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2021年2月

「相手を知り、我を知る」

○相手を知り、我を知る

 

 私は、ずっと同じことを述べてきました。手を変え品を変え、今も同じことを述べています。時代や相手が変わったとはいえ、このロスをなくしたいために収録して、いつでも読めるようにしています。

 真実を知るのでなく、真実をみる眼を養うために古典、歴史から学びましょう。ずっと続けていると、この分野では、私のも古典になりつつあるのでしょうか。前に出した本を改め続けていくと、初めて出された本より、歴史的に磨かれているでしょう。

 いろんな人に振り回されているうちに、本質を見抜く眼が育つならよいのですが、私の経験では、それには、量や時間が必要です。さらにそれだけでは無理です。

量から入って質を得ていく人もいます。たとえば、子供のころの遊びや学習などでは、量でよいのです。しかし、大人になると、その量がとれないから、効率を考えます。ところが多くの場合、そこで理論や知識に振り回されてしまうのです。1回で100のことに気づく人も、100回で1つのことに気づく人もいます。後者は、100回くり返していくうちに10回で1つ気づけるようになります。しかし、100回で1も気づかない人もいます。そういう人が学ぶには、どこかで学び方を知っていく必要があります。そのために学ぶのです。

敵(目的、対象)を知り、我を知ることです。

 

○原則ルール

 

 声に取り組んでいる人に、共通して言えることがいくつかあります。全ての人が悩みから救われるとは言わないまでも、うまくいかないのは、その人の考え方の掛け違えとわかるように思うのです。その原則とルールを示します。

1、 基礎と応用は違う。よってトレーニングと本番も違う(レッスンの位置づけは、それぞれです)。プロデューサーや演出家の、よしがだめ、だめがよしということもありえます。それに対して、本質的なトレーニングは、ブレもせず判断と矛盾しません。他人の言うことが気になるものですが、切り離してトレーニングに専念することです。スポーツなら、体力づくりやフォーム改良と試合を同時に同じようにする人はいないです。オンとオフで、目的もやることの判断も異なります。abを分けておくことです。

a、トータル、総合、無意識、調整、しぜん、リラックス

b、パーツ、部分、意識的、強化、無理、ふしぜん

 

 レッスンも本質的、基礎の基礎、本格的になるほどに、感覚や体の内部的なところからの掘り下げになります。無理をしぜんに、非日常を日常に。

 

○批判・反論しても

 

 同じことでは、ずっと読んでくださっている人に失礼なので、もう少し踏み込みます。

 私は、現場での、現実対応を強いられてきて、それゆえに続けてこれたトレーナーです。基礎のための基礎について、理想論とかきれいごとは言いません。

 歌い手や声優にも、声より大切なものがあれば、声を捨ててでもよいと伝えます。声や歌のよさだけで、判断されることばかりではありません。安直に「どの声がよい」とか、理想や見本として、「正しいのはこれだ」と決めたり、押し付けたりすることを用心しています。

 私は、私以外のトレーナーや外部のトレーナーのやり方を批判しているのではありません。そのよいところも悪いところも含めて、研究所のなかで実践しようとしています。まずは、取り入れることがもっとも大切だからです。受け入れるところからスタートだということをわかってください。

 トレーナーのメニュや方法をとりあげて、その正当性など論じるのは、ばかげたことです。7割くらいは当てはまるというのが一般論ですから、そこを論じても部分にすぎません。

 何パーセント高めるとかというのは、論じられる対象ではないのです。方法、メニュ、判断についても、ある条件下でしか、突き詰めることはできません。その条件は記述しきれないのです。ですから、どんな理論にも反論はできてしまうのです。

 

○ぶれない

 

 トレーナーとしては、よくも悪くもスタンスがぶれない人を、私は一緒にやっていくための条件にしています。あとは、そのトレーナーに合う人、いや、生徒さんは、ここの場合、千差万別どころか、ヴォイストレーニングの枠を超えていらっしゃる人もけっこういるので、多種多様なバリエーションがあるのが好ましいわけです。

 邦楽出身のトレーナーは、他のヴォイストレーニングのスクールにはいないでしょう。役者、声優(今ではアナウンサーも)必修の「外郎売り」の口上なら、古典芸能の方が専門で本職なのです。

 基礎の基礎レッスンや本物のレッスンを、となると、私などが口上の指導をするのはビギナー向け、企業研修くらいならよいのですが、お門違いです。

 入門から本物に触れていくのがよいに決まっています。ということで、外部のスタッフも充実させています。しかし、どんなによいトレーナーを整えても、本当の問題が学ぶ人にあるのは、確かなことです。

 

○声への成果

 

 責任がどちらにあるのかが、サービス業との違いと思います。なかには、金を出すから早く身につけたいと、殿様気分でいらっしゃる人もいます。そういう人は、しゃれた街の大きいビルの、受付嬢が3人くらいいるところに行くとよいでしょう(私の、日本にある英会話の学校などのイメージです。どこかのスクールを揶揄しているわけではありません。そこまでヴォイトレは、ゴージャスなところはないような、あったら是非、お招きください)。

 ヴォイトレは声のトレーニングですから、トレーニングすると声に成果が出るものです。副次的に、声量、声域、共鳴、発音、表現、歌、せりふなどに完成度が得られるのです。これらが目的なら、声量トレとか高音トレとかでもよいでしょう。目的としては、声そのものより、その使い方、機能、あるいは、声からはるかに離れた表現らしいテクニックになってしまうわけです。何に成果を求めるのかをはっきりさせていくことが大切です。

 

○ヴォイトレの対象

 

 ヴォイトレの対象は、簡単にまとめると、音色がメイン、声域(基本周波数ファルセット)、声量(音圧)、発音(調音)はサブ、メリハリ、間といった、せりふの要素や音程、リズムなど、歌の要素はかなりの応用ですが、呼吸という基本と直結しています。

 プロデューサーが、よく「ヴォーカルは声が絶対、それだけで選ぶ」と言っていますが、それは音色であっても、音楽的な感性をからめた歌唱時の声の共鳴の具合と働きで、必ずしも声そのものはそうではないのです。

 ヴォイトレで、音楽的な声にすることさえ、ほとんどやっているところはありません。音程、スケール、リズムの練習をしてカラオケの得点を上げるような結果を求めているからです。

 トレーナーも生徒さんもそれを求めるから、当然、トレーナーもそうなっていきます。

私たちのように、それを想定しない方が稀有の存在です。声そのものと、歌唱の声も異なりますが、どちらも(あるいは、どちらかが)大切なのです。しかし、両方ともあなたのヴォイトレの対象になっていないのではありませんか。

 

○優先度と重要度の違い

 

 仕事である以上、現場で要求されることが早急の課題となるのはしかたありません。私どもも、36ヵ月後のデビューやオーディション、1ヵ月後の結婚式の余興まで、真剣に全力で対応しています。

 しかし、この優先度に振り回されている限り、もっと重要なことが後回し、遅れるというならまだしも、その可能性がスルーされたり、損なわれることも現実に起きているのです。

 芸道やスポーツなどでは、器用さで、早く頭角を現したものの大成しない例はいくつもあります。才能や努力を評価するのは難しいところですが、後で大きくなるための基礎と、その時点で凌ぐだけのやり方は逆になることがほとんどなのです。

 しかし、日本では若い時期のチャンスを優先する、実力がなくても若さで出られる、実力のないのが若さだから、それゆえ出られる。それが、歌い手だけでなく、声優、アナウンサー、タレント、役者に蔓延しています。それゆえ、若い歌手の素人声、「ジャニーズ声」というと、わかりやすいでしょうか、は誰でも出せるということです。大人になってもそう変わらないのです。彼らは、声の魅力で売っているのではないから、その必要もないのですが。

 

○問題なしの問題

 

 ヴォイトレなのに声が不在というのを、私が述べるのは、「医者に殺されないための本」を医者が書くようなもの、CIAのエージェントがリークする内部告発とはなりましょうか。

 私はトレーナーの不正や非を訴えているのではありません。薬をたくさん出してくれという患者に、好きなだけ出す医者は儲かりますが、トレーナーはそんな自覚も不正感も持っていません。その医師は、相手の体調が悪くなることを知っているなら大罪です。非難されてしかるべきです。でも、人により効果はかなり違うものでしょう。

 私も、トレーナーというか、私自身もここのトレーナーも含めて、非難の対象としていません。

 しかし、トレーナーは「こうしてください」に対して「こうしました」そして「ありがとうございました」とお礼を言われてwinwinで、何ら問題はなし、というのが問題なのです。これまで他の業界で起きるような改革もあまり聞きません。質も高くないし人数も多くないこともありますが…。

 

○ヴォイトレの問題

 

 「問題として扱わないことが問題」これは私がヴォイトレの問題として、これまで、とるに足りないことを「問題としてしまうから問題になる」の反対ですが、両方とも問題です。

 私からみると、声の分野は未成熟で、その表現の世界である歌、演劇などからみても若く、層の薄い分野です。「話し方教室」のようにストレートにビジネスマンや一般の人の能力アップに位置づけられるだけのステイタスも歴史もありません。

 プロで活躍している人がたくさんいる分野からみると、趣味やサークルのようなものかもしれません。ただ、昔よりは本気の人が増えてきて、それはよいことなのに、人材の層が薄く、レベルが高くないために、いつまでもビギナー市場のようになっているのです。

 本やネットで知識を得ても、扱うのは人間の体や感覚です。机上で解剖学辞典を頭に入れたヤブ医者や学生のようなレベルでは、受け手(レッスンしにくる人)と似たようなものですから、批判はしませんが、その位置づけやレベル、自らの力(自分の芸の力でなく、人に対しての力)を知ることができていないと思えるのです。

 

○声楽界の見取り図

 

 以前、ここにいらっしゃる人のほぼ9割は、ここで初めてヴォイトレを経験しました。そのとき、私は歌をうまくするのでなく、声をトレーニングする、ということでスタートしたのです。応用を自分で学んでいない人が増えると、こちらが手伝わなくてはいけなくなり、サブのカリキュラムが増えていきました。いつ知れず、音楽スクールや専門学校のようになりつつあったのを経験しました。

 いらっしゃる人の望みにストレートに応えていくとそうなるのです。こちらも若かったのでしょう。そこで、どんどんと人が増えていきました。何でもサポートすると、サービス業化していきます。最終的には、発表会プロデュース業になっていくわけです。そして、声という原点が忘れられてしまう、先人たちと同じ轍にはまっていきかねなかったのです。

 そこから抜けたのは、この分野も広くなり、今は半分以上の人が他でヴォイトレをやってからいらっしゃるからです。プロよりも一般の人を対象にトレーニングすると、また、同じような轍にはまりやすくなるのですが。

 ここのトレーナーのレッスン内容を把握すると、日本の今の声楽界の見取り図ができます。ここの生徒さんの他で行ってきたレッスンを把握すると、ほぼ全国のヴォイストレーナーや指導者の見取り図ができます。ここには、日本の声の指導の膨大なデータベースが備わりつつあります。セカンド、サードオピニオンのできるバックグランドは、このデータベースです。

 

○ヴォイストレーナーの盲点☆

 

 ここを出てヴォイストレーナーになった人のところからも、ときおり生徒さんがここにいらっしゃいます。そのトレーナーの話で興味をもっていらっしゃる人と、そのトレーナーに反発していらっしゃる人とがいます。どちらにしても、そのトレーナーが生徒であった時期を知っていると、明確に、トレーナーの教え方がわかります。

何がうまくいくか、何がうまくいかないということがみえるのです。元々、そのトレーナーのもっているところや長所については、ヴォイトレで得たわけでないので他人に教えられていない。つまり、指導ではネックとなりやすいところです。しかし、そのトレーナーにつく人は、そこに惹かれてつくのです。この矛盾をわからないのは声が特殊な分野だからです。☆

 ヴォイストレーナーになろうという人には、歌手で続かなかった人もいますが、まじめに学んで、まじめゆえに人に教えてあげたくなった人もいます。挫折を避けた教師タイプのまじめさは、生徒にはメリットにもデメリットにもなります。まじめなトレーナーにまじめな生徒がつくと、まじめなレッスンになります。つまり、正しく教えてその通りにさせるのです。舞台からは遠くなっていくことが多いです。そういうタイプのトレーナーは、長所をみつけたり伸ばしたりすることよりも、短所の補強が目的で時間が経ってしまうのです。

 トレーナーのもっているようなよい声や音楽センスをもっていないのに(大体、トレーナーというのは、どちらかもっています)自分の弱点をなくしてもらったところで、普通になるだけです。発声の力の不足が若干補われたところで、プロになれる方向に向けられていないのです。

 

○判断の深さ

 

 よくこのような例で比較しています。

1.早く(半年くらいで)12割よくなるが3年くらいで(早ければ1年)進歩が止まる。

2.一時、実力は落ちるが、3年くらいから(人によってはコンスタンストに)伸びる。

「歌や演技は応用で、声が基礎」とすると、基礎が応用に効いてくるのは後からです。今は、徹底した基礎をやりたいと言う人が、その期間として「23ケ月くらいで」と言うようになりました。

 基礎にもピンキリがあるようですね。世の中、それなりにまともに評価されている芸で、徹底した基礎というなら、10年を切るものなどありません。

 23ケ月の基礎どころか3日とか3週間でできる基礎、それどころか、目標達成のできるというようなチャッチでレッスンが売られている時代です。

 それをいうなら、私は「読むだけでよくなる」というような本をたくさん出しているではないか、と言われかねないのですが、それは、基礎の力を応用に転じられない人への気づきのヒント、パラダイムシフト、きっかけとなるものだからです。

 多くの人には3ケ月くらいは「基礎とはけっこうかかるものだ」とわかってもらうためのレッスンです。目的が叶えられたなら、やめればよいし、あとは自分でやるというならそれも自由です。基礎の深みがわかることが、まずは基本ということでしょう。

 

3段ロケット(BAC

 

 基礎の力については、なかなか伝わりにくいので、私は、レクチャーで話しています。

 基礎を徹底してやれば応用に効いてきます。基礎がBとしたら、それは応用Cに届くのです(Bはベーシック、CのベストはウルトラCのつもり)。

 それではよくワークショップなどにある、この2つの間と思えるアドバンス=Aとでもいえるレッスンはどうなるのでしょう。

 私はCを見据えてBだけに専念する期間をとれるかが、大輪を咲かす条件であり、「条件を変える」と言っています。

 ところが、多くの人はすぐに応用Cに結びつくアドバンス=Aのところばかりやるのです。

 Aのなかでは、状態をよくするのです。ときたまCに届いても、ウルトラCなど出ようもありません。つまり、Aでは-AAが+Aになるくらい、これが普通のヴォイトレです。これは研究所内でもやっています。ただし、私の考える究極の、いや本来のヴォイトレはBCなのです。ここは、基礎と応用をやるところです。

 

○高音の問題

 

 Jポップスでは、高い音に届かせたいというのが、もっとも多い課題です。これは音大生の最初の壁と同じです。コンコーネ50のメニュには、2つほど、高いラの高さまであります。そのため多くは高音のクリアが中心課題になってしまいます。

 ポップスでは、ファルセットを使う曲が多くなったために、やたらとミックスヴォイスや声区の問題が出てきました。

発声の理論などいくらたばねていても何にもならないことを知っているので、現実的に具体的な対策をしています。

 「方法やメニュを教えてくれ」とメールでよく聞かれます。こういう限界域では、万人に共通な解決法はありません。

 独学なら無理せず、あなたの元々出しやすい母音や子音で応用していくのがよいでしょう。しかし、この出しやすいことイコール高音に最終的に向くかは別問題です。しかし、これは徹底されてはいません。あなたの高音をもっとも出しやすい音として、イメージしておきます。もっともわかりやすいのは、毎日同じスケールで挑むことです。

 初心者、ヴォイトレをやったことがない人で高音を望むなら、声楽のトレーナーとやりましょう。ポップスで、もともと高音好き、高音向きのトレーナーよりは、声楽のトレーナーが相手のタイプを選ばないという広さと基礎の身につけ方をもつからです。

 

○高音トレーニング

 

 プロやいろんな人とやってきた人は、ここにいらっしゃると中低音での発声や、音色、共鳴を見直し、大半のケースでは、ほぼやり直します。ここでは、共鳴以前の発声、呼吸、姿勢まで基礎づくり、多くはイメージづくりからです。

 そこで声の方向性や共鳴の焦点、体感のイメージといった判断基準=重要度や優先度は、トレーナーによってかなり異なります。ともかくもイメージを持ち、それによって丁寧に繊細にコントロールできるようにしています。

 日本で行われている高音トレーニングは、声量を絞り込んで、弱い響きで集めて、届かせるという技法が主です。バランスの転換です。私共のトレーナーの半分以下の声量で高い音に届かせる、あてるだけの結果となります。多くのケースで、トレーナー自体に声量もないはずです。それで満足できないというのなら、基礎での条件づくり、バランスでなく力量を変えなくてはいけないのです。

 一人ひとり、違う喉で出しやすい音や高さも違います。一つの方法では、それでうまくいく人も、うまくいかない人もいます。すぐできる人も、時間がかかってできる人もいます。ハイレベルでマスターしたいなら、すぐにできないことを、時間をかけて工夫しながら習得していくのが本道です。

 

○ミュージカルでの応用

 

 どこまで高い音を使うのかは、ポピュラーのソロなら、声の音色で決めることです。オペラやミュージカルは、曲で決まっていることが多いので、声域の獲得と、確実なキープが第一の条件になります。特にミュージカルに声楽の基礎のない人が抜擢されると、いつか、高音の共鳴が克服すべき主な課題になり、ここにいらっしゃいます。

 30代くらいまでは、案外とラフな発声でも回復するので耐えられます。ダンスや役者出身の人で勘もよいからです。

 演出家が、「声を大きく」とか「発音をはっきり」と言っても、「強く出したり口をクリアに動かさずに結果がそうなるようにする」ことで、喉を助けましょう。たとえば、フォルテッシモ=ffはとても強く出すのでなく、感情が強く表れるような表現、つまり、客に対して伝わることでみるべきことです。

 大きくクリアに開けることと大きくクリアに出すことは違うのです。小さくても強い感情を表すことはできるし、口の形を大きく動かさなくても明瞭に聞こえるようにできるのです。

 特に、大―小、強―弱のような大ざっぱな動かし方しかできない人に、鋭―鈍とか、加速度、間、呼吸などでみせられるようにしていきます。こういう舞台では、声の処理としての応用を必要とするからです。応用は、自分の持つものの延長上で処理しなくてはいけないのです。そうでないから、支障が出るのです。

 

○未成熟な声への判断

 

本来、表現で問うものを、「大きく」「小さく」とか、「早く」「遅く」とか、「音程」とか「レガートやロングトーンのキープ」「ふらつかない」とかいうことばを使わざるをえません。現場での注意には、残念ながら、声や歌に対して未成熟な日本らしさを感じます。

 本番前の稽古で、「せりふを間違えないで覚えてきてください」と言わなくてはいけないような役者を、オーディションで選んでいるということです。これは役者でのたとえで、歌手の例では、歌で選んだのに「歌詞を間違えたり、音程を外さないでください」と、私からすると声についての初心者の注意を受ける人が舞台にいることです。

 人の層もレベルも、支えるスタッフも、圧倒的に向こうとは違うのです。

 大きな舞台をたくさんやっているところはありますが、声や歌、音楽に重きをおいていないように思います。それゆえに続けられるシステムに学べることも多いでしょう。

 

○喉の疲れの蓄積

 

 「個性のある声」で「高いところ」までもっていく、この両立が、今やレッスンの現場での最大の難関です。役者と声楽的な要素を兼ね備えた、昔の宝塚の男性役スターなどに若干みられた、それなりの熟練度も今や風前の灯です。

 プロセスでは、話す声はガラガラで障害を起こしても、1オクターブ高いところで歌えるとか、裏声だけとか地声だけ、どちらかが出ないとかが多くみられます。こうなると、ガンの宣告のように余命が長くて510年、年齢とともにステージに上がるまでには回復できなくなります。いずれ自主休業かドクターストップです。

 私が関わってきたところでは、連日連夜の出演をするところも多くあります。週1回くらいのライブのペースなら、中6日休みで喉が回復します。それでプロとして続いている。売れたら連日持たない喉です。これでは、できていないということで同じです。

 役者でも喉を壊します。一流のレベル同士なら、はるかにせりふの方が負担は大きいのですが、高音がない(ピッチが問われない)ので、ガラ声で続けられるのです。これも問題です。

 

○形と実

 

 トレーナーは、現場では歌手や役者の身を(喉を)守らなくてはなりません。

 現場の指揮者には、さまざまなスタンスがあると思いますが、作品の評価をよくすることが第一で、表現中心です。それに耐えられない人には、過度の期待と負担をかけることになります。

 すると、どうなるのでしょうか。スポーツのアスリートのように明確な基準のある場合、単純です。

 男子100m走レースでは、世界は9秒の壁、日本は10秒の壁に挑んでいます。ときに日本人選手がいいところまでいきますが、アスリートの世界ではNO.1、金メダルを目指しているので、日本人の選手より速くても金がとれないから、他の種目に出る選手もいます。8位に入ったから世界で8番目ということにはなりません。

 音楽のプレイヤーもけっこう明確な基準があります。ルックス、スタイル、MCでなく、演奏、音で全て判断されます。高度に演奏する技術なしにプロになれません。

 しかし、歌やせりふの声は、総合力の要素の一つです。となると、一流を目指すよりもその表現力よりも、確実に外さない安定、安心が第一の目標になってしまうのです。

 

○教育の平均化

 

 集団で行うもの、合唱やミュージカルでは、他人に迷惑をかけないこと、コンスタントに平均点をとり、総合点をキープできることが、日本では求められます。スターはいらない。ミュージカルは、スターを生み出すのでなく、別に有名なタレントをスターとして連れてきてまかないます。その結果、形から入って形に終わるのです。私の感じたい声での表現の成り立ちのプライオリティは、とても低いのです。

 形というのは、ステージ、舞台、音楽としてのハコがきちんと整っているということです。ホールや設備があればよいこと、それは今や当たり前なのですが。新人歌手も音大生も、平均のレベルは高くなりました。下手な人がいなくなったのです。それは、トレーナーやスタッフの実績といってよいでしょう。

 昔の音大生のオペラなどは、失礼ですが、人前に出すものとしては破たんしていました。今は、最後にしぜんと拍手がくるほどのものになりました。でも、スターがいません。それは、トレーナーの責任外ですから、指導の負の部分かもしれません。

 ステージでせりふを忘れて泣き出す子は、ある幼稚園ではいなくなりました。CDで流れるせりふにフリだけつけるとそういう失敗は起きないのです。進行もきっちり時間通りに終わります。全員の失敗をなくす見事な教育です。皮肉ですよ、念のため。

 

○個性と成長

 

 型にあてはめられて、そこで個性が死んでしまうというなら、その程度のものに過ぎないので、そういった型がいけないとは思いません。ただ、型がなくとも形にはまってしまいやすい人がいます。形にはまるのが勉強と思い、はまりたがって努力する人です。他の人の言う通りに動く人、つまり、器用な人、上手く立ち回る人、正確な人、いつもそれなりの力をキープできる人、絶対に休んだり、遅刻しない人、こういう人を私は、優等生と呼びます。そういう人は大切ですが、そこでばかり選ぶことがよくないと思うのです。

 現実がそうであれば、それに対応するためにトレーナーも、相手をその方向にもっていくわけです。そもそも、トレーナーも優等生が多いのですから、頑張るほどに、そういうふうに育つのです。

 「個人の色よりも、組織集団の色が強く出る」のは、日本の会社も劇団もプロダクションも同じです。よし悪しともにあることでしょう。

 しかし、喉や声は個人のものです。他に合わせようとすると、中級レベル(アドバンス=A)に早く到達するものの、上級レベル(ハイレベル=C)はいかなくなりかねないのです。トレーナーは、そこには細心の注意をもってあたることです。

 

○同時に、一瞬に得る

 

 ヴォイトレというのなら、声に向きあうことからです。そこを原点としてください。体の肉声を出すこと、その上に声量、発音や声域があるのです。

 急がないことです。声に向きあえないのは、覚えることや間違えずにくり返すこと、せりふや歌詞に加えて、ピッチやリズムといった楽譜に囚われてマスターしようとしているからです。

 ある意味では、こういうものは「同時に、一瞬に得る」ものです。そこを経験したら、また細かく分け、順序だて、一つ上の次元を目指すのです。そのための体を用意し、感覚を磨いて、保つのです。

 せりふも歌も声で仲介するメディアに過ぎないのです。どんなことば、メロディでも、それを正しく再現すればよいのでなく、演者が魂を吹き込み、ありありとしたリアリティをもたらさなくてはなりません。やらされている、歌わされている、すごかったもののコピーをしているだけ。それでは、ディズニーランドです。

 

○限界の対処へ

 

 トレーニングを行う目的の一つは、自分の「限界を知るため」です。限界というのは、メンタルとフィジカルとあります。

最初に声を出して、このあたりが限界というのは、まだ自分の思い込みです。これをメンタル0、フィジカル0状態とします。リラックスしたり柔軟をするとメンタル-1、フィジカル-1、トレーニングを受けるとメンタル-3、フィジカル-3くらいになります。

 ビギナーは、やっていないのですから、初めの状態が変わると、その日でも30%くらい、実力はアップします(何をもってか、この数値も適当ですがイメージで)。そこを最初の限界としておきます。

 それを大きく変えたいなら、「体から変えること」と言っています。この数値を声域でとるのは、あまりよくないことです。優先したいからバランスがさらに偏るからです。すると、高い声ばかり出そうとして声量が出なくなります。声量ばかりにこだわると声域は狭くなるのと逆です。

 

○限界の突破法

 

 指導となると「喉が…だから」「歯や歯並びが…だから」「かみ合わせが…」「舌が…」「声帯が…」「口が…」できないと言うように注意をするのがトレーナーです。わかりやすいことです。

 一つのことが原因でできないということは、確かにあります。しかし、多くは、いくつもの原因があります。全く異なる他の方法で解決が図れることもよくあります。

 「医者に行く」のは簡単ですが、医者ならどこがよいのか、トレーナーや、他の専門家がよいこともあります。アドバイスというのは、けっこう雑なものです。

 限界は、壊して超えるためにトレーニングすることです。

 本当に必要があるのかを知ること、時間や内容に成果が見合うのか、他に力をかけた方がよいのではないか、いろいろと考えられます。ハンディキャップがあるとしたら、それを克服して限界を、より厳しく知るなかで対処する方法を編み出せばよいのです。

 

○自分に合ったやり方

 

 声の弱かったために、丁寧に丁寧に声を扱っていた平幹二郎さんと、強く出し、潰しては強くしていった仲代達也さんの話をときおりします。自分に合ったやり方を見い出すこと、知ること、選ぶこと、そして、つくることです。ヴォイトレも、表現と同じ、個性と同じで、一人ひとり違うのです。どのやり方がよいなどというのを自分不在の、机上の空論に巻き込まれないようにしましょう。

 誰かがよいと言っても、そこに大して根拠がありません。あなたに対してどうなのかとなると、ワンオブゼムに過ぎないこともよくあります。電化製品やレストランの評価でもかなりばらつくでしょう。人によって味覚も違うのです。未熟なトレーナーほど、自分が一番よい方法を知っていると思っています。

 自分×将来への時間×努力×やり方(メニュやトレーナー)という変数を無視して、一つだけを見ても何にもなりません。あなたがレッスンをあまりうまく役立てられていないなら、こういうことをもう一度考えてみてください。

 

No.354

貫く

天文

地理

人事

物象

陰陽

原理

解明

六十四卦

上手

技芸

名手

感動

無心

芸位

上達

趣深さ

無心

天下

名声

芸談

源流

典拠

名人

浸透

一挙一投足

規制

「ヴォイトレの現状と対策」

○制限しない

 

 何でもやればよいのです。その点については、私はどんなトレーナーよりも無制限、オールOKです。他のトレーナーが絶対やらせないこと、禁じることでもOKです。喉を傷めることさえも、知って学んだらよい、何でも自分で確かめることを勧めています。何をやってもよいのです。

 過保護扱いして制限すると自立しにくくなります。狭いところから抜けられなくなります。そのあたりは、トレーナーでなく、一流のアーティストに学べということです。

 

○トレーナーよりアーティストに

 

 トレーナーになりたいという人がけっこう出てきたのに、世界に通じる一流のアーティストを出した一流のトレーナーというのは日本にいないのです。音楽については世界に出て学べといわれるのですが、世界に出ても学べていない現状から、一流のアーティストにストレートに学べといいます。

 一流のアーティストは、トレーニングや日常の管理についても一流と通じるものを持っているからです。ただし、「○○はだめ」と言うようなアドバイスは、あまり聞かないようにしましょう。私が知る限り、アーティストには、おかしな、本人だけにしか通じないジンクスによるものが少なくありません。

 彼らは、「君の思い通りにやれ」ということでしょう。思い通りやらせてファンにしておくのです。日本人はそういうのが好きなのでしょうね。

 

○疑うこと

 

 アナウンサーは、話や声の専門家ではありません。ほとんどは、サラリーマンとしてマニュアルを丸覚えしただけです。プロというなら報道のプロ、パッと渡された原稿を、ポーカーフェイスで正確に発音し、伝達することのプロです。それ以上にいろんなことができるようになった人は、本人の個性、キャラクターとその努力によるものです。

 ヴォーカルや役者のスクールでも、そのような傾向が増しています。養成所というのも、今やスクール化しています。

 日本の学校教育は、そこから出ている人材をみる限り、劣化していく一方ですから、それに似たスクールや教え方というのは、疑ってみる必要があります。主体的にやらないまま他人からマニュアルから抜け出せずにいる人ばかりになっています。

 昔は、自分で思い通りにやってから、全てを否定されに現場にくるというのが、もっともリターンの大きな教育だったのです。

 

○ヴォイトレでの立場

 

 ヴォイストレーニングをヴォイトレを略するのは、日本人が2拍、しかも2×2拍(4文字)を好むからです。本当は、ボイトレの方が日本人にはよいでしょう。

パーソナルコンピュータ→パソコン、合同コンパ→合コンなど、あらゆるものを○○/○○と略するのは、日本人のリズム感覚と拍感覚です。欧米の3拍の感覚に近いのは、東日本でのマック(マクドナルド)が、関西から西日本で、マクドになること、この辺りは機を改めて述べましょう。

 

○合唱でのヴォイトレ

 

 ヴォイトレを表現と基礎と両方でみるという私の立場は、当たり前のようでいて、業界では異質のようです。たぶん、執筆した本から、新たな分野のチャレンジャーが多くいらしたこと。こちらから出向いたからだと思うのです。

 実用の範囲が定まっている分野では、マニュアル化で細分化され、分担されていくものです。

合唱団であれば、指揮者兼歌唱指導をする声楽出身の先生がいます。私は、この指導はヴォイトレとは異なるとも思いますが、小中高校生には、トータルとして管理(フィジカル、メンタル)が必要なため、比較的早く体系化できたと思います。

 

○体から声をとり出す

 

 発声、共鳴までと、そこからの応用(歌唱、せりふなど)は、本来、楽器の製造、調律と演奏家ほど異なるものです。しかし、楽器と違って、声はすでに一人ひとりが製造しています。調律などしなくとも、日常で歌い、しゃべっていますから、歌唱という演奏しか指導の対象にならなかったのです。

 しかし、私は2つの理由で、ヴォイトレで、純粋に体から声を取り出すところに焦点があてました。

 1つはプロの、さらなる高みへの要求です。技術を一通り応用した限界になったとき、一つ基礎を掘り下げ、心身の問題に向きあわざるをえなくなります。

 もう1つは、もともと心身の問題のあった人です。人並みに声が出せない、使えない、トラブルがあるので、直面せざるをえません。

 研究所にくる人にも、この2つのタイプが多いので、私は常にヴォイトレの中心=本質に触れてきました。

病院に行くのは、高額な人間ドックに定期的に行く人と、病気の人、病気がちな人です。世の中、心身のところからの問題を抱える人が多くなってきたのです。

 

○スクールでの限界

 

 ヴォーカルスクールやカラオケ教室は、私からみると、普通に歌える人が少しうまくなると成功といえるところです。本人がとてもうまくなりたいと思っても、根本的にはさして変わらず、短期で少しうまくなって終わるところです。

 それはうまいということが、聞く人に価値を与えることと異なることを把握しないままに、へたでなくしているからです。本人の実力の限界にぶちあてるということを避けているのです。

 表現とはいうものの、大半のヴォイトレもまた、そのレベルで行われています。ですから、まだ本当の問題に切り込んでいないのです。

 批判しているのではありません。本人に必要がなければ、こういうのは問題として上がってこないからです。

街のフィットネスジムでは心身の健康づくりができていたら充分です。病状の重い人やオリンピックを目指す人は行きません。

ヴォイトレとして、心身や身体だけに入り込んでいくのも一つの方向です。そこで応用(歌など)に対しては触れずに行っているものも増えてきました。

 最近のヴォイトレは、私からみるとリラックス、ストレス解消レベルで声が出るというものが多いのです。その効果はまさにフィットネスジムに行った後の声の変化と同じくらいです。

昔からやっていたところでは、なかなか体=声=心をしっかりと捉えて本質的な変化を出しているところもあったのですが、少なくなりました。

 

○応用の目的ありき

 

 私が応用という目的を念頭においているのは、結果がでなければ失敗、それをきちんと踏まえてフィードバックして、常によりよく、プログラムを改善していこうとしてきたからです。

試合のないフィールドでいくら練習しても、自己満足だけになりかねないからです。と言うまでもなく、もともと最初から過大なる結果が問われるところでの、ヴォイトレばかりしてきたからです。あらゆるところに生の現場がありました。ヴォーカルスクールなら、それは発表会ですが、私の相手は一度きりの大舞台、あるいは、連日の公演などへの対応です。

 そこで全て成功などということは言いませんし、ありえません。ステージでは一度もミスはなく、完璧だったという人もいるかもしれませんが、私の立場上、そんな仕事は、さほどありません。プロでくるのは、調子を崩した人以外は、完璧主義者でまわりがOKでも自分が許さないという厳しい基準を持った人だからです。

 声を応用で厳しく、基礎で厳しくみているヴォイトレというのは、他にはあまりないと自負しているのです。

私からみると、誰もに通じて誰もがよくなるヴォイトレは、トレーナーでなくとも、誰でもできるレベルのことで言っているとしか思えません。医者もお手上げのケースでも、何とかしなくてはいけない、でもうまくできない、そういう難しいケースに直面したことのない人ではないでしょうか。

 

○表現=基礎の普遍性

 

 私はいろんな分野で、初めてヴォイトレを行い、成立させようとしてきました。

 分野が違っていても人の心を打つほどのものとなれば、分野を超えて、同じものだという表現(応用の応用)、もう一方では、芸や人によって個性や個人差はあるとしても、もう一つ掘り下げたら、人間としてのベースは同じものだという基本(基礎の基礎)、この2つを本質として、捉えているからです。

 とはいえ、何回も失敗もし、誤りもしてきました。そこまでの仕事を求められたトレーナーもいないでしょう。名医というのは、100パーセント成功という人ではありません。他の医者があきらめ、手をつけない患者を治そうとするから、成功のパーセントは低くなります。その勇気と痛手が、その人を学ばせ高めていくのです。

 ですから、私はトレーナーには「奢らずに、細心に、他の人からのアドバイスも受けて独善にならずにやりなさい」と言うのです。

 

○プロゆえの欠点

 

 「専門家は専門ゆえにみえなくなる」というのは、近代医療をみればよくわかります。「医者に殺されない本」がベストセラー、それも医者が書いています。医療において不正な行為や営利よりも、命を救おうと考えて起きる構造的な矛盾を、私たちは知らなくてはなりません。

 がんの告知から500日、41才の若さで急逝した、金子哲雄さんの本に、奥さんの後書きがありました。自宅で危篤状態で119をまわして、救急車を呼ぶと、延命処置で生かされてしまうから、本人の望み通りに、医者を呼んだとありました。終末という大切な問題を、死と直結する医師の医療では解決していないどころか邪魔をしているケースもあるのです。そこで、しぜんと長期にという東洋医学や漢方なども見直されているのです。

 ヴォイトレも、応用のための基礎なのに、応用をみないでどうするのでしょうか、というケースもあります。プロ歌手になりたければ、声をよくする、歌をうまくするのでなく、プロ歌手になろうと動かなくてはいけないのです。

 

○一人での限界

 

 プロ歌手のレクチャーなどは、「同じような実演の場をもつ人にはアドバイスとして意味があるけど、他の人には無力」ということも多いのです。プロというのが、声や歌の技術に必ずしも支えられていないところにも無理があります。

 一方でトレーナーやヴォイトレ方法論を云々する人も、メンタルトレーナーで終わっていることが多いのではないでしょうか。現場とレッスンの場が結びついて、トレーナーとプロ歌手が結びついてこそ、マックスの効果が上がるものでしょう。

 プロ歌手は歌うことに、トレーナーは教えることに専念すればよいのです。しかし、本業が自分の才能を満たせなくなると転移が起きます。それもOKです。ヴォイトレにいろんな人が参入することで、何事も豊かにもなっていく可能性があるのですから。

 本人が何を元としているか、そこで欠けているもの、補うべきものは何か、それはどうすればよいか、誰に学べば最良なのか、こういうことについては、トレーナーもヴォーカリストや役者と、もっと考える必要があるのです。

 

○部分と全体

 

 基礎、応用で述べたいのは、部分と全体との関係です。いくら喉だけみても、あるいは、直したところで、トータルとしてよくならないからです。医者が声帯を手術して、完璧に治したとしても、悪くなった原因は、発声のしかた、その人を取り巻く環境や習慣があるのです。それを変えなくては、同じことをくり返す率が高いのです。若いときは回復していただけで、元から問題はあった例が多いのです。

 私のところを紹介していただいて、さらにそういう人の問題のありようや解決策の事例が、研究所に溜まっていくのです。医学もホロニック医学と言われるように、ホロン=全体を常に視野に入れておかなくてはなりません。大局あっての各論です。

 しかし、トレーナーや生徒さんは、各論を好みます。頭がいいというか、知識があるから対症的な技を好むのです。注射や薬が、プラシーボ効果(擬薬)でも、もらうと嬉しいし、効く。効くのはメンタルに、ですが。私は何でも効けばいいと思っています。それにお金や時間を使うの?とは思いますが。

 

○「同時に」ということ

 

 基礎―応用、部分―全体、そこにもう一つ加えるなら統合、同時に、ということです。

 私は初めて本を書いたあと、こんなふうになるのかと息をつきました。当時の私のレッスンは総合的なものでした。声を出すのをみて、トレーナーなら、次々にメニュをくり出すのでしょうが、私は飽きるほど聞くことや声を出すことをくり返します。本人の自覚を促し、次に感覚とその修正能力をチェックします。2回目、3回目も、メニュは進まず、本人がシンプルなメニュにどう取り組んでいるのかをみます。そこでいろんな声や声の当たり方(共鳴)、変化(声量、声域など)を実感していくことをみます。

 現状のより厳しい把握と本質(中心)へのアプローチ、その共有化がレッスンでの中心です。

 あとは、レッスンの時間でなく、トレーニングの期間として、心身の状態が条件的に高まっていくのを待つしかありません。基準と材料を与えて、本人にシェークさせるのです。

 順番に与えていくことがよいものと、一遍にやらなくてはいけないものは区別することです。私は、できるだけ同時、瞬時、全体的に与えることだと思っています。混沌として何かが起こりえるかもしれない“場”の設定にこだわるのです。

 

○一流は両立する

 

 たとえば、サッカーを試合だけでなく、ドリブル、シュート、パスと部分的に分けて、丁寧に習得していきます。筋トレやプレーに使う動きを個々に身につける。一方で、練習試合で1on13on35on511on11と、実践、応用面をつける。これが基礎=応用です。今では、ジュニアでもやっているでしょう。

 そのなかに部分―全体も含まれるのです。一流のプレイヤー同士は、お互い、すぐれた条件を持っているので、攻めも守りも相互にレベルアップしていくわけです。スーパースターは、そこで得点をゲットする、つまり、人間離れしたプレーを出すのです。それは、先見力、発想、集中力、身体能力、全ての能力の複合化された結果です。瞬時かつ同時、部分にして全体、基礎にして応用の集大成なのです。

 形としては、ファインプレーは危険な体勢で行われます。本人の技術や基礎能力、体幹などが人並み超えて支えていることで可能にするわけです。一流になるとファインプレーとみえないまま、しぜんなプレーのようにこなしてしまうのです。

たとえば、オーバーヘッドシュートなど打つと、普通は怒られるでしょう。しかし、一流は、普通のシュートのように打って入れてしまうのです。

 

○学でなく論

 

 私が一貫してヴォイトレ論で試みているのは、学問としては、未だ成立しえないものだからです。しかし、常にその方向へアプローチしているつもりです。その上で、「成立しえない」のだから、それに振り回されないようにアドバイスしています。

 声楽もまた、声学とはなりえていないのです。発声に関する学会はあるのですが、学問のレベルで行われているのかは疑問です。

 データとして出しても、ほとんどは少なすぎるサンプルで、データも人数表だけです。データの間で推察したり、再現性のある実験(同じ条件での再検証を第三者が行うようなこと)で科学的なものとして、客観性を得ていないからです。

 とはいえ、同一条件で行うとなると、歌やせりふでは、データに囚われてしまいかねないので、本質的に「学」とはそぐわないものかもしれません。わかりやすく言うと、「科学や学問や知識、部分や中途半端な基礎や順番などにこだわると、限界や可能性のなさばかりに囚われる」ので気をつけなさいということです

 

○アグレッシブ

 

 いいところよりは悪いところをみてしまう。これは日本人のペシミスティック(悲観的)好きに通じるものなのか、本やネットなどで表面的なことばかり知るためなのでしょうか。その結果、増加するのは不安だけではないでしょうか。それは、今の世界的な傾向かもしれません。現実にサッカーより教育費と言うようになったブラジルなどもアグレッシブです。私も「欧米やアフリカ、アジアなど他の国の人々に学べ」と言うごとに、冷やかな視線を感じますが…。

 創造というのは、主体的なものです。声についても学び方よりもスタンスを間違えないでほしいということです。

 志して「より高く」「より強く」を掲げましょう。「より正しく」「より安全に」とか「よりよく」「よりうまく」「より美しく」「よりきれいに」でなく、「よりおもしろく」「よりすごく」にしましょう。「当たり前」のことをやるでよいと思います。

 過去に認められたものから、何年か先の世界をみることです。

 今のものなら、未来志向にすること。今のあなたではできないからこそ、将来のあなたをヴィジョンとして描き、そのギャップを埋めるべくトレーニングするのです。そのためには「学」でなく「論」を基にすべきです。例えると、目指すべきは地球学でなく、宇宙論なのです。

No.354

<レクチャーメモ「アメリカの大学」>

 

功利的な実学主義アメリカの大学について感じたこと

学長が社交家である

研究者がベンチャー企業を企業する      

 

<レクチャーメモ「人生不可解」>

 

滝のそば、ミズナラの木に「厳頭之感」で日光の華厳の滝へ飛び込んだのは、「不可解」藤原操でした。

講談社は、明治44年発足 立川文庫 講談社文庫

ハルノートと戦後の情報操作

つきあい、本、旅

Out of sight

Out of mind                 

ものとしての紙の存在感           [607

No.354

<レクチャーメモ「アメリカの大学」>

 

功利的な実学主義アメリカの大学について感じたこと

学長が社交家である

研究者がベンチャー企業を企業する      

 

<レクチャーメモ「人生不可解」>

 

滝のそば、ミズナラの木に「厳頭之感」で日光の華厳の滝へ飛び込んだのは、「不可解」藤原操でした。

講談社は、明治44年発足 立川文庫 講談社文庫

ハルノートと戦後の情報操作

つきあい、本、旅

Out of sight

Out of mind                 

ものとしての紙の存在感           [607

「ステージ論」

○ステージに関するアドバイス

 

 ステージ論は、ステージ経験の豊富な人からアドバイスをもらえばよいことです。何万人、何千人の前で何回もやっている人もいれば、毎日、何百人の前でやっている人もいます。ですから、「プロの人、人前でやることを生業にしている人に聞けばよい」と思い、あまり述べてきませんでした。いや、アドバイスしても残してこなかったのです。

 生まれついての大スターのような人のステージングに、これから小さなステージに初めて立とうという人が学べることは少ないでしょう。ステージは現場によって違うので、プロの助言が必ずしも的を得ないこともあります。そういう点では、歌やせりふと同じくステージというものも、曖昧なものですから少しずつまとめてみようと思います。声はメンタルに大きく関係していて、ステージ特有の声の問題は少なくないからです。

 私は、ずっと週に1回以上のペースで、人前に立ってきたこと(これは、いつものレッスンでなく、初対面の人たちの前に、ということですが)、講演や研修、ワークショップなど、大人数の前に立たされたこと、そして、裏方としてプロやアマチュアのステージでアドバイスを求められてきたからです。

 

○直前の変更は避ける

 

 ステージへのアドバイスは、原則として、「直前に急な変更はしないこと」です。ここで直前というのは1ヶ月くらい前を指しますが、出来不出来によって変えないことです。できたら、6ヶ月くらいは、セリフや歌をあたためていきたいところです。もちろん、例外はあります。

初心者であれば、先生のアドバイスに従う方がよいでしょう。迷いは、選んだ段階で捨てることです。他の事情で変えざるをえなくなったときも、がんばりましょう。

 練習しているうちに、歌であれば相性や気分が変わってくることもあります。もっとよい曲があると思ったり、他人の曲がよくみえてきたり、いろんなことが起きます。「決めたら、もう変えられない」と覚悟することです。

というのは、声や歌のよしあしよりも、覚悟が決まってから練り込んできたものでなければ、聴いて心地よいことがないからです。直すべきこと、考えるべきことは、そこでなく、その先、どうするのかです。

 

○選曲のアドバイス

 

 選曲は、あらゆる条件を踏まえて考えるべきことです。「歌い手は客によって評価される」と割り切れば、自分の歌いたい曲よりも客の求めることを満たせる曲を選ぶべきでしょう。「好みより才能や必要」優先です。わからないなら、先生やプロデューサーに選んでもらう方が間違いはありません。「えっ」と思う曲が勧められることもありますが、そこで自分を知ることができます。

 「自分で決めたい」というなら、最低でも1年がかりで準備してください。私はいつも、「月20曲、年240曲で、そこから20曲、それを5年くり返して、100曲から、また20曲のレパートリーをつくる」くらいを勧めています。「20曲を得るのに、1000曲以上にあたって欲しい」と思っています。月20曲のうち、4曲を選曲して続けていくと1年で48曲、2年で96曲から選ぶのなら、かなり適切な選択ができます。

 曲は、歌っているうちによくなったり、飽きたり、いろんなことが起きてくるものです。自分に向いている、向いていないも、つきあっていくうちにわかってくるものです。

 

○向いている曲

 

 曲の向き不向きは、その人を目の前にしただけではわかりません。実際に、2曲くらい違う感じの歌を歌ってもらわないと何とも言えません。声と同じく、曖昧なものです。カラオケなら、声が似ているプロをカバーするとよいと言われますが、ごまかしになりかねません。

 それぞれに見解、意見があります。選曲は売り方に大きく影響するので、プロデューサーの仕事です。歌手よりも曲を優先することも少なくありません。

 ここでは、そういうプロの関与しないところ、アマチュアのオーディションや発表会やコンテストでのケースを述べています。ステージによっても、問われることが大きく異なるでしょう。ステージの構成、何人で出るのか(人数)、何曲歌うのか(曲数)、バックの構成、場所、客数、設備など。他の出演者との兼ね合いもあります。

 初心者には、声域が広くなく、テンポアップした曲が無難です。大曲は中級者で、案外、上級者となるとシンプルな曲がよくなります。初心者向きか上級者向きといえる曲などもあります。スタンダードナンバーのシンプルな曲がそれに含まれるでしょう。

 

○間違えておく

 

 ヴォーカルの鬼門は、歌詞を忘れることです。一週間前くらいまで歌詞を見て歌い、覚えたつもりのまま出ていくのが、よくある失敗するケースです。これは、「忘れるという失敗」を練習で経験していないからです。間違えるのも練習です。

 レッスンのときに、よく言うのは、形だけで覚えたつもりにならないことです。暗誦して再現するという形だけでは伝わらないでしょう。実際は形しか聞かない客も多いので、形があればもつのですが。そこで一つ崩れると総崩れとなるリスクを避けたいです。

 歌をマスターするというのは、歌詞を覚えることではありません。「メロディを正しくとって、正しく歌詞のことばを付けていけば完成する」と考えるのはよくありません。

 必ず自分なりに再構築することです。歌でなく、歌で伝えたいことをリアルに捉え直し、仮に歌詞が出てこなくても、同じことを伝えられることばに、すっと変えるくらいに実を捉えておくことです。

 

○わざと忘れる

 

 2ヶ月前になれば、わざと間違いを促す試みをしてみましょう。絶対に歌詞は見ないこと。覚えていなくても見ないことにします。

 レッスンでは、プロの場合は、本当に時間がなく、やむを得ないときもあります。私は、みないで「レッスンでは楽譜でも歌詞でも見てよい」と思っています。「本番のステージでも場合によっては、見ていい」とさえ思っています。ステージ上なので、ポケットから紙を出すようではダメです。堂々と楽譜を出し、見ることです。

 慣れない人は、レッスンではうろ覚えであっても、ステージと思って、みないでやることです(プロなら前日や当日に最終版を渡されるケースもあります)。

 そこで忘れたり、間違えておくことが最大の予防法だからです。私はリハーサルで間違えたおかげで本番で救われたケースをよくみます。

 リハーサルがよすぎて本番がダメだったケースも多いのです。リハーサルがよければ最大級に気をつけることです。絶対に慢心したり、気負ったりしてはなりません。歌は生き物、ステージも生き物です。

 

○慣性を切る

 

 一番忘れたら困るのは出だしと最後です。出だしだけは、たくさん曲があるときは、カンニングペーパーに書いておいてもよいくらいです。曲順も忘れやすいですが、これはプレイヤーに聞いても形はつきます。

 人間の慣性を利用します。本番の曲順通りにいつも練習しましょう。無意識に出てくるでしょう。

すると、リハーサルで暗誦は完璧と思ってしまうのです。しかし、ちょっと意識が入ると、混乱します。実のところ、形だけ、つまり、流れでつながっていただけで、すぐに切れてしまいます。

 私のレッスンは、細かいことでは止めません。間違ったらすぐ止めてやり直させるレッスンが害となることもあります。発声も呼吸も出したら途中で切らないことです。

 

○深い記憶にする

 

 3ケ月位で覚えたものは、思うまもなく、ガラガラと崩れてしまいます。

 そこで私は、レッスン中にも、そういう人は、「2番から」とか、「○○の次から」とか指示します。2番の頭からなら入れても、途中からだと難しいですね。

 曲の構成、メロディの同じところまでの歌詞を比べたり、似た歌詞をチェックしておくことです。

 本番でいきなり間違えて2番から入ったり、途中から2番に入ったりするケースもあります。ことばがついていると、カバー曲でもなければ、客の大半にはバレません。ポーカーフェイスで凌いでください。

2番から始めたときは1番にするか、2番をもう一度歌うかな、くらい考えておいたらよいのです。間奏8フレーズを待てずに4フレーズで入ったときなどは、大変です。日頃コードを聞いて慣れておきましょう。

 

○間違ったことを客にみせない

 

 嘘をリアルに演じているのがステージです。歌詞のストーリーでも、あなたの実体験ではないのです。間違えたり、言い淀んだり、噛んだり、飛ばしたりしても気にしてはいけません。

 気にしなければOK、気にしたときにOUTです。間違えたことを、客に知らせてしまうのは素人です。バカ正直では客が我に返ってしまいます。なり切り状態で演じ通すことです。我に戻るようでは自己満足で、何一つ伝わっていないと知るべきでしょう。

 

○間違いそのものをなくす

 

 日本の教育を受けると、間違ってはいけないと、テストのように、ステージで自己チェックする人がいるのです。努力、やる気は認めますが、客を前にしてのこういうまじめさ、正直さは褒められません。

 客の心の先を読んで客を楽しませることです。演出、コーディネイトと瞬時に対応していかなくてはいけないのです。

 「客が先を読んでしまう」のと、「あなたの底力まで見切った時点」でステージは終わります。現実に迫ってしまうのです。

 

○客はあなたを肯定している

 

 お客さんは、会場に足を運び、黙ってあなたの表現を聞いてくださるのです。あなたの応援団であり、味方です。楽しみに来ています。できたら、あなたの表現で堪能したいのです。せっかく出たのに、無難なだけで、印象に残らない人がたくさんいます。声もよく歌もうまいのに印象に残らないのです。歌を失敗しても印象に残れば勝ち、それがステージの勝負です。

 客は味方であり、プレイヤーも味方です。あなた一人で敵に囲まれているわけではありません。一人で全てをやるのではありません。

つまり、ステージの半分はできあがっています。あとの半分も、司会者やプレイヤーがほとんどやってくれます。あとはそこに、いかにあなたの存在を植え付けるかという勝負です。

 ですから、リラックスして思う存分に、あなたの世界を提示すればよいのです。正しい、間違ったなどではないのです。ステージの後にあなたという存在を置いてこれるかどうかです。

 

1フレーズを中心に

 

 私がレッスンで1フレーズにこだわるのは、人に何かを伝えるときには、1つの息で(ワンブレスで)すべてを表せるからです。歌も、それで一つのテーマを展開しているにすぎません。小説→詩→音楽と抽象度が高まります。

 1つのフレーズで伝わることで、伝わる1フレーズのために、その前後があって確かに成り立つようにしているのです。成り立つためには、どこか1フレーズが、聞く人の心の奥に届かなくてはなりません。

 音楽の表現は、リピートで効果を最大にしていくのです。

「一声がないのに(完全にコントロールできないのに)歌えない」、「1フレーズが定まらないのに1曲をどうこうしても、大してよくはならない」というのが私の根本的な考え方です。

 何十人の曲から、もう一度聴きたい1フレーズを、ことばよりも声の伝わることで、チェックしてみてください。NHKのど自慢のチャンピオン大会でも、うまく歌う人はたくさんいますが、後で残る歌になっている人は、あまりいないでしょう。

 

○評価のしかた

 

 ステージ論になると、評価に触れないわけにいかないのですが、これは、私の好みでなく、トレーナーとしての立場での評価です。それをはっきりと区別するのは難しいことです。

 「アーティストがアーティストを育てられない」のは、「自分の好みが徹底している」からです。それこそが、アーティストをアーティストたらしめている条件だからです。となると、アーティストとプロというのを分けるべき必要があるかもしれません。

 プロというのは、求められた期待に常に応え、できる限りの成功をさせることです。ですから、クリエイター、職人といえばよいかもしれません。プロデューサーもトレーナーもプレイヤーも、まずは、よきクリエイターであるべきでしょう。

 

○二つの評価

 

 私が好みと評価を分けているのは、アベレージとしての客でなく、もっとも厳しい客として必要とされているからです。

 ですから、アーティストでないと、すぐに接点がつかないこともあります(アーティストなら接点をつけた上で、受けもてるかどうかはっきりしてきます)。価値の創出でみられるのが真のプロの世界です。

 のど自慢大会、カラオケレベルでうまい人も下手な人もいます。どちらも私には大した違いがありません。下手でもうまくても、伝わるのは同じくらいだからです。カラオケの先生のところへ行けば、その差を縮めることは、さほど難しくないでしょう。私のところでも扱っています。もっともわかりやすく成果の上がるところです。そこはうまく歌えていることへの評価です。

 

○差

 

 すぐれたアーティストは1曲、1フレーズで客を魅了します。そういうつもりで8曲で30分くらいのステージを構成しましょう。

 構成する力は、プロとしての腕が発揮されるところです。

カラオケのチャンピオンとプロ(実力があるプロ)との違いは、1曲で終わるか、数曲もつか、次回を求めたくなるかに表れます。

 全力ですべて出し切るなら、1分であれば、多くの人が自分の人生の表現を伝えられると思います。誰でも15分ならスピーチできるし、手腕もあるものです。人生ですぐれた小説、すぐれた詩も一編なら残せるでしょう。

 私もビギナーズラックという表現を、舞台に慣れていない人から感じたことは、多々あります。セミプロや下手なプロよりもずっと伝わります。その人の心が、人生が、無欲にピュアに入っているからです。でも毎回となると、不可能だからトレーニングが必要なのです。作品を通じて、オリジナルで価値の創出がなくては続かないのです。

 

○ハプニング対策

 

 客は、1曲目は顔見て、2曲目は服や振りを見て、3曲目で曲聞いています。歌をまともに聞いていないから、「そこまでは間違えても気にするな」とアドバイスしています。失敗さえも作品の一つとしてライブとし、効果として利用しなくてはなりません。

 お笑い芸人なら、とちりで客に引かれるか、笑いをさらにとるかです。その場の空気を支配するのは、アーティストと客との力関係になります。仕切ることができるかは、ステージでの信頼です。

 再三、ミスを繰り返すと、挽回は難しくなります。そういうときは、しきり直します。そでにひっこむのもよいのですが、客の前にい続けなくてはいけないこともあります。

・ステージのスペースを使う。

・左右、前後に動く。向きを変える。

・小道具を使う。

・他の人、プレイヤー、客をいじる。

ハプニングは起きるものと思い、起きたらそれを楽しんでください。日頃、他人のステージからそういうときの処し方を学んでおくのです。

 

○リアルに負けない

 

 生きているなかで、生活のなかの言動は、しばしば、まわりの人の心を打ちます。語りはせりふであり、歌です。私はよくリアリティと言いますが、声はリアルであれば、その人がその人であるという、絶対的な存在として伝わります。

 話と歌の評価を聞く人がいますが、歌にならなくても、声を出しているだけ、ことばを発しているだけでも伝わるものは伝わるのです。

 メロディと歌詞を間違わなければ、歌としてうまく伝わると思い込んでいる人ばかりになりました。

 生活のリアルにさえ敵わないリアリティであれば、歌う必要はありません。しゃべって伝えてもよいでしょう。日常のものがリアルに聞こえないから、リアリティがアートに問われるのです。

 

○リアリティを問う☆

 

 TEDの番組で、アポロ13号やタイタニックのセットを手がけたロブ・レガートは、「人は事実、現実そのものでなく自分の記憶の再現を望む」と語りました。映像として成功するのは実写とは限りません。模型の方がすぐれて、リアルに人の心に働きかけることもあるのです。

 ドキュメンタリーと映像の違いです。本人自身が話すのと、一流の役者がそれを演じると、どちらの方が人の心を動かすのか。事実を伝えるのと、脚色し、演出するのと、どちらが感動するのか、リアル感を高められてこそ、アーティストの仕事となるのです。

 それは、実際の漁師の船上での歌と、北島三郎さんの歌との違いです。どちらがよいとか、好きとかではないのです。受け手の心がどのように形成されるかです。漁師の生き方をシンボライズしたのが、北島三郎さんの海の男の唄なのです。

 

○受け入れる

 

 私の立場として、アーティストも、プロも、アマチュアも何ら関係なく、歌は歌、声は声、区別もよいものも悪いものもありません。「トレーナーとして、現状の判断は、トレーニングという将来の変化していくであろう像に対して行うようにしている」のです。

 いろんなテープを送っていただくのですが、その歌だけ聴いて評価することはできません。ライブがわからないからです。知人のプロデューサーに任せるか、そういう耳を借りて聞くこともあります。

 私は、トレーナーに発声、音程、ピッチ、リズム、歌詞の明確さなど、カラオケの得点となるものよりは、その人の本来の条件や目的によせて、アドバイスするように伝えます。声も歌も、「その人自身が変えたい、補いたい」と思わないと、こちらから判断の必要はありません。

 トレーナーとしての臨機応変の対応に、いろいろと思う人はいるでしょう。しかし、私は、自分に頼まれたものは、すべてOK、受け入れられます。好みはありますが、仕事ではそこからの基準を持ち込みません。一人の人間として、無となって楽しんでいます。ファンが一人でもいるならOKなのです。将来に可能性のないのは、不可ということでもあります。トレーニングに持ち込まれるものは、私心を完全に捨てて聞いています。これまた、何でもOKなのです。

 

 

Vol.95

○声の呪言

 次のような呪言をあげましょう。

声を大切にする。

声がよくなっていく。

声を気に入っている。

声が健康だ。

声が人をひきつける。

声が友だちをつくる。

声で仲良くなれる。

声で好かれる。

声で仕事がうまくいく。

声に感謝している。

〇声をよくするワード

 次の言葉をキーワードにして、いつも自分で感じていてください。

すごくいい声。

気持ちのいい声。

人生をよくする声。

リッチな声。

○声を使う

 実際には、次のように声を使いましょう。といっても、いろんな声があります。

声をたくさん使う。

声を長く使う。

声を大きく使う。

声を強く使う。

 いい声を聞いて眠るのも、自分の声をよくするのに効果的です。

あなたの好きな声をコレクションして、いつも聞いて眠りましょう。

〇声の目標を具体的にする

 話を聞いて、よくわからないときは、大体、当の本人が、はっきりイメージしてないからです。

 よく、「プロになりたい、だからヴォイストレーニングをやりたい」という人がきます。「プロって何ですか」と聞くと、「誰々みたいなの」、「歌で生活できる人」くらいで、それ以上に何ら明確でないことが多いのです。

 自分の欲していることが漠然としていては、叶いません。まずは明確にすること、無理なら明確にしていくこと。それが目標を立てるということです。「○○年に○○でライブができ、お客が○○人、CDは○○というタイトルで○○枚出して」

その上で生活するというなら、お金です。これも、数字をはじけばよいのです。わからなければ、いろんなプロから、そのパターンを借りたらよいのです。

〇ヴィジョン

 

 あこがれの人が「○歳で○○○のオーディションに受かり」というなら、自分も「○歳で、○○○のオーディションに受かる」のために、どうすればよいのか考え、調べたらよいのです。するとバンドを組もうとか、曲を年に何曲つくらなくてはということになります。目標が定まると行動を促すのです。それがヴィジョンです。

 トレーニングしているだけで動かない人が少なくありません。うまくやれている人を、「運がいい」と思ってしまうのです。行動しないと年齢だけとっても何もわからず、変わりようもないのです。

○言葉を声にする

 あなたの生活や仕事はどうでしょうか。

声に恵まれて、いいことがおきる。

声は喜びを与える。

私の声は皆を、幸せにする。

 とにかく、

1.頭の中で考える 2.言葉として出す 3.心がこもるように声にする 4.声を録って、いつも聞く それが人生での、声を使った成功回路です。

 何ごとも具体的にイメージして強く願うことで実現していきます。思いだけでも実現するのですが、そこに声という具体的ツールに介在させたら、成功率は飛躍的に伸びます。

 

〇話と声力

 何ごとも自分一人では、叶いません。必ず他人に協力を仰がなくてはなりません。そのときに、話が通じるかどうかが、常に成功のカギを握っているからです。

 いつも活躍している人は、無意識にもこのパターンの上で人生、仕事、生活を築いているのです。

 あなたは、声の力を加えることで、さらに確実に成功を入手できるでしょう。声は、そのための具体的ツールだからです。

〇言葉の起源論に、声の恋愛説

 声と恋愛というと、寝物語、いやかつては声と性ということで、極めて強い結びつきがありました。いえ、今もあります。現代は、それが、祭りや夜這いから、カラオケボックスや合コンに変わっただけです。

 第二次性徴期、女性は胸が出て、体が丸味をおび、男性は筋骨がたくましくなり、のど仏が突き出します。そこで声帯が伸びて、約2倍伸びるから、1オクターブ低くなり、デュエットができるという、摩訶不思議な発展をしたのです。

ホルモンなどの違いでも明かですが、まあ、男性が女性から生じたのですから、不思議でもないでしょう。

 そして、人間を人間たらしめる言語の誕生、その起源には、いくつかの説があります。私は、恋愛起源論をとるのですが、それはこのような経緯があるからです。

〇動物の声

 動物にも、声があるのかというと、少し違います。九官鳥などの発声は、人間とは、まったく別の原理です。チンパンジーなどは、唇が薄く、口内も違って、うまくしゃべれません。

今は、「言語を扱うから人間である」という説は、根拠を失いましたが。人間として生まれても言語習得には臨界期があります。狼少年のカンジは話せませんでした。

 

〇動物の声は恋愛モード

 

オスとメスでできあがっている世界では、動物も雄は飾りたてて、音を発して雌の気をひきます。たてがみや大きなきらびやかな羽などを得ます。

 声の低さ、太さなども強さを誇示する一つの手段だったと思われます。文化より根深い生物進化のレベルの話です。カエルのゲコゲコも、アヒルのガアガアも、目的は同じです。生物にとって、自分の命を守ること、それと、それに優先して、種族の種を残すことは、最大目的なのです。

 

〇声と生殖

 人間も同じです。声は、生殖のための大きな手段だったのです。

 雄だけではありません。雌も同じです。優秀な子孫を残すには、声を利用してきました。体が弱く頭が弱く、生存率の低そうな子どもを残すことは、自分の遺伝子の根絶を意味します。そこで、強く、たくましい声の雄に惹かれます。

 文明化してしまった人間を動物と、同じにはできませんが、あなたがタイプとして、健康、体力(性力)、お金(生活力)の三つを優先するなら、近いかもしれませんね。

〇声の相性

 声の相性の話に入ります。心が合うとか体が合うというのと同じく、声が合うというのもあります。私の知り合いが、そういう研究や占いをつくったこともあります。また、音相という研究もあります。音相は、音での感じです。かつて「怪獣の名前には、なぜガギグゲゴが多いのか」という本がヒットしました。

赤ちゃんの名前をつけるにも、字画とともに、音相の研究があります。名前は、最初に呼ばれ、ずっと呼ばれ続けるために、名前を呼ぶ声の感じが、性格に影響を及ぼすということです。

 などと考えていくと、声での相性、気になりませんか。

 声は、同じタイプがよいのか、違うタイプがよいのか。

 残念ながら、確信できるものはありません。声だけを取り出して比べることはできないからです。

 

○夫婦の声

 

夫婦ならアウンの呼吸がもっとも大切ですね。どちらかが一歩引いているところは、うまくいきます。

 声は、「売り言葉に買い言葉」をもじり、「売り声に買い声」、ちょいっと、強く言われるだけで、ムカっときますね。ですから、争わないためには、一歩引くことが大切なのです。

 今や、「オイ、メシ、フロ」の無言亭主は、ぬれ落葉から、粗大ゴミ、リサイクルもされない廃棄物になった感があります。とはいえ、口べたで声を出さない夫をたてて、実を握っていた嫁さんは、不幸ではなかったと、私は思います。

○声の変化でわかること

 声調っていうと、中国の四声が有名ですが、八声もあるそうで、ベトナムは六声です。アジの中でも日本語の音声はホントに単純で、ひらがなでそのまま読むだけです。日本人は外国語を学ぶことで発音での耳が鍛えられるのです。

 声の調子で嘘を見抜くと述べましたが、相手の心は、声の変化でわかりますね。急にやさしい声になったとき、急に饒舌になったとき、アヤシイしアブナイのです。

あと、話し方が変わったり、知らない言葉が出てきたり、寝言に違う人の名が出てきたり。

〇声と健康

 

 声で健康状態もわかります。顔色、目や舌もですが、覇気、集中力、意志、やる気も、声に表われます。

もし異常があれば、医者に行きましょう。診断というのは、普段の状態とどう変わったかがポイントです。声も、判断材料の一つです。

 ですから、いつもの普通の状態をよく知っておくことが大切なのです。

 自分の声の変化に気をつけると、自分の健康、体調、気力、バイオリズム、いろんなことがわかります。女性なら、生理もわかる。のども充血し、風邪声のようになります。本当に風邪のときもあるから、要注意です。個人差がかなりあります。

 

〇声の変化で、自分の心がわかる

 恋すると、饒舌になるといいますが、恋すると寡黙になる人もいます。おしゃべりな人が、その人のまえではベラベラしゃべらない。他の人にあまりしゃべらない人なのに、特定の人にはベラベラしゃべるようになる。ふだん言わないことまで言ってしまう。

そして、はたから「恋してる」とわかることもあるでしょう。自分より先にまわりに悟られることも多いかもしれません。

 

○本心がわかる

 声で自分の本心もわかります。「なぜ、声が上ずっているのか」それを起こしているのは、緊張、それはどうして?

 私もときに、自分の声が喜んでいたり、怒っていることに気づき、状況をみることがあります。

気を鎮めなくてはいけないときは、ブツクサつぶやくのは、よい方法です。般若心経を唱えるとか、マントラとか、何か座右の銘を一つもって、いつでも唱えられるようにしておくと助かります。あまり抹香臭いのは、人のまえではタブーですが、ゆっくりと低めに声を出していると、心が落ち着くのです。

「問いのレベル」 No.354

皆さんの問いのほとんどは、ここのトレーナーや長くいるクライアントなら、およそ答えられるでしょう。

 それをいつもチェックしつつ、私は、新たな問いや新しい回答例を研究しています。自らの問いをつくり、自問自答するようにもしています。

何よりも問いのレベルでの向上をみています。

問いのレベルこそが、その人の習熟度です。そこに、センスも、感性も、生き方も、そのプロセス、結果も表れるとさえいえるのです。

アーティストもまた、客に問い続ける存在といえるのではないでしょうか。

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