« 2021年3月 | トップページ | 2021年5月 »

2021年4月

「評価のスタンスとレッスン」

○評価のスタンスとレッスン

 

 私は、歌を評価するときには、大きく2つのスタンスに分けています。トレーナーとプロデューサーの観点です。トレーナーとして対しているときは、歌のよしあしそのものでなく、声のトレーニングとしてのオリジナリティにおける可能性で判断しています。「どうすれば歌がうまくなりますか」ということは、そう簡単に答えられません。「プロになる」「聞く人を感動させる」「価値を与えられる」というようなことが入るのであれば、なおさらです。「うまくなる」のと「オリジナルな価値」とは相反することも珍しくないのです。

 

○評価とレッスン、トレーニング

 

 「こういうトレーニングをすれば、こうなる」という、基礎づくりについてはアドバイスできます。レッスンを受けないとないとアドバイスしないわけではありません。しかし、その人にみえていないものは、レッスンでみえるようにしていくように、トレーニングで補なってこそ、本当の効果が出るのです。一言アドバイスは、それを必要としないほど勘と感覚のよい人を除いて、大半の人には、自信をつけた分変わるくらいの励ましになるわけです。

 声も歌も、その人が生きてきた歳月や環境に基づいています。本当のことをいうと、大きく変えるのは至難の業です。まして独力では不可能に近いかもしれません。小さく変えても大きくは変わらないのです。

 

3つの次元を分ける

 

 判断について、本人を中心に考えると

1.本人の声

2.本人の歌

3.本人の表現

と、それぞれにオリジナルのものを判断していくのがよいと思います。何よりも、本人を中心としたヴォイトレであろうと思うからです。しかし、こうしたオリジナリティというのは、他にないものゆえ、認められがたいので、ある程度スタンダードな基準をおくのが、一般的な学び方です。研究所でも、そういう基準を設けて一本通るようにしています。

 つまり、個性・才能なのか、一人よがりのでたらめなのかを区別するのです。他のものへの応用性、柔軟性でみます。他との比較から、相対的に力をつけるというやり方をとるのです。

 

○やり方と学び方

 

 やり方というのは、学習法、勉強法です(日本の場合はこれが目的になりがちなので、ここで「仮に」ということを強調しておきます)。天才なら、他人を参考にせずに独力ですぐれていくのかもしれません。直しようもない、トレーナーもあきらめるしかない強烈な個性が、歌や音楽へ開かれていたら才能としてみるのです。

 ただし、音楽というのは再現芸術です。そこにおいては、発想やひらめきだけでもっていけないと思います。少なくとも、一流は、その前の一流に学んできたのです。その学び方を学ぶのが、レッスンの役割です。

 

○オリジナリティをみる

 

 本人のオリジナリティをみると

1.声のオリジナリティ

2.歌のオリジナリティ

3.表現のオリジナリティ

はそれぞれが違います。

 どれかが抜きんでているか、総合的に力があればよいのです。もしかすると、その配分こそが、オリジナリティといえるようにも思います。配分よりは、組み合わせという方が近いかもしれません。

 

○声におけるオリジナリティ

 

 オリジナリティというのは、声においては、ど真ん中の声です(人によって音色も声量も異なります。今もっともよいのと、将来もっともよくなるのも異なります)。歌を「歌のオリジナリティ」と区分けします。それは、歌全体でなく声のフレージング、音声の描く色や線のことです。声が音色、歌がフレーズということでもよいでしょう。それは、絵でいう基礎デッサン(色と線)にあたります。

 歌手の場合の表現は、音の世界にみるなら、ステージ>音楽>音声(声、歌)と絞り込んで、そのデッサンの組み合わせとしての絵としてみるのです。歌のオリジナリティは、声のフレーズの組み合わせなのです。私は、声=色、歌=線、表現()その組み合わせとしてみることが多いです。

 

○内なるものと外からのもの

 

 声にも  

a.内なる自分からの声

b.仕事などで求められる声

があります。aからbを包括するa⊃bが望ましいのですが、aがみえぬままbでつくってしまうことが一般的です。日常での声力がもっとあれば、もっている声が使われるのですが、日常の声力がないのでトレーニングで補うことです。そうでないと、無理につくらなくてはなりません。大半は、そうしてつくった声を使ってしまっています。

本当は、aがbに並んで、何とかプロレベル、それを超えるには、a⊃bまで基礎としての声力を高めなくてはならないのです。これは歌についても同じことがいえます。ここの「声」を「歌」に置き換えても通じるのです。

 カラオケやもの真似のうまい人は2a⊃2bです(2aは内なる歌のフレーズ、2bは外から求められる歌のフレーズ、2は歌のレベル、1は声のレベルということです)。もちろん、下手な人よりは2aの力もあります。

 しかし、bを目的にしてはよくないのです。aをトレーニングしてbが包括されるようにしていくことです。

この関係は本来、1a⊃2a(声⊃歌)でもあるべきです。日本人の場合、歌の求める声域、声量、リズム、音程すべてがbとして、aより大きくなっています。それでは歌って精一杯、真の表現には至りません。

 

○表現の目標

 

 表現(表現のレベルは3とする)をどうみるかは、声も歌も曖昧な世界のポピュラー歌手や俳優においては、最高クラスの世界のトップからみるしかないので、トップダウンの考えです。ここでも、3a=世界、3b=日本と考えて、3aを目指すべきです。なのに3aでなく3bしか使いません。それどころか、3aをみない、知らないとなりつつあります(a=内なる表現、b=仕事の表現)。

 3aからみるからこそ、3a2a1aと一貫した基準と真にオリジナルな作品、歌、声が明確に見ることができるのです。私が日本の音声の表現舞台、しいては、日本の歌の判断を好まないのは、3c3b3aとバラバラななかでの器用さに長けていることで選ぶよう強いられるからです。

 音楽のルールを守って、きれいな声で、うまく歌っている。そのことに文句はありませんが、本人不在なのです。整形美人のようなもので、どれも同じように心地よいだけで、飽きてしまうのです。

 気をつけたいのは、aをみないbの勉強がレッスンとして行われることがほとんどであるという現実です。

 

○「結果オーライ」という理論

 

 いつも「結果オーライ」の基準を私は提唱してきました。よい方法かどうかなどを問うよりも、その人がよく表現できていたら、よく生きていて、よいものを得ているということです。

 拙書のヴォーカル教本のほとんどは、「響きにあてるな」「共鳴させようとするな」「当たってくるまで保て」「共鳴したらよいがさせてはいけない」など、従来の方法やプロセスを否定するようなことばを使っています。

 そうしたい人に「そうするな、そうなるまで待て」と言うのはおかしなことです。しかし、そうしたいことが本当の目的でなく、プロセスにあるのですから、そうしようとするのはよくないのです。

もう一例、ピッチを正しくとかリズムを正しくというのも同じです。正しくないから合わせようというのは、初歩のトレーニングというよりは、低次元を目的(付け焼刃)としたトレーニングです。

 

○表面より内面から

 

 幼児向けというのなら、時間をかけて成長とともに変じていくというのでいいのでしょう。感覚が入っていき変わるからです。しかし、大人であれば、少々意図的に感覚を変えようとしないと、まず変わりません。気づいたら合っていたというようにしないと高いレベルで使えません。

リズムやピッチを「正しい=遅れない」というレベルでは、間違っていないだけで、合ってはいないのです。合っていても、それは、聞く人にとって決して心地よい音感、リズム感にならないからです。

 とはいえ、そこからトレーニングを始めなくてはいけない人もたくさんいます。それはそれでよいのです。ただ、そこで目的かゴールと思わずに、あてるよりもあたること、聞くことを重視してください。

 

○逆こそ真実

 

 プロセスを進めていくマニュアルというのは、正しさを求めて自ずと間違えてしまうことになるのです。いろんなヴォイトレ本が出ています。しかし、レッスンのマニュアルは、マニュアルゆえに大して効果が出ないのす。

 つまり、

1.誰でも

2.すぐに(早く)

3.楽に

4.間違えることなく

5.効果が上がる

というものは、本人満足ゆえに、聞き手は肯定できないということです。さすがに全否定はしませんが。聞き手のやさしさに甘えられるからです。

 

○本当に満足?

 

 マニュアルメニュのトレーニングは、早く12割よくなって、それから先は限界になります。

 多くは、経験が乏しく平均以下の人が、トレーナーについて声を出しながら曲に慣れていったため、人並みになれたということです。ですから初心者で入り、そこで終わる人には評判がいい。その程度のものを効果と思える、ノーリスクです。本当の意味でのオリジナルなものとして世の中に通用しません。

 それで満足する人が多いのにも驚きます。いつか、自分の才能のなさや練習の足りなさのせいにして、少々伸びたことで満足してしぜんに諦めるといプロセスです。本当の意味でのオリジナルなものとして世の中に通用しません。

 私はそういう人に「ヴォイトレで声が変わりましたか」と尋ねます。体から表現しているアーティストをみて、それを望んでいたのに、体や息や声を大して使わないで、そのあて方を変えただけです。それで大きく変わったと考えているのなら、鈍くなったといえます。可能性のある方法を選べていないのです。

 

○真偽の見分け方

 

 表現においては、歌のフレーズで、1フレーズを、声は、声の一声をしっかりみることです。全体をみながらも、自分の体のパーツを一つひとつしっかりとチェックします。出る音一声を一つひとつチェックします。

 声を出して曲の通りに外れず変じられたらよいのではありません。声を出すのは、心地よいものです。どんな声であれ、自分の声で感情を入れるとくせがついても表現らしくなるので、そこで満足してしまいがちなのです。

 自分で満足できれば何よりもよいという世界観もあるので、そこは触れせん。そういうケースは、それ以上に、レッスンをする必要もないのです。私も自己満足している人の歌を指摘するようなおせっかいなことはしません。

 声のよさを聴かせたいのも一つ、歌のよさも一つ、表現力も一つ、どれでもその方が満足して、そこで聞いている人もよいという場に、レッスンもトレーナーもいらないのです。 

 私が述べているのは、それで満足できない人にです。言われただけのことをやれば誰でも声、歌、表現が身に付くのではないのです。すべてという限度がない世界です。

私が言いたいのは、他の世界では「全身全霊で訓練しました」ということのプロセスがとれるということ、結果は人によりいろいろですが、そのプロセスを、まずはとれるようにしたいということです。しっかりトレーニングしたら、できたとかできなかったとかを超えていくことでしょう。時間だけ経って、トレーニングした実感もなかった「楽だったけど何が変わったかわからない」というのではレッスンではありません。「大変だったけど変わった」その分の苦労をセットしていきたいのです。

 

○基礎と応用

 

 表現は、歌のフレーズの応用、歌のフレーズは声の応用、とみています、私たちは、常に声を応用しているつもりで、応用させられています。そのことで何かを得たつもりで、多くを失っているのです。

基礎のままでは通じないから応用します。そこで何かを得ているのですから、よい効果として出ていたら、よしとします。大切なことは、基礎から欠けていたものを補うことは、応用においてでなく基礎として行うことです。

 悪い結果が出ていたら、それをやめ、基礎で欠けたものを補い直しましょう。基礎そのものが本当に基礎なのかを疑ってみましょう。もっと基礎を固めることが必要なものです。

 

○内感覚

 

 体の動き一つ、呼吸も、歌や発声に対して、本当に正しいというものは、体でなく感覚と実態です。これは、自分の内部で厳しく感じます。感じられるように高めていくしかないのです。

 先日、ストラディバリウスについて、「かつてはオリジナルのと、形、木の厚みを同じにしたから同じ音を再現できなかった。今は木の特質に合わせ、同じ共鳴をする形や厚みに変じさせているので追いついた」というような話を聞きました。目的は同じ形のものをつくるのでなく、同じ音声をつくることですから、自明のことです。参考にしてください。

 

(参考)

ストラディバリウスと声

 

 これまで、現代のヴァイオリンと音を弾き比べたときに、すぐれた聞き手でも25割くらいしか、当てることのできなかったのがストラディバリウスです。それでも、演奏家には絶対的に人気があるという秘密を知りたくてみました。

一流のヴァイオリニストにおけるストラドの評価は

1.音色が澄んでいる

2.粒が揃っている

3.芯がある

です。これは声や歌にも通じます。

NHKの番組での科学的な分析では、方向(指向)性があるということでした。それで、豊かで遠くまで深い音色が伝わるということでした。

 新しく最高のヴァイオリンをつくるのに、形をそのままにまねても同じにはならないので、板の振動(密度)からアプローチして、近づけていったというのは、音から考えてみれば当たり前のことでしょう。つまり、同じとか、近づけていくよりは、もはや、木ではない素材をも試し、最新の研究でというなら、その形を超えるものをつくるべきなのです。しばらくは追いつけ追い越せでの技術開発が目標なのでしょう。

ヴァイオリニストが弾き、それをすぐれて聞くことのできる人がストラドをもとに判断している限り、ストラドのような音は超えられないのでしょう。それと、ストラドの音で名手のように弾きたいという人間の欲が囚われとなります。車はすでに全自動運転できるようになっているのに、自らの手で運転したいという人間の欲がそれ以上の発展を妨げていたのと似ています。

何をもってすぐれたと音というのか、演奏というのかを、原点から考えるべきです。とはいえ、聴覚の世界では、そこの状況、ホールや音響などの影響もあり、アプローチは至難の業です。もっともすぐれた楽器をもとに考えざるをえないのでしょう。

演奏において、もっともよい音を目指そうとすると広すぎるので、ヴァイオリンというワクで絞り込むのでしょう。シンセサイザーでどんな音をつくることができても、ヴァイオリニストやピアニストは、不滅の存在でしょうか。

名楽器は、もっともすぐれた演奏家と、もっともすぐれた耳を持つ人と、もっともすぐれた楽器のつくり手という3つの条件がそろわなくては不可能です。ただ、もっとも大切なのは、それを判断できる聴衆の存在です。

楽器として、生きたままの人間の声帯とか体というのは、木などよりももっと難しいわけです。声や歌の解明がまだまだ進んでいかないのもやむをえないことですね。

 

○個性とくせ

 

 「個性」と「くせ」の違いは、基礎に基づくかによってで、それは

a.確実な再現性

b.さらなる高次の可能性をもたらすか

にかかっています。

 私は、プロや天才(最高レベルのもの、日本では天然としてもよいのかも)と凡人(人並みを目指すもの)は、共通して調整のレッスンをメインにしてよいと思っています。この2つの需要が多いので、日本のヴォイトレのレッスンは調整中心でした。プロもカラオケがうまくなりたい人たちも、調整して自らの力の100パーセントの発揮を目指したからです。

 

○日本の発声マニュアルはヴォイトレでない

 

 日本のヴォイトレのマニュアルメニュは、ほぼ調整のためのヴォーカルアドバイスです。この100パーセントをベースのこと、つまり最低条件とした場合、これは無意味に転じます。

 今の日本のように、トップレベルの歌唱でブロードウエイの予選にも通じないという現状、100パーセントというのを本人の能力の限界でなく、不足したトレーニングの絶対量としてみなくてはなりません。それが100なら100を発揮し尽くすのでなく200にする訓練が必要です。

 だからこそ、トレーニングをすべきであり、ヴィオトレはその名の通り、声のトレーニングです。さらなる高次の可能性をもたらすための器づくりです。まずは器の拡大、体や感覚の強化トレーニングとして捉えることです。

 

○本の役割

 

 どんな分野でも、教科書のように、古典的なものは、初めて書かれたり、長く使われていたことで価値があります。それは、先人の残した知恵へのインスピレーションが鋭ければ、とても役立ちます。しかし、その受け売りのような扱いとなると、「過去」の「他人」の「答え」にすぎません。

もっともよく整理されていると「知識」というのです。「今の」、いや「未来」の「あなた」の答えではありません。

実用として使うなら「知識や本から学べないことを知ること」が最大のメリットです。これも、いくら読んでも何にもなりませんが、一生、かけて、使えるものにしたく思います。何年か経って、そのことに体をもって気づいたらありがたいことです。

 

○レッスンの役割

 

 学べないということさえ学ばないとわからないのですから、こうして学んでみるのは、有意義なことです。本や他の人の言うこと、レッスンなどに充分に惑わされてください。多くの人は、そこまでいかずに、よい本、よいレッスンだったと、疑いもしないで終わりかねないのです。

 私は「問い」のつくり方を述べています。こういうものを参考に自分で「問い」をつくれるようになること、そして自分のルールブックをつくるのです。

 トレーナーがすぐれていたら、そのすぐれたところの近くまでは歩めるかもしれません。それはあなたの道になるのでしょうか。

 

○壊すということ

 

生活のなかで身についた体感、考え方は、簡単には変わりません。それを壊すためにレッスンはあるべきなのです。

壊すというのは、めちゃくちゃにするというのではありません。何かうまくいかないのは、何かしら、うまくいっている人のようにやっていないのです。そこをスルーしてきたからです。そこを攻めること(働かせるように声や歌にしたり、感覚や筋力をつけたり)を意識して、覚えさせていくのです。それがレッスンです。

 

○レッスンのよしあし

 

 メニュや方法だけをみて、そのレッスンのよしあしや正誤を判断することはできません。

 大きな目的を目指すなら、自らの可能性を追求します。可能性を大きくするためには、くせをとるか棚上げにしなくてはなりません。個性(オリジナル)として取り出すためには、壊す必要もあるからです。

 そのためにはマニュアルにあることと逆のことや、そこで禁じられていることも必要悪となります。

力のあるトレーナーは、そこの幅を大きくとれる、つまりマニュアルから大きく、長く離れて、結果OKに導けるということです。

しかし、大半のレッスンは目の前の小さな目的、早く正しくこなすことに囚われています。壊すということはほとんど起こりません。器の小さい人には、器を大きくしないことには大成させられません。壊すには壊せるだけのものも必要です。

 

○トレーナーのタイプ

 

 研究所のトレーナーにもいくつかのタイプがいます。相手により、やり方もかなり変えているので一口では説明できませんが。

壊すような対処をするのはリスクも伴うので、どのトレーナーも行うわけではありません。誰にでも行うことでもありません。そういう才能や実力があっても本番中の舞台をもっている人に、あまり大きなリスクは与えられません。両立できる器用さとか切り替えというような、実力というよりは仕事力もみなくてはなりません。

 人によって可能性は様々です。誰もが同じことをできるわけではありません。どの方向へ可能性をみていくかは、声だけでは判断できません。トータルとしての目的を具体化していくことを併行します。

そこで、本人の目的、プロセスと研究所としてのレッスンの目的、プロセス、さらにヴォイトレのトレーニングの目的、プロセスを定めていくのです。

 短期的に大きく変えようとするより、長期的に23人のトレーナーに併行してレッスンを受ける方がローリスクで大きな効果が得られます。これまでみてきたところ、自分を誰よりもすぐれているトレーナーと思うような人(思うのとそうであるのは違う)は、必ずこういうやり方に反対しますが。

 

○逆行のマニュアル

 

 平均的なマニュアルとは、逆行するような指導例をいくつか挙げておきます。研究所のトレーナーへの共通Q&Aブログには、もっと極端な例もいくつかあります。

呼吸 鼻でなく口で吸う

たくさん吐くように

これは、呼吸で声の流れ、均等、声の深さ、芯を養うためです

   

この研究所に限りませんが、よく発声のわかっている人は現場では次のようなことを許容します。許容とは、より大きな目的のために、一時的にスルーすることです。

ことばの不明確さ

ピッチの下がり、リズムの遅れ、呼吸(ブレス)の遅れ

音色の暗さ、金属的な響き

息の漏れ音

声域の狭さ

レガートの雑さ、声区チェンジの悪さ

裏声ファルセット、共鳴の悪さ

ビブラートの悪さ、ロングトーンの続かなさ

声質、音色を徹底して中心にみると、これらのことが後回しになるのは当然でもあるのです。とはいえ、スルーしない方がよいケースもあります。特に、共鳴、息もれなどは、個別に難しい判断が求められます。

 

○体の復活

 

 達人の域の手技をもつ先生が来所されました。そこで体験したことは、武道にも通じる、神経というか経絡というか、ある感覚を思い出しました。

誰しも年齢を経ると日常のなかで、老化に抗うことを考えます。1年に1パーセントずつ、筋肉が動かなくなっていくという説もあります。それでは私自身どのくらい、これまで全身を動かしていたのかと考えてみると、人間としての可能性の半分以下でしょう。たとえば、幼いころから又割りをしていたら、今も180度開脚できていたでしょう。脳にいたっては使っているのは、1ケタパーセントと言われていますね。

 発声も肉体が楽器ですから、同じことがいえます。「老化で発声が悪くなった」と言ってくる人には、発声のよかったという頃の体力と気力を、半分は戻すことを条件としています。

 どんなに若くとも、理想的な動き、体の使い方や動き方が完全にできている人はほとんどいません。発声に使う喉の周辺の筋肉の動き辺りが、最初は注目されていますが、私がみる限り、全身との兼ね合いが、根本的な問題です。

 

○呼吸の復活★

 

 体の動かし方の再調整と強化には、呼吸を伴わせることが大切です。そのために吐ききってみましょう。発声のコントロールや呼吸保持などは、体から息の吐ける人が次のステップでやることです。ヴォイトレのメニュでは、最初から少ない息で丁寧に声にすることの大切さを説くことが多いのです。荒っぽく息を無駄に使っては、きちんと声にできないのですが、その息さえ、しっかり吐けているわけではないのです。何事にも量と質、全体での荒(粗)さと細部の丁寧さとは、相反するようで両輪のように考えることです。部分よりは全体から入るのが原則です。その両輪での矛盾から全体で丁寧に至るためにです。☆

 

○トータルとしてみる

 

 しぜんにするためにはふしぜんにする。力を抜くためにストレッチする。力を入れて脱力します。

人はやりたいことがあるのに、やれない。そのことが問題になる。やりたいことができないときは、やりたくないことをやることでアプローチするのです。

 練習も続けてやるのは嫌なものですが、続けてやるとよいのです。やりたいようにしかやらない人には大した力はつかないのです。

大きく―声量、声で体に負担を与え、支える

響かす―共鳴→必要以上に響かさない、声が通るための「声の芯」と考える

高く―声域、低く重く下に向ける(これはよく知られていますが、実行されていない)

長く―呼気のコントロールと声立て

私が思うには、声中心に考えると、せりふを言うのも発音もふしぜん、歌うのもふしぜんなのです。これがしぜんと思えたら、すごい歌、すごいせりふにつながる声が出ると思うのです。

 

○ロングトーンとビブラート

 

 抑揚、ここでは、心地よいビブラートの意味ですが、これをつけるのに、強弱、高低、長短、艶(音色)の変化があります。それぞれ個別に試してみましょう。

 息から、発声=共鳴のところで、その効率をどのようにするかは、最大の問題です。これまで声の立ち上げ方(声立て)のスピード(息と声のミックス具合)として、硬起声や軟起声としかみられなかったところです。ハスキーな声やため息もありますが、それは表現での応用となります。

 私は、喉への負担で、リスク面から、嗄声は、表現(せりふ、シャウト)でのアプローチに限らせています。悪声や喉声も声優や俳優では必要でしょう。表現上での練習以外としてはタブーです。ロスの多い使い方をしたら、喉を休ませなくてはいけません。

 共鳴からは、倍音組成、フォルマントで母音の形成、子音の調音となります。呼吸の量、スピード、長さも変えてみるとよいでしょう。

 

○一流の歌との違い☆

 

 世界レベルの歌い手は、ことばをメロディにのせて歌っているのではなく、歌との距離をとって、音の流れのなかで自由に声で表現を創っています。歌のメロディや楽譜にべったりとくっついていないのです。日本の多くのヴォーカリストは30代以降(世界では60代以降くらい)は、流れに心地よい声が使えなくなり、音楽にも距離が出て、ことばで投げ方、感情表出に固めに凝りがち、しかもパターン化するようになります。

 日本では、役者的なパフォーマンス力で、音楽性に欠けてフレーズ感が鈍っていても、インパクトとその反動の収め方でステージはもたせるのです。ステージとして、バックグラウンドに若い時からの音楽でつくった世界観が積み重なって、貫禄でもたせます。ファンが昔のベースを読み込んでくれるから楽しめるのです。ベテランになると、このベースへの観客の優しいノスタルジアでもたせることで満足しているかのようで、残念です。お客さんがナツメロとして満足しているならよいのでしょうか。

 

○目標のつくり方

 

 目標設定は、今の立ち位置を捉え、目的地(心、体、発声、歌、表現、すべて)を設定することです。これに数年かかることもあります。

1.強化、鍛練、基礎、体、呼吸、声←役者レベル

2.応用、チェックとアドバイス、感覚―耳←声楽レベル

声そのものは、表現においては媒介ツールであるだけに曖昧です。これをいかに明確に具体化していくか、それがレッスンの目的です。

 生まれてから今までの育ちの環境と、今を取り巻く環境、それを把握しましょう。そして将来に対して有利に、年月とともに有利になるように変えていくことからです。

 

No.356

心根

風情

気分

次元

達成

かかり

情緒

所作

融合

最高

出来

外形

物真似

物狂い

法師

修羅

限界

センス

昇天

天女

飛天

天界

精査

一対無限

事足れり

個別存在

歯止め

不可思議

究極

「レッスンからトレーニングへ」

○フィジカルトレーナーの盲点

 

 現場のトレーナーから理想と現実の矛盾について相談をされることがあります。私もこのことにずっと触れてきましたが、論としては、「理想を中心に」、あえて「理想的に取り上げよう」としています。

 長期的な視野に立ってこそ、トレーニングの意味があるし、それを伝えるのがレッスンだと思うのです。

 とはいえ、ここでもいろんなケースを扱っています。そこで、盲点について論じたいと思います。

 フィジカルトレーナーでたとえると、わかりやすいので、そこから話に入ります。優秀なトレーナーと思われている人は、次のようなプロセスを経ていることが多いように思います。

1、 本人は、日本では、それなりに活躍できるレベルの選手であった。

2、 ケガやその他の原因で若くして引退した。

3、 そこから独学、もしくは海外の新しい体系を学び、独立開業した。

4、 対象は一転して、一般、初心者になった。(まれに選手を扱うこともあり)

日本のこの分野の未熟なことを挙げて、それに応える形での持論や自分のトレーニング法を編み出し、勧めます。

 

○すぐ出る効果

 

 初心者や、一般の人が対象となると、方法は、自ずと次のようになります。

1、誰でもできるチェック(ゆがみ、偏り)

2、それを直す方法、体操や運動(15分ほどで35回くらいでゆるやか)

3、その効果の実例の提示

 驚くべきは、そこで謳われる効果です。12回の指導でほぼ正常になります。ときに、1週間、長くてせいぜい3週間で改善されるというのが、こういうフィジカルトレーニングの特徴です。これには、肩こりや腰痛の軽減のような類も入ります。

 そういうトレーナーが、仮に一流に近い選手であったとして、「一流になれなかったのは、ケガや体の不調のせいです」と本人が言っていても、必ずしもそんな簡単な理由だけではないと思います。

 体の管理は、基本中の基本です。それでもハードなスポーツではアクシデントは避けられないので、そういうことを理由にします。それとて、そこまでの体をつくろうとしてきた経験のない受講者には、想像できないことです。そこで得たハイレベルでのわずかな調整能力は、一般の人に対しては、うかがいしれないほどの深い感覚レベルでもあるわけです。

 

○フィードバック感覚の差

 

 いつもバッティングの例で恐縮ですが、私たち一般人が、ストライクのボールにあたったというレベルで喜ぶのに対して、プロはボールのどこに当たったかまでを正確に捉えられる体感力があるのです。ボールの10センチくらい上を空振りして「惜しい」と、私が思うのに対して、1.5センチくらいの差で大空振りと感じているというのくらいの大差があるのではないでしょうか。私の想像です。

 つまり、素人は10回スイングして、毎回2㎝以上違うし、そういうことも把握できていないのに対し、プロは全く同じ、何ミリにしかずれないスイングをしているのです。この差は調整で埋められるものではありません。

 

○調整だけになった

 

 フィジカルトレーナーは、自らが体験してきた厳しい調整能力を持って、素人の体をみるのですから、大して勉強しなくとも簡単に調整できるのです。第一に、習いに来る人に「正常な姿勢や正常な使い方の人は、ほとんどいない」からです(それは、ヴォイストレーナーも同じです。声に関しては通じていて、そのようなことを言えるのでよくわか。ます)。それを微調整して今のベターに持って行くのです。すると、体の状態はよくなります。その分、プレーもよくなります。

 一流のプロ選手が相手でも、一流のコーチが微調整すると、本人の解決していなかったズレを戻すに、コーチは必要なわけです。ここで私がコーチと使ったのは、そこは調整方向の指導であって、トレーニングでの改善でないからです。トレーナーでなくコーチなのです。☆

 プロと同じように挙げたので、これがトレーナーの役割のように思われるでしょう。その誤解が、レッスンで大きな問題なのです。この2つのケースの需要が多いので、本来のトレーニングがなされていないのです。この2つとは、一流のプロのベターへの調整と、素人(一般人、初心者)のベターな体調への調整のことです。

 

○レッスンの曖昧さ

 

 「レッスンはチェックである」とすると、今の状況、状態を把握して、そのズレを修正することです。そこでは、プロの調整も素人への調整も、本来の形に戻す点で同じことです。しかし、そのこととともに、その上で将来のベストのための条件づくりをトレーニングとして課す必要があります。

それをほぼ毎日実行することで、外からより、内より変化させていかなくてはなりません(一般の人がプロになるための条件)。

 外国語学習なら、レッスンで発音を直され、不足している単語、イディオムや文法、構文を教えてもらい、毎日復習し、暗記し、無意識に口に出て使えるところまで慣れなくては、本当に使える実力とはなりません。

 しかし、復習しなくてもレッスンだけで覚えられる人もいます。効率さえ無視してよければ、毎週1回のレッスンでも、10年経てばそれなりになります。

 言葉も声も歌も、特別に日常と切り離されていないものです。レッスンがなくても日常でその要素がたくさんあれば、あるいは、それを取り込むことに、その人がすぐれていたら、力がついていくこともあるのです。それゆえ、声や歌はレッスンとトレーニングの位置づけが、曖昧であるといえます。

 ヴォーカルのヴォイストレーニングと素人の調整トレーニングも、一流のプロ(特に海外など)の行う調整トレーニングと似てきます。そして、正しいとか、効果があるとなってきます。

確かに力を100パーセント出せるように戻す分には似たやり方になります。言うまでもなく、10の力がない素人が100パーセントの力を出しても10です。100の力のあるプロには通じません。プロは1/10で素人のベストが出せるのです。ヴォイトレで大切なのは、10100にするためのトレーニングではないのでしょうか。

 

○「トレーニングした声」にする

 

 プロと一般の人との運動能力の差で例えます。試合に出なくてもバッターなら素振り、ピッチャーなら投球、サッカーならシュートをみます。そこでうまくてもプロになれない人もたくさんいますが、プロでない人はわかります。体をみれば、体の動きや筋力の著しい違いがあるからです。なのに、声については、こういう必要条件を誰も定めていないように思えてなりません。

 そういう必要条件をヴォイトレでみるのなら、声のトレーニングですから、声そのものの力とすればよいことです。

 しかし、声の力がなくとも、プロの歌手や俳優、タレントとなれる人もいるので、スポーツのように絶対必要条件とはなりません。

 トレーニングではそれをみなくては、あまりにいい加減です。それならば、声楽家や邦楽家のプロと思われる声でみればよいというのが、私の考えです。マイクのない世界で、声の力でみるのです。オペラの歌唱、長唄などの応用力でみるのではなく、声を支える能力、呼吸―体(感覚―心)でみるということです。

 レッスンで「歌をうまくする」のと、「プロにする」のと「声をよくする」のは違います。ヴォイトレというのなら、レッスンは「トレーニングもしていない声(これからの声)」を「トレーニングした声(とわかる声)」にするのがシンプルなことではないでしょうか。

 

○本当の練習とは

 

 「本当の練習」というのを、これまでの「状態の調整から条件づくり」にしたことに加えて、レッスンとトレーニングに振り分けるようにしました。それが、今回の新しい点です。何のための、何を手に入れるための練習かということです。

a.本番、試合、リラックス、応用、状態づくり、全体統一、無意識、調整

b.練習、基本としての条件づくり、部分強化、意識的、バランス崩壊、鍛練

 すると、今のトレーナーの一般的なレッスンというのは、トレーニングにならず、応用の調整のようになっていることがわかります。ですから、表面に出る変化を目指すので、1回受けてもよくなるでしょう。遅くとも3週間から3カ月くらいで効果が出ます。

 潜在的な抑えていた力が解放され、リラックスすることで、フル能力が出るからです。その後、12年くらいは伸びるでしょう。もともと力のあったところまで回復するからです。

 私はそれをヴォイス(ヴォーカル)アドバイスとして区別してきました。あまりにそればかりになってしまいました。それらは、ヴォイスマッサージとかリバイバルヴォイトレ(何年か前の声が出ないから回復という人にピッタリ)というのがよいと思います。

 心身がリラックスして声が出たら、それで誰よりも響いて通る大きい声で365日、12回×2時間以上も歌えるようになると思いますか。

 

○「鍛えること」へのタブー

 

 声に対してどこまで求めるのかは、ヴォイトレを求める人に共通する問題でしょう。でも、声はツールでありメディアです。それを媒介にして何を伝えるのかばかりに目がいきます。声そのものの必要性は、目的やその人自身にもよります。しかし、ヴォイストレーナーには、声の力はいるでしょう)。

 私が最近、取り上げている問題は、筋トレの不要論とか、ハードトレーニング害悪論についての見解です。

 若いトレーナーが、合理的、効率的な方向へ行くのは、いつの世も同じことです。絶対的にキャリアは不足しているのですが、一般化してきたヴォイトレ市場で求められるニーズに応じてのことです。

 私の世代あたりから、そういう意見が多くなっています。もともと声が出なくて芸でカバーしてきた人、ハードなトレーニングで声を壊したり、声に苦労した人、非効率かつ間違ったトレーニングをやったと思い、後で効率的な正しいトレーニングをやってよくなったと思った人などがいます。そういう人は多くないのですが、トレーナーになったり声について発言することが多いので、あたかもそれが主流のように思われるようになります。ユーモアの研究者にユーモアのない人、話のトレーナーにうまく話せない人がなるのと似ています。「使い方が間違っている、それを直せばよい」という効率論になります。こういったケースについては、本人の体験が元になっているだけに真実味があります。が、むしろ特別な状況である、というのを知っておいて欲しいのです。

 

○ヴォイトレよりよい方法

 

 30代くらいまでの若いトレーナー、自らの声もまだ完成していない人の方法は、目的や求めるレベルを明らかに異としていることが多いものです(これも、たくさん取り上げてきたので、ここでは省きます)。そのくらいのことなら、カウンセリングやコーチング、あるいはヨーガ、フィットネスジム、もしかしたら吹き矢やジョギングなどの単純な運動と、それに伴う柔軟をやるだけで、解決するということです。

 本人が声の問題と言ってくる以上、声からのアプローチでよくする(普通の状態にする)のはよいことです。それでもヴォイトレするよりも、もっと早くよくなる方法もあります。

 私は、加齢で声の出にくい人を、運動と柔軟でほとんど声そのものにタッチせず元の状態にしました。体力が若いころの半分以下になった人なら、ヴォイトレするより、体力をあるところまで取り戻す方が声も早くよくなるのです。

 声がかすれたことで来た人にも、「発声よりも先にやるべきことがたくさんあります。それも含めてヴォイトレ」と言っています。レッスンより先に体の専門家を紹介することがあります。その必要が大きくなってきたので、研究所のなかでも備えています。

 

○声を目的としない

 

 「ヴォイストレーナーについたのに、大きな声が出ない」「お腹から声が出ない」「腹式呼吸が身につかない」と、そういうことで、人づてに紹介されてくる人も増えてきました。そのトレーナー自身が腹から声が出ていない、のど声である、呼吸も浅いのに、なぜ、レッスンを受けて変わるのでしょうか(もちろん、変わるケースもあります。トレーナーを庇うわけではありませんが、トレーナー=レッスンの目的を遂げた人としてみるのは危険でもあります。トレーナーがそうでなくても相手がそうなればよいのですから)。

 問題は、こういうトレーナーは、短期で少しの目に見える効果をあげてきた、つまり、レッスンする前と後で、心身の状態をよくして、12割伸ばすことを指導しているトレーナーです。最大で3カ月~1年、それで生徒もやめるか、曲を覚えたり、リハーサルがわりに、ヴォイトレとは違う目的で続けていくのです。あるいはそれがレッスンの目的で、本当のヴォイトレではないケースも多いのです。そういうレッスン形態なのです。

音程、ピッチトレーナーやリズムトレーナー、アレンジャー、プロデューサー、作曲家出身の人は、呼吸、発声、共鳴の本質的なことは伝えないことが多いのです(ここで言うヴォイトレの定義は、私が述べているだけで、公にはありませんから、批判にもなりません。誰がヴォイトレと使ってもよいのです。声を目的としていないのに声が変わるわけはありません)。

 

○声のサバイバル

 

トレーニングは一人でこつこつ地道に静かにやるもの、レッスンは気づきにくるものだと思っています。どちらも、どんな形でもよいと思います。

  教えられるのと気づくのは違います。わかるのとできるのも違います。

 レッスンはトレーニングのチェックと次のトレーニングのメニュのガイダンスです。レッスンが、今だけ効果を上げるもの(むしろ、上げられることが見せられるもの)となり、それがヴォイストレーニングと、けっこう最初からいわれてきたのです。長期的展望や理想を欠くものとなったままです。

 これは私には、テレビ化したとも思えるし(テレビ局とは、そこでどうしても折り合わなかったのですが)プロデューサーは、30年ほどそうであったのですが、他の人たちも、ほぼそういうふうになっていったということです。

 歌手の力も役者の力も衰え、客もそれを受け入れた結果、歌も芝居もジャンルとして弱体化していきました。生き残るのに望みのない分野になりつつあります。片や、お笑い芸人が、声の力をものにして、多くの分野に進出しているのは、ここで述べるまでもありません。声の力をつけるのがヴォイトレと私は思っていますし、それは、今後も変わらないでしょう。

No.356

<レッスンメモ 「団塊世代と芸人」>

 

ビートたけしは、団塊の世代を、お互いに仲良くつるむし、話も合うのに、闘わない雑魚と自称していました。        

彼らが若いときには、反するものとして、体制、国家、権力、権威、管理、伝統、教養がありました。しかし、しそれに応じていったのです。

今は、どんな行為でも価値があるわけではないと指摘できなくなりつつあるようです。

自由平等といいつつ、滅びていくのも許容するのでしょうか。

横の文化となると、圧倒的な差がない人に対して、まわりの人の口から文句が出てしまうのです。

芸人だから仕方ないとは、もう思われません。

人間らしさには、よいところも悪いところもあるのにです。

品のよさとは、文句を言わずに腹に収めるということでしょう。自分への気遣いです。

「武士は食わねど」そうして貯めたポテンシャルエネルギーのあるところに、表現は成立するものです。 [623]

No.356

<レクチャーメモ 「日本にない民主主義」>

 

ドイツも反ナチがあり、東ドイツとイタリアは戦勝国、日本だけが敗戦した。

日本は対米従属、面従腹背、潜在的核武装能力保持。

元より、徹底して忠義を尽くすと、のれん分けしてもらえる制度は、日本特有といわれてきた。

信賞必罰 エリートの出世と私利私欲、権力者におもねるようになって久しい。

民間も株式会社を基準とし、政治、報道、教育も同化しつつある。経営と従業員とマーケットのよう。

格付けとパイの取り合い、向上したではなく落ち目で貧乏くさくなりつつある。

フェアネス、ひがみ、嫉妬、嫉み、足を引っ張る。

えこひいきと縁故主義の切磋。

裁判 警察 徴税を掌握することが権力だが、立法と執行が同じなら、独裁といってもよい。

戦争での武器使用での破壊は、最大の消耗品。

カウンターカルチャーの存在の必要。

アメリカの軍産複合体、ウォール街、ネオコン。  

デリダの音声中心主義批判でのエクリチュール(文字)(フッサール現象学批判)。          [638

「本物の声、自分の声」

3つに分けてみる

 

 表現のためのトレーニングについては、私は3つに分けています。次のように分けて考えるとよいと思います。

1.心(ハート、魂)

2.体=息=声=共鳴=ことば

3.ステージ=表現の成立

これらの心身とステージまでをヴォイトレで扱います。

 

○声は1

 

プロなのか、一流なのか、表現者なのか、アーティストなのか、ともかくも、この世界に入ってくる多くの人が目指すレベルのことを成し遂げている表現者、ここの場合は音声でのということですが、そこにおいても「声の占める割合は1割」と、ずっと言ってきました。

 「人は見た目が9割」とか「伝え方が9割」などというタイトルで本が売れていますが、私から言うと、ここの「人」というのは、「仕事のできる人」ということでしょうが、「見た目」も「伝え方」も占める割合は1割でしょう。ただの人としてなら1割も必要ないかもしれません。それが9割であるというのは、他に何の取り柄もない人と比べてです。それは、クラスで班長を選ぶようなもので、接客、介護などでは好感は持たれるでしょうが、トップレベルの仕事では成り立ちません。

 プロや表現者にとっての1割というのは、とてつもない重みを持ちます。たとえば職人技の工芸品や画家の絵のなかで、1割おかしければ、名声はすべて崩れてしまうでしょう。3割バッターなら強打者、2割バッターなら普通の打者です。

 たかが1割のようでも、そこがあって、全てがのってくるのです。その重みを知るべし、です。とても一所懸命やっている声のトレーニングでも表現を支える1割ということです。ベースとなるものとしてあります。声は1割とわかった上で、他に9割もやることがあるのです。でも、1割確実に声で得られるなら、それほど心強いことはないはずです。

 

○声から+αのプロセス

 

 ヴォイトレというのですから、それは声を学ぶトレーニングです。

 私は当初、声だけ取り出して、「ハイ」など、声の1フレーズで価値づけていくレッスンを主眼にしていました。本が出て一般の人が来るようになって、方針を増やさざるをえなくなってきました。

プロと行なっていたときには、プロは歌えるし、場があるので、まさに声の力だけを求めてきていたのです。それゆえ、レッスンはとてもシンプルでした。

 当初は力のある人が来ていたのに、プロダクションが絡むにつれ、中心がデビュー前の人とか、歌手に転向したモデルとか、有名人の二世さんなどになりました。すると、カラオケの先生のような、デビュー前の仕上げという仕事になってきました。声そのものにアプローチできなくなってきていたのです。そこで、一般からプロを目指す人とじっくりと行える研究所をつくったのです。

 当初は、素人といってもやる気があり、目標があり、実績もある人ばかり来ていたので、声とその応用であるフレーズが課題でした。「ハイ」という声とカンツォーネなどの大曲のサビの「4~8フレーズ」の応用、その2つの精度を高めていくことが中心です。プロになるためにもっとも大切なものだけの、シンプルで本質的なレッスンと今でも思います。

 グループで他の人の声やフレーズを比べつつ、一流の歌手の歌唱フレーズから吸収しては、即興で作品化していくことをフレーズ単位で行いました。うまい歌でなく、自らのオリジナルのフレーズをデッサンする実習を加えていったのです。

 方針が増えたのは、音程やリズムなど、音楽や歌そのものに慣れていない人が増えてきたからです。それを補強するためのメニュなど、トータル化していくプロセスをとったからです。来る人によって場は変わるのです。

 

○表現の定量化

 

 プロとして問われる音声の表現力を100とおいて、100%とします。すると、声は10、歌は10、このあたりが当初、私の考えていた歌い手の条件でした。声の基礎や歌の基礎をやりつつ(あるいは、習わなくとも自らできていて)、声がよい、歌が上手いというレベルで、声10+歌10=計20です。これで、のど自慢なら入賞できるでしょう。しかし、それなりのプロの表現者とは5倍ほどの開きがあります。

 そこでヴォイトレで、声をオリジナルの声として100%開花させていく方向で、自分の声、本物の声を問うていくのです。

 そうなりたいと来る人に支えられてきた研究所ですが、声の定義はありません。声はオリジナルです。でも、このオリジナルを本当に目指せる人は、残念ながら、それほど多くありません。

 自分でない声、偽物の声、がもし使われているとしても、それは、本音に対する建前と同じく、世の中では必要とされるからです。仕事上、丁寧な声を使い、普段は粗っぽい声でしゃべるとしたら、声として求められている価値は、仕事で使っている声にあります。

 本人が、それを「自分の本当の声はでない」と思っても、仕事は相手の求めるものに応えることです。歌や舞台のせりふも自分の思う自分の声よりも、他者の求める役割の声が必要とされるのです。

特に日本は、一般の仕事でも舞台でも、この差が大きいのです。これは、ヴォイトレでの声づくりを妨げる二重構造として、私が指摘してきた通りです。

 

○二重構造の声

 

 本来は、人とうまくやっていくための声と、ステージで求められる声は違います。日本のように、丁寧なビジネス声が求められる社会では、接客マナーでのよい声は、マニュアル化されています。誰にも同じように、浅く軽く表層的な静かな声、あるいは、一方的に強く元気にあふれる声が求められています。前者はファストフード、後者は居酒屋で典型的にみられます。一見、正反対のようであって、実のところ、その人の元来の声、オリジナルの声を省みていない点では同じです。

 つまり、10点止まりの声なのです。個性のある声は、リーダーや異なる人々の集う社会では、絶対の条件です。ですが日本人には、かえって不快なのです。

 ここでのオリジナルというのは、誰もやっていない、初めての、というのではありません。その人の元来、本来の、ということです。それをしっかりさせると10の声が20に近づいていきます。それが私のヴォイトレの目的です。

 基礎としての声に応用を兼ね備えた声、その人の潜在能力を、心身を持ってマックスに、発声技術を持ってマックスにすることで、芸となるべく声とするのです。一声でも違いのわかるレベルにしようということだったのです。

 それに対し、現在の声の状況といえば、オリジナルの声にオリジナルの表現でないと認められないレベルの高さにないゆえに、うまい人に似た、器用でよい声の使える人が代用されてしまう悪循環に陥っているのです。

 一般ビジネス社会ではともかく、業界でさえ、一般的な声、見本(以前のスターや売れた人)と似ている声を求めるという日本の未熟さがあります。ヴォイトレをカラオケレッスンに堕落させたともいえます。どこの世界にアーティストに二番煎じを求める国があるのでしょうか。本人の基礎の上にのった応用としてのオリジナルのフレーズでしか通じないという大前提から外れたのが日本です。

 

○正道のプロセス

 

 レッスンにおいて声だけでなく歌においてもオリジナルのフレーズを求めざるをえなくなったのは、私のヴォイス本が「ロックヴォーカル基礎講座」というタイトルで最初に出たせいかもしれません。ロックのヴォーカリストになるノウハウの本と思った人が少なくなかったのです。

 本でロックヴォーカリストになるという、ありえないような誤解は内容をしっかり読めばおきないように書いてあります。この本は、ほとんどヴォーカルのことに触れずに、声のことと声の鍛え方、管理のしかたを述べた初めての専門書だったからです。

 ちなみに、この本で、芸人や邦楽、外交官や政治家といった勘の鋭い方もいらっしゃることになりました。こちらとしては大いに勉強にもなり、自信にもなりました。素人がプロのロックヴォーカリストとなり、活躍するより、異分野の一流の芸やビジネスであっても国際舞台で通用するという成果につなげられたからです。ここでは、本当に声の力は1割です。その評価なども大いに検証すべきです。

 私としては、元より、日本人にとっては、直にロックなど欧米レベルのものを歌っていくよりは、体というか、声のレベルが違うのですから、役者レベル(当初は結構高かった)の声に達してから歌えばよいという、正道のプロセスを示しました。

 お笑い芸人や漫才師、噺家などもいらしていました。声の力、やる気、センスなどからみて、業界の中心が歌からお笑いの世界に変わることは、90年代には明らかでした。歌が声の力から離れていったのです。ロックをやろうとした人でも、テクノやダンサブルな方へアーティストが動いていったように私は思っています。

 

○声20+20

 

 当初、研究所の拠点は、音楽事務所や音楽大学の関連施設でなく、六本木の俳優座の事務所におきました。声楽家より役者の方が、声が早く鍛えられていたのを体験していたからです。その前は、声優の学校もつくった音響の専門学校におきました。音楽療法の桜林仁教授を顧問にしていました。医学と芸術の間に、私はヴォイトレを意識していたからです。

 歌での10、(=うまい歌10)に加えるオリジナルのフレーズでの10、これは、音楽性を伴うので、声だけでの判断では無理で、中音域から上の声で、役者には鬼門です。それでも声楽のテノールやソプラノほどの高さを当時は想定してなかったのです。ハイレベルの合唱やミュージカル以外であれば、1オクターブの確かな声で応用すれば充分に対応できました。歌は応用という考えは今も変わりません。

 一流歌手、プロ歌手が、昭和前期までのようにラジオ、レコードだけ(つまり、音声の表現力)で勝負するとしたら、声20+歌2040、これを一つの基礎とみることができると思います。あとの60は、その他の全ての要素です。

 100でプロ、それを超えて200とか、500とか1000以上で天才歌手といったくらいにみています。表現者として目指すべき基礎のトレーニング面では、まずは100というところです。

 

100の内訳

 

 目標100のうち、声20、歌20に加える60は、研究所に来る人でみると、声5、歌3くらいで、10くらいがダンス、作詞、作曲、アレンジで10ずつ、演奏能力もありますし、ステージやビジュアルと応用の作品での演出レベルではプロもいます。作詞作曲の力が303060くらいの人もいます。私が最新の著書で「読むだけで声や歌がよくなる本」と安易なタイトルをつけたのは、トータルを想定してのことです。そこでは、長期的には、もっとも確実な声を1020、その上に歌を1020と伸ばしていく必要性を知ってほしかったからです。

 トレーニングさえすれば何とかなるのでなく、トレーニングはするもしないも、そういう世界を選んだら、持続させるものです。やめたときは、あきらめたときです。

 要は、10になっているのか、20へ向かっているのかという最も大切なことを知ること、その渦中にいると見失いがちな60を知っていくこと。

 研究所内外で得たたくさんの要素を本やレッスンには詰め込みました。自分自身で知り、試み、つかみ、挫折したり捨てたりもして、限界と可能性をみていくのなのです。

 

○トータルとしての声

 

 声の世界について、みると、そこも広く深い世界です。あらゆるものが繋がっています。日常にも仕事にも声は使われていますから、芸として声を切り離すこともできません。これまで使ってきたプロセスも全て刻まれているのです。

 そういう面ではトータル、あなたの心や体と同じ、生きてきた結果としての声です。声も総合力なのです。それが即効的な効果として機能の向上としてのヴォイトレとして求められてしまったのが、大きな方向違いだったと思っています。

 すでにあなたの声だから、自分の声、本物の声といって、今の声を捨て、新たに声をつくるのではありません。別の声を真似したり、それらしくつくってみても、ものにはなりません。

 歌唱やステージに対して安易に声を扱うと、接客サービス業の声のようにマイナスでない、反感を買わないような声、つまり、説得力のない、浅く若い声になりがちです。これは、本物の芸に逆行します。

 昔は、幼稚な声、甘えた声では通用しなかったのが、一般社会だけでなく、仕事や芸の世界でも許されてきたかのようにみえます。誰も注意せずスルーしています。だからといってよいわけではないということを知ることです。☆

 成り立ってなければダメだったのに、音声で厳しく求める人が少なくなり、問わなくなったとさえいえます。音声で成り立っていると、すごいということになるのです。今のところ、日本=日本人の声の劣化=耳の劣化(変容でもありますが)は留まるようには思えません。

 

○自分の声、本物の声

 

 私もある程度、相手やシチュエーションによって声を使い分けています。声のことで私に会う人には、それほどブレず、同じスタンスで、同じ声で対します。歌手や役者ではありませんから、よい歌声やよいせりふをみせるのではありません。トレーニングした声、自分の声というよりは、相手がトレーニングをしたら得られる価値を提示できるような声を示します。

 レッスンでは「よい声の10」ですが、カウンセリングや会話では「オリジナルな声の10」で対します。使うのに疲れず、楽であって深く通る声です。それで8時間以上、使って疲れたりしない声を知らずと選んでいます。いつでもそうであるように備えてもいます。

 声を自分の声として求めるのなら、他人の求める声を出そうということも、ふしぜんで無理のくることです。「見本をみせてほしい」「真似させてほしい」「直してほしい」―。他人のものがほしいと言っているのです。そこで学ぶものは、声でなく体や感覚の共通するところでしょう。

 自分のなかにある声を取り出すこと、出せなくなったら、心身について強化鍛練して取り出せる自分にしていく、それが本筋です。☆

 

○ヴォイトレの効果

 

 発声の原理、理論や発声のメニュ、アドバイスなどを、私たちはたくさん公開しています。数多くのヴォイトレのノウハウや教えがあります。しかし、これを使う前に、そういうものを使わずに歌手となって活躍している人の方がずっと多い、いや、むしろそういうものを利用してきた人はいない、ということを知るべきでしょう(あるいは、トレーナーの接したプロでなく、トレーナーの育てたプロを探してみればよいでしょう。人気や知名度でなく、声の実力としえみることです)。

 すぐれたプロセスがなく、現実にそうなっていないから、それを補うものとしてヴォイトレがあり、トレーナーもいるのです。それをサプリのように使うのか、根本的に、とか全面的に使うのかは、千差万別です。

 身体の鍛練や精神力の強化をなおざりにして、いくらノウハウやハウツーものを読んだり試したり、トレーナーのところへ行っても、真の効果が出ないです。こういうことは、ご自身のヴォイトレの効果だけで反論される人もいるのですが、よほど突出したものでなければ、検証などできません。「今よりよくなればよい」というのは確かですが、大半は、こまごました誤差の範囲内に入ってしまいかねないくらいの成果であったりするのです。

「レッスンをしたら皆がよくなった」「誰かに認められた」という曖昧なものよりは「たった一人でも世界のトップになった」という事例が欲しいものです。

 私は、よく、ここでのヴォイトレとジムやマッサージと、どちらが声が出るようになっているかなどを調べてみることがあります。「体のことや心のことをやれば声が出るようになる」というのは当然の結果で、そこからどうしていくのかが大切なのです。

 

○雑念を切る

 

 トレーナーにつくのは、メニュや方法に振り回されなくなるためと思ってはいかがでしょう。一人でやるとプロセスに確信が持てず、疑問を持つことでしょう。そこで他の人に聞くのはよいことです。まして専門家であるトレーナーの意見、アドバイスは貴重です。しかし、そこにさほど客観性はありません。そこをあまり期待すべきではありません。その理由はこれまで何度か述べてきました。

 自分の頭で、「こうやれば、こうしなくては」、というのは、すでに対応を誤っているのです。なぜなら、本当にすべきことは自ら対応できる範囲を超えていることだからです。

 それならば、トレーナーや本も含め、早くあらゆることを知った上で、全てを忘れて捨てるというのがよいのです。考えすぎて悩むタイプの人へのアドバイスです。雑念を切るのに雑念をたくさん入れ、徹底していくのです。それに本もトレーナーも使えばよいのです。無意味を悟り、忘れるプロセスとして使うのは、高度な使い方の一つです。

 

○ベースをやるということ

 

 ベースとなるトレーニングは、できることでよいから丁寧にしっかりとやりましょう。

 調子のよいときは少し無理してもよいです。悪いときはベースとなるトレーニングがしっかりとできるように戻すことです。本やトレーナーを使って、「できないことを無理してやる」のはよくありません。むしろ、反対です。「できることを丁寧にくり返しする」のです。

 できていないことはできないのだから、そこをやるのではなく、一つ下のベースを掘り下げていくのです。

 教えることも同じです。教えてできることなら教えなくてもできるのだから、教えても仕方ないのです。本人が気づくまで待ちます。それを問うた状態で、どこまで、いつまで保てるかがトレーナーの力量です。

 できたのにできたと気づいていないなら、できたと伝えることが必要なときもあります。

 「わかる」「教える」ということばはあまり使いたくありません。「わかる」と「できる」、「教える」と「伝わる」は違うからです。

 

○判断レベルを上げる

 

 発声とか歌とかが正しいかなどを問うのはありません。いかに声の状態を把握できているかを問うていくのです。正しくというよりは、その把握の精度を少しずつ深めていくのです。

 私はあなたの声の「ハイ」だけで100のマップ(声の図)を描けるでしょう。歌の声なら「わたしは」という1フレーズの歌詞だけで、声の状態から、歌としてのよしあしを「わ」について「た」についてと、点数もつけられます。プロの歌手が聞いて納得するだけの説明ができるでしょう。聞く耳のある人であればですが…。

 私自身の見解を示すとともに、必要であれば、他の一流の人の耳ではどう聞こえるのか、その相違をことばにすることもあります。

場合によっては、本人がどういうつもりでどのようにやろうと試みて、その結果、どこまでうまくいき、どこでだめだったかを、本人に説明するでしょう。高度な仕事上の能力ですが、私はレッスンを通じて、そういう耳の力をつけさせるようにしています。

 

○ど真ん中の声

 

 自分の声を聞く。「そのなかに本物の声がある」とはいいません。この声は、思いとか言いたいことではなく、そのまま声という意味です。本物の声というとわかりにくい、誤解を招きやすいので、「あなたのど真ん中の声」と言います。

 ピッチャーの投げる球のど真ん中は、ストライクゾーンの真ん中ということになりますが、私がいうのは、そのバッター個人のど真ん中、つまり、彼がもっともホームランにできるコースを示していると思ってください。

 ですから、私は最初のレッスンでは、音の高さも声域、歌詞も、曲も全てを無視することもあります。

 一声だけ、最もよく出せるところで、声というもの、発声と言うものを徹底して把握するようにしてきました。声を伸ばすだけで、そこに何ら感じられない人がどうして「本物の声」にたどり着けましょう。

 声はトータルの1割と述べましたが、数秒の声一つで、ある瞬間には全てになります。1フレーズあれば、一流の歌手は感動させたり、魅力たっぷりに聞かせたりできるのです。

 

○明らかになる

 

 「できない」とか「うまくいかない」と思うのは仕方ないとしても、発声や歌で悩んだり苦しむのは逆効果です。レッスンやトレーニングは楽しみましょう。

 できないことをやるからめげるのです。できなくても、うまくいかなくても、先に行けないのではありません。ずっとできないし、うまくいかないかもしれません。それがわかったら、いくつも道があるのです。多くの場合、そこが曖昧なままだから深まらないし、抜けられないのです。

 同じことをくり返す。そして深める。できることをくり返す。確かにできるようにしていくのが本筋です。

 日本人はどうも学ぶプロセスに123101112、…20と考えがちですが、実のところ123とうまくいかないから、126162などが起きます。声や歌に1020も必要、基礎の力がある方がいいとはいっても、必ずしもその1020が必要なのではないのです。両方が人より足らなくても100に近づけることも可能なのです。

 声そのものの可能性に見切りをつけるヴォイトレもあってもよいでしょう。それだけがレッスンでも、まして表現でもないし、人生でもないのです。

 だからこそ表面上、ある音に声が届いたとか届かないとかに振り回されて一喜一憂するようなヴォイトレは卒業しましょう。自分の個性、可能性、限界の全てを明らかにしつつ、より深く丁寧に声の世界をつかんでいくようなスタンスで構えてほしいのです。

 

○使えない教材

 

 声にはメンタルとフィジカルの要素が大きく関わります。だから、やる気だけで大声を出すしか取り柄のないようなヴォーカリストも活躍できているのです(ここでは日本人だけでなく海外のヴォーカリストのことも言ったつもりです。今の日本人のヴォーカリストは、センシティブすぎるくらいです)。

 だからこそ、シンプルなメニュなのです。私は、初心者しか買わないような本の発声練習やメニュ、ヴォーカルの教材、教本などがハイレベルなので驚きます。

 私の基準でみるなら、「それがこなせるくらいなら、その教材を使う必要はない」と思うのです。「喉の状態の悪い人に喉を絞めてしまうメニュ」であったり、「高い声が出ない声に人にハイトーンのメニュ」中心であったりです。独学で使うと、より雑にいい加減になって、悪化はしても、よくはならないでしょう。

 できないことをやらせているうち、できるようになるかのような考えでつくられたようなものが多いのです。そういうメニュで無理して高く出していたら、その高さに届くようになったり、そのパターンをくり返していたら音やリズムが外れなくなった、という表向きのわかりやすい効果を狙っているのです。その先はありません。つまり、効果をエサにして、本来の限界以前に、くせをつけて少し伸ばしたところで可能性を止めてしまうものとなっているのです。

 メニュが悪いというよりは、使い方が悪いというので、トレーナーのせいとはいえません。大体は、それなりに声に恵まれ、すぐれているトレーナーが自分の使ったメニュです。そのトレーナーも音がとれているだけで、声としては、こなせていない喉声の人も少なくないのです。

 私がよく述べている、ヴォイトレの名のもとで、声そのものは扱っていないという例です。つくる側の立場としては、そうなるのもやむをえない事情もあるし、それもわかるのです。何と言っても、つくる方は大変です。それでうまくいくところまでで充分という人もたくさんいるからです。

 

○囚われない

 

 シンプルなフレーズの繰り返しで、頭のなかを消しましょう。研究所のトレーナーは「頭をからっぽに」とよく注意します。頭でなく身体から動かないと声は出てこないのです。

 それを知るトレーナーは、発声のためには、体力づくりや身体の柔軟管理を第一の条件と考えます。

 発声をすると喉が疲れるという人に、「声帯の仕組みと使い方を学んで、それにそって出してください」などと言うのは、一つ間違うととんだヤブ医者になりかねません。

 この場合、原則として、ということは、大半の人には、ということです。喉のことは忘れて、イメージ、耳、体感で自分の状態と声のチェックを優先しましょう。最初はトレーナーの耳を使って、そのうち、それを参考に自分自身で判断できるようにしていくのです。声そのものに集中しなくてはいけないのです。眼を開けつつ、映るものに囚われてはなりません。

 姿勢のチェックはレッスンとして大切ですが、それだけに囚われるのもよくありません。声の出やすいように、どんな姿勢をとってもよいというアプローチもあります。姿勢から声を方向づけるもの一つのやり方ですが、その前に声の出方から姿勢を考えたり変えたりしてみるのもよいことでしょう。

 そういうことに気づき、レッスン外でどう試みるかが学んでいくということです。トレーナーが「よくなった」と言ったとしても、「今の自分にはこの方がよい」と、それが正しいかどうかは別にして、今のあなたの気づきとして得ていくことが大切なのです。

 

○くり返す

 

 シンプルな繰り返しをすると、シンプルにできることのなかにいろんな試みが出てきます。そこで、自分の状態やできたことを把握していくのです。回数をたくさんくり返すとか、たくさんのメニュをやるというのではありません。

 発声のスケール練習やコンコーネ50で、パターンを覚えてきます。一つのことだけを何回もやっていては、変じられずに飽きて鈍くなり、頭も体も固めてしまい、気づかなくなってしまうからです。数を増やしたり、バリエーションを知るために、次々にやればよいだけではではありません。

 時間で稼げるときには、量の徹底も大きな力となります。これは、あとで効いてきます。身体の応用力や聴く力は、飽きるほどくり返す行為の中で高まります。

 コンコーネ50(ポピュラーなら15番のメニュくらいまででもよい)を発声として使うのは、「コンコーネの1番」だけで、すごい(ポピュラーならおもしろいでもいい)と思わせるためです。日本中の音大生は50曲以外に他の教材まで暗唱できるのに、一曲だけですごいと思わせる人は、ほとんどいないでしょう。長期目標のなかでの基礎なので、そういう位置づけですが、そこで出来、不出来でしかみていません。スタンスや方向がよくないというのは、こういうことです。

 

○基本と極端、はみ出し                                      

 

 他人が与えたメニュで難しいことをやるよりは、自分の選んだ一つのシンプルなメニュを使うことが大切です。それを極端に長くしたり大きくしたり高くしたり低くしたり変じさせてみましょう。その方が気づきやすく学ぶところも大きいでしょう。気づけるようにメニュをセットできるようになりましょう。そうでないと、メニュを使う意味がないのです。

 プロ歌手は、ヴォイトレのメニュを使わなくても、そういうことを一つの声や一つのフレージングでやっています。それ以上の効果を出さないなら、メニュなど不要です。

 私の述べた声の1010、歌の1010の練習を、彼らはスケールということでしていなくても、歌のフレーズでやってきたのです(ただ、デビューしてからこそが勝負なのに、そこからあまりやらない人が多いので伸びないのです)。その間にバランス感覚(まさにプロのプロたるゆえんは、この感覚ですが…)を極端な試みを楽しむうちに捉えてきているのです。

 これは、応用しても、はめを外さずまとめるために、なくてはならない能力です。MCやタレント能力もこれに含まれます(ただ、プロになってから余りはみ出さないようにする人が多くなっておもしろくなくなるのです)。

 私はトレーナーの立場を超えて、この極端をレッスンに取り入れていました。一般の人が多くなって、かなりのものは制限しましたが、昔のものからも学んでください。

 

○タフさ

 

 極端にする必要性は、パラダイムでの揺さぶりのためです。どうしても人は一つの見方に偏りがちです。「細かく丁寧に」と、「思い切り大胆に」は両立しにくい。表現は、そのギャップに生じるのです。どちらも自由に行き来できなくてはなりません。

 それを学ぶのが、人につく意味だったのです。「俺に惚れて弟子になったなら、俺の心地よいように振る舞え」と言ったのは、談志師匠でした。

 人前に何かを表現しにいくのは、弾の中を生身で歩くようなものです。

 「メンタルに弱い」と初対面で言えてしまう、今の日本の状況では、声と共にタフなメンタル基礎力育成が必要です。

 舞台のレベル、特に音声力、身体力、精神力は日本では、著しく落ちてきています。高度成長期の日本のセールスマンくらいのタフさがあれば、今、この世界では引く手あまたと思っています。それくらいに人材が少ないのです。

 

○習わしと慣れ

 

 嫌な人はどこにでもいます。表現すると、知名度が高まると、そういう人が刃をかざしてきます。嫉妬、妬み、引き摺り降ろす、世間体のように見えない圧力も大きさを増します。

日本では今も昔も大して変わりませんが、露骨でなくなって、陰険になりました。自分の意見として突っかかってきた昔の方が、お互いにその後の成長もあったと思うのです。

 精神力という心の問題は、慣れることでかなり解決します。

 ここでも、レッスンに「来たくないときでも決めたことだから実行しましょう」とアドバイスします。他人であるトレーナーと会い、その前で声を出す。慣れからです。その習わしで慣れて習慣となります。毎日のトレーニングで意識が改革されます。外の環境が変わり、内なる環境が変わると、本人に力が宿るものです。そして、トレーナーや周りの人に少しずつ認められていきます。

 それを買物のように、「もっとよいトレーナーいませんか」「もっとよい方法ありませんか」「もっと安く便利に早く」と言ってどうなるでしょう。研究所はいろんなクレームを受けて、日々改革されていきます。感謝です。でも、その人は変わらないでしょう。

 

○相性

 

 あなたが好きなトレーナーは、あなたが好きだからうまくいくようにみえます。それは人間関係であって、レッスンの成果は同じではありません。あなたが合わないトレーナーとやって、そこで成果が得られたら、それはもっと大きいです(トレーナーを方法に置き換えてもよいでしょう)。

 声は日常のこれまでの経験の上に使ってきたものです。普段の生活の習慣、環境はなかなか変わりません。そこを変えることが飛躍のカギです。オペラ歌手にとって留学が勉強になるのはそのためです。弟子入りというのも、その手段です。

 よほどのエネルギーがないと自分では無理難題や不条理なことはやりません。無理とか難題と思っているからではなく、イメージにないからです。それは相対的なものですから、同じ以上のことを難なくやっている人もいます。その人からみると、ごく当たり前のことなのです。

 自分の生活で、必要がなければ、誰もわざわざ嫌いな人や合わない人に会いには行きません。仕事なら、必要があれば否応なしにそういう人と会います。そこで合わせていくうちに、嫌いでなくなったり、合うようになってきます。それは、あなたが変わった、大方の場合、慣れたのです。相手も異常者ではないのなら、これまであなたが自分のイメージに囚われていたのです。

 表現の仕事のほとんどは否応なしのもので、自由に選べることなどほとんどないのです。自由になるために不自由ななかで自由になれることが必要です。その判断が歳とともに固まってくる分、若い人に可能性があるのです。固めないことが大切です。声や歌もそのように考えてみるとよいでしょう。

 

○自信にする

 

 慣れるということで、当たり前にできてくると、「慣れればできる」という自信になります。レッスンの大きな目的は、一人でやるだけでなくトレーナーの前でやれるようになることです。やりながら慣れて、自信をつけていくことです。どこかに長くいると、あるところまでは自ずと上達します。それは慣れる力のなす業です。だから続けることが大切なのです。

 下手にトレーナーが教えようと急がない方がよいのも、慣れていないところでは、身につかないし、付け焼刃にしかならないからです。

 コツコツと積み重ねていくと、そのうち「できなくてもできる」と思えるようになります。自信過剰とは違います。周りはOK、でも自分ではNOという厳しい自己評価です。

 オリンピックは、自己更新タイムを狙います。自己更新とは、これまで出せていないタイムです。それに挑む、不可能に挑むから、できたときにすごいのです。

 できたことは過去のことです。それをくり返しているだけではクリエイティブでもアートでもないのです(しかし、私も過去の整理をしなくてはなりません。先ばかり進めてまとめていないのが気になりつつあります…)。

 プロや芸能人のなかには、私の本を知ってその日に、アポを取ろうとしてきた人もいます。考えるより行動してしまう、その力で自分や周りを変えていく。連絡したら会ってもらえなくてだめもと、自分には会うはずだという自信も、これまでの実績からでしょう。私はあまりタレントの名前は知らないので、それで動かされることはないのですが、そういう行動力は見習ってください(私もお偉い先生にたくさん会ってきた方ですが…)。

 

○身につける

 

 早口ことばは、声の応用例です。声の力がなくても、滑舌としてアナウンサーのようなレッスンをしていると器用にこなせるようになります。楽譜に正確に歌うことと同じく、レッスンとしてはやった分、確実に身につくので、トレーナーにはありがたいメニュです。

 ただ、ヴォイトレの中心の声をつくるメニュとは違います。でも、暗誦するほどにくり返すとよくなることは共通します。複雑なものがシンプルになってくるからです。少しずつ、声の動き、呼吸の動き、体や感覚の動きが感じられ、結びついてくるのです。深めていけるのなら、どんな入口、何をどうやってもよいです。

 正しくできたかどうかを問うのでなく、まず、そこでの声を問うのです。

 なのに、そうでないレッスンばかりが多いのです。表面的なもの、頭―口の連動からであっても、身体に入ってくると、そのうち頭も口もさほど使わなくてもできるようになります。それにつれ、声も少しずつよくなっていくのです。

 これとは反対に、無理に高いところや大声で合わないところばかりでやり続けている人が多いのです。その場合、発音や読譜力(初見)は上達しても、声そのものはあまり変わりません。そう教えている人も多いのです。それで、ヴォイトレを何年も続けてきたという人やトレーナーもいます。その判断力が問題です。

 

○レポートする

 

 ことばが身になってくる。これはレッスンでも同じで、トレーナーのアドバイスを頭で理解はしなくてもよいと思うのです。(そこで理論や科学的根拠を必要とする無意味さは述べてきました)。要は、身につけていくことです。それが思考とか精神といわれるものです。

 私がレポートを課しているのは、私自身、そうしていましたが、あらゆる一流の人はノートをつけているからです。レポートなら、自己完結せず、トレーナーという読み手がいます。お互いに協力してレッスンをよくしていこうという方法です。たゆまない改良のためです。

レッスンを2倍に増やせなくても、レポートで2倍の効果になります。

提出については本人次第で、強要はしていません。利用しないのはもったいないと思います。

 レポートは、自分の状態を把握し、改良するためにも最大のツールです、本当に効いてくるのは忘れた頃からです。忘れないために、未来の自分に書いておくのです。3年、5年後、あるいは、その世界に出てから役立つのです。レポートを書いたときには、わからなかったことばややっていることが、後でわかってくることにも意味があるのです。

 

○会報のレポート

 

 レポートも、慣れ、習慣づくりの一環です。それが難しい人のために、他の人のレポートをサンプルとして紹介しています。至れり尽くせりでしょう。自分の気づきと比べられます。他の人の質問や理解の仕方も学びの材料です。一つのレッスンを最大に活用できるように膨らませているのです。

 これは仕事をしていくノウハウでもあります。私は、いつも多くのトレーナーのレッスンへレポートを読んできました。膨大なデータ量となります。会報のバックナンバーはロビーに置いて、ホームページに一部、公開して追体験できるようにしています(私は、相手や日付、目的まで知っているので、もっとも学べます。それはトレーナーをまとめる立場として必要なことです。皆さんは特定されていない事例として、普遍化したもので学ぶほうがよいと思っています)。

 グループのレッスンや地方のレッスンで、とても役立っています。自ら主体的に学ぶための習慣づくりとして課しているのです。

 よく学べる人は気づきもよいのです。ことばや文章にも特色があります。個性や味が出てくる人も、最初からそういうスタイルを持つ人もいます。小説家や文章のプロの人もいらっしゃいます。

 自分の書いたものが実のあるレポートになっていくのも、レッスンと同じく一つの成果です。それも表現です。トレーナーの報告書よりもレポートがわかりやすいから皆さんに紹介しています。どんなものでも人それぞれというサンプルです。

 

○読み込む(ゆとり教育の批判)

 

 私は、ゆとり教育を否定してきました。理念はともかく、現実として実践しようとしていることが理念と違って悪い結果しかもたらさないことが明らかだったからです。それなら、昔の軍事訓練、寺子屋、農業実習などを経験させる方がよいと思いました。今さら言っても仕方ないのですが。

 日本では銃を持ったり、憲法を変えたら戦争になると信じている人が多く、今だにこういう発言はタブーですが、「はだしのゲン」の一件でもわかるように、よくないことが描かれたものは隠せと言い、そういう反対があれば、すぐ引っ込める。世間ともいえない一部の主張に及び腰で、何でも事なかれ主義で対してしまう。気にくわないことは悪のように言ってしまう住民、それを言われるままに鵜吞みにしてしまう役所の方が、よほど怖いでしょう。一個人としての思慮ないのです。

 たくさんの知識は、暗誦で身に入るのですが、インパクトを受けたものが、その人の精神、思考を形づくります。その組み合わせから、異なる個性も行動も生じるのです。

 レッスン室では声のプレーでも、ことばを与えていくことがとても大切です。インプットが充分でないとアウトプットのクリエイティビティは生じないのです。

 

○活字の力

 

 かつて、研究所の生徒は、リソグラフで両面刷った会報を、自分でホチキスで留めて持っていきました(今は印刷です)。6080枚くらいあり、1ページも3段でした。私も通して読むと丸一日かかりました。それを皆、食い入るように読んでいたものです。

 「なぜヴォイトレなのに」という問いには、当時はこう答えていました。「レッスンでは頭を真っ白にして欲しいから言いたいことは全て会報に書いておく」と(私のレッスンでは、最初は、曲の由来も語学、発音、楽譜など解説なし、音源と来た人の声だけでした。フォローするトレーナーが、グループレッスンにも個人レッスンにもいたこともあってのことでした。私自身は会報でもフォローしているつもりです)

 レッスンで話したことをできるだけ会報にリライト(「レッスン録アーカイブ」)していました。結構しゃべっていたようです。生徒のコメントも話でした。今ならYouTubeにでもアップするでしょう。読むには忍耐力がいるし、イマジネーションが必要です。私は活字に残しています。

 

○ことば力

 

 緊張して話せない人、ことばが出なくて話せない人、ことばにできない人の多い、「葦原の瑞穂の国は神ながら言葉解せぬ国」(柿本人麻呂、万葉集)の日本です。アグレッシブに論じたり、諭すことが、できなくなってきました。リーダーのような立場の人さえ、話させることの大切さを説くばかりになりました。日本国民総ヒーラーかカウンセラーですね。声に問題を抱える人に対し、ヴォイストレーナーにも、それが求められるのは当然なのでしょうね。

1、 たくさん聞いて、たくさん声にする(歌う)

2、 よく聞いて、よく声にする(歌う)

聞くのは歌い手なら歌がことばです。

この2つの主題なくして

1、 たくさん話す

2、 よく話す

が努力目標です。たとえビジネスや日常生活でも

1、 たくさん聞いて

2、 よく聞く

という前提は崩せないのです。

 

○鍛練

 

 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とする」

宮本武蔵のことばです。

時間、挨拶、身だしなみ、ことば遣い、整理、その上に練習(レッスン、トレーニング)があります。そこに加えるのならレポート、スピーチと、ことばで記録し記憶するとともに、人に伝える行動をとるのです。

 すぐに動画をアップできる時代、手段として大きな可能性を持っています。才能のある人が早く広く認められるという点においてもです(特にビジュアル、ダンスなど動画に映えるものに強いです。声も音で、プラス面が大きいでしょう)。

 私は研究所のヴォイトレをアップしていますが、他の人がアップしたものを参考としてはいません。いつもここのものは、作品でなくプロセスであるという思いと、そういう目で見てしまうがために見えなくなってしまうことの害の方が大きいと思うからです(本も似ています。活字の働きかけの方が、相手のレベルが高くイマジネーションが豊かな場合なら有効です。その人のレベルにアレンジされてクリエイティブな形で受容でなく導引するからです)。

 

○生産する

 

 レポートには、その人の個性が見えるのです。これも表現の一つです。

レポートには、お金を払ってもよいと思えるほど、学ぶ人たちに役立つものがあります(ここには、アーティストとしてのプロと、生徒、もしくはレポーターとしてのプロと、2つの意味があります)。

 作品の鑑賞レポートも、「お勧めのアーティスト・作品」として、掲載しています。ピンからキリまであります。以前は選りすぐっていました。今は、よいとか悪いとかに評価は入れていません。

 トレーナーやレッスンと同じく、接する人によければよいからです。そのよし悪しには、売り物としてのよしあしでない、自由があります。無責任とは言いませんが、極論やうまくいかない人や初心者、入門レベルの感想レポートも加えています。だからこそ、役立つという人もいるからです。

 以前、研究所のレポートをみて、「こんなすぐれたレポートばかりでは、自分には書けません」と言われました。以前の体験談では、読んだ人に「こんなすぐれたものを書ける人ばかりのところへ私などが入ってよいですか」と言われました。もちろん、何百枚もの中からすぐれたものだけを選んでいたからです。しかし、レッスンですぐれていけばよいのであり、最初からすぐれていたらレッスンは必要ありません。そう思って、プロセスもみえるように無作為をしたのです。

 

○基礎へのアプローチ

 

 一つのシンプルフレーズでみる声の変化の方向

1、 長くする、短くする[呼吸]

2、 高くする、低くする[周波数]

3、 大きく(強く)する、小さく(弱く)する[音圧]

4、 音色と共鳴[フォルマント]

母音(5つ+α)子音、共鳴のバランス(頭声―胸声)

スケールとして5音をとる()ドレドレド、ドレミレド

 

音が届いているとか、声が出ているとOKとして先に進め、いつまでも雑になったままなのを避けることでしょう。そこでは肝心の体や息が伴っていないケースが多いのです。

a、浅・軽 頭声 響きから降ろしてくる 引く

b、深・重 胸声 体の呼吸から声にしていく のせる

 

同じ分量の声の使い方

体、息、声の大きさ

 

○テンポを変えてチェックする

 

 4行のフレーズでの起承転結をみる

1、テンポアップ 2倍のスピードで全体掴む

2、テンポ 2倍遅くして声と息と体の不足を知る

発声、共鳴の不統一性、入り方、切り方をチェックする。

音色とフレーズのニュアンスをみる。

3、「Ah~」と出してみる。

1、デッサンの動きをみる。

2、練り込み()と浮遊をみる☆

3、体―息の線が繋がっているか、なめらかかをみる(声が入るべきところで充分に素早く入っているのかをみる)。

これは3次元として、書家の筆の空中の高さをみるようなものです。流れ、度の太さ、鋭さ、スピード、変化で、どのように描かれていくのかを体感として得るわけです。

 

○オリジナルへのアプローチ

 

・一フレーズでの高さ、大きさ、長さ、音(発音)での完成、それらのMAXのもの

・全体のしっかりとした流れでのデッサンのよいもの

・軽くバランスがとれて、流れがスムーズなもの

・出だしの声一つで全体が動く、変じていくもの

同じ声や歌い方はないのですが、共通して、そのヴォーカリストのもつ固有性、他人にできないオリジナリティをどこにみるかです。

声楽家は声10プラス11020

    歌10プラス11020(発声レベルとして共鳴上での歌唱)

メンタル―元気、威勢のある、楽しい

     威厳、説得力、重厚

     余裕、懐の深さ

スタンス―引いている、小さくまとまる→解放

声    くせ、かぶせる、おとす、もたれる、ほる→芯と共鳴

フレーズ 押しすぎない、ひっぱりすぎない、のせる

構成   変化(みせ)―収め方、ドラマツルギー

 

○パワフルさと調整☆

 

 声量は、強く高いところで裏がえる前には弱くします。裏声中心に高音を獲得して、それが崩れない範囲の声量でバランスをとります。

 地声であげていくのは、高声域獲得には難しいので、調子のよいときの練習に留めましょう。

本番ではトレーニングの成果を求めず、心身と発声を整えて、頭では忘れましょう。ステージに専念することです。

 同じキャパを声量5、声域5で使っていたものを声量2にして、声域8にしても一時しのぎです。すぐに効果の出るヴォイトレは、この配分の変更だけです。初心者に、混乱したり迷わないで上達した実感を与えるのには、もっともよい“方法”です。カラオケの高音歌唱に向います。それだけで上達と誰もが思うのです。

 本当は声量5を保持したままで声域拡張をしなくては、目先を変えただけで問題は残ったままです。カラオケならこれでOKです。エコーでカバーするからです。共鳴でカバーするとしても、それができるトレーナーはポピュラーにはあまりいません。その違いがわかっていないことが多いのです。

 声楽家は声量が落ちたら届かなくなるので、以前はしっかりとした声で声域を獲得していました。今は、安易に共鳴でカバーして、喉を壊すリスクを避けています。まるでポップスの歌手のようになっています。

 その傾向の強いのが、ヴォイトレです。高音はマイクがあるから、歌唱上はそれでよいからです。

その方向のレッスンもここでは行っています。本当は声そのものはあまり伸びていないのです。そこを注意しなくてはなりませんね。

 

○日常のトレーニング

 

 普段の話を大きな声にすることについては、練習できないときはよいのですが、歌唱目的なら、疲れの回復を遅らせ、慢性疲労になりかねません。

 相手のいる話では、正しく発声する余裕はないので、一人のときに朗読などで行うようにしましょう。

 練習のヴォイトレ、母音、ハミングなどに比べて、せりふは子音などがあるので、ややハードなもの(疲れやすいもの)です。中心は、母音とその共鳴(レガート、ロングトーン、ハミング)などがお勧めですね。

 

Vol.97

〇いい声の相性

 声には、なぜか好きになれない声もあります。それは嫌な思いとともに、聞いた声などです。

よくも悪くも、特徴のある声は、要マークです。もちろん好きな人、好きなタレントの声などなら、個性的なほど、好きになるものです。

 落ち着いた声、リラックスできる声は、声そのものが深いこと、それとともに、声の使い方、テンポ、トーン、声をかけるタイミングなどのよさがあります。

 

〇声で伝える

 

 「好きと言った方が負け」、日本では、まだそんな感じですが、最初にそう言ったからといって、どうなのでしょう。思いも、時とともに変わるのです。今がそうでなくとも、その気持ちがあり、可能性があるのなら待ちましょう。とうてい無理なら、離れることです。

 「裏切り」などと、自分のいたらなさを棚にあげてはよくありません。相手に左右されるから、いけないのです。

 好きなら「好き」と言い、だからといって相手の思うようになるわけではないし、ずっとそうだというわけでもないでしょう。言葉でいうのは難しいなら、声を使って伝えたらよいのです。

 

〇相手の声もよくしよう

 声は、あなたが育てるということもできます。あなたが自分の声を通じて、相手の声をよくしていくのです。

 「その声が好き」「そういう声をかけてくれると安心する」「声を聞かせてね」、相手はうるさいなどと思いません。嬉しくなって、さらによくすることでしょう。

〇声の掛け合い

 恋愛ごっこでよいのです。映画のシーンのように、声を毎日かけあい、確かめ合う、それだけでよいのです。

 「おはよう」、「元気?」、「体調は?」、「食べたあ?」、「大変だったわね」、「お帰りなさい」、「明日もがんばってね」、「会えて嬉しかった」。

 たいそうなことを言い出すまえに、こういう普段の言葉での声を大切にしましょう。その心がけが続く限り、安泰です。あなたも声もよくなっていくでしょう。相手もそれに答えてくれるでしょう。

〇声の力で解決する

 声がやっかいでもあるのは、声だけで声が決まるわけではないからです。たとえば、悪声や悪い声の使い方であっても、TPOによっては、とても効果的なこともあります。

 カップルで歩いていて、絡まれたとします。毅然として、ど太い声で、怒った上に、相手をぶちのめしてしまったらやりすぎでしょう。逃げるが勝ち、いや戦わずして勝つ方が数段上です。

声の力で解決できるのが理想です。言葉にならなくとも、声で出てくるのが本当の力です。

〇生活力

 

遊び相手としては楽しい人でも、パートナーとして生活を一緒にするとなれば、踏みとどまりませんか。

いくらぞっこんでも、働かない人はどうでしょう。相手を幸せにしたいなら、豊かになりたいと思うのが、しぜんです。

こういうときは、よほどのドラマが起きなければ、大半は自然消滅してしまいます。

 

〇気のある声、気のない声

 恋は盲目、恋は手探りのうちに始まり、声のニュアンスを頼りに探り合い、やがて求め合うようなものです。人は、強い気のある声の方に引き寄せられるのです。

別れるときは、気のない声が、現実を顧みさせ、ハートを冷やしていきます。そう、ピークへ至ったプロセスの逆です。もちろん、タイプによっても異なります。

 気のない返事が続くと、続けることが難しくなります。優しくて鈍い人もいますから、反応が変わらなければ、教えなくてはいけません。

 たとえば、他の人には気のある返事をして、離れたい人だけ、どうでもよい声にするのです。とはいえ、あなたのちょっとした変化にすぐ気づくことのできる人なら、ダメな人でない可能性大です。

 

〇声終わる関係

 

 一歩外に出ると、街角で声をかけられて、あなたの声の変化にまったく気づかない人、気のない声を出していて、ダメさ加減であなたの上をいく人なら離れましょう。

 いつも強くガミガミ言うのも、タイプによっては有効です。これ以上一緒にいても、楽しくないと声でアピールするのです。
 何といっても、声でやりとりしているのは、まだ何か行き交うものがあるのです。究極の拒絶は、無言、無声状態です。それは“離れた”ということです。

〇声で反応しない

 ことばたくみに近寄ってくる悪徳商法、新興宗教、マルチまがい商法と、大変だったことがありませんか。家にいてもセールス、押し売り、そういう人に、意に反して高い買い物をさせられたことはありませんか。

自己防衛のための声はあるのでしょうか。これは、無言無視が一番。声で答えるのは、相手に反応することになるのですから。

〇悪い人を近づけない声

 それでもしつこく迫ってきたら、はっきり強めに「No」、日本語では「イイエ」、「イヤです」、「けっこうです」、「いいです」、「急いでいます」、「いりません」と、否定的なニュアンスをきちんと込めて、撃退しましょう。

悪い声、大きな声は、公害です。しかし、こういうときは、ここぞとばかり、それを使いましょう。悪い人ほど大きな声には弱いものです。

 日本語は、「けっこう」、「いいです」など、どちらにもとれる言葉があります。それを使うには、強い声で、ためらってはいけません。「でもー」、「だけどー」、「ううん」など、迷いのニュアンスを声に出したら、相手につけこまれるスキとなります。

〇声で魅力的になる

 声のメーキャップをしましょう。声を明るく爽やかに伝えるようにすると、口角(口の両端)が上がります。

 顔の筋肉がよく動き、脳が刺激され、脳内モルヒネのようなホルモン、βエンドルフィン、エンケファリンが出て、快感になります。これは病気や老化を防止し、若さを保ちます。自律神経の働きで、内臓も好調になり、スリムにきれいになれます。

〇つくり笑顔、つくり声から始める

 

 つくり笑顔からでも、笑顔は磨かれていきます。明るいつくり声からスタートすればよいのです。笑っていたからおかしくなり、嬉しくなり、魅力的になるのです。

 つくり笑い声でもよいから、たくさん使いましょう。愉快に楽しくなり、よい声になれます。

 日本人は、外国人に比べて、表情が乏しく、声の変化も少ないです。もっともっと顔と、それに伴う声の表情を豊かにしましょう。

〇若さを失わない声

 しっかりと声を出すことは、体も呼吸も使う全身運動ですから、健康によいです。カラオケでも詩吟、声楽など何でも声を出す芸能に親しみましょう。朗読など、せりふ、言葉をいうのも効果的です。

ボケ防止に「音読ドリル」というのが使われていますが、言葉を声を出して読むだけでも、ボケにくくなるのです。

 

 日常生活のなかでも、どんどんと声を出しましょう。自分からまわりの人に声をかけるように努めましょう。ちょっとした勇気がいるでしょう。それがとてもよいのです。

 

 老化は、動かなくなり、しゃべらなくなることで促進します。よく食べ、よく動き、よくしゃべる人は、いつも若々しくいられます。実年齢と関係ありません。若くても、声を使わなければ、声も心身も衰えてしまうものです。

 

 

〇よい声になるためのレッスン

 

 

 好きな写真を目の前におき、声に出して、語りかけてみてください。

 

 それが人なら、その人が返してくる言葉と声を、想像してみてください。思いっ切り親しげに話してみましょう。その人と楽しかったときのこと、そのときの会話を思い出して、もう一度、言ってみましょう。気持ちよく満たされた体験なら、何でもかまいません。そのときの声の感じを、よく覚えておきましょう。

 

「持続的に問うということ」No.356

問いが続くのか、深まるのかという点では、問い続けるのは難しく、多くの人はどこかであきらめていきます。

 時代の変化と日常に向きあい、問題意識を持ち問いを捉えるセンスや感性を磨き続けなくては、何ら生まれてこなくなるでしょう。

学問では、結論が出るように絞り込んでいきます。学会で論文として認められるようにまとめ上げる必要があるからです。しかし、本当の勝負はそこからです。

アートにおいては、誰が評価をするかから問われます。

学会や業界にこだわらなければ、自由ゆえに評価しがたくなります。つまりは、自分が評価するしかなくなるからです。そこからが至難の道なのです。

« 2021年3月 | トップページ | 2021年5月 »

ブレスヴォイストレーニング研究所ホームページ

ブレスヴォイストレーニング研究所 レッスン受講資料請求

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

発声と音声表現のQ&A

ヴォイトレレッスンの日々

2.ヴォイトレの論点