触れるチャンスもありません。まして、Jリーガー相手と考えたらどうなるでしょう。

K1のファイターがパフォーマーに転向しました。彼にあったのはプロとしての心身だけでなく、ステージでの発想です。ファイターだったときも闘うだけでなく、パフォーマンスで人に伝えることをリングの内外で実行していたからです。

 

○高める

 

 プロへのレッスンでは、ヴォイトレや発声、技術の習得が前提ではありません。自分のもっているもの、もっていないものを知ることです。足らないものがあれば、それを身につけるかどうか決めること。努力をして身につくかどうかもチェックしていきます。フィードバックしながら、少しずつ高いレベルで自分のもっているもの、もっていないものを吟味していくのです。

 プロセスでどんどんうまくいくなどというのは、もっとも肝心のレベルアップをしていっていないことが多いのです。

 同じ6階級くらいの相手とのファイトだけをずっと続けて、「強くなった」と言っているのと似ています。ステージのクラスが低レベル(まわりはやっていないか趣味程度)で、通用したことで、自分は「もっている」と思っていたものでは、大して実践に役立たないのです。

 トレーナーはレッスンで、レベルを上げることをきちんと伝えなくてはいけないのです。トレーナーともども4回戦ボーイで、何回やっても何年やっても最初に少しうまくなっただけ、そこで進歩が止まってしまうレッスンではレッスンとはいいません。

 

○待つ

 

 「本当にやらなくてはいけないことをやる」「本当はやっても何にもならないことやらない」この2つを見分けるために、トレーナーのレッスンは意味があるのです。

 トレーナーには、それぞれに専門があります。その専門のところを使えたらよいのです。一人のトレーナーから、何でも与えられると思い違いしないことです。謙虚に学びあっていくことです。

 やるべきことはそんなに多くないのです。とてもシンプルに、表現と基礎、表現と自分を結びつける一本の線をみつけることです。いろんなものは捨て、あるいは、才能のある人に任せ、自らの武器として、自らのもっているものを鍛えていくことです。それを知るべきです。

 その一つが声というなら、そこに一時、専念します。いろんな歌い方や発声を覚えるのはサブの目的として、たった一つの絶対的な声を、声域も声量も気にせず、手に入れ、育てるのです。それが音楽となり、自らを歌い出すことを待つことです。

 

No.353

風雅
柔和
悪鬼
源流
守護
神々
変化
死者

祖先


亡者
追善
慰撫
厳密
落ち着き
迷い
盂蘭盆会
行事
芸論
言及
風体
根源
成立
歴史
心得
演目
演技
本質

「総合と本質」

○総合化と個人化

 

 総合化と個別化ということばでまとめます。

 スポーツでいうとこの2つは、チーム力と個人プレー、一人の選手でいうとトータルの力量と、何か一つ抜きんでた力量となります。個人競技のプレーなら、オールマイティと得意技でしょうか。

バランスがよいのは総合力、力を高めるときにトータルとして強くするのが総合力です。たった一つでも特別に強いのが個別力となります。総合化とは、総合力をつけることです。人間や生命としての共通ベースから得られるところの本質まで迫ります。それに対し、個別化とは、自らの個の本質を究め、オリジナリティをつけるものです。

 

○個別化と「我」

 

 個別化は特殊化ですが、決して「我」ではありません。オリジナリティというときに「初めて」とか「他人と違う」のではなく、それは本人の資質の延長上にあるものです。自分がそうやりたいとか好きとかいうものではない、むしろ、そこが否定されたあとに生じるものです。

一部の天才は、自分が思うままに世界をつくってしまいますが、それは動機としてであって、多くは、他人との差異で修正されているのです。いえ、正しくは、人間としてのベースを極めたところに出てくる差異なのです。(このあたりは「守、破、離」で述べたことを参考にしてください)

 

10年のキャリア

 

 他人に教わり、あるいは他人を真似て人並みになるところのレベル、この人並みは、やっていない人ややっていてもまだへたな人に対して言えるだけのことで、やった分だけ得られたビギナーレベルです。

プロならプロでのビギナー並みということです。たとえると、高校野球においてトップレベルに達したくらいのところで、およそ10年ほどのキャリアを示します。そこまでは基本を守るわけです。

 次の10年が、本人の本人になるための葛藤で、破です。これは、基本に忠実にしろというコーチ、監督の思惑と、ときに対立します(多くの人は、言いつけを守って対立しません)。しかし、上に行くには、飛躍を求めることです。人間として共通の体での理想のフォーム、レベルから、その上での個性、個人としての理想のフォームづくりに進む必要があります。大体の優等生は「破」れません。他人を疑うことより自分を否定するということが問われるからです。

 一人ひとり、体も心も、考え方は違います。その差異に入って、つきつめていくのです。やがて本人にしか許されないという破格のフォーム、型、形として結実します。ここで破格とでたらめは全く違います。

 

○「総合カルテ」をつくること

 

個別の完成について、私は次のようにみています。

総合的なデータ(他人と共通であり、比較できる)から、個人の適性、レベルを知って、個別のメニュにするのです。

 

a)声域(周波数)、最適音、低、中、高音域

1.1音~半オクターブ

2.半オクターブ~1オクターブ

3.1オクターブ~2オクターブ

 

b)声量(振幅):量感、ダイナミックさ、メリハリ、ppffpmpmff

1.体と呼吸

2.発声と共鳴

3.結びつき、体―息―声―共鳴

c)ことば:共鳴、構音(調音)

1.1音、母音、ハミング、リップロール

2.子音、ことば、

3.せりふ、歌詞

 

d)長さ、ロングトーン、レガート

1.1つのフレーズ

2.Aメロ/Bメロ/サビ

3.1曲(1コーラス、フルコーラス)

 

e)構成

1.終止:ひとこと(フレーズ)を言い切る

2.間:メロディフレーズのあとの余韻

3.展開:フレーズと離し方、次の入り方の組み立て

600323

○個性化

 

 総合化のメニュのおよそ半分は、音大4年レベルの発声のカリキュラムまで、ほぼ賄えると思います。歌唱だけでなくせりふやスピーチの声に基礎部分も同じです。俳優、声優から一般の人、ビジネスマンまで、その基礎は通用します。発音、ことば、せりふのトレーニングを補います。

 総合のなかに入っている個別のメニュをそれぞれに使って実力アップさせていくのです。総合というのでトータルにつかんでいく方向もあります。歌っているうちによくなるのがもっともよいのです。歌の表現とそれを支える発声は、目的が違うので、トレーニングとして分けるべきです。

 ピアニストのフジコ・ヘミングはリストの名手ですが、練習のメソッドは使わず、リストの曲で基礎の練習をするそうです。そういうことのできる人もいるということです。ただし、歌での練習は勘違いしやすく片寄りやすいので、注意が必要です。

 

○自分を知る

 

 すべてにおいてハイレベルにできるのなら、それは理想ですが、現実的には難しいものです。そこで、自分は、どの分野がどのくらい得意なのか、苦手なのか。そのなかでどういうポジションがよいのかは大問題です。自分の素質とプレーのために必要な条件を、どのようにみていくかは、個別に研究していくしかありません。

 トレーナーにつくのは、未知の将来性への確からしさを期待してのことです。自分のまわりではすぐれていても、これからやっていく世界では、どうなのかがわからないからです。

 就職や結婚と似たようなもので、運や偶然もありますが、切り拓くのは本人です。自分の才能、素質、性格、性分を自覚して、目標を立て、スタートできるような人は稀です。価値観や思想(考え方)は、学んで大きく影響されているくらいの状態では、自分のものとはいえないからです。

 ですから、他人とまみえることで自らを知ることです。それもまわりの人とでなく、そういう世界で生きている人と広く、次に深く接することです。それによって自らを早く相対化することができます。そこからもいろいろな選び方があり、留意点があります。

 

 指標の一例

・優れている

・好き、自分に向いている

・楽、やりやすい

・苦でない、すぐできる、少したてばできる

・確実にできる

・稼げる

・目立てる

・長くやれる、後までやれる、続く

 

○精度と安定度

 

 私は、よく「トレーニングは、ベターをベストに高めるために行う」と言っています。ベストに高めていくには、ベターが確実に再現できないと積み重なっていきません。シンプルなことで何百回も重ねることをくり返して精度を高めていくのです。

 ベターが確実に再現できると、悪い状態が少なくなってきます。ひどい心身の状態になっても最低限、カバーできる実力を保つことができるようになります(この場合、声でよいのですが)。これがトレーニングの最大の効果であり、誰もが目指せる成果ともいえます。

 長年やっても、ベストがプロとしてのベストにならない人もいます。一方、プロの仕事は、いつでも確実にこなせることに重点がおかれます。そこでのヴォイトレの目的は、才能をマックスに発揮できることよりも、安定した声が、いつでも思い通りに出せることにあります。高いレベルでのベター状態のキープということです。となると、プロになる、認められるときのパワー、説得力の伴う声は、オーティションに受かってデビューのところまでにしか使わないという不思議なことが起こるわけです。☆

 

○声のプロへの仕事

 

 ヴォイトレトレーナーは、一般的には声のプロであっても、偉大な伝説的なアーティストではありません。クラシックはともかく、ポップスでは、偉大な歌手が、歌のアドバイスはともかく、ヴォイトレを教えることは多くありません。楽器のプレイヤーと異なり、活躍した人が、そのコツを他の人に伝えられるものではありませんし、なかなかできません。本人も伝えることが楽器のように簡単でないことを知っているからです。

 現役の歌手にとっては、喉への負担が少なくないこともあります。ヴォーカルとして大成する人の気質はあまり、教師に向いていません。そこで、指導については作曲家やプロデューサー、演出家などが担当することになるのです。

 私は、ヴォイトレの本質は、中心となる声の発見、発掘、育成、それに加えて、歌唱のベースとなる声でのフレージングを発見、発掘、育成することだと思っています。

 中心となる声を知るには、表現の最低単位として、フレージングを想定する必要があります。絵でいうとデッサン、色と線を見出す、育てるということになります。

 歌は一色で、線だけでもデッサンできます。色を音色、線をフレージングと例えてきましたが、色は何色も必要ありません。一色でもよいのです。ただ、墨のように濃淡豊かに、緩急をつけて描けるなら、です。

 

○自分のことばで語る

 

 私は、すぐれたアーティストやトレーナーは自らのことばで語ると思います。ことばがないから、歌や演奏やプレーをするともいえますが、不思議なことに、名選手やアーティストは、必ずその人独自のことばを持っています。

 これには少なくとも二つの理由があるように思います。一つは、どんな表現も、まわりにそれが認める人がいて、ファンがいます。ことばに説得力がなく、作品だけで語らせるでは、自分の世界はつくれても、それを世に知らしめるのは、なかなか難しいでしょう。おのずと人前に立ったり人に影響力をもつ人は、ことばの力をつけていきます。説得力やプレゼン力としての対人コミュニケーション力です。

 もう一つは、自らの芸を高めるときには高度な判断が必要になります。イメージによってなされることも多いのですが、そのインディックスとして、ことばがよく使われます。

 メニュにしろ、練習にしろ、感覚通りにやればよいといっても、ことばを使わないと、覚えにくいし思い出しにくいので、レベルアップしにくいのです。

 

○ことばとアーティスト

 

 私はたくさんのトレーナーをみてきました。そこでも人を教えるときに、アーティストから聞くようなことばをたくさん知りました。造語であったり、擬音であったり、イメージであったり、あまり論理的なことでないので、ここには書きません。秀でた人には感想や判断にも、独特のことばづかいがあります。

 

私は、スケジュール表やメニュ表、日誌をつけることを勧めています。歌手や役者は、計画性のない人が多く、それがとりえでもありますが、3年、5年先をプランニングすることは大切です。

 

○書くということ(会報)

 

 私が会報をつくったのは、同じことを何度も答えなくてすむように、よく注意するようなことを予め知ってもらえるように、との気持ちからでした。本には書けないことを述べたのです。

 説明不足や知識不足を改めて補って伝えるためもありました。声というあいまいな分野のデータベースをつくるつもりもありました。

 ヴォイトレや声のことをよく50冊以上も書いたと言われます。しかし、ここでは毎月、昔なら本の3冊分、今でも本1冊分にあたる分量の会報を出しているのです。どの学会にも負けないくらいです。本は、どの出版社にも似たことを求められるので、会報やこの連載の方が、よほど内容は深いはずです。

 

○書き変えていく

 

 読者や生徒さんへの回答を載せることでした。疑問点、効果などをオープンにすることで、研究材料になります。

 トレーナーも生徒も、私の本を使って(それを覚えるのではなく叩き台として)自分のマニュアルを確立していくよう勧めてきました。会報の発表の場にもなりました。できるだけ表現して学び、得たものはシェアしようということで、アーティストの自覚も出てくると思いました。

 ブログでも学びつつ、習慣と環境を変えていく。書くことで、気づいたり身になることは少なくありません。

 私も昔からトレーニングノートをつけていました。12年は大したことがなくても、5年、10年となると、同じところをまわらず発展していけるのです。

 喉や体調がよくない―なども記述しておくと、次にどうなるかということが、データから予知できるようになってきます。

 私が書くよりも、レッスンを受けた人の気づきやトレーニングの感想をオープンにした方が、より具体的、かつ多くを与えられるようです。

 

○学び方を学ぶ

 

 教えるだけでなく、学ばせる。それだけでなく、学び方を教え、そこを変えなくては、人は大きく変わらないのです。

 トレーナーは私に、個人レッスンの一人ひとりのメニュとメッセージを報告しています。それをみて、そのレッスンを受けた生徒さんのレッスンの後のレポートを読むと、両面からよくわかるのです。

 トレーナーがどんなによいレッスンをしたと思っていても、生徒が受けて、よくなくては問題です。生徒が満足する、充実したレッスンが必ずしも最高のレッスンとはいえませんが、一つの目安になります。

 伸びる生徒は、ポイントをうまく自分のことばで表現できます。これは、トレーナーも同じです。すぐれたトレーナーはポイントをつく自分のことばを持っています。そうでない人は、そうなってくるのが変化、成長となり、育っていく前提といえます。

 私は学び方そのものについて、たくさん述べ、そのような本も出しきました。これもまた、私よりも一流で才能のある人のことばを引用して伝える方がよいと思い、アーティストのことば集もつくりました。これにはスポーツ選手、政治家、経営者なども入っています。古今東西、孔子や孟子からの引用まであります。

 会報の半分は、トレーナーと生徒さん、OB、読者さん、のことばで埋まるようになりました。学会も論文も大して活性化しない声の分野に、ずっと一石を投じてきたわけです。

 

○鍛練としてのヴォイトレ

 

 ヴォイトレは調整でなく鍛錬です。日本どころか世界でも、ヴォイトレから鍛える。負担、負荷、抵抗などということばが除かれていきました。困ったことです。

 健康も、食事も、表現も鍛えないと身につかないのです。自らを強くすることです。免疫をつけ、体力や気力を養い、自信をつけ、失敗をしに人前へ出て、勇気、胆力、忍耐力、回復力をつけることです。

 

(<巻頭言2012.12引用>からの再録)

「遠くの目標をもつ」

 

私はレッスンとトレーニングを分け、その必要性を高め、より高い目的へチャレンジさせるようにアドバイスしています。

ヴォイトレというあいまいな世界で本気の上達や効果をあげるには、遠くの目標をみる必要があります。上達や効果ということさえ、近くの目標にすぎません。

船乗りは、大洋を横断するには、島や雲ではなく、星を目印にします。遠いゆえに動かないからです。そのためには、古典や歴史から学ぶことです。私は自分の本がすぐに役立たなくても長く、愛読されることを願っています。

誰もがお客さんから一歩、人前でお客さんにみせる立場、プロになる道へ踏み込むと、今までみえていたものがみえなくなります。大海原に出たり山のふもとに入ったりすると、全体がみえなくなるのと同じです。その連続の道であればこそ、高く遠く確かな目標が大切なのです。

 

 

No.353

<レッスンメモ「日本の音と声」>

 

「もののね」ものの音、しぜんの音、風水、鳥、虫の声 仏教の六根浄化

「音霊の法」神道、友清歓真(ともきよよしざね)

日本の音100選 環境庁(1996年)
なつかしい歌 育った時代、地域

消えた音 季節の音、衣食住の音

「歌かけ」歌の連歌のようなもの

「歌垣」特定の日と場に若い男女が集まる

「歌舞い」「あそび」同じく音楽の意、歌も舞踏も一体

お祭り 鎮魂や災厄退散祈願

瞽女(ごぜ)、琵琶法師、千秋萬歳、春駒など。

芸能民。新内流しなど。

即興は見計らい、能はリハなしの一発勝負です。

天体の音楽 ピタゴラス、ヨーゼフ・シュトラウス

601

No.353

<レクチャーメモ「食と薬」>

 

ジェネリックは、オーソライズドジェネリックに。 

食事、運動、笑うこと

便秘の解決法:運動、食事(食物繊維)、充分な水分、冷え性防止、血行をよくする、蠕動運動(加齢で腸の動きの鈍化へ)を促す、偏食、ダイエットを避ける。

葛根湯は、胃腸の弱い人には効きめが強すぎて胃痛、下痢の原因となる。

ロキソニンは劇薬

虫除け、消臭剤に注意

薬は毒。石油、プラスチックで生成、症状を抑えるだけで治さない。腸をはじめ、免疫力、自己治癒力が衰えます。                    [552

 

<レクチャーメモ「知性」>

 

逃走するスキゾと遊牧民ノマド

流動性と不確実さ

先生の権威とルールの強制

権威を引き下ろす社会、煽る時代

反知性主義、自分が正義で他人の意見を聞けない(反ピューリタニズム)

それに対し、知性は、自省する能力、しかし、知性は自分を信じすぎることになりやすい。      [608

 

「勘とデータ」

○長嶋氏の素振り論と松井秀樹選手

 

 2012年末、松井秀樹選手が引退しました。スポーツ報知は、全紙面の半分を関連記事にあてました。松井のそっくりさんまでが、「まだ引退しない」と出ていました。恩師である長嶋茂男元監督の談話がのっていました。

 天才は天才しか育てられないから、私たちは長嶋監督よりは野村監督に学ぶことを勧めていましたが、深いものを感じたので引用します。

 私が長嶋監督の例を引いたのは、毎晩、帰ったらすぐに素振りを3回して、そこにいつもの音が聞こえたら、やめて食事入浴をする。聞こえなければ、聞こえるまで夜中も振るというような話でした。音でわかるというのが印相的でした。

 第一線レベルにできあがっている人の場合、状態のチェックをして仕上がっていれば、そのままにしておく方がよい。何か不足していれば補って、元に戻しておくと。すべてを五感で捉えて判断する職人技での調整法です。

 イチローの打席で構えるまでの“儀式”は、よく例に挙げられますが、長嶋氏のような調整は、客観的に自分の状態のベストを完全に把握していなくてはできないことです。コーチに頼るのでも、データに頼るのでもなく、自分の身体だけで確認するわけです。全身センサーのようであり、”野生の勘”と言われたゆえんです。そこでの手段は、特別なメニュや方法でなく素振りなのです。

 

○声の素振り

 

 この記事で語られたのは、松井との「1000日計画」でした。そして、それは、素振りなのです。徹底したシンプルさを最大限に応用して基礎を固め、その基礎を応用して試合につなげていくのです。何一つ特殊ではないのです。誰もが基本と知っている素振りをどれだけ、どのくらいの量、そして、どくらいの密度でできるのかが問われているのでしょう。

 バッティングや素振りの例を、私はヴォイトレでよく使ってきました。「日本人は自分のど真ん中をジャストミートできないのに、自分のストライクゾーンの上の高いボール球ばかり打ちたがる」と。

 長嶋さんは、ボール球やワンバウンドさえ打ってしまう天才でした。「バッターはノーマルであれ」と言っていたのは、意外でもあり、さすがでした。

 

(以下<日録>より、再録)

野村克也の素振り論

バッティングは基礎、基本、応用と段階がある。素振りは基礎であり、この基礎をしっかりやらないで成長するわけがない。基礎をみっちりとやらない怠慢が強打者の生まれない理由のひとつなのかもしれない。

 たかが、素振りと思うだろうが、素振りひとつとっても、テーマを決めて考えながら練習する必要がある。素振りは1回ずつ振幅音を確認しながらでき不できを判断したものだ。ボールを捉える瞬間をイメージし、ブ~ンという音ではなく、ブンッと音が出るまで何百回も素振りを繰り返した。これだけは自分で努力するしかない。コーチは足や腰、腕の動きなどバッティングの形は教えることができても、イメージや感覚は自分で掴むしかないからだ。(中略)

 親も育ってきた環境も違うし、肉体や骨格も違う。それを猫も杓子も一通りの型にはめたのでは個性を生かすことはできない。「学ぶ」というのは「真似る」を語源にしていると言われるが、若手も「教わる」のではなく「覚える」という意識が必要なのではないか。(中略)

 特に「勝利の方程式」という決まり文句が一番気に入らない。勝負事に方程式などあるわけがない。マスコミの責任も大きいが、そんなものがあると考えるから型にはめてしまい、勝負の醍醐味を失わせるのだ。(中略)

 「人間成長なくして技術的進歩なし」である。

野村克也さん [SAPIO 2013.1]

 

金本知憲の素振り論

 「すべて野球のためにどうすべきかと考えていました。トレーニングはもちろん、体重を落とさないように無理して食べるのも、睡眠時間を確保するのも、野球のため。心身ともに本当に休んだといえるのは、シーズンが終わった直後の5日間くらいでしたね」(中略)

 「仮にコーチにやらされた練習でも、練習の狙いを理解できれば自分に役立つ。若い頃の広島時代の練習はそうでした。逆に自分から取り組んでも、漠然とやる練習では意味がない」。例えば金本が調子の良いときも悪い時も欠かさなかった素振り。「スイングの速度を上げるためなのか、打撃フォームを整えるためなのかで振り方は異なる」(金本)。そこまで考えて素振りを繰り返したからこそ、バットにボールを当て、しかも遠くに飛ばす技術を磨くことができたのだ。

金本知憲さん [TRENDY 2013]

 

長嶋茂雄の素振り論

1000日計画」って言葉、覚えてるでしょ?3年間で一流の4番打者に育てるってプランよ。だから、それこそ毎日毎日素振りよ。昼でも夜でもどこでもスイングよ。銀座の(超高級)ホテルで部屋を借りてやったこともあった。(03年にヤンキーズの取材で訪れた)ニューヨークも?やったよなあ。(超高級老舗ホテルの)プラザホテルの最上階でバット振ったのは、世界でも松井くらいだろ。

 素振りはいい練習なのよ。スイングなんて1回に1秒ぐらいなもんでしょ。でも、それを1回、また1回と繰り返していくことで、いろんなことが考えられるのよ。そこから野球選手としての「深さ」や「幅の広さ」が生まれてくるわけ。

 技術はもちろん身につくよ。しかも退屈に思える練習を続けることで心、つまりメンタルが作られていく。それが大きいのよ。

長嶋茂雄さん [スポーツ報知 2012.12.29]

 

○()長嶋茂雄氏の指導法

ミスターは21歳の中島をつかまえ、いきなり打撃指導に乗り出した。

 「インパクトの瞬間、バチーンとチンチンを右から左の太腿にブツけるんだ!」

「バチーンとですか?」

「そう、バチーンと」

 首をひねる選手が続出するなか、ひとり目を輝かせていたのが中島だった。

 「僕にはメッチャわかりやすかった。長嶋さんは音で力の加減を表現するんです。バーンならバーン。バンならバン。ギュッと言わはったら、実際にギュッと体を回せばいいんです。ここの角度がこうなんて説明されるより全然わかりやすい。長嶋さんから教わったのは正味40分くらいやったと思いますが、その後から全然、打球の質が変わった。きれいに飛んでいくようになりました」

中島裕之さん [週刊現代 2013.02.02]

 

 ヴォイトレで、出しやすい声から出していくのです。なかには、自分が出しやすいと思って出す声を否定されることもあります。出しやすい声=ベストの発声やベストに育つ発声ではない。でも、入口では、まずは「出しやすい声とは何か」を、そして、「出しやすいとはどういうことか」をバットや竹刀を振るときのように、直観的に捉えてみることです。

 一流の選手でない大半の人の感覚やフォームは、大きくは当たっていても、そこから細部に深めていくと、すぐに外れていきます。ストライクゾーンは打てるとわかっていても、いつもそこで当たったり当たらなかったりが続くのです。そのうちに高めの内角だけが打てるようになるのを上達などと言われてがんばったりするわけです。

 

○心理の分析

 

 野村監督は打つことよりも、まずは打ち取ること、バッターとしてよりキャッチャーとして、相手の心理をみることを本質と捉えたのでしょう。8×1080にストライクゾーンを分けて、データをとりました。これはトレーナーとしては「やり方」になります。

 次にどのコースにどの球種がくるかわかると、ほぼ、確実にヒットにできるのが、プロのバッターです。ですから、現場での勝負は心理戦なのです。力や技術を十分にもった上で心理を読む、その最高レベルが勘なのです。となると、バッティングセンターでは3割、4割でなく、10割打てなくては勝負以前のレベルということです。

 ストライクゾーンを3×3くらいのマトリックスで捉えているようなバッターに、8×10の細分化したデータをもつのは、絶対的に有利なことです。投球を指示するキャッチャーの視点は、コーチです。これがチェックや上達のプロセスとなります。

 しかし、長嶋さんの場合は、一般的なストライクゾーンなどは眼中にないのでしょう。打てる球と見送る球、つまり振る球と振らない球だけなのでしょう。打てる球、ヒットにできる球が振る球になるのです。一流ゆえに他人が定めたルールを超える、その常識を超えたプレーにファンは感動するのでしょう。

 それを支えたのは、小学生でも、そこから始めるという素振りの徹底です。松井選手には、ニューヨークの最高級ホテルでも素振りをさせたというのです。シンプル イズ ベストなのです。

 

○人生と哲学

 

 野村氏に学べるのは、三流から二流、二流から一流になるためのプロセス、考え方です。野球において将軍はピッチャーやバッターですが、キャッチャーは策士、参謀です。

 日本で10年、アメリカで10年とトップクラスの活躍できる人は、純粋に素振りに打ち込みます。結果を出し、それが出なければ終わりですが、20年、成績を残せたら終わっても引っ張りだこでしょう。しかし、多くのプレイヤーは、明日のレギュラーも来年の活躍、いや雇用も保障されていません。人生における野球、野球を終えての人生も考えざるをえません。それが考えられていると、今だけに打ちこめるともいえます。

ですから野村氏の理論は、そのまま人生哲学になっています。これ以上は氏の多くの著作に委ね、ここからは勘とデータの話です。

 天才でもない限り、勘は働かなくなるときがあるので、そのときにデータで支える、あるいは、データがあった上に、勘もおろそかにしないなら、両方のよさが活かせます。データに囚われ、勘も鈍くしてしまう人の方が多いので、こういう考え方は、とても大切だと思うのです。

 

○勘のよしあし

 

 私は勘のよい人には、かなりの部分を本人の判断に任せています。できるだけ口を出さずに、材料だけを与えます。その与え方に工夫をします。環境を与えるのは、本人の資質を尊重してのことです。

 当初は研究所もそのような人しかいない環境でしたから、私は場を高次に整えていればよかったのです。

 「何も教えてくれない」などと言うのは、勘のよくない人で、そのまま放任しているとクレーマーになりかねません。「教えてくれる」「教えてもらう」ことで、どれだけ勘を鈍くしているかを、ときには考えてみることです。

 まずは、自分に、その内面に、目を向けなくてはいけないのです。このことがわからず、「青い鳥症候群」の人が多いのです。「どこかに絶対的に正しい方法、よい方法、正しいレッスン、よいレッスン、正しい先生、よい先生がいる」と思って、探し求めてばかりいるのです。

 レッスンはそういう思い込みに拍車をかけるのでなく、それをストップさせるためにあると思います。「正しい」とか「よい」とは何か。そんなものがあるのかどうか、疑問や否定を通じて、自らに問い続けていくようにしましょう。

 でも今は、優しい先生が優しく教えることを求められるため、その期待に添うようにがんばるほど、本質からそれてしまうのです。厳しい場を求めてください。

 

○勘と基準と材料

 

 勘のよい人は、「自分自身の声に向きあうことしかない」ことを知っています。

 素振りのように一つのシンプルなメニュをくり返しているうちに、少しずつ丁寧に、繊細に扱っていくようになります。材料を元に基準が確立してくるのです。

 そうでない人は、飽きてきます。やめてしまうか、やっていても雑になります。正しく教えられたことなどは形ですから、そのままでは、くせがついて固まってきます。それを安定と思うので、早々に上達が止まります。これは大きな勘違いです。自分の成長に合わせ、その都度、形から脱皮し、さらに深めていくことです。

 

○作品の価値への評価

 

 「トレーナーは、作品の価値判断までに立ち入るべきではない」と考える人もいます。確かに、筋トレや体力づくりと試合の采配とは別の仕事のようにも思います。しかし、これは別の次元、レベルということです。目的となると現場に多少とも通じていないと、必要とされる基礎の程度もわかりません。この現場とは、ステージ経験などという、個別に違う、あいまいなものではありません。最低の絶対必要条件と余裕をもつための充分条件の2つの尺度です。

 

 声を出している内容×声を出している時間での、トータル的なものが結果です。

 

 生涯現役歌手というのは、自らに対してはプロです。トレーナーとなっても、他人のプロセスに通じているものではありません。多くの他人のプロセスに長い時間で通じていてこそ、トレーナーに必要条件なのです。

 このプロセスというのを、私は5年から10年くらいを1クールとしています。仮に、10年くらいトレーナーをしたとしても、1年以内に辞めていく人ばかりみていたのでは、本当に大切な勘は培われません。トレーナーも生徒も育つのです。

 

○トレーナーの価値とは

 

 最初には勘のよかった人が、続けているうちに勘が冴えなくなる、悪くなるケースは少なくありません。むしろ一般的です。そうならない方が例外といえます。声や歌では、それが顕著です。元より自分の評価も他人の評価もあいまいだからです。

 レッスンの目的の一つは、トレーナーに評価をしてもらえることです。しかし、その基準があいまいでは進歩は望めません。アートという何でもありの世界で何を評価としてとるのかは、難しいものです。本人の満足か、客の満足か、どちらにしても曖昧なものです。受けを狙って急いでは雑になります。

 その評価がトレーナーだけの満足に終わってはなりません(トレーナーの評価の問題は、以前に詳しく触れています)。

 価値観を一致させないところにレッスンは成立しないのです。そこでトレーナーは一本の仮の道を示します。そこをプロセスにするかを問います。それをどうとるかがトレーナーの価値です。

 

3年かける

 

 トレーナーは「教える」、「与える」のでなく、「問う」場を与えるのです。邦楽で、師が弟子に、「自分のやる通りにやれ」と言うのは、自分のようにできたら完成というのではありません。

 これから自分の声がどのようになるのかを、まだ体験していない人にあるのは、勘だけです。それで判断して、歩み始めるのですが、そのプロセス、方法、トレーナーについて、一致というのはそう簡単にできないものです。歩み始めるまでに3年くらいかかっても遅くないといえます。

 私は今、「ここにいる十数名のトレーナーの判断がわかるまで3年かかってもよい、そしたら自分にもっとよいトレーナーがわかる」と言っていました。「自分によい」というのを、好き嫌いや憧れでなく、必要性で判断するのは、至難のことです。それなりの基準を身につけなくてはできないのです。

 

○勘は悪くもなる

 

 勘というものが「やっていない人のなかではよいと思われても、大ざっぱによいだけで、そのうち(続けて学べている人のなかでは)よくなくなる」のが普通です。子供のころは天才、大人になるにつれ皆、凡才になるのです。日本の教育では平均化を強いるのでそうなりがちですが、ヴォイトレも似たようなものです。

 

 トレーニングやメニュでどのようになるかというのは、トレーナーの処し方によります。このプロセスをみてみましょう。すると、大体は同じように「勘の悪くなること」が起きているものです。それを避けるために、他にはない研究所としての総合的な機能をバックグランドで働かせているのです。

 

○トレーナーの成長

 

 私は、これまで声楽畑のトレーナーを中心に、五十名以上のトレーナーとヴォイトレをやってきました。今も十数名のトレーナーと続けています。長い人は十年以上います。私より目上のトレーナーもいます。かつては、20代後半から30代の若いトレーナー中心でした。

 採用して、しばらくは、レッスンをみても何も言わないようにしています。こちらの方針を押しつけると、せっかく異質の才能を発揮できる機会をなくしかねないからです。

生徒と同じで、準備が整っていないうちは待ちます。自分自身に何があるかを把握せず、何とか形にしようと試行錯誤しているうちは口をはさみません。出せるだけのものが全て出るまで待つのです。

 声楽家ですと、音大生以外に教えるのに慣れていない人が多いです。ここの生徒の中にはプロもいますから、お願いして新しいトレーナーを体験してもらうこともあります。いろんな基準を得ることになります。

 トレーナーには自分自身のレッスンやステージの体験があるし演奏能力もあるのですが、その基準をそのまま使えるわけではありません。それが指導の能力として出てくるまで、しばらく待ちます。その人の本領が発揮されるまでは、伸び伸びやらせるのです。

 そして、1年半くらいたつと細かくみるようにします。この1年半というのは慣れてきて、なかだるみしやすい時期です。秀でた人ほど早めに半年か1年くらいで、個性が行き過ぎる方に出てくるものです。

 そこから、きちんとした接点を私が見出し、レッスンを軌道にのせていくのです。接点がつかないとやめてもらうこともあります。

 

○トレーナーの一人よがり

 

 トレーナーが、指導に慣れるにつれ、知らずと慢心してしまうこともあります。舞台などで抜擢されて大役などにあたると、そのようなことは起きやすくなります。舞台に集中するためもあります。

 レッスンとステージを両立させるのは、かなり負担のかかることです。

 まして、私や他のトレーナーの制限下で、完全には自分の自由に生徒を導けないのですから、いろいろと不満が出ることもあります。

 複数のトレーナーを一生徒につけるやり方については、声楽の先生というのは反対するでしょう。方法としてはともかく、実際に自分が行うなら面倒なことです。生徒も一人の先生から学ぶ方がわかりやすいし、混乱しません。そこで、まず、一人のトレーナーに「言われたことができたら評価する」というのは、プロセスとして順当に思えるからです。

 どのトレーナーも自分の判断、メニュ、方法が「正しい」と思います。他のトレーナーが自分と異なる見解、違う判断、メニュ、方法をとるなら「あまりよくない」とか「間違っている」と思うものです。少なくとも、自分の生徒に関わってくるなら、です。他のトレーナーのレッスンが、自分の指導の効果を損ねたり、台無しにしていると思うこともあるでしょう。

 ここでは、トレーナー間での問題を扱う私のような調整役がいますが、普通はいません。そのトレーナーにつくか、やめるかだけでしょう。やめても次のトレーナーが自分にとってどうなのかを、わからないままに続けます。転々とする人もいます。

 その判断がつかないまま、いや、違いにさえ気づかずにレッスンを続けたり、トレーナーを変えたりしなくてはならないのは、不安でダメージの大きいことです。

 

○批評と非難

 

 トレーナーは、「自分は正しくて、何でも正しく教えられる」そして、他の生徒を引き受けると「前の先生は間違って学んできて、間違って教えている」と思い込んでいるものです。そこには、不満があるから前のところをやめた人だけが新しいトレーナーを探し、新しいやり方にあった人だけが残り、合わない人は黙ってやめていくという構造があるのに、一人で行っていると気づけないのです。これでは、この分野が進歩するはずがありません。

 生徒を教えるために、自分を正当する―それはやむをえないこととしても、そのために他の人を貶めたり、考え方、方法から、関係のないことまで非難する人が少なくないのはいただけません。残念ですが、よく耳にすることです。

 批判、批評として、実状を正しく把握した上での発展のための論争はありがたいものです。

 しかし、みることも、やってもみないで、ただの否定することにどんな意味があるのか。単なる足の引っ張り合いです。他のトレーナーやそのやり方を認めたくない偏狭な心に過ぎません。

 

○程度の問題

 

 他のスクールなどのトレーナーもここに来ます。メニュや方法についての質疑も受けています。誰でもいらしてよいのですが、大抵のことは正しいか間違いかでなく、程度の問題にすぎないのです。「同じ」と「違う」を、どのレベルでみるかということです。

 すべては個別の具体的な問題です。「一般的に」「普通」ということで尋ねられたら、拙書を勧めています。そこにわかりやすく詳しく説明しています。

 さらに、ここで補足を加えて、公にしているのです。

 

○結果を出す

 

 「こういうやり方でやっています」それでいいでしょう。

 「正しいのでしょうか」「よいのでしょうか」それは相手をみなくては、目的や結果をみなくては、何も言えません。

 「この声や息はよいのですか」これもわかりかねます。よくないと言うよりは、出ないということが多いです。

 そこで説明しても本当は仕方がない。答えないのは、答えがyesでもnoでも大差ないからです。

 「トレーナー」は人を育てるのですから「こんな人がこうなりました」で、初めて問うことができます。

 

 先日、嬉しいことに、ベテランのアナウンサーから詩吟に転向して長く声に悩んでいた人が、ここのレッスンを始めて5年目、上級のチャンピオンになりました。あるアーティストから、ここのレッスンを参考に、一般の人の声をよくできたという礼状をいただきました。

 勘がよいのも、理論が正しいのも関係なく、結果としてみるのです。結果とは、全てにおいて出るのでなく、出たり出なかったりします。それでも、こうして時間がかかった分、大きな成果が出ているのは、嬉しく思います。

 

○雑になると否定しだす

 

 本人がうぬぼれると、大体、ものごとへの対処が雑になります。すると、そういう人は他を否定しだすので、わかります。長嶋氏の弟子、松井選手が「ノーマル」に徹していたことを見習いたいものです。

 さらに高い目標に挑めばよいのに、それをせず、少々できるようになったからと、次の次元アップに挑まなくなると、必ずといってよいくらいこうなります。

 

○自分のレッスンの方法が正しいというトレーナー

 

 私のところには、ときに「自分のレッスンの方法が正しい」という人がいらっしゃいます。机上で論を戦わせても意味がないので

 「では、誰を育てたのですか」

 「育ったとはどうなったということですか」それでも食い下がられると、「その人連れて来てください」とは言えないので、次のレベルでの問いを投げかけます。

 「あなたでしか育たなかったのですか」

 「他のトレーナーの方がよりよくできたかも、と考えられませんか」

 これは、自分自身にも考えていきたいことだからです。

 また、「他のトレーナーは、間違った教え方で間違った発声になっている」と言うトレーナーがいたら、「他のトレーナーも皆、それぞれに相手のことをそう思っています」と答えます。

 

○幼いトレーナー

 

 「自分の方法が絶対」といえるなら、世界一の実力がある人を一から育てたということでしょう。教えた人がNo.1になったとしても、ある条件のもとで自らを肯定し、他を否定できるにすぎません。そういうハイレベルで学べた人はどんなレッスンでも活かせるものです。

 波風を立てるのは、いつもそれをよい方に使えていない、私からいうなら、本当の意味では、できていない、自立していない、時間のある人たちです。

 今の自分をすごいと思い、5年、10年あとにイメージが及ばない人は10年、20年と続けてきた人を簡単に否定します。それは、後5年でも10年でも、彼ら自身がすごくなってから言うことなのです。でも、すごくなった人で言う人はいません。

 どうなるかがわからないから何でも言えるのは、若い人の特権です。まだ、何ら実績をのこしていないのに言うなら、若いというより幼いだけです。幼いということは、まだみえていないということです。こういうときはコツコツと地道に我慢することが、一流になる人の器ともいえるのです。

 

○こだわる

 

 私は、「シンプルに一つの声を磨いていける」のは、それだけで一つの才能だと思います。「他の人がもうできた」と通りすぎていくところで、何かを感じて、こだわり続けていくのですから、並大抵のことではありません。

 私自身、「声がライフワーク」といっているのは、こうして探求し続けているからです。

 悩んでいるトレーナーには「続けていくと、今よりもよくわかるようになる」と言ってあげたいと思います。

 

○もっているもの、もっていないもの

 

 トレーニングの時点で、私はその人のもっているものと、もっていないものについて考えるところから始めます。あなたもここで自分自身について考えてみてください。

<もっているものともっていないもの>

  1. 自分のもっているもの
  2. もっているのに出せていないもの(使えていないもの)
  3. もっているが出さない方がよいもの(使わないもの)

 

  1. もっていないが補えるもの
  2. もっていないが補えるかわからないもの
  3. もっていないが補っても使えないもの
  4. もっていないが補えないもの(理想的には欲しいもの)
  5. もっていないが補う必要のないもの

 「発声を直す」というのは、c.を封じb.を導いていくことにあたります。多くのメニュはd.の不足を補うこと、その補強にセッティングしています。

 e.は、声においての到達点には個人差があるということです。

 f.g.は、その人の限界をどこにどう見極めるかということにもなります。h.はトレーニングの目的にする必要はありません。このahについて、この機会にまとめてみてはいかがでしょうか。

 

○「初めて」の対処

 

 どんなベテランのトレーナーでも、これまでに「初めて」のタイプには、やってみないとわからないときがあります。

 「初めて」のタイプというのは、細かくみると人は一人ひとり皆違うので、「誰に対しても初めて」なのです。一見似ているけれどまるで異なったり、全く異なるタイプと思っていたら、誰かと似てきたり、といろんなプロセスをたどります。

 何事も10年、20年と経ってみなくてはわからないことがあります。

 レッスンにおいては、その人の<もっているもの、もっていないもの>を確認していきます。トレーニングでは、それを踏まえての、もっと長期的かつ革新的な取り組みが必要になります。

 

○優先とするもの

 

 表現から入るとシンプルなことが、基礎から入ると迷路のようになることがあります。私は、プロの「歌唱」や「せりふ」のなかの声の目安を、「仮に」として、必ずどこかにおいています。これをマトリックスの縦に置くと、横に置かれるのは、それぞれの要素(声域、声量…)となります。3次元でみるなら、時間軸が必要です。器として大きくしていくにも、どこを優先するかによって違ってくるからです。

 昔は、第一優先条件が声量(共鳴含む)であり、比較的、到達度合がわかりやすかったのですが、その後、日本では、声域のようになりました。これは個人差があり、また、素人は届けばよいが、プロは、使えなくてはいけないと言いつつ、その程度がわかりにくいものです。なぜなら音響技術で相当カバーできるからです。

声量が第一でなくなったのは、声量こそが音響技術でカバーできる度合が、もっとも高かったからでしょう。元々、ヴォリュームを増すためにマイクやスピーカーは発明されたのです。

 

○声量から声質(音色)へ

 

 声の第一条件は、届くだけの声量があることですが、そのまた昔、アカペラだけの頃、問われていた声質(音色)なのです。これは先天的なもの(声質)と思われ、昔は、「声がよい」という基準でした。これも日本では独特の鼻にかかった声のよさでした。

 今は、「その人らしく(くせが)あればよい」というのが基準かもしれません。これが、今のプロを真似て練習をすると、伸びない原因になっています。

 音響技術が進歩して、まるでパチンコで打つのが自動化されたかのように、誰でも何でも届けばよいかのようになってしまったからです。ポピュラーのソロに関しては、音域の設定は自由なので無理して、ある音にまで届かなくてもよいのに、です。

 そこで、音色そのものに個性がなくなり、発声のくせで、その人らしさを表すようになりました。

ものまねは、くせをつけたらよいので、簡単になりました。もっとも、今の「ものまね」は、デフォルメとしてのバラエティ芸です。音色、昔の声帯模写というようなものではありません。

 たぶん、昔は芸人は、限られたところの人であったが一芸を極めていたのに、今や全国から才能で選ばれるので、器用で優秀な人が出てくるようになったのでしょう。歌手や役者も、タレントという名で一般化しているのは否めません。

 

○レッスン前の発声について

 

 本番前の状態を整えるには、バランスをとることをメインにしておけば充分です。喉を疲れさせてはなりません。

 最初からベストで出られるようにするオペラと、ライブの経過とともに調子を上げていくことの多いポピュラーとは、若干、異なるでしょう。ポップスといっても12曲だけの出番というなら、歌う直前にベストにしておくことです。

 私は他の人のステージを表から裏までみてきたので、歌の怖さを知っています。リハーサルでベストが出たのをみると、本番はかなり神経質になって、天にも祈る気持ちでみています。よいできであったら幸い、リハーサルを超せないどころか、最悪の結果になることも少なくないからです。

 客席が埋まっていないリハでは、聞こえ方も違います。ライブでは問われるものも違います。作品としての完成度よりもステージとしての完成度が問われます。

 確かな技術がある人でも、楽器のプレイヤーのように番狂わせがないことがない分野だと思います。どんなにレッスンでよくても、本番が必ずしもそうなるとはいえないし、逆に前日やリハではどうしようもなかったものが、二度とできないほどのベストの仕上がりになることもあります。一流のプロやベテランよりも感動を与えるデビュー新人の一曲や、ド素人のビギナーズラックもあります。楽器のプレイヤーでは起こりえないことです。

 

○喉の疲れと解放

 

 声を泉のように無限に出してくる、世界のレベルのアーティストに比べると、日本人の喉はまだまだ弱いでしょう。

 現実として、私は日本人の9割の人に対して、喉は消耗品と考えるように言っています。喉には耐久時間や使用の絶対量があり、そのなかで仕事や練習を終わらせることを考えるということです。

 月一回、週一回の出番なら、ピッチャーの登板のように翌日から休めて回復させたらよいです。ステージは発声のよさを問うわけでないので、喉に無理な負担がかかるのもやむをえないともいえます。売れるとハードな日常にもさらされるので、喉の負担ゼロが望ましいでしょう。ここはトレーナーの理想論だけでは通じません。

 とはいえ、声が体で支えられているところまでは習得しておくこと、体調に万全を期すことが条件でしょう。

 毎日、声の仕事をしている人は、喉に疲れを残さぬようにクールダウンしておきたいものです。翌日には元の状態にしておかないと、そのうち無理がきます。大敵は睡眠不足やメンタル面での心配事、おちこみです。気が張っていることで、ステージをもたせている声はハイリスクです。いつもハラハラしてみています。

 

○負担をかけない

 

 発声練習では平気な人にも、ステージ表現することで喉に負担がきます。本来はそうであってはならないのですが、歌唱でさえ、その人の安全な範囲をはみ出すことは少なくありません。

 安全なところ(ベース)なら8時間くらい出せる力を身につけておきたいものです。それに耐えうる発声づくりが、私の考えるヴォイトレのベースです。

 ことばをつけると、少し負担がかかります。

 注意していることは、くれぐれも仕事以外には声を使わない、控えることです。打ち上げなどは細心の注意が必要です。カラオケでも声を壊す人の大半は、歌の大声や高音域がきっかけですが、アルコールや食事、おしゃべりで、数倍悪化させているのです。

 

○最初のレッスン

 

 本番に向けて、自分の声の調子を、どう整えていけばよいのかを知るのは、レッスンの目的の一つです。レッスンを本番リハで使うのか、基礎に使うのかは、いくつかの分類を示しました。

 本番の日は、レッスンをしないのが原則です。このあたりの、本番前のトレーニングやレッスン前のことについては、「共通Q&A」ブログを読んでください。

 

 自己流のトレーニングを禁じて、レッスンだけで、発声の感覚を気づかせ、仕上げていくトレーナーがいます。

 レッスンでトレーニングのやり方を教えたり、トレーニングの実際をチェックするトレーナーもいます。トレーニングのサンプルのようなレッスンをして、そのまま持ち帰らせ、復習させるトレーナーもいます。

 レッスン前の発声については、レッスンの時間にもよります。レッスンが60分以上あるなら、不要かもしれません。

 このあたりの考え方にはトレーナーや生徒においても、かなりの違いがあります。

 

○最初のメニュ

 

 最初のメニュから一人ひとり違います。トレーナーも違います。初回は本人の力のチェックと目的への方向性を探るところからです。

 初回のトレーニング

1.挨拶(およびコミュニケ―ション)

2.情報交換や質疑応答(時間短縮や、人によっては喉の保全のため、シートでの提出を初めています)

3.スケール

ドレミファソファミレド、ドレミレド、ドミソドミソド、ドドドドド、ドドドなど(半音ずつ昇降)

ハミングや母音(ヴォーカリーズ)を中心にスケールで昇降させます。このときに声や体の調子をみたり、チェックします。そのために広めに声域を使うことも多いのです。軽く声の状態、コントロールのチェックをするのです。

 ここでは実力以上の声域をとることも少なくありません。いずれ、マスターすべき域の目安を示し、チェックしたり、試行していることもあります。

チェックとトレーニングの混同をしないことについての注意は、「ヴォイストレーニング基礎講座」などに詳しく述べました。

 

○ある日のレッスン

 

 ある日のレッスンでは、次の3つが中心です。

1.ハミング 低いソ―ド―高いド―ミ(声域、2オクターブ弱)

2.ハミング+母音(またはmn) 低いファ―ド―高いド―レ(同上)

3.母音 低いミ―ド―高いド

 わかりやすくするために全てのメニュを、同じ声域にすることもあれば、声の質を重視して、それが悪くなってから23音上がったら(下りたら)止めることもあります。

 もっとも大切なスケールやヴォーカリーズが、ポップスや役者の発声練習では、準備体操だけで終わっているところがほとんどです。

私は、研修に行くと、これを徹底して、ていねいに扱わせるようにしています。リラックスや伸び伸びとするために、気にかけずに、大きくたくさん声を出すことから始めることもあります。

 

 シンプルなことに徹底してとりくませることが、ヴォイトレの本質ともいってよい基本づくりのメニュです。その前に、体や呼吸を使ったり気力や集中力を高めるために、勢いで行うことが必要なこともありますが。

 

○同質化を目指す

 

1.スケール、声域、  低いミ―ド―高いラ―ド―ミ

2.ハミング=母音   ラ(ナ、マ)

3.子音=共鳴、nmyia)、w(ua)k-gs-zt-dhp-br

 この3つの組み合わせだけで無限にありますから、メニュも無限です。

 発音は声を発するときに生じるものですが、共鳴を感じて行う方がしぜんによくなっていきやすいです。

 最初から喉でなく共鳴で声が出ているというレベルのイタリア人のようなら、日常に話すところでも共鳴感覚で、そのまま移行できるようです。私たちはそういう発声をしぜんに捉えるのに、けっこうな時間がかかるのです。

 

○ヴォイトレの目的

 

 もっとも入りやすいところから入り、今もっともよいものをみつけます。そして、その他のものをそれと同じに揃えていきます。これが、よくある発声練習、ヴォイトレと呼ばれているものの一つです。しかし、私は、そこに他を揃えるまでに、もっともよい声は、もっともましな声にすぎないのですから、もっとつきつめることと考えます。その声をベターからベストにしていくことが、トレーニングの目的です。つまり、

1.ベターをベストにする

2.ベターに、そうでないものを揃える

目的には、この2つが伴うべきなのに、大体はここまでいきません。1がないのです。できていると思って、甘いチェックで通り過ぎてしまうのです。多くは、ピッチのチェックで音色をみていません。

2は1のために必要なのに、22で終わってしまい、1のベターがベストにならないのです。むしろ、ベターがベターでさえないものに劣化して、揃えていく傾向が、多くの人にみられるのです。声量、音色を無視して、声域とバランスだけで揃えようとするからです。

 

○自己評価してみる

 

今のあなたの点数を平均50点として

a.ベスト100点超(理想)

b.ベター60点(現状の上)

c.ワース40点(現状の下)

  1. ワースト20点(劣化)

とすると、

1、bcの現状をbにして、aの理想に高めていくべきなのに

2、dcにすることばかり考えると、今のベターであるbよりよいものが出てもわからず、そのままbに留まってしまう。むしろ、ときによかったはずのbが、よくないcに影響され50点になってしまう。

つまり、成績の低い人をアップさせること(dcおちこぼれ救済)だけを成果とみると、結果として、平均点は上がるが、最高点は下がるのです。本当は、baにすることでcbと引き上げられるのがよいのです。cbをすればbaになると思いがちですが、a100点超なので、そこからは出てこないのです。

 

○平均化の障害

 

 まさに日本の教育のようなことがヴォイトレでも起こっているのです。エリートをつくるよりも、おちこぼれをなくすことで、エリートが出ない。金持ちをなくしても、貧しいい人は豊かになるわけではありません。たくさん使う人がいるために弱者救済ができるというのも人間社会なのです。芸事の世界でもそう言われて久しいですが、ヴォイトレでも同じことです。

 このところは、この傾向が強まるばかりです。養成所はスクールに、体育会はサークルになったからです。誰もが育つ、誰もができるようになる方法などは、高いレベルになりません。

 

○スターが出ない

 

 底上げしただけではスターは出ません。日本人の気質が、レッスンでさえ、同質化、均一化されていきつつあります。それは同時に異質の排斥になってしまうからです。

 ヴォイトレも、その人の条件を大きく変えようとせず、状態だけを調整するローリスクローリターンのトレーニングが一般化してきました。ハイリスクハイリターンの自分勝手な自主トレの抑制としてならよいのですが、自分でやるべきことをやらずにトレーナーと抑制しただけ、調整だけやっていても、平均点以上の進歩は望めません。

 ハイリスクハイリターンから、なるべくハイリスクをとるのもトレーナーの役割です。ただローリターンにするレッスンでは困ったことです。スターが生まれなくなったゆえんです。

 

○問題を顕わにする

 

 私が思うに、問う力をつけるためにレッスンをするのです。答えを求めたり、正解を覚えるのではないのです。私は、知識やことばとしての、わからないことや知りたいことは初回、レッスン前のレクチャーで、お答えしています。やらなくてはわからないことは、ことばになりませんが、それ以外のことは、できるだけお答えしています。

本人の可能性、これは大体わかるのですが、その変化については、本人の努力しだいで大きく変わるので述べられません。本人の取り組みやスタンスが大きく変わることも期待したいからです。

 

○ベストは100/+α点

 

 求める声のベストを100点満点でなく、100点超としています。私の考えるベストとは、100点+αなのです。それに対し、ベターを目指すのが大体のレッスンです。100点から何点足りないかを知り、それを埋めていくようなものです。満点を限度としての減点法です。

 でも、満点になったからといって、それで何かができるわけでないのです。70点でも芸術センスが50点であれば、100点を超えるのです。フィギアスケートの大会と同じで、規定だけでは勝てませんが、規定がだめでは、自由も苦しい戦いになるということです。そこに基礎レッスンの必要性があります。

 

○あいまいから脱する

 

 レッスンでは、声に対しての、あいまいなままの状態からの脱却を目指します。あなたの問題が解決するのでなく、まず具体的に浮き上がってくればよいのです。

 できないことができるようになるといっても、解決法で12回のレッスンで、すぐ直るようなのは、問題でさえありません。すぐに解決しないことが問題です。

ですから、問題が明らかになることをきっかけに、自己変革のためのトレーニングが必要となります。それによって実力がついていけばよいのです。問題そのものは、そういう刺激になれば、必ずしも解決しなくてもいいということもあります。解決できないこともあります。

 

○あえて矛盾させる

 

レッスンで何人かのトレーナーにつけるのは、早くあなたや声のなかの問題を出すためです。矛盾であぶりだすのです。

 違うトレーナーがついて同じ見解、同じ方法、同じようなメニュで解決していけるテーマというのは基礎であって、それは課題にはなります。やっていくとできていき、それであまりまえのことにすぎません。

 そこは地道に平均点をアップをして、優秀に思われるレベルまでやっていけはよいのです。私は、これを「レッスンとトレーニングによる実力の底上げ」=「地力をつける」と言っています。

 大切なのは、その先、トレーナーたちの矛盾が出てくるところをどのように自力で解決していくかです。そこにその人独自の世界観が現れるのです。

 「バランスを崩すことを恐れず、トレーニングでは、レッスンで整えたバランスの崩れを拡大してみること」です。

 

○限界と両極を知る

 

 自分の限界を知ればよいのです。それには、両極を知ればよいのです。極端を知ると中庸がわかります。問題、矛盾を起こすことで気づくことがあります。その姿勢を常にキープすることが大切です。

 トレーナーや私に質問がくるのは、ことばでは説明しますが、解決しなくてよいのです。解決しないからよいのです。それを役立てて作品や表現になればよいのです。そこに理解や解釈は不要です。私の仕事の一つですが、答えないのも答えということが多々あります。答えられないこともあれば、答えない方がよいと判断することもあります。 私は、声(ヴォイトレ)の問いに、ときどき大きな距離を感じることがあります。何を答えても無理ということがみえるとき、あえて、ことばにしてリップサービスするのは、この仕事に忠実でないと思うのです。☆

 

○軸

 

 声での基本デッサンが主軸で、そこからの変化が旋律となるように歌を捉えています。

 芯―響き、芯は、軸となって、そこからの動きはつっぱしらず、しなやかになっていきます。

 そのあたりの声のデッサンまでは、売れているプロよりも、ここに通う人、通った人の方がわかっている、できていると思えることもあるからです。

 

Vol.94

○声がよいということ

 声がよいという自信があると成功します。もちろん、声がよくなくとも、声の使い方がよい人もいます。さらに、声も声の使い方もよくないのに、声の感じがよい人もいます。どれでもよいのです。

A.声のよさ(生まれつきの声、育ちの声)

B.声の使い方のよさ(教育された声)

C.声の感じのよさ(受け手の感じる声)

 多くの人は、声のよさは生まれつきと思っているかもしれません。しかし、それは楽器としてのできにすぎません。さらに、よしあしといっても、体質などと同じく個性です。

A~Cがよくないのに、信頼できる印象を与える人もいるわけです。

 

○これからの研究

 声楽なら声の評価もありますが、この「個声」については、基準は設けられていません。顔や体型やファッションほど研究もなされてこなかったのです。

 大切でないからではありません。

 人間は文字を書くまえから絵を描きました。人相書きなども、そう難しくなかったでしょう。しかし声は、近年、蓄音機の発明からようやくスタート、そして一般の庶民にはレコーダーが普及するまで、聞き返すことも残すこともできなかったのです。つまり、手をつけにくい未開の分野だったのです。

○声の使い方と感じ方

 

 声のよさに個性はあっても、優劣はないとわかりました。それではどこで判断するのでしょう。

声そのものを変えることよりも簡単にできることとして、声の使い方というのがあります。歌なら、発声や歌い方のことです。役者なら、せりふ、言い回しです。アナウンサーなら、アクセント、イントネーション、発音と、それぞれに訓練があります。

 一方で、もっと大切なのは、声の感じ方です。本当に声について決めるのは、発声している側でなく、聞き取る側であるということを、ここでもう一度、確認しておきましょう。

○声に反映されるもの

 

 声を聞くと「何か元気ないな」「悪いことあったのかな」など、わかります。その人に不幸があると、体に出ます。表情、眼、姿勢、体つき、動作、そして声に表われるのです。

 以前は羽振りのよかった人が逮捕されると、TVで別人のように暗い顔をしています。暗い声になっています。報道でそういうのを選んでいるのもありますが、誰でもそうなるものでしょう。

 子どもなどは、すぐわかります。“今泣いたカラスがもう笑った”と、表情の変化のスピードの速さや幅の大きさに驚かされます。かつて、私たちも子どもの頃はそうだったのです。

 あなたはどうでしょうか。笑ったり笑い転げたり、泣いたり泣き腫らしたり、そのときの声は、それに反応していますか。

 

○声の魔力

 

声が出るのは、とても複雑なメカニズムです。声帯は、どんな楽器よりすぐれています。わずか2センチほどで、これだけの自在な音を扱えるものを、人間はつくり出せるでしょうか。

 声でのコミュニケーション術、それは、言葉とともに、人間の獲得した最大の武器であり、芸術です。わずか2歳の子がいくつかの言葉だけで会話します。いえ、赤ちゃんは、言葉もなく、声だけで自分の意志をまわりに伝えています。大変なことなのです。

〇愛される声になる方法

 「○○の声」と言われても、わかりにくいときがあります。そういうケースでは、逆の声を考えましょう。

たとえば、「愛される声」に対して「愛されない声」とは、どんな声でしょうか。

 つまらなそうな声、ぶっきらぼうな声、平坦な声や、事務的な声、官僚的な声、つまり、表情のない声ですね。

 おどおどした声、落ち着きのない声、あわてたような声、このあたりは、ときに魅力的ですが、いつもそうであると、ついていけず疲れそうですね。

 暗い声、こもった声、鼻に抜けた声、つまった声は、あまりよくないでしょう。

 なまめかしい声、ハスキー声、悪女っぽい声、セクシーな声、このあたりは好き好きでしょうか。

 一方、愛される声は、やさしい声、明るい声、元気な声、さわやかな声など、これもいろいろと言えますね。

 声そのもののよしあし以上に、声に心を込めて使うこと、そしてきちんと相手の胸に届けること、キャッチボールのできる声が大切です。

○大切なことを伝える声

「どんな声を使えばよいですか」というのは、すべて相手の立場から考えてみればよいのです。カン高い声、すっとんきょうな声で大切なことを告げる人はいません。そう、大切なときは、大切なことを伝える声を使うのです。

 どんな声ならあなたは嬉しいですか。言葉にもよると思いますが、TV番組ふうにいうなら、花束を渡されて「お願いします!」。そのとき、顔、スタイル、態度、他にもいろんな条件もありますが、それをだめ押しするのが、そのときの声から伝わるものでしょう。

 世の中では、声の勢いで思わず返事して、結婚してしまったということもあるでしょう。タイミングと合った声、それが適切な言葉に伴ったとき、思わぬ効果をあげるのです。

武器は言葉だけではありません。声という魔法の力を手に入れましょう。

〇声のセックスアピール

 人をとりこにする声、それは、その道のプロ、映画の俳優が教えてくれます。あるいは、歴代の歌い手にもみてとれます。

 人を好きになると、人は外見上も変わります。動物では発情のシーズンとして訪れます。人間は、それがいつでも訪れるようにし、恋という言葉に置き換えました。

 まなざし、しぐさ、そぶり、子どもが大人になる一時、声も色っぽくなります。恋できれいになる、恋で魅力的な声になります。色気とセックスアピールは、体に表われます。特に、声には、大きく表われます。目がうるおって、声にも艶が出てきます。性腺刺激ホルモンが活性化すると、声がセクシーになるのです。

〇文化としての声の装い

 

 たとえば、寝起きの声はセクシーです。なぜなら、鼻声になるからです。異性をひきつけるのに、自然が用意した体のメカニズムです。

 「色気を振りまいて」に、目くじらを立てないでください。ファッションや香水にこだわるのも同じことなのです。性愛をストレートに出さずにつつみこんだ、それを文化というのです。

 オシャレしてきれいになるのが、いけないことでしょうか。性的魅力―、それに対して、ネガティブな考えを捨てることです。

○受け入れてみる

 

異性にもてない人ほど、アプローチをこばむといわれます。もちろん慣れもあります。声をかけられて、あなたはどう対応しますか。ちょっとした猥談でも、適当にあしらえるのが魅力ある大人です。何もかも拒んでは、どんな関係も発展していきません。

 心を開き、いろんな経験をもっておくことも大切です。コミュニケーションをとらなくて、自分に合った人が見つけられることはありません。

 近所でも職場でも、身近なところにいる人は、確かに似た育ち、考え方、生き方を選んでいるのですから、あなたと似ています。うまくいくかもしれません。

 でも、本当にふさわしいかどうかは、違うタイプの人を知ってからこそわかるのではないでしょうか。いろんな人に適度にモテているのも、余裕になり、魅力となり、確かな判断力をつけられることになるでしょう。

 逆に考えてみましょう。あなたしか知らず、あなただけを追い求めている人を、あなたは好みますか。あなたが好きなタイプでなければ、ストーカーのように恐く思いませんか。

○知ったあとに

 

どちらにしろ、決め手は、コミュニケーション力です。それは会話がメインです。会話は最初は知識、お互いの共通の話題を言葉で交わし、知り合っていきますね。そこからいろんな体験を共有して、その反応で本当のところを知っていきます。

 話すことや体験することが、一段落したとき、待っているのは、存在感の世界です。そこは言葉も体験もいらず、イメージを思い浮かべたり、表情を思い描いたりして、コミュニケーションします。それを引き出すのが声なのです。

〇出会いを引き寄せる声

 「出会いを引き寄せる声とは」と、聞かれたことがあります。引き寄せる、「ほらほら、ほらーあ」って、それではホラーですが。

相手を惹きつける匂いってありますよね。そう、ウンコと似た成分の香水。動物や子どもは、ウンコの匂いを嗅ぎます。「色っぽい声だね」っていうのは、まさに原始的な本能を刺激する、セックスアピールのある声なのです。

それをいつも出しているなら、ただの動物、しかし、動物は、発情期以外でそんな信号を発しません。

あなたも仕事は仕事、生活は生活、遊びは遊び、それぞれのモードの声でよいのです。

 恋愛モードでは、艶めかしい声をチラッとみせるのです。声チラ。そこで相手はドキッと、そしてメロメロとなります。あなたの声で。桃井かおりさん、大原麗子さん、竹下景子さん、声に色気がありましたね。

○イタリア人の人生観

 イタリア人は、人生の価値を愛すること、歌うこと、食べること、この三つに見い出しています。愛することは、声ですねえ。歌うこと、これも声です。食べること、これも喉を通ります。もちろん、これはおいしいものを味わうことですから、少し違いますが。人はパンのみにて生きるにあらず、芸術好きなイタリア人は、グルメであり、オペラ、そしてアモーレを楽しむのです。

○日本人の文化

 

 翻って日本人はどうでしょう。あなたはどうでしょう。

 見合い結婚で“沈黙は金”、“質素、契約を旨とする”を、かつての日本人は美徳としていました。そして、バブル期に“ぜいたくは敵”から、“ぜいたくは素敵”になった。

 恋愛での結婚形態は、人類史上、特殊なことで、ようやく最近、ポピュラーになってきたばかりです。西欧でもかつては許されなかった。今も、多くの国では、まだ許されているものではありません。

 その自由の獲得がものごとを大変にしているところもあるのです。

 しかし、日本人も恋愛するようになりました。アモーレ、愛し合ったら結ばれやすくもなる。カンターレ、そして、誰もかも、カラオケで歌っています。

 マンジャーレ、グルメ、これはもう、イタリアを超えたでしょう。

 こうして、口や口の中や喉が豊かになっていくのは、私も嬉しいです。あとは、あなたから発せられる声がよくなれば……。

〇世界で一番よい声を目指して

 日本人は、それなりに偉大で、自分たちのもっとも弱いところを努力で解決してきた国民だと思います。

声が出なくて歌がへたなのを、カラオケなんかつくってしまった。声も歌もだめなのに、じょうずに聞こえる魔法のキカイ。こんなもの日本人以外は、考えつきません。しかも大きなビジネスにしてしまった。音響技術も、ピカイチでしょう。

ですから、私もいつか、日本人の声も世界一にすることができるような夢を、ずっとみているのです。世界に名の知られる歌手は、まだ、いないけど、そのうちどんどんと出てくるようにと。

「答えの限界」 No.353

私は、この研究所で数多くの「問い」をトレーナーやクライアントに、そして、この世の中にも求めてきました。

研究所のQ&Aブログには1万件にもなろうとする問いと回答が掲載されています。

回答といっても、読む人には必ずしもその人に合った個別のものにならないので、「例」、「サンプル」として、オープンにしているつもりです。一例だけを正答としては、その人に当てはまらないことが多いので、何人もの、いくつもの答えを挙げています。

未だうまく解答できないものもたくさんあります。シンプルに答えているものほど、多くの問いをそこに含んでいると思われます。それが、一般的な答え、「例」「サンプル」の限界なのです。

それをふまえてうまく活用しお役立てください。

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