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「評価のスタンスとレッスン」

○評価のスタンスとレッスン

 

 私は、歌を評価するときには、大きく2つのスタンスに分けています。トレーナーとプロデューサーの観点です。トレーナーとして対しているときは、歌のよしあしそのものでなく、声のトレーニングとしてのオリジナリティにおける可能性で判断しています。「どうすれば歌がうまくなりますか」ということは、そう簡単に答えられません。「プロになる」「聞く人を感動させる」「価値を与えられる」というようなことが入るのであれば、なおさらです。「うまくなる」のと「オリジナルな価値」とは相反することも珍しくないのです。

 

○評価とレッスン、トレーニング

 

 「こういうトレーニングをすれば、こうなる」という、基礎づくりについてはアドバイスできます。レッスンを受けないとないとアドバイスしないわけではありません。しかし、その人にみえていないものは、レッスンでみえるようにしていくように、トレーニングで補なってこそ、本当の効果が出るのです。一言アドバイスは、それを必要としないほど勘と感覚のよい人を除いて、大半の人には、自信をつけた分変わるくらいの励ましになるわけです。

 声も歌も、その人が生きてきた歳月や環境に基づいています。本当のことをいうと、大きく変えるのは至難の業です。まして独力では不可能に近いかもしれません。小さく変えても大きくは変わらないのです。

 

3つの次元を分ける

 

 判断について、本人を中心に考えると

1.本人の声

2.本人の歌

3.本人の表現

と、それぞれにオリジナルのものを判断していくのがよいと思います。何よりも、本人を中心としたヴォイトレであろうと思うからです。しかし、こうしたオリジナリティというのは、他にないものゆえ、認められがたいので、ある程度スタンダードな基準をおくのが、一般的な学び方です。研究所でも、そういう基準を設けて一本通るようにしています。

 つまり、個性・才能なのか、一人よがりのでたらめなのかを区別するのです。他のものへの応用性、柔軟性でみます。他との比較から、相対的に力をつけるというやり方をとるのです。

 

○やり方と学び方

 

 やり方というのは、学習法、勉強法です(日本の場合はこれが目的になりがちなので、ここで「仮に」ということを強調しておきます)。天才なら、他人を参考にせずに独力ですぐれていくのかもしれません。直しようもない、トレーナーもあきらめるしかない強烈な個性が、歌や音楽へ開かれていたら才能としてみるのです。

 ただし、音楽というのは再現芸術です。そこにおいては、発想やひらめきだけでもっていけないと思います。少なくとも、一流は、その前の一流に学んできたのです。その学び方を学ぶのが、レッスンの役割です。

 

○オリジナリティをみる

 

 本人のオリジナリティをみると

1.声のオリジナリティ

2.歌のオリジナリティ

3.表現のオリジナリティ

はそれぞれが違います。

 どれかが抜きんでているか、総合的に力があればよいのです。もしかすると、その配分こそが、オリジナリティといえるようにも思います。配分よりは、組み合わせという方が近いかもしれません。

 

○声におけるオリジナリティ

 

 オリジナリティというのは、声においては、ど真ん中の声です(人によって音色も声量も異なります。今もっともよいのと、将来もっともよくなるのも異なります)。歌を「歌のオリジナリティ」と区分けします。それは、歌全体でなく声のフレージング、音声の描く色や線のことです。声が音色、歌がフレーズということでもよいでしょう。それは、絵でいう基礎デッサン(色と線)にあたります。

 歌手の場合の表現は、音の世界にみるなら、ステージ>音楽>音声(声、歌)と絞り込んで、そのデッサンの組み合わせとしての絵としてみるのです。歌のオリジナリティは、声のフレーズの組み合わせなのです。私は、声=色、歌=線、表現()その組み合わせとしてみることが多いです。

 

○内なるものと外からのもの

 

 声にも  

a.内なる自分からの声

b.仕事などで求められる声

があります。aからbを包括するa⊃bが望ましいのですが、aがみえぬままbでつくってしまうことが一般的です。日常での声力がもっとあれば、もっている声が使われるのですが、日常の声力がないのでトレーニングで補うことです。そうでないと、無理につくらなくてはなりません。大半は、そうしてつくった声を使ってしまっています。

本当は、aがbに並んで、何とかプロレベル、それを超えるには、a⊃bまで基礎としての声力を高めなくてはならないのです。これは歌についても同じことがいえます。ここの「声」を「歌」に置き換えても通じるのです。

 カラオケやもの真似のうまい人は2a⊃2bです(2aは内なる歌のフレーズ、2bは外から求められる歌のフレーズ、2は歌のレベル、1は声のレベルということです)。もちろん、下手な人よりは2aの力もあります。

 しかし、bを目的にしてはよくないのです。aをトレーニングしてbが包括されるようにしていくことです。

この関係は本来、1a⊃2a(声⊃歌)でもあるべきです。日本人の場合、歌の求める声域、声量、リズム、音程すべてがbとして、aより大きくなっています。それでは歌って精一杯、真の表現には至りません。

 

○表現の目標

 

 表現(表現のレベルは3とする)をどうみるかは、声も歌も曖昧な世界のポピュラー歌手や俳優においては、最高クラスの世界のトップからみるしかないので、トップダウンの考えです。ここでも、3a=世界、3b=日本と考えて、3aを目指すべきです。なのに3aでなく3bしか使いません。それどころか、3aをみない、知らないとなりつつあります(a=内なる表現、b=仕事の表現)。

 3aからみるからこそ、3a2a1aと一貫した基準と真にオリジナルな作品、歌、声が明確に見ることができるのです。私が日本の音声の表現舞台、しいては、日本の歌の判断を好まないのは、3c3b3aとバラバラななかでの器用さに長けていることで選ぶよう強いられるからです。

 音楽のルールを守って、きれいな声で、うまく歌っている。そのことに文句はありませんが、本人不在なのです。整形美人のようなもので、どれも同じように心地よいだけで、飽きてしまうのです。

 気をつけたいのは、aをみないbの勉強がレッスンとして行われることがほとんどであるという現実です。

 

○「結果オーライ」という理論

 

 いつも「結果オーライ」の基準を私は提唱してきました。よい方法かどうかなどを問うよりも、その人がよく表現できていたら、よく生きていて、よいものを得ているということです。

 拙書のヴォーカル教本のほとんどは、「響きにあてるな」「共鳴させようとするな」「当たってくるまで保て」「共鳴したらよいがさせてはいけない」など、従来の方法やプロセスを否定するようなことばを使っています。

 そうしたい人に「そうするな、そうなるまで待て」と言うのはおかしなことです。しかし、そうしたいことが本当の目的でなく、プロセスにあるのですから、そうしようとするのはよくないのです。

もう一例、ピッチを正しくとかリズムを正しくというのも同じです。正しくないから合わせようというのは、初歩のトレーニングというよりは、低次元を目的(付け焼刃)としたトレーニングです。

 

○表面より内面から

 

 幼児向けというのなら、時間をかけて成長とともに変じていくというのでいいのでしょう。感覚が入っていき変わるからです。しかし、大人であれば、少々意図的に感覚を変えようとしないと、まず変わりません。気づいたら合っていたというようにしないと高いレベルで使えません。

リズムやピッチを「正しい=遅れない」というレベルでは、間違っていないだけで、合ってはいないのです。合っていても、それは、聞く人にとって決して心地よい音感、リズム感にならないからです。

 とはいえ、そこからトレーニングを始めなくてはいけない人もたくさんいます。それはそれでよいのです。ただ、そこで目的かゴールと思わずに、あてるよりもあたること、聞くことを重視してください。

 

○逆こそ真実

 

 プロセスを進めていくマニュアルというのは、正しさを求めて自ずと間違えてしまうことになるのです。いろんなヴォイトレ本が出ています。しかし、レッスンのマニュアルは、マニュアルゆえに大して効果が出ないのす。

 つまり、

1.誰でも

2.すぐに(早く)

3.楽に

4.間違えることなく

5.効果が上がる

というものは、本人満足ゆえに、聞き手は肯定できないということです。さすがに全否定はしませんが。聞き手のやさしさに甘えられるからです。

 

○本当に満足?

 

 マニュアルメニュのトレーニングは、早く12割よくなって、それから先は限界になります。

 多くは、経験が乏しく平均以下の人が、トレーナーについて声を出しながら曲に慣れていったため、人並みになれたということです。ですから初心者で入り、そこで終わる人には評判がいい。その程度のものを効果と思える、ノーリスクです。本当の意味でのオリジナルなものとして世の中に通用しません。

 それで満足する人が多いのにも驚きます。いつか、自分の才能のなさや練習の足りなさのせいにして、少々伸びたことで満足してしぜんに諦めるといプロセスです。本当の意味でのオリジナルなものとして世の中に通用しません。

 私はそういう人に「ヴォイトレで声が変わりましたか」と尋ねます。体から表現しているアーティストをみて、それを望んでいたのに、体や息や声を大して使わないで、そのあて方を変えただけです。それで大きく変わったと考えているのなら、鈍くなったといえます。可能性のある方法を選べていないのです。

 

○真偽の見分け方

 

 表現においては、歌のフレーズで、1フレーズを、声は、声の一声をしっかりみることです。全体をみながらも、自分の体のパーツを一つひとつしっかりとチェックします。出る音一声を一つひとつチェックします。

 声を出して曲の通りに外れず変じられたらよいのではありません。声を出すのは、心地よいものです。どんな声であれ、自分の声で感情を入れるとくせがついても表現らしくなるので、そこで満足してしまいがちなのです。

 自分で満足できれば何よりもよいという世界観もあるので、そこは触れせん。そういうケースは、それ以上に、レッスンをする必要もないのです。私も自己満足している人の歌を指摘するようなおせっかいなことはしません。

 声のよさを聴かせたいのも一つ、歌のよさも一つ、表現力も一つ、どれでもその方が満足して、そこで聞いている人もよいという場に、レッスンもトレーナーもいらないのです。 

 私が述べているのは、それで満足できない人にです。言われただけのことをやれば誰でも声、歌、表現が身に付くのではないのです。すべてという限度がない世界です。

私が言いたいのは、他の世界では「全身全霊で訓練しました」ということのプロセスがとれるということ、結果は人によりいろいろですが、そのプロセスを、まずはとれるようにしたいということです。しっかりトレーニングしたら、できたとかできなかったとかを超えていくことでしょう。時間だけ経って、トレーニングした実感もなかった「楽だったけど何が変わったかわからない」というのではレッスンではありません。「大変だったけど変わった」その分の苦労をセットしていきたいのです。

 

○基礎と応用

 

 表現は、歌のフレーズの応用、歌のフレーズは声の応用、とみています、私たちは、常に声を応用しているつもりで、応用させられています。そのことで何かを得たつもりで、多くを失っているのです。

基礎のままでは通じないから応用します。そこで何かを得ているのですから、よい効果として出ていたら、よしとします。大切なことは、基礎から欠けていたものを補うことは、応用においてでなく基礎として行うことです。

 悪い結果が出ていたら、それをやめ、基礎で欠けたものを補い直しましょう。基礎そのものが本当に基礎なのかを疑ってみましょう。もっと基礎を固めることが必要なものです。

 

○内感覚

 

 体の動き一つ、呼吸も、歌や発声に対して、本当に正しいというものは、体でなく感覚と実態です。これは、自分の内部で厳しく感じます。感じられるように高めていくしかないのです。

 先日、ストラディバリウスについて、「かつてはオリジナルのと、形、木の厚みを同じにしたから同じ音を再現できなかった。今は木の特質に合わせ、同じ共鳴をする形や厚みに変じさせているので追いついた」というような話を聞きました。目的は同じ形のものをつくるのでなく、同じ音声をつくることですから、自明のことです。参考にしてください。

 

(参考)

ストラディバリウスと声

 

 これまで、現代のヴァイオリンと音を弾き比べたときに、すぐれた聞き手でも25割くらいしか、当てることのできなかったのがストラディバリウスです。それでも、演奏家には絶対的に人気があるという秘密を知りたくてみました。

一流のヴァイオリニストにおけるストラドの評価は

1.音色が澄んでいる

2.粒が揃っている

3.芯がある

です。これは声や歌にも通じます。

NHKの番組での科学的な分析では、方向(指向)性があるということでした。それで、豊かで遠くまで深い音色が伝わるということでした。

 新しく最高のヴァイオリンをつくるのに、形をそのままにまねても同じにはならないので、板の振動(密度)からアプローチして、近づけていったというのは、音から考えてみれば当たり前のことでしょう。つまり、同じとか、近づけていくよりは、もはや、木ではない素材をも試し、最新の研究でというなら、その形を超えるものをつくるべきなのです。しばらくは追いつけ追い越せでの技術開発が目標なのでしょう。

ヴァイオリニストが弾き、それをすぐれて聞くことのできる人がストラドをもとに判断している限り、ストラドのような音は超えられないのでしょう。それと、ストラドの音で名手のように弾きたいという人間の欲が囚われとなります。車はすでに全自動運転できるようになっているのに、自らの手で運転したいという人間の欲がそれ以上の発展を妨げていたのと似ています。

何をもってすぐれたと音というのか、演奏というのかを、原点から考えるべきです。とはいえ、聴覚の世界では、そこの状況、ホールや音響などの影響もあり、アプローチは至難の業です。もっともすぐれた楽器をもとに考えざるをえないのでしょう。

演奏において、もっともよい音を目指そうとすると広すぎるので、ヴァイオリンというワクで絞り込むのでしょう。シンセサイザーでどんな音をつくることができても、ヴァイオリニストやピアニストは、不滅の存在でしょうか。

名楽器は、もっともすぐれた演奏家と、もっともすぐれた耳を持つ人と、もっともすぐれた楽器のつくり手という3つの条件がそろわなくては不可能です。ただ、もっとも大切なのは、それを判断できる聴衆の存在です。

楽器として、生きたままの人間の声帯とか体というのは、木などよりももっと難しいわけです。声や歌の解明がまだまだ進んでいかないのもやむをえないことですね。

 

○個性とくせ

 

 「個性」と「くせ」の違いは、基礎に基づくかによってで、それは

a.確実な再現性

b.さらなる高次の可能性をもたらすか

にかかっています。

 私は、プロや天才(最高レベルのもの、日本では天然としてもよいのかも)と凡人(人並みを目指すもの)は、共通して調整のレッスンをメインにしてよいと思っています。この2つの需要が多いので、日本のヴォイトレのレッスンは調整中心でした。プロもカラオケがうまくなりたい人たちも、調整して自らの力の100パーセントの発揮を目指したからです。

 

○日本の発声マニュアルはヴォイトレでない

 

 日本のヴォイトレのマニュアルメニュは、ほぼ調整のためのヴォーカルアドバイスです。この100パーセントをベースのこと、つまり最低条件とした場合、これは無意味に転じます。

 今の日本のように、トップレベルの歌唱でブロードウエイの予選にも通じないという現状、100パーセントというのを本人の能力の限界でなく、不足したトレーニングの絶対量としてみなくてはなりません。それが100なら100を発揮し尽くすのでなく200にする訓練が必要です。

 だからこそ、トレーニングをすべきであり、ヴィオトレはその名の通り、声のトレーニングです。さらなる高次の可能性をもたらすための器づくりです。まずは器の拡大、体や感覚の強化トレーニングとして捉えることです。

 

○本の役割

 

 どんな分野でも、教科書のように、古典的なものは、初めて書かれたり、長く使われていたことで価値があります。それは、先人の残した知恵へのインスピレーションが鋭ければ、とても役立ちます。しかし、その受け売りのような扱いとなると、「過去」の「他人」の「答え」にすぎません。

もっともよく整理されていると「知識」というのです。「今の」、いや「未来」の「あなた」の答えではありません。

実用として使うなら「知識や本から学べないことを知ること」が最大のメリットです。これも、いくら読んでも何にもなりませんが、一生、かけて、使えるものにしたく思います。何年か経って、そのことに体をもって気づいたらありがたいことです。

 

○レッスンの役割

 

 学べないということさえ学ばないとわからないのですから、こうして学んでみるのは、有意義なことです。本や他の人の言うこと、レッスンなどに充分に惑わされてください。多くの人は、そこまでいかずに、よい本、よいレッスンだったと、疑いもしないで終わりかねないのです。

 私は「問い」のつくり方を述べています。こういうものを参考に自分で「問い」をつくれるようになること、そして自分のルールブックをつくるのです。

 トレーナーがすぐれていたら、そのすぐれたところの近くまでは歩めるかもしれません。それはあなたの道になるのでしょうか。

 

○壊すということ

 

生活のなかで身についた体感、考え方は、簡単には変わりません。それを壊すためにレッスンはあるべきなのです。

壊すというのは、めちゃくちゃにするというのではありません。何かうまくいかないのは、何かしら、うまくいっている人のようにやっていないのです。そこをスルーしてきたからです。そこを攻めること(働かせるように声や歌にしたり、感覚や筋力をつけたり)を意識して、覚えさせていくのです。それがレッスンです。

 

○レッスンのよしあし

 

 メニュや方法だけをみて、そのレッスンのよしあしや正誤を判断することはできません。

 大きな目的を目指すなら、自らの可能性を追求します。可能性を大きくするためには、くせをとるか棚上げにしなくてはなりません。個性(オリジナル)として取り出すためには、壊す必要もあるからです。

 そのためにはマニュアルにあることと逆のことや、そこで禁じられていることも必要悪となります。

力のあるトレーナーは、そこの幅を大きくとれる、つまりマニュアルから大きく、長く離れて、結果OKに導けるということです。

しかし、大半のレッスンは目の前の小さな目的、早く正しくこなすことに囚われています。壊すということはほとんど起こりません。器の小さい人には、器を大きくしないことには大成させられません。壊すには壊せるだけのものも必要です。

 

○トレーナーのタイプ

 

 研究所のトレーナーにもいくつかのタイプがいます。相手により、やり方もかなり変えているので一口では説明できませんが。

壊すような対処をするのはリスクも伴うので、どのトレーナーも行うわけではありません。誰にでも行うことでもありません。そういう才能や実力があっても本番中の舞台をもっている人に、あまり大きなリスクは与えられません。両立できる器用さとか切り替えというような、実力というよりは仕事力もみなくてはなりません。

 人によって可能性は様々です。誰もが同じことをできるわけではありません。どの方向へ可能性をみていくかは、声だけでは判断できません。トータルとしての目的を具体化していくことを併行します。

そこで、本人の目的、プロセスと研究所としてのレッスンの目的、プロセス、さらにヴォイトレのトレーニングの目的、プロセスを定めていくのです。

 短期的に大きく変えようとするより、長期的に23人のトレーナーに併行してレッスンを受ける方がローリスクで大きな効果が得られます。これまでみてきたところ、自分を誰よりもすぐれているトレーナーと思うような人(思うのとそうであるのは違う)は、必ずこういうやり方に反対しますが。

 

○逆行のマニュアル

 

 平均的なマニュアルとは、逆行するような指導例をいくつか挙げておきます。研究所のトレーナーへの共通Q&Aブログには、もっと極端な例もいくつかあります。

呼吸 鼻でなく口で吸う

たくさん吐くように

これは、呼吸で声の流れ、均等、声の深さ、芯を養うためです

   

この研究所に限りませんが、よく発声のわかっている人は現場では次のようなことを許容します。許容とは、より大きな目的のために、一時的にスルーすることです。

ことばの不明確さ

ピッチの下がり、リズムの遅れ、呼吸(ブレス)の遅れ

音色の暗さ、金属的な響き

息の漏れ音

声域の狭さ

レガートの雑さ、声区チェンジの悪さ

裏声ファルセット、共鳴の悪さ

ビブラートの悪さ、ロングトーンの続かなさ

声質、音色を徹底して中心にみると、これらのことが後回しになるのは当然でもあるのです。とはいえ、スルーしない方がよいケースもあります。特に、共鳴、息もれなどは、個別に難しい判断が求められます。

 

○体の復活

 

 達人の域の手技をもつ先生が来所されました。そこで体験したことは、武道にも通じる、神経というか経絡というか、ある感覚を思い出しました。

誰しも年齢を経ると日常のなかで、老化に抗うことを考えます。1年に1パーセントずつ、筋肉が動かなくなっていくという説もあります。それでは私自身どのくらい、これまで全身を動かしていたのかと考えてみると、人間としての可能性の半分以下でしょう。たとえば、幼いころから又割りをしていたら、今も180度開脚できていたでしょう。脳にいたっては使っているのは、1ケタパーセントと言われていますね。

 発声も肉体が楽器ですから、同じことがいえます。「老化で発声が悪くなった」と言ってくる人には、発声のよかったという頃の体力と気力を、半分は戻すことを条件としています。

 どんなに若くとも、理想的な動き、体の使い方や動き方が完全にできている人はほとんどいません。発声に使う喉の周辺の筋肉の動き辺りが、最初は注目されていますが、私がみる限り、全身との兼ね合いが、根本的な問題です。

 

○呼吸の復活★

 

 体の動かし方の再調整と強化には、呼吸を伴わせることが大切です。そのために吐ききってみましょう。発声のコントロールや呼吸保持などは、体から息の吐ける人が次のステップでやることです。ヴォイトレのメニュでは、最初から少ない息で丁寧に声にすることの大切さを説くことが多いのです。荒っぽく息を無駄に使っては、きちんと声にできないのですが、その息さえ、しっかり吐けているわけではないのです。何事にも量と質、全体での荒(粗)さと細部の丁寧さとは、相反するようで両輪のように考えることです。部分よりは全体から入るのが原則です。その両輪での矛盾から全体で丁寧に至るためにです。☆

 

○トータルとしてみる

 

 しぜんにするためにはふしぜんにする。力を抜くためにストレッチする。力を入れて脱力します。

人はやりたいことがあるのに、やれない。そのことが問題になる。やりたいことができないときは、やりたくないことをやることでアプローチするのです。

 練習も続けてやるのは嫌なものですが、続けてやるとよいのです。やりたいようにしかやらない人には大した力はつかないのです。

大きく―声量、声で体に負担を与え、支える

響かす―共鳴→必要以上に響かさない、声が通るための「声の芯」と考える

高く―声域、低く重く下に向ける(これはよく知られていますが、実行されていない)

長く―呼気のコントロールと声立て

私が思うには、声中心に考えると、せりふを言うのも発音もふしぜん、歌うのもふしぜんなのです。これがしぜんと思えたら、すごい歌、すごいせりふにつながる声が出ると思うのです。

 

○ロングトーンとビブラート

 

 抑揚、ここでは、心地よいビブラートの意味ですが、これをつけるのに、強弱、高低、長短、艶(音色)の変化があります。それぞれ個別に試してみましょう。

 息から、発声=共鳴のところで、その効率をどのようにするかは、最大の問題です。これまで声の立ち上げ方(声立て)のスピード(息と声のミックス具合)として、硬起声や軟起声としかみられなかったところです。ハスキーな声やため息もありますが、それは表現での応用となります。

 私は、喉への負担で、リスク面から、嗄声は、表現(せりふ、シャウト)でのアプローチに限らせています。悪声や喉声も声優や俳優では必要でしょう。表現上での練習以外としてはタブーです。ロスの多い使い方をしたら、喉を休ませなくてはいけません。

 共鳴からは、倍音組成、フォルマントで母音の形成、子音の調音となります。呼吸の量、スピード、長さも変えてみるとよいでしょう。

 

○一流の歌との違い☆

 

 世界レベルの歌い手は、ことばをメロディにのせて歌っているのではなく、歌との距離をとって、音の流れのなかで自由に声で表現を創っています。歌のメロディや楽譜にべったりとくっついていないのです。日本の多くのヴォーカリストは30代以降(世界では60代以降くらい)は、流れに心地よい声が使えなくなり、音楽にも距離が出て、ことばで投げ方、感情表出に固めに凝りがち、しかもパターン化するようになります。

 日本では、役者的なパフォーマンス力で、音楽性に欠けてフレーズ感が鈍っていても、インパクトとその反動の収め方でステージはもたせるのです。ステージとして、バックグラウンドに若い時からの音楽でつくった世界観が積み重なって、貫禄でもたせます。ファンが昔のベースを読み込んでくれるから楽しめるのです。ベテランになると、このベースへの観客の優しいノスタルジアでもたせることで満足しているかのようで、残念です。お客さんがナツメロとして満足しているならよいのでしょうか。

 

○目標のつくり方

 

 目標設定は、今の立ち位置を捉え、目的地(心、体、発声、歌、表現、すべて)を設定することです。これに数年かかることもあります。

1.強化、鍛練、基礎、体、呼吸、声←役者レベル

2.応用、チェックとアドバイス、感覚―耳←声楽レベル

声そのものは、表現においては媒介ツールであるだけに曖昧です。これをいかに明確に具体化していくか、それがレッスンの目的です。

 生まれてから今までの育ちの環境と、今を取り巻く環境、それを把握しましょう。そして将来に対して有利に、年月とともに有利になるように変えていくことからです。

 

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