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「日本人の音声力の弱さ」

○日本人の音声力の弱さ

 

 日本人の音声力の弱さと、その原因について、別の面から指摘をしたいと思います。これまで、私が述べてきたのは、日本人、日本の特徴として次のようなことでした。

 島国の村社会での生活。小集落。

 アイヌなどとの混合はあったとはいえ、比較的、移民、流民の少ない固定化された人間社会。

 「壁に耳あり障子に目あり」の、木と紙の狭い家、プライバシーのない「家」社会。

 農耕社会の長老政治。長いものに巻かれろ。

 農業は、天気などに左右されるもので、長年の経験がものをいいます。しかも、稲作などでは集団での作業で和が尊ばれます。若者がリーダーとなる狩猟と違い、実力社会ではありません。

 日本人はアフリカからもっとも遠い地まで逃げてきた、世界の中でも穏やかで争いを好まない、その多くは滅亡したような類の生き残りの民族だったのではないかと思います。

 世界でも稀にみる長期に継続している天皇制です。何事も上からの変革だけで継続性が高く、他の国のような民衆による激しい革命がなかったのです。

 

○日本人と日本語

 

日本は、古くは中国から、近年は欧米からの影響を大きく受けました。そのために翻訳による知識の導入、それは読み書きが中心となり、日本語という言語を特殊に発達させてきたのです。

 日本語は文字に複雑ですが、音声にはシンプルです。音声での言論である対話、議論、対論などに重きを置かないのです。

 日本の社会は、上意下逹とボトムアップの年功序列、終身雇用を中心とし、リーダー、エリートの育成ができない、この傾向は21世紀でも変わりません。個人としての実力よりも、集団、組織が優先であり、個としての信用、保証は重視されないのです。

 

○対話と会話

 

 「日本には会話しかなく対話がない」、と言われてきました。対話とは、第三者を聞き手においた対談を考えるとわかりやすいのでしょう。11で話していても、その2人の中でなく、他の人が聞いてわかる、つまり、ドラマの出会いのシーンのように、観客がいても、そこへの説明が確立しているようなもののことです。簡単にいうと素性を知らないもの同士の話のスタイルです。

 私はワークショップでは、1対多でも、そのなかの一人の相手に語りかけるようにしています。そのときに、常にその人だけでなく、その人を通して他の人に伝えようとしています。これは対話です。

 時間的制約があるのと、1回きりのケースなどでは、初対面で何の事情も知らない相手の前で進行しなくてはいけないからです。全員に語りかけても伝わりにくいことを、伝わりやすくするため、もっとも適切と思われる候補を選んで、その人をだしに進めていくのです。

 1対多では成り立たせなくてはいけないことが、11でもそうなっているのかというのをみると、それが会話か対話かわかります。親しすぎるなかでは、多くのことが省かれて、会話となります。

 

○日本語は会話向き

 

 日本語は、対話型のコミュニケーションには、不向きな言語です。すでに関係ができている相手に伝えるには、うまく使えるのですが、初対面、特に1対多では、混乱しやすくなります。人前で話すのが不得意な人が多いでしょう。

 主語を出さず、受け身で婉曲に伝えます。伝えるよりは、相手が察していくようなもので、「ハイテキスト」なコミュニケーションといえます。

 誰でもが知り合いの同郷の徒、つまりrural(田舎)での交流のものです。

今、使われてよく批判されている「…にほう」「…から」「…とか」という、方向でぼかす婉曲表現も、その一つの例です。主体性に欠ける自己責任を問わない社会、匿名、世間、派閥といった、集団を中心とする社会の特徴がよく表わされているのですね。

 

○主語のない日本語

 

 「日本語には、subject(主語)がない」などという批判は、欧米のグラマーに日本語をあてはめているからです。ボクシングのルールで、柔道をjudoにしてしまったのも乱暴なことだと思います。

 伝統を尊重する私も、このところの柔道、相撲、野球といった、かつて花形であった各界の幹部のには、日本の古いものの頑なさをみるとともに、時代の波のなかでの対応に大変なのだと同情もいたします。上からはしばかれて育ったのに、下からはパワハラと訴えられる、板挟み、中間管理職の悲哀です。しかし、そこを乗り越えて改革しなくては未来はないのです。

 そこでみえてくるのは、組織、集団の中で責任をあいまいにしている、個人としての主体性のなさです。まさに日本人らしいのです。

 相手によって自分の呼称さえ複雑に変えなくてはならない日本語は、そういう宿命を背負っています。自分以外であれば、相手が誰であれ、一人でも何千万人でも、youだけですむ言語を見習うことも、ときには必要だと思うのです。

 

○文字への思い入れ

 

 私は欧米のことばにやや近い感覚のものとして、これまで関西弁、広島弁や博多弁などを挙げてきました。音声以外の日本語の研究はたくさんあるので、興味のある人は学んでください。言語で文字によって表せるものは、書物で学べるからです。

 文字の発明、紙の発明、印刷の発明、本の発明、それ以来、研究というのは、ペンで綴られてきました。欧米ではアルファベットのタイプライターの発明で、飛躍的に多くを記録し、伝えることができるようになりました。日本ではワープロの開発、普及を待つのにかなりのタイムギャップが生じました。

 一方で、音声は、20世紀のレコードとラジオの普及からパソコン、スマホが普及して、利用も研究も本格化しつつあります。

 日本人は、文字に対して大きな思い入れをしてきたのです。これは、翻訳を絶対としてきた輸入文化ゆえの宿命でした。しかし、その元、日本人のビジュアルへの鋭い感性のためだと思います。欧米にもフォントはありますが、日本人の絵文字ほど柔軟ではありません。韓国や中国のような伝達の効率を重視した文字の改革はあったにせよ、センスよく守られてきました。現代において、絵文字、記号など、新しい発明が、一般のレベルでどんどん行われ、改革され続けています。カタカナ、丸文字を超えての、新たなる日本語の開発のスピードと量には驚くばかりです。

 

○ネットと世間

 

 世界に有数の、日本の、大量の数を誇るブログや掲示板などへの無記名の書き込みは、よくも悪くも昔ながらの「世間」の存在を感じさせます。私のように常に読み手と向きあい、文章を書いてきたものには理解しがたいことでもあります。

 そのエネルギーには、よい面では「読み人知らず」のような習作、俳句や短歌づくりのような、日常にある文化の定着を感じます。一方、悪い面では全国版とはいえ、日本語ですから、世界には届かない、井戸端会議や落書きの安易さです。そこに集うのは、似た思考の人ですから、論議を重ねていくのはどうなのでしょう。直接会っているなら悪友でもよいのですが、匿名で吐露し合う、ときに罵り合うだけでは自分の成長になりません(でも吐き出さないよりはよいので、その後にそこにとどまるか、次の一つ上のレベルへ抜け出せるのかで差がつくのですね)

 成長したい人は、もっと自分に役立つことに時間と頭を費やすことです。類は友を呼ぶで、自分のエネルギーを累乗でマイナスにしていかないこと、それを自分を高める人との交流に使うことです。

 見たり聞いたりするだけでも疲れるなら避ける。そういう感性がないと、引き込まれてしまうのでしょう。不満こそ身の内にためて、自分の本音を作品や仕事へ昇華させた方がよいと思うのです。プラス思考の人はそういうのは読まないでしょう。

 

○日本語の遍歴

 

 日本語を総覧してみると、万葉の頃は、歌垣として、情愛の呼びかけでした。歌垣は、言霊という呪術的な力の働きが加わるとはいえ、今のコンパのようなものです。その後、お上の勅選和歌集では、選者が記述して記録していきました。

 紀貫之の土佐日記「男もすなる日記というものを…」というカバちゃんスタイル、女装や女体、いや、女性体、女性語で書かれた「かな」文字です。

 話すときのことばと書くときのことばは、ずっと区別されていたのです。和語(「よみ」)と漢語(「こゑ」)と呼ばれていました。

 公家、武士、僧侶や女房(女性)、幼児と、使う人によって、ことばは異なり、ややこしかったのです。しかも、中央と地方とで違います。

このあたりは世界の国々と同じく、村一町―市―県や州―国などという全国統一のプロセスで変わっていきました。

 

○共通語の誕生

 

 日本ではずっと、中央は京(京都、奈良)でした。近世になり、江戸(東京)になったわけです。江戸でも初期の頃の文芸は、井原西鶴の浮世草子、近松門左衛門の浄瑠璃など、上方のことば遣いでした。江戸、武士、男ことばなどは、荒っぽく粗野なイメージでした。

 それが、江戸歌舞伎や洒落本を経て混合していき、19世紀の文化文政以降、滑稽本、人情本では、江戸語といってもよいほどの完成を遂げます。公家、僧侶から町人、庶民階級の人々のことばに変わっていくのです。

 一方、大衆を相手にする語り口は、平家物語の頃から、ずっと受け継がれていきます。森岡健二氏によると、今の標準語が成立するまでのプロセスは次のようになります。

1.抄物(経文、漢語、古典の注釈)

2.江戸講義もの(漢字、国語)・説教(仏教)・道教(心学)

3.明治講義もの

4.演説

 

○江戸のことばから共通語に

 

 多数の人を相手に話すと、講義調、説教調、演説調のようにスタイルが確立していきます。これは、報道、ニュースをみるとわかるでしょう。そして、その調から体へ、「だ」「である」とか「であります」「ございます」なども文体をもち、話のスタイルができてくるのです。

 問題は、江戸のことばが全国に広まり、共通語になっていくプロセスです。

 明治になり、欧米に追い付くために、日本語は「ローマ字」で統一しようという論議さえありました。漢字は知識人に多く用いられていたので、福澤諭吉は、「漢学制限論」を説きました。

 その後、漢文直訳体の仮名まじり文から言文一致、話しことばと書きことばを一致させる運動になるのです。

 明治20年代、二葉亭四迷の小説「浮雲」の「だ体」、山田美妙の「胡蝶」の「です体」が、その代表例です。それには、江戸落語を大成した三遊亭圓朝の影響があったようです。彼の「牡丹灯籠」などは速記によって出版され、大ヒットしたといいます。

 

○標準語と共通語

 

 「標準語」ということばは、standard language、岡倉由三郎が最初に用いました(1890年)。それが東京語に準拠することになったのは「口語法」(1916年、国勢調査委員会)によります。最初の国定教科書「尋常小学読本」は1904年、すでに口語体の文章でした。これがラジオ放送の開始(1925)で普及するとともに、整えられていったのです。私は、飯田橋の凸版の印刷の博物館で、いくつかの教科書をみました。

 一方、「共通語」とは、異なった地方の人々が意志を通じ合うための言語です。これは、common languageで、第三の言語と考えたほうがよいでしょう。現実として、私たちは共通語を使って話しているといえます。これが、東京で一般的に使われていることばとは、必ずしも一致しないのは、NHKのアナウンサーの語り口を聞いたらわかりますね。

 標準語というのは、理想的で人為的で、上からの押し付けのような感じがあってか、使われなくなってきたのでしょう。最近は方言も復活してきて、方言と共通語として使われています。

 

○「グロービッシュ」の登場

 

 グロービッシュという言語について述べます。グロービッシュは、イングリッシュとグローバルからの造語です。英語を母国語としていない人のための英語体系です。シンプルな言語体系にして、コミュニケーションに使えることをメインにするのです。

これは、標準の言語は一つに決めることができないから、誰でも使えるように簡易なレベルでの範囲を決めて使いましょうということです。文法、ルールが省略化され、本来の言語とは異なります。しかし、健全なアプローチといえるでしょう。ことばにはどちらが正しいかわからないものもたくさんありますから。ネイティブスピーカーでない外国人が使うのに寛大ということです。

 日本でも地方に住む人にとって、共通語などは外国語と同じでしょう。一生話さない人もたくさんいるでしょう。関西出身の人は、東京でも関西弁で通しています。東北などの人は方言にコンプレックスを抱き、小さい頃から、共通語を学ぶ日本語のバイリンガルとなろうとしていますね。

 私も、50カ国以上の旅まわりを、英語とジェスチャーと筆談で乗り越えてきました。ネイティブのニューヨーカーに対しては、今でもビギナー同様です。ネイティブで日常的に英語を使っている人は、英語が使えない人のことがわからないのです。私は、自分と同じく第二言語、第三言語として英語を使っている人との方がスムーズに英語でコミュニケーションをとれるわけです。その加減をネイティブスピーカーこそグロービッシュを学ばなくてはいけないということです。

 

○語学学習のコツ

 

 教えるということ、あるいは、伝えることでもよいのですが、それには二つの必要条件があります。まず、「自分が、あることを知っている、できること」、です。あなたが日本語を教えるとしましょう。すると、あなたは日本語を知っていて、できる(話せる、書ける、読める、聴ける)ことが必要です。

 日本で育った日本人なら、日本語は知っているし、できます。でも、それを教えられるか、伝えられるかというと、「それについて相手が、どう受け止められるかを知っていること」が、次に必要になります。

 アメリカ人になら、あなたが英語を話せると、かなりスムーズに日本語を教えられます。でも、アメリカ人ばかりに教えている人が、中国人を教える相手にすると苦労するでしょう。

 つまり、相手の言語を知ることが必要なのです。それと比べてこそ、自国語の特殊性がわかります。そこの違いから切り込むと、効率よく教えられるようになります。

 単語、文法、発音、リスニング、読解などに分けるのは、共通した法則を覚えることで、学びを効率化させるためです。方言しか話せない人が共通語を学ぶときも同じです。それぞれにグレード、難易度をつけて、簡単な方やよく使う方から入るのがノウハウです。

 

○英語や日本語を簡単にする

 

 共通語は、現実のコミュニケーションのために使うものです。今のところ世界の共通語の位置づけにあるのは英語です。中国語やスペイン語を使う人も多いのですが、国を超えたところで話せることばとしては、インターネットなどにおいては、元から使われている英語が有利です。

 他の国の人が学ぶには、英語は、かなり複雑でいい加減なルールの言語で苦労します。こういうときはエスペラント語ではありませんが、シンプルなルールの共通語に英語を変えていけばよいのです。たとえば、使う英単語は1500語以内を目安にするなどということです。それがグロービッシュということです。

 日本語でも海外の人が学びやすくするためのグローバル・ジャパニーズというようなものを提唱する人もいます。こういう場合、言語は文化でもあるので、変えてはいけないという保守的な人々の反対にあうのです。そのおかげで、漢字も日本語も生き残ってきたのでもありますが、外国人向けには、読み書きに難しい日本語を制限して2000語くらいで通じるようにする方がよいでしょう。それを日本語のネイティブである私たちが、区分けして覚えるのです。それは、制限するだけなのでたやすいはずです。外国人と、その制限下で話せばコミュニケーションがとりやすいからです。

 日本語がすぐうまくなる外国人の心配よりは、日本人の心配をすべきですね。外国人とは2000語以内で話す。日本人とはこれまで通りで、日本語を2000字だけにするのがよいと言っているのではありません。

 

○アナウンサーの話し方

 

 日本の共通語は、東京の下町ことばをもとにしていながら、実際は、放送のために使われていることばです。共通語は、私の考えでは、NHKの編纂によって認可されたり、変えられたりしていく、あまり話されていないことばです(「日本語アクセント辞典」などが教典)

 日本人の規範好きの性格は、細かいところまでこだわり、制限、ルールを統一させ、全員に普及させるのに並々ならぬ能力を発揮します。全世界でNHKほど一様の基準で、アナウンサーだけが、きちんとそのことばを扱っているという国はないでしょう。列車の発着時間と同じくらいに几帳面なのです。ちなみに、フランスなどは、全国民に自国文化や言語を大切にするため、他国の文化が自国の文化に流入することに制約があります。

 世界でもこんなことができるのは、他にドイツ人くらいで、頑張っているのは北朝鮮くらい、でしょうか。これは明らかに標準語としての理想化です。

 私は多くのアナウンサーと関わってきましたし、NHKの技術者で、ここに通っていらっしゃる人もいます。

「アナウンサーのように話す」という基本は、民放のパーソナリティは別として、声優、朗読の人にもけっこう共通しているものを感じます。そこから離れる苦労を先日、アナウンサーの松平定知さんの本で読みました。

 

○発音アクセント中心主義

 

 アナウンサーになりたての人の発音、アクセント絶対主義の基準と、TV、ラジオ放送のベテランや一流と言われる人の語り口が一致しないことを指摘したことがあります。

 ここではアナウンサーの専門である発音について述べます。ベテランのアナウンサーの能力に私がもっとも驚かされたのは、出身地を当てることです。これは、科学捜査班レベルで、ときに犯人割り出しにも使われるそうです。

 いろんな地方出身の新人の発音アクセント矯正指導をしているうちに鋭くなるのでしょう。言語(方言)の特徴がわかるのと、直し方が開発されて、マニュアルとなります。そこは私どものレッスンにも通じるものがあります。発音、高低アクセントの矯正はアナウンサーに及びませんが、研究所では、私も塩原慎次郎先生という、この分野のオーソリティにご教示いただいています。五十音の練習文例などを集めたり、つくったり、アナウンサーの教育の基礎をつくった人です。ベテラン勢のアナウンサー、ナレーターも、彼の本で基礎を学んでいます。

 

○観衆ばかり☆

 

 母音を、切り離すという練習法は、劇団四季の浅利さんが、今や劇団を超え、日本の子供たちにも教えている方法です。私は、舞台の表現、演出としては、主宰者の好みとなりますから、口をはさまないのですが、日本語の発声や歌としての方法については、別の見解をもっています。アナウンサーの基礎のようなこととして、子供の教育に母音の発音練習などが入ることはよいと思っています。顔の筋肉、表情筋さえ、あまり動かしていない人には、すべて形、型から入っても、とてもよいことだと思っています。

 声や表現というのは、時間をかけていかないとわかりにくい、変わらない人がいます。しかし、口をはっきりと動かし、発音や滑舌を明瞭にするというのは、誰もがやった分できるようになることです。その効果も、すぐ確認できるからです。

 視聴者がサウンドよりもヴィジュアル重視の日本人ですから尚更です。今や聴衆は少なく、日本人の客は観衆ばかりだと私は思っています。

 私としては、歌や芝居に表情はつくので、トレーニングとしては、筋トレのように表情筋づくりのレベルで行うならともかく、発声や声質がチェックできないような曖昧なことになるのは避けるべきだと思います。

 

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