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「相手を知り、我を知る」

○相手を知り、我を知る

 

 私は、ずっと同じことを述べてきました。手を変え品を変え、今も同じことを述べています。時代や相手が変わったとはいえ、このロスをなくしたいために収録して、いつでも読めるようにしています。

 真実を知るのでなく、真実をみる眼を養うために古典、歴史から学びましょう。ずっと続けていると、この分野では、私のも古典になりつつあるのでしょうか。前に出した本を改め続けていくと、初めて出された本より、歴史的に磨かれているでしょう。

 いろんな人に振り回されているうちに、本質を見抜く眼が育つならよいのですが、私の経験では、それには、量や時間が必要です。さらにそれだけでは無理です。

量から入って質を得ていく人もいます。たとえば、子供のころの遊びや学習などでは、量でよいのです。しかし、大人になると、その量がとれないから、効率を考えます。ところが多くの場合、そこで理論や知識に振り回されてしまうのです。1回で100のことに気づく人も、100回で1つのことに気づく人もいます。後者は、100回くり返していくうちに10回で1つ気づけるようになります。しかし、100回で1も気づかない人もいます。そういう人が学ぶには、どこかで学び方を知っていく必要があります。そのために学ぶのです。

敵(目的、対象)を知り、我を知ることです。

 

○原則ルール

 

 声に取り組んでいる人に、共通して言えることがいくつかあります。全ての人が悩みから救われるとは言わないまでも、うまくいかないのは、その人の考え方の掛け違えとわかるように思うのです。その原則とルールを示します。

1、 基礎と応用は違う。よってトレーニングと本番も違う(レッスンの位置づけは、それぞれです)。プロデューサーや演出家の、よしがだめ、だめがよしということもありえます。それに対して、本質的なトレーニングは、ブレもせず判断と矛盾しません。他人の言うことが気になるものですが、切り離してトレーニングに専念することです。スポーツなら、体力づくりやフォーム改良と試合を同時に同じようにする人はいないです。オンとオフで、目的もやることの判断も異なります。abを分けておくことです。

a、トータル、総合、無意識、調整、しぜん、リラックス

b、パーツ、部分、意識的、強化、無理、ふしぜん

 

 レッスンも本質的、基礎の基礎、本格的になるほどに、感覚や体の内部的なところからの掘り下げになります。無理をしぜんに、非日常を日常に。

 

○批判・反論しても

 

 同じことでは、ずっと読んでくださっている人に失礼なので、もう少し踏み込みます。

 私は、現場での、現実対応を強いられてきて、それゆえに続けてこれたトレーナーです。基礎のための基礎について、理想論とかきれいごとは言いません。

 歌い手や声優にも、声より大切なものがあれば、声を捨ててでもよいと伝えます。声や歌のよさだけで、判断されることばかりではありません。安直に「どの声がよい」とか、理想や見本として、「正しいのはこれだ」と決めたり、押し付けたりすることを用心しています。

 私は、私以外のトレーナーや外部のトレーナーのやり方を批判しているのではありません。そのよいところも悪いところも含めて、研究所のなかで実践しようとしています。まずは、取り入れることがもっとも大切だからです。受け入れるところからスタートだということをわかってください。

 トレーナーのメニュや方法をとりあげて、その正当性など論じるのは、ばかげたことです。7割くらいは当てはまるというのが一般論ですから、そこを論じても部分にすぎません。

 何パーセント高めるとかというのは、論じられる対象ではないのです。方法、メニュ、判断についても、ある条件下でしか、突き詰めることはできません。その条件は記述しきれないのです。ですから、どんな理論にも反論はできてしまうのです。

 

○ぶれない

 

 トレーナーとしては、よくも悪くもスタンスがぶれない人を、私は一緒にやっていくための条件にしています。あとは、そのトレーナーに合う人、いや、生徒さんは、ここの場合、千差万別どころか、ヴォイストレーニングの枠を超えていらっしゃる人もけっこういるので、多種多様なバリエーションがあるのが好ましいわけです。

 邦楽出身のトレーナーは、他のヴォイストレーニングのスクールにはいないでしょう。役者、声優(今ではアナウンサーも)必修の「外郎売り」の口上なら、古典芸能の方が専門で本職なのです。

 基礎の基礎レッスンや本物のレッスンを、となると、私などが口上の指導をするのはビギナー向け、企業研修くらいならよいのですが、お門違いです。

 入門から本物に触れていくのがよいに決まっています。ということで、外部のスタッフも充実させています。しかし、どんなによいトレーナーを整えても、本当の問題が学ぶ人にあるのは、確かなことです。

 

○声への成果

 

 責任がどちらにあるのかが、サービス業との違いと思います。なかには、金を出すから早く身につけたいと、殿様気分でいらっしゃる人もいます。そういう人は、しゃれた街の大きいビルの、受付嬢が3人くらいいるところに行くとよいでしょう(私の、日本にある英会話の学校などのイメージです。どこかのスクールを揶揄しているわけではありません。そこまでヴォイトレは、ゴージャスなところはないような、あったら是非、お招きください)。

 ヴォイトレは声のトレーニングですから、トレーニングすると声に成果が出るものです。副次的に、声量、声域、共鳴、発音、表現、歌、せりふなどに完成度が得られるのです。これらが目的なら、声量トレとか高音トレとかでもよいでしょう。目的としては、声そのものより、その使い方、機能、あるいは、声からはるかに離れた表現らしいテクニックになってしまうわけです。何に成果を求めるのかをはっきりさせていくことが大切です。

 

○ヴォイトレの対象

 

 ヴォイトレの対象は、簡単にまとめると、音色がメイン、声域(基本周波数ファルセット)、声量(音圧)、発音(調音)はサブ、メリハリ、間といった、せりふの要素や音程、リズムなど、歌の要素はかなりの応用ですが、呼吸という基本と直結しています。

 プロデューサーが、よく「ヴォーカルは声が絶対、それだけで選ぶ」と言っていますが、それは音色であっても、音楽的な感性をからめた歌唱時の声の共鳴の具合と働きで、必ずしも声そのものはそうではないのです。

 ヴォイトレで、音楽的な声にすることさえ、ほとんどやっているところはありません。音程、スケール、リズムの練習をしてカラオケの得点を上げるような結果を求めているからです。

 トレーナーも生徒さんもそれを求めるから、当然、トレーナーもそうなっていきます。

私たちのように、それを想定しない方が稀有の存在です。声そのものと、歌唱の声も異なりますが、どちらも(あるいは、どちらかが)大切なのです。しかし、両方ともあなたのヴォイトレの対象になっていないのではありませんか。

 

○優先度と重要度の違い

 

 仕事である以上、現場で要求されることが早急の課題となるのはしかたありません。私どもも、36ヵ月後のデビューやオーディション、1ヵ月後の結婚式の余興まで、真剣に全力で対応しています。

 しかし、この優先度に振り回されている限り、もっと重要なことが後回し、遅れるというならまだしも、その可能性がスルーされたり、損なわれることも現実に起きているのです。

 芸道やスポーツなどでは、器用さで、早く頭角を現したものの大成しない例はいくつもあります。才能や努力を評価するのは難しいところですが、後で大きくなるための基礎と、その時点で凌ぐだけのやり方は逆になることがほとんどなのです。

 しかし、日本では若い時期のチャンスを優先する、実力がなくても若さで出られる、実力のないのが若さだから、それゆえ出られる。それが、歌い手だけでなく、声優、アナウンサー、タレント、役者に蔓延しています。それゆえ、若い歌手の素人声、「ジャニーズ声」というと、わかりやすいでしょうか、は誰でも出せるということです。大人になってもそう変わらないのです。彼らは、声の魅力で売っているのではないから、その必要もないのですが。

 

○問題なしの問題

 

 ヴォイトレなのに声が不在というのを、私が述べるのは、「医者に殺されないための本」を医者が書くようなもの、CIAのエージェントがリークする内部告発とはなりましょうか。

 私はトレーナーの不正や非を訴えているのではありません。薬をたくさん出してくれという患者に、好きなだけ出す医者は儲かりますが、トレーナーはそんな自覚も不正感も持っていません。その医師は、相手の体調が悪くなることを知っているなら大罪です。非難されてしかるべきです。でも、人により効果はかなり違うものでしょう。

 私も、トレーナーというか、私自身もここのトレーナーも含めて、非難の対象としていません。

 しかし、トレーナーは「こうしてください」に対して「こうしました」そして「ありがとうございました」とお礼を言われてwinwinで、何ら問題はなし、というのが問題なのです。これまで他の業界で起きるような改革もあまり聞きません。質も高くないし人数も多くないこともありますが…。

 

○ヴォイトレの問題

 

 「問題として扱わないことが問題」これは私がヴォイトレの問題として、これまで、とるに足りないことを「問題としてしまうから問題になる」の反対ですが、両方とも問題です。

 私からみると、声の分野は未成熟で、その表現の世界である歌、演劇などからみても若く、層の薄い分野です。「話し方教室」のようにストレートにビジネスマンや一般の人の能力アップに位置づけられるだけのステイタスも歴史もありません。

 プロで活躍している人がたくさんいる分野からみると、趣味やサークルのようなものかもしれません。ただ、昔よりは本気の人が増えてきて、それはよいことなのに、人材の層が薄く、レベルが高くないために、いつまでもビギナー市場のようになっているのです。

 本やネットで知識を得ても、扱うのは人間の体や感覚です。机上で解剖学辞典を頭に入れたヤブ医者や学生のようなレベルでは、受け手(レッスンしにくる人)と似たようなものですから、批判はしませんが、その位置づけやレベル、自らの力(自分の芸の力でなく、人に対しての力)を知ることができていないと思えるのです。

 

○声楽界の見取り図

 

 以前、ここにいらっしゃる人のほぼ9割は、ここで初めてヴォイトレを経験しました。そのとき、私は歌をうまくするのでなく、声をトレーニングする、ということでスタートしたのです。応用を自分で学んでいない人が増えると、こちらが手伝わなくてはいけなくなり、サブのカリキュラムが増えていきました。いつ知れず、音楽スクールや専門学校のようになりつつあったのを経験しました。

 いらっしゃる人の望みにストレートに応えていくとそうなるのです。こちらも若かったのでしょう。そこで、どんどんと人が増えていきました。何でもサポートすると、サービス業化していきます。最終的には、発表会プロデュース業になっていくわけです。そして、声という原点が忘れられてしまう、先人たちと同じ轍にはまっていきかねなかったのです。

 そこから抜けたのは、この分野も広くなり、今は半分以上の人が他でヴォイトレをやってからいらっしゃるからです。プロよりも一般の人を対象にトレーニングすると、また、同じような轍にはまりやすくなるのですが。

 ここのトレーナーのレッスン内容を把握すると、日本の今の声楽界の見取り図ができます。ここの生徒さんの他で行ってきたレッスンを把握すると、ほぼ全国のヴォイストレーナーや指導者の見取り図ができます。ここには、日本の声の指導の膨大なデータベースが備わりつつあります。セカンド、サードオピニオンのできるバックグランドは、このデータベースです。

 

○ヴォイストレーナーの盲点☆

 

 ここを出てヴォイストレーナーになった人のところからも、ときおり生徒さんがここにいらっしゃいます。そのトレーナーの話で興味をもっていらっしゃる人と、そのトレーナーに反発していらっしゃる人とがいます。どちらにしても、そのトレーナーが生徒であった時期を知っていると、明確に、トレーナーの教え方がわかります。

何がうまくいくか、何がうまくいかないということがみえるのです。元々、そのトレーナーのもっているところや長所については、ヴォイトレで得たわけでないので他人に教えられていない。つまり、指導ではネックとなりやすいところです。しかし、そのトレーナーにつく人は、そこに惹かれてつくのです。この矛盾をわからないのは声が特殊な分野だからです。☆

 ヴォイストレーナーになろうという人には、歌手で続かなかった人もいますが、まじめに学んで、まじめゆえに人に教えてあげたくなった人もいます。挫折を避けた教師タイプのまじめさは、生徒にはメリットにもデメリットにもなります。まじめなトレーナーにまじめな生徒がつくと、まじめなレッスンになります。つまり、正しく教えてその通りにさせるのです。舞台からは遠くなっていくことが多いです。そういうタイプのトレーナーは、長所をみつけたり伸ばしたりすることよりも、短所の補強が目的で時間が経ってしまうのです。

 トレーナーのもっているようなよい声や音楽センスをもっていないのに(大体、トレーナーというのは、どちらかもっています)自分の弱点をなくしてもらったところで、普通になるだけです。発声の力の不足が若干補われたところで、プロになれる方向に向けられていないのです。

 

○判断の深さ

 

 よくこのような例で比較しています。

1.早く(半年くらいで)12割よくなるが3年くらいで(早ければ1年)進歩が止まる。

2.一時、実力は落ちるが、3年くらいから(人によってはコンスタンストに)伸びる。

「歌や演技は応用で、声が基礎」とすると、基礎が応用に効いてくるのは後からです。今は、徹底した基礎をやりたいと言う人が、その期間として「23ケ月くらいで」と言うようになりました。

 基礎にもピンキリがあるようですね。世の中、それなりにまともに評価されている芸で、徹底した基礎というなら、10年を切るものなどありません。

 23ケ月の基礎どころか3日とか3週間でできる基礎、それどころか、目標達成のできるというようなチャッチでレッスンが売られている時代です。

 それをいうなら、私は「読むだけでよくなる」というような本をたくさん出しているではないか、と言われかねないのですが、それは、基礎の力を応用に転じられない人への気づきのヒント、パラダイムシフト、きっかけとなるものだからです。

 多くの人には3ケ月くらいは「基礎とはけっこうかかるものだ」とわかってもらうためのレッスンです。目的が叶えられたなら、やめればよいし、あとは自分でやるというならそれも自由です。基礎の深みがわかることが、まずは基本ということでしょう。

 

3段ロケット(BAC

 

 基礎の力については、なかなか伝わりにくいので、私は、レクチャーで話しています。

 基礎を徹底してやれば応用に効いてきます。基礎がBとしたら、それは応用Cに届くのです(Bはベーシック、CのベストはウルトラCのつもり)。

 それではよくワークショップなどにある、この2つの間と思えるアドバンス=Aとでもいえるレッスンはどうなるのでしょう。

 私はCを見据えてBだけに専念する期間をとれるかが、大輪を咲かす条件であり、「条件を変える」と言っています。

 ところが、多くの人はすぐに応用Cに結びつくアドバンス=Aのところばかりやるのです。

 Aのなかでは、状態をよくするのです。ときたまCに届いても、ウルトラCなど出ようもありません。つまり、Aでは-AAが+Aになるくらい、これが普通のヴォイトレです。これは研究所内でもやっています。ただし、私の考える究極の、いや本来のヴォイトレはBCなのです。ここは、基礎と応用をやるところです。

 

○高音の問題

 

 Jポップスでは、高い音に届かせたいというのが、もっとも多い課題です。これは音大生の最初の壁と同じです。コンコーネ50のメニュには、2つほど、高いラの高さまであります。そのため多くは高音のクリアが中心課題になってしまいます。

 ポップスでは、ファルセットを使う曲が多くなったために、やたらとミックスヴォイスや声区の問題が出てきました。

発声の理論などいくらたばねていても何にもならないことを知っているので、現実的に具体的な対策をしています。

 「方法やメニュを教えてくれ」とメールでよく聞かれます。こういう限界域では、万人に共通な解決法はありません。

 独学なら無理せず、あなたの元々出しやすい母音や子音で応用していくのがよいでしょう。しかし、この出しやすいことイコール高音に最終的に向くかは別問題です。しかし、これは徹底されてはいません。あなたの高音をもっとも出しやすい音として、イメージしておきます。もっともわかりやすいのは、毎日同じスケールで挑むことです。

 初心者、ヴォイトレをやったことがない人で高音を望むなら、声楽のトレーナーとやりましょう。ポップスで、もともと高音好き、高音向きのトレーナーよりは、声楽のトレーナーが相手のタイプを選ばないという広さと基礎の身につけ方をもつからです。

 

○高音トレーニング

 

 プロやいろんな人とやってきた人は、ここにいらっしゃると中低音での発声や、音色、共鳴を見直し、大半のケースでは、ほぼやり直します。ここでは、共鳴以前の発声、呼吸、姿勢まで基礎づくり、多くはイメージづくりからです。

 そこで声の方向性や共鳴の焦点、体感のイメージといった判断基準=重要度や優先度は、トレーナーによってかなり異なります。ともかくもイメージを持ち、それによって丁寧に繊細にコントロールできるようにしています。

 日本で行われている高音トレーニングは、声量を絞り込んで、弱い響きで集めて、届かせるという技法が主です。バランスの転換です。私共のトレーナーの半分以下の声量で高い音に届かせる、あてるだけの結果となります。多くのケースで、トレーナー自体に声量もないはずです。それで満足できないというのなら、基礎での条件づくり、バランスでなく力量を変えなくてはいけないのです。

 一人ひとり、違う喉で出しやすい音や高さも違います。一つの方法では、それでうまくいく人も、うまくいかない人もいます。すぐできる人も、時間がかかってできる人もいます。ハイレベルでマスターしたいなら、すぐにできないことを、時間をかけて工夫しながら習得していくのが本道です。

 

○ミュージカルでの応用

 

 どこまで高い音を使うのかは、ポピュラーのソロなら、声の音色で決めることです。オペラやミュージカルは、曲で決まっていることが多いので、声域の獲得と、確実なキープが第一の条件になります。特にミュージカルに声楽の基礎のない人が抜擢されると、いつか、高音の共鳴が克服すべき主な課題になり、ここにいらっしゃいます。

 30代くらいまでは、案外とラフな発声でも回復するので耐えられます。ダンスや役者出身の人で勘もよいからです。

 演出家が、「声を大きく」とか「発音をはっきり」と言っても、「強く出したり口をクリアに動かさずに結果がそうなるようにする」ことで、喉を助けましょう。たとえば、フォルテッシモ=ffはとても強く出すのでなく、感情が強く表れるような表現、つまり、客に対して伝わることでみるべきことです。

 大きくクリアに開けることと大きくクリアに出すことは違うのです。小さくても強い感情を表すことはできるし、口の形を大きく動かさなくても明瞭に聞こえるようにできるのです。

 特に、大―小、強―弱のような大ざっぱな動かし方しかできない人に、鋭―鈍とか、加速度、間、呼吸などでみせられるようにしていきます。こういう舞台では、声の処理としての応用を必要とするからです。応用は、自分の持つものの延長上で処理しなくてはいけないのです。そうでないから、支障が出るのです。

 

○未成熟な声への判断

 

本来、表現で問うものを、「大きく」「小さく」とか、「早く」「遅く」とか、「音程」とか「レガートやロングトーンのキープ」「ふらつかない」とかいうことばを使わざるをえません。現場での注意には、残念ながら、声や歌に対して未成熟な日本らしさを感じます。

 本番前の稽古で、「せりふを間違えないで覚えてきてください」と言わなくてはいけないような役者を、オーディションで選んでいるということです。これは役者でのたとえで、歌手の例では、歌で選んだのに「歌詞を間違えたり、音程を外さないでください」と、私からすると声についての初心者の注意を受ける人が舞台にいることです。

 人の層もレベルも、支えるスタッフも、圧倒的に向こうとは違うのです。

 大きな舞台をたくさんやっているところはありますが、声や歌、音楽に重きをおいていないように思います。それゆえに続けられるシステムに学べることも多いでしょう。

 

○喉の疲れの蓄積

 

 「個性のある声」で「高いところ」までもっていく、この両立が、今やレッスンの現場での最大の難関です。役者と声楽的な要素を兼ね備えた、昔の宝塚の男性役スターなどに若干みられた、それなりの熟練度も今や風前の灯です。

 プロセスでは、話す声はガラガラで障害を起こしても、1オクターブ高いところで歌えるとか、裏声だけとか地声だけ、どちらかが出ないとかが多くみられます。こうなると、ガンの宣告のように余命が長くて510年、年齢とともにステージに上がるまでには回復できなくなります。いずれ自主休業かドクターストップです。

 私が関わってきたところでは、連日連夜の出演をするところも多くあります。週1回くらいのライブのペースなら、中6日休みで喉が回復します。それでプロとして続いている。売れたら連日持たない喉です。これでは、できていないということで同じです。

 役者でも喉を壊します。一流のレベル同士なら、はるかにせりふの方が負担は大きいのですが、高音がない(ピッチが問われない)ので、ガラ声で続けられるのです。これも問題です。

 

○形と実

 

 トレーナーは、現場では歌手や役者の身を(喉を)守らなくてはなりません。

 現場の指揮者には、さまざまなスタンスがあると思いますが、作品の評価をよくすることが第一で、表現中心です。それに耐えられない人には、過度の期待と負担をかけることになります。

 すると、どうなるのでしょうか。スポーツのアスリートのように明確な基準のある場合、単純です。

 男子100m走レースでは、世界は9秒の壁、日本は10秒の壁に挑んでいます。ときに日本人選手がいいところまでいきますが、アスリートの世界ではNO.1、金メダルを目指しているので、日本人の選手より速くても金がとれないから、他の種目に出る選手もいます。8位に入ったから世界で8番目ということにはなりません。

 音楽のプレイヤーもけっこう明確な基準があります。ルックス、スタイル、MCでなく、演奏、音で全て判断されます。高度に演奏する技術なしにプロになれません。

 しかし、歌やせりふの声は、総合力の要素の一つです。となると、一流を目指すよりもその表現力よりも、確実に外さない安定、安心が第一の目標になってしまうのです。

 

○教育の平均化

 

 集団で行うもの、合唱やミュージカルでは、他人に迷惑をかけないこと、コンスタントに平均点をとり、総合点をキープできることが、日本では求められます。スターはいらない。ミュージカルは、スターを生み出すのでなく、別に有名なタレントをスターとして連れてきてまかないます。その結果、形から入って形に終わるのです。私の感じたい声での表現の成り立ちのプライオリティは、とても低いのです。

 形というのは、ステージ、舞台、音楽としてのハコがきちんと整っているということです。ホールや設備があればよいこと、それは今や当たり前なのですが。新人歌手も音大生も、平均のレベルは高くなりました。下手な人がいなくなったのです。それは、トレーナーやスタッフの実績といってよいでしょう。

 昔の音大生のオペラなどは、失礼ですが、人前に出すものとしては破たんしていました。今は、最後にしぜんと拍手がくるほどのものになりました。でも、スターがいません。それは、トレーナーの責任外ですから、指導の負の部分かもしれません。

 ステージでせりふを忘れて泣き出す子は、ある幼稚園ではいなくなりました。CDで流れるせりふにフリだけつけるとそういう失敗は起きないのです。進行もきっちり時間通りに終わります。全員の失敗をなくす見事な教育です。皮肉ですよ、念のため。

 

○個性と成長

 

 型にあてはめられて、そこで個性が死んでしまうというなら、その程度のものに過ぎないので、そういった型がいけないとは思いません。ただ、型がなくとも形にはまってしまいやすい人がいます。形にはまるのが勉強と思い、はまりたがって努力する人です。他の人の言う通りに動く人、つまり、器用な人、上手く立ち回る人、正確な人、いつもそれなりの力をキープできる人、絶対に休んだり、遅刻しない人、こういう人を私は、優等生と呼びます。そういう人は大切ですが、そこでばかり選ぶことがよくないと思うのです。

 現実がそうであれば、それに対応するためにトレーナーも、相手をその方向にもっていくわけです。そもそも、トレーナーも優等生が多いのですから、頑張るほどに、そういうふうに育つのです。

 「個人の色よりも、組織集団の色が強く出る」のは、日本の会社も劇団もプロダクションも同じです。よし悪しともにあることでしょう。

 しかし、喉や声は個人のものです。他に合わせようとすると、中級レベル(アドバンス=A)に早く到達するものの、上級レベル(ハイレベル=C)はいかなくなりかねないのです。トレーナーは、そこには細心の注意をもってあたることです。

 

○同時に、一瞬に得る

 

 ヴォイトレというのなら、声に向きあうことからです。そこを原点としてください。体の肉声を出すこと、その上に声量、発音や声域があるのです。

 急がないことです。声に向きあえないのは、覚えることや間違えずにくり返すこと、せりふや歌詞に加えて、ピッチやリズムといった楽譜に囚われてマスターしようとしているからです。

 ある意味では、こういうものは「同時に、一瞬に得る」ものです。そこを経験したら、また細かく分け、順序だて、一つ上の次元を目指すのです。そのための体を用意し、感覚を磨いて、保つのです。

 せりふも歌も声で仲介するメディアに過ぎないのです。どんなことば、メロディでも、それを正しく再現すればよいのでなく、演者が魂を吹き込み、ありありとしたリアリティをもたらさなくてはなりません。やらされている、歌わされている、すごかったもののコピーをしているだけ。それでは、ディズニーランドです。

 

○限界の対処へ

 

 トレーニングを行う目的の一つは、自分の「限界を知るため」です。限界というのは、メンタルとフィジカルとあります。

最初に声を出して、このあたりが限界というのは、まだ自分の思い込みです。これをメンタル0、フィジカル0状態とします。リラックスしたり柔軟をするとメンタル-1、フィジカル-1、トレーニングを受けるとメンタル-3、フィジカル-3くらいになります。

 ビギナーは、やっていないのですから、初めの状態が変わると、その日でも30%くらい、実力はアップします(何をもってか、この数値も適当ですがイメージで)。そこを最初の限界としておきます。

 それを大きく変えたいなら、「体から変えること」と言っています。この数値を声域でとるのは、あまりよくないことです。優先したいからバランスがさらに偏るからです。すると、高い声ばかり出そうとして声量が出なくなります。声量ばかりにこだわると声域は狭くなるのと逆です。

 

○限界の突破法

 

 指導となると「喉が…だから」「歯や歯並びが…だから」「かみ合わせが…」「舌が…」「声帯が…」「口が…」できないと言うように注意をするのがトレーナーです。わかりやすいことです。

 一つのことが原因でできないということは、確かにあります。しかし、多くは、いくつもの原因があります。全く異なる他の方法で解決が図れることもよくあります。

 「医者に行く」のは簡単ですが、医者ならどこがよいのか、トレーナーや、他の専門家がよいこともあります。アドバイスというのは、けっこう雑なものです。

 限界は、壊して超えるためにトレーニングすることです。

 本当に必要があるのかを知ること、時間や内容に成果が見合うのか、他に力をかけた方がよいのではないか、いろいろと考えられます。ハンディキャップがあるとしたら、それを克服して限界を、より厳しく知るなかで対処する方法を編み出せばよいのです。

 

○自分に合ったやり方

 

 声の弱かったために、丁寧に丁寧に声を扱っていた平幹二郎さんと、強く出し、潰しては強くしていった仲代達也さんの話をときおりします。自分に合ったやり方を見い出すこと、知ること、選ぶこと、そして、つくることです。ヴォイトレも、表現と同じ、個性と同じで、一人ひとり違うのです。どのやり方がよいなどというのを自分不在の、机上の空論に巻き込まれないようにしましょう。

 誰かがよいと言っても、そこに大して根拠がありません。あなたに対してどうなのかとなると、ワンオブゼムに過ぎないこともよくあります。電化製品やレストランの評価でもかなりばらつくでしょう。人によって味覚も違うのです。未熟なトレーナーほど、自分が一番よい方法を知っていると思っています。

 自分×将来への時間×努力×やり方(メニュやトレーナー)という変数を無視して、一つだけを見ても何にもなりません。あなたがレッスンをあまりうまく役立てられていないなら、こういうことをもう一度考えてみてください。

 

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