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2021年3月

「お山の大将」の脱し方

○トレーナーの採用

 

 ときおり、トレーナーになりたい人から連絡があります。これまでの経験から、トレーナーの採用とその周辺の事情について述べます。

 ここで扱うヴォイストレーナーとは「声を育てるトレーニングをする」トレーナーです。

 いくつかのスクールの立ち上げと共に、トレーナーの紹介をしてきたことは、私にプラスになりました。その後にそこからの経験や結果、人が育ったか声が変わったかということもフィードバックされました。研究所外ですが、多くの学びがありました。

 短期のレッスンやワークショップ、体験レッスンも、これまで随分と行ってきました。

 このようにして私は元より、私のところのトレーナーは、いろんな材料を持っています。DVDCDなどの教材も集めてきました。現実のレッスンとは切り離されたものですが、いろんな示唆が得られます。

 

○声を観る

 

 トレーナーをみるときには、私は2つのことをみます。一つは声で、もう一つは本人をどのくらい客観視できているかです。

 日本の場合、経験の略歴や肩書というのもほとんど当てにならないのです。出身の大学(音大)などや、学んだトレーナーの情報が、実際のレッスンで問題が生じたときに参考になることもあります。しかし、それらは先入観にもなるし、同じ出身でも声に関しての考えや扱いは一様でないので、その人の体、感覚上に現出している声とそのコメントをみます。そこは生徒さんをみるのと同じです。

 教えてきた経験の有無やキャリアについては気にしません。経験のある人は、どこかでレッスンを受けてくる生徒と同じく、ブレが大きく、よい方にも悪い方にも大きく出るので、気をつけてみます。

 声などは曖昧なものですから、何か人に教えてきたという経験、つまり教える技術だけでもレッスンくらいできるのです。呼吸や身体、話し方などの一つに詳しくて何かを教えたことがある人なら、ヴォイストレーナーと名のればそれでOKでしょう。資格がない上に、何をどう教えてどうなるのかさえ決まったものではないのです。ですから、教える技術、つまり、人に対することへのスキルを持っている人ほど気をつけなくてはなりません。

 「喉や声をよくしてあげる」と言って、信用してもらえたら、カウンセラーでも、フィジカルパーソナルトレーナーでも、務まってしまうからです。そういうトレーナーに気をつけろと言っているのではありません、そういうことが得意なトレーナーこそ、自ら気をつけることです。自分の得意におぼれてはよくないのです。

研究所は、私がトレーナーに信用を与えた形になるので、その後、レッスンが成り立つところまでしっかりとみる必要があります。しかし、そこからお互い多くを学べるのです。

 

○アカペラの声

 

 私は声をアカペラ(この場合は、マイクなどの音響技術を使わないということで、意味が違うのですが、生声というのも私の伝えたいニュアンスと違うので、慣習的にそうしました)でみることにしています。歌唱やせりふ、ナレーションにもいろんなテクニックがあります。そのなかで、声そのもののトレーニングに焦点を当てるために、マイクを使わない声としてみています。ヴォイトレには、これと異なる見解があるし、マイクテクニックやマイクを通した声でみることを否定するのではありません。ここにも一部、マイクを取り入れるレッスンがあるからです。

 アカペラがなぜ大切かというと、声を、音のソースとして純粋にみるためです。音響で加工することを前提にすると、トレーニングの前後で何が変わったのかも曖昧になりかねないからです。

 マイクの使い方がうまくなって作品がよくなるのはマイクテクニック、同じように、発音がよくなって作品がよくなるのは発音トレーニングです。そのベースにヴォイトレの効果もあるなら、どこで区分けするのかが曖昧です。

 実際、声に基準をつけるとしたら、こうしたボトムアップでなく、一流のレベルで声を使う人を想定してのトップダウンでしかないと言うのは、基準を明確にするためです。

 

○声の力

 

 私は、声の基礎を習得するのに1万時間以上はかかりました。3~5万時間のトレーニングで安定してきた自覚があります。

とはいえ、声は楽器と違い、練習時間だけで判断できないものです。練習時間を正しく算出することができません。人前で弁論し続けてきたとか、役者を何十年も続けたことで、同等レベル以上の声を持つ人はいくらでもいます(この比較の基準のとり方こそ、問題にすべきことです)

 同じような育ちで同じ年齢、性別で同じ体をしていても、一方は立派な声、他方は貧弱な声というケースもあります。声には、素質論、環境論(教育論)と、いろいろな未確定要素があり、突っ込みどころ満載です。

 研究所のトレーナーの共通点としては、23時間、舞台で声を出しても、その後に支障がないこと、しかも全力での声で、です。私自身の経験では、連日8時間、大声で話しても異常をきたさないレベルです。野球でいうと力投で完投できるということでしょう。小学生でもそういうピッチャーはいるのですから、大学かプロの二軍リーグくらいの感覚を、体のレベルで求めているといえばよいでしょうか。その上は、歌唱や演技の技術になります。これは、ヴォイトレからは応用のことになるのです。

 

○強さを条件とする

 

 強い声、強い喉は、歌手や役者の必要条件ではなくなりつつあります。それがあれば万全といった充分条件にはならなくなりました。今の私の立場での見解です。

 ただし、トレーナーとしてのありようとは別です。組織として、一緒に教えるトレーナーの条件としては必要なことです。

 ヴォイトレは、発声―呼吸―体と変えるのです。そこで共鳴の専門家である声楽家は、この支えが必要条件になっています。1万時間かどうかはわかりませんが、5年から10年のキャリアで基礎ができてきたねくらいにしかならないくらいの研鑽を積み重ねているからです。邦楽も同じです。

 ここのトレーナーは一声で差を示せる感覚、体をもっています。それを伝えることができます。一般の人を納得させる、トレーニングしていないと出せない一声があるのです。

 これについての異論、異なる見解はあるでしょう。私もわかります。しかし、声ゆえ、聞いてわかるというシンプルなものでしょう。経歴や肩書をみなくては判断つかないなら、その方がおかしいのです。

 

○声量が基本

 

 トレーナーが立派な声でなくとも、教えるのにすぐれていればよいと思っています。声の出ないトレーナーを否定しているわけではありません。トレーナーによっても大きな差はありますし、それぞれに強味も違います。

 オペラ歌手ならオペラの歌唱がよければよい。トレーナーなら教えた人の声がよくなればよいのです。トレーナーの声にこだわっているつもりはありません。

 共鳴―声量というのは、アカペラの世界においては第一の条件です。発音や音感、リズム感がいくらよくても、音として伝わらなくては乗っているものは伝わりません。

 ビジネスマンの声の研修で、「声の要素のうち、もっとも大切なのは何でしょうか」と聞くと、説得力、高さ、入れのよさ、元気、心、優しい感じ、魅力とか、いろんな答えが返ってきます。正答は声量です。どれもまず、相手に聞こえなくては始まらないということで、声量です。

声の大きさは、大きければよいのではないですが、適度に通る声、不自由なく伝わる大きさの声が必要です。この基本が、特にマイクが必然となった歌唱のヴォイトレからは失われています。ヴォーカルのためのヴォイトレが混乱しているのです。

 

○オープンにする

 

 自信をつけさせるには、合っているトレーナーをつけますが、ときに、逆のタイプをあてるのもトレーナーを育てるには効果的です。

 これらを組織的に行うと、こちらが意図しなくとも、生徒さん自身が自分が合っていると思うトレーナーを選びます。これは当然のことです。特定のトレーナーとの結びつきが強くなります。

 私が強いて2人以上のトレーナーをつけ、他のトレーナーも関わらせようとするのは、その結びつきをクローズなものでなく、オープンなものにして、自分の力を客観視できるようにするためです。それはトレーナーにもよい学びになります。

 ここで育てるのと、そうでないこととは大きな違いが出ます。

 長く続けてもらうには心地よくする、今でいうと大手の英会話教室のように、徹底して顧客サービスをするのです。褒めて、励まし、認めて、満足させて、長く続く中でしぜんと身につけていく、これは語学だけでなく理想的なことです。

 ハイレベルで学んだことを人前で使いたいとか、誰よりもすぐれたい、より高くとか、より早くという欲があるのならば、ふしぜんにも予習復習をし、人の何倍も努力しなくてはなりません。トレーナーはシビアな状況でも切る抜けられるほどの疑似環境をつくります。一流レベルに近づくにつれ、要求をもって厳しく接するでしょう。

それがよいと言っているのではありません。そこは生徒さんの目的や要望によるということです。ストレス解消、趣味でという人と、それで食べていこうという人は違います。それをはっきりと本人もトレーナーも区別しておくことです。

 

○開けていく

 

 昔ならば、心構えや考え方もできていないのに芸は教えませんでした。それで「プロになりたい」と学びに来た人を、プロのトレーナーなら引き受けなかったでしょう。しかし、今やプロたるトレーナーは少なくなりました。大半は先輩や友人型のトレーナーです。理想やヴィジョンよりも、自らの生計と生きがいのために誰をも愛想よく受け入れるようになりました。

 これを批判するのではありません。需要があれば供給もあります。「絶対プロになれます」とうたって生徒を募集している大手スクールよりよいかもしれません。

 私が思うに、人は自分の器に合わせて人生を選ぶのです。そしてトレーナーも選ばれるのです。小さければ小さいなりにをういう相手に、大きくなったら大きい相手に巡り合えるように人生はできています。

 声を聞くよりもその人の処し方、ここやトレーナーとの関わり方などをみると、その人の人生が開けていくかどうかがよくわかります。トレーナーをみていてもわかります。

 35年くらいで人は大きくも小さくも変わります。最初は問題児だったところから大変身した人もいれば、続かなかった人もいます。ここはやめたあとも会報などを続けて学んでいく人もいます。外に出てからの活動もありがたいものです。

 

○諌める

 

 研究所のトレーナーは、声楽家がメインで自らのステージが目的ですから、担当している生徒の人数を競うようなことはありません。むしろ、抑えがちです。トレーナーの仕事の過酷さを知っているからです。

 生徒は、学ぶものがないと思うトレーナーにはつきません。そういうトレーナーはここでは残れません。私も採用しません。

 世間にありがちのヴォイストレーナーの「お山の大将」、「裸の王様」といった状態は、どうして生じるのでしょうか。ここのトレーナーも自分を気に入る生徒だけに囲まれて感謝のレポートばかり読んでいるとなりかねないのです。他のトレーナーと比べて選ばれたり、他のトレーナーのレッスンより効果があると絶賛されると、そうならない方がおかしいでしょう。

 しかし、別のトレーナーにも同じことは起こっているのです。

ときに私は、元のトレーナーを外して他のトレーナーにも行っている生徒はいるということを伝えます。トレーナーのうぬぼれは、生徒とレッスン場の心中をしかねないからです。

 

○レッスンの判断

 

 トレーナーとのレッスンの内容の判断は、簡単にはできません。生徒の評価が高いことよりも現実に結果が出ていることを優先します。しかも「すぐに少しよくなる」(これで満足する人には、それでよいのですが)よりも「時間がかかっても、その人の最高のレベルにいく」ことを重視しています。

 多くのトレーナーが、毎回何らかの結果を出し、満足させ評価されなくては、次に生徒が来てくれないという、顧客サービスビジネスとして厳しい状況におかれているなかで、この研究所が許された存在意義が別にあると思っているからです。そうでなければ、この研究所はいらないし、トレーナーも別のところで教えたらよいからです。

 

○トレーナーの比較

 

 私はこの分野で多くの執筆をしてきたおかげで、他のトレーナーやスクールからきている生徒をずいぶんみてきました。研究所も3年目あたりから大所帯になって、先人のやり方を否定するような本を上梓しました。一時は人数が多く、グループレッスンだけだったので他に行った人もいます。兼ねていた人もいました。ともかくも長くたくさんの人と接してきたため、どこよりも情報があります。

 なかには、ここのやり方というより、私の論やメニュを否定するような人もいました。それに対して書き続けているのではありません。そういう人にではなく、ここで関わった人へのフォローとして、今も毎月、会報を出し、現状を伝え続けています。自分の不明や不足を知るようになってフォローしているのです。

 そのおかげか、ここでの方法を否定したトレーナーの元をやめてここにくる人もいます。

 トレーナーは「お山の大将である」ことを自覚してはいかがでしょう。たとえば、日本でTVに出たり本を出したトレーナーの元より、ここにはいらしています。

 だからといって、そのトレーナーやそのやり方を私が否定しているわけではありません。ここに来ても1年もたたずやめる人もいます。必ずしもトレーナーの問題といえないのです。

 オペラなども、舞台に出て、他のトレーナーよりも活躍していると、自分の教え方がすぐれていると確信するようになります。実のところ、その教え方が他のトレーナーよりも通じない相手もいるのです。オペラに出ていない分、しっかり指導して、力をつけているトレーナーもいるのです。

 

○育てる

 

 私が、私一生徒でなく、研究所(私―トレーナー)―生徒、もしくは研究所、私―(トレーナー―生徒)というような二重構造を取っている意味を理解していただけますか。カリスマトレーナーがいても、その一代で終わってしまうことも、これからの日本を考えると頭を離れない問題です。

 私は、私にしかできないこと、トレーナーでもできること、トレーナーの方ができることと分けて、絞ってきました。

 分野を超えて、声というのは全ての基礎ですから、いろんなところと関わってきました。

 私が頼まれたこともできるだけ、次の世代のトレーナーへ移すようにしてきました。後進に早く経験を積ませな

くてはなりません。

日本は、上の世代がいつまでも力を持っています。特に団塊の世代のリーダーシップ力が強いほどに、長く続けるほどに、次の世代は、とんでもない苦難に直面するでしょう。4年生が卒業しないでずっと試合に出ているようなのは、後進のためによいはずがありません。

 

○試練(田中将大さん)

 

 (田中)マーくんの活躍は、コーチのフォームの改良のおかげだそうです。TVの解説通りですが、背番号が半分かくれる大きなフォーム改良をしたのです。そうしなければ、肩を壊していたらしいです。

 怪我をしないことと、最良最高のありようにその人をもっていく、これが見事に一致するのが、スポーツのよさです。もちろんヴォイトレにも通じます。

 もしかして1球だけの速さや遠投を競うのでは、こうはならないのかもしれません。どんな競技も、最初の優勝者は力づくで勝ちとる力自慢でしょう。そのレベルが上がると、誰もが力は持っているので、そこからフォームが勝負の決め手となってきます。

 忘れてはならないのは、そのために彼は投げ方を変えただけでなく、徹底した下半身の強化をしたということです。

 

  • 以下、参考までに引用します。(再録したもの)

○筋トレ必要☆

 僕の持論は、「野球の技術は練習で鍛えられる左右の筋力の微妙なバランスの上に立っている」というものでした。(中略)

 筋トレは否定するというより、やるのが怖かったという方が正しいかもしれませんね。(中略)

篠原和典さん [週刊ポスト]

 

○筋トレ不要☆

 その「恐怖心」からトレーニングを続けていきました。(中略)

 野球の筋肉はグラウンドで、という考えも間違いではないと思います。もちろんダッシュやランニングもやりました。それでつく速度や遅筋をバランスよく、野球で使える筋肉にするために筋トレする。これによって選手生命も延びたと確信しています。

 僕は明かに筋力不足だったので筋トレを始めましたが、筋力を鍛えて硬くなるということはないし、全身を使う野球に不要な筋肉はないと思っています。(中略)

 シーズン中にも筋トレを続けていたのは、筋肉だけで太っていたので、体重を落としたくない目的で筋力を鍛えていくしかなかった。

金本知憲さん [週刊ポスト]

 

○体づくりとフォーム☆☆

 「バカ者、ワシがどれだけ投げたと思っている(55262投球回数は日本記録)。人間の体は、そう簡単に壊れやせんわい」(金田)

(中略)

 「僕は、体が出来上がるまでの成長期には沢山投げてはいけないと思っています。ですが20歳以上や、プロになるなど、体ができてからはある程度投げないとダメだと思っているんです。理由は早い時期に合理的で効果的なフォームを身につけるため、それを固めれば、ケガしにくくなるんですよね」(桑田)

(中略)

 「すると、いいピッチャーには絶対の共通点が一つ見つかったんです。どの名選手も、頭を残して先に下半身が前に行く『ステイ・バック』ができているんです。こうすると、上半身に負担がかかりにくいから、どれだけ投げても故障しづらいんです。

 でもこれは、足腰が強くないとできない。だから金田さんの「走れ走れ」というのは、実に理にかなっていると思うんです」(桑田)

(中略)

 「獣がケンカする時には、沈む態勢をとって構えるだろう。あれと同じだ」(金田)

 「金田さんのいう「沈む」というのを、最近の選手は勘違いして、軸足一本で立つ時にヒザが折れてしまう。これだと下半身だけでなく、上半身も一緒に前に出る。だから負担がかかってケガをする。大事なのは頭を残して腰が前に行きながら沈むことです」(桑田)

 「ワシが現役の頃は、マウンドもすぐに土が惚れて足首まで埋まってしまう最悪な状態だったからケガしないため柔軟な体を作る必要があった。環境の悪さが関節を柔らかく保つ重要性を教えてくれたようなもんだ。股関節の硬いヤツはみんな消えていった」(金田)

(中略)

 「ロッテの監督時代、1人の故障者も出さなかったのは、下半身強化の練習をやらせたから。だが、今の選手にあの練習をやらせると、すぐにぶっ壊れてしまうだろうな」(金田)

(中略)

 「経験者でないと分からないだろうが、疲れ切ると球がピューッと行くことがあるのよ。ところが翌日は、どれだけ投げてもその感覚にならない。そしてある日また、その感覚が戻ってくる。これの繰り返しだ」(金田)

 「だからといって、量を投げればいいというものではないんですよね。特に変なフォームで投げていると、余計に下手になるだけだから、アマチュアは量だけを求める練習はやめた方がいい」(桑田)

 「投げ込みで大事なのは内容だ。ノルマを課すことに意味はない。今はこれがわからんコーチが多い」(金田)

(中略)

 「今は中6日が普通。5日、6日もあくと、精神的にもたつくんだ。勝利への執念が薄れ、体に対する別の緊張感が出てしまう」(金田)

(中略)

 「その球数制限についても一言。日本ではメジャーの「100球制限」が誤解されているんです。あれはメジャーが中4日だから球数を限っているのであって、日本のように中6日では意味が違う」(桑田)

(中略)

 「肩を使うから故障するのでなく、無理をするから壊れる」(金田)

金田正一さん 桑田真澄さん [週刊ポスト]

 

ヴォイトレにおいても、下半身の強化や柔軟は、初心者レベルと一流レベルにおいては、特に効くと思います。私の考える基礎とはそういうことです。(Ei

 

No.355

当代

永遠

真実

予言

感覚

初心

面白さ

物語

共有

対話

蓄積

体験

学習

尊重

独特

理念

対峙

交流

写真

抽象

希薄

装飾

視点

間接的

鑑賞

対象

根差す

奥底

内心

「触れあう声」

○触れあう声

 

 語感というのは、ことばを自分で発するときの感じと相手が受けるときの感じです。声を介し、私たちは自らの心身とも、他の人とも触れあっています。声は、自分の声帯の振動から相手の鼓膜の振動へ伝わります。空気中を伝わる音のバイブレーションなのです。

 音声というのは、意味を生じる声の音、音としての声ということです。それには、ことばとしての意味も含まれますが、ここで語感というのは、その前に語として、声としてのレベルで、すでに意味を生じているということです。

  1. 声と息の感じ
  2. 語の感じ
  3. ことばの感じ

 たとえば、1については、人間のことばの習得前の状況を想像してみるとよいでしょう。猿人類などの研究もあります。くじらの声、鳥の共鳴管での鳴き声もコミュニケーションのための音声です。ことばがなくても音でのコミュニケーションをするのは、様々な生物でみられます。匂いや色などと同じく、五感によって私たちは伝えあってきたのです(拙書「感性の研究」参照のこと)

 

○反射としての声

 

 原始的なものとして、反射作用で声をあげるということがあります。火に触ったときに「熱い」などと、考えるまでもなく私たちは反射的に避けようとします。手を離しながら「アチッ」というような、ことばになるかならないかの音を発します。「アッ」「ワッ」でも、息を吐き捨てて音を出すのですから、世界中で似たような音声を使っていますね。

よく似た例では、火を吹くようなとき、息の音で吹く(hu)のようなH音が世界中の言語で使われています。

 これは動物でも同じなのですが、発声の器官の機能が備わっていないと充分な声は使えません。羽をこすった音で求愛する虫はいても、それは声ではありません。カエルのは声といえるのでしょうか。

 このあたりの違いには、民族の差や性差、年齢差もあります。とはいえ、発声器官という生体では、フィジカルな要素に負うところが大きいのです。

 

○感嘆の声

 

 私たちが意味をつけずに、ことばとせずに、声を発していることを考えてみるとわかりやすいと思います。たとえば文法上での「感嘆詞」です。「ああ」「あっ」「ええっ」などです。これは、interjection(英語)で、定義としては「不意の発声」となります。他にも「ワー(うれしい)」「キャッ」など無数にあります。

 声には、雄たけびのようなものもあります。突撃で「ウオー」というような声は大きく出せます。自分たちを鼓舞して相手を威嚇できるものとなります。「エイエイオー」など。

 

○喃語は、歌

 

 ことばと歌と、どちらが先かというようなことは、定義にもよります。この2つを明確に分けることは、本当はできないのですが、それぞれに便宜的に分別しているわけです。しかし、私はストレートにことばのない歌、スキャットなどを考えたら、すぐにわかることだと思います。

 ことばをもたないものとして動物をあげました。聖書では、「言葉のないものは人間でない」ということですから、赤ん坊はまだ人になっていないのです。

 生まれてからの言語習得プロセスをみると喃語という、ムニャムニャ語の時期があります。このときになんとなく節回しがついて、鼻歌のように聞こえるものがあります。「ダアダアダア」とか「アーアーアー」とか、これは歌としてみてよいと思います。

 

○ダンスのように

 

 リズムは、心臓や脈拍、呼吸の動きと、足を蹴る、ゆするなど、くり返しの動きから生じてきました。もちろん、風や雨や川の流れなど、自然の音から入ってきたリズムもあります。

 メロディの先駆けとなる節(ふし)も、まわりの音や自分の内部感覚から心地よく、あるいは心地悪く、取り出されてきたのです。これは感情の表出となります。ちなみにお笑い芸人のロバートのネタに、何でも節(ぶし)にして歌ってしまう村人というネタがあります。

 ヴォイスパーカッションで世界的に有名なのは、日本人のdaichiさんとhikakinさんです。それに対して、ボディパーカッションというのもあります。手を打って、足を踏みならす。このあとは、舞踏、ダンスと歌、音楽の歴史をひもとけばよいでしょう。

 

○眠りの声

 

 「喜怒哀楽」と言いますが、喜び、楽しみと、悲しみと怒りは、ことばや語がなくても伝えられます。伝えなくても自らで発することができます。表情だけでも区別できるほどです。目や口も、体の姿勢や振るまいとともに、口内で息と声が、それに伴う音を発するのです。

 無意識のレベルでは、夢をみるときに発している声もあります。寝言でことばになることもあれば、ムニャムニャということもあります。

 もっと原初的なものは軟口蓋で発するいびきです。これも呼吸が音を生じる例です。さらに下りますと、体で生じる音として、直腸から屁、胃からゲップ音、横隔膜からのしゃっくり、軟口蓋から鼻腔のあたりで反射的に起こるくしゃみもありますね。

 

○求愛の声

 

 求愛のために、使われたのはメールや手紙という文章、文(ふみ)の前に、ことば、呼びかけ、歌謡です。その前では、声の響きだったでしょう。セレナーデのように、異性に呼びかけ、自分に関心をひく慣習は、今のカラオケにまで引き継がれています。

 そこでは、歌詞の意味も大切ですが、声の質や歌い方で伝わる感じがもっと大切なのです。

 男性は、声変わりでは1オクターブも低く、たくましい太い声になります。強く生命力のあることのアピールです。

 歌だけでなく楽器の演奏で、異性に魅力的に働きかける。これも世界中いたるところで行われて今す。楽器というのも叩く(打つ)、弾く、吹くと、人の身体機能を拡張したものです。演奏をしていても、実のところ、歌っているのです。サックスやトランペットは、まさに人の声の代替えです。

 それは11でなく、1対多でも人を魅了するようになりました。オペラやオーケストラも、その完成された形の一つでしょう。

 

○性と声

 

 ほとんどがマニアックなため、研究されず、実践だけされている分野では、喘ぎ声、いわば閨房の世界です。しかし、これは芸能やショービジネスに、まさに直結しているものです。ヌードが芸術にまで高められたのに対して、声では、いささか貶められているように思います。

 ラップやレゲエ、シャンソン、ブルース、世界中の歌にはかなりストレートに即したものがあるのですが、キワドイということばで封印されています。禁じられているものもあります。

 とはいえ、私たちが、人の声にエロスを聞き、感じているのは否定できない事実です。「萌え声」というのもその一つでしょう。

 これはセックスで人類は一つということを証明しています。つまり、いくら人種や民族が違っても、やれちゃうし生まれるということです。それと同じレベルで、あのときの声も、民族の差はない、とまでは断言できませんが、人類平等の証です。民族差よりも個人差 (性差)が大きいと思われます。

 ことばも意味をもって使われ、くどく、くどかないとなるのでしょうが、その最中には、意味などない声が露わになるものでしょう。

 

○声の想定

 

 声を音としてみると、次の4つで定まります。

  1. 強弱、(声量、音圧、ヴォリューム)
  2. 高低、(周波数)
  3. 音色、(フォルマント)
  4. 長短、(time)、持続時間、息の長さ

これに

  1. 共鳴(鼻声、ハミングなども含む、または頭声、胸声)

 が加わり

  1. 調音(調音点、調音法)

 で、発音され、語となり、その組み合わせで言語となるのです。

 

 15までは楽器にもみられるものですが、そのいくつかはかなり制限されます。(特に音色)

ピアノという楽器は、かなり特別なもので、同時に発信できる数が多いため、万能でした。それに加え、エレクトーンやシンセサイザーは音色も多彩にしたのです。そういうことは、一つしか発せられない声では、人数がいないとできません(ホーミーは二つの声という人もいますが、単独で自由には動かせません)。しかし、生体としての人の声ほど複雑にいろいろな音をつくり出せるものはないといえます。

 語としても、意味を持つ、持たないということで分けて比べてみるとよいでしょう。

 

○ことば以前と省略形

 

 たとえば、「おはよう」と言うのと「オッス」、「オッス」は「おはようございます」の短縮形とも思われます。一方、上司が部下に「おはようっす」などと言われて、「オッ」「アア」と応じると、そこでは承認の返答として、その表情や音が意味を持ちますが、ことばにはなっていません。

 感嘆詞などでは、ことばを感嘆して略してしまっているともいえるのではないでしょうか。もちろん、先になんとなく、そういう感じの声が出て、そこを、より伝えたくて意味としてのことば、単語ができてきたのでしょう。

「ああっ」→「しまった」

「えっ」→「ほんとう?」

「へっ」→「うそでしょ?」

 この場合、実際の現場では、正しいことばでなくとも伝わりますね。前の「ああっ」や「えっ」は、書き表すだけでは正しくは伝わりません。第三者に伝えることを前提にすると、音声で真似るか、ことばを使うかしかないのです。

「いっいたーあ―(痛い)

 こういうときは、海外で外国語を使って生活していても、思わず母語が出るものです。

 痛いときでも、一人でいるときは、普通の声、気のおけない他の人がいるときは、ややおおげさに、厳粛な式典のときは無音(息だけ)くらいで、というような使い分けをしてしまうことでしょう。いつも他人を気にしておのずとコントロールされてしまうのが、人の声です。

 

○声として視る

 

 私は言語よりも音声、ことばよりも声としてみるのが専門です。歌には歌詞があることがとても重要で、特に日本人にはそこは外せません。しかし、私は、歌詞はのっているだけ、声だけで、楽器レベルの演奏として完成させてくれと、ことばを引いてみる立場を大切にしています。ここは、歌謡曲や演劇の先生と違います。

 とはいえ、純粋な専門分野だけで仕事をするのは、稀となりつつあるのかもしれません。

 ことばを大切に語るように歌うこと。マイクがあれば囁き声でも使えます。

 それに対して、オペラなどでは、遠くに声が届かないとことばも伝わりません。音量、共鳴、人の楽器としての、美しい音色を重視します。完全にコントロールされた極限に近いハイトーンでは、発音よりも発声、共鳴が問われます。

 私がクラシック歌手、声楽家は共鳴のプロと述べているゆえんです。ですから劇団四季のように母音を明確にするところから入るのは、けっこう負担が大きくなるのです。

 オペラは、落語の定番の噺(枕やMCなど入らないもの)と同じようなもの、スタンダード曲と同じです。内容がわかっている通の人が聞くなら、ことばは第二義のものになります。オペラは総合芸術で、構成や衣装、ルックスなども問われますが、もとは声を競う芸術でした。その点、邦楽、詩吟は音色やフレーズ、つまり喉のよさが優先されているものといえます。

 

○音色と味

 

 私が一般向けのテキストをつくるときは、ことばの発声に加えて、声の使い方を入れています。ことばにならないところは、本では書けないために、CD付になるまで出せなかったのです。CD付きになっても、教材として、ことば、発音中心にせざるをえないのです。語学を、発音を聞かずに学ぶと、実際の会話になったときに通じないことと似ています。

 最近は、定型である、あいさつことばを加えています。誰でも「おはようございます」と言っているのですが、どういうものが伝わるのかを学びます。同じことばに違いを出す、そこが声なのです。

 もとい、芸事でも芝居でも、正しく間違えないで言えたかなどは問われません(間違ったら失敗です。言い直しが多ければ失格です。正しくいえることは前提です)。

 どう言ったのか、どう伝わったのか、それを決めるのは、お客さんという勝負なのです。落語でも、100席ほど覚えて二つ目、真打になるにつれ、噺の数でなく、同じ噺を、いかに客に聞かせられるのかが問われます。

 それには一つの噺を何百回も練習しなくてはいけないわけです。数をやればよいのではありません。他人のネタでやっても、自分の味で出さなくてはいけないのです。挨拶でも同じです。

 

○声としての差

 

 最終的に問われる、その人の魅力や存在感というものも、音声では最低限のことをやったうえですから、つまり、はっきり聞こえるように言えることが、第一となります。そのことが個性を出すことより優先されます。

 歌や芝居のうまい人と、印象に残る人の違いは、声において明らかな差があります。日本では、ルックス、ヴィジュアル面が優先され、声の力がなおざりにされているのは残念なことです。世の中は、映像優先の方向にずっと動いてきたのです。

 韓国ドラマや代劇で学んでください。主人公やそれに準ずる役と、エキストラや一回しか登場しない役者との声の違いを知ってください。台詞は台本をつくる脚本家、見せ方、撮り方や構成は演出家、監督の責任です。そのせりふをどのように表現するかが役者の真骨頂なのです。

 

○せりふの分解

 

 せりふを、分解してみます。意味は省きます。せりふは語感の組み合わせです。一語の発音の感じが組み合わされ、リズムやメリハリが変化します。

 感嘆詞でも、ああっ、ああ、ああ、あ~、あー、あ”、と、で表すには限界があります。日本はうまく字の形を変えたり、絵文字などを使ってフォローしています。まさにそこがリアルにおいては声の役割です。その使い分けを上司、同僚、部下と3つにシュミレーションしたのが拙書「人に好かれてきちんと伝わる声になる本」です。

 

○ネーミング

 

 人間がことばをつくるときに、あたかも赤ん坊の喃語から明瞭な母語になっていくように、曖昧な音声が少しずつ明確に区分されてきたのは、間違いないでしょう。外国語は、母音の音も子音の音も組み合わせが複雑です。

 日本に来た外国人には、漢字に興味を持つ人が多いのですが、それは象形、万国共通の理解ができる形(形象)を楽しんでいるかのようです。川は、誰が見ても流れを表します。こういう研究は日本ではとても盛んでした。白川静氏の古代漢字研究のような偉業もあります。

 体や呼吸の分野で体操の野口三千三氏は、「野口体操・からだに貞(き)く」という代表作のタイトルでわかるように、漢語や起源も研究しました。竹内敏晴氏も、音声や体のことを深めて、日本語の研究、漢字の成り立ちに行きつくようです。

 企業の社名や商品名についても、ブランドとしたいのは語感について研究されています。

 

○名前の音

 

 私は留学生に「今日は何の日」という日本のさまざまな記念日や「画数占い」、陰陽五行説などを紹介しています。画数というのは格付けや子供の名前をつけるのにも使います。

 今時の子供の“キラキラネーム”の是非はともかく、音声について、名前では早くから研究されていました。名前は、言霊信仰の根強い日本では、音に意味がありました。生涯、何回呼ばれるのかわからないほど、他人から自分に発せられるのは、自分の名前です。性格や運勢に結びつくというなら、画数などよりずっと信憑性がありそうです。

 画数の方は、私は字の感じ、何回も書くことでの感じが影響するのではと思います。

 もちろん姓、ファーストネームの音も大きいですね。学校では、ア行から始まる出席番号順でしたから、男性でアで始まる人は、すぐに呼ばれるのに備えられるような性格になるのかもしれません。

 名をつけるには、何回も口に出してしっくりするかで、決めるとよいと思います。期待や願いが入って本人に合っているかは別ですが…。

 あだ名となると、しかもそれが姓名とかけ離れたものなら、音の感じが何か、その人の性格、言動とリンクしているのでしょう。私はけっこう他人にそういうあだ名をつけていました。「クック」とか「バグ」とか、そんな感じの子だったからです。この頃は、あだ名もいじめの原因として禁止するような風潮もでてきましたが。

 

○生活と声

 

 語感についての研究者がいます。一読してみるとよいでしょう。音感もまた、語感と同じく発声の原理、生理学に基づいて考えた方がよいですね。

 母語というのは、それを使う人たちの性格、文化、風土とともに生まれ育って受け継がれてきたものです。その点、性格や顔のつくりにも似ています。

 南極に住むイヌイットの言語体系は、赤道直下のハワイ語と明らかに違います。その土地の風土によって違います。狭い日本でも、東北弁と博多弁を比べてみるとよいでしょう。

 季節の影響もあります。寒いから口を開かない、動かさない、あまりたくさんしゃべらないなどにみられます。空気の乾燥によっても違いますね。

 食生活でも違うでしょう。肉ばかり食べる人とベジタリアンでは、顎の形、開閉度、噛む強さなど、発声をするための楽器(体、顔)も、その使い方(呼吸、舌、顎、口、唇)も違ってくるのです。

 

○声の感じの力

 

 声は年齢によっても変わります。語感にも、声の感じが強いと思われるものがあります。私なりに分類すると

1.語感―ことばの音声と意味の割合が強いもの

2.音感―発音の感じの割合が強いもの

3.声感―声の感じの割合が強いもの

感嘆詞などがわかりやすいのですが、同じ音やことばでも、言い方しだいで伝わるものが違ってしまうのです。普通は、ある意味に決まっているのに、言い方で異なる意味になるものもあります。弱く言うと勧めたり促すことばも、強く言うと強制になります。肯定文でも語尾を上げると疑問や反語になります。この辺りは、どの言語でも似ています。

 言い方次第で、yesnoになるくらいに意味は変わるのでしょう。うまく言うと、ほとんどのニュアンスを変えることができるのではないでしょうか。

 表情でも大きく変化させたら意味は変わるのですから、次のような段階で変えるのは、そう難しくないでしょう。

1.息、声

2.語。モーラ、音韻、1音(もしくは1拍)

3.ことば

 

○世界の音声

 

 世界中の人が使っている音と特定のエリアの人が使っている音とを比べてみましょう。英語と日本語など、実際の言語を比べてみると早いですね。いわば、比較言語学です。

 たとえば、国際音声記号を使うと、人類のすべての言語の音声(調音点、調音法)を記述することができます。

 たとえば舌を歯茎と軟口蓋に同時につけて出すなどという発音は、人間には難しいので言語の音として使われることはそうはないのです。

1、 人間としての共通の楽器部分で出せる音

2、 自分の使う言語に含まれる音

どの言語も母音と子音をもちますが、それぞれ異なります。

 とはいえ、母音とは、共鳴した有音声、子音とは息や共鳴を妨げる(加工する)音ということでは、共通しているのです。

 

○外国語の音声

 

 私たち日本人が外国語の習得、特にヒアリングと発音に弱いのは、アグレッシブとはいえない控えめな性格や、同一民族での農耕生活であったことからの必要のなさ、学び方(教育)にあります。私にはその結果とも思えるのですが、日本語が音声としては、いたってシンプルな体系であることです。それで、より複雑な発音体系を持つ言語は習得しにくいのです。

逆に、日本語を学ぶのに、欧米人などは漢字、カタカナ、ひらがなにため息をつきますが、中国人は漢字を彼らほど大変と思わないものです。

 母音を5つに、しかも曖昧にしか区別していない日本人が、たとえば、アだけで5つ、母音が26もある英語に悩まされるのは当たり前でしょう。韓国人、中国人は、子音に強い息を使うのですが、それだけでも日本人よりは楽です。

 長年、日本に住んでいても、どこの外国人かわかってしまう発音のくせや、その組み合わせというのは、だいたい母語にない音からです。母語の中で似たものを代用しているからわかってしまうのです。私たち日本人がLもRもラで代用しがちなのもそういうことです。

 とはいえ、人間の発声や器官の構造は、それほど大差ないといえます。機能としては、絶対に発せられない外国語の音はないのです。

 実際のところ、日本語の日常会話のなかでも英語に必要な発音のほとんどは、すでに使っています。ただ、認識していないので、そこだけ切り取ったり並べ替えたりできないだけです。発音の能力は、この認識ができているかどうかからです。それで聞き取りも発音も左右されるのです。

 

○聴音能力

 

 誰もが外国語のネイティブな発音にこだわり憧れます。しかし、コミュニケーションにおいては、発声能力が劣っていることの方が問題です。

 まず、声量が第一で、発音が正しくても、小さな声では伝わりません。息が強くないと伝わらないのです。特に英語など強弱アクセントのことばは、それで伝わらないことが、日本人にはとても多いのです。

 それは日本語が、あまり息を強く発しないからです。日本語は高低アクセントですから、音の高さがわかることが必要です。また、日本語は、母音が子音のあとにすぐについて一体化しているので、多くは共鳴(有声化)します。息が強すぎたりハスキーではわかりにくくなります。そのため、強弱でみると、メリハリなく平坦なのです。

 強弱アクセントでのリズムの動き(チャント)で聞く欧米人には、この小切れに棒読みしているような日本人のカタカナ英語では聞きづらいのです。「ダダダダ…」と銃弾のようだという人もいます。私の「日本語の等時性」について述べたものを参考にしてください。どの音も同じ長さに伸びるということです。

 強拍に巻き込まれる子音が連続するような英語などの感覚は、日本語にはないために聞き取れないのです。

 外国語の学び方、教育については、いろんな提言がなされています。まず母語である日本語で、自分の考えを組立て、話すことのできるようにするところからでしょう。

 

○三母音の「ア」

 

 合唱団の指導者は、音の高さを、体や手や指揮棒で示します。数値(○○セントなど)にするなど、音の高さを数量化して例えて教えている人もいます。

 小中学生の発声の習得で、母音を体全体で違いを感じるようにしている教え方があります。母音の響きによって、その広がりに口内はもとより体でも違うように感じるからです。その差を発音の発声指導に活かすのです。

 発声練習に母音がよく使われるのは、共鳴音(有声)で妨がないからです。

 発声練習によく使われるのは「ア」です。あくびの「アー」のように口が開き、本当は口でなく、口のなか、軟口蓋が上がるようにすると、喉頭が下がり、声道が充分に確保され、共鳴しやすくなるのです。外に響かすには「ヤァー」「タァー」などが強く出せます。言語以前に遡り、共鳴で音を変えながらマスターしていくのです。母音を体操のように体の動きとともにマスターする方法もあるのです。

 

○三母音の「ウ」

 

 「ア」の次に「ウ」を取り上げるのは斬新な試みです。

発声発音練習には「アエイオウ」、「アエイウエオアオ」、最近は、「イウエオア」、「イウエオアエイオ」などがよく使われます。(母音発声のメニュ)

 母音は、「ア」が最初、」そこから「ア」ー「イ」、「ア」ー「ウ」という2つの方向があります。口の形でいうと、横の方向と奥の方向ですが、それは口の開け方ではなく、口内の空洞の作り方、舌の位置の違いです。

 全体では、「ア」ー「イ」ー「ウ」(ー「ア」)の三角形となります。

 そして、「ア」ー「イ」の間にエで、「アーエーイ」

 「ア」ーウの間に「オ」で、「アーオーウ」

 合わせて5母音です。

 「アーエーイーウーオ」で五角形になるわけです。よく使われているのは、四角形ですが、それは「アーエーイ」が一直線に並ぶのに「アーオーウ」は、少し「ウ」がずれ(3点になる)ためです。このあたりは、使い方によっても、前後にくる音などによってもかなり違うものです。

 「アゥ」と言うと痛いですが、「ウッ」では腹を蹴られてうずくまるような感じですね。「ウウウ」は威嚇で、犬などを思い浮かべませんか。犬は「ウ」が出せるけど「イ」は出せないでしょう。それで「ウ」を先にするのです。

 

○三母音の「イ」

 

 「イ」は人が直立歩行して獲得した音です。喉頭が下がり、首が立って喉の奥から口に対して声道が直角に合っていないと出せません。このフォルマントは、そういう状態のつくれない動物や赤ちゃんには出せないのです。

 このように、発声器官そのものの変化は、人間の言語に大きく影響しています。その意味を代表する音が「イ」です。「イー」「イヤだ」、など、やや挑発的な音の響きにもなるし「イイ」「イーわ」のように穏やかに落ち着いた感じにもなります。両極端にブレやすい音に思います。

 「ア」に比べ、「ウ」「イ」は出しにくく、歌でも苦手にする人が、高音では多いようです。しかし、声楽などでは上達するにつれ、「イ」の方が楽に高く、しかも共鳴させられます。軟口蓋を高く上げられるために声道が長くしやすいのです。あごを引くことも関係します。

 「ア」の発声は、やりやすいようですが、中音域の声と同じで適当に出てしまうので、本当に調整していくのはやっかいです。日本語のようにもともと浅いと、そのままで定着し、発声や共鳴のなかで後々まで浅く固いまま、未完成に取り残されかねません。アマチュアの多くは「アー」で練習するのに、声楽家がそれを必ずしも使わないのは、長年使ってきたため、間違いやすいし深まりにくいからです。

 実際の発声練習では、母音だけでやるより、子音をつけている方が多いでしょう。その方がやりやすく、マスターしやすいからでしょう(共鳴の前のきっかけの音として子音、つまり、ことばをおいた方が、深めやすいと思われます。トレーナーの腕しだいで、使う音は大した違いはないともいえます)。

 

 

No.355

<レッスンメモ 「ことばが届く」>

 

歌えているのに心に伝わらない、ことばが入ってこないことがあります。

自分の本来もっているものを磨いていく、それしかないのです。

美しいことに、客観性はありません。

わくわく生き生きとプレーすると考えましょう。

味わい、深みという方が、個性、オリジナリティに近いでしょう。熟練、円熟していくのです。

声は、心やメンタルと大きく関わります。

謙虚さでの自己否定は、よくありません。  [610

No.355

<レクチャーメモ 「自立への道」>

 

コスモポリタンと愛国者 

日本への愛情や敬意

公共の福祉を荷う公人

社会を荷うだけの市民としての成熟

次世代の育成

世界が立ち上がる時間

急に変化しない方がよいもののよさ

自分のことばを担保にできること

体をはって、モノを言うこと

問いではなく、答えとして現実がある

制御できない領域への畏敬の念をもつこと

心身のセンサーの感度を上げること

気配でわかるようになること

危険を察知して避ける力をもつ

怒りや悟りが平和を生み出す

最悪の状況からの回避としての武道やアートがある

惰性、慣性のよさ、必要性

自分の持っていないものへの欲、向上心

秩序の破壊とその広がり

危険なものと大切なもののグレーゾーン

休息か怠惰か

空気を読むのは、人に同調するのではない

数字を読むのは、過去の解釈になる

自己否定、挫折ゆえに、自己の温存

分別の知の解体から無分別知へ

知恵という自分の都合から本当の智慧へ

還愚(浄土宗)は日常へ還る

苦しいのが常

理と業

CallingとVocation             [632

「日本人の音声力の弱さ」

○日本人の音声力の弱さ

 

 日本人の音声力の弱さと、その原因について、別の面から指摘をしたいと思います。これまで、私が述べてきたのは、日本人、日本の特徴として次のようなことでした。

 島国の村社会での生活。小集落。

 アイヌなどとの混合はあったとはいえ、比較的、移民、流民の少ない固定化された人間社会。

 「壁に耳あり障子に目あり」の、木と紙の狭い家、プライバシーのない「家」社会。

 農耕社会の長老政治。長いものに巻かれろ。

 農業は、天気などに左右されるもので、長年の経験がものをいいます。しかも、稲作などでは集団での作業で和が尊ばれます。若者がリーダーとなる狩猟と違い、実力社会ではありません。

 日本人はアフリカからもっとも遠い地まで逃げてきた、世界の中でも穏やかで争いを好まない、その多くは滅亡したような類の生き残りの民族だったのではないかと思います。

 世界でも稀にみる長期に継続している天皇制です。何事も上からの変革だけで継続性が高く、他の国のような民衆による激しい革命がなかったのです。

 

○日本人と日本語

 

日本は、古くは中国から、近年は欧米からの影響を大きく受けました。そのために翻訳による知識の導入、それは読み書きが中心となり、日本語という言語を特殊に発達させてきたのです。

 日本語は文字に複雑ですが、音声にはシンプルです。音声での言論である対話、議論、対論などに重きを置かないのです。

 日本の社会は、上意下逹とボトムアップの年功序列、終身雇用を中心とし、リーダー、エリートの育成ができない、この傾向は21世紀でも変わりません。個人としての実力よりも、集団、組織が優先であり、個としての信用、保証は重視されないのです。

 

○対話と会話

 

 「日本には会話しかなく対話がない」、と言われてきました。対話とは、第三者を聞き手においた対談を考えるとわかりやすいのでしょう。11で話していても、その2人の中でなく、他の人が聞いてわかる、つまり、ドラマの出会いのシーンのように、観客がいても、そこへの説明が確立しているようなもののことです。簡単にいうと素性を知らないもの同士の話のスタイルです。

 私はワークショップでは、1対多でも、そのなかの一人の相手に語りかけるようにしています。そのときに、常にその人だけでなく、その人を通して他の人に伝えようとしています。これは対話です。

 時間的制約があるのと、1回きりのケースなどでは、初対面で何の事情も知らない相手の前で進行しなくてはいけないからです。全員に語りかけても伝わりにくいことを、伝わりやすくするため、もっとも適切と思われる候補を選んで、その人をだしに進めていくのです。

 1対多では成り立たせなくてはいけないことが、11でもそうなっているのかというのをみると、それが会話か対話かわかります。親しすぎるなかでは、多くのことが省かれて、会話となります。

 

○日本語は会話向き

 

 日本語は、対話型のコミュニケーションには、不向きな言語です。すでに関係ができている相手に伝えるには、うまく使えるのですが、初対面、特に1対多では、混乱しやすくなります。人前で話すのが不得意な人が多いでしょう。

 主語を出さず、受け身で婉曲に伝えます。伝えるよりは、相手が察していくようなもので、「ハイテキスト」なコミュニケーションといえます。

 誰でもが知り合いの同郷の徒、つまりrural(田舎)での交流のものです。

今、使われてよく批判されている「…にほう」「…から」「…とか」という、方向でぼかす婉曲表現も、その一つの例です。主体性に欠ける自己責任を問わない社会、匿名、世間、派閥といった、集団を中心とする社会の特徴がよく表わされているのですね。

 

○主語のない日本語

 

 「日本語には、subject(主語)がない」などという批判は、欧米のグラマーに日本語をあてはめているからです。ボクシングのルールで、柔道をjudoにしてしまったのも乱暴なことだと思います。

 伝統を尊重する私も、このところの柔道、相撲、野球といった、かつて花形であった各界の幹部のには、日本の古いものの頑なさをみるとともに、時代の波のなかでの対応に大変なのだと同情もいたします。上からはしばかれて育ったのに、下からはパワハラと訴えられる、板挟み、中間管理職の悲哀です。しかし、そこを乗り越えて改革しなくては未来はないのです。

 そこでみえてくるのは、組織、集団の中で責任をあいまいにしている、個人としての主体性のなさです。まさに日本人らしいのです。

 相手によって自分の呼称さえ複雑に変えなくてはならない日本語は、そういう宿命を背負っています。自分以外であれば、相手が誰であれ、一人でも何千万人でも、youだけですむ言語を見習うことも、ときには必要だと思うのです。

 

○文字への思い入れ

 

 私は欧米のことばにやや近い感覚のものとして、これまで関西弁、広島弁や博多弁などを挙げてきました。音声以外の日本語の研究はたくさんあるので、興味のある人は学んでください。言語で文字によって表せるものは、書物で学べるからです。

 文字の発明、紙の発明、印刷の発明、本の発明、それ以来、研究というのは、ペンで綴られてきました。欧米ではアルファベットのタイプライターの発明で、飛躍的に多くを記録し、伝えることができるようになりました。日本ではワープロの開発、普及を待つのにかなりのタイムギャップが生じました。

 一方で、音声は、20世紀のレコードとラジオの普及からパソコン、スマホが普及して、利用も研究も本格化しつつあります。

 日本人は、文字に対して大きな思い入れをしてきたのです。これは、翻訳を絶対としてきた輸入文化ゆえの宿命でした。しかし、その元、日本人のビジュアルへの鋭い感性のためだと思います。欧米にもフォントはありますが、日本人の絵文字ほど柔軟ではありません。韓国や中国のような伝達の効率を重視した文字の改革はあったにせよ、センスよく守られてきました。現代において、絵文字、記号など、新しい発明が、一般のレベルでどんどん行われ、改革され続けています。カタカナ、丸文字を超えての、新たなる日本語の開発のスピードと量には驚くばかりです。

 

○ネットと世間

 

 世界に有数の、日本の、大量の数を誇るブログや掲示板などへの無記名の書き込みは、よくも悪くも昔ながらの「世間」の存在を感じさせます。私のように常に読み手と向きあい、文章を書いてきたものには理解しがたいことでもあります。

 そのエネルギーには、よい面では「読み人知らず」のような習作、俳句や短歌づくりのような、日常にある文化の定着を感じます。一方、悪い面では全国版とはいえ、日本語ですから、世界には届かない、井戸端会議や落書きの安易さです。そこに集うのは、似た思考の人ですから、論議を重ねていくのはどうなのでしょう。直接会っているなら悪友でもよいのですが、匿名で吐露し合う、ときに罵り合うだけでは自分の成長になりません(でも吐き出さないよりはよいので、その後にそこにとどまるか、次の一つ上のレベルへ抜け出せるのかで差がつくのですね)

 成長したい人は、もっと自分に役立つことに時間と頭を費やすことです。類は友を呼ぶで、自分のエネルギーを累乗でマイナスにしていかないこと、それを自分を高める人との交流に使うことです。

 見たり聞いたりするだけでも疲れるなら避ける。そういう感性がないと、引き込まれてしまうのでしょう。不満こそ身の内にためて、自分の本音を作品や仕事へ昇華させた方がよいと思うのです。プラス思考の人はそういうのは読まないでしょう。

 

○日本語の遍歴

 

 日本語を総覧してみると、万葉の頃は、歌垣として、情愛の呼びかけでした。歌垣は、言霊という呪術的な力の働きが加わるとはいえ、今のコンパのようなものです。その後、お上の勅選和歌集では、選者が記述して記録していきました。

 紀貫之の土佐日記「男もすなる日記というものを…」というカバちゃんスタイル、女装や女体、いや、女性体、女性語で書かれた「かな」文字です。

 話すときのことばと書くときのことばは、ずっと区別されていたのです。和語(「よみ」)と漢語(「こゑ」)と呼ばれていました。

 公家、武士、僧侶や女房(女性)、幼児と、使う人によって、ことばは異なり、ややこしかったのです。しかも、中央と地方とで違います。

このあたりは世界の国々と同じく、村一町―市―県や州―国などという全国統一のプロセスで変わっていきました。

 

○共通語の誕生

 

 日本ではずっと、中央は京(京都、奈良)でした。近世になり、江戸(東京)になったわけです。江戸でも初期の頃の文芸は、井原西鶴の浮世草子、近松門左衛門の浄瑠璃など、上方のことば遣いでした。江戸、武士、男ことばなどは、荒っぽく粗野なイメージでした。

 それが、江戸歌舞伎や洒落本を経て混合していき、19世紀の文化文政以降、滑稽本、人情本では、江戸語といってもよいほどの完成を遂げます。公家、僧侶から町人、庶民階級の人々のことばに変わっていくのです。

 一方、大衆を相手にする語り口は、平家物語の頃から、ずっと受け継がれていきます。森岡健二氏によると、今の標準語が成立するまでのプロセスは次のようになります。

1.抄物(経文、漢語、古典の注釈)

2.江戸講義もの(漢字、国語)・説教(仏教)・道教(心学)

3.明治講義もの

4.演説

 

○江戸のことばから共通語に

 

 多数の人を相手に話すと、講義調、説教調、演説調のようにスタイルが確立していきます。これは、報道、ニュースをみるとわかるでしょう。そして、その調から体へ、「だ」「である」とか「であります」「ございます」なども文体をもち、話のスタイルができてくるのです。

 問題は、江戸のことばが全国に広まり、共通語になっていくプロセスです。

 明治になり、欧米に追い付くために、日本語は「ローマ字」で統一しようという論議さえありました。漢字は知識人に多く用いられていたので、福澤諭吉は、「漢学制限論」を説きました。

 その後、漢文直訳体の仮名まじり文から言文一致、話しことばと書きことばを一致させる運動になるのです。

 明治20年代、二葉亭四迷の小説「浮雲」の「だ体」、山田美妙の「胡蝶」の「です体」が、その代表例です。それには、江戸落語を大成した三遊亭圓朝の影響があったようです。彼の「牡丹灯籠」などは速記によって出版され、大ヒットしたといいます。

 

○標準語と共通語

 

 「標準語」ということばは、standard language、岡倉由三郎が最初に用いました(1890年)。それが東京語に準拠することになったのは「口語法」(1916年、国勢調査委員会)によります。最初の国定教科書「尋常小学読本」は1904年、すでに口語体の文章でした。これがラジオ放送の開始(1925)で普及するとともに、整えられていったのです。私は、飯田橋の凸版の印刷の博物館で、いくつかの教科書をみました。

 一方、「共通語」とは、異なった地方の人々が意志を通じ合うための言語です。これは、common languageで、第三の言語と考えたほうがよいでしょう。現実として、私たちは共通語を使って話しているといえます。これが、東京で一般的に使われていることばとは、必ずしも一致しないのは、NHKのアナウンサーの語り口を聞いたらわかりますね。

 標準語というのは、理想的で人為的で、上からの押し付けのような感じがあってか、使われなくなってきたのでしょう。最近は方言も復活してきて、方言と共通語として使われています。

 

○「グロービッシュ」の登場

 

 グロービッシュという言語について述べます。グロービッシュは、イングリッシュとグローバルからの造語です。英語を母国語としていない人のための英語体系です。シンプルな言語体系にして、コミュニケーションに使えることをメインにするのです。

これは、標準の言語は一つに決めることができないから、誰でも使えるように簡易なレベルでの範囲を決めて使いましょうということです。文法、ルールが省略化され、本来の言語とは異なります。しかし、健全なアプローチといえるでしょう。ことばにはどちらが正しいかわからないものもたくさんありますから。ネイティブスピーカーでない外国人が使うのに寛大ということです。

 日本でも地方に住む人にとって、共通語などは外国語と同じでしょう。一生話さない人もたくさんいるでしょう。関西出身の人は、東京でも関西弁で通しています。東北などの人は方言にコンプレックスを抱き、小さい頃から、共通語を学ぶ日本語のバイリンガルとなろうとしていますね。

 私も、50カ国以上の旅まわりを、英語とジェスチャーと筆談で乗り越えてきました。ネイティブのニューヨーカーに対しては、今でもビギナー同様です。ネイティブで日常的に英語を使っている人は、英語が使えない人のことがわからないのです。私は、自分と同じく第二言語、第三言語として英語を使っている人との方がスムーズに英語でコミュニケーションをとれるわけです。その加減をネイティブスピーカーこそグロービッシュを学ばなくてはいけないということです。

 

○語学学習のコツ

 

 教えるということ、あるいは、伝えることでもよいのですが、それには二つの必要条件があります。まず、「自分が、あることを知っている、できること」、です。あなたが日本語を教えるとしましょう。すると、あなたは日本語を知っていて、できる(話せる、書ける、読める、聴ける)ことが必要です。

 日本で育った日本人なら、日本語は知っているし、できます。でも、それを教えられるか、伝えられるかというと、「それについて相手が、どう受け止められるかを知っていること」が、次に必要になります。

 アメリカ人になら、あなたが英語を話せると、かなりスムーズに日本語を教えられます。でも、アメリカ人ばかりに教えている人が、中国人を教える相手にすると苦労するでしょう。

 つまり、相手の言語を知ることが必要なのです。それと比べてこそ、自国語の特殊性がわかります。そこの違いから切り込むと、効率よく教えられるようになります。

 単語、文法、発音、リスニング、読解などに分けるのは、共通した法則を覚えることで、学びを効率化させるためです。方言しか話せない人が共通語を学ぶときも同じです。それぞれにグレード、難易度をつけて、簡単な方やよく使う方から入るのがノウハウです。

 

○英語や日本語を簡単にする

 

 共通語は、現実のコミュニケーションのために使うものです。今のところ世界の共通語の位置づけにあるのは英語です。中国語やスペイン語を使う人も多いのですが、国を超えたところで話せることばとしては、インターネットなどにおいては、元から使われている英語が有利です。

 他の国の人が学ぶには、英語は、かなり複雑でいい加減なルールの言語で苦労します。こういうときはエスペラント語ではありませんが、シンプルなルールの共通語に英語を変えていけばよいのです。たとえば、使う英単語は1500語以内を目安にするなどということです。それがグロービッシュということです。

 日本語でも海外の人が学びやすくするためのグローバル・ジャパニーズというようなものを提唱する人もいます。こういう場合、言語は文化でもあるので、変えてはいけないという保守的な人々の反対にあうのです。そのおかげで、漢字も日本語も生き残ってきたのでもありますが、外国人向けには、読み書きに難しい日本語を制限して2000語くらいで通じるようにする方がよいでしょう。それを日本語のネイティブである私たちが、区分けして覚えるのです。それは、制限するだけなのでたやすいはずです。外国人と、その制限下で話せばコミュニケーションがとりやすいからです。

 日本語がすぐうまくなる外国人の心配よりは、日本人の心配をすべきですね。外国人とは2000語以内で話す。日本人とはこれまで通りで、日本語を2000字だけにするのがよいと言っているのではありません。

 

○アナウンサーの話し方

 

 日本の共通語は、東京の下町ことばをもとにしていながら、実際は、放送のために使われていることばです。共通語は、私の考えでは、NHKの編纂によって認可されたり、変えられたりしていく、あまり話されていないことばです(「日本語アクセント辞典」などが教典)

 日本人の規範好きの性格は、細かいところまでこだわり、制限、ルールを統一させ、全員に普及させるのに並々ならぬ能力を発揮します。全世界でNHKほど一様の基準で、アナウンサーだけが、きちんとそのことばを扱っているという国はないでしょう。列車の発着時間と同じくらいに几帳面なのです。ちなみに、フランスなどは、全国民に自国文化や言語を大切にするため、他国の文化が自国の文化に流入することに制約があります。

 世界でもこんなことができるのは、他にドイツ人くらいで、頑張っているのは北朝鮮くらい、でしょうか。これは明らかに標準語としての理想化です。

 私は多くのアナウンサーと関わってきましたし、NHKの技術者で、ここに通っていらっしゃる人もいます。

「アナウンサーのように話す」という基本は、民放のパーソナリティは別として、声優、朗読の人にもけっこう共通しているものを感じます。そこから離れる苦労を先日、アナウンサーの松平定知さんの本で読みました。

 

○発音アクセント中心主義

 

 アナウンサーになりたての人の発音、アクセント絶対主義の基準と、TV、ラジオ放送のベテランや一流と言われる人の語り口が一致しないことを指摘したことがあります。

 ここではアナウンサーの専門である発音について述べます。ベテランのアナウンサーの能力に私がもっとも驚かされたのは、出身地を当てることです。これは、科学捜査班レベルで、ときに犯人割り出しにも使われるそうです。

 いろんな地方出身の新人の発音アクセント矯正指導をしているうちに鋭くなるのでしょう。言語(方言)の特徴がわかるのと、直し方が開発されて、マニュアルとなります。そこは私どものレッスンにも通じるものがあります。発音、高低アクセントの矯正はアナウンサーに及びませんが、研究所では、私も塩原慎次郎先生という、この分野のオーソリティにご教示いただいています。五十音の練習文例などを集めたり、つくったり、アナウンサーの教育の基礎をつくった人です。ベテラン勢のアナウンサー、ナレーターも、彼の本で基礎を学んでいます。

 

○観衆ばかり☆

 

 母音を、切り離すという練習法は、劇団四季の浅利さんが、今や劇団を超え、日本の子供たちにも教えている方法です。私は、舞台の表現、演出としては、主宰者の好みとなりますから、口をはさまないのですが、日本語の発声や歌としての方法については、別の見解をもっています。アナウンサーの基礎のようなこととして、子供の教育に母音の発音練習などが入ることはよいと思っています。顔の筋肉、表情筋さえ、あまり動かしていない人には、すべて形、型から入っても、とてもよいことだと思っています。

 声や表現というのは、時間をかけていかないとわかりにくい、変わらない人がいます。しかし、口をはっきりと動かし、発音や滑舌を明瞭にするというのは、誰もがやった分できるようになることです。その効果も、すぐ確認できるからです。

 視聴者がサウンドよりもヴィジュアル重視の日本人ですから尚更です。今や聴衆は少なく、日本人の客は観衆ばかりだと私は思っています。

 私としては、歌や芝居に表情はつくので、トレーニングとしては、筋トレのように表情筋づくりのレベルで行うならともかく、発声や声質がチェックできないような曖昧なことになるのは避けるべきだと思います。

 

Vol.96

〇声での魅惑術

 かつて遠距離恋愛の必需品は、電話でした。料金が高かったことが障害となり、二人の感情を大いに盛り上げたのです。今や、スマホが必需品でしょう。ただ、やりとりがメールやSNSになったのは残念なことです。

 電話では、表情はわからないですが、声で判断できます。親しくなるほどに、言葉よりも声のニュアンスが大切になります。

 恋愛モードに入ると、長電話になります。そこでは話の内容でなく、相手とつながっていたい、声を聞いていたいのです。

 「自分に利をもたらす声」というのとは違い、そこに相手の好みに応じようとすることが入ってくるのです。

 あなたの相手が、声に無関心であまり価値をおかない場合と、とても大きくウエイトをおいている場合では違ってきます。

 日本では、声のことは、容姿ほど、相手に求める条件に出てきません。

 「好みのタイプは? 何を優先して決めますか」と聞いても、まだまだ声というのは表に出てこないものです。でも意識されていないだけで、声には強いだめ押し効果があるのです。

〇声のだめ押し効果

 「もう一声」、これで決まることがあります。セールスマンの最後の一言などです。クロージングで押し切るのは、声のかけ方、タイミングとトーンです。くどくことも同じでしょう。売れないセールスマンは、声で失敗するのです。

 タイミング、声の感じなどで、「この人(この声)からは買わない方がいい」とか「買いたくない」と思ってしまうのです。恋愛も似ていますね。

 飽きない声、癒される声というのは、どうしてそうなっていくのでしょう。

 「声なんて、相手が好きになればどうでもよくなる」という人もいます。

 でも、相手を好きになるのに、声は案外と大きい要素です。ずっとその声と一緒にいることを考えてみてください。

 ルックス、スタイルは、多くの異性を惹きつけるのにはよいでしょう。しかし、そこであなたの望むたった一人のパートナーのハートを射止めるには、声は、決め手なのです。

 「聞いていて飽きない」「癒される」となったら、最強です。

〇美人モデルには、声で勝てる

 電話して、一方はいつも明るくハキハキ、「待ってました」とばかりにすぐに出る、もう一方は事務的な応対だとしたら、どうでしょう。

 落ち込んだ人が弱気になったときは、あなたが声の優秀な使い手なら、あなたから発される落ち着いた声は、相手を元気づけます。ところが、どんなに心を込めても、冷たく淡白な声なら、さらに落ち込ませます。

 とても美人やイケメンが異性にふられるのにも、こういうケースが少なからずあります。

 つまり、容姿に恵まれて生まれ育った人は、あまり声に感情を表わすことに慣れていないのです。なぜなら、声に何か込めるような必要もなく、まわりの人が聞いてくれていたからです。

 私が思うに、ファッションモデル出身の人には、声にコンプレックスがあったり、実際に声がよくないことが多いようです。モデルはしゃべり慣れていないこともありますが、背が高いので、モデルになる前は、猫背だったり、目立たないよう声も大きくならないようにしていたこともあるでしょう。あまり使い慣れていないのです。

〇恋は声を色気づかせる

 恋すると、きれいに色っぽくなる、角がとれる、自信がもてる、明るい未来に想い馳せられる、お金や衣食住にも欲が出る、など。もちろん相手がいればお金などいらないとなることもあるでしょう。その幸福感と充実感は、あなたの表情も声も、より魅力的にしていきます。よいパートナーに恵まれ、仕事などで頭角をメキメキと表わした例は多いです。

 しかし恋愛の気分と、幸福の持続は違います。恋は現実と夢とのはざまに揺れ動くからこそ、ドラマチックなのですが、どこかで生活が待っているのです。

 快楽ホルモンが、声に及ぼす影響はとても大きいそうです。β-エンドルフィン、ドーパミンなどは、血行をよくしてストレスをとります。そういうときは、心身とも感じやすくなります。すると、同じ場所の同じ風景でさえ、違ってみえます。感動しやすく、涙もろくなるのです。それは、声を成熟させます。

〇本物の恋の力

 声の幸せへのエネルギーについては、どうでしょう。目的やプロセスなんて、めんどうなことを一切、忘れさせるように、本物の恋は、いともたやすく、あなたに変わることをセッティングするのです。

 「声に関心を」など言わなくても、恋をしたら自分の容姿、話し方、そして、声にも、細部にまで、関心がいくようになるのです。

 これまで、マイナスのことばかり考えていた人も、プラス思考になるでしょう。

 恋愛にかけるエネルギーは、大きくなり、そこでは無駄もたくさん出てきます。普段なら決してやらないような愚かな選択をしてしまうこともあるでしょう。笑ったり喜ぶことも多くなりますが、悲しんだり、苦しむことも多くなります。

自分のことだけを考えていればよかったのが、二人分、考えるのですから、当然です。しかももう一人は、自分とは別の心身なのですから。だから、大きく変われるのです。

 声は相手なしには使えません。日本では「歌のトレーニングを河原でやる」というような、ストイックなイメージがありましたが、私はあまり好きではありません。大切な人のまえで、歌うことで極めていくとよいでしょう。

 恋する相手の家の前でセレナーデを歌う。日本では、それは異常者扱いされ、通報されるので、カラオケボックスの中でとめておいた方がよいですが、恋は狂気と紙一重です。声もまた本当の相手を得て完成されていくのです。

〇声でわかるコミュニケーション力

 およそ人というものは、相手に合わせて同じように返すものです。やさしい声を投げかけたら、相手も声もやさしい声で返してくるものです。

そういうセンサーが壊れている人は、考えものです。そういう能力がなければ、だいたい社会的にもうまくやっていけないからです。

それは、仕事だけでなく、家族や友人との会話での、声の使い方についてみると、わかります。なかには、仕事は有能でも、プライベートの関係に不向きな人もいます。

 

 「自分には精一杯してくれる」、あなたにはそう思えても、家族や社会で通用しない人は、あなたの家庭やあなたのまわりの人と、うまくやっていくのは難しいのではないでしょうか。

 

 

 割り勘などは、男女平等が一般化しつつある、とはいえ、男性というものが女性にプレゼントするために出世し、人間としても大きくなるということからいうと、あまりよくありません。

 

 愛するのは、相手に無条件に与えようとするものです。借りをつくることをあたりまえとしてしまう人には、たいした将来はないでしょう。

「問いの円熟」 No.355

 問うのには、何かしらの不備に気づくことからでしょう。不満、不快、怒りや反抗するものがあると問いがでてきます。つまり、毎日の生活に全て満足している人は、問うのに難しいのです。

ですから、若いときや苦労しているときの方が問いが出やすいともいえます。ものをよく知らないと、あるいは、物事がうまくいかないと、自分にとっての古い体制、世の中への不満、矛盾を感じやすく、また、感情で動かされやすく、偏向して執着しやすいからです。

それをあきらめず持ち続けることも大切です。わかったつもりになったり、どうでもよいと思わず、何事にも関心をもち、そして、問い続け、考え続けていきましょう。すると、問いもまた円熟してきます。柔軟になり苦労が苦労でなくなり、物事がうまくいくもいかないもなくなってくる、そこから、真に問うものが出てきます。その深みが、人生を彩るのです。

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