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「ダンスに学ぶヴォイトレ」☆ 

○南流石さんに学ぶ

 

 心して聞いて欲しいことがあります。振付師、南流石さんのことばです。習い事の4つのステップです。

「他の振付師とか、踊りの先生は『君が楽しまなかったらお客さん楽しめないよ』って必ず教えちゃうんですよ」私は真逆なんですよ。『お前ら楽しむな。私のこの歌、踊り一生懸命やって、あなたに笑顔になってほしいのって気持ちを伝えることを優先して欲しい』って言いますね。『私の踊りみて楽しんでください』は100万年早い」

「ダンス側からだと『面白いでしょ』というつくり方になる。みている人側からみて踊りだしたくなるかどうか、というのを重視している」

「ネタ切れちゃう。自分の踊りがないから知っていることをやっていると途中で何をやったらよいかわからなくなる。これできない限り、ダンサーとは呼ばない。バックダンサーとしか呼ばない。自分の踊りがないのはだめ、今の踊りは誰でもできそうだよね。こんなの誰にもふじこのすごさわからないよ。振付けがあればできるだけだからね。それは代わり一杯いるぜ。消えてった人何人も知ってるから。そうならないためにはどうしたらよいか」

「楽曲聞いたらすぐ目的を同時に考えて、何のために踊るか、誰のために踊るか、それを一瞬でインプットして、あとは音が導いてくれるままにもっていけばいい。踊りづくりに情熱と衝動が大事なので」

 

○他人のことばを使うということ

 

 他人のことばを使うというのは、どういうことかというと、私は、最初は自分のことばだけで述べていたのですが、どうしても、原因や理由づけには若い自分の体験だけでは説明できずに、権威筋の理論や論文、科学的データなどを使うことになったわけです。まともな人からみたら、それが当たり前なのですが、未知な分野においては、そういうものを使うほどに、そういうものは、後で新発見とやらで古くなって、引用した私の分が悪くなるということで、あまり使わなくなったのです。まあ、権威筋が出していた本に「裏声は仮声帯で出す」、などと述べられていた時代です。私はそこは引用しなかったのですが。

 本は誤植や校正ミスがあってもすぐに直せないので厄介です。図やイラストもなかなかうまく伝わるように描けないのですが、少しずつ改良されています。これは先人のおかげですが、私もじきに、先人の仲間入りをしそうです。

 未知の上に個々の体をメインとし、音で展開するヴォイトレの分野を文字で述べるのは、無理な試みです。

 ですが、私は、多くの人と関わって、交わす対話のなかにヒントがあるなら、それを役立てて欲しいとリライトして、編集して、残していったのです。

 自分のことばだけで述べると、同じことのくり返しになります。アナロジーとして、ものの例えで説明せざるをえません。

 そこでは、他のアートやスポーツを例に引く方がわかりやすいので、アスリートやアーティストのことばも引用します。データとしてはよくなくとも、メンタル面においては、一流の人のことばが有効です。有効であるならはよい―ということで、私は広く「アーティストのことば」を伝えようとしてきました。今、流行の蔵言集みたいなものです。

 

○人のことばの使い方

 

 引用するのですから、自分の論に絡めなくてはいけないのですが、鋭い人には、面倒な解説なしに「○○が○○と言っていたよ」だけで済んでしまうのです。これがアナロジーのよさです。どんなことばも価値は受け止める人によるのです。

 とはいえ、同じことでもくり返し述べていると、わかっていく人がいるから、似たことをくり返しているのです。言っていることは同じです。「本質を見抜き、自らに役立てる」ということです。「自らに役立てるように使う」「使えるようになれるように学んでいく」のです。

 残念なことに、まじめで勉強熱心な人ほど、「どれが役立つ」とか、「正しい」とか「間違っている」というクイズやゲームのようにしてしまいがちです。他人をはかっているようでいて、実のところ、自らを貶めているのです。☆それでは成長しませんから、宝くじに当たるよりも不利な勝負になります。周りが成長していくなかでは相対的に劣化していくからです。

 当たりくじをみつけるのでなく、自分のくじを当たりくじにしていくことです。それが主体的に生きて学んでいくということです。教科書の中には、他の人の過去のことは書かれていますが、あなたの未来は描かれていないといのです。

 

○蔵言のブーム

 

 蔵言とは、「よいことばに学び、悪いことばに学ばない」ようになるための、「どんなことばからもよくなる方に学ぶ」ための試金石と思っています。

 人との付き合いにも似ています。相手の悪いところに目のいく人は、よいところに目のいく人よりも、その人とうまくいかないでしょう。悪いところさえ、よいと思える人はうまくやっていけます。

 自分の好き嫌いとは別に、そのようにふるまえることが大人になるということです。レッスンも本もよいとか、悪い、正しい理論とか、間違った理論と考えること自体がおかしいのです。

 たくさんのことが広く学べるものと、一つ、深いことに気づかせてくれるものと、どちらがよいとはいえません。

 その逆ばかり考えている人がたまにいます。もっとも損な人です。ことばのかけようをなくしてしまう人です。

 具体的な事例に基づく批判は大切ですが、よりよい方向に行くために、という前提があってこそです。現実を潰すだけの反対論や否定は何にもなりません。いろんな制限のなかで明確な答えがわからなくても代替案や試行錯誤してつかんでいくものです。

 ヴォイトレでは、一人の人間がいて、初めて論じられるものです。ですから、一般論とか多数決、多対多での論争などは不毛なのです。現実の可能性を潰したい無駄な努力ができるだけの暇な人が関わるものとしかいえません。

 

2つの位置づけ

 

 「絶対的に正しい人」も「絶対的に間違った人」もいません。「絶対的に正しいやり方」も「絶対的に間違ったやり方」もありません。

 私がヴォイトレを論じるのは、多面的な考え方をして欲しいからです。方法や技術などでなく、ましてや、理論や知識でなく、表現と音声ということに対し、学びの本質を知って欲しいからです。

 私の考えや思想を押しつけるつもりはありません。「もし自分がうまくいっていないと思ったなら、それを抜け出すヒントや問いがあるかもしれない」くらいで捉えてください。これがきっかけで人とうまく接することができるようになれば、半ば成功です。残りの半分は、毎日の努力の積み重ねです。その2つ、それは、まさに表現と声に対してとるべきスタンスと同じです。

 人に働きかけるように外に出る、内なる自分のオリジナルな声をみつめることです。歌や芝居のためだけではありません。アートは、その象徴にすぎません。リアルとしてある社会での仕事、生活に通じるスタンスです。この2つの位置づけを学びましょう。

 

○楽しめるか

 

 ダンスに距離をあけられてしまった日本の歌、そしてヴォイトレを述べます。

 トレーナーが、最初に「歌やステージを楽しめ」と教えるのは、日本では、あまりに当たり前となってしまったことです。それと、真逆の私は、けっこうな批判も浴びてきました。「海外のトレーナーは、自分で楽しめと言うよ」というのも何回も聞いてきました。私は、声が出ないことや歌えないことに苦しんだタチですから、それを「楽しんで克服しろ」とは言えません。

 何にしろ、プロフェッショナルとして考えるかどうかの問題です。自分で満足した歌は2曲、いつの日か、それを越えられたらと思って、今も努力しております。

 活動を楽しむのは、+αが落ちてきたら、あるいは、本当に暇で何もやることがなくなったり、老化したときのリハビリが必要になったらでしょうか。でもまわりにすぐれた歌い手がいてくれるので必要とされません。トレーナーとしても、まわりにすぐれたトレーナーを集めたし…。

 外国人は、あまりに楽しめていない日本人をみてしまうから、そう言うのでしょう。外国人のヴォーカルならハイレベルに「百年早い」を克服した人も少なくないでしょう。そこまで日本人はいかない。そういうのはオンビジネス、いやそこまでも行かない、社交辞令ということに気づくべきです。

 

○楽しむ前に

 

 私の体験でも、プロとして、自立して一本立していく人は、楽しいとか楽しくないとか、そんなことではありません。聞く人やみる人が「楽しめるかどうかが全て」というのは、当たり前のことです。

 アスリートが、昔の特攻隊のように、オリンピックへ日本代表としての覚悟をもって臨み、本番で固くなって実力を発揮できなかった、かつての日本人選手の反動として「楽しんできます」とか言えるようになった。そのために勘違いが加速されたと思います。スポーツとアート、そのなかでもミュージックとは違いもありますが。

 でも、「百年分」の努力があって、ようやく人前で楽しむことに入れるのは、ダンスや音楽でも同じです。アマチュア精神的なものをよしとしても、目的が違うだけです。

 ハイレベルな人のことばを、そのまま自分にあてはめてはなりません。

 プレイヤーやダンサーは絶対量が必要です。ヴォーカリスト、役者は量とはいえないところがあります。楽しんでそのままプロになれた人から、そういうことばが出るから、自分もそうだと思うと厄介ですね。

 

○楽しめないステージとは

 

 私はいろんなステージで、本人や本人たち(出演者)だけが楽しんでいるステージをたくさんみてきました。いや、トレーナーという立場上、プロセス上の人をたくさんみているのですから、半分以上は、そういうステージであり、そのうちのいくつかは本人も楽しめないものでした。

 ステージの見方ということです。この「楽しめない」にはいろんなパターンがあります。

 全力を出しきったけど本人が満足できない(客は大満足)というのが、プロのあるべき姿です。客の求めるレベルを超えるからこそ、次にステージがさらに高みに昇っていく可能性があるのです。

歌は、ステージと本人のよさとの間にいろんなギャップがあります。私からみると、どうしてもステージ力ばかりに評価が行っています。まして、声は、一要素で、省みられることも少ないのです。

 アマチュアでも本人の実力以上のものが出ることがあります。1コーラスまでで驚かされることは、しばしばあります。2曲くらいならプロを上回ることもあります。これは私の期待する「ブラボー」の対象レベルに達するのです。

 プロはコンスタンスに、すべてにおいて見せていかなくてはいけないため、日本では実力不足で、リスクを避けるため、無難に納めることが多く、つまらなくなりがちです。ステージでなく歌や声ということでいうと、です。でも、エンターテインメントとしては歌でなくステージの勝負なのですから、私が偏ってみているといえます。そのみえないところの声や歌の基礎の地力が、本当は、大きな差となってついているのですが。

 

○日本人の許容度

 

 表現は、伝わることが第一に大切ですが、本人の肉体とその使い方に負うダンスも、今や複合アート化した歌(というより音楽のステージ)とは、かなりのズレが生じています。日本のダンスのレベルはアップしました。Jリーグ並みで、世界に通じるトップダンサーが出て、クラシックバレエでさえ、一流の人材を出しています。

 私はこれをスポーツと同じく、目で分析できることでの日本人の可能性の高さとして論じてきました。欧米型の体型でないと不可能とも思われていたクラシックバレエでさえ、日本人は成し遂げたのです。個人の力が問われ、評価基準がはっきりしているゆえに実力の育成される体制がとれるのです。

 歌い手は、声の魅力がストレートに問われる海外と、タレント性でもカバーできる日本では、比較になりません。ミュージカルで比べると、とてもわかりやすいでしょう。今の日本では女性アイドルやタレントで主役ができてしまうのです。実力派の歌手では務まらない―そこが問題です。歌への日本の観客の許容度は大きく、そこで求められるレベルが甘いからです。

 

○働きかける

 

 私は、オーディションを、ときに客席のさらに前や、ずっと後ろからみています。私は、私の見方だけに踊らされないようにとても気をつけてきました。トレーナーやお客さんの反応も受けとめて学んでいったのです。私の尊敬するアーティスト(複数)ならどう聞くかという観点も必ず入れています。

 聞いていて、自分の体が揺れていくか、心が弾んでいくか。つまり、動きたくなるか、踊りたくなるか―というのが、いくつかの判断の基準です。そこは、ダンスをみるのと同じです。

 どんなに声がよくても歌がうまくても、働きかけのないとプロではありません。そこからみると、声のよさや歌のうまさは副次的な産物です。声量、声域などと同じで、プロになる条件にはなりません。

 状況においては、きれいな声、うまい歌というのは、伝わって人々を深く感動させます。しかし、それは悲惨な状況で慰めのことばが心に響くようなもの、そのときその場の状況下だけで成立するものとして、別に考えています。ある状況下での評価と、生きている歌は、私は異なると思っています。

 

○イベントとライブ

 

 私は「イベント」と「ライブ」ということばを意図的に使い分けています。「イベント」というのは、限られた時間で行われるものです。たとえば、何年かぶりに懐かしんで聞く歌は、人の心を打ちます。でも、毎日となるとどうでしょう。

 私は、その日に聞いたら「すぐに、知り合いや友達に伝えたいか、連れていきたくなるか」というのを基準にしています。

 12曲聴いたら、次に6曲もつか、そしてステージのエンディングまでもつかを予測します。職業柄お許しください。常に、即時に評価しなくてはいけない立場にいるからです。他の人のすぐれた歌唱の後に歌っても、異彩を放つかをみています。

 勉強法として、「同じ曲で異なる歌手の10曲をCDに入れ、11曲目に自分のを入れて聞いてみなさい」と言っています。そのようなレッスンもしています。

 基準は、比較において、もっとも明らかになります。すぐれたアーティストの作品と比較するのは、一番よい勉強です。もちろん、比較されるくらいのものは、それだけのものでしかないのですが。すぐれたアーティストは比較されません。

 人は好き嫌いでみますが、誰かの心にNo.1であればよいわけです。私情を抜きにしてです。「知り合いだから」とかはダメです。

 

○本当に心地よいもの

 

 基準は、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」(音楽之友社)に述べました。

 私は、同じ曲を80人、80回、一日で聞くようなことを10年以上やってきました。歌った本人たちよりも私の耳がもっとも厳しくつくられました。

そこから、曲のよさ、詞のよさなど抜かしていく作業、その人への個人的な感情も(そのくらいの人数になると誰が歌っているのかもどうでもよくなる)努力や全力が伝わるというのも影響させない作業を通じて、ピュアに聞くことができるようになりました。心身も耳も疲れてくるから、やる気や勢いだけを通じているようなものでは拒絶反応が起きるのです。

 そこで聞きたいと思うのは、心身によいものです。ほとんどの歌が、失礼ながら、続けて聞くのに努力を要します。その努力ができなくなると聞こえなくなります。心地のよいもの、自分の免疫力を高めるものだけが残ります。クリアに聞こえ、それは清涼剤のように離しがたくなる、必要とされる。(といっても80分の1)こういうレベルでみれば、歌は、いわゆる音楽性のあるものがNo.1となります。☆役者などの歌は、全力で、あるいは雰囲気、その人となりが伝わっても、二流となるのです。

 

○「ネタ切れ」☆

 

 「基準をもって学ぶ。そのために、その基準を高めていくことが学べることの前提」になるのです。自分がよしと思えば、レッスンをやめてよいのです。

基準アップよりも、そのレベルでの活動を保持するという考え方、方向でいらっしゃる人も増えたと思うのです。

 客の反応に、よくとも悪くとも戸惑い、バンドやまわりの人の意見に悩む人こそレッスンにいらっしゃるとよいのです。

 きっと私は、誰よりも明確な判断の基準を1秒単位で示せると思うのです。それを厳しく受け止められるのなら、ブロードウエイのオーディションなどを受けるときのレベルといえます。しかし、私のレッスンは、自分がよしと思えない基準を与えることだから厳しいのです。

 「ネタ切れする」「自分の歌がない」、これが日本人の最大の問題です。一つのネタもないまま、他人のを真似ている。つまり、うまい歌手、声のよい歌手というのは、ダンスでいうとバックダンサー、つまりコーラスみたいなものです。

 それを目指すのがあなたの本意なのでしょうか。それに比べて、「声が変」とか、「歌もどうも」と言われていても、20年、30年以上やり続けているプロの歌手もいますね。日本では、それも作詞・作曲の力といえばそれまでですが、「その人自身の声、歌がある」と思いませんか。

 

DJヴォーカル

 

 ヴォイストレーナーで、基本をきちんと勉強し、声楽科を出たような人は、発声や歌唱を、正確さ、安定度を重視して歌い手をみるものです。そのことは問題です。歌い手としてなら、その活動でみることです。

 ヴォイトレで「育てなくてはいけない」と思うと、そういう正しさといえる基準にもっていきたくなります。教材をマスターしたというのは、わかりやすい努力目標になるからです。それが「安定のためのローリスクな発声」の方向になっていくのは理解しています。

 何もないよりは、こういう技術は確かだからです。と言っても大きな面からみると同じことで、最後に「情熱や衝動」というのがくるのか、勝負はそういうところです。

 ミリオンセラーのあるヴォーカリストが、世界との差を知り、力のなさを知り転向してしまったのを、私はその時期、接して案じていたのですが、それはネタ切れでした。ステージで次々と即興のフレーズが生み出せない点でした。最初は声の問題でしたが、私はトレーナーとして否定しました。今の世の中、声そのものは何とでもなるからです。メインのヴォーカルがDJ、それでよいかどうかは、考え方次第です。でも、日本ではDJの方がはるかに即興性はあります。

 一流のレベルからは不要だが、一流のないところでは、そこが基準になってしまうのです。芸や才能でみずに、やる気と体力と忠誠心でみているのは、サラリーマン社会のようです。

 

○プロとしての力

 

 自分のネタは自分の歌というと、日本の場合、自分の作詞作曲したものが、ネタとみられてしまいます。シンガーソングライター全盛となったため、歌唱だけで勝負できる歌手は少なくなりつつあります。プロを、その収入で生活している、と捉えるなら、歌唱より作詞作曲の印税がものをいうからです。歌手は、「自分のつくった歌を歌う人」となっていったのです。としたら、歌唱そのものの力が落ちたのは仕方ないということでしょうか。

 確かにプロとしての歌手の力というのはエンターテイメントの世界ですから、その名とヒット曲が世に知らしめられているかどうかです。その名や曲でどれだけ売れるか、人を呼べるかです。

 ただ、昔の杵柄で、ずっとやってきた人が多くなりました。この時代、日本では、団塊の世代でポピュラー音楽のピークに一致したまま、ずっと引っ張ってきた経緯があるので、ややこしいのです。

 一度ウケた歌を繰り返し同じように歌っている歌い手ばかり、若いときと全く同じに歌えと求める客ばかり、となると、何とも保守的なところだと思うです。

 

○オリジナリティ~憂歌団

 

 「自分の歌」とは、私は「本人だけの声とフレーズ」をもってオリジナリティとします。自分のつくった歌がヒットしたのでなく、他人と同じ曲を歌っても、その歌手独自のものになるということでのオリジナリティのことです。

 私はが、古いものは必ずしも好きでないのに、今もってなお、美空ひばりを最も評価せざるをえないのは、その点において、他に類をみないからです。今の日本のベテラン歌手といわれる人でも、彼女の歌を歌うと彼女の歌い方が出てしまいます。それを自分に置き替えなくてはだめなのです。逆に、ひばりは、どんな歌も自分のものにして歌っているのです。

 日本の歌手はプロでも、他人の歌を歌うと自分自身のオリジナリティを失い、他人の物まねになりがちでがっかりします。これでは、アマチュアのうまい人と同じ、物まね芸人レベルなのです。

 そこは、カバーでも一味も二味も違う、憂歌団の木村さんを見習ってください。

 海外で学ぶ日本のトップレベルのヴォーカリストでも、海外のレベルのヴォーカルに追いつけと真似ているだけで終わっているばかりです。日本では外国人に似た“オリジナル”そっくりの歌い方ができれば評価されるという、いつもの「二重性の問題」は、未だに根深いのです。

 

○入れ込み気づく

 

 私は、月16曲紹介し、そこに本人の選んだ4曲を加えて、年に240曲を、覚えられなくても、聞くように勧めています。できたら月に20曲から気に入った曲を48曲マスターしていくようにさせています。これでもかなり甘いものですが。

 ネタを入れ込んで、シェークし、発行させていく、自分の強みをさらに強化し弱みを補充するには、これしかありません。基準も材料も、ここから変わっていくのです。できるだけ一流のものを入れておくことです。

 私は、なぜアマチュアの人が、多くのプロも知らないし、使っていないような発声の理論やヴォイトレの方法に振り回されるのかわかりません。

 プロは心身()をつくってきたのと同時に、一流の声や歌を聴き続けてきた。そちらが中心です。

 次に、同じように聴いても、入る人と入らない人、出てくる人と出てこない人がいます。その自分に気づいて変えていくことです。気づく人も、気づかない人もいます。こうして、気づくヒントを与えているのです。それがレッスンを支えるものです。

 

○遅れている

 

 声とヴォイトレの分野は、取り組みも方法も人材も、そして、その結果を世界的レベルでみると、全てに遅れをとっています。客についても、文句を言えることではありませんが、優しすぎます。意志をステージに伝える人はいません。辛口な批評家はいるでしょうか。私は、ヴォイトレを役立てようとする人に、ヴォイトレの可能性からのストレートなアドバイスをすることに専念しています。そのために、例として、とりあげている人や作品を批判せざるをえないときもあります。作品を離れた批判はしていないつもりですが。

 未熟な分野は、そうでない分野から学ぶ方がよいと思います。私もいろんな未知の分野からの要望で、次々と新しい仕事をやらされました。いろんな先達を参考にしました。人間が行うことですから、全てに共通して通じるものがあります。それをヴォイトレに関わる人は、先入観で狭めないでほしいと思うのです。トレーナーは主役ではありません。補助のサポーターであり、それぞれの人に未知の可能性があるのです。

 

○多様性を認める☆

 

 最近も日本の有名どころのトレーナーをまわってきた人が、ここにしばらく落ち着くことになりました。トレーナーもうまくいかないこと、認めたり、悩んだり、迷うことを素直に認めたらよいのにと思います。私の立場からは、ストレートには言えないことをですが。

 私は、早くから、他のトレーナーとやってきたので、自分の短所、弱点を認めています。自分の長所や得意なことでさえ、世界や日本でも、もっとできる人がいることを知ることができました。今ももっと知ろうと努めています。

 この分野が未熟なのは、「お山の大将」が多いからです。

 声というのは多彩なものです。「正しい声」、「間違った声」は、単独には、ありません。目的やケースによって違います。

 声楽をベースとしても、世界にはそれ以外にすぐれた音声の表現がたくさんあります。日本でもたくさんあります。医学的な判断も表現となると別です。私は、能や邦楽など、異なる観点から、声についても学ばされ、声の判断の多様性に気づくことがよくありました。

 

○万能になりえない

 

 「万人にとっての万能なトレーナーはいない」

 私の専門外のことは、専門と思う人にまわします。声については、専門家はあまりにも少なく、しかも、何をもっての専門で、どうみて、そう対処するかは、わかりにくいものです。適任の人を選ぶだけでも多くの課題があるのです。

 音声に強い先生でも、かなり見解が違います。まして、ヴォイストレーナーはとなると。

何でもできると豪語する村医者のような人もいます。が、次の点からみましょう。これは研究所のトレーナーに対してきたアドバイスですが。

1.とても伸びている。→でも、別のトレーナー、別のメニュ、方法なら、もっと伸びた可能性はないか。(トレーナー、別のメニュ、方法など)このケースでも「早く伸びる」と「大きく伸びる」では異なります。

2.あまり伸びていない。→でも、別のトレーナー、別のメニュ、方法ならもっと伸びなかったのではないか。

これは、伸びる人はどのトレーナーでも(ここの研究所以外のトレーナーを含められることもあります)、あるいは一人でやっても伸びるケースが多いです。その逆では、誰についても声が伸びないことがあるということです。

 

○誤解のプロセス

 

 トレーナーも他の専門家(医師など)も、実績を積むにつれて次のような傾向が出てきます。

1.最初、自分なりのやり方を試行錯誤しながら、自らの経験をもとに方法や論を確立していく。(仮説)

2.他人にそのやり方を試してみる。(試行)

3.効果が現れる。(実証)

4.そのやり方に自信をもつ。(確信)

5.効果の出る人や、効果の方しかみないようになる。

このとき効果の出ない人や効果のないことをスルーしてしまうのです。無意識か、気づかないこともあります。そういう相手の多くは途中でいなくなるからです。

以前なら、自分の教えた通りにできない人や、うまくいかない人を非難したような先生やトレーナーも少なくなかったと思います(とはいえ、どちらの問題かは、わからないところがヴォイトレの問題です)。医学は、救命や痛みを抑えることを目的につくられているのです。そこから判断できます。

 そういう対処的な現場の判断と、これからの育成というトレーニングで必要とされる判断は、別です。現場(仕事場)の表現に結びつくことを求めながらも、そことは異なる判断を必要とされます。つまり、将来か今かでいうと、トレーニングは将来のためであり、レッスンには両面があります。しかし、多くは将来でなく、今だけの効果を求められてしまうのです。

 

○離反する

 

 音が導くように―まさに、プロのダンサーはそこで勝負しようとしているから、日本人でも追いつけ追い越せで、マイケル・ジャクソンのバックダンサーのレベルにまで到達しました。

 歌はまだまだです。お笑いやダンスほどにも自分自身でつくるということさえ考えていないからです。音声の世界では、アレンジャーやプロデューサーが振付師と言ってよいのでしょうか。声の振り付けをして、結果として歌になるようなことは、ヴォイストレーナーの領域と思うのです。

 合唱団のトレーナーは、指揮者として、表現とヴォイトレを一本に結びつけ、表現で求められる成果をレッスンして出していきます。ポップスでは、求められる表現を、合唱コンクールのように決められません。本人から出てきた表現から入るしかないから、「材料を与えて待つこと」ことです。それにはかなりの時間がかかるはずです。声量、声域、ピッチ、リズムをよくしたいという目的のレッスンでは、表現の深い世界へ結びつくよりは、それと離反していきかねません。発声のレッスンも単独で成り立つのか、と私は疑問を感じます。

 

○鈍らない

 

感動を結果とする世界を妨げるのは、退屈に麻痺していく感覚です。ですから、私はレッスンは30分で1コマで充分としています。本当のところ、初心者には10分でもよいとも思います。正味15分のレッスンもあります。60分あるなら2人のトレーナーをお勧めしています。

 リラックスしてゆっくりと進めるところから入るのはよいことですが、それでダンサーのレッスンに勝てますか。

 他のヴォイトレの見学にはよく行きますが、リハビリ教室のようなことが多いです。そういうことがプロの世界へつながっていると考えているのなら、感覚のレベルで鈍っています。

 レッスンは、鋭くなるように使っていくことです。レッスンをトレーナーに左右されるくらいでは、世の中で何ができるというのでしょう。声を一流に育てていく情熱やインパクトをもって取り組まなければ変わりようがないと思うのです。いつもダンサーのレッスンの上をいっているか問うてください。

 

○表現=基礎

 

 「表現というものは、ジャンルを超える」、その最たるものが神懸かり的なもの、ファインプレー、あるいは、「ゾーンの状態」です。一方で、「基礎というのは、ジャンルを超える」のです。心身の力を欠いたアスリートもアーティストも、一流の仕事人もいません。フィジカルは、体力と柔軟、誰でも続けたら鍛えられていきます。それが限界を感じたら、その分、心、精神、魂といったメンタルの力で支えます。

 私のヴォイトレは、表現と基礎の2極に近いところで行うのを理想としています。多くのヴォイトレは、この真ん中くらいの中ぶらりんなところでやっているように思います。表現でも基礎でもないところです。

 表現だけど基礎がないとか、基礎だけで表現がないケースもあります。本人がそれを知り、他で補っていればよいのですが、どうでしょう。このあたりはスポーツの練習を総合から部分、本番から体力づくりで分けたことに通じます。

 

○アスリート並み

 

 技術は、表現と基礎を結ぶものです。心身の基礎というのなら、一流のアスリートなら充分にもっています。本番に強く、日常での心身の管理ができていなければ、スポーツで結果を出せません。歌手や役者はアーティストといっても、画家や作家よりはアスリートに近いものを求められます。肉体芸術です。

 歌やせりふの技術というのはありますが、いつも基礎の話をするのは、ことば(日本語)と同じく、声は日常化しているからです。その点、やや非日常に分けられた声優やアナウンサーの技術の方がカリキュラムはたてやすいのです。

 今の日本は、歌であれば、アスリートやお笑い芸人なら、かなりのところまでこなせます。ダンスほど歌手は、オリジナリティのレベルまでいっていない。ゆえに、世界に出る人材もないし、TVでも物まね芸人にワクを取られてしまうのです。

 つまり、古典芸能のように特殊化して、保守化しつつあるのです。ともかくも、アスリート並みの心身をもつこと。これが基礎としては大切です。

 

○高音の技術

 

 心身の鍛えられたアスリートが歌っても、追いつけないところが、歌い手の歌い手たる技術となります。そこでわかりやすいのは、声の高さです。そこでヴォイトレの、半分くらいの目的が集中してしまうのです。誰かの歌をカバーしたいとなると、今のプロは高音やファルセットを多用するので、そのマスターが前提のように思われてしまうのです。

 私は、声域は、副次的な効果であり、人によっても違うのですから、メインの目的にはしたくはありません。

 求める人の目的には対応するので、もともと高い声の出たポップスのトレーナーよりは、少しずつ獲得していった、完成度の高い声楽のトレーナーに任せています。

 日本のミュージカルや合唱、ハモネプなどは、ハイトーン、ファルセット、共鳴、ハモリ、ビブラートを前提条件のようにしています。そこで、まさに音大のベースに一致するのです。声楽家でそういう条件に恵まれた人は、目的もキャリアも、問われるものが違うのですが、トレーナーとして教えると、大いに参考になるはずです。

 

○レベルを上げる

 

 私がサッカーを私のまわりの仲間と楽しむなら、シュートだけを練習したら十分です。でも、サッカー部の人と試合をするには、ボールを受けパスを出したり、ドリブルする練習が必要です。

「こういうのも何時間かやってみる」、というのが、今、行われているヴォイトレ、基礎と本番(試合)の真ん中にあるものです。もし本気で勝ちたいなら、彼らに走り負けしない体力、走力、筋力をつくります。試合は5分で終わりませんから、走り負けたら、シュートのチャンスどころかボールに触れるチャンスもありません。まして、Jリーガー相手と考えたらどうなるでしょう。

K1のファイターがパフォーマーに転向しました。彼にあったのはプロとしての心身だけでなく、ステージでの発想です。ファイターだったときも闘うだけでなく、パフォーマンスで人に伝えることをリングの内外で実行していたからです。

 

○高める

 

 プロへのレッスンでは、ヴォイトレや発声、技術の習得が前提ではありません。自分のもっているもの、もっていないものを知ることです。足らないものがあれば、それを身につけるかどうか決めること。努力をして身につくかどうかもチェックしていきます。フィードバックしながら、少しずつ高いレベルで自分のもっているもの、もっていないものを吟味していくのです。

 プロセスでどんどんうまくいくなどというのは、もっとも肝心のレベルアップをしていっていないことが多いのです。

 同じ6階級くらいの相手とのファイトだけをずっと続けて、「強くなった」と言っているのと似ています。ステージのクラスが低レベル(まわりはやっていないか趣味程度)で、通用したことで、自分は「もっている」と思っていたものでは、大して実践に役立たないのです。

 トレーナーはレッスンで、レベルを上げることをきちんと伝えなくてはいけないのです。トレーナーともども4回戦ボーイで、何回やっても何年やっても最初に少しうまくなっただけ、そこで進歩が止まってしまうレッスンではレッスンとはいいません。

 

○待つ

 

 「本当にやらなくてはいけないことをやる」「本当はやっても何にもならないことやらない」この2つを見分けるために、トレーナーのレッスンは意味があるのです。

 トレーナーには、それぞれに専門があります。その専門のところを使えたらよいのです。一人のトレーナーから、何でも与えられると思い違いしないことです。謙虚に学びあっていくことです。

 やるべきことはそんなに多くないのです。とてもシンプルに、表現と基礎、表現と自分を結びつける一本の線をみつけることです。いろんなものは捨て、あるいは、才能のある人に任せ、自らの武器として、自らのもっているものを鍛えていくことです。それを知るべきです。

 その一つが声というなら、そこに一時、専念します。いろんな歌い方や発声を覚えるのはサブの目的として、たった一つの絶対的な声を、声域も声量も気にせず、手に入れ、育てるのです。それが音楽となり、自らを歌い出すことを待つことです。

 

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