「本物の声、自分の声」
○3つに分けてみる
表現のためのトレーニングについては、私は3つに分けています。次のように分けて考えるとよいと思います。
1.心(ハート、魂)
2.体=息=声=共鳴=ことば
3.ステージ=表現の成立
これらの心身とステージまでをヴォイトレで扱います。
○声は1割
プロなのか、一流なのか、表現者なのか、アーティストなのか、ともかくも、この世界に入ってくる多くの人が目指すレベルのことを成し遂げている表現者、ここの場合は音声でのということですが、そこにおいても「声の占める割合は1割」と、ずっと言ってきました。
「人は見た目が9割」とか「伝え方が9割」などというタイトルで本が売れていますが、私から言うと、ここの「人」というのは、「仕事のできる人」ということでしょうが、「見た目」も「伝え方」も占める割合は1割でしょう。ただの人としてなら1割も必要ないかもしれません。それが9割であるというのは、他に何の取り柄もない人と比べてです。それは、クラスで班長を選ぶようなもので、接客、介護などでは好感は持たれるでしょうが、トップレベルの仕事では成り立ちません。
プロや表現者にとっての1割というのは、とてつもない重みを持ちます。たとえば職人技の工芸品や画家の絵のなかで、1割おかしければ、名声はすべて崩れてしまうでしょう。3割バッターなら強打者、2割バッターなら普通の打者です。
たかが1割のようでも、そこがあって、全てがのってくるのです。その重みを知るべし、です。とても一所懸命やっている声のトレーニングでも表現を支える1割ということです。ベースとなるものとしてあります。声は1割とわかった上で、他に9割もやることがあるのです。でも、1割確実に声で得られるなら、それほど心強いことはないはずです。
○声から+αのプロセス
ヴォイトレというのですから、それは声を学ぶトレーニングです。
私は当初、声だけ取り出して、「ハイ」など、声の1フレーズで価値づけていくレッスンを主眼にしていました。本が出て一般の人が来るようになって、方針を増やさざるをえなくなってきました。
プロと行なっていたときには、プロは歌えるし、場があるので、まさに声の力だけを求めてきていたのです。それゆえ、レッスンはとてもシンプルでした。
当初は力のある人が来ていたのに、プロダクションが絡むにつれ、中心がデビュー前の人とか、歌手に転向したモデルとか、有名人の二世さんなどになりました。すると、カラオケの先生のような、デビュー前の仕上げという仕事になってきました。声そのものにアプローチできなくなってきていたのです。そこで、一般からプロを目指す人とじっくりと行える研究所をつくったのです。
当初は、素人といってもやる気があり、目標があり、実績もある人ばかり来ていたので、声とその応用であるフレーズが課題でした。「ハイ」という声とカンツォーネなどの大曲のサビの「4~8フレーズ」の応用、その2つの精度を高めていくことが中心です。プロになるためにもっとも大切なものだけの、シンプルで本質的なレッスンと今でも思います。
グループで他の人の声やフレーズを比べつつ、一流の歌手の歌唱フレーズから吸収しては、即興で作品化していくことをフレーズ単位で行いました。うまい歌でなく、自らのオリジナルのフレーズをデッサンする実習を加えていったのです。
方針が増えたのは、音程やリズムなど、音楽や歌そのものに慣れていない人が増えてきたからです。それを補強するためのメニュなど、トータル化していくプロセスをとったからです。来る人によって場は変わるのです。
○表現の定量化
プロとして問われる音声の表現力を100とおいて、100%とします。すると、声は10、歌は10、このあたりが当初、私の考えていた歌い手の条件でした。声の基礎や歌の基礎をやりつつ(あるいは、習わなくとも自らできていて)、声がよい、歌が上手いというレベルで、声10+歌10=計20です。これで、のど自慢なら入賞できるでしょう。しかし、それなりのプロの表現者とは5倍ほどの開きがあります。
そこでヴォイトレで、声をオリジナルの声として100%開花させていく方向で、自分の声、本物の声を問うていくのです。
そうなりたいと来る人に支えられてきた研究所ですが、声の定義はありません。声はオリジナルです。でも、このオリジナルを本当に目指せる人は、残念ながら、それほど多くありません。
自分でない声、偽物の声、がもし使われているとしても、それは、本音に対する建前と同じく、世の中では必要とされるからです。仕事上、丁寧な声を使い、普段は粗っぽい声でしゃべるとしたら、声として求められている価値は、仕事で使っている声にあります。
本人が、それを「自分の本当の声はでない」と思っても、仕事は相手の求めるものに応えることです。歌や舞台のせりふも自分の思う自分の声よりも、他者の求める役割の声が必要とされるのです。
特に日本は、一般の仕事でも舞台でも、この差が大きいのです。これは、ヴォイトレでの声づくりを妨げる二重構造として、私が指摘してきた通りです。
○二重構造の声
本来は、人とうまくやっていくための声と、ステージで求められる声は違います。日本のように、丁寧なビジネス声が求められる社会では、接客マナーでのよい声は、マニュアル化されています。誰にも同じように、浅く軽く表層的な静かな声、あるいは、一方的に強く元気にあふれる声が求められています。前者はファストフード、後者は居酒屋で典型的にみられます。一見、正反対のようであって、実のところ、その人の元来の声、オリジナルの声を省みていない点では同じです。
つまり、10点止まりの声なのです。個性のある声は、リーダーや異なる人々の集う社会では、絶対の条件です。ですが日本人には、かえって不快なのです。
ここでのオリジナルというのは、誰もやっていない、初めての、というのではありません。その人の元来、本来の、ということです。それをしっかりさせると10の声が20に近づいていきます。それが私のヴォイトレの目的です。
基礎としての声に応用を兼ね備えた声、その人の潜在能力を、心身を持ってマックスに、発声技術を持ってマックスにすることで、芸となるべく声とするのです。一声でも違いのわかるレベルにしようということだったのです。
それに対し、現在の声の状況といえば、オリジナルの声にオリジナルの表現でないと認められないレベルの高さにないゆえに、うまい人に似た、器用でよい声の使える人が代用されてしまう悪循環に陥っているのです。
一般ビジネス社会ではともかく、業界でさえ、一般的な声、見本(以前のスターや売れた人)と似ている声を求めるという日本の未熟さがあります。ヴォイトレをカラオケレッスンに堕落させたともいえます。どこの世界にアーティストに二番煎じを求める国があるのでしょうか。本人の基礎の上にのった応用としてのオリジナルのフレーズでしか通じないという大前提から外れたのが日本です。
○正道のプロセス
レッスンにおいて声だけでなく歌においてもオリジナルのフレーズを求めざるをえなくなったのは、私のヴォイス本が「ロックヴォーカル基礎講座」というタイトルで最初に出たせいかもしれません。ロックのヴォーカリストになるノウハウの本と思った人が少なくなかったのです。
本でロックヴォーカリストになるという、ありえないような誤解は内容をしっかり読めばおきないように書いてあります。この本は、ほとんどヴォーカルのことに触れずに、声のことと声の鍛え方、管理のしかたを述べた初めての専門書だったからです。
ちなみに、この本で、芸人や邦楽、外交官や政治家といった勘の鋭い方もいらっしゃることになりました。こちらとしては大いに勉強にもなり、自信にもなりました。素人がプロのロックヴォーカリストとなり、活躍するより、異分野の一流の芸やビジネスであっても国際舞台で通用するという成果につなげられたからです。ここでは、本当に声の力は1割です。その評価なども大いに検証すべきです。
私としては、元より、日本人にとっては、直にロックなど欧米レベルのものを歌っていくよりは、体というか、声のレベルが違うのですから、役者レベル(当初は結構高かった)の声に達してから歌えばよいという、正道のプロセスを示しました。
お笑い芸人や漫才師、噺家などもいらしていました。声の力、やる気、センスなどからみて、業界の中心が歌からお笑いの世界に変わることは、90年代には明らかでした。歌が声の力から離れていったのです。ロックをやろうとした人でも、テクノやダンサブルな方へアーティストが動いていったように私は思っています。
○声20+歌20
当初、研究所の拠点は、音楽事務所や音楽大学の関連施設でなく、六本木の俳優座の事務所におきました。声楽家より役者の方が、声が早く鍛えられていたのを体験していたからです。その前は、声優の学校もつくった音響の専門学校におきました。音楽療法の桜林仁教授を顧問にしていました。医学と芸術の間に、私はヴォイトレを意識していたからです。
歌での10、(=うまい歌10)に加えるオリジナルのフレーズでの10、これは、音楽性を伴うので、声だけでの判断では無理で、中音域から上の声で、役者には鬼門です。それでも声楽のテノールやソプラノほどの高さを当時は想定してなかったのです。ハイレベルの合唱やミュージカル以外であれば、1オクターブの確かな声で応用すれば充分に対応できました。歌は応用という考えは今も変わりません。
一流歌手、プロ歌手が、昭和前期までのようにラジオ、レコードだけ(つまり、音声の表現力)で勝負するとしたら、声20+歌20の40、これを一つの基礎とみることができると思います。あとの60は、その他の全ての要素です。
100でプロ、それを超えて200とか、500とか1000以上で天才歌手といったくらいにみています。表現者として目指すべき基礎のトレーニング面では、まずは100というところです。
○100の内訳
目標100のうち、声20、歌20に加える60は、研究所に来る人でみると、声5、歌3くらいで、10くらいがダンス、作詞、作曲、アレンジで10ずつ、演奏能力もありますし、ステージやビジュアルと応用の作品での演出レベルではプロもいます。作詞作曲の力が30+30=60くらいの人もいます。私が最新の著書で「読むだけで声や歌がよくなる本」と安易なタイトルをつけたのは、トータルを想定してのことです。そこでは、長期的には、もっとも確実な声を10、20、その上に歌を10、20と伸ばしていく必要性を知ってほしかったからです。
トレーニングさえすれば何とかなるのでなく、トレーニングはするもしないも、そういう世界を選んだら、持続させるものです。やめたときは、あきらめたときです。
要は、10になっているのか、20へ向かっているのかという最も大切なことを知ること、その渦中にいると見失いがちな60を知っていくこと。
研究所内外で得たたくさんの要素を本やレッスンには詰め込みました。自分自身で知り、試み、つかみ、挫折したり捨てたりもして、限界と可能性をみていくのなのです。
○トータルとしての声
声の世界について、みると、そこも広く深い世界です。あらゆるものが繋がっています。日常にも仕事にも声は使われていますから、芸として声を切り離すこともできません。これまで使ってきたプロセスも全て刻まれているのです。
そういう面ではトータル、あなたの心や体と同じ、生きてきた結果としての声です。声も総合力なのです。それが即効的な効果として機能の向上としてのヴォイトレとして求められてしまったのが、大きな方向違いだったと思っています。
すでにあなたの声だから、自分の声、本物の声といって、今の声を捨て、新たに声をつくるのではありません。別の声を真似したり、それらしくつくってみても、ものにはなりません。
歌唱やステージに対して安易に声を扱うと、接客サービス業の声のようにマイナスでない、反感を買わないような声、つまり、説得力のない、浅く若い声になりがちです。これは、本物の芸に逆行します。
昔は、幼稚な声、甘えた声では通用しなかったのが、一般社会だけでなく、仕事や芸の世界でも許されてきたかのようにみえます。誰も注意せずスルーしています。だからといってよいわけではないということを知ることです。☆
成り立ってなければダメだったのに、音声で厳しく求める人が少なくなり、問わなくなったとさえいえます。音声で成り立っていると、すごいということになるのです。今のところ、日本=日本人の声の劣化=耳の劣化(変容でもありますが)は留まるようには思えません。
○自分の声、本物の声
私もある程度、相手やシチュエーションによって声を使い分けています。声のことで私に会う人には、それほどブレず、同じスタンスで、同じ声で対します。歌手や役者ではありませんから、よい歌声やよいせりふをみせるのではありません。トレーニングした声、自分の声というよりは、相手がトレーニングをしたら得られる価値を提示できるような声を示します。
レッスンでは「よい声の10」ですが、カウンセリングや会話では「オリジナルな声の10」で対します。使うのに疲れず、楽であって深く通る声です。それで8時間以上、使って疲れたりしない声を知らずと選んでいます。いつでもそうであるように備えてもいます。
声を自分の声として求めるのなら、他人の求める声を出そうということも、ふしぜんで無理のくることです。「見本をみせてほしい」「真似させてほしい」「直してほしい」―。他人のものがほしいと言っているのです。そこで学ぶものは、声でなく体や感覚の共通するところでしょう。
自分のなかにある声を取り出すこと、出せなくなったら、心身について強化鍛練して取り出せる自分にしていく、それが本筋です。☆
○ヴォイトレの効果
発声の原理、理論や発声のメニュ、アドバイスなどを、私たちはたくさん公開しています。数多くのヴォイトレのノウハウや教えがあります。しかし、これを使う前に、そういうものを使わずに歌手となって活躍している人の方がずっと多い、いや、むしろそういうものを利用してきた人はいない、ということを知るべきでしょう(あるいは、トレーナーの接したプロでなく、トレーナーの育てたプロを探してみればよいでしょう。人気や知名度でなく、声の実力としえみることです)。
すぐれたプロセスがなく、現実にそうなっていないから、それを補うものとしてヴォイトレがあり、トレーナーもいるのです。それをサプリのように使うのか、根本的に、とか全面的に使うのかは、千差万別です。
身体の鍛練や精神力の強化をなおざりにして、いくらノウハウやハウツーものを読んだり試したり、トレーナーのところへ行っても、真の効果が出ないです。こういうことは、ご自身のヴォイトレの効果だけで反論される人もいるのですが、よほど突出したものでなければ、検証などできません。「今よりよくなればよい」というのは確かですが、大半は、こまごました誤差の範囲内に入ってしまいかねないくらいの成果であったりするのです。
「レッスンをしたら皆がよくなった」「誰かに認められた」という曖昧なものよりは「たった一人でも世界のトップになった」という事例が欲しいものです。
私は、よく、ここでのヴォイトレとジムやマッサージと、どちらが声が出るようになっているかなどを調べてみることがあります。「体のことや心のことをやれば声が出るようになる」というのは当然の結果で、そこからどうしていくのかが大切なのです。
○雑念を切る
トレーナーにつくのは、メニュや方法に振り回されなくなるためと思ってはいかがでしょう。一人でやるとプロセスに確信が持てず、疑問を持つことでしょう。そこで他の人に聞くのはよいことです。まして専門家であるトレーナーの意見、アドバイスは貴重です。しかし、そこにさほど客観性はありません。そこをあまり期待すべきではありません。その理由はこれまで何度か述べてきました。
自分の頭で、「こうやれば、こうしなくては」、というのは、すでに対応を誤っているのです。なぜなら、本当にすべきことは自ら対応できる範囲を超えていることだからです。
それならば、トレーナーや本も含め、早くあらゆることを知った上で、全てを忘れて捨てるというのがよいのです。考えすぎて悩むタイプの人へのアドバイスです。雑念を切るのに雑念をたくさん入れ、徹底していくのです。それに本もトレーナーも使えばよいのです。無意味を悟り、忘れるプロセスとして使うのは、高度な使い方の一つです。
○ベースをやるということ
ベースとなるトレーニングは、できることでよいから丁寧にしっかりとやりましょう。
調子のよいときは少し無理してもよいです。悪いときはベースとなるトレーニングがしっかりとできるように戻すことです。本やトレーナーを使って、「できないことを無理してやる」のはよくありません。むしろ、反対です。「できることを丁寧にくり返しする」のです。
できていないことはできないのだから、そこをやるのではなく、一つ下のベースを掘り下げていくのです。
教えることも同じです。教えてできることなら教えなくてもできるのだから、教えても仕方ないのです。本人が気づくまで待ちます。それを問うた状態で、どこまで、いつまで保てるかがトレーナーの力量です。
できたのにできたと気づいていないなら、できたと伝えることが必要なときもあります。
「わかる」「教える」ということばはあまり使いたくありません。「わかる」と「できる」、「教える」と「伝わる」は違うからです。
○判断レベルを上げる
発声とか歌とかが正しいかなどを問うのはありません。いかに声の状態を把握できているかを問うていくのです。正しくというよりは、その把握の精度を少しずつ深めていくのです。
私はあなたの声の「ハイ」だけで100のマップ(声の図)を描けるでしょう。歌の声なら「わたしは」という1フレーズの歌詞だけで、声の状態から、歌としてのよしあしを「わ」について「た」についてと、点数もつけられます。プロの歌手が聞いて納得するだけの説明ができるでしょう。聞く耳のある人であればですが…。
私自身の見解を示すとともに、必要であれば、他の一流の人の耳ではどう聞こえるのか、その相違をことばにすることもあります。
場合によっては、本人がどういうつもりでどのようにやろうと試みて、その結果、どこまでうまくいき、どこでだめだったかを、本人に説明するでしょう。高度な仕事上の能力ですが、私はレッスンを通じて、そういう耳の力をつけさせるようにしています。
○ど真ん中の声
自分の声を聞く。「そのなかに本物の声がある」とはいいません。この声は、思いとか言いたいことではなく、そのまま声という意味です。本物の声というとわかりにくい、誤解を招きやすいので、「あなたのど真ん中の声」と言います。
ピッチャーの投げる球のど真ん中は、ストライクゾーンの真ん中ということになりますが、私がいうのは、そのバッター個人のど真ん中、つまり、彼がもっともホームランにできるコースを示していると思ってください。
ですから、私は最初のレッスンでは、音の高さも声域、歌詞も、曲も全てを無視することもあります。
一声だけ、最もよく出せるところで、声というもの、発声と言うものを徹底して把握するようにしてきました。声を伸ばすだけで、そこに何ら感じられない人がどうして「本物の声」にたどり着けましょう。
声はトータルの1割と述べましたが、数秒の声一つで、ある瞬間には全てになります。1フレーズあれば、一流の歌手は感動させたり、魅力たっぷりに聞かせたりできるのです。
○明らかになる
「できない」とか「うまくいかない」と思うのは仕方ないとしても、発声や歌で悩んだり苦しむのは逆効果です。レッスンやトレーニングは楽しみましょう。
できないことをやるからめげるのです。できなくても、うまくいかなくても、先に行けないのではありません。ずっとできないし、うまくいかないかもしれません。それがわかったら、いくつも道があるのです。多くの場合、そこが曖昧なままだから深まらないし、抜けられないのです。
同じことをくり返す。そして深める。できることをくり返す。確かにできるようにしていくのが本筋です。
日本人はどうも学ぶプロセスに1、2、3…10、11、12、…20と考えがちですが、実のところ1→2→3とうまくいかないから、1→2→6、1→6→2などが起きます。声や歌に10も20も必要、基礎の力がある方がいいとはいっても、必ずしもその10、20が必要なのではないのです。両方が人より足らなくても100に近づけることも可能なのです。
声そのものの可能性に見切りをつけるヴォイトレもあってもよいでしょう。それだけがレッスンでも、まして表現でもないし、人生でもないのです。
だからこそ表面上、ある音に声が届いたとか届かないとかに振り回されて一喜一憂するようなヴォイトレは卒業しましょう。自分の個性、可能性、限界の全てを明らかにしつつ、より深く丁寧に声の世界をつかんでいくようなスタンスで構えてほしいのです。
○使えない教材
声にはメンタルとフィジカルの要素が大きく関わります。だから、やる気だけで大声を出すしか取り柄のないようなヴォーカリストも活躍できているのです(ここでは日本人だけでなく海外のヴォーカリストのことも言ったつもりです。今の日本人のヴォーカリストは、センシティブすぎるくらいです)。
だからこそ、シンプルなメニュなのです。私は、初心者しか買わないような本の発声練習やメニュ、ヴォーカルの教材、教本などがハイレベルなので驚きます。
私の基準でみるなら、「それがこなせるくらいなら、その教材を使う必要はない」と思うのです。「喉の状態の悪い人に喉を絞めてしまうメニュ」であったり、「高い声が出ない声に人にハイトーンのメニュ」中心であったりです。独学で使うと、より雑にいい加減になって、悪化はしても、よくはならないでしょう。
できないことをやらせているうち、できるようになるかのような考えでつくられたようなものが多いのです。そういうメニュで無理して高く出していたら、その高さに届くようになったり、そのパターンをくり返していたら音やリズムが外れなくなった、という表向きのわかりやすい効果を狙っているのです。その先はありません。つまり、効果をエサにして、本来の限界以前に、くせをつけて少し伸ばしたところで可能性を止めてしまうものとなっているのです。
メニュが悪いというよりは、使い方が悪いというので、トレーナーのせいとはいえません。大体は、それなりに声に恵まれ、すぐれているトレーナーが自分の使ったメニュです。そのトレーナーも音がとれているだけで、声としては、こなせていない喉声の人も少なくないのです。
私がよく述べている、ヴォイトレの名のもとで、声そのものは扱っていないという例です。つくる側の立場としては、そうなるのもやむをえない事情もあるし、それもわかるのです。何と言っても、つくる方は大変です。それでうまくいくところまでで充分という人もたくさんいるからです。
○囚われない
シンプルなフレーズの繰り返しで、頭のなかを消しましょう。研究所のトレーナーは「頭をからっぽに」とよく注意します。頭でなく身体から動かないと声は出てこないのです。
それを知るトレーナーは、発声のためには、体力づくりや身体の柔軟管理を第一の条件と考えます。
発声をすると喉が疲れるという人に、「声帯の仕組みと使い方を学んで、それにそって出してください」などと言うのは、一つ間違うととんだヤブ医者になりかねません。
この場合、原則として、ということは、大半の人には、ということです。喉のことは忘れて、イメージ、耳、体感で自分の状態と声のチェックを優先しましょう。最初はトレーナーの耳を使って、そのうち、それを参考に自分自身で判断できるようにしていくのです。声そのものに集中しなくてはいけないのです。眼を開けつつ、映るものに囚われてはなりません。
姿勢のチェックはレッスンとして大切ですが、それだけに囚われるのもよくありません。声の出やすいように、どんな姿勢をとってもよいというアプローチもあります。姿勢から声を方向づけるもの一つのやり方ですが、その前に声の出方から姿勢を考えたり変えたりしてみるのもよいことでしょう。
そういうことに気づき、レッスン外でどう試みるかが学んでいくということです。トレーナーが「よくなった」と言ったとしても、「今の自分にはこの方がよい」と、それが正しいかどうかは別にして、今のあなたの気づきとして得ていくことが大切なのです。
○くり返す
シンプルな繰り返しをすると、シンプルにできることのなかにいろんな試みが出てきます。そこで、自分の状態やできたことを把握していくのです。回数をたくさんくり返すとか、たくさんのメニュをやるというのではありません。
発声のスケール練習やコンコーネ50で、パターンを覚えてきます。一つのことだけを何回もやっていては、変じられずに飽きて鈍くなり、頭も体も固めてしまい、気づかなくなってしまうからです。数を増やしたり、バリエーションを知るために、次々にやればよいだけではではありません。
時間で稼げるときには、量の徹底も大きな力となります。これは、あとで効いてきます。身体の応用力や聴く力は、飽きるほどくり返す行為の中で高まります。
コンコーネ50(ポピュラーなら15番のメニュくらいまででもよい)を発声として使うのは、「コンコーネの1番」だけで、すごい(ポピュラーならおもしろいでもいい)と思わせるためです。日本中の音大生は50曲以外に他の教材まで暗唱できるのに、一曲だけですごいと思わせる人は、ほとんどいないでしょう。長期目標のなかでの基礎なので、そういう位置づけですが、そこで出来、不出来でしかみていません。スタンスや方向がよくないというのは、こういうことです。
○基本と極端、はみ出し
他人が与えたメニュで難しいことをやるよりは、自分の選んだ一つのシンプルなメニュを使うことが大切です。それを極端に長くしたり大きくしたり高くしたり低くしたり変じさせてみましょう。その方が気づきやすく学ぶところも大きいでしょう。気づけるようにメニュをセットできるようになりましょう。そうでないと、メニュを使う意味がないのです。
プロ歌手は、ヴォイトレのメニュを使わなくても、そういうことを一つの声や一つのフレージングでやっています。それ以上の効果を出さないなら、メニュなど不要です。
私の述べた声の10+10、歌の10+10の練習を、彼らはスケールということでしていなくても、歌のフレーズでやってきたのです(ただ、デビューしてからこそが勝負なのに、そこからあまりやらない人が多いので伸びないのです)。その間にバランス感覚(まさにプロのプロたるゆえんは、この感覚ですが…)を極端な試みを楽しむうちに捉えてきているのです。
これは、応用しても、はめを外さずまとめるために、なくてはならない能力です。MCやタレント能力もこれに含まれます(ただ、プロになってから余りはみ出さないようにする人が多くなっておもしろくなくなるのです)。
私はトレーナーの立場を超えて、この極端をレッスンに取り入れていました。一般の人が多くなって、かなりのものは制限しましたが、昔のものからも学んでください。
○タフさ
極端にする必要性は、パラダイムでの揺さぶりのためです。どうしても人は一つの見方に偏りがちです。「細かく丁寧に」と、「思い切り大胆に」は両立しにくい。表現は、そのギャップに生じるのです。どちらも自由に行き来できなくてはなりません。
それを学ぶのが、人につく意味だったのです。「俺に惚れて弟子になったなら、俺の心地よいように振る舞え」と言ったのは、談志師匠でした。
人前に何かを表現しにいくのは、弾の中を生身で歩くようなものです。
「メンタルに弱い」と初対面で言えてしまう、今の日本の状況では、声と共にタフなメンタル基礎力育成が必要です。
舞台のレベル、特に音声力、身体力、精神力は日本では、著しく落ちてきています。高度成長期の日本のセールスマンくらいのタフさがあれば、今、この世界では引く手あまたと思っています。それくらいに人材が少ないのです。
○習わしと慣れ
嫌な人はどこにでもいます。表現すると、知名度が高まると、そういう人が刃をかざしてきます。嫉妬、妬み、引き摺り降ろす、世間体のように見えない圧力も大きさを増します。
日本では今も昔も大して変わりませんが、露骨でなくなって、陰険になりました。自分の意見として突っかかってきた昔の方が、お互いにその後の成長もあったと思うのです。
精神力という心の問題は、慣れることでかなり解決します。
ここでも、レッスンに「来たくないときでも決めたことだから実行しましょう」とアドバイスします。他人であるトレーナーと会い、その前で声を出す。慣れからです。その習わしで慣れて習慣となります。毎日のトレーニングで意識が改革されます。外の環境が変わり、内なる環境が変わると、本人に力が宿るものです。そして、トレーナーや周りの人に少しずつ認められていきます。
それを買物のように、「もっとよいトレーナーいませんか」「もっとよい方法ありませんか」「もっと安く便利に早く」と言ってどうなるでしょう。研究所はいろんなクレームを受けて、日々改革されていきます。感謝です。でも、その人は変わらないでしょう。
○相性
あなたが好きなトレーナーは、あなたが好きだからうまくいくようにみえます。それは人間関係であって、レッスンの成果は同じではありません。あなたが合わないトレーナーとやって、そこで成果が得られたら、それはもっと大きいです(トレーナーを方法に置き換えてもよいでしょう)。
声は日常のこれまでの経験の上に使ってきたものです。普段の生活の習慣、環境はなかなか変わりません。そこを変えることが飛躍のカギです。オペラ歌手にとって留学が勉強になるのはそのためです。弟子入りというのも、その手段です。
よほどのエネルギーがないと自分では無理難題や不条理なことはやりません。無理とか難題と思っているからではなく、イメージにないからです。それは相対的なものですから、同じ以上のことを難なくやっている人もいます。その人からみると、ごく当たり前のことなのです。
自分の生活で、必要がなければ、誰もわざわざ嫌いな人や合わない人に会いには行きません。仕事なら、必要があれば否応なしにそういう人と会います。そこで合わせていくうちに、嫌いでなくなったり、合うようになってきます。それは、あなたが変わった、大方の場合、慣れたのです。相手も異常者ではないのなら、これまであなたが自分のイメージに囚われていたのです。
表現の仕事のほとんどは否応なしのもので、自由に選べることなどほとんどないのです。自由になるために不自由ななかで自由になれることが必要です。その判断が歳とともに固まってくる分、若い人に可能性があるのです。固めないことが大切です。声や歌もそのように考えてみるとよいでしょう。
○自信にする
慣れるということで、当たり前にできてくると、「慣れればできる」という自信になります。レッスンの大きな目的は、一人でやるだけでなくトレーナーの前でやれるようになることです。やりながら慣れて、自信をつけていくことです。どこかに長くいると、あるところまでは自ずと上達します。それは慣れる力のなす業です。だから続けることが大切なのです。
下手にトレーナーが教えようと急がない方がよいのも、慣れていないところでは、身につかないし、付け焼刃にしかならないからです。
コツコツと積み重ねていくと、そのうち「できなくてもできる」と思えるようになります。自信過剰とは違います。周りはOK、でも自分ではNOという厳しい自己評価です。
オリンピックは、自己更新タイムを狙います。自己更新とは、これまで出せていないタイムです。それに挑む、不可能に挑むから、できたときにすごいのです。
できたことは過去のことです。それをくり返しているだけではクリエイティブでもアートでもないのです(しかし、私も過去の整理をしなくてはなりません。先ばかり進めてまとめていないのが気になりつつあります…)。
プロや芸能人のなかには、私の本を知ってその日に、アポを取ろうとしてきた人もいます。考えるより行動してしまう、その力で自分や周りを変えていく。連絡したら会ってもらえなくてだめもと、自分には会うはずだという自信も、これまでの実績からでしょう。私はあまりタレントの名前は知らないので、それで動かされることはないのですが、そういう行動力は見習ってください(私もお偉い先生にたくさん会ってきた方ですが…)。
○身につける
早口ことばは、声の応用例です。声の力がなくても、滑舌としてアナウンサーのようなレッスンをしていると器用にこなせるようになります。楽譜に正確に歌うことと同じく、レッスンとしてはやった分、確実に身につくので、トレーナーにはありがたいメニュです。
ただ、ヴォイトレの中心の声をつくるメニュとは違います。でも、暗誦するほどにくり返すとよくなることは共通します。複雑なものがシンプルになってくるからです。少しずつ、声の動き、呼吸の動き、体や感覚の動きが感じられ、結びついてくるのです。深めていけるのなら、どんな入口、何をどうやってもよいです。
正しくできたかどうかを問うのでなく、まず、そこでの声を問うのです。
なのに、そうでないレッスンばかりが多いのです。表面的なもの、頭―口の連動からであっても、身体に入ってくると、そのうち頭も口もさほど使わなくてもできるようになります。それにつれ、声も少しずつよくなっていくのです。
これとは反対に、無理に高いところや大声で合わないところばかりでやり続けている人が多いのです。その場合、発音や読譜力(初見)は上達しても、声そのものはあまり変わりません。そう教えている人も多いのです。それで、ヴォイトレを何年も続けてきたという人やトレーナーもいます。その判断力が問題です。
○レポートする
ことばが身になってくる。これはレッスンでも同じで、トレーナーのアドバイスを頭で理解はしなくてもよいと思うのです。(そこで理論や科学的根拠を必要とする無意味さは述べてきました)。要は、身につけていくことです。それが思考とか精神といわれるものです。
私がレポートを課しているのは、私自身、そうしていましたが、あらゆる一流の人はノートをつけているからです。レポートなら、自己完結せず、トレーナーという読み手がいます。お互いに協力してレッスンをよくしていこうという方法です。たゆまない改良のためです。
レッスンを2倍に増やせなくても、レポートで2倍の効果になります。
提出については本人次第で、強要はしていません。利用しないのはもったいないと思います。
レポートは、自分の状態を把握し、改良するためにも最大のツールです、本当に効いてくるのは忘れた頃からです。忘れないために、未来の自分に書いておくのです。3年、5年後、あるいは、その世界に出てから役立つのです。レポートを書いたときには、わからなかったことばややっていることが、後でわかってくることにも意味があるのです。
○会報のレポート
レポートも、慣れ、習慣づくりの一環です。それが難しい人のために、他の人のレポートをサンプルとして紹介しています。至れり尽くせりでしょう。自分の気づきと比べられます。他の人の質問や理解の仕方も学びの材料です。一つのレッスンを最大に活用できるように膨らませているのです。
これは仕事をしていくノウハウでもあります。私は、いつも多くのトレーナーのレッスンへレポートを読んできました。膨大なデータ量となります。会報のバックナンバーはロビーに置いて、ホームページに一部、公開して追体験できるようにしています(私は、相手や日付、目的まで知っているので、もっとも学べます。それはトレーナーをまとめる立場として必要なことです。皆さんは特定されていない事例として、普遍化したもので学ぶほうがよいと思っています)。
グループのレッスンや地方のレッスンで、とても役立っています。自ら主体的に学ぶための習慣づくりとして課しているのです。
よく学べる人は気づきもよいのです。ことばや文章にも特色があります。個性や味が出てくる人も、最初からそういうスタイルを持つ人もいます。小説家や文章のプロの人もいらっしゃいます。
自分の書いたものが実のあるレポートになっていくのも、レッスンと同じく一つの成果です。それも表現です。トレーナーの報告書よりもレポートがわかりやすいから皆さんに紹介しています。どんなものでも人それぞれというサンプルです。
○読み込む(ゆとり教育の批判)
私は、ゆとり教育を否定してきました。理念はともかく、現実として実践しようとしていることが理念と違って悪い結果しかもたらさないことが明らかだったからです。それなら、昔の軍事訓練、寺子屋、農業実習などを経験させる方がよいと思いました。今さら言っても仕方ないのですが。
日本では銃を持ったり、憲法を変えたら戦争になると信じている人が多く、今だにこういう発言はタブーですが、「はだしのゲン」の一件でもわかるように、よくないことが描かれたものは隠せと言い、そういう反対があれば、すぐ引っ込める。世間ともいえない一部の主張に及び腰で、何でも事なかれ主義で対してしまう。気にくわないことは悪のように言ってしまう住民、それを言われるままに鵜吞みにしてしまう役所の方が、よほど怖いでしょう。一個人としての思慮ないのです。
たくさんの知識は、暗誦で身に入るのですが、インパクトを受けたものが、その人の精神、思考を形づくります。その組み合わせから、異なる個性も行動も生じるのです。
レッスン室では声のプレーでも、ことばを与えていくことがとても大切です。インプットが充分でないとアウトプットのクリエイティビティは生じないのです。
○活字の力
かつて、研究所の生徒は、リソグラフで両面刷った会報を、自分でホチキスで留めて持っていきました(今は印刷です)。60~80枚くらいあり、1ページも3段でした。私も通して読むと丸一日かかりました。それを皆、食い入るように読んでいたものです。
「なぜヴォイトレなのに」という問いには、当時はこう答えていました。「レッスンでは頭を真っ白にして欲しいから言いたいことは全て会報に書いておく」と(私のレッスンでは、最初は、曲の由来も語学、発音、楽譜など解説なし、音源と来た人の声だけでした。フォローするトレーナーが、グループレッスンにも個人レッスンにもいたこともあってのことでした。私自身は会報でもフォローしているつもりです)。
レッスンで話したことをできるだけ会報にリライト(「レッスン録アーカイブ」)していました。結構しゃべっていたようです。生徒のコメントも話でした。今ならYouTubeにでもアップするでしょう。読むには忍耐力がいるし、イマジネーションが必要です。私は活字に残しています。
○ことば力
緊張して話せない人、ことばが出なくて話せない人、ことばにできない人の多い、「葦原の瑞穂の国は神ながら言葉解せぬ国」(柿本人麻呂、万葉集)の日本です。アグレッシブに論じたり、諭すことが、できなくなってきました。リーダーのような立場の人さえ、話させることの大切さを説くばかりになりました。日本国民総ヒーラーかカウンセラーですね。声に問題を抱える人に対し、ヴォイストレーナーにも、それが求められるのは当然なのでしょうね。
1、 たくさん聞いて、たくさん声にする(歌う)
2、 よく聞いて、よく声にする(歌う)
聞くのは歌い手なら歌がことばです。
この2つの主題なくして
1、 たくさん話す
2、 よく話す
が努力目標です。たとえビジネスや日常生活でも
1、 たくさん聞いて
2、 よく聞く
という前提は崩せないのです。
○鍛練
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とする」
宮本武蔵のことばです。
時間、挨拶、身だしなみ、ことば遣い、整理、その上に練習(レッスン、トレーニング)があります。そこに加えるのならレポート、スピーチと、ことばで記録し記憶するとともに、人に伝える行動をとるのです。
すぐに動画をアップできる時代、手段として大きな可能性を持っています。才能のある人が早く広く認められるという点においてもです(特にビジュアル、ダンスなど動画に映えるものに強いです。声も音で、プラス面が大きいでしょう)。
私は研究所のヴォイトレをアップしていますが、他の人がアップしたものを参考としてはいません。いつもここのものは、作品でなくプロセスであるという思いと、そういう目で見てしまうがために見えなくなってしまうことの害の方が大きいと思うからです(本も似ています。活字の働きかけの方が、相手のレベルが高くイマジネーションが豊かな場合なら有効です。その人のレベルにアレンジされてクリエイティブな形で受容でなく導引するからです)。
○生産する
レポートには、その人の個性が見えるのです。これも表現の一つです。
レポートには、お金を払ってもよいと思えるほど、学ぶ人たちに役立つものがあります(ここには、アーティストとしてのプロと、生徒、もしくはレポーターとしてのプロと、2つの意味があります)。
作品の鑑賞レポートも、「お勧めのアーティスト・作品」として、掲載しています。ピンからキリまであります。以前は選りすぐっていました。今は、よいとか悪いとかに評価は入れていません。
トレーナーやレッスンと同じく、接する人によければよいからです。そのよし悪しには、売り物としてのよしあしでない、自由があります。無責任とは言いませんが、極論やうまくいかない人や初心者、入門レベルの感想レポートも加えています。だからこそ、役立つという人もいるからです。
以前、研究所のレポートをみて、「こんなすぐれたレポートばかりでは、自分には書けません」と言われました。以前の体験談では、読んだ人に「こんなすぐれたものを書ける人ばかりのところへ私などが入ってよいですか」と言われました。もちろん、何百枚もの中からすぐれたものだけを選んでいたからです。しかし、レッスンですぐれていけばよいのであり、最初からすぐれていたらレッスンは必要ありません。そう思って、プロセスもみえるように無作為をしたのです。
○基礎へのアプローチ
一つのシンプルフレーズでみる声の変化の方向
1、 長くする、短くする[呼吸]
2、 高くする、低くする[周波数]
3、 大きく(強く)する、小さく(弱く)する[音圧]
4、 音色と共鳴[フォルマント]
母音(5つ+α)子音、共鳴のバランス(頭声―胸声)
スケールとして5音をとる(例)ドレドレド、ドレミレド
音が届いているとか、声が出ているとOKとして先に進め、いつまでも雑になったままなのを避けることでしょう。そこでは肝心の体や息が伴っていないケースが多いのです。
a、浅・軽 頭声 響きから降ろしてくる 引く
b、深・重 胸声 体の呼吸から声にしていく のせる
同じ分量の声の使い方
体、息、声の大きさ
○テンポを変えてチェックする
4行のフレーズでの起承転結をみる
1、テンポアップ 2倍のスピードで全体掴む
2、テンポ 2倍遅くして声と息と体の不足を知る
発声、共鳴の不統一性、入り方、切り方をチェックする。
音色とフレーズのニュアンスをみる。
3、「Ah~」と出してみる。
1、デッサンの動きをみる。
2、練り込み(芯)と浮遊をみる☆
3、体―息の線が繋がっているか、なめらかかをみる(声が入るべきところで充分に素早く入っているのかをみる)。
これは3次元として、書家の筆の空中の高さをみるようなものです。流れ、度の太さ、鋭さ、スピード、変化で、どのように描かれていくのかを体感として得るわけです。
○オリジナルへのアプローチ
・一フレーズでの高さ、大きさ、長さ、音(発音)での完成、それらのMAXのもの
・全体のしっかりとした流れでのデッサンのよいもの
・軽くバランスがとれて、流れがスムーズなもの
・出だしの声一つで全体が動く、変じていくもの
同じ声や歌い方はないのですが、共通して、そのヴォーカリストのもつ固有性、他人にできないオリジナリティをどこにみるかです。
声楽家は声10プラス1~10~20
歌10プラス1~10~20(発声レベルとして共鳴上での歌唱)
メンタル―元気、威勢のある、楽しい
威厳、説得力、重厚
余裕、懐の深さ
スタンス―引いている、小さくまとまる→解放
声 くせ、かぶせる、おとす、もたれる、ほる→芯と共鳴
フレーズ 押しすぎない、ひっぱりすぎない、のせる
構成 変化(みせ)―収め方、ドラマツルギー
○パワフルさと調整☆
声量は、強く高いところで裏がえる前には弱くします。裏声中心に高音を獲得して、それが崩れない範囲の声量でバランスをとります。
地声であげていくのは、高声域獲得には難しいので、調子のよいときの練習に留めましょう。
本番ではトレーニングの成果を求めず、心身と発声を整えて、頭では忘れましょう。ステージに専念することです。
同じキャパを声量5、声域5で使っていたものを声量2にして、声域8にしても一時しのぎです。すぐに効果の出るヴォイトレは、この配分の変更だけです。初心者に、混乱したり迷わないで上達した実感を与えるのには、もっともよい“方法”です。カラオケの高音歌唱に向います。それだけで上達と誰もが思うのです。
本当は声量5を保持したままで声域拡張をしなくては、目先を変えただけで問題は残ったままです。カラオケならこれでOKです。エコーでカバーするからです。共鳴でカバーするとしても、それができるトレーナーはポピュラーにはあまりいません。その違いがわかっていないことが多いのです。
声楽家は声量が落ちたら届かなくなるので、以前はしっかりとした声で声域を獲得していました。今は、安易に共鳴でカバーして、喉を壊すリスクを避けています。まるでポップスの歌手のようになっています。
その傾向の強いのが、ヴォイトレです。高音はマイクがあるから、歌唱上はそれでよいからです。
その方向のレッスンもここでは行っています。本当は声そのものはあまり伸びていないのです。そこを注意しなくてはなりませんね。
○日常のトレーニング
普段の話を大きな声にすることについては、練習できないときはよいのですが、歌唱目的なら、疲れの回復を遅らせ、慢性疲労になりかねません。
相手のいる話では、正しく発声する余裕はないので、一人のときに朗読などで行うようにしましょう。
練習のヴォイトレ、母音、ハミングなどに比べて、せりふは子音などがあるので、ややハードなもの(疲れやすいもの)です。中心は、母音とその共鳴(レガート、ロングトーン、ハミング)などがお勧めですね。
「1.ヴォイストレーナーの選び方」カテゴリの記事
- ブログ移動のお知らせ(2023.07.01)
- 「歌の判断について」(2021.10.30)
- 「声道」(2021.10.20)
- 「メニュ」(2021.10.10)
- 「感覚について」(2021.09.30)