「触れあう声」
○触れあう声
語感というのは、ことばを自分で発するときの感じと相手が受けるときの感じです。声を介し、私たちは自らの心身とも、他の人とも触れあっています。声は、自分の声帯の振動から相手の鼓膜の振動へ伝わります。空気中を伝わる音のバイブレーションなのです。
音声というのは、意味を生じる声の音、音としての声ということです。それには、ことばとしての意味も含まれますが、ここで語感というのは、その前に語として、声としてのレベルで、すでに意味を生じているということです。
- 声と息の感じ
- 語の感じ
- ことばの感じ
たとえば、1については、人間のことばの習得前の状況を想像してみるとよいでしょう。猿人類などの研究もあります。くじらの声、鳥の共鳴管での鳴き声もコミュニケーションのための音声です。ことばがなくても音でのコミュニケーションをするのは、様々な生物でみられます。匂いや色などと同じく、五感によって私たちは伝えあってきたのです(拙書「感性の研究」参照のこと)。
○反射としての声
原始的なものとして、反射作用で声をあげるということがあります。火に触ったときに「熱い」などと、考えるまでもなく私たちは反射的に避けようとします。手を離しながら「アチッ」というような、ことばになるかならないかの音を発します。「アッ」「ワッ」でも、息を吐き捨てて音を出すのですから、世界中で似たような音声を使っていますね。
よく似た例では、火を吹くようなとき、息の音で吹く(hu)のようなH音が世界中の言語で使われています。
これは動物でも同じなのですが、発声の器官の機能が備わっていないと充分な声は使えません。羽をこすった音で求愛する虫はいても、それは声ではありません。カエルのは声といえるのでしょうか。
このあたりの違いには、民族の差や性差、年齢差もあります。とはいえ、発声器官という生体では、フィジカルな要素に負うところが大きいのです。
○感嘆の声
私たちが意味をつけずに、ことばとせずに、声を発していることを考えてみるとわかりやすいと思います。たとえば文法上での「感嘆詞」です。「ああ」「あっ」「ええっ」などです。これは、interjection(英語)で、定義としては「不意の発声」となります。他にも「ワー(うれしい)」「キャッ」など無数にあります。
声には、雄たけびのようなものもあります。突撃で「ウオー」というような声は大きく出せます。自分たちを鼓舞して相手を威嚇できるものとなります。「エイエイオー」など。
○喃語は、歌
ことばと歌と、どちらが先かというようなことは、定義にもよります。この2つを明確に分けることは、本当はできないのですが、それぞれに便宜的に分別しているわけです。しかし、私はストレートにことばのない歌、スキャットなどを考えたら、すぐにわかることだと思います。
ことばをもたないものとして動物をあげました。聖書では、「言葉のないものは人間でない」ということですから、赤ん坊はまだ人になっていないのです。
生まれてからの言語習得プロセスをみると喃語という、ムニャムニャ語の時期があります。このときになんとなく節回しがついて、鼻歌のように聞こえるものがあります。「ダアダアダア」とか「アーアーアー」とか、これは歌としてみてよいと思います。
○ダンスのように
リズムは、心臓や脈拍、呼吸の動きと、足を蹴る、ゆするなど、くり返しの動きから生じてきました。もちろん、風や雨や川の流れなど、自然の音から入ってきたリズムもあります。
メロディの先駆けとなる節(ふし)も、まわりの音や自分の内部感覚から心地よく、あるいは心地悪く、取り出されてきたのです。これは感情の表出となります。ちなみにお笑い芸人のロバートのネタに、何でも節(ぶし)にして歌ってしまう村人というネタがあります。
ヴォイスパーカッションで世界的に有名なのは、日本人のdaichiさんとhikakinさんです。それに対して、ボディパーカッションというのもあります。手を打って、足を踏みならす。このあとは、舞踏、ダンスと歌、音楽の歴史をひもとけばよいでしょう。
○眠りの声
「喜怒哀楽」と言いますが、喜び、楽しみと、悲しみと怒りは、ことばや語がなくても伝えられます。伝えなくても自らで発することができます。表情だけでも区別できるほどです。目や口も、体の姿勢や振るまいとともに、口内で息と声が、それに伴う音を発するのです。
無意識のレベルでは、夢をみるときに発している声もあります。寝言でことばになることもあれば、ムニャムニャということもあります。
もっと原初的なものは軟口蓋で発するいびきです。これも呼吸が音を生じる例です。さらに下りますと、体で生じる音として、直腸から屁、胃からゲップ音、横隔膜からのしゃっくり、軟口蓋から鼻腔のあたりで反射的に起こるくしゃみもありますね。
○求愛の声
求愛のために、使われたのはメールや手紙という文章、文(ふみ)の前に、ことば、呼びかけ、歌謡です。その前では、声の響きだったでしょう。セレナーデのように、異性に呼びかけ、自分に関心をひく慣習は、今のカラオケにまで引き継がれています。
そこでは、歌詞の意味も大切ですが、声の質や歌い方で伝わる感じがもっと大切なのです。
男性は、声変わりでは1オクターブも低く、たくましい太い声になります。強く生命力のあることのアピールです。
歌だけでなく楽器の演奏で、異性に魅力的に働きかける。これも世界中いたるところで行われて今す。楽器というのも叩く(打つ)、弾く、吹くと、人の身体機能を拡張したものです。演奏をしていても、実のところ、歌っているのです。サックスやトランペットは、まさに人の声の代替えです。
それは1対1でなく、1対多でも人を魅了するようになりました。オペラやオーケストラも、その完成された形の一つでしょう。
○性と声
ほとんどがマニアックなため、研究されず、実践だけされている分野では、喘ぎ声、いわば閨房の世界です。しかし、これは芸能やショービジネスに、まさに直結しているものです。ヌードが芸術にまで高められたのに対して、声では、いささか貶められているように思います。
ラップやレゲエ、シャンソン、ブルース、世界中の歌にはかなりストレートに即したものがあるのですが、キワドイということばで封印されています。禁じられているものもあります。
とはいえ、私たちが、人の声にエロスを聞き、感じているのは否定できない事実です。「萌え声」というのもその一つでしょう。
これはセックスで人類は一つということを証明しています。つまり、いくら人種や民族が違っても、やれちゃうし生まれるということです。それと同じレベルで、あのときの声も、民族の差はない、とまでは断言できませんが、人類平等の証です。民族差よりも個人差 (性差)が大きいと思われます。
ことばも意味をもって使われ、くどく、くどかないとなるのでしょうが、その最中には、意味などない声が露わになるものでしょう。
○声の想定
声を音としてみると、次の4つで定まります。
- 強弱、(声量、音圧、ヴォリューム)
- 高低、(周波数)
- 音色、(フォルマント)
- 長短、(time)、持続時間、息の長さ
これに
- 共鳴(鼻声、ハミングなども含む、または頭声、胸声)
が加わり
- 調音(調音点、調音法)
で、発音され、語となり、その組み合わせで言語となるのです。
1~5までは楽器にもみられるものですが、そのいくつかはかなり制限されます。(特に音色)
ピアノという楽器は、かなり特別なもので、同時に発信できる数が多いため、万能でした。それに加え、エレクトーンやシンセサイザーは音色も多彩にしたのです。そういうことは、一つしか発せられない声では、人数がいないとできません(ホーミーは二つの声という人もいますが、単独で自由には動かせません)。しかし、生体としての人の声ほど複雑にいろいろな音をつくり出せるものはないといえます。
語としても、意味を持つ、持たないということで分けて比べてみるとよいでしょう。
○ことば以前と省略形
たとえば、「おはよう」と言うのと「オッス」、「オッス」は「おはようございます」の短縮形とも思われます。一方、上司が部下に「おはようっす」などと言われて、「オッ」「アア」と応じると、そこでは承認の返答として、その表情や音が意味を持ちますが、ことばにはなっていません。
感嘆詞などでは、ことばを感嘆して略してしまっているともいえるのではないでしょうか。もちろん、先になんとなく、そういう感じの声が出て、そこを、より伝えたくて意味としてのことば、単語ができてきたのでしょう。
「ああっ」→「しまった」
「えっ」→「ほんとう?」
「へっ」→「うそでしょ?」
この場合、実際の現場では、正しいことばでなくとも伝わりますね。前の「ああっ」や「えっ」は、書き表すだけでは正しくは伝わりません。第三者に伝えることを前提にすると、音声で真似るか、ことばを使うかしかないのです。
「いっいたーあ―(痛い)」
こういうときは、海外で外国語を使って生活していても、思わず母語が出るものです。
痛いときでも、一人でいるときは、普通の声、気のおけない他の人がいるときは、ややおおげさに、厳粛な式典のときは無音(息だけ)くらいで、というような使い分けをしてしまうことでしょう。いつも他人を気にしておのずとコントロールされてしまうのが、人の声です。
○声として視る
私は言語よりも音声、ことばよりも声としてみるのが専門です。歌には歌詞があることがとても重要で、特に日本人にはそこは外せません。しかし、私は、歌詞はのっているだけ、声だけで、楽器レベルの演奏として完成させてくれと、ことばを引いてみる立場を大切にしています。ここは、歌謡曲や演劇の先生と違います。
とはいえ、純粋な専門分野だけで仕事をするのは、稀となりつつあるのかもしれません。
ことばを大切に語るように歌うこと。マイクがあれば囁き声でも使えます。
それに対して、オペラなどでは、遠くに声が届かないとことばも伝わりません。音量、共鳴、人の楽器としての、美しい音色を重視します。完全にコントロールされた極限に近いハイトーンでは、発音よりも発声、共鳴が問われます。
私がクラシック歌手、声楽家は共鳴のプロと述べているゆえんです。ですから劇団四季のように母音を明確にするところから入るのは、けっこう負担が大きくなるのです。
オペラは、落語の定番の噺(枕やMCなど入らないもの)と同じようなもの、スタンダード曲と同じです。内容がわかっている通の人が聞くなら、ことばは第二義のものになります。オペラは総合芸術で、構成や衣装、ルックスなども問われますが、もとは声を競う芸術でした。その点、邦楽、詩吟は音色やフレーズ、つまり喉のよさが優先されているものといえます。
○音色と味
私が一般向けのテキストをつくるときは、ことばの発声に加えて、声の使い方を入れています。ことばにならないところは、本では書けないために、CD付になるまで出せなかったのです。CD付きになっても、教材として、ことば、発音中心にせざるをえないのです。語学を、発音を聞かずに学ぶと、実際の会話になったときに通じないことと似ています。
最近は、定型である、あいさつことばを加えています。誰でも「おはようございます」と言っているのですが、どういうものが伝わるのかを学びます。同じことばに違いを出す、そこが声なのです。
もとい、芸事でも芝居でも、正しく間違えないで言えたかなどは問われません(間違ったら失敗です。言い直しが多ければ失格です。正しくいえることは前提です)。
どう言ったのか、どう伝わったのか、それを決めるのは、お客さんという勝負なのです。落語でも、100席ほど覚えて二つ目、真打になるにつれ、噺の数でなく、同じ噺を、いかに客に聞かせられるのかが問われます。
それには一つの噺を何百回も練習しなくてはいけないわけです。数をやればよいのではありません。他人のネタでやっても、自分の味で出さなくてはいけないのです。挨拶でも同じです。
○声としての差
最終的に問われる、その人の魅力や存在感というものも、音声では最低限のことをやったうえですから、つまり、はっきり聞こえるように言えることが、第一となります。そのことが個性を出すことより優先されます。
歌や芝居のうまい人と、印象に残る人の違いは、声において明らかな差があります。日本では、ルックス、ヴィジュアル面が優先され、声の力がなおざりにされているのは残念なことです。世の中は、映像優先の方向にずっと動いてきたのです。
韓国ドラマや代劇で学んでください。主人公やそれに準ずる役と、エキストラや一回しか登場しない役者との声の違いを知ってください。台詞は台本をつくる脚本家、見せ方、撮り方や構成は演出家、監督の責任です。そのせりふをどのように表現するかが役者の真骨頂なのです。
○せりふの分解
せりふを、分解してみます。意味は省きます。せりふは語感の組み合わせです。一語の発音の感じが組み合わされ、リズムやメリハリが変化します。
感嘆詞でも、ああっ、ああ、ああ、あ~、あー、あ”、と、で表すには限界があります。日本はうまく字の形を変えたり、絵文字などを使ってフォローしています。まさにそこがリアルにおいては声の役割です。その使い分けを上司、同僚、部下と3つにシュミレーションしたのが拙書「人に好かれてきちんと伝わる声になる本」です。
○ネーミング
人間がことばをつくるときに、あたかも赤ん坊の喃語から明瞭な母語になっていくように、曖昧な音声が少しずつ明確に区分されてきたのは、間違いないでしょう。外国語は、母音の音も子音の音も組み合わせが複雑です。
日本に来た外国人には、漢字に興味を持つ人が多いのですが、それは象形、万国共通の理解ができる形(形象)を楽しんでいるかのようです。川は、誰が見ても流れを表します。こういう研究は日本ではとても盛んでした。白川静氏の古代漢字研究のような偉業もあります。
体や呼吸の分野で体操の野口三千三氏は、「野口体操・からだに貞(き)く」という代表作のタイトルでわかるように、漢語や起源も研究しました。竹内敏晴氏も、音声や体のことを深めて、日本語の研究、漢字の成り立ちに行きつくようです。
企業の社名や商品名についても、ブランドとしたいのは語感について研究されています。
○名前の音
私は留学生に「今日は何の日」という日本のさまざまな記念日や「画数占い」、陰陽五行説などを紹介しています。画数というのは格付けや子供の名前をつけるのにも使います。
今時の子供の“キラキラネーム”の是非はともかく、音声について、名前では早くから研究されていました。名前は、言霊信仰の根強い日本では、音に意味がありました。生涯、何回呼ばれるのかわからないほど、他人から自分に発せられるのは、自分の名前です。性格や運勢に結びつくというなら、画数などよりずっと信憑性がありそうです。
画数の方は、私は字の感じ、何回も書くことでの感じが影響するのではと思います。
もちろん姓、ファーストネームの音も大きいですね。学校では、ア行から始まる出席番号順でしたから、男性でアで始まる人は、すぐに呼ばれるのに備えられるような性格になるのかもしれません。
名をつけるには、何回も口に出してしっくりするかで、決めるとよいと思います。期待や願いが入って本人に合っているかは別ですが…。
あだ名となると、しかもそれが姓名とかけ離れたものなら、音の感じが何か、その人の性格、言動とリンクしているのでしょう。私はけっこう他人にそういうあだ名をつけていました。「クック」とか「バグ」とか、そんな感じの子だったからです。この頃は、あだ名もいじめの原因として禁止するような風潮もでてきましたが。
○生活と声
語感についての研究者がいます。一読してみるとよいでしょう。音感もまた、語感と同じく発声の原理、生理学に基づいて考えた方がよいですね。
母語というのは、それを使う人たちの性格、文化、風土とともに生まれ育って受け継がれてきたものです。その点、性格や顔のつくりにも似ています。
南極に住むイヌイットの言語体系は、赤道直下のハワイ語と明らかに違います。その土地の風土によって違います。狭い日本でも、東北弁と博多弁を比べてみるとよいでしょう。
季節の影響もあります。寒いから口を開かない、動かさない、あまりたくさんしゃべらないなどにみられます。空気の乾燥によっても違いますね。
食生活でも違うでしょう。肉ばかり食べる人とベジタリアンでは、顎の形、開閉度、噛む強さなど、発声をするための楽器(体、顔)も、その使い方(呼吸、舌、顎、口、唇)も違ってくるのです。
○声の感じの力
声は年齢によっても変わります。語感にも、声の感じが強いと思われるものがあります。私なりに分類すると
1.語感―ことばの音声と意味の割合が強いもの
2.音感―発音の感じの割合が強いもの
3.声感―声の感じの割合が強いもの
感嘆詞などがわかりやすいのですが、同じ音やことばでも、言い方しだいで伝わるものが違ってしまうのです。普通は、ある意味に決まっているのに、言い方で異なる意味になるものもあります。弱く言うと勧めたり促すことばも、強く言うと強制になります。肯定文でも語尾を上げると疑問や反語になります。この辺りは、どの言語でも似ています。
言い方次第で、yesもnoになるくらいに意味は変わるのでしょう。うまく言うと、ほとんどのニュアンスを変えることができるのではないでしょうか。
表情でも大きく変化させたら意味は変わるのですから、次のような段階で変えるのは、そう難しくないでしょう。
1.息、声
2.語。モーラ、音韻、1音(もしくは1拍)
3.ことば
○世界の音声
世界中の人が使っている音と特定のエリアの人が使っている音とを比べてみましょう。英語と日本語など、実際の言語を比べてみると早いですね。いわば、比較言語学です。
たとえば、国際音声記号を使うと、人類のすべての言語の音声(調音点、調音法)を記述することができます。
たとえば舌を歯茎と軟口蓋に同時につけて出すなどという発音は、人間には難しいので言語の音として使われることはそうはないのです。
1、 人間としての共通の楽器部分で出せる音
2、 自分の使う言語に含まれる音
どの言語も母音と子音をもちますが、それぞれ異なります。
とはいえ、母音とは、共鳴した有音声、子音とは息や共鳴を妨げる(加工する)音ということでは、共通しているのです。
○外国語の音声
私たち日本人が外国語の習得、特にヒアリングと発音に弱いのは、アグレッシブとはいえない控えめな性格や、同一民族での農耕生活であったことからの必要のなさ、学び方(教育)にあります。私にはその結果とも思えるのですが、日本語が音声としては、いたってシンプルな体系であることです。それで、より複雑な発音体系を持つ言語は習得しにくいのです。
逆に、日本語を学ぶのに、欧米人などは漢字、カタカナ、ひらがなにため息をつきますが、中国人は漢字を彼らほど大変と思わないものです。
母音を5つに、しかも曖昧にしか区別していない日本人が、たとえば、アだけで5つ、母音が26もある英語に悩まされるのは当たり前でしょう。韓国人、中国人は、子音に強い息を使うのですが、それだけでも日本人よりは楽です。
長年、日本に住んでいても、どこの外国人かわかってしまう発音のくせや、その組み合わせというのは、だいたい母語にない音からです。母語の中で似たものを代用しているからわかってしまうのです。私たち日本人がLもRもラで代用しがちなのもそういうことです。
とはいえ、人間の発声や器官の構造は、それほど大差ないといえます。機能としては、絶対に発せられない外国語の音はないのです。
実際のところ、日本語の日常会話のなかでも英語に必要な発音のほとんどは、すでに使っています。ただ、認識していないので、そこだけ切り取ったり並べ替えたりできないだけです。発音の能力は、この認識ができているかどうかからです。それで聞き取りも発音も左右されるのです。
○聴音能力
誰もが外国語のネイティブな発音にこだわり憧れます。しかし、コミュニケーションにおいては、発声能力が劣っていることの方が問題です。
まず、声量が第一で、発音が正しくても、小さな声では伝わりません。息が強くないと伝わらないのです。特に英語など強弱アクセントのことばは、それで伝わらないことが、日本人にはとても多いのです。
それは日本語が、あまり息を強く発しないからです。日本語は高低アクセントですから、音の高さがわかることが必要です。また、日本語は、母音が子音のあとにすぐについて一体化しているので、多くは共鳴(有声化)します。息が強すぎたりハスキーではわかりにくくなります。そのため、強弱でみると、メリハリなく平坦なのです。
強弱アクセントでのリズムの動き(チャント)で聞く欧米人には、この小切れに棒読みしているような日本人のカタカナ英語では聞きづらいのです。「ダダダダ…」と銃弾のようだという人もいます。私の「日本語の等時性」について述べたものを参考にしてください。どの音も同じ長さに伸びるということです。
強拍に巻き込まれる子音が連続するような英語などの感覚は、日本語にはないために聞き取れないのです。
外国語の学び方、教育については、いろんな提言がなされています。まず母語である日本語で、自分の考えを組立て、話すことのできるようにするところからでしょう。
○三母音の「ア」
合唱団の指導者は、音の高さを、体や手や指揮棒で示します。数値(○○セントなど)にするなど、音の高さを数量化して例えて教えている人もいます。
小中学生の発声の習得で、母音を体全体で違いを感じるようにしている教え方があります。母音の響きによって、その広がりに口内はもとより体でも違うように感じるからです。その差を発音の発声指導に活かすのです。
発声練習に母音がよく使われるのは、共鳴音(有声)で妨がないからです。
発声練習によく使われるのは「ア」です。あくびの「アー」のように口が開き、本当は口でなく、口のなか、軟口蓋が上がるようにすると、喉頭が下がり、声道が充分に確保され、共鳴しやすくなるのです。外に響かすには「ヤァー」「タァー」などが強く出せます。言語以前に遡り、共鳴で音を変えながらマスターしていくのです。母音を体操のように体の動きとともにマスターする方法もあるのです。
○三母音の「ウ」
「ア」の次に「ウ」を取り上げるのは斬新な試みです。
発声発音練習には「アエイオウ」、「アエイウエオアオ」、最近は、「イウエオア」、「イウエオアエイオ」などがよく使われます。(母音発声のメニュ)
母音は、「ア」が最初、」そこから「ア」ー「イ」、「ア」ー「ウ」という2つの方向があります。口の形でいうと、横の方向と奥の方向ですが、それは口の開け方ではなく、口内の空洞の作り方、舌の位置の違いです。
全体では、「ア」ー「イ」ー「ウ」(ー「ア」)の三角形となります。
そして、「ア」ー「イ」の間にエで、「アーエーイ」
「ア」ーウの間に「オ」で、「アーオーウ」
合わせて5母音です。
「アーエーイーウーオ」で五角形になるわけです。よく使われているのは、四角形ですが、それは「アーエーイ」が一直線に並ぶのに「アーオーウ」は、少し「ウ」がずれ(3点になる)ためです。このあたりは、使い方によっても、前後にくる音などによってもかなり違うものです。
「アゥ」と言うと痛いですが、「ウッ」では腹を蹴られてうずくまるような感じですね。「ウウウ」は威嚇で、犬などを思い浮かべませんか。犬は「ウ」が出せるけど「イ」は出せないでしょう。それで「ウ」を先にするのです。
○三母音の「イ」
「イ」は人が直立歩行して獲得した音です。喉頭が下がり、首が立って喉の奥から口に対して声道が直角に合っていないと出せません。このフォルマントは、そういう状態のつくれない動物や赤ちゃんには出せないのです。
このように、発声器官そのものの変化は、人間の言語に大きく影響しています。その意味を代表する音が「イ」です。「イー」「イヤだ」、など、やや挑発的な音の響きにもなるし「イイ」「イーわ」のように穏やかに落ち着いた感じにもなります。両極端にブレやすい音に思います。
「ア」に比べ、「ウ」「イ」は出しにくく、歌でも苦手にする人が、高音では多いようです。しかし、声楽などでは上達するにつれ、「イ」の方が楽に高く、しかも共鳴させられます。軟口蓋を高く上げられるために声道が長くしやすいのです。あごを引くことも関係します。
「ア」の発声は、やりやすいようですが、中音域の声と同じで適当に出てしまうので、本当に調整していくのはやっかいです。日本語のようにもともと浅いと、そのままで定着し、発声や共鳴のなかで後々まで浅く固いまま、未完成に取り残されかねません。アマチュアの多くは「アー」で練習するのに、声楽家がそれを必ずしも使わないのは、長年使ってきたため、間違いやすいし深まりにくいからです。
実際の発声練習では、母音だけでやるより、子音をつけている方が多いでしょう。その方がやりやすく、マスターしやすいからでしょう(共鳴の前のきっかけの音として子音、つまり、ことばをおいた方が、深めやすいと思われます。トレーナーの腕しだいで、使う音は大した違いはないともいえます)。
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